彼方

「彼方」(ユイスマンス 東京創元社 1975)
訳は田辺貞之助。
カバー絵、司修。
創元推理文庫の一冊。

扉に書かれているあらすじはこう。

「中世の悪魔礼拝は滅びていなかった! 15世紀フランスの伝統的な悪魔主義の帝王ジル・ド・レー元帥。彼が城内でもてあそび虐殺した小児の数は800人を下らないという。死体美の品評会、屍骸を詰めた大樽。恐怖におののく村人の前から次々に消えていった子供たち。そして400年後の今、元帥の一代記を執筆せんとする作家デュルタルの前でくりひろげられる戦慄と陶酔に満ちた背徳の儀式、黒ミサ。世紀末フランス耽美派の雄ユイスマンスがオカルティズムの世界を自然主義的手法で描いて読者を震撼させる傑作」

――これを読み、この小説は、たとえばジル・ドレーの呪いが現代によみがえるといった伝奇小説なのだろうかと思ったら、ちがった。
作家デュルタルのパートと、彼が書く小説のパートが交互に展開し、最後ひとつにまとまるような手法がつかわれているのだろうかと思ったら、これまたちがった。
ポイントは、あらすじの最後にある「自然主義的手法」だ。
でも、とりあえずはストーリー。

3人称デュルタル視点。
仕事にいき詰まりを感じた作家のデュルタルは、文壇つきあいをやめ、日々ジル・ド・レー元帥の伝記執筆に励んでいる。
グリューネワルトがえがいた、あの痛ましい「キリスト磔刑図」に感化され、文章で同じような作品をつくりたいと念願しているのだ。

こんなデュルタルの話し相手になっているのが、デ・ゼルミーという医者。
博識で、パリ大学の博士であるにもかかわらず、医学を軽蔑している。
おたがい同業者を軽蔑する気持ちから、デュルタルの友に。

デ・ゼルミーの縁で、デュルタルはカレーという男と知りあいに。
カレーは女房と2人で鐘楼に住む鐘つき男。
鐘つきという自分の仕事を愛している。
が、時代はもはや鐘つきという仕事を必要としてはいない。
カレーは最後に残った何人かの鐘つきのひとりだ。

デュルタルはカレーのうちで、奥さんの手料理をいただきながら、デ・ゼルミーや、その後知りあった占星学者ジェヴァンジェーと、たびたび歓談するように。
歓談の内容は、悪魔崇拝についてだったり、男性夢魔についてだったり、淫夢女精についてだったり。

また、デュルタルは未知なる女性読者から情熱的な手紙をもらう。
偽名をつかっていたが、何度か手紙のやりとりののち、相手はシャントルーヴ夫人と判明。
夫人は、悪魔主義者の修行僧ドークルと深い仲だったことがあった。
デュルタルは夫人に頼み、黒ミサに招待してもらう。

この二つのストーリー合間に、デュルタルによりジル・ド・レー元帥の一代記が紹介される。

…とまあ、大別して本書の筋立ては以上の3つ。
まず、ぜんたいの印象だけれど、これはすこぶる観照的な小説だ。

主人公のデュルタルは、最初と最後でちっとも変化しない。
シャントルーヴ夫人との逢瀬で、やっとストーリーがうごきだしたかと思ったら、デュルタルはすぐ夫人がいやになってしまう。
夫人に連れていってもらった黒ミサも、いやになって儀式のなかばで出てきてしまう始末だ。

悪魔主義についての会話や、ジル・ド・ドーについての伝記も、雑学としては興味深いけれど、それらは一向にストーリーを進展させない。
会話がストーリーを前進させない点で、内田百鬼園先生の小説、「居候ソウソウ」(ソウの字がでない。「勿」に似た字)とか、「贋作我輩は猫である」とかを思いだした。

ただ、夫人から手紙をもらったデュルタルは、じつにひとりよがりな妄想をくりひろげる。
ここのところは面白い。

(ジル・ド・レーの伝記については、なぜ彼が悪魔主義に走ったかという考察が印象的。ジャンヌ・ダルクの護衛を務めたジルは、このオルレアンの少女の存在から神秘思想を満喫する。のちに、ジルは放蕩のあげく莫大な財産を蕩尽し、錬金術に凝り、残虐な行為にふけるようになるけれど、神秘主義と悪魔礼賛は一枚のカードの表と裏にすぎないのだから、カードがひっくり返っただけだと説かれている)

人間を、「目のひと」と「耳のひと」に分けるとすると、ユイスマンスは完全に「目のひと」に分類されるだろう。
この本の巻末には、訳者の田辺貞之助さんによるユイスマンスについての詳しい解説がついている。
それによればユイスマンスの家は代々画家だったそう。
でも、それを知らなくても、デュルタルが心酔したグリューネワルトの「キリスト磔刑図」についての凄惨な描写を読めば、「目のひと」だというのは明らか。

作者の分身であるデュルタルは、ジル・ド・レーの居城であるチホージュの城の廃墟を訪れたさい、当時の城の様子を夢想する。
家具や調度品を再現し、料理を想像し、衣服を思いえがく。
その料理の描写はこうだ。

「ジルのたべた品々は、牛肉や鮭や鮒のコロッケ、小兎や小鳥の赤身、あついソースをかけた肉団子や乳房形の肉饅頭、鷺、鵠鶴、孔雀、五位鷺および白鳥などの焼肉、未熟なぶどう液にひたした猟獣肉、ナントの八目鰻、胡蘆やホップやたんぽぽや葵のサラダ、マヨナラに肉豆蔲の殻やコエンドロや紅花や芍薬やまんねんろうやそぼおぎやヒソプや林檎の種や生姜などで調味した強烈な料理…」

描写は、まだまだこの3倍くらい続く。
デュルタルは、よくカレーのうちでデ・ゼルミーと夕食をともにするけれど、そうしたさいも、なにを食べているのかが記される。
おそらく、「目のひと」であるユイスマンスには、登場人物たちがなにを食べているのかが見えてしまうのだろう。
あるいは、食べている場面なのだからと、登場人物の食べものを凝視してしまう。
そして、見えた以上書かずにはいられない。
ストーリーのうごきに乏しいのも、ひょっとすると「目のひと」のせいかも。

本書をひとことでいうと、「現代がきらいで中世にひきこもったことを確認する本」くらいになると思う。
確認のためなので、主人公は最初と最後で変化する必要はない。
ストーリーも展開する必要はない。
なにより、「きらい」といいたいのだから、建設的なストーリーは必要ですらない。
美味しいものを食べて、歓談し、好きな人物の伝記を書いて、そのほかのことは「きらい」といっていればいい。
あんまりストーリー上の都合とか、構成上の効果とかを考えて書いているようにみえないのは、この前提があるからだと思う。

そして、これが自然主義的手法なら、たしかに本書は自然主義的手法で書かれている。
デュルタル自身は、自分の立場を「心霊的自然主義」といっている。
訳者の田辺さんもとり上げているけれど、こんなにうまいいいかたはない。
この作品は、「心霊的自然主義」の手法で書かれた本なのだ。

ユイスマンスの思想が二転三転して、最後はカトリックに改宗したのは有名な話だけれど、改宗後の作品も、たぶんこういった「確認小説」じゃないかと疑っている。
縁があったら確認してみよう。

最後に。
本書の裏表紙に載せられている、ユイスマンスの写真について触れたい。
白いひげを生やした禿頭のユイスマンスは、大きな本を広げてそれに見入っている。
その姿は中世の隠者のよう。
「顔文一致」といいたくなるような姿だ。

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この30年で日本の読書環境は激変した

雑誌「現代の図書館」(48巻1号 通巻193号)に、永江朗さんによる「この30年間で日本の読書環境は激変した」という記事が掲載されていた。
とても面白いのでメモを。

出版化学研究所の発表によると、2009年の雑誌と書籍の売上額は2兆円を割り、1兆9356億円となった。
売上額だけみるなら、1988年のレベル、バブル前の売上額にもどった。

ただし、新刊発行点数は7万8555点。
3万7064点だった1988年の倍以上。

点数が倍になったのに、売上額が同額というのは、出版社にとって1点あたりの販売額が半減したというのに等しい。
出版界の「本が売れない」という嘆きは、こうした実感からくるもの。

でも、読書環境は激変している。
当時はブックオフもアマゾンも古書店のサイトもなかった。
マンガ喫茶もなかったし、図書館の貸出冊数もかなり増大した。

売上額というのは、あくまで「取次ルート」によるものだ。
永江さんの文章を引用してみよう。

「ブックオフの売上げも、まんだらけの売上も、ネット古書店やヤフーオークションやアマゾン・マーケットプレイスの売上は含まれていない。さらにいうなら、出版社が読者に直接販売する雑誌の売上もここには含まれていない。だから、書籍・雑誌の売上額が1988年レベルになった原因は、活字離れ・読書離れなどではなく、新刊書店離れだというべきである」

つまり、売上額イコール読書量ではないのだ。
ひとは新刊書店以外のところで、本を得て読んでいる。
とすると、売上減を活字離れと称してきた出版界は、虚報を流していたということになる。
おそらく、今後とも虚報を流し続けるのではないか。

「これまで出版界は本が売れない理由を「活字離れ」、つまり国民が本を読まなくなったからだといってきた。なんとお気楽な商売だろう、出版業とは。どこの世界に、商品が売れないのは消費者がバカになったからだといって開き直る製造業者や流通業者がいるか」

永江さんは手厳しい。

この記事の末尾では、電子書籍についても触れられている。
レコードがCDになり、ネット配信になったように、電子書籍が紙の本にとって変わるとは思えない、紙の本と電子書籍は共存していくのではないか、というのが永江さんの見立て。

個人的には、紙の本を一冊買ったら、同本の電子書籍がオマケでついてきてくれるとうれしい。
読みたいと思ったとき、紙の本が手元になくても、端末があれば読むことができる。
紙の本と電子書籍はたがいのバックアップになるだろう。
両方買うのはツライので、オマケにしてくれないものか。
そうしたら、絶対端末を買うのだけれど。

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法王庁の抜穴

「法王庁の抜穴」(アンドレ・ジッド 新潮社 1952)

訳は生島遼一。
装丁は1994年に復刊されたときのもの。
デザインは新潮社装幀室。

最近、手元にあるフランス小説を立て続けに読んでいて、今回は「法王庁の抜穴」。
本の後ろに書かれたあらすじはこう。

「ローマに治療に来た無神論者アンチムに起こった奇蹟に、喚声と揶揄が乱れ飛んだ。悪党「百足組」が仕組んだローマ法王の幽閉詐欺事件に巻き込まれた善良な凡人アメデは、予期せぬ遺産を手にした美貌の若き私生児ラフカヂオの動機なき殺人の犠牲に……。錯綜する皮肉と風刺の傑作長編」

これを読んで、勝手に冒険小説のような本かと思っていたら、ちがった。
名作を読むといつも思うことだけれど、「まさかこんな小説だったとは」。

全体は5章に分かれ、章ごとに中心となる人物が代わる。
第1章は「アンチム・アルマン-デュポワ」。

舞台は1890年。
アンチムは46歳の秘密結社員で無神論者。
半身不随の治療のため、ローマで暮らすことに。
妻ヴェロニックとのあいだに子どもはなく、ネズミをつかった妙な実験に精をだしている。

ところが、ある夜アンチムは不思議な夢をみる。
と同時に、病が癒えてしまう。
これを機に、アンチムは信仰の道へ。
しかし、アンチムはエジプトに地所をもっており、最近鉄道が通るというのでひと財産を期待していた。
この鉄道の仕事は秘密結社の掌中にあり、信仰の道に入ったアンチムは当然のことながら結社の支持は受けられず、破産の瀬戸際に。
アンチムは、宗教界の援助を期待するが、いいように利用されただけに終わる…。

この第1章を読んだだけでも、冒険小説とちがうことは明らか。
ひとことでいうと、皮肉なユーモアが全体を席巻している。
人物の描写や事実関係の説明は猛烈にうまい。
こみいったことを軽がると説明してのけている。
この、すこし作者が身を乗りだした感じで、でも熱くもならず冷たくもならず、微笑と皮肉をもって、ありきたりなストーリーを手際よく語るという態度は、全篇を貫いている。
よく途中でペースを乱さなかったなあと、ジッドの語り口のうまさに感心。

第2章は「ジュリウス・ド・バラリウル」。
ジュリウスはアンチムの義弟で小説家。

「そのもちまえの品位、気高さはその書くものにもよくうかがわれるが、こうした高尚な天性のために、ついぞ小説家らしい好奇心を行くがままに走らせ、徹底させたことがないようだ」

と、描写されるような人物。
現在、アカデミの会員になることを狙っている。

さて、義兄に会ったのち、ローマからパリに帰ってきたジュリウスに、高齢の父、ジュスト-アジェノオル・ド・バラリウルから一通の手紙が届いていた。
内容は、ラフカヂオ・ルウキという青年に会ってもらいたいというもの。
そこで、ジュリウスは陋屋に住むラフカヂオを訪ね、自分の著作を浄書してもらいたいともちかける。

ここで、視点が切りかわって、ラフカヂオの視点に。
ほれぼれするような、見事な切りかえだ。
19歳の青年であるラフカヂオは、もらった名刺から図書館で「現代人名辞典」を調べ、ジュリウスの経歴を確認。
たまたま、その上の項目に外交官だったジュリウスの父の経歴も載っており、ラフカヂオははっとする。
ラフカヂオには父はなく、「小父さん」と母が呼ぶ5人の男たちがいるばかりだった。
しかし、ジュリウスの父は、ちょうど自分が生まれたとき、ブカレストに赴任している。

ラフカヂオは名刺屋に、「ラフカヂオ・ド・バラリウル」と名刺をつくらせ、途中出くわした火事のアパートから子どもをすくいだすと、ジュスト-アジェノオルのもとへ。
ジュスト-アジェノオル伯爵は、ラフカヂオの前で名刺を引き裂きながらいう。
ラフカヂオ・ルウキという男につたえてもらいたい、こんな紙切れをもてあそぶ了見なら、わしはあの男を警察に訴えて詐欺師として逮捕させる。
続けて、こうもいう。

「あなたが利口らしいことはわかったし、あなたが醜くないことはうれしく思う。あなたが今日やった向こうみずなことをみればなかなか元気もいいようだ。それも悪くない。…」

ジュスト-アジェノオル伯爵は、ぶっきらぼうな愛情を示しながら、私生児としてラフカヂオを認知する。
本書のなかの名場面だ。
そして、ラフカヂオは4万フランの年金を得ることになる。

第3章は「アメデ・フリッソワル」。
と、こんな調子で紹介していたらきりがないので簡単に。
ジュリウスの妹、ギ・ド・サンプリ伯爵夫人のもとに、ひとりの僧侶があらわれる。
この僧侶はニセ僧侶。
じっさいは、ラフカヂオの元学友プロスト。
怪人のようなこの男は、法王が秘密結社の手により誘拐、監禁されており、救いだすにはお金が必要なのだと、ことばたくみにもちかける。

伯爵夫人は法王幽閉の話を、親戚の(アンチムの妻ヴェロニックや、ジュリウスの妻マルグリットの妹)アメデ・フリッソワル夫人につたえ、夫人は夫のアメデに。
アメデは善良な心のもち主で、金ではなく、自分のからだを差しだすべきだと、単身ローマに潜入する。

第4章「百足組」では、このアメデの珍道中が語られる。
南京虫に襲われ、ノミに襲われ、蚊に襲われて、3晩眠れずにアメデはローマに到着。
このあたりは、完全にユーモア小説。

ところで、「百足組」というのは、「法王幽閉詐欺」計画の実行組織のこと。
「百足組」の網に早ばやと引っかかったアメデは、すぐプロストの監視下に置かれることに。

最終章の第5章「ラフカヂオ」では、ふたたびラフカヂオが登場。
突然、ぎょっとするようなことをやり、物語は終結にむかう…。

ここまで長ながと紹介してきたけれど、各章は要するにメロドラマだ。
それも、とても面白いメロドラマだといっていい。
端役だと思っていた人物が思いがけない活躍をしたり、登場人物たちが思いがけない出会いかたをしたり、じつに見事な手さばきだ。

でも、これが全体を通じてだとどうなるか。
なんとも、判然としない作品になってしまう。

あとがきによれば、ジッドはこの作品をレシ(茶番)と読んだとのこと。
この作品をひとことであらわすのに、これ以上のことばはない。
ジッドは、自分の書いた作品のことをよくわかっていた。

ただ、読後の感想はもったいないだ。
こんなにメロドラマ的シチュエーションを描くのがうまいのだから、いっそ茶番を貫いてくれればよかったのに。
完全にメロドラマにしてしまえばよかったのに。

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愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える

「愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える」(マンシェット 光文社 2009)

訳は、中条省平。
編集者、堀内健史。
装丁、木佐塔一郎。
装画、望月通陽。
光文社古典新訳文庫の一冊。

エシュノーズを読んでから、なぜかいま手元にあるフランスの小説を立て続けに読んでいる。
で、今回はマンシェット。
エシュノーズはマンシェットを敬愛していたと、たしか解説にあって、そういえばうちにもあったなと思い、書棚をさがしたらこの本がでてきた。

カバー袖の作者略歴によれば、1972年に出版された本書は、翌年の「フランス小説推理大賞」を受賞。
マンシェットは一躍、フランス暗黒小説のリーダー的存在となったそう。

それにしても、「暗黒小説」とはものものしい。
ひらたくいうと、「殺伐とした犯罪小説」くらいの意味だろう。
思うのだけれど、フランスの小説はなんでも暗黒化しやすいのではないだろうか。

本書は、「狼が来た、城へ逃げろ」(岡村孝一/訳 早川書房 1974)のタイトルで、1974年にも出版されているとのこと。
さらに、解説によれば、このタイトルはランボーの詩をもじったものだとのこと。

さて、ストーリー。
3人称多視点。
精神病院に入院していたジュリー・バランジェは、ある財団のトップ、ミシェル・アルトグに、甥のペテールの世話係として雇われる。
なぜ、ジュリーを雇ったかといえば、アルトグは慈善家でもあったから。

もともと財団はペテールの両親のものだったが、両親が事故死。
ペテールが財団を相続し、現在アルトグが後見人としておさまっている。
そして、ペテールの世話係になったジュリーは、2日もしないうちにペテールともどもギャングによって誘拐されてしまう。

山小屋に連れていかれたジュリーとペテールは、そこからからくも脱出。
後半は、2人と、2人を誘拐した殺し屋トンプソンとの逃亡および追跡劇が続く――。

…正直にいって、ストーリーはありきたりだ。
でも、作品自体はそうなってはいない。

まず、登場人物がみんなエキセントリック。
精神病院からでてきたばかりのジュリー、失敗した建築家のアルトグ、たいそう可愛くないペテール。
それに、胃弱の殺し屋トンプソンも忘れがたい。

登場人物がエキセントリックだと、その面ばかりが強調されやすい。
演技過剰になりやすいと思われるけれど、この作品では、登場人物と、その演技のつりあいが、ぴったりととれている。
それに、グロテスクな描写は必要以上にみせない。
エキセントリックにもかかわらず、全体に節度があり、品がいい。

文章の表現は、ひとことでいえばハードボイルド。
地の文では描写に徹し、説明は会話と描出話法でおこなう。
話のテンポは素晴らしい。
でも、なにより素晴らしいのは、なにか大惨事がおこるのではないかという不穏さが、冒頭から終結までみなぎっているところだ。
この不穏な雰囲気の形成には、エキセントリックな登場人物だけでなく、会話からシチュエーションにいたるまで、ありとあらゆるものが動員されている。
この緊張感を最後まで維持したことには驚嘆。

訳者の中条省平さんは、ハードボイルドといっても、ハメットの作風とはちがうと指摘している。
ハメットの登場人物は、おもに金銭欲にしたがって行動し、心理と行動が不可分に結びついていた。
けれど、マンシェットの場合、心理と行動が乖離している。
そこにマンシェットの人間哲学がみられるのだそう。
ひとことでいえば、「暗黒化」が進んだということだろう。

なにを考えているかわからない人間をあつめて物語をつくることは不可能だ。
だから、ありきたりなストーリーでなかったら、この作品は成立不可能だったろうと思う。
加えて、非常な構成力と洗練された文体が必要とされる。
書くのに4年かかったそうだろうけれど、さもありなんという感じ。

読み終わってから、この本のことを思い出そうとすると、哀切さがまず浮かぶ。
これも、「暗黒化」の副産物かもしれない。

巻末の年譜をみていたら、マンシェットはアラン・ムーア原作のアメリカン・コミックス「ウォッチメン」をフランス語に訳していた。
なるほど、こういう小説を書くひとが「ウォッチメン」を訳すのは適役かもしれない。
「ウォッチメン」のファンとして喜ばしい。
それにしても、自分の好きな本を訳しているというだけで、いきなり親近感がわくのだから妙なものだ。


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