ウィルス性胃腸炎/500万ドルの迷宮/泥棒が1ダース

「500万ドルの迷宮」(ロス・トーマス ミリテリアス・プレス文庫 1999)
先週から引き続きロス・トーマスを読んでいたら、具合が悪くなった。
ウィルス性胃腸炎。
39度の熱をだし、七転八倒した。
どうも、ロス・トーマスを読むと熱をだすという個人的ジンクスがあるようだ。

医者からもらった解熱薬がよく効いて、「500万ドルの迷宮」はよろよろとだけれど、ふじ読了。
ストーリーは、主人公であるテロリズムの研究家スターリングスが、フィリピン新人民軍の指導者を500万ドルで買収してくれともちかけられるところから。
この指導者は、第2次大戦中のスターリングスの戦友。
この買収工作に、国際的詐欺師や、元シークレット・サーヴィスの美女や、自称中国皇帝位継承権主張者や、その友人にして腹心や、それにスターリングスがチームを組む。

チームを組んで、買収工作を成功させるのではない。
500万ドルをいただくのだ。
しかし、各人の思惑が錯綜し、事態は思わぬ方向へ――。

ロス・トーマスは、詐欺師をただ詐欺師と書いてことたれりとはしない。
そうしてくれればわかりやすくなるのに、登場人物の来歴や現在の状況は、つねにウィットに富んだ会話でなされる。
あるいは、やはりウィットに富んだ地の文によって語られる。

プロットをあやつる手つきはたいへん優雅。
優雅すぎて、ほとんど退廃的と思えるほどだ。

それにしても、ロス・トーマスは会話がうまい。
とくに、多人数による会話のうまさは際立っている。
会話のうまさは、おそらくシチュエーション設定のうまさが一役かっているはず。

あと、いま思いついたけれど、退廃的な感じがするのは、あまりにも――ナンセンスといえるほど――ゲーム的だからだろう。
ほとんど倫理的なまでにゲーム的。
本書中、500万ドル奪うことはフィリピンを混乱におとしいれることから救うことになるという意見がだされると、元シークレット・サーヴィスの美女、ジョージア・ブルーは、「そんな話をするなんて、信じられないわ」という。
なぜ、そんな話をするのがいけないのか。
ブルーはため息とともにこたえる。
「そんなことは一文の得にもならないのよ」

「泥棒が1ダース」(ドナルド・E・ウェストレイク ハヤカワ文庫 2009)
本書は、哀愁の中年泥棒ドートマンダー物の短編集。
この出版はとてもうれしい。
未訳の長編もぜひ訳してほしいものだ。
さて、収録作は以下。

「序文 ドートマンダーと私」
「愚かな質問には」
「馬鹿笑い」
「悪党どもが多すぎる」
「真夏の日の夢」
「ドートマンダーのワークアウト」
「パーティー族」
「泥棒はカモである」
「雑貨特売市」
「今度は何だ?」
「芸術的な窃盗」
「悪党どものフーガ」

簡単に内容を紹介。
「序文 ドートマンダーと私」
作者が作品の由来を説いたもの。
それにしても、作者というのは、作品を思いついたときのことをよくおぼえているなあ。

「愚かな質問には」
とある優雅な男に拉致されたドートマンダーは、元妻にとられた彫像を男が盗み出すための、その盗難プランにアドバイスしてやるはめに。

「馬鹿笑い」
ドートマンダーと相棒のケルプが馬泥棒に挑戦。

「悪党どもが多すぎる」
穴を掘って銀行の金庫に到着してみたら、ちょうど強盗に襲われている最中だったという話。
エドガー賞最優秀短篇受賞。

「真夏の日の夢」
ニューヨークをはなれ、ケルプのいとこのもとに身をよせていたドートマンダーとケルプ。
そのいとこがやっている劇場の売上金が盗まれ、ドートマンダーが疑われることに。

「ドートマンダーのワークアウト」
これは短篇というより、一口話。
ドートマンダー物にでてくる店、〈OJバー&グリル〉の常連客がくり広げる馬鹿話が主役。

「パーティー族」「泥棒はカモである」
この2編は、逃走中とある場所に逃げこむという、同じ趣向の作品。
片方はパーティー中の部屋に給仕として、もう片方はポーカーの一員として追っ手の目を逃れる。
また、両方ともクリスマス物だ。

「雑貨特売市」
ドートマンダー物のレギュラー・キャラクターのひとり、因業な故買屋アーニー・オルブライトが登場する一編。

「今度は何だ?」
盗品をさばきにでかけたドートマンダーが、つぎからつぎへと騒動に巻きこまれる話。

「芸術的な窃盗」
アーティストに商売替えした元同業者に、展覧会中の絵を盗んでほしいともちかけられたドートマンダーが、その隠された裏を見破る。

「悪党どものフーガ」
これは変り種。
ハリウッドの映画会社との契約により、作者は一時、ドートマンダーという名前がつかえなくなりそうになった。
この短篇につけられた序文によれば、「ジョン・ドートマンダーの名前使用権をハリウッド弁護士の匪賊どもに奪われそうになった」。

最終的に、その恐れは遠のいたのだけれど、このときウェストレイクはドートマンダーに仮名をつけておいた。
それが、ジョン・ラムジー。
で、ほかのレギュラー・キャラクターたちもそれぞれちがった名前をあたえられて書かれたのが、この短篇。
名前が変わると、登場人物はどう変わるのかという実験をしてみたかったと作者は書いている。
実験の結果、「名前がすごく重要であることが判明した」。

(このくだりを読んでいて、登場人物の名前が決まらないとき、編集者はそこだけ空白にして書き進めてくれなんていうけれど、そんなことは不可能だ、とある作家が話していたことを思い出した)

やっぱり先日読んだ「忙しい死体」にくらべると、まあ短篇と長編のちがいもあるかもしれないけれど、じつに手際がいい。
安定した作風と、すこぶる高い打率で、とても楽しめる短編集だった。

さて。
容態はだいぶましになってきたけれど、未読のロス・トーマスものはまだ残っている。
しばらく読むのをひかえるか、いっそのこと具合の悪いうちに読んでしまうか、いま考えているところ。

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露伴/ロス・トーマス/ウェストレイク

「幸田露伴」(斉藤礎英 講談社 2009)
「露伴は時間を止めてうたいだす」
と、いうことが書かれている長編評論。
この「うたいだす」ことを、著者は「エピファニー」と呼んでいる。

「露伴の小説がなんらかのエピファニー(ある種の宗教的な悟り、日常とは異なる時間が流れる仕事への没頭、全存在をかけた感情の奔出、いままでとは異なる認識の枠組みを得ること、など)をめぐるものであることは既に述べた。デビューしてから死までの60年間の作家生活は、このテーマの千篇一律の繰り返しだったと言ってもいい」

エピファニーの訪れる瞬間は、たとえば初期では「五重塔」の暴風雨。
後期では「運命」暴風雨。
「幻談」「観画談」「連環記」などにも、この瞬間がある。

物語の叙述を止め、うたいだす露伴作品には、ストーリーにしたがい、登場人物たちの関係性が変わったり、ちがう側面をみせたりなどということがない。
だから、露伴の歴史小説は、小説というより、語りたいことだけ語った講談のようなものになる。

以前から露伴が好きで、あの文章に歯が立たないながらに(「運命」は一度も通読できたためしがない)読んできたのだけれど、この本を読んで、自分がなぜ露伴が好きかようやくわかった気がする。
露伴はエピファニー作家だからだ。
この発見は大変うれしい。

おなじエピファニー作家として、開高健がすぐに思い浮かぶ。
自分が好きな作家のラインに、エピファニー作家の系譜があるんだとわかったのは大収穫だ。

「暗殺のジャムセッション」(ロス・トーマス 早川書房 2009)
「冷戦交感ゲーム」(1985 早川書房)の続編だそう。
まさか、いまごろ出版されるとは。

「冷戦交換ゲーム」は読んだけれど、ストーリーはまるきり忘れてしまった。
ロス・トーマスの作品は、どれも話がややこしくておぼえていられない。
あるとき、風邪で寝こんだとき、「黄昏にマックの店で」(ハヤカワ・ミステリアスプレス文庫 1997)を読んだら、なにが進行しているのかちっともわからなくてびっくりした。
にもかかわらず、面白かったという気分だけは残った。

ロス・トーマス作品でいちばん有名なのは、たぶん「女刑事の死」(ハヤカワ文庫 2005)だろう。
読んだなかでは、「モルディダ・マン」(ハヤカワ・ミステリアスプレス文庫 1989)が好みだ。
この作品は、比較的わかりやすいと思う。

ロス・トーマスは、導入を書くのが猛烈にうまい。
「暗殺のジャムセッション」は、主人公マッコークル(マック)の一人称。
「冷戦交換ゲーム」のあと、ワシントンに「マックの店」をかまえ、恋人フレドルと結婚したマック。
そこに、かつての相棒パディロが転がりこんでくる。
某国の首相暗殺を依頼されたパディロは、それを断って逃げ出してきたのだったが、依頼者たちはなんとしてもパディロにやらせようと、マックの妻を誘拐して――。

このあと、ストーリーは2転3転どころじゃない展開をみせる。
ロス・トーマスのほかの作品もそうだけれど、ほとんどナンセンス小説ぎりぎり。
でも、1人称のおかげか、ロス・トーマス作品にしてはわかりやすい。
ラストも切れ味よく終わっていて、とても楽しめた。

ただ、タイトルだけはいただけない。
これでは、ウェストレイクの「悪党たちのジャムセッション」(ドナルド・E・ウエストレイク 角川文庫 1999)と間違えてしまう。

「欺かれた男」(ロス・トーマス 早川書房 1996)
「暗殺のジャムセッション」が面白かったので、まだ読んでいなかったこの本も読んでみた。
ロス・トーマス最後の作品だ。

元陸軍少佐で、現在はとある銃砲店につとめるエド・パーテイン。
そこに、元上官である大佐があらわれる。
以前、エルサルバドルで起きた事件の口止めにやってきたのだ。
大佐のために仕事を失ったバーテインは、とある人物から、ミリセント・アルフードという婦人の、ボディガードの仕事を得る。
政治資金調達のエキスパートである彼女は、最近、自宅に保管していた120万ドルを盗まれていて――。

この作品はややこしかった。
途中、どのへんが伏線なのかもよくわからないほどのややこしさ。
でも、最初と最後はさすがの上手さだ。

あと、この作品では、年老いた男たちの痛々しさが印象的だった。
作者の年齢を反映したものだろうか。

「忙しい死体」(ドナルド・E.ウェストレイク 論創社 2009)
ウェストレイクの新刊もでた。
じつにうれしい。
本書は、ハードボイルド作家として出発したウェストレイクがはじめて手がけたユーモア・ミステリだそう。

3人称1視点。
主人公はギャングのエンジエル。
ヘロインの運び屋だった仲間が死に、盛大な葬式が。
しかし、仲間は大量のヘロインを身につけたまま埋葬されてしまった。
そこで、エンジェルはボスに命じられ、仲間の死体を掘り返すことに。

ところが、いざ掘り返してみると、仲間の死体がない。
警官や謎の美女、世話焼きの母親などの妨害をうけながら、エンジエルは死体をもとめて奔走する。

ストーリーというより、プロットがうまい。
カードの出しかたがうまい、といいたくなる。
でも、ウェストレイクのほかのユーモア・ミステリ作品とくらべると、もうひと声と思ってしまう。
なにかがものたりない。
でも、それがなんなのか、正直よくわからない。

ドートマンダー物のケルプのような、とぼけたキャラクターがいないせいだろうか。
シチュエーションの荒唐無稽さがたりないのか。
それとも、語り口の滑稽味がいささかとぼしいのか。
理由をさぐるために、「我輩はカモである」(ハヤカワ文庫 2005)を再読しないといけないか。

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凡人伝

「凡人伝」(佐々木邦 講談社 1946)

装丁、鈴木信太郎。
挿絵、清水対岳坊。

60年以上前にでた本なので、手元の本はもうぼろぼろもいいところ。
古本屋も買いとってくれそうにないし、捨てるほかなさそう。

この本がでたのは1946年。
奥付をみると、講談社は「大日本雄弁会講談社」になっている(ほんとうは旧漢字)。
でも、作品自体はもっと前に書かれたもの。
冒頭、再出版にあたってつけられたとおぼしき「はしがき」で、青山学院と明治学院の2つのミッション・スクールを卒業した作者は、両方から作品のアイデアをとったといっている。
さらに、時節柄こんなことも。

「時勢が大回転をした昨今、戸惑いしているものが多いのに、私達ミッション・スクール出身者は本来の環境へ戻ってきたような気がする。全然民主主義の教育を受けているから、世の中が好い方へ変わる以上はこれが当然だと思う」

さて、内容。
開巻一番、ダジャレからはじまる。
「明治学園、飯が食えん」

主人公は語り手で、中年の英語教師である〈私〉。
同窓生のなかで一番生活が苦しい。
最近続出する、「英文和訳の秘伝」だの「和文英訳の秘伝」だのいう冊子は、〈私〉のあげている生活の悲鳴。
また、同窓生の出世頭である赤羽君のところには、週に2回、令息の家庭教師としておもむいている。

こんな〈私〉は、あるとき、接した英文に天啓をうける。
「ナポレオン伝はいくつもでたけれど、それを読んで第2のナポレオンがでたことはない。であれば、凡人の失敗を語って大衆をみちびくに若かず。うんぬん」
そうだ、凡人伝だ!と〈私〉は自分の失敗をならべて凡人伝を書こうと決意する。

以後、少年時代から現在にいたるまでの話が続くのだけれど、そのまえに凡人伝執筆の決意を同窓生に話す場面がある。
同窓生たちは、おれのことだけは書くなといったり、書けというものの自分のことは凡人と思っていなかったりして、このへん、いかにもユーモア小説風だ。

さて、少年時代の〈私〉は品行方正で成績優秀。
でも、それは父親が小学校の校長をしていたため先生がたが特別に目をかけてくれていたのと、〈私〉も父親の手前人一倍努力していたから。
それに、母親がじつに教育熱心だった。

いっぽう、〈私〉は級友がけんかなどすると、先生に告げ口するような鼻持ちならない子どもだった。
おかげで友だちがいない。
あげくに、学校での一泊旅行のとき、級友から袋叩きの憂き目にあう。
その後も、いろいろといじめられる始末。

当時の小学校は、尋常科が4年、高等科が4年だった。
高等科がすんだら師範にいくはずだったけれど、高等をやめて中学にいきたいと〈私〉は父親に訴える。
〈私〉の状況を聞いて、「お父さんが悪かった」という父親のことばが泣かせる。

でも、小学校校長に、中学から上の学校にやれるお金はない。
そんなとき、家にきていた牧師から、その牧師も通ったという明治学園の話を聞く。
中等科と高等科があり、中等科が中学校に当たる。

〈私〉は、この牧師の占部さんに、最近の不幸な境遇についてに話してみた。
占部さんは、「思い切って堪忍してやってごらんなさい」と聖書をくれる。
しかし、いじめっ子の首謀者である国分だけは堪忍できない。
すると、占部さん、「いっそ国分をなぐってしまったらどうですか」といいだす。

「敵を愛さなくていいんですか」
「無論愛するほうがいいですけれど、君のようにこう毎日恨んでいては苦しいでしょう。一番いいのは堪忍することです。その次は、なぐり返してすっかり忘れてしまうことです」
「しかし先生、喧嘩をしてもいいんですか」
「やむを得ません。国分をなぐりたまえ。君が勝つように、私は神様に祈っている」

のちに信者になったのは、このときの感激があずかって力あると〈私〉。
〈私〉はすぐに実行にうつして、国分をなぐり倒し、模範生を脱却して、すっかりガキ大将に。
ただ、金銭上、すぐに明治学園にはいけなかった。
沼津町に中学校ができたので、まずそちらにいくことに。

…と、ここまで紹介するだけで、だいぶ長くなってしまった。
以下、かけ足で。

中学は4年あり、同年輩だけでなく年長者もきていた。
年長者たちは、自分の年を黙っていたのだけれど、徴兵検査のために休んだのでばれてしまう。
こんなところに、当時の風俗がうかがわれる。

4年間の中学時代で一番印象に残ったのは、年長者のひとりである、長谷川さんの送別会。
長谷川さんは、養子にいく約束でこの学校にきていたのだけれど、その養子先というのが女郎屋で、養子にいきたくない長谷川さんは東京に逃げ出すことに決めた。
で、〈私〉とほか2名は送別会をひらくことに。

送別会は料理屋で、芸者もきている。
校則からみれば退校もの。
〈私〉以外はみな年長者で、送別会のあと、このことはだれにも話すなと年長者にクギをさされる。
翌日、2名の年長者は何度も教員室に呼ばれ、翌々日、姿がみえない。
ふたりは長谷川さんから預かっていた退校届けを提出し、そのいきさつを説明するついでに、送別会のことも告白して、2週間の停学処分をうけたのだった。
「だれにもいうな」といわれた意味を〈私〉このとき悟る。

〈私〉はめでたく明治学園に入学。
明治学園にいるあいだに、日露戦争が勃発。
生徒も開戦派と非戦派に分かれた。
明治学園は、信者も未信者も受け入れていたが、開戦派と非戦派は、ちょうど信者と未信者だった。
でも、〈私〉は信者のくせに開戦派。
戦争がはじまると連戦連勝で、祝勝のためと称してしばしば学校を休んだ。

ある日、たまたま汽車にひかれた死体をみた。
あの死体に魂があるかどうか、と信仰が揺らぐ。

卒業するころには戦争が終わり、万事不景気になって職がない。
先生の紹介で、アメリカ人に日本語を教えることになる。
この経験が、〈私〉の英語力を向上させ、中等教員試験を出色の成績で突破。

月に40円だしてくれるという、いちばん俸給のいい九州の中学校へ。
中学には、河原という漢学を教える老人がいて、このひとと仲良くなる。
河原老人は、会津征伐にいき、死体の足を斬り、敵と組討している仲間をまちがって斬り、それから会津娘を、これまたまちがえて斬り殺した。
おかげで、いまだ会津無娘を夢にみる。
それに、長男と次男がともに二十で亡くなったのも、会津娘のたたりだと信じている。
折りしも、娘がこんど二十になり、そうするときっとたたりで死んでしまう。
〈私〉は河原老人に乞われは、もともと悪く思っていなかった、娘さんをもらいうけることに。

それから、毎年どんどん子どもが生まれて、ついに10人に。
俸給は毎年上がるわけではないから、ついに学校を辞めることを決意。
代わりに私立の学校で教える。
時給2円として、週30時間はたらけば、月240円。
それに、恩給が入るから、あわせて300円の勘定。

就職の口は、明治学園で同窓生だった成金の赤羽君が口をきいてくれた。
じつは、この成金の赤羽君は、〈私〉が九州にいくころは、神戸で伯父さんの仕事の手伝いをしていて、うだつがあがらなかった人物。
〈私〉も、月40円もらえないやつはコンマ以下だなどと、辛辣なことを思っていたけれど、立場が逆転してしまった。
最後、〈私〉は、子どもをたちを立派に育て上げるのが凡人の天命だと悟って終わる。

…かけ足でもだいぶかかってしまった。
はじめから、本を手放そうと思ってメモをとると、長たらしくなってしまう。
それに、この作品は会話が多い。
おかげで読みやすいのだけれど、要約するのはむつかしい。

この作品には、山場というものがない。
作品全体をかけて、乗り越えなければならない困難もなければ、成し遂げなければならない使命もなく、最初から最後まで、一定の歩幅で進んでいく。
これは、この作品だからというのではなくて、たぶん佐々木邦の作風だろう。

また、普通こういう作品だと、学生時代のことに多く分量をさいて、社会にでてからのことは少ししか触れないものだと思う。
でも、一定の歩幅を守る作者は、社会にでてからのことも、いままで通りちゃんと書く。
しかも、それが面白い。

読んでいて面白いのは、ものすごくのんきな会話と、〈私〉の辛辣な観察。
明治学園のニコル先生についての会話はこんな風。

「あの頭の禿げた西洋人は何という人ですか?」
「ニコルさんです。いくつに見えます」
「六十ぐらいでしょう」
「かわいそうに。四十そこそこですよ」
「若いんですね」
「あの頭に毛が生えないと、奥さんがアメリカから帰ってこないんです」
「ははあ」
「先生、一生懸命になって、毎朝ガチョウの生き血を飲むそうです」
「そんなものが利くんですか?」
「駄目でしょう。先生、奥さんのことと頭のことばかり考えています。そら、頭をなでながら、時計をだして見ているでしょう?」
「ええ」
「あの時計のふたの裏に奥さんの写真が焼きつけてあるんです」
「なるほど」

のんきな会話が面白いのは、登場人物の輪郭が全員明快なためだろう。

それから、月40円もらえないやつはコンマ以下だなどと思う辛辣さは、若さの表現にもなっている。
〈私〉は最初、勤務先の先生がたに対して、「あくせくしているうちに白髪が生えて、あたら一生を終わるのだろう。かわいそうな連中だ」などとと、ずいぶん傲慢なことを思う。
が、まもなく自分もその道をたどりはじめるのだ。

そうそう、中学のとき送別会をした長谷川さんとは、のちに思いがけないところで再会する。
ここが、この小説で一番こしらえた感じがするところ。
でも、その再会場面も、ぜんぜん劇的ではないところが、じつにこの小説らしいものだ。


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夜の声

「夜の声」(W・H・ホジスン 創元推理社 1985)

訳は井辻朱美。
表紙は、なんだかわからなくなってしまったけれど、松野光洋による、船がタコの化け物のようなものにからみつかれている浮き彫りだ。
短編集で、収録作は以下。

「夜の声」
「熱帯の恐怖」
「廃船の謎」
「グレイケン号の発見」
「石の船」
「カビの船」
「ウドの島」
「水槽の恐怖」

あと、巻末に、長谷川晋一さんによる「ホジスンの生涯」。

「水槽の恐怖」だけは、当時、ホームズ人気にあやかってホジスンが創出したオカルト探偵、「幽霊狩人カーナッキ」もの。
それ以外は、みな海洋奇譚。

「ホジスンの生涯」によれば、ホジスンは1877年生まれ。
父は英国国教会牧師。
偏屈者だったらしく、教会本部としばしば衝突したそう。
兄弟は11人。
そのため、当然貧乏。
父が亡くなってしまったホジスンは13歳のときリヴァプールに赴き、外洋船の給仕として雇われる。
以後8年間、世界を3度まわる船員生活を。
これが、海洋奇譚作家ホジスンの背景に。

ホジスンは、ろくでもない先輩船員にずいぶんいじめられたらしい。
おそらくそれがきっかけで、柔道を習い、からだを鍛えた。
また、写真を趣味にし、船上で荒れ狂う大海原の写真を撮り、この分野で大家となった。

船員を辞めてから、体育学校を設立。
文筆業の仕事は、まず体育や写真についての記事から。
しだいに創作に手を染め、海洋奇譚作家として独自の地位を確立。
体育学校は閉め、講演と執筆、それに写真などで生活の糧を得るように。

1914年、第一次大戦がはじまると、義勇兵として志願。
野砲部隊に配属され、前線に赴いたが、落馬して負傷、除隊に。
傷が癒えるとふたたび志願し、フランスでの塹壕戦おいて死亡。
享年40歳。

…と、まあ、「ホジスンの生涯」から、長なが要約させてもらった。
じつに精力的な人生だ。

で、肝心の作品について。
もっとも完成度が高いのは、「夜の声」だと思う。
これは衆目の一致するところだろう。

海洋奇譚というのは、「海の怪物に襲われてひどい目に遭いました」とか「海で小船に乗った男に出会ってこんな話を聞きました」とか、報告ないし伝聞のかたちをとることが多い。
この作品も、奇禍に遭ったひとから話を聞くというのは同じなのだけれど、その話に哀切さがあるところが、ほかとちがう。
他人事ではない、身に迫ってくるものがあり、その点で抜きんでている。

(ただ、じつをいうと、「夜の声」を読んでいたとき、「アマチャ・ズルチャ」(深堀骨 早川書房 2003)におさめられた、「若松岩松教授のかくも驚くべき冒険」という、キノコまみれ小説を思い出して、思わず笑ってしまった。これはとても個人的な事情だけれど)

(「アマチャ・ズルチャ」にかんしてはメモをとった。ところで、「きのこ文学大全」(飯沢耕太郎 平凡社新書 2008)という本があるのだけれど、「夜の声」や「若松先生…」も取り上げられているのだろうかと気になっている)

ほかに面白かったのは、「熱帯の恐怖」
航海中の船が、海の怪物に襲われる。
ただ、それだけの話。
でも、とても迫力がある。
ホジスンのキャリア中、最初期の作品(2作目)だということは、ストーリーを膨らませようとしていないことから察せられる。
そこが、読むのが面倒でなくていい。
それにしても、すごい描写力だ。

それから、「ウドの島」
これは、晩年の作品。
めずらしく3人称。
キャビン・ボーイで甲板員のピビー・タウルス少年は、ジャット船長とある島に上陸。
島では、不気味な女たちがウドという怪物を神とあがめていた。
以前、この島にきたことがあるジャッド船長は、ある目的をもって島にきたのだったが…。

典型的な秘境もの。
粗暴かつ細心で、目的以外のことは頭にない、ジャッド船長の造形が面白い。
だれも信じていないのに、ピビー少年のことだけは、船長なりの手荒なやりかたで気に入っていて、一緒に島につれていく。
ピビー少年も負けてはいない。
船長のいいなりになっているばかりでなく、よく目はしをきかせる。

きっとホジスンは、ピビーのような少年だったんだろうなと思いながら読んだ。


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最近読んだ本

はたばたしていて更新している時間がない。
マメにみにきてくださっているかたには申し訳ないです。
で、また最近読んだ本を。

「本の現場」(永江朗 ポット出版 2009)
副題は、「本はどう生まれ、だれに読まれているか」。

雑誌「図書館の学校」(現「あうる」)に2005年4/5月号から2007年2/3月号まで連載された記事を書籍化したもの。
「本はどう生まれているか」と「本はどう読まれているか」の2部構成。
内容を簡単に紹介すると、こう。

・「なぜこんなに新刊がでるのか」(30年で4倍)
・「自費出版とはどういうものか」
・「ケータイ小説とかブログ本とかネット発の本」
・「フリーライターという労働者」
・「編集プロダクションという請負業」
・「フリーペーパー、情報の無料化」
・「朝の読書と読書マラソン」
・「読書ばなれの根拠などない」
・「新書の増殖」
・「書店をディレクションする幅さんの仕事」
・「本屋大賞と読ませ大賞」
・「ベストセラーは誰が読んでいるのか?」

上記は目次ではなくて、内容から目次をかってにひねったもの。
じっさいの目次はもっとちょっとおとなしい。
「読書ばなれ」については、連載時にこのブログでメモをとらせてもらった。

各記事には、書籍化にさいして附記がつけられている。
さらに、付録としてインタビューが2本。

・「本棚が町へ出て行く」(幅充考さんへのインタビュー)
・「再販制度はもういらない」(永江朗さんへのインタビュー。聞き手は沢辺均さん)

ぜんたいに、なんだか怒っている風情の本。
だから、あんまり読まれないかもしれない。

例外は、「幅充考さんへのインタビュー」など、幅さんに関する記事。
「棚をつくる」という仕事はとても面白そうだ。
図書館では、カウンター業務などを業者に任せることを「委託」という。
「棚をつくる」という仕事は、「本屋の委託業者化」だなあと思いながら読んだ。

インタビューで、幅さんは病院での「棚づくり」の話をしている。
これは、それこそTRC(図書館流通センター)などが参入できる市場なんじゃないだろうか。
昔、病院は貸本屋の得意先だったと、これは山本夏彦さんのなにかの本で読んだ気がする。

「臨床瑣談 続」(中井久夫 みすず書房 2009)
前作、「臨床瑣談」については、あんまり面白くて長いメモをとった。
本作はその続編。
この分だと、3巻目は「続々」になるんだろうか。
内容は目次からとろう。

・「認知症に手さぐりで接近する」
・「認知症からみた世界を覗いてみる」
・「血液型性格学を問われて性格というものを考える」
・「煙草との別れ、酒との別れ」
・「現代医学はひとつか」
・「中医学瞥見の記」
・「インフルエンザ雑感」

著者の文章を読むと、いつも注意深さということに考えがいく。
読むと目のまえが明るくひらけるような文章。
しかも、とてもあたたかみがある。
臨床とは、こういう注意深さのことをいうのだろうかと思う。

「中医学瞥見の記」は、中国人留学生を迎えた著者が、中医学(中国医学、漢方)を留学生から教わった話。
中国人は対思考を好むという観察が面白い。
対思考とは、「陰陽」「山高ければ海深し」のたぐい。
ヨーロッパには、こういった「深浅」「高低」「濃淡」などの語はないのだそう。

(同じことは加藤周一さんの「日本文化における時間と空間」にも書いてあった。シンメトリーを愛する中国人は、旅行のさい、おみやげの置物を必ず2つもとめるのだそう)

中医学は舌診をする。
ひるがえって、近代医学での舌の地位は高くない。
著者は、舌診での「証」を、近代医学のことばをつかって説明しようとしている。

この本の文章は、雑誌「みすず」に連載されたものだけれど、最後の「インフルエンザ雑感」は書き下ろし。
扇情的になりがちな話題を、いつものような落ち着いた筆致で述べている。

「今春の対策にはいろいろ批判があったが、私は、阪神・淡路大震災にかかわった経験から、錯誤や過剰対応を強くあげつらわないことがまず重要であると思う。それは、次の災害への対応を退嬰的にする」

「富の王国ロスチャイルド」(池内紀 東洋経済新報社 2008)
本書は、金融業で財を成したロスチャイルド一族について書いた本。
しりあがり寿さんによるカバーイラストがインパクト大。

この一族について詳細に書いたら、とんでもなく分厚い本ができそうだけれど、池内さんはそんなことはしない。
さっぱりした筆致でさまざまなエピソードを紹介していて、快適な読み物になっている。

ロスチャイルドの逸話でいちばん有名なのは、ワーテルローの戦いの勝敗をいち早く入手して、市場で大もうけしたことだと思うけれど、そのことについては触れられていない。
有名な話だから書かなくてもいいやと、池内さんは思ったのかも。

大金持ちについて書こうとすると、嫉妬心のなすところで、誰しも点が辛くなる。
それに、ロスチャイルドは近親婚をくり返した一族でもあるから、ゴシック小説風におどろおどろしく書くことも可能だ。
ところが、池内さんはロスチャイルドを好意的に書いている。
ナチスやミッテラン政権に富を簒奪された、被害者としてロスチャイルドに肩入れしている。
読みやすい理由はこのためもあるだろう。

(奥本大三郎さんのエセー集「壊れた壷」(集英社文庫 1997)に、ロスチャイルドをめぐる一章があり、それはちょっとおどろおどろしく書かれていたかと思う。いま手元に本がなくて確認できないのだけれど、ロスチャイルド一族のノミ博士、ミリアム・ロスチャイルドに奥本さんが面会したという話だったような気がする。ところで、ノミはいろんな種類がいるけれど、ヒトにつくヒトノミは一種類しかいなくて、それがヒトという種が一種類しかいないことの傍証になっているのだそう。これもこの本で知ったのだったか)

この本から、印象深かったエピソードを2つ紹介しよう。
1949年6月、パリの証券取引所で、ロスチャイルドが関係する企業の株が大量に売りにだされた。
株券評価は所有者の死亡日の時点で計算される。
最安値であれば、相続税もそのぶん安くなる。
つまり、これは相続税対策のための株式操作。
当時のパリ・ロスチャイルドの当主、エドゥアールが亡くなると、売り手は買い手に変じ、株価は1日で回復したという。

もうひとつ。
1976年5月、厳正なブラインド・テイスティング(ラベルを隠しての審査)の結果、赤・白問わずカリフォルニアワインがフランスワインを打ち負かした。
フランスワイン業界は猛反発。
審査員の買収を勘ぐり、コンテストの正当性を無視しようとした。

ロスチャイルドのワイン、「シャトー・ムートン・ロートシルト」もコンテストに出品していたのだけれど、グランプリを逃した。
「コカ・コーラの味がする」と、ロスチャイルド・ワインの長老フィリップはアメリカワインに軽口を叩いたらしいのだけれど、ただ、このときすでにカリフォルニアワインの有力者と親しくつきあっていたところが、ほかのオーナーとちがっていた。
フランスワイン敗北の2年後、カリフォルニアワインと手を組み、新製品を開発。
「オーパス・ワン」と名づけられたそのワインは、またたくまに世界を席巻したという。

「ペドロ・パラモ」(フアン・ルルフォ/作 杉山晃/訳 岩波文庫 1992)。
小説も読んだ。
これはメキシコの小説。
断章形式で書かれ、ストーリーはほとんど会話ですすむ。
おかげで、読みやすいのだけれど、各章ごとに語り手は変わるし、必ずしも時系列に並んでいないので、大いに戸惑う。
不親切なヴォネガットというか、タブッキの「インド夜想曲」というか、そういう作風。
読み終わると、人物の相関図や時間順にしたストーリーの見取り図などをつくりたくなる。

ストーリーは、いまはなき町と一族をめぐる物語。
断章形式が好きなので、この小説もとても面白く読んだ。

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