モリーのアルバム

「モリーのアルバム」(ロイス=ローリー/作 足沢良子/訳 ジェニー=オリバー/絵 講談社 1982)

これは児童書。
作者のロイス・ローリーは「ギヴァー・シリーズ」の作者として高名。
本書は、ロイス・ローリーの処女作。
姉が難病にかかったため、成長せざるを得なくなった妹が、立派に成長する物語だ。

主人公は、13歳の〈わたし〉、メグ。
メグには15歳になる姉のモリーがいる。
メグは頑固で考え深い。
将来なりたいのは、こんなひと。

《――人々が敬意をもってわたしの名まえ、メグ=チャルマーズをいうようになる、そんななにかをやりとげたいのだ。》

一方、姉のモリーはこう。

《――おとなになったら、ちがう名まえ、つまり、だれかの夫人になって、モリーなんとかになり、何人もの子どもたちから敬意をもって「お母さん」と呼ばれること。》

モリーは美人で、おだやかでのんきで自信家。
メグは、そんな姉に引け目を感じている。

お母さんはモリーに似ている。
メグはお母さんに対し、こんな感想をもっている。
《自分自身が成長していくのをもういちど見るということは、とまどうことであるにちがいない。》

お父さんは大学の先生。
「風刺に関する弁証法的総合」という本を書いている。
お父さんがこの本を完成させるために、静かな環境をもとめて、一家は11月ごろ田舎にある1840年に建てられたという家に引っ越すことに。

新しい学校で、メグは「ナツメグ」というあだ名をつけられる。
引っ越し先での気に入った小部屋は、お父さんの書斎となってしまい、メグはモリーと相部屋に。
モリーのほうは、新しい学校でもたちまちボーイフレンドをつくり、チアリーダーの補欠要員となる。

そんなわけで、引っ越してからのメグは不本意な暮らしを強いられるものの、近所で新しい友人ができる。
その友人とは、ウィル=バンクスという70歳になる老人。
ウィルは妻に先立たれ、ひとり暮らしをしている。
話してみると、メグが暮らしている家のことを、ウィルはなんでも知っている。
「あなたはあたしの家に住んでいたんですか?」とメグが訊くと、ウィルは笑う。
「あんたが、わたしの家に住んでいるんだよ」

このあたりの2つの家は、ウィルの祖父が建てたものだった。
で、ウィルは2つの家を貸し、自分は昔使用人がつかってた家に移って暮らしていたのだった。
つまりウィルは大家さん。
ウィルはメグをあたたかく迎え、メグのことを「美しいわかい娘さん」と呼ぶ。

メグは写真を撮るのが好きで、また得意。
前の学校では男の子たちをさしおいて、週間最優秀作品に選ばれたこともある。
ウィルは以前、将校としてドイツに駐屯していたことがあり、そのときカメラを購入していた。
ウィルは、ドイツ製のカメラを貸すから暗室のつかいかたを教えてほしいと、メグにもちかける。
暗室は、執筆にいき詰ったお父さんとメグが、小さな物置を改造してつくったものだ。

こうして、2人は熱心に現像についての実験をくり返すことに。
「そんなにながく現像液のなかに置いちゃだめよ、ばかね!」とメグが怒鳴ると、ウィルは、「わたしはためしているんだよ」と怒鳴り返す。

〈「危険をおかさなければわからないだろう」》

もう一軒の空き家には、ウィルが気に入ったベンとマリアという若い夫婦が引っ越してくる。
ベンはまだハーバード大学の学生で、論文を書くのに静かな場所をさがしていた。
マリアは、夏に赤ん坊がうまれる予定。
メグは、この2人とも仲良くなる。

ところで、姉のモリーのことだ。
モリーは2月ごろ、流感にかかり鼻血がとまらなくなる。
村の医者の見立てでは、寒い気候のせいで鼻の粘膜が傷つくからということ。
じき、治ったようにみえたのだが、そうではなかった。

ある夜、メグはモリーに、母さんと父さんを呼ぶようにと起こされる。
メグが両親を連れてくると、モリーは血まみれ。
両親はモリーを連れて病院へ。
メグは、きのうモリーとけんかをしなければこんなことにはならなかったと後悔する。

入院したモリーは、しばらくして退院。
だから、もうよくなったはずなのに、モリーは不機嫌で気まぐれでわがまま。
それなのに、両親はモリーのことを叱らない。
薬のせいで、モリーの美しい髪は抜けてきてしまう。

メグがウィルと出会ってカメラにより習熟したように、モリーはウィルのすすめで野の花をあつめ、押し花をつくるようになる。
ウィルは植物にとても詳しい。

しかし、モリーは再び入院する。
ベンとマリアの夫婦に赤ちゃんが生まれることをとても楽しみにしていたモリーは、「あたしがうちに帰るまで、赤ちゃんを産まないように、ベンとマリアに話して!」と、メグにいいのこす――。

こんな風に、この作品の要素だけをとりだして要約しても意味がない。
この要素のすべてがないまぜとなり、メグの体験となるのだけれど、要約ではそれが失われてしまう。

本書の訳はずいぶん硬い。
例を引くとこんな感じ。

《家が建てられた年代で、それぞれ違いがあるということは、おもしろいものである。けれどそれは、わたしをおどろかせはしない。なぜなら、たしかに人の年齢というものは、モリーとわたしのように、大きな違いをつくるから。》

13歳の少女の1人称としては、出版当時ですら硬かったのではないか。
引用したのは冒頭近くの文章。
このあと、ウィルが登場するあたりから本書は面白くなる。
ストーリーがうごきだすだけではなく、会話が増える。
会話は、これほど硬くはない。

文章は、たいへん視覚的。
小道具としてカメラがつかわれているためもあるだろうし、作者のロイス・ローリーが写真家だったためもあるのだろう。
また、訳者あとがきによれば、本書はローリーの自伝的要素を含んだ作品とのこと。
メグがはじめてウィルの家をたずねた場面はこうだ。

《玄関ホールの反対がわには、台所があった。かれが居間を見せてくれたあと、バンクスさんとわたしは、そこへいった。まきストーブが燃えていた。織った青い小さな敷物が置いてあり、その上の青と白の鉢の中には、しずかな生活を好むように三このりんごが入っていた。すべてのものが、あらってみがかれ、かがやき、適切なところに置いてあった。》

メグは、好ききらいが強く、少々気むずかしい。
そのメグがはじめて自分が撮った写真をウィルにみせたとき、ウィルはその写真のよさを的確に指摘してくれた。
そのことはメグを感激させ、あたたかい気持ちにする。

《それは、ほんとうの友だちである人が、わたしとまったく同じ感受性をもっていたからなのだ。わたしにとっては、なによりも重要であることについて、その感じ方が同じなのだ。一生涯を通じてそういうことをけっして経験しない人たちがいることを、わたしは断言する。》

このあと、ベンとマリアの夫婦は、出産を撮ってほしいとメグに頼む。
それを聞いてウィルは心配するが、メグはその話を受ける。

《「だってウィル、冒険しないでどうやって学ぶことができる?」》

そして、出産に立ち会ったメグは、それまで会いにいかなかった病院にいるモリーに会いにいく。

《わたしは、モリーに会うのがこわかったのだ。いまは、こわくない。》

ほかにも、ウィルの甥が、ウィルの2つの家を手に入れようと狙っている話があったり、お母さんがつくっているキルトの話があったりとエピソードは盛りだくさん。

この作品は最後の1行が素晴らしい。
もちろん、そんな作品はたくさんあるけれど、でも、この作品の1行はまた格別だ。


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コディン(承前)

続きです。

ある日、町にコレラが広がる。
住人たちは逃げだし、コディンやアドリアンたちも町からはなれた台地にテントを張り避難。
じき、アドリアンの母親の体調が悪くなる。
が、コディンの親身の看病により一命をとりとめる。

このコレラ騒動のとき、ある事件が起こる。
コディンの情婦であるイレーヌと、コディンのもう一人の、形ばかりの義兄弟であるアレクシスとが親しくなっていたのだ。
それに気づいたアドリアンは、コディンにそのことを勘づかれないように振る舞う。
けれど、結局コディンの知るところに。
コディンはアドリアンに、義兄弟の契りの解消をもとめる。

《「だって、だってよ、この世じゃ兄弟愛なんて成り立たねえからさ……」》

無償の愛をもとめる無法者、コディンの物語。
このあと、話は一直線に惨劇へと進む。

「キール・ニコラウス」
再び3人称。
アドリアンは14歳。
小学校を卒業し、酒場のボーイになったものの、その奴隷のような生活とは1年で縁を切り、いまはただ読書をしたり、ぶらついたりしている。

キール・ニコラスは近所に住む、菓子屋をいとなむアルバニア人。
金もなければ、若くもなく、薄汚い、年齢不詳のおじさん。
外国人のため、近所からさげすまれ、《ヴェネティク》――いかがわしい外国人などと呼ばれている。
ニコラスが騎兵隊兵舎で、兵士たちに、プラチンタとコヴリギを売る許可を得てからは、「金は貯まる一方だねえ!」などと、おかみ連中たちにやっかまれる始末。
ニコラスはアドリアンに、こうぼやく。

《「――俺が1スーもなく、しおたれて、籠に3個のコヴリギを入れて、いろんな街を流していた頃は、俺は《シラミのたかった奴》だったさ。20年間働きづめで体もぼろぼろになって、ようやく今日では2スー貯えられるようになると、まわりの連中は何ともさもしい目でこちらをじろじろ見ちゃ、《薄汚いアルバニア人》呼ばわりするのさ。――」》

さて、菓子屋の手伝いをはじめたアドリアンは、最初こそ近所の子どもたちから物笑いにされる。
が、じき、連中はお愛想をいっては菓子をねだるように。
なかには、きわどい格好をして菓子をねだる女の子もいて、女性に甘いニコラスはつい菓子をあげてしまったりする。

ニコラスには、じつは年下の内縁の妻がいる。
レレア・ズィンカという名前。
レレアは、もとはタバコ工場の女工で、羽振りのいい男に見初められ、結婚した。
が、1年後、17歳のときにニコラスに口説かれて駆け落ちしたのだった。
いまではこの奥さんは、結核のためやつれ果て、なかばやけになっている。

レレア・ズィンカは、毎週土曜日に大掃除をし、部屋の模様替えをする。
日曜日にはパーティーを開き乱痴気騒ぎ。
それから、ニコラスを罵倒したり、連れてきたアコーディオン弾きを怒ったり、女友だちにいやみをいったり。

それでみんな腹を立てるが、翌週にはまたやってきて同じことをくり返す。
ニコラスは、奥さんのわがままをなんでも聞いてやろうとする。

ニコラスは兵舎でも菓子を売っている。
ところが、売り子も兵隊も盗みをする。
兵舎のなかでは、上官が部下をいたぶっていて、アドリアンもそれを目の当たりにする。
ニコラスは兵舎のことを「不幸製造工場」と呼んでいる。

さて、こうして外国人であることを気兼ねして、平身低頭して暮らしているニコラスだが、夜から早朝、お菓子づくりをしているときは本来の姿にもどる。

《キール・ニコラスが頭上で透明になった生地をくるくると旋回させている様を、アドリアンが目の当たりにするこの時こそ、恐るべき敵の猛攻と闘っている英雄の姿を彷彿とさせるのだ。》

この作品には、読書にまつわるエピソードがおさめられている。
アドリアンは本好きだが、ニコラスはそうではない。
「本のなかには美しいことや、真実が書かれているよ」とアドリアンがいっても、ニコラスはとりあわない。

ニコラスは、アテネで哲学の大物教授になったという、自分の伯父の話をアドリアンに聞かせる。
この伯父は、自分だけいい暮らしをして、ほかの連中を見下していた。
兄弟や親戚にろくに援助もしなかった。
本というものは、それを書く連中を立派にはしていない。

ニコラスの話を聞き、アドリアンは動揺する。
人間を愛さずに、どうして人間のためになる本なんか書けるんだろうかと、アドリアンは考える。
ちょうどそのとき読んでいたのが、ドストエフスキーの「罪と罰」。
ドストエフスキーも、ニコラスの哲学教授のように無情な心のもち主なのだろうか。

それを確かめようと、アドリアンは中学校に通っている友人に声をかける。
そして、馬鹿にされながらも、ドストエフスキーの自伝的作品「死の家の記録」を図書室から借りてきてもらう。
一心不乱に本を読んだアドリアンは、ドストエフスキーに対し申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
そして、ニコラスの家に駆けこみ、その内容を読んで聞かせる。
ニコラスは、自分の信念は曲げない。
でも、アドリアンの話を最後まで黙って聞いてくれた――。

菓子屋のキール・ニコラスを主人公とした、スケッチ風の作品。
アルバニア人のためさげすまれ、あなどられながらも、キール・ニコラスは誠実にはたらく。

作者のイストラティも、父親がギリシア人、母親がルーマニア人であり、しかも私生児だった。
本書の作品はすべて父親を乞うような話だけれど、それは作者の境遇から説明できるかもしれない。

また、「コディン」と「キール・ニコラス」を読んで印象に残るのは、アドリアンの母親の立派さ。
日雇いの洗濯婦であるこのお母さんは、コモロフカに流れ着いても、ニワトリを育て、鉢植えの手入れを怠らない。
アドリアンには、こざっぱりした身なりをするように気をくばる。

コディンがはじめてアドリアンを認めたのは、お使いを頼んだとき、アドリアンが駄賃をほしがらなかったから。
また、キール・ニコラスがアドリアンを認めたのは、お菓子を買ったあと、アドリアンがほの子たちとちがって泥坊猫(フリボン)みたいに目をそらさず、自分を真っ直ぐみたからだ。
いずれも、母親の薫陶のたまものだ。

全体をおおう貧しさも、特徴のひとつ。
貧しさは痛ましいけれど、ものごとをシンプルにし、作品に力強さをあたえる場合がある。
本書もそんな作品といえるだろう。

最後にもうひとつ。
この小説は、少年が世間で出会った人物についてえがいたものだ。
この、「少年が世間で出会った人物についてえがく」という形式は、それだけで作品の面白さをいくぶんか保証してくれるものだろう。
この形式で書かれた、いろんな国の小説を読んだら、きっと楽しいにちがいないと思う。


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