密約の地

「密約の地」(ジャック・ヒギンズ/著 黒原敏行/訳 早川書房 1998)
原題は“On Dangerous Ground”
原書の刊行は1994年。

前作、「サンダーポイントの雷鳴」をショーン・ディロンものの1作目とするなら、本書は2作目(「嵐の眼」を1作目とするなら3作目)。
内容は、香港返還についての密約書をめぐる物語だ。

例によって、まずプロローグ。
1944年8月の重慶。
司令部にいるのは、時のイギリス国王の従兄弟にあたる、イギリス海軍中将ルイス・マウントバッテン卿。
現在は、東南アジア方面連合軍最高司令官。
加えて、マウントバッテン卿の副官であり、蒋介石の参謀長でもあるアメリカ人、ジョー・スティルウェル将軍。

かれらのもとに、当時51歳の毛沢東がやってくる。
2人は毛沢東に、イギリス軍による軍事物資の供与を申しでる。
見返りは、香港の租借期間の、100年間の延長。
毛沢東は承諾し、〈重慶密約〉は成立。
が、文書の写しを、毛沢東は受けとろうとしない。
チャーチルが署名してから受けとるといって、毛沢東は去る。

文書は4通。
チャーチルと、毛沢東と、ローズヴェルト。
残りの1通は予備。

チャーチルの署名をもらうため、マウントバッテン卿の補佐官、イアン・キャンベル少佐はロンドンにいくことに。
キャンベル少佐はスコットランド人。
ロッホ・ドゥ城の当主で、キャンベル氏族をひきいる統領(レアード)。

キャンベル少佐の身のまわりの世話をする当番兵は、ジャック・タナー伍長。
父親は、ロッホ・ドゥ城の猟場管理人で、2人は幼いころから共に育った。
キャンベル少佐は、先祖代々つたわる聖書に、予備の文書を隠し、ダコタ機に乗り、出発。

あと15分でデリーに到着というところで、ダコタは撃墜される。
キャンベル少佐は、なんとかタナー伍長に助けだされるが、意識不明に。

舞台は変わり、1993年のロンドン。
ここからが本編だが、これからはじまるのは、主要登場人物の紹介をかねた本編用のプロローグ。
訪英したアメリカ大統領の暗殺をめぐるエピソードだ。

まず、ノラ・ベルという娘が登場。
父親は陸軍曹長で、フォークランドで戦死。
母親と妹と祖母、残された家族全員は、1986年にIRAが街頭にしかけた爆弾で死亡。
以来、復讐の道を邁進してきた女テロリスト。
仲間に、参謀格のプロテスタント系アイルランド人、マイケル・アハーンがいる。

今回の仕事は、パレスチナ暫定自治合意に強硬に反対する、イスラム原理主義の一派〈神の軍隊〉のメンバー、アリ・ハラビというイラン人からの依頼。
内容は、訪英したアメリカ大統領の暗殺。
報酬は500万ポンド。
半分は、もう口座に振りこまれている。

計画は大変シンプル。
電話会社の車にセムテックス(プラスチック爆弾)を積み、工事中のふりをして路上に駐車。
大統領の車が脇を通りすぎる瞬間に爆発させる。

しかし、仲間のひとり、メイズ刑務所でアハーンと知りあったビリー・クィグリーは、特別情報機関グループ・フォアの情報提供者だった。
クィグリーはさっそく電話でファーガスン准将に密告するが、それを予期していたアハーンはクィグリーの眉間に銃弾を撃ちこみ、ファーガスン准将に捨てゼリフを吐いて電話を切る。

アハーンにとって、クィグリーの密告は予定通り。
なので、本来の計画も変わらない。
本来の計画とは、まず予定通り路上で車を爆破する。
このとき、大統領は殺さない。
ハラビの死体が発見されるようにする。
そうすれば、当局は胸をなでおろすにちがいない。

襲撃はその後。
アメリカ大統領とイギリス首相は、招待客と一緒に遊覧船ジャージー・リリー号に乗りテムズ川をくだる。
このとき、仕出し会社の給仕として船に乗りこむ。
武器は、きのうまで乗組員として船ではたらいていた仲間が、男子トイレの防火バケツの砂のなかに、ラップでくるんだ消音機つきのワルサーを隠しているはずだ。

一方、ファーガスン准将。
アメリカ大統領はテロのために予定を変更したりしない。
准将は、ハンナ・バーンスタイン警部と対策を練る。
バーンスタイン警部は、シリーズ初登場。
前任の、ジャック・レイン補佐官が「サンダーポイントの雷鳴」で殉職したため。
この若くて優秀なユダヤ人女性のおかげで、登場人物の配置に味わいが増したといえるだろう。

さて、この件ではディロンを起用するということになり、2人はレストランで食事中のディロンのもとへ。
元IRAのテロリストであるディロンは、ノラやアハーンのことをよく知っている。

で、それからいろいろあり、当日はアハーンの予定通りに進行。
襲撃は遊覧船上でおこなわれると直感したディロンは、みごとテロを阻止する。
が、ノラにナイフで刺され、ディロンは重傷を負う。

ところで、密約の話はどうなったのか。
これがまた、ややこしい。

ニューヨークの若い医師、トニー・ジャクソンは、病院でいま死を迎えようとしているジャック・タナー老人を知る。
タナー老人は、アメリカ人と結婚した娘を訪ねたおり倒れ、病院にかつぎこまれたのだった。
トニーはタナー老人から、〈重慶密約〉にかんする話を聞くことに。

飛行機が落ちたあと、キャンベル少佐は脳を損傷し、けっきょく元にもどることはなかった。
少佐とタナーは城にもどり、残りの20年をすごした。

現在、ロッホ・ドゥ城は、少佐の姉レディ・キャサリンが管理している。
城のそばのロッジに住み、狩猟シーズンには金持ちのアメリカ人やアラブ人に城を貸している。
トニーに話し終えると、タナー老人は亡くなる。

トニーの祖父、アントニオ・モリは、建築業で財をなした人物。
また、マフィアのルカ・ファミリーの大幹部。
トニーは、香港に投資している祖父に、タナー老人から聞いた話をする。

アントニオ・モリは、この話を仕事上のパートナーであり、ファミリーでもあるカール・モーガンにもっていく。
モーガンの母親は、ドン・ジョヴァンニ・ルカの姪。
イェール大学を卒業後、落下傘兵となりヴェトナムでたたかう。
戦争の英雄としての信用を武器に、ウォール街に乗りこみ、ホテル業界をへて、建築業界に転身。
その過程で億万長者に。
また、ポロの選手でもある。

モーガンはこの話をジョヴァンニに告げ、義理の娘アスタとともにシチリアにおもむく。
香港が共産主義者の手に渡れば、われわれのホテルやカジノは大打撃をうける。
文書がみつかったところで、租借期限が延期できる見込みはないが、世間に密約があったことを暴露してやれる。
わしは、中国とイギリスを慌てさせてやりたいのだ、とジョヴァンニ。

というわけで、〈重慶密約〉にシチリア・マフィアが一枚かんでくるのだが、そのことをファーガスン准将はどうやって知るのか。
じつは、ドン・ジョヴァンニのもとにはスパイが入りこんでいた。
〈重慶密約〉の話を聞いたこの男は、すぐにイタリア情報部に連絡。
これがすぐばれて、男は殺されてしまう。
で、イタリア情報部のガジーニ少佐は、イギリス情報部の古い友人、ファーガスン准将に連絡をとる――。

敵味方が明確になるまで、世界をまたにかけた曲芸のようなことをしている。
そして、負傷したディロンはどうしたか。
ファーガソンのもとを首になったディロンは、チャイナ・レストランを経営する袁陶(ユアン・タオ)とその姪、蘇姻(スー・イン)と知りあう。
袁はクンフーの達人で、ディロンのからだをすっかり元通りにしてくれる。

ヒギンズ作品は、東洋のことがらを扱うと噴飯ものの展開をみせるが、これはその一例だ。
その後、現場に復帰したディロンは、ファーガスン准将やバーンスタイン警部とともに、スコットランドで文書さがしをすることに。

とまあ。
前半のあらすじをまとめてみたけれど、本筋と関係の薄いエピソードが多く、まとめるのに難儀した。
それでも、この作品はちゃんと読める。
これは作者の、熟練の手腕というものだろう。

本作にはモーガンの義理の娘の、アスタという女性が登場し、後半大活躍をする。
ヒギンズ作品の女性というと、ノラ・ベルのように復讐心に満ちた女性が多いが、アスタはそうではない。
その点でめずらしく、また凄まじい人物だ。


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サンダー・ポイントの雷鳴

「サンダー・ポイントの雷鳴」(ジャック・ヒギンズ/著 黒原敏行/訳 早川書房 1998)
原題は“Thunder Point”
原書の刊行は、1993年。

ショーン・ディロンものの1作目といったらいいだろうか。
「嵐の眼」で敵役として登場した元IRAのテロリスト、ショーン・ディロンが、主人公となり活躍する。
以後、ディロンはシリーズの主役として活躍し続ける。

本書のストーリーは、沈没したUボートに残されたある文書が、英国に騒動を引き起こすというもの。
主な舞台はカリブ海だ。
表紙の生頼範義さんによる、沈没したUボートをえがいた挿画が、いつもながら素晴らしい。
ではまず、プロローグから。

1945年4月30日。
陥落目前のベルリン。
ドイツ第三帝国国家指導官マルティン・ボルマンは、ヒトラーからあるスーツケースを渡される。
中身は、銀行の秘密口座を記した書類や鍵。
それから、ナチス・ドイツの支持者たちを記した〈紳士録〉と呼ばれるファイル。
さらに、ウィンザー公が、ドイツが英本土侵攻に成功したときには、ふたたび国王の地位につくことに同意するとしたためたという、〈ウィンザー密約書〉。

ボルマンは、そのスーツケースをもち、ベルリンを脱出。
ノルウェーからUボートに乗り、南米をめざす。

で、本編。
1992年。
オーストリアのスロヴェニア国境近く。
飛行機でクロアチアの紛争地域に医療物資を届ける仕事を引き受けたディロンは、いままさに出発するところ。
報酬はなし。
気が向いたのだ。

が、飛行中、ミグ21に捕捉され、セルビア軍の捕虜となる。
じつは、医療物資の下にはスティンガーミサイルが隠されていて、そのことを密告されたのだった。

一方、ボルマンの乗っていた潜水艦は、カリブ海で発見される。
発見したのは、ヘンリー・ベイカーという人物。
朝鮮戦争中、2年間海軍に勤務。
父親の経営する出版社を継いだものの、50歳で妻が亡くなると事業に興味を失う。
会社を手放し、スキューバ・ダイビングのとりことなり、カリブ海のセント・ジョン島に移住。
子どもはいないが、麻薬中毒から救った、娘がわりのジェニー・グラントがいる。

潜水艦をみつけたのは、サンダー・ポイントと呼ばれる暗礁。
このあたりは危険なため、ふだんは近づきもしない。
が、このときはハリケーンが去った朝で、海はすっかり凪いでおり、ベイカーは潜ってみる気になったのだった。
沈没したUボートの、司令塔の下にできた大きな裂け目からなかに入ったベイカーは、ブリーフケースをみつけ、それを船にもち帰る。

ブリーフケースは、ボルマンのものではなく艦長のもの。
ドイツ語で書かれた日記が入っている。

この日記をどうしたものか。
ベイカーは、軍隊時代の友人ガース・トラヴァースに相談する。
1951年、アメリカ海軍大尉だったベイカーは、連絡将校としてイギリス海軍の駆逐艦パーセフォニーに乗艦した。
揚陸艇が機雷で爆破されたあと、たがいにしがみついて5時間ほど暗い海をただようはめになった2人は、確固たる友情を築いたのだった。
トラヴァースは少将となって引退し、退役後は第2次大戦当時の海軍にかんする本を何冊か書いている。

ベイカーはトラヴァースに会いにロンドンへ。
ドイツ語が堪能なトラヴァースは、すぐ日記を翻訳。

日記に書かれていたのは、出発するいきさつと、航海の経緯。
ベネズエラに向かっていたUボートは、ボルマンが島の友人たちに会いにいくという理由から、サムスン島沖で浮上。
このとき、重要な書類は艦内に残していった。
その後、ハリケーンがきて潜水艦は沈没した。

つまり、例の〈紳士録〉や〈ウィンザー密約書〉は、まだUボートに残っている可能性が高い。
トラヴァースは、友人のチャールズ・ファーガスン准将にその内容をつたえる。
ファーガスン准将は、首相に対してのみ責任を負う国防情報部〈グループ・フォア〉の責任者だ。

ファーガスン准将は首相に連絡。
トラヴァースとファーガスン准将と首相、加えてファーガスンを毛嫌いしている防諜局副長官サイモン・カーターと、内務担当閣外相という肩書で、揉めごとが起こると調停に乗り出すという役どころのフランシス・ペイマーという、5人で会合を開く。

〈紳士録〉と〈ウィンザー密約書〉は、おおやけになれば大変なスキャンダルとなる。
Uボートが沈んでいるのは、アメリカ領内。
アメリカに声をかければ、すべて自分のものだと主張するだろう。
そこで、首相はファーガスン准将に全権を委任。
秘密裏に文書を手に入れることを命じる。

ところで、セルビア軍にとらわれたディロンはどうなったのか。
捕まってから、以上のようなことが100ページほどあり、ようやくディロンに出番がめぐってくる。
ファーガスンは、ダイビングに長じ、予想される荒事にも対処できる人材として、ディロンに白羽の矢を立てる。
そして、セルビアにおもむき、ここで銃殺を待つか、自分のもとではたらくか、ディロンに選択をせまる。
もちろん、ディロンは後者を選び、以後ファーガスンのもとではたらくことに――。

ディロンはスーパーヒーローとして造形されている。
なにしろ、飛行機の操縦もすれば、ダイビングもし、射撃の名手であるとともに、変装の名人、さらには語学の達人でもあり何か国語もあやつるのだ。
ショーン・ディロンものが、ヒギンズ版007と呼ばれるゆえんだろう。
だから、あとはスーパーヒーローであるディロンが、軽口を叩きながら困難を乗り越えていく、その活劇を楽しめばいい。

後半、舞台はカリブ海へ。
〈紳士録〉があらわれては困る勢力とあらそいながら、Uボートをさがしだし、文書の回収をこころみる。
ファーガソン准将も活劇に参加するのが、なにやらおかしい。

巻末の、斎藤純さんによる解説が、手際よく本書の面白さをまとめていて感心する。
そこにこんな記述が。

《本書ではほかのヒギンズ作品(たとえば『死にゆく者への祈り』など)と違って、IRAで爆弾闘争をしていたディロンが、その過去を重苦しく引きずっていない。そこがいい。陽性の活劇に、過剰な自省や苦悩はいらない。》

セルビアからロンドンに帰る飛行機のなかで、ファーガスン准将はディロンに、罠にはめたのは自分だと告白する。
だからといって、ディロンは腹を立てたりしない。
今回の件がお前さんに幸いした、でなければいずれ銃殺されたろう、というファーガソン准将に、ディロンはこうこたえる。

《「ま、今となってはどうでもいいさ」ディロンが言った。「結果的には、四方丸く収まったわけだしな」彼も目を閉じ、うとうとし始めた。》

斎藤純さんにならって、「そこがいい」といいたい。


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