イリアス

「イリアス」(アレッサンドロ・バリッコ 白水社 2006)。

訳は草皆伸子。

ことし読んだいちばん面白い本はなんだろう?
そんな気の早いことを考えていたら、この本のことを思い出した。

著者の作品で有名なのは「海の上のピアニスト」だろうか。
これは映画は観たけれど、原作は読んでいない。
読んだのは「シティ」(白水社 2002)が最初。
とても面白かった。

本書は「イリアス」の翻案。
どう翻案したか、著者はまえがきでていねいに述べている。

まず朗読劇にした。
そのため一人称につくりかえた。
章ごとに語り手を入れ替える構成にした。
語句は基本的に原本のままにしたが、神々が介入する場面は相当削った。

「つかっているレンガはホメロスのものだが、できあがった壁はずっとすっきりしている」
と、著者。

また、一人称にしたため、自身の運命についての自覚が強くなり、それが悲劇性を強調しているかもしれない。

じつは「イリアス」がどんな物語なのか知らなかった。
本書ではじめて触れたのだけれど、いや猛烈に面白い。
劇的、また劇的。

女のとりあいでアガメムノンとアキレウスが仲たがい。
たったひとりの大将のために全滅させられるのはまちがっている、という兵士はオデュッセウスに打たれる。
一騎打ちがあり、逃げだしたパリスはヘレナのもとへ。
協定は破られ、偵察、乱戦、突撃、身代わり、復讐、木馬。


戦争の話だけれど、女々しいところに打たれる。
勇者アキレウスはこんなことをいう。
「年がら年中たたかって、いったいなにになるっていうんだ」

アキレウスと対峙したヘクトルが逃げ出すところなど、なんていたいたしい。

翻案ではない「イリアス」もそのうち読んでみたいと思った。
でも、いつになることやら。


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アルバート公売ります

「アルバート公売ります」(マイクル・バタワース 早川書房 1988)。

ハヤカワ・ミステリ文庫の一冊。

イギリス産、コン・ゲーム小説。
お人好しで酔っ払いの観光ガイド、バンベリーは交通事故で職を失う。
簡易宿泊施設で出会った、もと近衛兵のオリアリーは根っからの詐欺師。
ふたりは、テキサスの億万長者にアルバート公の彫像を500万ドルで売りつけようとするが…。

前半は快調。
いくつかの詐欺をはたらき、軍資金をため、やらせの競売でアルバート公をせりにかける。

そこに、さまざまなキャラクターがからむ。
前座の詐欺で出会った心やさしき女性。
秘密の過去をもつ億万長者の7番目の新妻。
その新妻にたかるろくでなし。
オリアリーに恨みをもつギャングの親分。
などなど。

しかし登場人物がでそろったあたりから失速。
なぜだろう?

登場人物は悪くないと思う。
配置も順当。
ストーリーもよく伸びる。

プロットに難があるのだろうか。
ユーモラスな語り口が、くどくなってしまったか。

そんなことを考えながら読むと面白い。
ちょっと意地悪な読みかただけれど。

アルバート公を競売にかけるというアイデアは秀逸。
作者はまずこれを思いついたのかも。

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知的ストレッチ入門

「知的ストレッチ入門」(日垣隆 大和書房 2006)。

知的生産実用本。

とにかく文章を書くのが死ぬほど遅い。
著者は、毎月締め切りを50本かかえているそう。
あやかりたくて読んでみる。

まず知的ストレッチの基本3原則。
「インプットは必ずアウトプットを前提にする」
「うまくいった諸先輩がたの方法をどんどん採り入れる」
「おのれを知る」

アウトプットの正体は説得力。
アウトプットの力を磨くには、どんな質問にもとりあえず答えをだすようころがけることだそう。

さて、本の読みかた。
「まず素直に読む」
そうでなくちゃはじまらない。

面白かった箇所は、本の角を折る。
つかえる部分は、上に付箋。
紹介文献がほしいと思ったら、横に付箋。

で、いったん読み終わったら、角を折ったり、付箋を貼ったりしたところを再読。
これをやるのとやらないのでは、大ちがいだそう。
まさにアウトプット前提の読書。

そしてメモの技術。
この話が面白い。
世の中には、とにかくメモとれ派と、メモしなければならないことはたいしてことではない派がいる。
これはけっきょく個人差。
おのれを知ることにつきる。
…いやはや、ミもフタもないなあ。

また、すぐ片づけることの効用。
「時間がたてばたつほど処理にかかる時間が少なくなるということはない」
うーん、耳が痛い。

全集を読むことの効用についても書いてある。
「ひとりの人間がどれほど表現の幅があるかを知ることができる」
これは同感。
ひとりの人間に許された表現の幅は存外せまい。
表現者とは、おなじことをくり返すひとだといってもいいほど。

もちろん話はこれだけではない。
そろえておきたい道具や事典類、あつめた情報の整理、つかえる手帳のことまで具体的に書いてある。

文章はですます調。
ときおり、先生が授業中するみたいに、ポンと息抜き話が入る。
それが上手い。
できの悪い生徒は、息抜き話ばかりおぼえてしまうけれど。
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世の中ついでに生きてたい

「世の中ついでに生きてたい」(古今亭志ん朝 河出書房新社 2005)。

タイトルは志ん生のことばだそう。
素晴らしいタイトル。

「もう一席うかがいます」が面白かったので、その前作にあたるこの本も読んでみる。
中身は一緒。
志ん朝さんの対談集。
これが売れたから、「もう一席」をつくったのかも。

高座で居眠りしたという、志ん生の有名な逸話が何度か語られている。

「お座敷で出された酒を飲んだあと、高座に上がったらウーンてことに(笑)。すると前座がきて「師匠、師匠」って起こす。そしたら客が「寝かしといてやれ」(笑)」

つづけて志ん朝さん、
「もっともそのまんま寝かしといたわけじゃないですよ(笑)」

また、さすが前作だけあって、まじめな芸談が多い。
志ん朝さんいわく、
「芸は人なり」。

落語を媒介にして、その人物を見せるんだ、という。

けっきょく最後は人間かあ。
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もう一席うかがいます

「もう一席うかがいます」(古今亭志ん朝 河出書房新社 2006)。

なぜかインタヴュー集とか対談集とか座談集が好き。
この本は何年か前に亡くなった志ん朝さんの対談集。

志ん朝さんの落語は聞いたことがないけれど、ちょっと読んでみたら面白い。
志ん朝のお父さん、志ん生についての話はさすがの面白さ。

なにより志ん朝さんのことばづかいが楽しい。

大地喜和子さんは志ん朝さんをたいへんひいきにしていて、
「わたしの手でスランプからだしてあげたい」
なんてさかんにいっといてこういう。
「子ども、何人ですか?」

志ん朝さんの返事。
「なんです急に(笑)。お湯かけたり、水かけたりするんだから」
このことばづかい。

対談相手で変りダネは手塚治虫。
手塚さんは芝居もやったことがあるそう。
新劇の劇団にいたなんて知らなかった。
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パディントン街へ行く

「パディントン街へ行く」(マイケル・ボンド 福音館書店 2006)。

いままで「くまのパディントン」シリーズは7巻までしかなかったのに、突然福音館文庫で8巻目が出た。
で、読んでみる。

内容はあいかわらず。
パディントンがなにかへまをしでかして、でも最後にはうまくいくというもの。

今回は結婚式の案内係になり、やっぱりへまをして、新婦に「クマ!」などといわれている。
可笑しい。

ほかには、ゴルフをしたり、給仕人になったり、医者になったり…。

それから、パディントンは出身地を聞かれると、これまたあいかわらず、「暗黒の地ペルーです」とこたえている。
これも可笑しい。

いかにも子どもがやりそうなことをパディントンがやるところが、このシリーズの面白さかと思う。
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ゲド戦記の世界

「ゲド戦記の世界」(清水真砂子 岩波書店 2006)。

岩波ブックレットの一冊。
「ゲド戦記」の翻訳家、清水真砂子さんの講演をまとめたもの。
本というより、小冊子といった体裁。

「ゲド戦記」がとても好きなので、これも読んでみる。

内容は、清水さんの経歴や、翻訳の苦労話、ル=グウィンさんとの交流などなど。

清水さんは、高校の先生をされていたそう。
でも、「ゲド戦記」と出会い、翻訳をするため退職する。
ここで、ただ経歴を述べるだけではなくて、先生をやっていたころのエピソードをそえるところなど、じつに話上手。
また、このエピソードが印象的。

さて、翻訳の苦労話。
最初、「魔法使い」ということばをつかうかどうかで相当迷ったそう。
「ゲド戦記」の魔法使いは、これまでの物語の魔法使いとはちがう。
「賢人」などとも訳そうと思ったけれど、最終的には魔法使いにした。
本がでてまもなく、こういう魔法使いがあったのですね、という声を聞いてほっとしたとのこと。

また2巻の話。
幼少のテナーが神殿の階段をのぼるということが、うまくつかめなかった。
後日、訳し終えてからメキシコにいく機会があり、テオティワカンの遺跡の階段をのぼりながら、テナーの苦労を思ったそう。

翻訳するということは精読することなんだ、ということがよくわかる。
清水さんいわく、「いつもいつも考えていた」。

まあ、だからというか、ぜんたいにディティールについての話が多い。
それが楽しいのだけれど。

世間では、4・5巻の評判は悪い。
でも、清水さんの評価はそれとはちがっている。
4巻は清水さんにとって近しい世界で、訳しながら、「私はからだぜんたいが解放されていくのをおぼえていました」。

ル=グウィンさんについてのゴシップのような話もファンにはうれしい。
ル=グウィンさんは、あんがい植物に触れていない、とか。

清水さんが、作中の通りの名前についてたずねたところ、ル=グウィンさんからこんな返事がきた。
「それは、どこそこの島の、どの通りの、どの路地です」
つまり、たとえ物語に出てこない場所であっても、アースシー世界の路地の名前まで頭のなかにあるらしいのだ。
これはすごい。

清水さんはル=グウィンにたいへん敬意を払っている。
ひとが自分の好きなものについて話すのを聞くのは楽しいなあと、思いながら読了。

もうひとつだけ細かい話を。
「アンナ・カレーニナ」の冒頭の話がでてくるのだけれど、引用が北御門二郎訳だったのが、なにやら面白かった。
これもこだわりがあるのだろうか。
深読みのしすぎかな。



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日本語の森を歩いて

「日本語の森を歩いて」(フランス・ドルヌ 小林康夫 講談社 2005)。

副題は「フランス語から見た日本語学」。
講談社現代新書の一冊。

著者はフランス人の言語学者。
フランス語の世界から日本語を見ると、違和感をおぼえる表現がいろいろある。
本書はそれをとっかかりにして、日本語を考察したエッセー。

ことばの話はむつかしい。
ことばでことばについて考えなければならないから、読んでいると脳みそがでんぐり返りそうになる。

比較的わかりやすくて面白かったのは、「お湯を沸かして」という話。

フランスでお湯は、「eau chaude」というそう。
chaude(熱い)、eau(水)の意味。

しかし日本語にはお湯ということばがあり、しかも「お湯を沸かして」なんていう。
「水を沸かして」とはいわない。
論理的に不可能なことをいわれているようだと著者。
たしかにそうだ。

話はここから自動詞と他動詞のペアに移るのだけれど、このへんは省略。
結論をいうと、「沸かす」とは、お湯が「沸くようにする」こと。
きっかけをあたえる。

さらに話は「わく」ということば全般へ。
「お湯が沸く」、「水が湧く」、「虫がわく」、当てた字はちがうけれど、イメージは一緒。
下から上に、自然に立ちのぼっていく感じ。

そして、ひとは、お湯に対しては「沸くようにするきっかけ」をあたえることができるのだ。

ふだんなにげなくつかっているいいまわしから、するすると話を広げていくさまが楽しい。
わずかなことばにも、その言語の体系が反映されている。

しかし、無意識につかっていることばを意識にのぼらせるのは相当に大変。
ことばの微妙な重みや振る舞いを見逃さないようにしなくてはいけない。

頭が丈夫じゃないとできないことだなあと痛感。



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死者の百科事典

「死者の百科事典」(ダニロ・キシュ 東京創元社 1999)。

訳は山崎佳代子。
簡にして要を得た、訳者あとがきが素晴らしい。

作者はユーゴスラビアのひと。
フランスに移住し、そこで亡くなったそう。

この本は短編集。
九つの短編と、「ポスト・スクリプト」という名の、作者による解説がついている。

作風はアイロニカル。
一面的なものの見方を拒絶する。
物語にぎゅうっと力を加えたあげく、べつの物質に変形してしまったよう。
幻想的というより、非世俗的といったほうがいいような書きぶり。

印象に残ったものをいくつか。

「死後の栄誉」
「私」がマリエッタという娼婦の葬儀を回想したもの。
舞台は大恐慌時代のハンブルグ。
労働者たちは温室や邸宅から略奪した大量の花を墓にささげる。
作者の作品は、
「精密なディティールが書きこまれた簡潔性を特徴としている」
と、訳者あとがきにあるけれど、これもそんな作品。

「死者の百科事典」
ストックホルムにある死者の百科事典をおさめた図書館で、娘が亡くなった父の生涯を知るという話。
娘の語りによる回想。
これはもう、「死者の百科事典」というアイディアにつきる。
そこには無名のひとたちの生涯が、徹底的にディティールをおさえて記されているという。
なぜそれほど細部にこだわるのか。
それは、「人間の生命はくり返すことができないし、あらゆる出来事は一度かぎりであると編者たちが考えているから」。
ここではアイロニカルとよりも、抒情が勝っている。
話も時間どおりで読みやすい。
本をとじて、いちばんおぼえていたのがこの作品だった。

「未知を映す鏡」
これは幻想譚。
ある少女が手鏡のなかで殺人事件を目撃する。
作者は作品ごとに手法を変えているのだけれど、この作品はたいへん映像的。
映像がどんどんオーヴァーラップしていくよう。
こんなに映像的な作品を読んだことがあったかと思ったほど。

最後に「ポスト・スクリプト」。
ここで作者は楽屋話をして、全作品を相対化する。
小説をひとつの解釈にとじこめないようにする強靭な意志を感じる。
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この人に話を聞きたい

「この人に話を聞きたい」(小黒祐一郎 徳間書店 2006)。

「御先祖様万々歳」というアニメが大好き。
唯一LDのソフトを買ったのが、これ。
デッキもってないのに。
バカだなあ。

監督は押井守。
キャラクター・デザインと作画監督はうつのみやさとる。

内容は、突然近未来から孫と名乗る美少女があらわれ、家族間でさまざまな思惑がとびかったあげく、家庭が崩壊するというもの。
ブラック・コメディといえるか。
副題は「明朗家庭崩壊喜劇」。

この作品は、まず演出が斬新だった。
舞台劇調なのだ。
アニメなのに。

で、キャラクターたちが理屈っぽいセリフで怒涛のごとく議論しあう。
しかも、たいへんクサイ芝居をする。
なんてバカバカしい。

またこの作品は作画も斬新だった。
当時、観たこともないほど立体的なキャラクターがきびきびうごく。
歌って、踊って、殴りあう。

でも、当時はこの作画の魅力をうまく語ることができなかった。
それを教えてくれたのが、「アニメスタイル」という雑誌やサイト。
うつのみやさとるさんの作画がどれぼとインパクトがあったのか、その影響を紹介してくれた。
あの作画は、やっぱり魅力があったのだ。

前置きが長くなったけれど、この雑誌やサイトの主催者が、この本の著者、小黒祐一郎さん。
そのせつはありがとうといいたい。

さて。
「この人に話を聞きたい」の話だ。
この本はインタビュー集。
アニメ業界のさまざまなひとに話を聞いている。

副題は「アニメプロフェッショナルの仕事」。
帯の惹句はこう。
「凄いアニメには、凄くなる理由がある」。

なにかモノをつくる話というのは、たいてい面白い。
作り手は、客が思う以上に考えてつくっている。
その思いがけなさ。

たとえば、関弘美プロデューサーの話。

日曜の朝、暖かい季節になると窓を開ける。
すると、いろんな音が家のなかにも流れこんでくる。
深夜ひとりで観る番組とはちがい、微妙な音づけは無駄かもしれない。
なにより、日曜の朝の子どもたちに負けない、まっすぐで健全なつくりかたをしなければいけない。
……

子どもがどんな状況で見るかまで考えているという。
関さんの野望は「アニメでフジテレビの月曜9時」だそう。

インタビューした相手も、じつに多彩。
監督、アニメーター、脚本家、声優はともかく、局のプロデューサーのインタビューまである。
インタビュー相手としばし雑談したり、意気投合したりと、ライヴ感があるのが楽しい。

また、インタビューというのは、距離の近い相手にするほどゆるくなってしまって、第三者が読むにたえなにものになりがち。
しかしこの本は、マニアックな題材なのに、その幣におちいっていないように思う。
読みはじめると、やめられない。

本書は、アニメ雑誌「アニメージュ」に連載されたインタビュー記事、1998年から3年ぶんをまとめた一冊とのこと。
連載はまだ続いているという。
なんてすごい仕事だろう。
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