コディン

「コディン」(パナイト・イストラティ/著 田中良知/訳解説 未知谷 2010)

ときどき、まったく読んだことがない国の小説を読んでみたくなる。
この本の作者はルーマニアのひと。
作者、パナイト・イストラティについては、後ろのカバー袖にある経歴を引用しよう。

《パナイト・イストラティ(1884-1935)
ルーマニアはドナウ川下流の港町ブライラの生まれ。貧窮家庭に育ち12歳で母の下を去る。20歳の時、ロシアの革命運動の影響を受けて、社会主義運動と接触。その後近東を中心に地中海沿岸を放浪。自殺未遂事件をきっかけにフランスの作家ロマン・ロランの知遇を得て、下層階級の人々を題材に、郷土色豊かな作品をフランス語で発表し、作家となる。「バルカンのゴーリキー」とはロマン・ロランの評。代表作には「キラ・キラリナ」(1923)、「アンゲル叔父」(1924)、本書「コディン」(1926)などのほか、史実に取材した「バラカン平原のアザミ」(1928)などがある。》

本書は中短編集。
収録作は3つ。

「沼沢地での一夜」
「コディン」
「キール・ニコラス」

どの作品も、主人公や語り手は、作者の分身であるアドリアンという少年。
アドリアンが見聞きしたことが物語となっている。

「沼沢地での一夜」
3人称。
アドリアンは7歳で、ディミ叔父の家にあずけられている。
叔父一家は、まるで奴隷のような貧乏暮らし。
ディミ叔父は妻に暴力を振るい、妻は泣き、老母は義憤にかられて息子を天秤棒でひっぱたく。
叔父は笑いながら、母に叩かれるにまかせる。
老母は嫁にむかっていう。

《「――こんな奴と結婚しなきゃよかったのにさ! 貧乏と愛が夫婦になっても絶対うまくいく例(ためし)はないよ。子供たちにはいい教訓になるよ。》

とはいうものの、ディミ叔父ははたらき者であり、笛の名手。
嫌われ者ではなかった。
また、アドリアンは叔父と仲がいい。
叔父が自分を殴らないとわかっていたから、叔父が叔母を殴ろうとするたびに仲裁に入った。

ある夜、ディミ叔父は沼沢地に葦を刈りにでかける。
沼沢地の葦は領主のものであり、刈るには許可書がいるのだが、それは20フランする。
もちろん、ディミ叔父は許可書などもってはいない。

葦を刈りにいくディミ叔父に、アドリアンもついていく。
沼のなかから、叔父は葦を刈りとってはもどってくる。
が、そのうち馬が鳴きはじめる。
鳴かれると監視人にみつかる恐れがある。
腹を立てた叔父は、馬の腹を殴りつけるのだが、不運なことに、そのとき惨劇が起こる――。

本書のなかで一番短い作品。
イストラティが「バルカンのゴーゴリ―」と呼ばれたのは、自伝的であり、貧乏をえがいたためだろう。
また、読んでいたときは、なぜかヘミングウェイの「インディアンの村」(「われらの時代・男だけの世界」(新潮社 1995)所収 )を思い出した。
両方とも、幼い少年が痛ましいできごとを目撃する話だからだと思う。


「コディン」
100ページほどある中編。
この作品だけ、アドリアンの1人称。

アドリアンは12歳で、母と2人暮らし。
引っ越しをかさね、評判の悪いコモロフカに流れ着いたところ。
コモロフカの界隈は、夜になると警察も立ち入らない無法地帯。
ここで、アドリアンは隣りに住むコディンという無法者と仲良くなる。

コディンは30代。
無口で酒豪で大食漢。
腕っぷしが強く、だれからも恐れられている。
また、素朴なモラルのもち主。
コディンと仲良くなったことで、当初あなどられていたアドリアンも、同年代の子どもたちから一目置かれるようになる。

コディンのつきそいで、アドリアンは朝4時におこなわれる《袋運び》の割り当てをみにいく。
港の鉄道の貨車から穀物の袋をはこびだすのは、実入りのいい日雇い仕事。
その仕事の割り当ては、作業班をつくる班長が仕切っている。
そのため、班長を接待している友人たちばかりが仕事にありつく。
大多数は、午前2時から順番を待ち、余り仕事にありつくほかない。
コディンは班長に話をつけ、何人かの貧相な人夫を作業班に押しこむ。

帰り道、アドリアンがいいことをしたので気分はいいのではないかというようなことを訊くと、コディンは不機嫌にこたえる。

《「おまえはバカだよ! お節介でいいことしたって、無意味ってことよ」》

コディンは容姿がみにくかったので、両親から虐げられ、周りの連中からはからかわれて育った。
成長したのちは、腕力にものをいわせ、両親を打ちのめすようになった。

あるとき、ケンカをしたコディンは、相手にやられないように、泳いで《支流》を渡り沼地で寝る暮らしをしていたところ、さがしにきた敵を殺した。
これは正当防衛で無罪放免に。
しかし、情婦のベッドにいる男を刺し殺したことで、10年間徒刑囚として塩坑ではたらくはめになった。

以上のような話を、アドリアンはコディンが連れていってくれた、川向こうの《ゲチェト》の岸のおばさんから聞く。

アドリアンと知りあってからも、コディンは酒場で大立ち回りを演じる。
アドリアンは、コディンに人殺しをさせまいと、あいだに入る。
また、コディンは毎晩母親を殴りつけている。
この母親は土地をもっていて、コディンはそれを売らせようとするのだが、母親はどんなに殴られても売ろうとしない。
母親のほうは、息子が人殺しをして、また徒刑囚になればいいと思っている。

アドリアンはコディンとともに、湿地帯に鴨と雁の狩猟にでかける。
そこで、2人は義兄弟の契りを結ぶ。

――まだ話は途中だけれど、長くなったので続きは次回に。


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トーニオ・クレーガー

「トーニオ・クレーガー」(トーマス・マン/著 平野卿子/訳 河出書房新社 2011)

光文社の古典新訳文庫で「トニオ・クレーガー」(マン/著 浅井晶子/訳 光文社 2018)が刊行されたので読んでみた。
が、あんまりピンとこなくて、河出文庫版で再読した。
こちらのほうが好ましい。
古典はいろんなひとの訳が出版されているから、こういうときありがたい。

おかげで、立て続けに2度読むことになったけれど、考えようによってはよかったかもしれない。
この作品は、くり返しが重要だから。

トーニオ・クレーガーは主人公の名前。
解説によれば、トーニオには作者の経歴が色濃く反映されているという。
物語は、3人称トーニオ視点で語られる。

この作品は中編。
全9章より成っている。
第1章に登場するトーニオは14歳。
町の名士であるクレーガー領事の息子だが、ぼんやり者で、学校の成績もいまひとつ。
詩を書いたりしている少年だ。

トーニオは、金髪のハンス・ハンゼンにあこがれている。
ハンスはトーニオとは反対の、溌溂としたスポーツ万能の優等生。
学校の帰り、トーニオはハンスと一緒に散歩をしながら家に帰る。
切々とハンスの友情をもとめ、自分が感動したシラーの「ドン・カルロス」をハンスに薦めたりする。

第2章のトーニオは16歳。
金髪のインゲボルグ・ホルムに恋をしている。
フステーデ家でのダンスと作法を学ぶ講習会で、トーニオはダンス中にミスをしてしまう。
インゲにすっかり気をとられ、「ご婦人の旋舞」を一緒に踊ってしまい、会場のみんなに笑われてしまう。
もちろんインゲにも。

第3章は、その後のトーニオについて。
《トーニオは自分の進むべき道を行った。いくぶん面倒くさそうに、だらだらと。吹くともなく口笛を吹きながら、ちょっと首をかしげ、遠くを見つめて歩いていった。》

祖母と父が亡くなり、美しい母は再婚。
クレーガー家は没落。
トーニオは町を去り、あちらこちらで暮らし、退廃した生活を送るように。
そんな生活の代わりに、芸術家としての資質は研ぎ澄まされ、作家として世に立つようになる。

第4章.
この章は、ほとんどトーニオの演説に終始。
トーニオ少年もずいぶん饒舌になったものだと思わせる。
場所はミュンヘンの一角。
話し相手はロシア人の画家リザヴェータ・イヴァーノヴナ。
トーニオはリザヴェータに、独特の芸術家論を述べる。

《人間的なものを演じたり、もてあそんだり、効果的にうまく描きだしたかったら、人間でいてはまずいんだ。非人間的な存在でいなければ。人間的なものに対して奇妙に距離をおいて傍観していなくては。そもそも優れた文体や様式、表現などの才というものは、人間的なものに対する冷ややかで気むずかしい関係、言うなれば一種の人間的な貧しさや荒廃が前提になっているんだから。》

芸術家は、人間のマイナス面のかたまりのようなものだというのがトーニオの説。
そのため、芸術家を信奉するひとたちには同情を禁じ得ない。
しかし、芸術など必要としない平凡なひとたちには強くあこがれる。
こんなトーニオの演説を、リザヴェータ軽くいなす。

ここがちょうど物語の折り返し地点。
第5章以降は後半となる。
トーニオはデンマークに旅行にでかける。
途中、13年ぶりに故郷の町を訪れる。
我が家はいまでは市民図書館に。
ホテルを出立するときには、詐欺師と間違えられそうになったりする。

それから、船でデンマークへ。
海が荒れるものの、トーニオは歓喜をおぼえる。
コペンハーゲンを観光し、ヘルシンゲアの先、エーレ海峡とスウェーデンの海岸が見渡せるホテルに落ち着く。
ホテルでのんびり日を送っていたところ、ある日、大勢の客がやってくる。
その客のなかに、ハンスとインゲの姿をみつけ、トーニオは驚く。

正確には、2人はハンスとインゲ本人ではない。
しかし、同じ種類の人物ではある。
夜、ガラス戸ごしにダンスパーティーをみながら、トーニオは湧き上がるさまざまな感情にうごかされる――。

この小説は音楽的な構成をもっていて、同じシチュエーションがくり返される。
ハンスとインゲは再びあらわれるし、自作の詩を披露する少尉と、デンマークのいきの船で乗りあわせた若い男は対照をなしている。
物語が、同じシチュエーションの周りをダンスしているといったらいいか。

トーマス・マンの文章はくどい。
海辺のホテルで、ハンスがザントクーヘンを食べる描写はこんな風だ。

《ケーキの屑を受けるため、手のひらをくぼませて顎の下にあてがっていた。》

あごの下に手をやるだけではすまない。
「手のひらをくぼませて」と書く。

くどくて、いまひとつはっきりしないマンの文章は、注意深く読むことを強いられる。
この文章のおかげで、作品に独特の雰囲気と統一感が生じているよう。

トーニオはホテルでの経験を経て、少年時代から現在まで続く自分と和解するにいたる。
そして、作家として更新する。
芸術家は人間を見下すけれど、自分は人間を見下すことはできない。
物書きを作家にすることができるものがあるとすれば、平凡なものによせる愛だ。
リザヴェータへの手紙にトーニオはこう書く。

《リザヴェータ、ぼくはこれからもっとよいものを作るつもりだ――》

トーニオがインゲに夢中になっていたころ、トーニオに親しいそぶりをみせる娘がいた。
弁護士の娘である、マグダレーナ・フェアメーレン。
ダンスのときはよく転ぶけれど、相手を選ぶときは必ずトーニオのところにきた。
トーニオが詩を書いていることを知っていて、みせてくれとせがんだりした。
もちろん、そのころのトーニオには、マクダレーナなど眼中になかった。

その後の、トーニオが熱心にみていた海岸のホテルのダンスパーティーには、ハンスやインゲばかりでなく、このマクダレーナをほうふつとさせる娘もあらわれる。
その貧相な青白い娘は、ダンス中に転んでしまうのだけれど、トーニオは床に倒れたままの娘をそっと腕をつかんで助けおこしてやる。
この小説の中で、一番好きな場面だ。

本書には、「トーニオ・クレーガー」と同じくらいの長さの中編、「マーリオと魔術師」が収録されている。
イタリアの避暑地にでかけた〈私〉とその家族が、チッポラという魔術師の見世物をみるというストーリー。
催眠術師というべきチッポラが、観客の心をつかみ、自由にうごかすさまがえがかれる。

解説によれば、この作品は「ファシズムの心理学」といわれているそう。
また、ファシズム批判の書として、刊行直後にイタリアで発禁処分にあったとのこと。

この作品は、全体の3分の2が、チッポラの舞台の描写についやされている。
それがまた、微に入り細をうがって書かれているため、読んでいるとぼんやりしてきてしまう。

チッポラのやり口は、観客のひとりを選びだし、そのひとの自尊心を傷つけることで、ほかの観客の喝采を浴びるというもの。
〈私〉はそのやり口に終始批判的だ。


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