現代日本のユーモア文学 2

「現代日本のユーモア文学」(立風書房 1980)
編集は吉行淳之介、丸谷才一・開高健。
装丁は山藤章二。

収録作は以下。

「おとしばなし堯舜」「おとしばなし和唐内」 石川淳
「笑われた」「まずミミズを釣ること」 開高健
「俗謡雪おんな」「四行詩」 佐藤春夫
「雪国・またはノーベル賞をもらいましょう」 和田誠
「鬼坊主の女」 池波正太郎
「月の好きな男」「このへん」 谷川俊太郎
「ジャック・カサノヴァの巻」「無頼の英雄」「遅日」「とうがらし」 獅子文六
「モッキンポット師の三度笠」 井上ひさし
「初代の女」 飯沢匡
「酒宴」「饗宴」 吉田健一

佐藤春夫、谷川俊太郎の両氏は詩。

今回は再読が多い。
石川淳、開高健、和田誠、吉田健一の4氏の作品はみんな再読。

石川淳の「おとしばなし」は好きな作品なのだけれど、再読してみたところ、軽妙さが鼻について、あまり面白いと思えなかった。
以前、面白いと思った作品を読み返して、そうでもないなと思うのは、なにやら寂しいことだ。

開高健の「笑われた」は、自虐的なユーモアもの。
「まずミミズを釣ること」は、釣り談義。

吉田さんと和田さんの作品はいま読んでも面白かった。
これらは後述。
ほかに、面白かった作品は以下。

「鬼坊主の女」 池波正太郎
江戸市中を荒らしまわった、鬼坊主というあだ名の盗賊が、仲間二人とともについにお縄に。
このうえは、市中引き回しのうえハリツケという段取りが待っている。
市中に子分が残っている鬼坊主一味は、牢の役人を買収して羽振りもよく、差し入れや伝言などは自由自在。
あるとき、鬼坊主が髪月代(さかやき)をしたいといいだし、役人は便宜をはかって、鬼坊主かかりつけの床屋をよんでこさせる。
床屋は当然、鬼坊主の息がかかっている者。
とくに下剃りの六太郎は鬼坊主とともに捕まった仲間の弟。
六太郎は、鬼坊主の指令を、その妾のお栄に届ける。

鬼坊主の指令は、「辞世の句をつくってほしい」というもの。
市中引き回しのさいにそれを読み上げて、役人をおどろかせ、江戸市民を感心させたい。
そのための費用として、お栄の寝床の床下4尺に隠していた600両の小判のありかも六太郎に告げた。
六太郎とお栄は、鬼坊主の願いを安くあげたのち、小判をもって江戸から逃げようと約束するが…。

池波正太郎ははじめて読んだ。
舞台の上のお芝居をノベライズしたよう。
最低限の、書割のような情景描写のなか、登場人物たちが悩みなく、なめらかにうごく。
説明文から、場面に移る手際が抜群にうまい。
クライマックスにあわせた、登場人物の心情のうごきも意外性があり、さすが。

「無頼の英霊」 獅子文六
本書には、獅子文六の作品が4編とられている。
そのうち「ジャック・カサノヴァの巻」は、カサノヴァの人生を紹介したもの。
ほか、3編のうちでは、この「無頼の英霊」が面白かった。

佐上丑造(うしぞう)は、南国の万事ルーズなこの村では、超硬派。
飲酒と賭博と喧嘩を好み、女を嫌い、いっさいの権威を認めない。
腕力によって村の青年をたばねていた彼だったが、応召を受ける。
そののち戦死の知らせが。

戦争が終わり、村の青年をたばねているのは猫造という男。
こちらは超軟派で、リーゼントに色つき眼鏡をかけ、性道徳と小作制度の解放を叫んでいる。
そこへ、丑造が村にもどってくる。
丑造は戦死していなかったのだ。

鼻つまみ者の丑造が応召を受けたさいの文章はこう。
「彼の応召歓送会ぐらい盛大なことはなかった。規模においては、大地主太田本家の息子の応召の比ではなかったにせよ、質において断然それを凌(しの)いだ。参会者は心からの歓びの盃を挙げたのである」

また戦後一変した村の描写はこう。
「青年は競争で髪を伸ばし始めたが、戦前の兄チャン刈りでは満足できず、リーゼント・スタイルというのを採用した。娘たちは親がヤミ売りに匿(かく)してある米を盗み出し、四里離れた市へパーマをかけにいくが、焼ソバのような総縮髪になって帰ってきた。田舎は何事もクドいことが好きで、中庸の道を守るのは困難である」

いま読むと古風さが目立つけれど、大げさな書きぶりと辛辣な観察は、この手の小説の王道のように思える。
戦地から戻った丑造が、すっかりおとなしくなり、かつ即物的になっていたというオチもうまい。

「モッキンポット師の三度笠」 井上ひさし
〈ぼく〉の一人称。
〈ぼく〉と悪友二人のたび重なる不祥事にもめげず、三人の指導神父であるモッキンポット師は、仕事をみつけだしてくれる。
三人一緒だと悪さをするというので、今度は各自ばらばら。
海星書店での勤務を命ぜられた〈ぼく〉は、そこでもなにかやりそうだと思い、新聞で演芸場の求人をみつけ、モッキンポット師に談判。
認められ、演芸場ではたらくことになるが、ひょんなことから旅回り一座と巡業にでるはめに。

井上ひさしもはじめて読んだけれど、とても面白かった。
短篇ながら、ストーリーは二転三転し、たいへんな充実ぶり。
物語がどんどん進んでいくというのは、それだけで愉快なことだ。

巡業には、悪友二人も同行し、ついにはモッキンポット師まで舞台にあがることに。
なぜか大阪弁をしゃべるモッキンポット師は、自分のいちばん得意な分野である説教を披露する。
「みなはん! 神はほんまにいやはりまっせ!」

「酒宴」「饗宴」 吉田健一
この2編は文句なしに楽しい。
「酒宴」は、銀座で飲んでいたら、灘の酒造会社の技師と知りあったというところ話がはじまり、あとはずーっと飲む話が続く。
途中、こんな一節が。

「飲んだり、食べたりしたことばかりで、技師とどんな話をしたか書かないのは片手落ちかも知れないが、その逆の、話ばかり出て来てその話をした人間が何を食べて、それがどんなだったかを省略した小説が多い現在、そのことを不満に思う読者もかなりいるに違いない。そういう読者はこれを読んで堪能して戴きたい。まだまだ続くのである」

で、このあともずーっと飲む話が続く。
読み終わったあとは、作者の情熱にほとほと感心してしまう。

「饗宴」も同じ趣向。
友人が胃潰瘍になり、自分がそういう飲み食いを制限されたときにどんな妄想をするのかを、あらかじめ考えたという話。
想像なのだからと、好き放題の暴食に励んでいる。
両編とも、これだけ飲み食いしているのに品がいい。
そこが作者の徳だろうか。

「雪国・またはノーベル賞をもらいましょう」 和田誠
これは川端康成の「雪国」の冒頭を、和田さんがいろんな作家の文体模写をして書き分けたもの。
模写した作家はひとりやふたりではない。

庄司薫、野坂昭如、植草甚一、星新一、淀川長治、伊丹十三、笹沢左保、永六輔、大藪春彦、五木寛之、井上ひさし、長新太、山口瞳、北杜夫、落合恵子、池波正太郎、大江健三郎、筒井康隆、川上宗薫、田辺聖子、東海林さだお、半村良、司馬遼太郎、村上龍、つかこうへい、横溝正史、宇能鴻一郎、谷川俊太郎。

これだけの人数が、和田さんの似顔絵とともに模写されている。
似顔絵にかんしては、線が硬く、とがっている感じで、いまの丸みに欠ける。
いくつかさわりを引用しよう。

植草甚一
「国境のトンネルはとても長いので、ここを通るときはいつもどのくらい長いのかしらんと考えるのだが、そのときもぼくはそんなことをポカーンと考えていたけれど、そのうちウトウトして来たので、読みかけの本をまためくりだした。…」

星新一
「国境の長いトンネル。そこを抜けると雪国の筈だった。信号所に汽車が止まる。どこからともなく一人の娘が立って来て、エヌ氏の前の窓を開けた。…」

池波正太郎
「それは……。
 文筆家・島村が、再び〔湯沢温泉〕を訪れるための汽車の旅であったが、〔国境〕の長いトンネルを抜けると、
(あっという間に……)
 そこは〔雪国〕であった。…」

横溝正史
「金田一耕助のすすめで、私がこれから記述しようとするこの恐ろしい物語は、昭和十×年×月×日、国境の長いトンネルを汽車が通り抜けたところから始まった。…」


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百まいのドレス

「百まいのドレス」(エレナー・エスティス 岩波書店 2006)

絵はルイス・スロボドキン。
訳は石井桃子。

児童書。
絵と物語がじつによくあっている。
もとは、「百まいのきもの」というタイトルで1954年に出版された本。
それを、改題改訳したのが本書。

よく思うのだけれど、なにか面白い本を読みたいと思ったら、児童文学の古典を読むのがいちばん確実だと思う。
児童書の世界には、傑作か駄作か2種類しかない。
そして、駄作は淘汰されるから、傑作しか残らない。
自分とは趣味があわないなと思う本はあるかもしれないけれど、読んで失望することはまずない。
この本も児童文学の古典。
やはりとても面白かった。

さて、ストーリー。
話は、ワンダ・ペトロンスキーが教室にいないということからはじまる。
ワンダはとてもおとなしく、めったに口もきかない女の子。

ワンダはクラスの女の子から、からかいの対象にされている。
きっかけは、ワンダが「ドレスを百まいもってる」といったため。
いつもおなじ服を着ているワンダが、ドレスを百まいもっているはずがない。
女の子たちは、毎日ワンダに「ドレスを何まいもっているの?」と訊き、ワンダはかたくなに「百まい」といいはる。

ワンダをからかうのに参加しているマデラインは、ほんとうはそんなことをしたくない。
でも、このドレスごっこを考えだした、いちばんの仲良しのペギーにつきあっている。

クライマックスは中盤に用意されている。
とても鮮やか。

後半は、ワンダをからかっていたマデラインの心情に焦点があてられる。
自責にかられるマデラインの心情を、子どもらしさを失わずに書く作者の筆はじつにみごと。
マデラインはいままでこれほど一生懸命に考えたことはないというほど考える。

そして、ラストにもうひとつ、小さなクライマックスが。
この本は、地味なクリスマスストーリーでもあるから、いまの季節にあっているかも。

巻末には訳者あとがき。
岩波少年文庫が創刊されたのは1950年。
1953年、それよりもっと年少むけの、「岩波の子どもの本」シリーズをスタートさせることに。
ところが戦後のことなので、訳すにしても本がない。
しかし、写真やバレエの評論家、光吉夏弥さんは、ヨーロッパやアメリカ人の家族が日本を引き上げていくときに残していった子どもの本を見逃さずに収集していた。
「百まいのきもの」も、光吉夏弥さんの蔵書にあった本のひとつだという。

この美しい訳者あとがきは、こんなふうにしめくくられている。
「新しく生まれ変わった『百まいのドレス』を、もうじき百歳の私から、若いみなさんに手渡すことができることを心からうれしく思っています」

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バーゲンブック

ちょっとまえだけれど、毎日新聞にバーゲンブックにかんする記事が載っていたのでメモ。

常設の店舗なんてあるんだ。

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七人の風来坊

「七人の風来坊」(ホーソーン 岩波書店 1952)
副題は、「ホーソーン短編集」。
タイトルのあとには「他四編」とある。
岩波文庫の一冊。
手元にあるのは、1990年版の第10刷。
訳は福原麟太郎。

ホーソーンの作品は「バベルの図書館」シリーズの「人面の大岩」(1988 国書刊行会)ではじめてふれた。
表題作にもなっている「人面の大岩」がとくに面白かったおぼえがある(というより、ほかはみんな忘れてしまった)。
また、訳者の福原麟太郎さんの本では、「チャールズ・ラム伝」をとても楽しく読んだ思い出がある(いま検索してみたら、親しんだ講談社文芸文庫はもう手に入らないみたいだ)。

さて、本書は114ページの薄い本。
全部で5編の短篇がおさめられている。
どれも手ごろに読めて楽しい。
内容は以下。

「七人の風来坊」
「人面の大岩」
「ハイデガア博士の実験」
「デイヴィッド・スウォン」
「泉の幻」

だいぶ昔の本なので原文は旧漢字。
好みでいうと、「泉の幻」がちょっと落ちる。
あとは甲乙つけがたい。

「七人の風来坊」
旅の途中の〈私〉。
夕立を避けるため、車輪つきの家といった感じの四輪馬車をたずねる。
馬車の主人は、オルガンの音とともに踊る人形舞台をもって野外集会にいくところ。
馬車にはもうひとり若い男がいて、馬車の一角を借りて本屋をしている。
それから、のぞき眼鏡の見世物をもつ男女やら、〈私〉にたかる〈私〉より金持ちそうな老占い師やら、本文で「赤色土人」と書かれたペノブスコット族の男などが雨宿りに。
みな、野外集会へいくところ。
では、そろって集会にいこうと7人は大いに盛り上がるが…。

エッセイ風の短篇。
6人はなにかしら一芸あるのに、若い〈私〉にはなにもない。
「人間は一人前になるためには稼業がなくっちゃいけない」
と、いわれて〈私〉は思わずいう。
お集まりのお客衆に即席の小説なんかを話したいんだ。遍歴小説家になりたいんだ。でなきゃ生まれた甲斐がないんだ。
この〈私〉はきっとホーソーンの分身だろう。

〈私〉の切実さと、雨があがり集会へむかうとなったさいの活気に満ちた場面が、ないまぜとなって、素晴らしい効果を発揮している。
話の落としかたも、常套的だけれどうまい。

「人面の大岩」
盆地にあるその町からは、ひとの顔のような岩山が見えた。
その目鼻立ちは高雅で、表情は壮大にして甘美。
町には、この町の出身者で、岩山そっくりの顔をした優れた人物があらわれるという予言があった。
町で育ったアアネストは、その人物に会えるのを心待ちにしていたが…。

アアネストの人生を、町の出身者である偉大な人物がつぎつぎと横切っていく。
大商人だったり、将軍だったり、大統領候補だったり、詩人だったり。
と、ここまで書いて思ったけれど、本書の短篇の大部分は、基本的な設定が述べられたあと、くり返しが続くという、昔話の手法がとられている。
ひょっとすると、これがいま読んでも、古びてるとは思うものの面白さが損なわれていないと感じる源なのかも。

「人面の大岩」は再読だったけれど、気持ちのいい話だ。

「ハイデガア博士の実験」
老博士ハイデガアが、4人の旧友の協力を得てある実験をする。
それは、フロリダ半島の南部、マカコ湖から遠からぬとこにある『青春の泉』から採取した水を飲むこと。
この泉の水には、若返りの効力があり、ためしに押し花にされた博士の思い出のバラをその水にひたすと、バラは往年の姿をとりもどす。
友人たちが半信半疑でその水を飲んでみると…。

これも寓話的な作品。
前の2作にくらべて、教訓臭が強い。
読んでいて、芥川龍之介の短篇を思い出した。

「デイヴィッド・スウォン」
生まれ故郷からボストンにむかう途中の青年、デイヴィッド・スウォン。
ボストンでは、雑貨屋を営んでいる叔父が番頭にしてくれる予定。
朝から歩きづめのデイヴッドは、乗合馬車を待とうと、気持ちのよい泉のそばでぐっすりと寝入る。
するとそこへ、年配の商人夫妻が乗った馬車がやってきて、泉のそばで故障。
修理のあいだに、夫妻はよく寝ているデイヴッドをみつけて、心引かれるものを感じ、後継ぎにしようかと考える。

その後の展開を話してしまうと、馬車の修理が終わるとともに、夫妻はこの思いつき恥ずかしい、常識はずれなものだと感じて去る。
そのあとにも、眠っているデイヴィッドのもとに、可愛らしい娘やら、悪党やらがあわられるのだけれど、デイヴィッドはいっこうに気がつかない。

これもまた、昔話の手法をもちいた寓話的な一篇。
長新太さんの絵本「ブタヤマさんたらブタヤマさん」(文研出版)を思い出したけれど、絵本を思い出すひとはあんまりいないかも。

「泉の幻」
エッセイ風の一篇。
〈私〉が、泉のなかに美女の姿をみたという幻想譚。

福原麟太郎さんの解説によれば、本書の作品は、トワイス・トウルド・テイルズと称される短篇群のなかから訳出したものだそう。
その短篇群なかには、アメリカの伝説や信仰、歴史にまつわる作品も多いらしいのだけれど、いままでわが国で紹介されてきたのは、本書のような寓話的な作品ばかり。
それは、アメリカ文学紹介者がホーソーンのアメリカ的特殊性を避けて、人生の寓意に富んだ普遍的な物語を選んで紹介したためだ、というのが福原さんの説。
もっとも、これは50年以上前に書かれた文章なので、いまでは事情がちがっているかも。

「七人の風来坊」にかんしては、これまで訳がなかった。
福原さんによれば、トワイス・トウルド・テイルズのなかで一番よい作品。
ほかの4篇とちがい、人生に遊ぶ趣味を語っているところがあり、なかなか味が深いという。
その意見には賛成だけれど、でも個人的には愛着のある「人面の大岩」に一票を入れよう。


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まだまにあう今年の目標

ことしもいつのまにやらさしせまってきた。

先日、自分で書いたブログの記事を読み返していたら、ことし1月に、こんな目標を書いていたのをみつけた。

――「現代日本のユーモア文学」と「世界短編傑作集」の読破。

「現代日本のユーモア文学」はあと2冊、「世界短編傑作集」はあと1冊残っている。
あと、ひと月半のうちになんとかしなくては。

お話変わって、「オリバー・トゥイスト」は読了。
後半、オリバー君はほったらかしになり、悪党たちの顛末が書かれるのだけれど、それがすこぶる精彩を放っている。
殺人をおかした登場人物があてもなくさまようくだりも、あんまり迫真力があるから、つい同情しながら読んでしまう。
ラスト、大団円で、各登場人物たちのその後が点描されるのも楽しい。

ことしのはじめには、ディケンズを読むなんて思ってもみなかったなあ。

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OUR PLANET

何週間かまえの毎日新聞の書評の小さい欄に、丸谷才一さんが雑誌「クーリエ・ジャポン」が面白いというような記事を書いていたと思った。
その面白さのひとつとして、ブラジル政府がアマゾンの木からゴムを抽出して、コンドームをつくる工場を建設したという記事を紹介していたと思った。

その書評を読んだとき、似た記事をどこかでみたなーと思ったら、「OUR PLANET」という雑誌でみたことを思い出した。
この雑誌は国連環境計画(UNEP)機関誌。
日本語版の編集・発行はNPO法人地球友の会というところがやっているそう。
雑誌自体は、とても大きくて、ぺらぺらしたパンフレットのようなもの。

国連環境計画(UNEP)機関誌情報サイトで、この雑誌の内容をみることができる。

で、当の記事の話。
「クーリエ・ジャポン」の記事はみていないのだけれど、丸谷さんの紹介によれば、その記事はアジアからの輸入を減らす云々とは書いてあっても、環境問題にはふれていないよう。
でも、「OUR PLANET」のほうは、雑誌の性質上環境問題としてとりあげられていたはず。
その記事のタイトルは「愛は地球を救う」というものではなかったっけ。

そう思い、雑誌を確認。
工場ができて、なぜ環境が保全されるのか。
「工場が建設したことにより、ゴム樹液の採取者たちが熱帯雨林を破壊することなく利益を得ることができる」からだそう。

「この計画によって、ブラジル政府はミレニアム開発目標(MDGs)の二つ――エイズと闘うことと環境の持続可能性を確保すること――に向かって進む一方、アジアからのコンドーム輸入への依存を減らすことにもなるだろう」

この記事のタイトルは「愛と生態系」。
「愛は地球を救う」じゃなかった。
どうやら、かってにタイトルを妄想してしまったようだ。

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サッカーで子どもをぐんぐん伸ばす11の魔法

「サッカーで子どもをぐんぐん伸ばす11の魔法」(池上正 小学館 2008)

子どもころサッカーをしていた。
その目からみると、びっくりするようなことがたくさん書かれている。

著者の肩書きは、ジェフ市原・千葉ジュニア担当コーチ。
タイトルから、子どもにサッカーをさせるとこんないいことがありますよ、という本かと思ったら、ちがった。
サッカーで子どもを伸ばすためには、こういうことに気をくばらなくてはいけない、ということが書かれた本だった。
読んでみると、著者は魔法を子どもにではなく大人にかけたいと思っているよう。
魔法の、11という数は、サッカーのプレイ人数からきた語呂合わせだろう。

びっくりするようなこととは、たとえばこんなこと。

・ブラジルもヨーロッパのどこの国でも、小学生年代の全国大会は開催されていない。
・小学低学年のあいだは、ポジションはなし。高学年では、自分たちできめさせる。
・小学生のあいだは全員出場。
・ドイツの場合、だれもいない場所にセンタリングを上げたとき、叱られるのは上げた選手。
・少年サッカーにヘディング練習は不必要。
・小学生年齢で11人制サッカーをしているのは、日本、中国、韓国の東アジアの国だけ。

かんたんに説明。

ブラジルもヨーロッパのどこの国でも、小学生年代の全国大会は開催されていない
サッカー先進国では、小学生年代の全国大会は開催されてないらしい。
やっているのは、日本、韓国など、東アジアの国だけ。
ブラジルでは、かつて開催していた時期もあるらしいけれど、やめてしまったという。
理由は、選手が育たなかったため。
全国大会がない時代のほうが、いい選手が育っていたことに気づき、大会自体をやめてしまったのだそう。

小学低学年のあいだは、ポジションはなし。高学年では、自分たちできめさせる
低学年のあいだポジションはなしにする。
こうすると、子どもたちは団子サッカーをはじめる。
でも、この年代は団子サッカーでいい。
ポジションをきめると、ボールにさわれない子がでてくる。
それに、ポジションを役割分担と思いこみ、フォローに入らないようになってしまう。
かつ、フォローが必要かどうかの判断もできなくなってしまう。

くわえて、著者の池上コーチはこうも。
「団子サッカーをそのまま放っておくと、間違いなく「ぼく、ちょっと守るよ」という子がでてきます」

だから、高学年では自分たちできめさせる。
「実は、大人があれこれ言わなくてもいいようになっているのです」

小学生のあいだは全員出場
小学生のあいだは子どもたちを入れ替えて、全員出場できるようにする。
つまり、上手な子だけを出場させたりしない。
1日に何試合もあったら、上手な子はへとへとになるし、観ているだけの子はつまらない。
試合にでられない悔しさをバネに奮起するのは、中学生年代からでも充分間にあう。
全員出場を実行するには、「上手な子だけをあつめて勝とう」という気持ちをコーチが捨てなければならない。
大人の勝利至上主義をいさめることばは、この本の随所にあるのだけれど、それについては後述。

ドイツの場合、だれもいない場所にセンタリングを上げたとき、叱られるのは上げた選手
これにはびっくりした。
こういう場面では、ボールの落下点にいなかった選手が、「走りこめ!」と怒鳴られるものだと思っていた。
これには、ボールをまわして、まわして、一番チャンスのある時点で確実にゴールするというドイツサッカーの考えかたが根底にあるそう。

くわえて、池上コーチはこうコメント。
「サッカーは点をとるスポーツです。ボールをもっている時間が長いほうが、有利なのはまちがいないことです。最後のフィニッシュまで選手が考え抜いて攻撃を組み立てる。そこの価値観を教えなくてはいけないと思います」

少年サッカーにヘディング練習は不必要
これにもびっくり。
いまさらこんなこといわれたって、さんざんやっちゃったよと思った。
この本の文脈からではよくわからないのだけれど、どうもヘディングは子どもの脳に負担をあたえるらしい。
それに、小学低学年では、ボールは蹴っても浮かないから、ヘディング練習はさせる必要はない。
ただ、問題は高学年。
高学年になると、蹴ったボールは浮く。
そのとき、練習をしてなくて、いきなり試合でヘディングしたりするのは、逆に危なくないかと思ったけれどどうだろう。
高いボールもつねにトラップで処理するように指導しているのだろうか。
このあたり、よくわからない。

小学生年齢で11人制サッカーをしているのは、日本、中国、韓国の東アジアの国だけ
サッカー先進国では、小学生の全国大会をやらないだけではなく、そもそも11人制のサッカーをしていないらしい。
オランダでは4対4、イギリスでは7対7や8対8が中心だという。
サッカーの基本中の基本は、トライアングル、つまり2方向へパスをだせる状況をつくりだすことだ。
少人数制のサッカーで、基本をからだにおぼえこませるというのが、サッカー先進国の選手育成のありかたのよう。

本書ではオランダ方式の4人制「クアトロサッカー」のやりかたが紹介されている。
試合は4対4で、キーパーはなし。
キーパーがいないから、シュートを打つ回数が増え、シュートがうまくなる。
また、早めに攻撃の芽をつまなければいけないので、ディフェンダーも育つ。
トライアングルの関係性を学べるので、戦術眼が確実に養われる。
「練習ではぜひクアトロサッカーを採用してください」と、池上コーチ。

さて、長ながと書いてしまったけれど、これはサッカーについての項目のみ。
本書の内容はこれで半分。
あとの半分は、子どもとスポーツとのかかわりあいについてだ。

このかかわりあいについては、悪い例として時代錯誤な指導法がたくさんでてくる。
幼少のころスポーツをしていたひとは、だれしも大きくうなずくことうけあいだろうと思う。
たとえば罰走について。

罰走というのは、試合に負けた罰として走らされること。
自分がやらせたこともあるし、やらされたこともあるという罰走について、池上コーチの意見はこう。

「振り返ったときに「あれはプラスになったなあ」ということは皆無です」

また、敗戦したときの指導者の発言。
「勝ちたいと思う気持ちが足りなかった」
「相手のほうが、勝ちたいと思う気持ちが強かった」
などと精神論で総括する。

さらに、指導しようと思うからか、具体的な改善方法が思い描けないにもかかわらずミスを指摘する。
「今日はミスばっかりしてたね」
「どうしてそんなにミスしたの」
「あんなにミスすると勝てないよ」

「走り負けている」
というのも、よく聞く敗戦理由。
でも、本当に相手のほうが足が速かったら仕方がない、と池上コーチ。
これらの敗戦理由は、
「間違いなく負けたことを子どものせいにしているということです」。

また、練習を休んで家族と旅行にいくといいだした子どもについて。
「日本では、そういったことを絶対許さない指導者のほうが多いのではないでしょうか」
家族ででかけた子どもに、「サッカーを最優先にしろ」と怒る。
あまつさえ、「遊びを優先するんだったら、もう試合に出さないからな」と脅す。

もし、子どもが試合にでられなくなることを心配して旅行にでかけるのをやめたりするなら、「心配しなくてもいいから、いってきなよ」とコーチがいえるようになってほしい、と池上コーチ。
「そうならないと、日本のスポーツは間違いなく発展しないと考えています」

最後に、前述した大人の勝利至上主義について。
子どもが勝ち負けにこだわるのはともかく、大人がそうなるのは百害あって一利もない。
大人が勝利にこだわると、子どもを追い詰めはじめる。
指示をだし、ミスを責め、子どもが選択したプレーを否定し、罵倒しはじめる。
そうなると、子ども自身でサッカーをすることはなくなり、勝つことばかり考えるから上達しなくなり、チームのなかに過度の摩擦が起きる。
上手な子は疲れ果てて燃え尽き、上手でない子はサッカーどころかスポーツ全般が嫌いになる。

「よーく考えてみてください。少年サッカーに「勝たないといけない試合」なんてあるのでしょうか」

と、池上コーチはやんわりと諌めている。


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漫画映画の志(再掲)

「漫画映画の志」(高畑勲 岩波書店 2007)
副題は、『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』。

「ポニョ」を観てからジブリブームになり、この本も読んでみた。
内容は、副題のとおり、「やぶにらみの暴君」と「王と鳥」についての研究書といえるもの。

個人的に、処女読書問題とよんでいる問題がある。
ある作者の作品がABCとあり、Aができがよく、Cができが悪いとしたら、読者が最初に接した作品によって、作者の印象が決定してしまうというもの。
第一印象をぬぐうのはむつかしい。

この問題のヴァリエーションに、作者が自作を書きかえるというものがあると思う。
いちばん有名なのは、井伏鱒二の「山椒魚」の書きかえだろうか。
書きかえるまえの作品が好きだった読者にとっては、これは大事件。
でも、作者の手によるものだから、いかんともしがたい。
「山椒魚」では、たしか亡くなった書評家の向井敏さんが、作者にもとのままにしてほしいと訴えた文章を書いていたと思った。

で、本書だけれど、同種のことは、ポール・グリモー監督、ジャック・プレヴェール脚本によるフランス産アニメーションの傑作、「やぶにらみの暴君」でも起こった。
ことのはじめは、映画がいつまでたっても完成せず、資金の底がついたため。
プロデューサーが監督を追い出し、勝手に作品を完成させ上映してしまった。
これが、「やぶにらみの暴君」。

1955年、当時学生だった高畑監督は、この作品に感激し、アニメーションの道を志すことに。

ところが、グリモー監督は不屈の闘志のもち主で、裁判で勝利したあとネガフィルムを買いもどし、資金をあつめ、プレヴェールと構想を練りなおして、この作品を「王と鳥」として復活させる。
しかし、つくりなおされた「王と鳥」を観た高畑監督は、深く落胆。

普通なら落胆し、不満をもつだけで終わるのだろうけれど、高畑監督はちがった。
両作品を、制作過程から映像表現まで、徹底的に比較し、両者を止揚させるという挙にでた。
それが本書。
すさまじい力業。

「やぶにらみの暴君」は、権利をとりもどしたグリモーにより、ニセ作品としてお蔵入りの憂き目に遭う。
でも、世の中には、ディレクターズカットなどというものがあり、それが公開されたところで、だれも元がニセ作品だなどといわない。
だから両方観られるようにしてほしい、と高畑監督は訴えている。

「やぶにらみの暴君」は観たことがないけれど、「王と鳥」はDVDの旧版で観たことがある。
とにかく、静かで、うごきがなめらかだった。
静かな印象は、カメラが引いていて、バストショットがほとんどないせいもあるかも。

「〈現代史〉をまるごと隠喩で捉えようとする空前絶後の試み」とは、DVDの旧版に記された高畑監督の文句。
「王と鳥/やぶにらみの暴君」が長い生命をたもったのは、この隠喩のためだろうと、このDVDを観た者として思った。
隠喩の海のような作品は、容易な改変では、その魅力は失われないにちがいない。

高畑監督が指摘するように、新作カットは稚拙なので、容易にそれと判別できる。
色はじつに渋い。
いい色だなと思っていたら、本書によればDVDの旧版の色彩は退色したためであるらしい。
2006年の劇場公開時に修復したというから、DVDの新版では「パステルカラー」とよばれたその色彩が再現されているはず。
でも、それを観て、いい色だなと思えるかどうか、最初の印象を払拭できるかどうかはなんともわからないことだ。

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政治と秋刀魚(再掲)

「政治と秋刀魚」(ジェラルド・カーティス 日経BP社 2008)
副題は、日本と暮らして45年。

著者は高名な政治学者。
この本は著者が日本語で書いたそう。
一般に、日本語を母語としないひとが日本語で書いた本は、文章が明快で読みやすいものだけれど、この本もその例にもれない。

本書は、著者と日本とのかかわりを中心とした回想記。
日本と暮らして45年だから、ほとんど自伝。
前半は日本とのかかわり、後半は「日本政治は当然、日本社会の特徴を反映する」として、日本社会の変化とこれからの展望を語っていて、とても示唆に富む。

面白いのは、なんといってもディティール。
1964年、はじめて来日した著者は、タクシーの運転手に「日本語が上手ですね」といわれて感激する。
まだ、外国人がめずらしかったころのお世辞で、いまではこうはいかない。
著者いわく、「日本語が上手ですねとタクシーの運転士さんから言われる時代に日本を訪れることができたことを、今でもありがたいと思っている」。
ありがたい、ということばづかいがうれしい。

はじめてカレーライスを食べたときのこと。
郷に入っては郷に従え、というわけで、著者はボーイさんに「お箸ください」と頼んだ。
必死で箸をつかいカレーライスを食べていると、周りの日本人はだれひとり箸などつかっていない。
著者は、スプーンで残りのカレーをかきこみ、逃げるように店をあとにしたという。

日本の政治研究者としての体験も面白い。
著者は、中曽根康弘さんの紹介で、大分2区から出馬する佐藤文生さんのもとで、選挙活動をつぶさに見学する機会を得る。
おそらく、そのとき仕入れた知見かと思うけれど、昔の別府市長がやっていた驚くべき選挙運動を紹介している。

公職選挙法では、戸別訪問は禁止。
にもかかわらず、市長は選挙前になると、市内を走り回って有権者の家にずかずかとあがりこんだ。
そして、なにもいわずに仏壇に封筒を置いて去ったそうなのだ。
つまり、票を頼むのではなく、祖先に敬意をあらわす行為であるといって、法律をかいくぐったというわけ。
よくこういうことを思いつくなあと感心してしまう。

中選挙区制と小選挙区制についての話も、非常にわかりやすく語られていて興味深い。
著者は、小選挙区制には否定的。
「選挙制度がどう機能するかは、その国の社会構造によって変わってくる。そのことを日本の選挙制度改革論者は見逃した」

「小選挙区制では製作の争いになると改革論者は思っていたが、結果はそうなっていない。政策が前より重要になったというよりも、それぞれの政党のトップリーダーの人気が大きなファクターになったことである」

後半の、日本社会に対する意見は、穏当かつ常識的。
ただ、著者の場合、体験の質と量がとても豊富なので、説得力に富む。

現在、半年ごとに東京とニューヨークをいったりきたりする生活をしているという著者は、東京にきたとき、まず区役所にいくという。
外国人登録をすれば、日本国民ではなくても、国民健康保険に加入できるからだ。
アメリカではお金持ちでないと保険には入れないらしい。
この分野では、アメリカが日本の制度を学ぶべきだと著者は記している。


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古本まつりにいった話2008

ようやく忙しさも落ちついたので、ことしも神保町の古本まつりにでかけた。
カゼが治りかけで、げほんげほんセキをしながら本を物色。
周りのひとにはいい迷惑だったかも。
目当ては、最近夢中になって読んでいるディケンズの本。

今回はまず、出版社のブースをめぐった。
古本まつりには、古本屋だけでなく、出版社の出店もある。
ここで、汚れてしまった新品の本を安く売ったりする。
いわゆるバーゲンブック。

ところが、岩波書店はちがった。
在庫僅少の岩波文庫をならべていたものの、値引きはなし。
なぜこんなに強気なんだ?

そばに筑摩書店のブースがあり、そこはちくま文庫が半額。
ありがとう筑摩書店!
しかも、ならべてあるのはどこが汚れているのかわからないような、きれいな本。
バーゲンブックは、本の底にマルBのハンコが押してあるのがつねで、どうもそれがいちばんの汚れなんじゃないかと思ってしまうほど。
ここで、「アメリカの奇妙な話」の1巻と2巻を購入。

早川書房とか平凡社とかは、ひとがひしめいていて近寄りもできなかった。

古本まつりは、やっぱり古本屋の出店をのぞくのが面白い。
思いがけない本がたくさんある。
東洋文庫なんて、ふだん図書館でしか見かけないものが、ここではざくざくある。
この界隈は、東洋文庫密度が日本でいちばん高いんじゃないだろうか。
さすが神保町だ。

先日読んだジャン・レーの「新カンタベリー物語」を発見。
値段をみたら、700円だった。
これも神保町らしいといえるか。

「ブラックマスクの世界」がひとそろい5千円。
これはお買い得だ。
買わなかったけど。

福音館の古典童話シリーズが、どーんと売られていた。
値段は4万2千円。
だれが買うんだろうと思ったけれど、つぎきたときはなくなっていた。

だれが買うんだろうといえば、読み聞かせなどにつかう大型絵本。
すこしはなれたところにある、児童書出版社のブースではそんなものまで売られていた。
文庫活動などをなさっているかたが買いにくるのだろうか。
児童書ブースをのぞいたときは、福音館のブースなど本が半分近くなくなっていた。
熾烈なあらそいがあったようだ。

今回は忘れずに、出店の紅茶を飲み、キーマカレーも食べた。
ついでに玉こんにゃくまでいただいた。
体力の限界にきていたので、よろよろと退散。
ディケンズはみつけられなかった。
精査すれば、かならずあったと思うけれど、今回はあきらめよう。

いつものことながら、帰路、やっぱりあれを買っておけばよかったかなあなどと、後悔が頭をかすめる。
「ひとは本には金を惜しむ」
というのは、山本夏彦さんの名言だけれど、まったくそう。
読書なんていう趣味は、ほかの趣味にくらべたら(そして置く場所を考えなければ)、まあ金のかからないほうだろう。
惜しまず、買っておけばいいのに。

ただ、今回は新たな問題が。
手元にどんな本をもっているか、よく把握していないことが判明。
この本もってたよなあと、しばし思案のすえ買うのを見あわせるということが、たびたび。

来年にむけて、蔵書の目録でもつくろうかと、なかば本気で思いはじめている。

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