2013年 ことしの一冊たち

例年通り、今年の記事をまとめたい。
今年は更新がいよいよ少なくなってしまった。

1月

「戯曲アルセーヌ・ルパン」(モーリス・ルブラン フランシス・ド・クロワッセ/著 小高美保/訳 論創社 2006)
とても楽しい読み物だった。

「気晴らしの発見」(山村修 大和書房 2000)
痛ましい話だ。

「バッファロー・ボックス」(フランク・グルーバー 早川書房 1961)
ときどきフランク・グルーバーを読みたくなる。

「法螺吹き友の会」(G・K・チェスタトン/著 井伊順彦/訳 論創社 2012)
チェスタトンの小説は不思議なサスペンス性がある。「木曜日だった男」(南条竹則/訳 光文社 2008)なんて、読みはじめたらやめられない。ところが、読み終わると、なんともはぐらかされた感じが残る。でも、読むと面白いのだから困ったものだ。


2月

「アルカード城の殺人」(ドナルド・ウェストレイク/著 アビー・ウェストレイク/著 矢口誠/訳 扶桑社 2012)
とても他愛ない本。そこがいい。

「小人たちの黄金」(ジェイムズ・スティーヴンズ/著 横山貞子/訳 晶文社 1983)
現実と非現実がごちゃ混ぜになる作品がとても好きだ。この本を読めたのはほんとうに運がよかった。

「逃げるが勝ち」(ロレンス・ダレル/著 山崎勉/訳 中村邦生/訳 晶文社 1980)
これまた他愛ない本。

私が選ぶ国書刊行会の3冊
なぜ出版社はこういう企画が好きなのだろう?


3月

岩波書店創業100年記念「読者が選ぶこの一冊」

「迷宮の暗殺者」(デイヴィッド・アンブローズ/著 鎌田三平/訳 ソニー・マガジンズ 2004)
あんまりへんてこな小説なのでメモをとった。でも、ひとには薦められない。

「ムチャチョ」(エマニュエル・ルパージュ/著 大西愛子/訳 Euromanga 2012)
傑作。


4月

「族長の秋」「エレンディラ」「トレース・シリーズ」
「族長の秋」(ガルシア=マルケス/著 鼓直/訳 集英社 1994)
「エレンディラ」(G.ガルシア=マルケス/著 鼓直/訳 木村栄一/訳 筑摩書房 1988)
「二日酔いのバラード」(ウォーレン・マーフィー/著 田村義進/訳 早川書房 1985)
ガルシア=マルケスは素晴らしい。トレース・シリーズみたいな軽い小説は、世の中にたくさんあると思っていたら、じつは案外少ないのだと最近よく思うようになった。


5月

ナボコフの文学講義、ナンジャモンジャの木、小説家のマルタン
「ナボコフの文学講義 上下」(V・ナボコフ/著 野島秀勝/訳 河出書房新社 2013)
このあと、「ナボコフのロシア文学講義 上下」(小笠原豊樹/訳 河出書房新社)がでて、これも読んだ。ナボコフ先生はトルストイが好きで、ドストエフスキーが嫌いだとわかり、なんだか愉快だった。

昔々の昔から
昔々の昔から(承前)
「昔々の昔から」(イヴァーナ・ブルリッチ=マジュラニッチ/著 栗原成郎/訳 ヴラディミル・キーリン/挿画 松籟社 2010)
ことし最も印象に残った本はこれ。この小説が読めて大変幸せだ。


6月

「虚しき楽園」「豹の呼ぶ声」「アメリカを買って」「シュロック・ホームズの迷推理」
「虚しき楽園 上下」(カール・ハイアセン/著 酒井昭伸/訳 扶桑社 1998)
「豹の呼ぶ声」(マイクル・Z・リューイン/著 石田善彦/訳 早川書房 1998)
「アメリカを買って」(クロード・クロッツ/著 三輪秀彦/訳 早川書房 1983)
「シュロック・ホームズの迷推理」(ロバート・L.フィッシュ/著 深町真理子/ほか訳 光文社 2000)
「A型の女」はまだ読んでいない。ハイアセンも読んでいないものがまだ手元にある。


7月

DVD「黄金の仔牛」とDVD「天才執事ジーヴス」
「黄金の仔牛」を貸した知人は面白かったといってくれた。で、ネットで検索したらこのブログがでてきたといわれ、これには恐縮した。


8月

絵コンテ「風立ちぬ」と「「腰ぬけ愛国談義」
映画「風立ちぬ」は面白かった。なぜ面白いのか、正体がよくつかめないけれど面白かった。


9月

徒然草の現代語訳いろいろ
「徒然草」(兼好/著 島内裕子/校訂・訳 筑摩書房 2010)
「絵本徒然草 上 」(吉田兼好/原著 橋本治/文 田中靖夫/絵 河出書房新社 2005)
「徒然草」(角川書店/編 武田友宏/訳・註 角川書店 2002)
「徒然草」の現代語訳をくらべてみた。外国語の翻訳よりも訳文に幅がある。この記事を書いたあと、「方丈記 徒然草」(完訳日本の古典第37巻 小学館 1986)を読んだ。永積安明さんによる序段の訳文はこうだ。

《なすこともない所在なさ、ものさびしさにまかせて、終日、硯にむかって、心に浮かんでは消えてゆく、つまらないことを、とりとめとなく書きつけていると、我ながら何ともあやしく、もの狂おしい気持ちがすることではある。》

これくらいの訳文が、個人的には最も落ち着く。

「シンデレラの銃弾」と「金時計の秘密」
「シンデレラの銃弾」(ジョン・D・マクドナルド/著 篠原勝/訳 河出書房新社 1992)
「金時計の秘密」(ジョン・D・マクドナルド/著 本間有/訳  扶桑社 2003)
ジョン・D・マクドナルドの小説を2冊。「金時計の秘密」は変な小説だったなあ。


10月

「謀殺海域」「ジキル博士とハイド氏」
「謀殺海域」(ジャック・ヒギンズ/著 小関哲哉/訳 二見書房 1987)
「ジキル博士とハイド氏」(R.L.スティーヴンソン/著 大仏次郎/訳 恒文社 1997)
作家が化けるということはどういうことなのか。その以前以後ではなにがちがうのか。それについて書かれたエセーでもあれば読んでみたい。


12月

武雄市図書館についての新聞記事のメモ
なぜこんなに記事になるのだろう。そして、記事になったことでどんな影響があらわれるのだろう。出版不況に対するリアクションとして、小型書店はどんどんつぶれ、大型書店はいよいよ大きくなるという傾向があるように思う。その大型化する書店のことを、個人的に「書店のテーマパーク化」と呼んでいるのだけれど、書店からみた場合、武雄市図書館は、書店のテーマパーク化の一環のように思える。

「どこからでも十マイル・マンクスフッド邸」(P・H・ニュービー、L・P・ハートレイ 南雲堂 1955)
面白かった。


以上。
11月は更新そのものがなかったというていたらく。
短いメモと長いメモをうまく書き分けられれば、もうちょっと更新ができるだろうか。

ずっとやってる絵本紹介ブログ「一冊たち絵本」は、紹介冊数が1000冊を超え、ついに終了。
いま、コールデコット賞のリストだけつくっている。
それが終わったら、PDFにして手元に置いておき、ブログは消してしまうつもりだ。
でも、ブログを一度にPDF化する方法はあるんだろうか?
1000冊はちょっとやりすぎたなあ。

さて、ことしの更新はこれが最後。
では、皆様、よいお年を――。


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どこからでも十マイル・マンクスフッド邸

「どこからでも十マイル・マンクスフッド邸」(P・H・ニュービー、L・P・ハートレイ 南雲堂 1955)

もはや部屋中が本だらけになっている。
どこになにがあるのか、自分でもよくわからない。

先日、風呂場の近くで──といっても、狭い部屋だから、風呂場も台所も玄関もみんな近いのだけれど──「どこからでも十マイル・マンクスフッド邸」という本をみつけた。
くたびれた箱に入っていて、箱の肩のところに鉛筆で50と書いてある。
きっと、古本屋で50円でもとめたものにちがいない。
箱からだしてみると、パラフィン紙に包まれた、クリーム色のそっけない表紙があらわれた。

ほかに読む本もなかったので、それをもって風呂にいき、湯船につかりながら読んだ。
おお、面白い。
自分の部屋でみつけた本だけれど、なんだかすごく得した気分だ。

本書は短編集。
P・H・ニュービーと、L・P・ハートリーという2人のイギリス人作家の短編をまとめている。
収録作は以下。

P・H・ニュービー(訳はすべて小倉多加志)
「叔父カヴォーク」
「驢馬の死問答」
「熱風(カムシーン)」
「昇進」
「アレキサンドリア向けの小包」
「どこからでも十マイル」
「一杯の水」
「録音されなかったインターヴュー」
「バルセロナからきた男」

L・P・ハートリー(訳はすべて坂本和男)
「W・S」
「二人のヴェイン」
「マンクスフッド邸」
「ブランドフット氏の絵」

ハートリーは知っていたけれど、P・H・ニュービーというひとはぜんぜん知らなかった。
巻末の「P・H・ニュービー、人と作品」から、その経歴を引いてみたい。

パーシー・ハワード・ニュービーは、1918年サッセクス州で生まれ。
少年時代の大部分はウスター州ですごし、第二次大戦ではフランスへ。
フランスから撤退後、いったん帰国したのち、1941年に今度はエジプトへ。
除隊した1942年12月から、1946年にエジプトを去るまで、カイロのファド一世大学の英文学講師となる。
その後、文筆に専念。

というわけで、このひとはエジプトと縁が深い。
本書収録の9編中、最初の5編はエジプトを舞台としたものだ。
どれも、ストーリー展開に説話めいた乱暴さがあって、大変楽しい。

「叔父カヴォーク」
アレキサンドリアにカヴォーク・ハマムジアンというアルメニア人の靴屋がいた。
自分が死んだら、カイロのアルメニア人墓地にある、一族の地下納骨所に遺体を埋葬してくれ――。
と、たったひとりの身内である甥に話していた。
そうしてくれたら、店をゆずろう。

さて、1月のある日、午前4時。
カヴォーク叔父さんが亡くなった。
そこで、甥のゴルギスは苦心惨憺のすえ、叔父さんに一張羅を着せて駅にむかった。

なぜ、ゴルギスはそんなことをしたのか。
叔父さんの遺体をちゃんと棺桶におさめてカイロまで送ると、20ポンドかかる。
これは、ゴルギスの一年分の給料に匹敵する。
なので、ゴルギスはカヴォーク叔父さんの遺体と一緒に、列車でカイロに向かうことにしたのだった──。

ゴルギスは叔父さんの遺体はとともに、5時発の2等車のコンパートメントにうまくおさまる。
しばらくすると、堂どうとした体躯のエジプト人が入ってくる。
それから、お腹がすいてくる。
考えてみれば、朝食を食べていない。
ゴルギスは、叔父を残してひとり食堂車へいく。
叔父はときどき発作を起こし、石みたいにこちこちになる。
いまも発作の最中で、カイロにいるかかりつけの医者でないと治せない。
──とまあ、そんなつくり話も考えてある。
なにがあっても大丈夫。

しかし、大丈夫ではなかった。
食堂車からもどると、叔父はいなくなっていた。
堂々とした体躯のエジプト人に訊いてみると、
「この前の駅で降りましたよ」
という返事。

──こうストーリーを紹介すると、列車のなかでだれかが消失したというたぐいのミステリのようだ。
でも、じっさいはそうではない。
というのも、だれも謎を解こうとしたりしないからだ。

このあと、途方に暮れるゴルギスに、エジプト人は、自分はアブドゥル・ラマダンというボクサーだと名乗る。
そして、しょっちゅうひとに騙されていると打ち明け、話しているうちに、ゴルギスは月10ポンドでラマダンのマネージャーになることになる。
ところが、ラマダンは自分はおそろしいかんしゃくもちなんだと、さらに打ち明け話をはじめて──。

ストーリーは、予想外のラストまで二転、三転。
じつに完成度の高い、愉快な短編だ。

「驢馬の死問答」
これも列車が舞台。
〈わたし〉がたまたま出会ったできごとを書いたという感じの、スケッチ風の短編。

カイロとポートサイド間を走る列車(本文中では「気動車」と書いてある)が、不意に停車する。
原因はロバをひいたため。
そのことに、機関士は心を痛めないが、機関士の助手は大いに痛める。
ロバを放し飼いにしとくのがいけないんだ、という機関士に助手は反論する。
ちょっと前は立派に生きていたんだ、それがいまはもう死んでいる、こうしたことは少なくともまじめに考えなくちゃいけない──。
2人はいい争い、ついに一触即発の事態になりかける。

「熱風(カムシーン)」
娘のファウジアを連れて、ある後家のところに転がりこんだハッサン。
ハッサンは、妻のファウトがファウジアを連れもどしにくると考えている。
当のファウジアは、後家さんのところの下ばたらきの、サリーという中バーバリ人中年男が気になってしかたがない。
ファウジアは、いつもサリーに横柄な口をきいてみたり、強がりをいってみせたりする。

ある日、サリーはハッサンの妻ファウトの情人であるサイディにナイフを突き立てられる。
ファウジアを返すようにとしたことだったが、サリーはそれに応じない。

そのうち、ハッサンとファウトのよりがもどる。
すると、ハッサンはサイディに殺されてしまう。
その後、ファウジアはファウトと後家さんのあいだで厄介もの扱いされるのだが、けっきょくファウトのもとにもどることになる──。

エジプトを舞台にした世話物といった感じの作品。
タイトルの「熱風(カムシーン)」は、カムシーンの季節を扱ったことから。
「室内はまるで十人あまりの人間が、絨毯の埃を叩き出しているようだった」
という描写が印象的。

「昇進」
ファラカ駐在所の主任、ラシッド警部補の指示で、ネドル巡査とサフラブ巡査は、首がなくなってしまった被害者の遺体をはこんでくることに。
2人はどちらも昇進間近なのだが、どちらか一方しか昇進できないというあいだ柄。

7月の暑さのなかをナイル河沿いに5マイルも歩いて、2人は現地にいき、被害者を担架にのせてもどってくる。
途中、椰子の木立のあるところでひと休み。
つい寝すごしてしまったと飛び起きると、死体はなくなっていて──。

これも、「叔父カヴォーク」同様、死体がなくなる話だ。
でも、ゴルギスとちがって、ネドルとサフラブには、死体がどこにいってしまったのかすぐ見当がつく。
おそらく、ハエがうるさくて、眠っているあいだに死体を河に蹴こんでしまったにちがいない。

死体をなくしたのは、明らかに自分たちの過失。
だから、2人はなんとか挽回しなくてはいけない。
その挽回の方法が大変乱暴だ。

「アレキサンドリア向けの小包」
大学で教鞭をとる〈わたし〉が、たまたま郵便局にいくと、同僚のスペアリングが小包係と小競りあいを起こしている。
その小競りあいは、宛名にアレキサンドリアと入れるか入れないかから発したもの。
ちょうどカムシーンが一週間に渡りカイロに吹きこんだため、みんなこらえ性がなくなっている。

〈わたし〉は郵便局からスペアリングを連れだすが、スペアリングは憤懣やるかたない。
郵政大臣に手紙を書くといいだし、〈わたし〉に官製用紙を買ってこさせ、関係局員の即時解雇を要求した抗議文をしたためて投函。

それから一週間後、スペアリングが〈わたし〉に助けをもとめてくる。
小包課の局員が詫びを入れにやってきたのだ。
局員は、謝罪を受け入れてくれるなら署名をしてほしいと、用紙を持参。
しかも、その用紙には、謝罪を受け入れなければ解雇すると書いてある。
そこで、スペアリングはまた立腹。

「ひどいよ! 同国人をこんなふうに扱うなんて」

そこで、スペアリングは直接郵政省に抗議にでかけ──。

支離滅裂に怒りっぽい〈わたし〉の同僚、スペアリングについての一編。
どこまでも自分勝手なスペアリングの描写がみごとだ。

さて、エジプトを舞台にした作品はここまで。
どれも、登場人物の乱暴さが魅力だった。
なにしろ、だれも死なないのは、最後の「アレキサンドリアの小包」だけなのだから、乱暴さは推して知るべしだろう。

このあとは、本国を舞台にした作品が続く。
ストーリーの意外性は相変わらずだけれど、乱暴さは影をひそめる。
どらかというと、微妙な人間関係に照明があてられる。
異国を舞台にしたほうが、乱暴な想像力がはたらきやすいということだろうか。

「どこからでも十マイル」
主人公は男の子(男の子だけで名前がない)。
迷信深い祖母と、母親の仲はいまひとつ。
しばしば、陰で相手の悪口をいいあい、男の子は2人に振りまわされる。

「熱風(カムシーン)」の本国版のような作品。
巻末の訳者解説が的を得ていると思うので引いておこう。

「子供の夢ばかり掻き立てる祖母の溺愛と、ことさらに理性的に子供をしつけようとして、却って子供の夢をこわしてばかりいる母親の愛情。しかし、これも見方によればどっちもどっち。テン・マイルズ・フロム・エニウェアであろう」

「一杯の水」
田舎で道に迷った旅人が、農夫に水を一杯もらえないかとたずねる。
が、農夫はそれを断る。
「水の一杯くらい、大したことじゃないでしょう」と、旅人は憤るが、農夫は頑として聞き入れない。

「きっと水不足なんでしょう」
「水はうんとありますよ」
「じゃ、汚れているんですか」
「この荒野でいちばんきれいな水です」
 ……

4ページの、コント風の小品。
本書で最初に読んだのが、もっとも手軽に読めそうな、この作品だった。
これを読んで、本書全体を読んでみようと思ったのだ。

「録音されなかったインターヴュー」
老作家H・M・ライトのインタビューを録りにやってきた、記者のプライス。
が、H・M・ライトは大変意地が悪い人物。
プライスにばり雑言を浴びせて、インタビューに応じない。
プライスは、作家の機嫌をとるために、作家が懐かしく回想するトルコ菓子をもとめてさすらうことに。

「一杯の水」同様、主人公が意地の悪い人物に振り回される話。
でも、こちらのほうがストーリー展開に屈折が多く、小説らしい。

「バルセロナからきた男」
20年ぶりに、バルセロナで暮らしていた弟のアンドルーが帰省。
兄のメインプライス少佐とその一家は、当惑を隠しきれないながらもアンドルーを歓待する。

アンドルーが帰ってきたとたん、イギリスの冬景色が立ち上がる。
エジプトものでもそうだったけれど、風景描写と人間関係をないまぜにしてみせるのが、この作者はうまい。
ところで、アンドルーはなぜ20年ぶりに帰ってきたのか。
だれもがその理由を知りたがる。
じつは、アンドルーはただたんに子どものころの風景を味わいたかっただけだった。
でも、そのことは兄とその家族にはうまくつたわらない。
このあたりの、微妙さは要約不可能だ。

本書の、もうひとりの収録作家はL・P・ハートリー。
ニュービーがなにを書いても喜劇的になってしまう作家だとすると、ハートリーはなにを書いても怖い話になってしまう作家といえそうだ。
その作風は大変精妙。
そして、読み手をとらえる握力がすこぶる強い。

喜劇的な作品は、しばしばコント風になり、寓話風になり、簡潔すぎる作品になるけれど、怖い作品はしばしば瑣末で冗漫な作品になる。
ハートリーの作品にも、そういうところがないとはいえない。
でも、最初の「W・S」は文句なしの傑作だ。

「W・S」
作家のウォルター・ストリーターは、未知の読者W・Sから絵はがきをもらうようになる。
妙に気をもたせるような文章がそえてあるこの絵はがきのことが、ウォルターは気になって仕方がない。
しかも、絵はがきにプリントされた名所から、差しだし人がだんだん近づいてくるのがわかる。

不気味になったウォルターは警察に相談。
恨みを抱いている者はいないかと問われるが、そんなおぼえはない。
しかし、一度、作品の登場人物のひとりを徹底的に悪く書いたことがあった──。

登場人物が作家に会いにくるというパターンの話。
そのパターンが怪談となり、しかも成功している。
サスペンスの盛り上げかたといい、ラストの切れ味といい、素晴らしい。
同趣向の作品で、この作品を超えることはもはや不可能なのではないか。

「二人のヴェイン」
女神やニンフなど、たくさんの像が立てられた庭に、館のあるじそっくりの像が立てられている。
あるじは、自分そっくりの像と出会った客たちの反応をみるのがなによりの楽しみ。
ある日、〈わたし〉は、このあるじであるヴェインの片棒をかつぎ、客のフェアクラフを引っかけようとするのだが──。
分身モチーフの怪談。

「マンクスフッド邸」
マンクスフッド邸の泊まり客となった〈わたし〉は、あるじのネスタから、同じく泊まり客のヴィクターの噂話を聞く。
ヴィクターは火災恐怖症にかかっている。
深夜、火元の点検をしないと気がすまない。

その夜、眠れなくなった〈わたし〉は、本をさがしに書斎へ。
すると、書斎にはひとの気配が。
翌朝、ヴィクターはよく眠れたという。
すると、暖炉におおいかぶさっていた、あの人影はだれだったのか──。

これは幽霊屋敷ものといえるだろうか。
しかし、じつに奇妙な幽霊屋敷ものだ。

「ブランドフット氏の絵」
セルトマーシュという田舎町では、ブランドフット氏が面白い絵をもっているという噂でもちきり。
町の社交界の奥様がたは、ぜひともその絵をみてみたいと思っているのだが、ブランドフット氏は容易にみせてくれない。
はたして、ブランドフット氏の絵とは、どんなものなのか──。

サキの短編「名画の背景」と同趣向の作品。
それにしても、よくこの題材をこんなに引き伸ばせるものだ。

ハートリーは、ここ数年では、「ポドロ島」(河出書房新社 2008)という短編集が出版されている。
でも、この本は読んでいない。
収録作品をみるかぎり、本書とかぶっているのは、「W・S」だけのようだ。



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武雄市図書館についての新聞記事のメモ

平成25年6月7日(金曜日)の読売新聞に、図書館サービスについての記事が掲載された。
一面丸まるつかっている。
新聞に掲載された図書館の記事としては、とてもめずらしい。
内容は、以下の三者に話を聞き、それをまとめたもの。
佐賀県武雄市長、樋渡啓祐さん。
「図書館に通う」(みすず書房 2013)の著者、宮田昇さん。
関東学院大教授の山本宏義さん。

聞き手は・編集委員は尾崎真理子さん。
文化部、多葉田聡さん。

大きな記事として扱うことになったのは、それだけ武雄市図書館が注目されているということだろう。
なぜ、武雄市図書館が注目されているかというと、CCCを指定管理者としたためだ。

「CCCとは、カルチュア・コンビニエンス・クラブ」の略。CD・DVDレンタルのTSUTAYAや蔦屋書店の運営会社。武雄市図書館の場合、CCCへの委託費は年1億1000万円。市は直接運営より5%のコスト減につながるを見込む」

というのは、記事につけられた注釈。

記事の真ん中には、黒枠で囲まれた文章がある。
「今、図書館に求められているサービスは何か。武雄市長や図書館経営の専門家、利用者を代表する識者に聞いた」
そして、黒枠の文章を囲むように、三者の記事が載せられている。
一番上が、樋渡さん、左側が宮田さん、下が山下さんという配置。

これから、この記事についてのメモをとっていくのだけれど、その順番は山本さんからにしてみよう。
また、記事の全文を引用するわけではないので、全部読みたいというひとは、直接記事に当たってほしい。

では、まずは山本宏義さんから──。

「民間委託しようがしまいが、(市民に図書館サービスを提供する)責任は自治体にある」

「どんな本や資料を集めてほしいという方針を、きっちり管理者に伝えなければならない」

「公立図書館は幼児からお年寄りまで、あらゆる世代が利用する。「地域のインフラ(社会基盤)」として、誰もが自分に合った利用ができるのが基本だろう。特色を出せば良いというものではない」

「住民が集まる「場」として、機能は今後さらに拡大し、重要性が増すのは間違いない」
(この文章はうまく意味がとれない。「場としての機能」と読んだけれど)

「町村立の図書館には、非常勤以外の正規職員はゼロという所も多い」

「国の規制緩和によって、図書館法の規定から建物面積や職員、蔵書数などの基準もなくなってしまった」

「司書を最低何人置くべきだとか、改めて法律の整備も行うべきではないか」

次は、宮田昇さん──。

「せっかく公立図書館をここまで増やしたのだから、利用者と対話を重ね、「知のインフラ」存続の知恵を絞る時期だろう」

「人気作を各館に備えるのは、利用者数に対応する、必要なサービスだと思う」

「図書館に通うのは本好きで、利用しない人よりはるかに本を買う、熱心な読者だ」

「そもそも新作の貸し出しで不利益を被るのは、20人足らずの作家だと推察するのだが」

「今こそ出版社側は発想を転換し、「図書館は願ってもない広報活動の場」ととらえてはどうか。各種の書評や作家の解説文を閲覧できるようにしたり、文庫化済みか、その予定があるかなどの情報を、図書館と協力し合って利用者に提供してほしい」

「地域の公立館はもっと敷居の低い「知の広場」となるべき」

「どうすれば予算確保のため、利用者を広げ、増やせるか。自治体の担当者はまず利用者との対話から、それを探ってほしい」

最後に、樋渡啓祐さん──。

「CCCを指定管理者にした武雄市立図書館が4月にオープンし、2か月の来館者数は今週20万人を突破。前年同期の4.7倍で、貸出数も約2倍に増えた」

「人口5万人程度の市の施設に、県外からも大勢の人が訪れるほどの反響を呼んだのは、一般の図書館の工夫が乏しく、物足りないから。それに尽きる」

「全国的に見て図書館の利用者は国民の約20%。少数派が「図書館はこうあるべきだ」と言い過ぎて、一般の人が来ない」

「図書館は無料貸本屋ではない。居心地の良い空間で本の素晴らしさを体験してもらうために、蔦屋書店と図書館の良さをミックスしたいと考えた」

「だから、CCCへの業務委託は経費節減が目的ではない」

「自動貸出機を導入し、利用者にTSUTAYAのポイントを付与するのも、司書を減らすためではなく、彼らを貸し出し業務から解放し、利用者に本を薦めるなどの本来の業務に専念してもらうためだ」

「これからの図書館に必要なのは大衆化だ」

「図書館法の下にある施設なのでその理念は守りつつ、今の時代に沿った形で進化させたい」

「飽きられたら終わりなので、とにかく変え続ける」

「貸し出しや検索機能だけに終わらせず、市民が訪れる動機を増やし、居心地のいい空間を作る。「図書館革命」ではなく、「公共空間革命」だと考えて取り組んでいる」

さらに。
平成25年8月28日(水曜日)の毎日新聞にも、樋口さんのインタビューが載っていたので、メモ。
聞き手は渡部正隆さん、田中韻さん。

記事のタイトルは、「そこが聞きたい。公立図書館の民間委託」

「私は武雄のような地方都市にとっては「無関心が最大の悪」だと思っています。批判は世間の関心の表れだから、大歓迎ですよ」

「それにこのプロジェクトにはあえて地雷を埋め込みました。だってTカードで公立図書館の本が借りられるなんて絶対おかしいでしょう」

「全国に公共図書館は3000以上あり、うちは蔵書も規模も中程度です。それなのに、なぜこうクローズアップされるのか? 毒を込めて言えば、世の中にろくな図書館がないからですよ。一部の人が固定観念で「図書館はかくあるべし」と唱え、カビ臭いイメージになっています」

(──さらなるサービス向上のために障害になっていることは? という質問に)

「図書館法の規制です」

「「公立図書館は入館料その他図書館資料の利用に対するいかなる対価をも徴収してはならない」としている。無料なのはいいのですが、無料の貸し出し本の横に市販の本を置けない」

「時間の余裕のある人は借りるし、急ぐ人は買う。これからはそうすることが絶対大事だし、「市民価値」(市民の視点に立つ行政サービス)は上がる。法律を作った時には想定していなかったニーズが発生しているのです」



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