「ものぐさドラゴン」「あわれなエディの大災難」

「ものぐさドラゴン」(ケネス・グレーアム/作 亀山竜樹/訳 西川おさむ/絵 金の星社 1979)

これは児童書。
読みはじめてしばらくすると、
――この本は読んだことがあるかも
と思いはじめた。

めずらしく、前に読んだ本も思いだせた。
――ケネス・グレアムが書いた、「のんきなりゅう」だ。

気のいいドラゴンが、セント・ジョージとひと芝居打ち、対決したふりをする――というストーリーは両者共通。
つまり、「ものぐさドラゴン」は、「のんきなりゅう」の別訳にちがいない。

そこで、「ものぐさドラゴン」を読み終えたあと、「のんきなりゅう」とくらべてみた。

まず、「ものぐさドラゴン」は、枠物語であるところがちがっている。
「ものぐさ――」は、〈ぼく〉と妹のシャーロットが、雪の上に奇妙な足跡をみつける場面からはじまる。
この足跡はドラゴンのものじゃないかなどと、2人は空想をはたらかせながら足跡を追う。
そのうち、〈ぼく〉の知りあいであるサーカスの団長さんと出会い、団長さんの家に呼ばれ、ごちそうされ、帰りには送ってもらう。
その帰り道に団長さんが話してくれたお話が、本筋であるドラゴンとセント・ジョージの話だ。

「のんきなりゅう」では、この枠の部分がすっかりとり払われている。
本筋だけになっていて、サーカスの団長さんなどでてこない。

「のんきなりゅう」の訳者あとがきによれば、本書は、さし絵を描いたインガ・ムーアが、出版社と相談しながら、ケネス・グレアムの文章を短く書きかえたのだとのこと。
物語の枠も、このときとり払われたのだろう。

「ものぐさ――」の亀山龍樹さんの訳は、ずいぶんこなれている。
それにくらべると、「のんきな――」の、中川千尋さんの訳は端正だ。
ならべて引用してみよう。
引用は、村にドラゴンがいることに驚いた村人たちが、話しあいをし、対策を考える場面から。

亀山訳
《それでも、うっちゃておけないということに、みんなの意見がまとまりました。おそろしいけだものは、根だやしにせねばならぬ。やっかいな、おそろしい、わざわいのたねの、ぶちこわしやろうから、村をすくわなければならないというわけです。》

中川訳
《人びとは、こうふんしたようすで、このままほうっておくわけにはいかない、と口をそろえていいました。おそろしい怪物から、村をすくわなければなりません。》

というわけで、このあと村にセント・ジョージが呼ばれることに。

ドラゴンの性格も、ちがっている。
「ものぐさ」と「のんき」のちがいといったらいいか。
「ものぐさ」のほうが、勝手気ままで野放図だ。

それから、さし絵が大いにちがっている。
インガ・ムーアのさし絵は、細部までていねいにえがかれたもの。
このさし絵では、文章だけざっくばらんにするわけにはいかないだろう。

「ものぐさ――」のイラストは、西川おさむさん。
ユーモラスな、さっぱりしたイラストだ。

「ものぐさドラゴン」には、「おひとよしのりゅう」というタイトルの、石井桃子訳もあるらしい。
こちらもなんだか気になってきた。


「あわれなエディの大災難」(フィリップ・アーダー/作 デイヴィッド・ロバーツ/絵 こだまともこ/訳 あすなろ書房 2003)
これも児童書。
たいそうバカバカしい。

舞台は、19世紀のイギリス。
主人公、エディ・ディケンズは11歳。
両親がおそろしい伝染病にかかってしまったため、イッテル・ジャック大おじさんのオソロシ屋敷にやられることに。
迎えにきた大おじさんの馬車に乗り、エディは一路、オソロシ屋敷へ。
途中、宿屋に泊まったり、旅芝居の一座に出会ったり、実家が火事で燃えたり、孤児院に入れられたりする。

エディ以外の登場人物は、みな奇妙キテレツな人物ばかり。
ジャック大おじさんは、自分の屋敷から15キロ以上はなれたところにでかけるときは、必ず家族の肖像画をもっていくことにしている。
大おじさんの奥さん、イッテル・モード大おばさんは、剥製のオコジョを手放さない。

エディのお母さんは、しばしばエディの名前をまちがえる。
お母さんとお父さんは、医者のマフィン博士のいいつけにしたがい、1日に3回しかベッドからはなれないでいる。
この日はもう2回はなれてしまい、3回目はサッカレーさんの屋敷でおこなわれる腕相撲チャンピオン大会に参加する予定なので、ベッドからでてエディを見送ることができない。

ほかに、階段下の物置で暮らす、不合格小間使いツブヤキ・ジェーンとか、悪漢役を演じるために強盗をする旅一座の親方とか。

これらの登場人物が引き起こす物語が、冗談めいた語り口で語られる。
本書でいちばんの特徴は、この語り口。
すぐに混ぜっ返すため、話がなかなか進まない。
おかげで、ずいぶんいらいらさせられる。
この本を読み通すには、この語り口に慣れることが必要だ。

語り口の例として、エディがはじめてイッテル・ジャック大おじさんと出会う場面を引用しよう。
ジャック大おじさんは、なぜか洋服ダンスのなかから登場する。

《母さんが、ベッドの向こうにある大きな洋服ダンスを指さした。息子が洋服ダンスとはどんなものか、忘れているといけないからね。
 エディは洋服ダンスの戸をおっかなびっくりであけた(おっきなビッグな洋服ダンスだったんだとさ)。
 母さんのドレスの間に、とてつもなく背が高く、とてつもなくやせた男の人がいた。その鼻先ときたら、オウムのくちばしも「はい、負けました」というくらいとがっている。
「こんにちは」
 その人は「んちはあ」でも、「ちはっ」でも、「おこんち」でもなく、正しい発音であいさつした。それから、エディに片手をさしだす。
 エディも片手をさしだして、握手した。小さな紳士になるための教育も、まんざらむだではなかったってわけだね。》

――といった具合。
訳者の、こだまともこさんは大変がんばっていると思う。

この語り口と、あまりにもバカバカしいストーリーに、すぐに読むのをやめたくなるけれど、でも、がまんして半分くらい読むと面白くなってくる。
というのは、その場の思いつきのような出来事がそれなりに伏線になり、二度と会うことはあるまいと思っていた登場人物が、再登場したりしてくるからだ。
やはり物語は、くり返しが大切。
とくに、ナンセンスな作品は。

訳者あとがきによれば、本書は3部作の1作目だそう。

《本書は二十ヵ国以上で出版され、ディケンズと「モンティ・パイソン」(奇妙キテレツな、イギリスのコメディ番組)をたして二で割った作品と評判になりました。》

とあり、イギリスやアメリカでは大変人気があったという。
でも、日本語に訳されたのはこの第1作目だけのようだ。
これはまあ、仕方がないことだろう。



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「危険がいっぱい」「永久戦争」

「危険がいっぱい」(デイ・キーン/著 松本依子/訳 早川書房 2005)

原題は、”Joy House”
原書の刊行は1954年。

〈わたし〉の1人称。
妻を殺してしまった弁護士の〈わたし〉、マークは逃亡の果てにある救済院へ。
そこでボランティアをしていた、金持ちの未亡人メイと出会う。
メイに拾われ、マークはお抱え運転手としてメイの屋敷で暮らすことに。
2人はすぐに恋仲になり、結婚することになるのだが――。

妻を殺してしまったマークは、警察だけでなく、大物ギャングである妻の兄からの追手にもおびえている。
マークはこの義兄の仕事をしており、そのことを妻に知られ、口論となったすえに殺してしまったのだ。

もちろん、マークはメイと添い遂げるつもりはない。
メイには素性も隠している。
うまく結婚し、別人として国外に逃げたいだけだ。

一方、メイにも過去がある。
卒業後、結婚して裕福な暮らしをしていたメイは、ギャングのリンク・モーガンとつきあうように。
仲間とともに現金輸送車を襲ったモーガンは、メイに一緒に逃亡をもちかけるが、メイは拒否。
そのやりとりのさなか、メイの夫であるヒルがあらわれ、モーガンはヒルを射殺して逃走した。
以後、メイは世間から身を引き、窓に板を打ちつけた屋敷でひっそりと暮らすことに。
「もう一度人生をやり直しましょう」
などとメイはマークいうのだが、それが額面通り受けとれないのは明らかだ。

というわけで、本書は、非常にサスペンスに富んでいる。
雰囲気は、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」や、映画「サンセット大通り」のよう。
文章は、センテンスが短く、軽快。
そしてむやみに煽情的。
いかにも50年代の犯罪小説といった趣きで、大いに愉しめた。

ところで。
巻末に収録された、ミステリ評論家吉野仁さんの解説によれば、「危険がいっぱい」という邦題には、アラン・ドロン主演、ルネ・クレマン監督による映画、「太陽がいっぱい」がかかわっているという。

「太陽がいっぱい」の原作は、パトリシア・ハイスミス。
その後、1964年に、やはりアラン・ドロン主演、ルネ・クレマン監督によるサスペンス映画が公開された。
その作品は続編ではないのだが、「太陽がいっぱい」にあやかり、日本においては、「危険がいっぱい」というタイトルがつけられた。

この映画の原作こそ、本書、「危険がいっぱい」。
つまり、この作品は〈いっぱいシリーズ〉の第2弾だったのだ(シリーズじゃないけど)。
ちなみに、アメリカ公開におけるタイトルは、原作どおり”Joy House”だったそう。


「永久戦争」(P・K・ディック/著 浅倉久志/訳 新潮社 1993)
短篇集。
収録作は以下。

「地球防衛軍」
「傍観者」
「歴戦の勇士」
「奉仕するもの」
「ジョンの世界」
「変数人間」

新潮文庫では以前に、「悪夢機械」(1987)と「模造記憶」(1989)が、同じく浅倉久志さんの編訳で刊行されている。
よって本書はディック作品集の3作目。
タイトル通り、戦争をテーマにした作品を収録したものだ。

「地球防衛軍」
人間が地下で暮らし、地上ではロボットが人間の代わりに戦争をしている世界。
たたかっているのは、アメリカとソ連。
一計を案じたロボットの策にはまり、人間たちはともに平和を目指すことに。
ロボットが、自発的に人間の後始末をしているのが皮肉だ。

「傍観者」
2つのイデオロギーのあらそいをえがいた一篇。
体臭を消し、歯を漂白し、抜け毛を復元する清潔党員と、それをしないことを誇りとする自然党員。
両者のあらそいは、家庭のなかまで入ってくる。
主人公ウォルシュの息子は清潔党員で、義弟は自然党員。
ウォルシュ自身は、どちらも好きにすればいいと思っているが、そうはいかない。
どちらかの側につかなくてはいけない。

「歴戦の勇士」
巻末の解説で、浅倉さんが手際よくこの作品を紹介しているので引用しよう。

《地球と、その植民地として長年搾取されつづけてきた金星・火星連合との関係が悪化し、一触即発の空気をはらんでいるとき、突如としてその戦争の生き残りと称する老兵士が未来から出現した……。秀抜な着想をみごとに生かしきったスリリングな力作》

「奉仕するもの」
「地球防衛軍」と同じく、人間は地下シェルターに暮らしている世界。
アップルクィストは地上で、壊れてはいるもののまだうごくロボットをみつける。
ロボットが自己を修復するのに必要な材料を調達するかわりに、アップルクィストは知ることが禁止されている戦前についての話を聞く。
ロボットを労働力とすることを推進するレジャー主義者と、ロボットを認めない復古主義者に別れて人間たちが戦争をした結果がこの世界だと、ロボットはいうのだが――。
「地球防衛軍」を逆さにしたような作品。

「ジョンの世界」
人間対人間、次いで人間対クローと呼ばれるロボットとの戦争があり、地球は荒廃。
いまでは、人類は月面基地で暮らしている。
そこで、航時船をつかい、歴史を改変し、戦争を未然に防ごうとする計画が実行に。
人工頭脳にかんする論文をもち帰り、戦争以外の用途につかうのだ。
その航時船の乗組員、ライアンの息子のジョンは、発作を起こしては不思議な光景をみていて――。

なぜジョン少年は改変後の世界をみることができたのか。
「彼は一種の平行時間感覚を具えていたにちがいない。ほかの可能な未来に関する意識だ」
という説明がなにやら面白い。

「変数人間」
過去からやってきた男にまわりが翻弄されるという、「歴戦の勇士」をさかさにした話。
いや、こちらのほうが「歴戦の勇士」よりも書かれたのは早かったそう。
再び、解説による紹介文を引用するとこう。

《太陽系外への人類の進出を阻むケンタウルス帝国に対して、地球がまさに戦争をふっかけようとしているとき、過去の時代から突如ひとりの男が出現して、てんやわんやの大騒ぎ》

戦争の予測はコンピュータがするのだが、過去から男があらわれたために、コンピュータは予測できなくなってしまう。
これが、変数人間というネーミングの由来。
この男はどうやって過去からあらわれたのか。
歴史調査部がタイムバブルを過去から回収するさい、回路を早く切りすぎ、その結果バブルは男を連れてきてしまった――というのがその理由だ。

不思議なことにディックは古くならない。
道具立てはさすがに古びているけれど、読めなくなることはない。
これは一体なんだろう。
いまある現実の裏に、もうひとつ別の現実があるという作風のためだろうか。
また、むやみに切実感があるためだろうか。
「傍観者」の設定なんて笑ってしまうけれど、可笑しいのは設定だけで、起こることは痛ましい。
サスペンス性に富んでいることが、作品の寿命を延ばす秘密だろうか。


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「アウラ・純な魂」「宇宙探偵マグナス・リドルフ」「薪小屋の秘密」

また、最近読んだ本をいくつか。

「アウラ・純な魂」(フエンテス/著 木村栄一/訳 岩波書店 1995)
メキシコの作家フエンテスの短篇集。
収録作は以下。

「チャック・モール」
「生命線」
「最後の恋」
「女王人形」
「純な魂」
「アウラ」

怪談というか、ゴシック小説というか、そんな趣きの作品が多い。
フエンテスは、たとえばチェスタトンのように、すぐ考えが怖いほうにいってしまうひとのようにみえる。
この作品集だけしか知らないのでなんともいえないけれど。

本書中、もっとも完成度の高いのは「アウラ」だろう。
この出来映えは素晴らしい。
しかも2人称小説だ。
2人称小説部門というカテゴリーがあったら、「アウラ」はかなり上位にいくのではないかと思う。
2人称小説の長編部門には、都築道夫さんの「やぶにらみの時計」(中央公論社 1979)を推しておこう。

「宇宙探偵マグナス・リドルフ」(ジャック・ヴァンス/著 浅倉久志/訳 酒井昭伸/訳 国書刊行会 2016)
去年、ジャック・ヴァンスの「竜を駆る種族」(浅倉久志/訳 早川書房 2006)を読み、その面白さに大いに驚いた。
で、たまたま新刊で本書が刊行されていたので、買って読んでみた次第。
内容は、シリーズ・キャラクターであるマグナス・リドルフが、宇宙をまたにかけて活躍するというSF連作短編集。
10編の作品が収録されている。

マグナス・リドルフは温厚な老紳士。
読んでいても探偵という気がしない。
訳者あとがきでは、トラブルシュータ―と呼んでいるけれど、これも違和感がある。
マグナス・リドルフはいつも投資の回収に心を痛めているから、《宇宙投資家》ではどうだろう?
《宇宙債権回収家》では、債権回収の専門家みたいだからいいすぎか。
《宇宙コンサルタント》くらいがいいかもしれない。

このマグナス・リドルフが、いろんな宇宙人がいるいろんな星にいき、不良品に悩む缶詰工場や異生物に囲まれた保養地の再建といった、いろんな問題を解決する。
が、残念なことに、本書はそれほど面白いとは思えなかった。
訳者あとがきを読むと、すごく面白そうなのに。
どうして、面白いと思えなかったのか。
そのうちゆっくり考えよう。

本書は、全3巻を予定している「ジャック・ヴァンス・トレジャリー」シリーズの1巻目。
2巻目の、「天界の眼 切れ者キューゲルの冒険」(ジャック・ヴァンス/著 中村融/訳 2016)もすでに出版されている。
読もうか読むまいか悩んでいるところ。

「薪小屋の秘密」(アントニイ・ギルバート/著 高田朔/訳 国書刊行会 1997)
世界探偵小説全集20巻。
原書の刊行は1942年。

この本は、前に読みはじめたものの、あんまりサスペンスに富んでいるので驚いて、途中で読むのをやめたものだ。
でも、途中で読むのをやめた本というのは続きが気になる。
そこで今回、意を決して読んでみることに。

ジャンルでいうと青ひげものというのか。
オールド・ミスが結婚詐欺師にだまされる話だ。
このオールド・ミスが自らだまされていく過程が、説得力があり、読んでいてハラハラする。

作者は男性名だが、じつは女性だそう。
たしかに、だまされるオールド・ミスの皮肉めいた描きぶりや、嫉妬に身を焦がす仲間のオールド・ミスの描写など、いかにも女性作家の作品らしい。
そして中盤になり、殺人事件が起こる。
サスペンスから、ミステリらしくなる。

解説で小林晋さんが、殺人の記述について、フェアかアンフェアか考察しているけれど、これはアンフェアだろうと思う。
具体的に書かなきゃいいというものではないだろう。
しかし、べつにアンフェアでも、本書の面白さは損なわれない。

それよりも、ラストのとってつけたような解決のほうが気になった。
ただ探偵が事件を解決するだけの最終章は不要だろう。
読みやめるなら、最終章の前でやめるのがベストだった。

ところで。
死体をさがすために警官が庭を掘り起こす場面があるのだけれど、死体は一向にみつからない。
そのとき、警官のひとりがこんなことをいう。

「死体を見つける前に、ヒットラーがロンドンを占領しちまうよ」

この本の原書が刊行されたのは1942年。
この時期に、こういう本を出版し、こういうセリフが書けたのか。
そのことに感心してしまった。


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「伝記物語」「こわれがめ」「紫苑物語」「昔には帰れない」

最近忙しくて、ヒギンズ作品の要約がつくれない。
要約をつくるのは、あれでなかなか時間がかかるのだ。
ヒギンズ作品のメモとりも、もう後半にさしかかってきていて、あとはショーン・ディロンものがほとんどだから早く終わらせたいのだけれど。

というわけで、今回は最近読んだ本のメモでお茶をにごしたい。
まず「伝記物語」(ホーソン/著 守屋陽一/訳 角川書店 1959)
100ページもない本。
忙しいときにちょうどいい。
ちなみに奥付をみると、この本の定価は50円だ。
古本屋で100円で買ってしまった。

内容は、ホーソーンの児童向けの作品。
目の病気にかかった男の子のために、お父さんが世界の偉人の話をしてくれるというもの。
男の子のお兄さんと妹も、それからお母さんも、みんな一緒にお話を聞く。
お父さんが話をしてくれる偉人は次のようなひとたち。

画家のベンジャミン・ウェスト。
ニュートン。
サミュエル・ジョンスン。
オリヴァ・クロムウェル。
ベンジャミン・フランクリン。
クリスティナ女王。

文章はですます調。
子どもたちは親に敬語をつかう。
ちょっと教訓めいたお話が、なんとなくなつかしい。
森銑三の、「おらんだ正月」(岩波文庫 2003)を読んでいるようだ。
サミュエル・ジョンスンだけが前後篇で、力がこもっている。
最後、男の子の目がよくなったりするのかなと思ったが、そんな甘いことは起こらなかった。

「こわれがめ」(クライスト/作 手塚富雄/訳 岩波書店 1977)
これはドイツの名高い戯曲。
ときどき戯曲が読みたくなる。

《喜劇に乏しかったドイツでは、レッシングの「ミンナ・フォン・バルンヘルム」、フライタークの「新聞記者」と並べて三大喜劇といわれてきた…》

と、解説の岩淵達治が書いているように、この作品は喜劇。
なお、この文章は、《傑出した喜劇的個性を持つという意味では、ハウプトマンの「ビーバーの外套」が最もこの喜劇に近いと思う》と続く。

この喜劇は、法廷劇のかたちをとっている。
深夜、娘の部屋に忍びこんで、かめを割ったのはだれか?
ということが、法廷で徐々に明かされていく。

これはすぐわかることだから書いてもいいと思うが、このかめを割った犯人は、じつは裁判官をしている村長のアーダム。
自分が犯人の訴訟を、自分が裁き、しかし話をそらそうとしてもしだいに追いつめられていくという過程が喜劇を生む。
読んだあと、娘がさっさと真相を話していたら、話はすぐすんだのにと思わずにはいられない。
それにしても、アーダムはろくでもないやつだ。

解説にはクライストの生涯が書かれていて、これが作品よりも面白い。
時代に小突きまわされたあげく、矢尽き刀折れて身をほろぼす。
クライストには短編もある。
これも、そのうち読んでみたい。

「紫苑物語」(石川淳/著 講談社 1989)
講談社文芸文庫で読んだ。
「紫苑物語」「八幡縁起」「修羅」の3篇が収録されている。
「紫苑物語」は、古代を舞台にした殺伐としたファンタジーというか、幻想小説というか、そんな作品。
特筆すべきは、その文章。
内容よりも、その文章の力でのみ、作品が成り立っているようにみえる。
速度があり、柔軟で、よくしなる、芝居っ気たっぷりのその文章は、たとえばこんな感じ。

《その夜、館は宴たけなわのおりに、突然ふり落ちた光もののために風雨もろともに炎となって、一瞬に燃えあがり燃えつくし、そこにいたかぎりのものは人馬ことごとく焼けほろびた。》

ふり落ちる、燃えあがる、燃えつくす、焼けほろびるといった、動詞に動詞をかさねた書きかたが速度感を生んでいるようだ。
こんな文章で書かれた作品は、なににも頼らず、宙に浮いた球体のようにみえる。

「八幡演技」は、木地師の神が、世が移り変わるにつれ、武士の神となる、そのいきさつを書いたもの。
「修羅」は、応仁の乱ころを舞台にした歴史小説。
登場人物たちは、一条兼良の蔵に押し入ろうとする。
この作品を読んでいたら、神西清の「雪の宿り」を思いだした。

「昔には帰れない」(R・A・ラファティ/著 伊藤典夫/訳 浅倉久志/訳 早川書房 2012)
ときどき、ナンセンスな作品も読みたくなる。
そんなとき、ラファティの作品に接するのはたいへん楽しい。

本書は短編集。
第一部と第二部に別れている。
そのちがいは、伊藤典夫さんの解説によればこう。

《第一部はすべてぼくが気に入って訳した作品で、ラファティとしてはシンプルな小品を集めた。ただし、”シンプル”というのは、ぼくの個人的な見解であって、ほかの方々がこれらを読んでどんな印象をもたれるかはわからない。第二部はちょっとこじれてるかなあと思う作品と、浅倉さんの長めの翻訳でかためた。》

たしかに、第一部の作品のほうがわかりやすい。
また、伊藤さんと浅倉さんの、嗜好のちがいも興味深い。

《ぼく(伊藤さん)には、ディックの良さがさっぱりわからなかった。》

本書のなかで気に入ったのは、まず冒頭の「素顔のユリーマ」。
あんまりぐずで頭が悪いので、なんでも発明するほかない少年の話。

《アルバートは計算のほうもからきし駄目だった。自分のかわりに計算する機械をまたひとつ作るほかなかった》

という、なんともひとを食った愉快な作品。
その次の、「月の裏側」はミステリ雑誌に載るような小品。
ラファティはこんな作品も書いたのかとびっくり。

その次の…と書いていったらきりがない。
第二部では、「大河の千の岸辺」と、「1873年のテレビドラマ」が、どちらも視覚的な作品で面白かった。
いやもちろん、ほかの作品も面白い。
どの作品も、ラファティの奇想にただついていくほかない。
なんだかよくわからない作品を、ただただ読んでいくのは、それだけで楽しいことだと思うのだが、どうだろうか。


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「迷宮の将軍」「ラッフルズ・ホームズの冒険」「キマイラ」

「迷宮の将軍」(G・ガルシア=マルケス/著 木村栄一/訳 新潮社 1991)

4月にガルシア=マルケスが亡くなった。
なにか読まなくては。
そう思い、部屋をさがすと、まだ読んでいなかったこの本がみつかった。

本書は歴史小説。
シモン・ボリバルの最期の日々をあつかっている。
あつかうのは最期の日々ばかりではない。
記述はしばしば過去にさかのぼり、現在にいたる事情や経緯の説明をする。
その現在と過去をつなぐ、つなぎ目はとてもなめらか。

シモン・ボリバルは、名前くらいは知っているけれど、なじみがない。
スペイン統治下にあった南米を解放したとは、知らないではないけれど、具体的になにをしたのか。
それを知るのに、この小説は役に立つのかというと、まるで立たない。
読んで印象に残るのは、孤独な将軍の姿だけだ。

本書には、歴史的事実についての詳しい解説がついている。
それが、理解を助けてくれる。
解説によれば、解放後の南米は、将軍の意向とは裏腹に統一国家とはならず、各国に分裂してしまったとのこと。
18世紀が舞台だけれど、まるで三国時代の中国の話を読んでいるようだ。

将軍の姿はガルシア=マルケスの筆により、みごとに典型化させられている。
その将軍の最後のことばは、じつに痛ましいものだ。


「ラッフルズ・ホームズの冒険」(J・K・バングズ/著 平山雄一/訳 論創社 2013)

これはバカバカしい作品。
よくまあ翻訳出版したものだと、出版社の英断に感動する。
編集者は、今井佑、黒田明。

作者のJ・K・バンクスはアメリカのひと。
雑誌編集者として活躍するかたわら、ユーモア小説などの執筆をしたひとだとのこと。

内容は、短編連作が2つ。
ひとつは、「ラッフルズ・ホームズの冒険」
ラッフルズ・ホームズは、父はシャーロック・ホームズ、祖父は怪盗ラッフルズという血筋の人物。
作家の〈私〉、ジェンキンズがワトソン役となり、このラッフルズ・ホームズの冒険譚を記した――というのが本作品の体裁。

その冒険譚はなかなか珍妙。
ラッフルズ・ホームズのからだのなかでは、父の血と祖父の血がしばしばあらそう。
盗難された、さる高価なペンダントの捜索を引き受けたホームズは、みごとにペンダントをとり返す。
が、そのままペンダントを隠匿し、高跳びしてしまおうという誘惑にかられる。
そこでホームズは、「今晩は僕と一緒にいてくれ」と、ジェンキンズに頼む――。
とんだジキルとハイドだ。

ちなみに、本作品の冒頭にはこんな献辞が。

「サー・アーサー・コナン・ドイルとE・W・ホーナング氏に――ごめん」

もうひとつの連作は、「シャイロック・ホームズの冒険」
もちろん、ホームズもののパロディだ。

死んだホームズは天国で暮らしはじめ、そこでも探偵業を続けている。
そして、スチーム暖房機を通して、モールス信号で自身の冒険譚を〈私〉に送ってくる。
それを記したのが本書。

「ブラス・クーバスの死後の回想」を読んでいたとき、死んだ人間がどうやって原稿を書くのかと思ったけれど、――そして、この疑問は解決されないのだけれど――その点、「シャイロック・ホームズ」はみごとに解決していると思った。

あの世にいる探偵は、ホームズだけではない。
ルコックがすでにいて、ホームズのライバルとなる。

両作品とも、一話一話は短く、軽く、バカバカしい。
バカバカしい小説にたえられるひとには、お薦めの一冊だ。


「キマイラ」(ジョン・バース/著 国重純二/訳 新潮社 1980)

神話や物語をもとにした中編が3つ収録されている。

「ドニヤーザード姫物語」
「ペルセウス物語」
「ペレロフォン物語」

「ドニヤーザード姫物語」は、千夜一夜物語に材をとった一編。
ドニヤーザード姫とは、千一夜物語を語り続ける、名高いシェヘラザードの妹のこと。
本作品は3章から成っていて、第1章は〈わたくし〉という、この妹の1人称により語られる。

ちなみに、ドニヤーザードはシェヘラザードのことを「シェリー姉さま」と呼ぶ。
シェヘラザードは妹のことを「ドニー」と呼ぶ。

さて、〈わたくし〉の姉、シェヘラザードは、バヌ・サーサーン大学で人文科学を専攻する学生だった。
大学はじまって以来の秀才で、美人コンテストでも優勝した才媛だったが、処女を皆殺しにして国を滅亡にみちびくシャハリヤール王の蛮行を思いとどまらせようと決意し、大学を中退。
政治学や心理学をかじってみるが、妙案は浮かばない。
そこで、神話と民話の研究へ。

こうして思い悩んでいたある日、シェリーとドニーの前に魔神があらわれる。
魔神は、現代アメリカの大学教授で小説家。
つまり、作者の分身。
なぜ、魔神があらわれたかというと、時と場所をへだてた空間で、たまたま2人が同時に魔法のことばを口にしたから。
魔神はシェリーに協力を申し出て、そしてシェリーは王のもとへ――。

魔神はどんな協力をするのか。
もちろん、シェリーに毎夜語る物語を供給するのだ。

第1章は、ぶじ〈わたくし〉とシェリーが千一夜を生きのびるまで。
第2章は、3人称。
第1章でドニーが物語っていた相手は、じつは読者だけではなかった。
ドニーは、シャハリヤール王の弟でありドニーの新郎、シャー・ザマーンに向かって語っていたのだ。
さらに、シェリーとドニーは千一夜が過ぎ去り、王たちと婚礼を終えたあと、ある復讐を考えていた。
ドニーは復讐を実行し、危機におちいったシャー・ザマーンは、こんどはドニーにむかって語りはじめる――。

とまあ、非常に凝ったつくりの作品。
第3章もあるけれど、これはエピローグだ。

千夜一夜物語をメタフィクション仕立てであつかい、たいそう批評的でありながら色っぽい。
シェリーと魔神は、性愛と物語の類似をさまざまに語る。
この色っぽいところが、この作品の美点。

残り2作も、凝りに凝っている。
でも、あんまり凝りすぎていて、なにがなんだかわからない。
解説がていねいに読み解いてくれているので、それを読めば意図がつかめはするけれど、読んでいてあんまり面白くない。

しかし、「ドニヤーザード姫物語」は素晴らしく面白かった。
これだけあれば充分だ。



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三国末史物語、ブラックサッド、ヘルボーイ

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
ことしの目標は月2回は更新すること。
そんなことできるのか。

お正月に読んでいたのは、「三国末史物語」(内田重久 中央公論事業出版 1979)。
ネットで調べてみると、「それからの三国志」(新風舎 2007)というタイトルで出版されたこともあるよう。

内容は、タイトルから察せられる通り。
孔明が死して撤退する蜀の軍勢から物語ははじまり、晋による中国統一で終わる。

三国志をはじめて読んだのは中学生のころ。
吉川英治の「三国志」を夢中になって読んだ。
そして、同好の友人たちと盛り上がった。
さらに、友人から横山光輝の漫画「三国志」を借り読みふけった。
でも、、孔明が亡くなる五丈原以降の物語はほとんど記憶にない。
そのあたり、吉川「三国志」も、横山「三国志」も、ほとんど書いていなかったのではないかと思う。

本書はそこに焦点を当てている。
こういうと、そんなところに焦点を当てて面白いのかと、だれしも思うことだろう。
これが無類に面白いのだ。
正月は別の本を読むつもりでいたのだけれど、けっきょくこの本だけを読みふけることになってしまった。

一体なにがそんなに面白いのか。
まず、英雄たちの子孫がでてくる。
孔明の子どもや、関羽の孫が、ほとんど活躍はしないけれど登場する。
三国志に親しんだ身にとっては、これが楽しい。

さらに、三国志で最も読ませる、いくさの駆け引きが面白い。
司馬一族と曹一族の暗闘も面白い。
また、ひとの運命がすこぶる面白い。

運命の例として、夏候覇を挙げよう。
司馬仲達のクーデターにより、自身の命を危ぶんだ夏候覇は、魏に反旗をひるがえす。
しかし、武運つたなく蜀に亡命する。
その後、夏候覇は蜀随一の武将姜維の参謀役となって活躍する。
ちなみに、夏候覇は夏候淵の息子だ。

さらにいえば、夏候覇の従姉は張飛の妻。
2人のあいだの娘は、蜀の帝、劉禅の后となっている。

――夏候覇の従姉ということは、この従姉は夏候惇の娘なのだっけ?

などという、細かいことが気になって、「三国志人物辞典 上中下」(渡辺精一/著 講談社 2009)もみてみた。
でも残念、「張飛の妻」などという項目はなかった。
たしか、「泣き虫弱虫諸葛孔明」(酒見賢一/著 文芸春秋)のどこかの巻には、虎ヒゲの大男にさらわれる、かわいそうな娘のエピソードがあったように思うのだけれど。

また、姜維の運命が興味深い。
姜維は、孔明の遺志を継ぎ、漢王室復興の旗をかかげて、魏に何度もいくさを仕掛けた人物。
三国志を多少知っていれば、蜀は最後魏に滅ぼされるくらいのことは知っている。
それが、劉禅の降伏によるものだということもわかっている。
でも、降伏後、姜維が策略をもって状況をくつがえそうとしていたとは知らなかった。
そして、そのことが、蜀の首都成都に大変な惨事を引き起こす。

それから、劉禅。
この国を滅ぼした愚かな君主は、敵国の魏に降り、のうのうと余生をすごす。
でもまさか、魏が滅亡を目撃するまで生きていたとは。

本書は、当時の行政組織や、社会風俗にも目をくばっている。
作者の興味がそこにあるのだろう。
それと、当時の社会がそちらに目を向けさせるということもあるかもしれない。
もはや英雄が状況を変える時代は終わった。
貴族たちは、行政と人事と阿諛追従に命をかける。

孔明が死んで30年。
もし、姜維が魏を滅ぼしても、漢王室の復興はならなかったろう。
漢末の頃と、社会はずいぶん変わってしまった。
歴史はつねにアイロニカルだ。

本書の巻末には、植村清二による文章がついている。
それによれば、著者はアマチュアの文筆家だそう。
この本は誤植が多いし、自費出版だったのかもしれない。

三国志はさんざん小説化されているけれど、五丈原以降をていねいに書いたものはまれだろう。
せっかく、アマチュアの著者がわかりやすく説いてくれたのだから、プロはこれをなぞって書けばいいのにと思った。

それから。
海外のコミックを2冊読んだ。
まず2冊目。
「ブラックサッド 赤い魂」(フアン・ディアス・カナレス/作 フアンホ・ガルニド/画 大西愛子/訳 Euromanga 2013)

「ブラッグサッド」は、これがシリーズ3冊目の出版。
前の2冊は早川書房から出版されていた。
まさか続編がでるとは。
今回の作品は、前2作よりも版が大きい。
収納に困る大きさだ。

シリーズはどれも、黒猫の探偵ブラックサッドが事件を解決するというもの。
カラーでえがかれた水彩が、大変見事。

この作品、登場人物は全て擬人化された動物でえがかれる。
そして、カトゥーンによくある、からだを伸び縮みさせる芝居をみせる。
それなのに、事件の背景は、冷戦に、赤狩りに、核開発。
非常にシリアス。
このギャップが妙だ。
でも、考えてみたら、大きな目のくせにドラマを演じる日本の漫画も、海外のひとからみたら妙にみえるのかもしれない。

「ブラックサッド」というと思い出すのは、「私のハードボイルド」(小鷹信光/著 早川書房 2006)。
「ハードボイルド」ということばのつかわれかたに拘泥する著者は、本書の「はじめに」で、「ブッラックサッド 凍える少女」(早川書房 2005)の帯に書かれた惹句に言及する。
その惹句とはこういうもの。

「フランスでベストセラーのハードボイルド・コミック」

それにたいする著者のコメントはこうだ。

「動物キャラによる風変わりな絵柄がおもしろいが、中身はいかにもフランス人好みのめりけんハードボイルドの古典調。半世紀前の雰囲気の中で昔懐かしいめりけん浪花節が展開する。「ハードボイルド」と謳えば、それだけで関心をもって買ってくれる固定読者が存在するという危うい錯覚のもとに安易につくられた惹句と言うべきだろう」

たしかにおっしゃる通りだけれど、そうむきにならなくても。
本書、「ブラックサッド 赤い魂」には、絵づくりにまつわる充実したメイキングがついている。
これは面白かった。

もう1冊は、「ヘルボーイ:疾風怒濤」(マイク・ミニョーラ/著 ダンカン・フィグレド/著 今井亮一/訳 石川裕人/訳 ヴィレッジブックス 2013)。
前作の出版から3年。
ストーリーはからきしおぼえていない。

「ヘルボーイ」の魅力はなんといっても、マイク・ミニョーラの描くフラットな絵と、リズミカルなコマ割り。
それなのに、ここ最近、ミニョーラは絵を描いてくれない。
今回もそうで、さびしいかぎりだ。
ただ、エピローグはミニョーラの画風のように思えるのだけれど、どんなものだろう。


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「虚しき楽園」「豹の呼ぶ声」「アメリカを買って」「シュロック・ホームズの迷推理」

「虚しき楽園 上下」(カール・ハイアセン/著 酒井昭伸/訳 扶桑社 1998)
東日本大震災が起きたとき、まず思いだしたのは、
――まだ、ハイアセンの「虚しき楽園」を読んでなかったなあ
ということだった。
震災にかぎらず、なにかが起きたとき、いつも読んでなかった本のことを思いだしてしまう。
これはもう、性分なのでしかたがない。

で、先日ようやく「虚しき楽園」を引っ張りだして読んでみた。
舞台は、いつものハイアセン作品と同じくフロリダ。
今世紀最大のハリケーンがやってきた、そのフロリダの被災地で(だから地震のとき思いだした)、小悪党たちが右往左往するという犯罪小説だ。

まず、すっかり破壊された見知らぬ家に入りこんで保険金をせしめようとする、女詐欺師のイーデイー・マーシュと、その乱暴な相棒スナッパー。
新婚旅行中ハリケーンに出くわし、大喜びで被災地にカメラをむける、無神経を絵に描いたような広告屋のマックス・ラム。
このマックス・ラムに嫌気がさしてしまう、新妻のボニー。
飛行機事故の保険金により、お金には苦労しないものの途方に暮れている、頭蓋骨をつかったジャグリングが趣味のオーガスティン・ヘレラ。
安全基準にばっちり合格していますなどと、あることないこと並べたててトレーラーハウスを売っていた、セールスマンのトニー・トーレス。
いいかげんかつ効率的な建築監視員であり、ハリケーン被災後は屋根直しの詐欺でひと儲けたくらむ、アーヴィラ。
それから、警官のカップル、ジムとブレンダ。
それに、マックス・ラムを誘拐する、もと州知事にしてホームレス、自然を極端に愛するハイアセン作品のシリーズ・キャラクター、スキップ。

とまあ、こんな連中がくんずほぐれつする。
大きな自然災害が起こると、人間の姿は小さくなり、そのぶん風景は大きく立ち上がる。
そういうものだと思っていたけれど、、本書では風景が立ち上がることはない。
カメラの真ん中にはつねに登場人物がいて、被災地はその背景にすぎない。
――被災地を舞台にしても、こんなにいつもか変わらないのか
と、ハイアセンの強固な手法に感じ入ったものだ。。


「豹の呼ぶ声」(マイクル・Z・リューイン/著 石田善彦/訳 早川書房 1998)
もうだいぶ前のことになるけれど、友人からこの小説面白いよと薦められたのが、アルバート・サムスン・シリーズの「A型の女」(早川書房 1991)だった。
でも、その頃ミステリといえば、ディスクン・カーとハメットしか読んでいなかった。
なので、面白いのかあと思ったものの、読むまでにはいたらなかった。

で、先日。
古本屋にいったら、「豹の呼ぶ声」が50円で売られていた。
アルバート・サムスン・シリーズの7作目。
読んでみたら、素晴らしく面白い。
主人公のアルバート・サムスンは、1人称で書かれた探偵のくせに、ぜんぜんタフではない。
怖い目にあうと、震えたり、もどしたりする。
扱う事件も妙。
妻がいるふりをしていた詩人が、妻を殺してほしいといってきたり。
動物の仮面をつけた連中が、仕掛けた爆弾をさがしてほしいと依頼してきたり。
ぜんたいにファルス風なところが好ましい。

こんなに面白いとは思わなかった。
不明を恥じるばかりだ。
友人が面白いといっていた、「A型の女」も読んでみなくては。


「アメリカを買って」(クロード・クロッツ/著 三輪秀彦/訳 早川書房 1983)
本の後ろに記されたあらすじに、「近未来SF悪漢小説!」と書いてある。
舞台は1989年。
この本が出版されたころは、まだ未来。
世界は多国籍企業の手に落ち、各国の元首たちが手にしていた権力は、なしくずしになくなりつつある時代。

主人公の名前は、レオナール・タンツーフル。
世界中を放浪し、あらゆるカジノで莫大な財産をつかい果たし、娼館を経営し、アフリカの王様になり、絵画を盗難した人物。
このレオナールが、6P2R作戦という、暗殺計画を請け負う。
これが第一部。

第2部では、6P2R作戦を成功させ、恋人のニュー・エロイーズと悠々自適に暮らすレオナールが何者かに襲われる。
レオナールとニュー・エロイーズは世界中のあちこちに逃亡。
カジノで遊び、わざと敵にみつけさせ、返り討ちにしていくレオナールの活躍がえがかれる。

つまり、本書はルパンものの大掛かりな亜流。
他愛のないところが大変楽しい。
じき、読んだことすら忘れてしまうだろう。
ところで、逃亡生活中のレオナールと、ニュー・エロイーズは日本にもやってくる。
1989年の日本ではペタンクが流行っているというのが驚きだ。


「シュロック・ホームズの迷推理」(ロバート・L.フィッシュ/著 深町真理子/ほか訳 光文社 2000)

ロバート・L.フィッシュの短編集。
シュロック・ホームズものが11編と、それ以外の短篇が5編収録されている。
シュロック・ホームズは、タイトル通りホームズのパロディ。
火のないところに火をみつけ、別なところに火をおこす、見事な迷探偵ぶりをみせるシュロック・ホームズの活躍がとても楽しい。
いつも伏線が2重になっているところは感心してしまう。

シュロック・ホームズものは、早川文庫からでていたものは全部読んだ(と思う)。
今回は再読だったのだけれど、ひとつ面白いことに気がついた。
「シュロック・ホームズの復活」と「奇人ロッタリーズ氏」にでてくる、エプスワース卿というのは、ウッドハウスのエムズワース卿からのイタダキだろう。
エプスワース卿はブローティングズ城に住んでいて、300ポンド以上もあるブローティングズ公爵夫人と呼ばれるブタを飼っているという。
まず間違いない。
そして、この行方不明になったブタを、シュロック・ホームズはもちまえの創造的な推理力によって、解決したりしなかったりする。

シュロック・ホームズもの以外の5編も、それぞれ面白かった。
とくに短いものが、テンポがよくていい。
――ロバート・L.フィッシュは短篇のほうが面白いのではないか。
と、何度か「亡命者」に挑戦しては挫折した身としては思った次第だ。


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ナボコフの文学講義、ナンジャモンジャの木、小説家のマルタン

去年の秋から冬にかけて、ディケンズの「荒涼館」を読んだ。
面白かったのだけれど、なにしろ大長編だから、いまひとつ全体が見渡せない。
なにかいい解説書を読みたいと思っていたところ、ことしに入って「ナボコフの文学講義」が文庫で出版された。
素晴らしいタイミングだ。

「ナボコフの文学講義 上下」(V・ナボコフ/著 野島秀勝/訳 河出書房新社 2013)

上巻
・編者フレッドソン・バワーズによる前書き
・ジョン・アプダイクによる序文

・良き読者と良き作家
・「マンスフィールド荘園」ジェイン・オースティン
・「荒涼館」チャールズ・ディケンズ
・「ボヴァリー夫人」ギュスターヴ・フロベール

・付録(「荒涼館」と「ボヴァリー夫人」に関するナボコフの試験問題の見本)
・解説 池澤夏樹

下巻
・「ジキル博士とハイド氏の不思議な事件」ロバート・ルイス・スティーヴンソン
・「スワンの家の方へ」マルセル・プルースト
・「変身」フランツ・カフカ
・「ユリシーズ」ジェイムズ・ジョイス
・文学芸術と常識
・結び

・訳者あとがき
・新装版訳者あとがき
・解説 沼野充義

本書はタイトル通り、ナボコフが亡命先のアメリカの大学で教えていた、文学講義の講義録。
解説で、池澤夏樹さんも沼野充義も書いているけれど、ナボコフ先生は小説にたいする姿勢がじつにはっきりしている。

「小説はお伽噺だ」

と、いいきる。
小説はつくりものなのだ。
だから、どんな風につくられているか、ていねいに読んでいかなくてはいけない。
作品がどう構築されているか、注意深く点検する必要がある。

「なによりも細部に注意して、それを大事にしなくてはならない」

作品は作品自体を味わうもので、それ以外は扱うに価しない。
一般論や、イデオロギーや、抽象的な議論で作品を裁断するのは愚の骨頂。

さらに、小説はどこで読めばいいか。
「背筋で読め」と、ナボコフ先生はいう。
ぞくぞくとした戦慄が走る背筋で読め。

「本を背筋で読まないなら、読書なんかまったくの徒労だ」

この断言。
細部への愛着。
作品以外のあれこれを考慮しない潔癖。
これは自らも創作するひとが書く批評の特徴だろう。
だから、批評家の批評よりも、創作者の批評のほうが面白いのだ。
というのは、あんまり一般化しすぎだろうか。

さて。
本書を手にとって、まず読んだのは、もちろん「荒涼館」の章。
あの長大な作品を、よくこう手際よく扱える。
その手さばきに、すっかり感心。
細部と全体の照応など、教えられてはじめて気がついた箇所がたくさんある。
おかげで、より細かく作品を味わえた気がする。
それに、ナボコフ先生もディケンズが好きなのが嬉しい。

「出来ることなら、わたしは毎授業その五十分の時間を静かに黙想し、精神を集中して、ディケンズを賛美することに費やしたい気持ちである」

「荒涼館」の章を読んだあとは、「ボヴァリー夫人」の章を読んだ。
「ボヴァリー夫人」は細部を愛しやすい小説だろう。
ナボコフ先生は、「…食卓の上では、蝿が飲みさしのコップを伝って這いあがり、底に残っている林檎酒に溺れてぶんぶんと羽音を立てていた。…」という「ボヴァリー夫人」の一文に、こんな注釈をつけている。

「訳者たちは「這う」と訳しているが、蝿は這いはしない、歩き、そして手をこする」

いやあ、細かい。
このあとは、カフカの「変身」。
「荒涼館」「ボヴァリー夫人」「変身」は読んだことがあったので、なるほどと思いながら講義を読んだ。
でも、「ユリシーズ」と「スワンの家の方へ」は読んだことがない。
おそらく今後も読むことはないだろう。
そう思って、ナボコフ先生の講義を読了。

「マンスフィールド・パーク」と「ジキル博士とハイド氏」の講義は読まずにとってある。
たぶんいつか両作品を読むと思うからだ。
両作品を読み終わったあと、ナボコフ先生の講義は読むのがいまから楽しみで仕方がない。

あとは、メモ。
「なつかしい時間」(長田弘 岩波書店 2013)という本を読んでいたら、「ナンジャモンジャの木」というのがでてきた。
井伏鱒二の「在所言葉」という本に書かれているらしい。

「名称不詳の木にナンジャモンジャの木というこの名称を与えるしきたりがあるのだろうか」

このナンジャモンジャの木と呼ばれているのは、甲州天神峠と塩山にある木。
どちらもナンジャモンジャの木と呼ばれているけれど、同じ木ではなかったようで、井伏さんは上のような感慨をもらしている。

で、たまたま、「股旅新八景」(長谷川伸 光文社 1987)を読んでいたら、またナンジャモンジャの木がでてきた。
この短編集の第2編、「頼まれ多九蔵」のところ。
このナンジャモンジャの木があるのは、銚子街道神崎宿(こうざきじゅく)。

「神崎三百軒といってな、繁昌している宿だ。川向うは押砂河岸といって、安波大杉神社へ参詣のものは、神崎から渡し舟で渡るのだ、神崎明神様の森というのは、もうやがて見えるが、大小二つの山があるところから、雙ヶ岡ともいうのだ。高いところに御神木がある。門前には、なんじゃもんじゃの樹というのがある」

と、おそらく船頭が多九蔵に説明している。
週に2度もナンジャモンジャの木に出くわしたので、メモをとっておきたくなった。
それにしても、長谷川伸はずいぶん調べて書いたんだろうなあ。

それから。
「史談蚤の市」(村雨退二郎 中央公論社 1976)という本をぱらぱらやっていたら、マルセル・エーメの名前がでてきてびっくりした。
この本は歴史および歴史小説についてのエセー。
エーメの名前がでてきたのは、最後の「小説の悲劇的結末」という文章。
どうしても作中人物を殺さずにはいられない、エーメの「小説家のマルタン」の一節をこんな風に引いている。

「このマルタン先生の考えによると、「人生は死の外に結末はない――そして死は明らかに悲劇的結末だ」そして「深く考えてみれば人生そのものが悲劇的である」という観念が小説の悲劇的結末をとらざるを得ない基礎になっている」

で、著者はこのマルタンの考えに異議をとなえているのだけれど、文章が不明瞭でなんだかよくわからない。
まあ、それはともかく。
こんなところにエーメがあらわれるとは思ってもいなかったので驚いたものだ。


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「族長の秋」「エレンディラ」「トレース・シリーズ」

いつものことながら、4月は大変な忙しさだ。
更新もままならない。
本は少しだけれど読んでいる。
それについて簡単にメモを。

「族長の秋」(ガルシア=マルケス/著 鼓直/訳 集英社 1994)
この本はずいぶん前から手元にあった。
でも、その改行のない真っ黒なページに恐れをなして、いままで読んでいなかったものだ。
今回、なんの気なしに読んでみたら、おお、面白い。
会話が地の文にとりこまれていて、だれがなんの話をしているのか最初はわからないのだけれど、それに慣れるとぐんぐん読める。
毎日寝る前に少しずつ読み進め、最後は読み終えるのが惜しいくらいだった。

内容は、ひとことでいうと独裁者小説。
死んだ大統領について、さまざまな語り手が物語るという形式。
これがわかっているだけで、この小説はぐんと読みやすくなる。

大統領に固有名詞があったかどうかは忘れてしまった。
同じ場面が何度もくり返される構成は、「予告された殺人の記録」(G・ガルシア=マルケス/著 野谷文昭/訳 新潮社 1997)を思い出させる。
話が時系列で進んではいかないので、大統領がどうやって権力を握ったのかいまひとつわからない。
どうやって権力を維持しているのかは、いよいよわからない。
でもまあ、権力というのはそういうものかもしれない。

語り口の密度は大変高い。
卑小で、壮大で、愚行に満ち、痛ましいほど猥雑なエピソードがとめどなく語られる。
1994年版の文庫本で読んだのだけれど、いまは表紙に牛の写真がつかわれた新装版が出版されているよう。
牛の表紙のほうが、この作品にはふさわしいかもしれない。
ところで、この作品は独裁者小説だから、独裁国家では発禁の憂き目をみたりしているんじゃないだろうか。

「エレンディラ」(G.ガルシア=マルケス/著 鼓直/訳 木村栄一/訳 筑摩書房 1988)
「族長の秋」が面白かったので、まだ読んでいなかった「エレンディラ」も読んでみた。
本書は短編集で、収録作品は以下。

「大きな翼のある、ひどく年取った男」(鼓直/訳)
「失われた時の海」(木村栄一/訳)
「この世でいちばん美しい水死人」(木村栄一/訳)
「愛の彼方の変わることなき死」(木村栄一/訳)
「幽霊船の最後の航海」(鼓直/訳)
「奇跡の行商人、善人のブラカマン」(木村栄一/訳)
「無垢なエレンディラと無常な祖母の信じがたい悲惨な物語」(鼓直/訳)

面白かったのは、「この世でいちばん美しい水死人」と最後の「エレンディラ」
本書は短編集だけれど、本書のほぼ半分は、最後の「エレンディラ」で占められている。
だから、「エレンディラ」の印象ばかりが鮮烈に残るのも仕方がない。

「エレンディラ」は、その長いタイトルが内容をよくいいあらわしている。
大きな屋敷で、ほとんど祖母の召使いとして暮らしていたエレンディラは、ある日ロウソクをつけたまま眠ってしまう。
その結果、屋敷は焼失し、祖母に大きな借金を負うはめになり、祖母の命じるままに男たちにその身を売ることになる。

次つぎとエピソードが続いていく物語的な展開。
おかげで、悲惨なことが書かれていても、読み進めなくなるような思いはせずにすむ。
読み終えて残るのは、善悪やモラルのことではなく、抗いがたい運命のようなものだ。

「この世でいちばん美しい水死人」は、ある寒村に流れ着いた水死体が、村に活気をあたえる物語。
女たちは水死体をきれいに洗ってやり、服をつくろい、エステバーンという名前なのではないかと語りあう。
男たちは、別の村の者ではないかと近くの村をまわる。
どこの村の者でもないとわかり、村人たちは立派な葬儀をあげる。

固有名詞がない、「エレンディラ」よりもより物語風の短い作品。
自分はこういう話が好きなのだなとつくづく思う。
短篇小説は、一度にひとつのことしかいえないけれど、物語だと多くのことがいっぺんにいえる。
そんな気がするのだけれど、どうだろう。

「トレーシー・シリーズ」も読んだ。
これは、保険調査員デヴリン・トレーシーを主人公とするシリーズ。
全6作。

「二日酔いのバラード」(ウォーレン・マーフィー/著 田村義進/訳 早川書房 1985)
「伯爵夫人のジルバ」(1986)
「仮面のディスコーク」(1986)
「豚は太るか死ぬしかない」(1987)
「のら犬は一生懸命」(1988)
{チコの探偵物語」(1989)
「愚か者のララバイ」(1990)

内容は軽ハードボイルドといったらいいだろうか。
そもそも、軽ハードボイルドということばはまだ生きているのか。

主人公のトレースはなんでも茶化し、軽口ばかり叩いている酔っ払い。
保険会社の社長が友人で、おかげで調査の仕事をもらっている。
といっても、本人にそれをありがたがる気持ちなどさらさらない。
直接トレースの担当をするウォルター・マークス副社長は、トレースのことがいまいましくてならない。
別れた妻とのあいだに2人の子どもがいるが、会うのを極度に恐れている。
いまは、日本人とイタリア人のハーフであるチコとラスベガスでともに暮らしている。
チコはブラック・ジャックのディーラーで、パートタイムの娼婦。
負けん気が強く、頭が良く、大食漢。

――といったところが基本設定。
ストーリーは、ほぼセリフで進んでいく。
あと、トレースが録音する調査報告。
トレースはハードボイルドの主人公らしく、あちこち走りまわる。
せっせと報告を録音するが、いまひとつ真相に至れない。
それを、恋人のチコが見事にあばく――というのが、毎回のパターン。

とにかく全編軽口ばかり。
それがいい。
ただただ楽しく読むことができる。
最初に読んだのがシリーズのどれだったか忘れてしまったけれど、すっかり気に入った。
ところが、古本屋でシリーズをさがしても、なかなかみつからない。
ひと昔前は、どこにでもあったような気がするのに。
でも、このたび最終巻をみつけて、ぶじ読み終えることができたものだ。

とはいえ、いま書名をならべてみたら、読んでいないものがありそうな気がしてきた。
なにしろあんまり軽いから、どのタイトルがどんな内容だったかおぼえていられない。
ひょっとしたら、読みそこねているのもあるかもしれない。

特筆しておきたいのは、最終巻の訳者あとがきだ。
シリーズを読んできた読者にたいし温かい、素晴らしい訳者あとがき。
訳者あとがきに傑作はないと思ってきたけれど、これはそれをくつがえす、名訳者あとがきだった。


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「ひとりでいいんです」「脱線特急」「嵐の眼」「倍額保険」

「ひとりでいいんです」(凡人会・加藤周一 講談社 2011)
副題は「加藤周一の遺した言葉」。
本書は、凡人会というあつまりで、加藤周一が語った話をまとめたもの。
第1章だけ、加藤さんがひとりでしゃべり、残りは凡人会のひとたちとの対話からなっている。

講演録というには、話し手と聞き手の距離がとても近いのでしっくりこない。
でも、座談会というほどゆるんではいない。
一冊ぶん、この距離感が維持されるというのが、まず凄い。

全篇話しことばなので、読みやすい。
話題は多岐に渡る。
戦争、憲法、歴史、文学、小説、演劇、映画、絵画…。
抽象的なことはいわない。
どんな話題でも具体に即して語ることに舌を巻く。

非常に面白い本なので、たくさんメモをとりたいのだけれど、その時間がないのはなんとも残念。
ひとつだけ、中野重治の国会演説の話だけメモしておこう。

加藤さんによると、税金の使いかたの対照の著しい例は、イギリスの王室と日本の皇室への国民の反応のちがいだという。
英国では女王が旅行すると、それを監視している。
贅沢な旅行ではなく、もっと安くしろという批判が必ずある。
でも、日本の場合、そういう批判は皆無に近い。
ここで、加藤さんは唯一の例として、中野重治をもちだす。

「中野さんは詩人・作家ですが、戦後、共産党から参院選に立候補して議員になった。そのなかに、おそらく日本の議会で最初で最後と思われる質問があった。それは、皇室の費用が高すぎるというものでした」

「政府の答弁は、それは皇室の品格を保つのに必要だという。そしたら、中野さんは、人間の品位とは何か、何によって備わるのか、それはみずから額に汗して、働いたお金で暮らすことである、それによって人間の品位は備わる。人が働いたお金……税金ですね、それで暮らすのは人間の品位を高めるのではなくて、低める、だからこれ以上の皇室への出費は皇室の品位を低める……」

これはなかなか凄い演説でしょうと、加藤さんはいっているけれど、たしかにすごい。
このあと、「それは国会議事録か何かで見られるのでしょうか」と質問が続き、加藤さんは「中野重治国会演説集」(八雲出版 1949)で読んだとこたえている。
また、全集には23巻におさめられているそう。
これは、本にするとき編集者が調べたのだろう。

でも、世の中はすごく便利になった。
いまでは国会図書館のHPで「国会会議録検索システム」をつかえば、該当の演説はすぐみつかる。
ついでなので、該当(と思われる)箇所を引用してみよう。

「品位を保つという問題があるが、自身の持つておる金を使つて生活して行くことが品位を保つ人間的方法であつて、これを懐ろに入れて置いたまま他から金を貰つて更にこれの増額を図つてやつて行こうというのは、品位を保つゆえんではない。こう我々は考ええる。(「それは共産党だけの考い方だ」と呼ぶ者あり)」(参議院本会議 昭和23年6月29日)

議事録はヤジまで記録しているとは。
今回検索してみるまで知らなかった。

「脱線特急」(カール・ホフマン 日経ナショナルジオグラフィック社 2011)
著者はトラベルライター。

本書は、せっせと仕事をしていたら、いつのまにか家庭に居場所がなくなってしまった著者が、妻と3人の子どもを残して世界一周の旅にでた…というエセー。
訳者いわく、「中年の危機をこじらせた男のヤケクソひとり旅」。
どのへんがヤケクソかというと、わざわざその国のもっとも危険な交通機関をえらんで乗るところ。
南アメリカからアフリカへ、インドから用もないのにアフガニスタンへ、そしてインドネシア、中国、モンゴルなどをめぐる。
悪路を走るバスに何時間も揺られ、すし詰めの船や電車に乗る。
飛行機はいつ出発するのかまるでわからないし、寝ていると足を滑らせたゴキブリが顔に落ちてくることも。

低開発国にいくと、アメリカ人というだけで一目置かれる。
著者はそのことに自覚的だ。
それから、現地のひとがなぜそんな危険な交通機関をつかっているかという理由も、著者は肌身で知る。
とにかくお金がないのでそれ以外の選択肢は存在しないのだ。

でも、本書のいちばんの読みどころは、著者が「中年の危機をこじらせ」ているところだろう。
おかげで、世界一周をしているのにもかかわらず、なんだか内省的で、味わい深い読みものになっている。
似たタイプの旅行記として、椎名誠の「パタゴニア」(集英社 1994)を思い出した。

それから。
じつにひさしぶりに、ジャック・ヒギンズを読んだ。
ヒギンズは冒険小説の巨匠。
代表作は、なんといっても「鷲は舞い降りた」(早川書房 1980)だろう。
この小説を読んだときは、あまりの面白さに驚嘆した。
さっそく友人に貸したところ、その本は友人たちのあいだで回し読みされた。
うっかり徹夜をしてしまったり、駅を降りそこねる者まであらわれる始末だった。

で、今回読んだのは、「嵐の眼」(早川書房 1994)。
1991年、湾岸戦争のさなかロンドンで首相官邸に迫撃砲弾が撃ちこまれるというテロがあった。
本書は、実際に起こったこの事件に材を得ている。

テロの発注者はサダム・フセイン。
意向を受けてうごくのは、アラブの富豪。
仲介をするのが、KGBの保守派。
そして、実際にテロを実行するのが、本書の悪役であるショーン・ディロン。
元IRAメンバーだが、過激な行動を組織から疎んじられ、現在は金で雇われるテロリストをしている。
変装の名人で、逮捕されたことは一度もない。

このショーン・ディロンを追うのが、主人公マーティン・ブロスナン。
現在、ソルボンヌ大学の教授をしているが、もとはアメリカの裕福な家の出で、IRAに参加していたこともある。
「テロリストに薔薇を」(早川書房 1984)にも主人公として登場しているらしいけれど、こちらは未読。
ディロンとは旧知の間柄で、あるなりゆきから国防情報部とともにディロンを追うことに。

とにかく話のテンポがいい。
ひと筆書きのような人物描写も堂に入ったもの。
人物の出し入れも無駄がなく、なにより旧友同士の対決という筋立てにはぐっとくる。
ヒギンズ作品は未読のものが山のようにあるから、また読んでみよう。

「倍額保険」(A・A・フェア 早川書房 1978)も読んだ。
探偵所長のバーサと、その助手のドナルド・ラムのシリーズ。
A・A・フェアはご存知の通り、E・S・ガードナーの別名。
ガードナーの本とは相性が悪くて1冊読み通せたことがない。
今回、はじめて最後まで読むことができた。

なぜ、ガードナーの本が読めないのか。
訳者の田中小実昌さんが書いているように、ガードナーの文章は「すっきり、シンプル」だ。
でも、あんまりシンプルすぎで、読んだはしから忘れてしまう。
どこまで読んでいたのかさっぱりわからなくなってしまう。
読み通せなかったのはそのせいだと思う。
現に、読み終わったばかりの本書も、なにが書いてあったのかまるで思い出せないでいる。


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