「迷宮の将軍」「ラッフルズ・ホームズの冒険」「キマイラ」

「迷宮の将軍」(G・ガルシア=マルケス/著 木村栄一/訳 新潮社 1991)

4月にガルシア=マルケスが亡くなった。
なにか読まなくては。
そう思い、部屋をさがすと、まだ読んでいなかったこの本がみつかった。

本書は歴史小説。
シモン・ボリバルの最期の日々をあつかっている。
あつかうのは最期の日々ばかりではない。
記述はしばしば過去にさかのぼり、現在にいたる事情や経緯の説明をする。
その現在と過去をつなぐ、つなぎ目はとてもなめらか。

シモン・ボリバルは、名前くらいは知っているけれど、なじみがない。
スペイン統治下にあった南米を解放したとは、知らないではないけれど、具体的になにをしたのか。
それを知るのに、この小説は役に立つのかというと、まるで立たない。
読んで印象に残るのは、孤独な将軍の姿だけだ。

本書には、歴史的事実についての詳しい解説がついている。
それが、理解を助けてくれる。
解説によれば、解放後の南米は、将軍の意向とは裏腹に統一国家とはならず、各国に分裂してしまったとのこと。
18世紀が舞台だけれど、まるで三国時代の中国の話を読んでいるようだ。

将軍の姿はガルシア=マルケスの筆により、みごとに典型化させられている。
その将軍の最後のことばは、じつに痛ましいものだ。


「ラッフルズ・ホームズの冒険」(J・K・バングズ/著 平山雄一/訳 論創社 2013)

これはバカバカしい作品。
よくまあ翻訳出版したものだと、出版社の英断に感動する。
編集者は、今井佑、黒田明。

作者のJ・K・バンクスはアメリカのひと。
雑誌編集者として活躍するかたわら、ユーモア小説などの執筆をしたひとだとのこと。

内容は、短編連作が2つ。
ひとつは、「ラッフルズ・ホームズの冒険」
ラッフルズ・ホームズは、父はシャーロック・ホームズ、祖父は怪盗ラッフルズという血筋の人物。
作家の〈私〉、ジェンキンズがワトソン役となり、このラッフルズ・ホームズの冒険譚を記した――というのが本作品の体裁。

その冒険譚はなかなか珍妙。
ラッフルズ・ホームズのからだのなかでは、父の血と祖父の血がしばしばあらそう。
盗難された、さる高価なペンダントの捜索を引き受けたホームズは、みごとにペンダントをとり返す。
が、そのままペンダントを隠匿し、高跳びしてしまおうという誘惑にかられる。
そこでホームズは、「今晩は僕と一緒にいてくれ」と、ジェンキンズに頼む――。
とんだジキルとハイドだ。

ちなみに、本作品の冒頭にはこんな献辞が。

「サー・アーサー・コナン・ドイルとE・W・ホーナング氏に――ごめん」

もうひとつの連作は、「シャイロック・ホームズの冒険」
もちろん、ホームズもののパロディだ。

死んだホームズは天国で暮らしはじめ、そこでも探偵業を続けている。
そして、スチーム暖房機を通して、モールス信号で自身の冒険譚を〈私〉に送ってくる。
それを記したのが本書。

「ブラス・クーバスの死後の回想」を読んでいたとき、死んだ人間がどうやって原稿を書くのかと思ったけれど、――そして、この疑問は解決されないのだけれど――その点、「シャイロック・ホームズ」はみごとに解決していると思った。

あの世にいる探偵は、ホームズだけではない。
ルコックがすでにいて、ホームズのライバルとなる。

両作品とも、一話一話は短く、軽く、バカバカしい。
バカバカしい小説にたえられるひとには、お薦めの一冊だ。


「キマイラ」(ジョン・バース/著 国重純二/訳 新潮社 1980)

神話や物語をもとにした中編が3つ収録されている。

「ドニヤーザード姫物語」
「ペルセウス物語」
「ペレロフォン物語」

「ドニヤーザード姫物語」は、千夜一夜物語に材をとった一編。
ドニヤーザード姫とは、千一夜物語を語り続ける、名高いシェヘラザードの妹のこと。
本作品は3章から成っていて、第1章は〈わたくし〉という、この妹の1人称により語られる。

ちなみに、ドニヤーザードはシェヘラザードのことを「シェリー姉さま」と呼ぶ。
シェヘラザードは妹のことを「ドニー」と呼ぶ。

さて、〈わたくし〉の姉、シェヘラザードは、バヌ・サーサーン大学で人文科学を専攻する学生だった。
大学はじまって以来の秀才で、美人コンテストでも優勝した才媛だったが、処女を皆殺しにして国を滅亡にみちびくシャハリヤール王の蛮行を思いとどまらせようと決意し、大学を中退。
政治学や心理学をかじってみるが、妙案は浮かばない。
そこで、神話と民話の研究へ。

こうして思い悩んでいたある日、シェリーとドニーの前に魔神があらわれる。
魔神は、現代アメリカの大学教授で小説家。
つまり、作者の分身。
なぜ、魔神があらわれたかというと、時と場所をへだてた空間で、たまたま2人が同時に魔法のことばを口にしたから。
魔神はシェリーに協力を申し出て、そしてシェリーは王のもとへ――。

魔神はどんな協力をするのか。
もちろん、シェリーに毎夜語る物語を供給するのだ。

第1章は、ぶじ〈わたくし〉とシェリーが千一夜を生きのびるまで。
第2章は、3人称。
第1章でドニーが物語っていた相手は、じつは読者だけではなかった。
ドニーは、シャハリヤール王の弟でありドニーの新郎、シャー・ザマーンに向かって語っていたのだ。
さらに、シェリーとドニーは千一夜が過ぎ去り、王たちと婚礼を終えたあと、ある復讐を考えていた。
ドニーは復讐を実行し、危機におちいったシャー・ザマーンは、こんどはドニーにむかって語りはじめる――。

とまあ、非常に凝ったつくりの作品。
第3章もあるけれど、これはエピローグだ。

千夜一夜物語をメタフィクション仕立てであつかい、たいそう批評的でありながら色っぽい。
シェリーと魔神は、性愛と物語の類似をさまざまに語る。
この色っぽいところが、この作品の美点。

残り2作も、凝りに凝っている。
でも、あんまり凝りすぎていて、なにがなんだかわからない。
解説がていねいに読み解いてくれているので、それを読めば意図がつかめはするけれど、読んでいてあんまり面白くない。

しかし、「ドニヤーザード姫物語」は素晴らしく面白かった。
これだけあれば充分だ。



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ブラス・クーバスの死後の回想

「ブラス・クーバスの死後の回想」(マシャード・ジ・アシス/著 光文社 2012)
光文社古典新訳文庫の一冊。
訳は、武田千香。

前回、はじめてブラジル産の小説を読んだ話をした。
そのとき読んだのは、「マクナイーマ」
今回は、ブラジル小説第2弾。
「ブラス・クーバスの死後の回想」だ。

この本は、家にあった。
買ったものの、すっかり忘れていたのだ。
「マクナイーマ」古本屋で買うまでもなく、ブラジル小説は家にあったのだった。
まったくもって仕方がない。

それにしても、いったいなぜ買っていたのか。
本の帯には、こんな文句が。

《ブラジル文学の最高傑作。
池澤夏樹氏絶賛!
「おしゃべりブラス
きみこそぼくの親友だ。」》

また、裏表紙に書かれた紹介文はこう。

《死んでから作家となった書き手がつづる、とんでもなくもおかしい、かなしくも心いやされる物語。カバにさらわれ、始原の世紀へとさかのぼった書き手がそこで見たものは……。ありふれた「不倫話」のなかに、読者をたぶらかすさまざまな仕掛けが施(ほどこ)される。南米文学の秘められた傑作。》

この帯や紹介文にひかれて本書を買ったのだろうか。
それもあるだろう。
でも、おそらく一番のきっかけは、この小説が断章形式で書かれていることだ。
昔から、断章形式で書かれた小説が好きなのだ。

では、本書の記述にもとづいて、作者や本書の情報を押さえよう。
まず、作者について、カバー袖の文章から。

《マシャード・ジ・アシス〔1839-1908〕
ブラジルを代表する作家。第二帝政期の奴隷制度が敷かれたリオデジャネイロの貧しい家庭で育つ。父方の祖父母は黒人の解放奴隷で、母親はポルトガル移民。独学で、書店や印刷所ではたらきながら詩人として文壇にデビュー。
(……)
一般に本書と「ドン・カズムッホ」「キンカス・ボルバ」を合わせた長篇小説が3大傑作とされ、「精神科医」をはじめとする短篇も評価が高い。マシャードを抜きにブラジルの文学を語れないほどの存在感を誇る。》

少しはしょって引用した。
さらに解説によれば、マシャードは1873年、農業・商業・公共事業省に入省。
その後は、逝去4ヶ月前に健康上の理由から離職するまで、公務のかたわら執筆を続けたとのこと。

本書の評価は、本国ブラジルでは大変高いよう。
解説にこうある。

《「ブラス・クーバスの死後の回想」は、マシャード文学のみならず、ブラジルの文学全体から見てもきわめて重要な不朽の名作である。》

本書の出版は1881年。
「マクナイーマ」は1928年刊だから、それより37年前。
作者のマシャードは「マクナイーマ」の作者、マリオ・ヂ・アントラーヂより51年前に生まれたひとだ。

ちなみに、マリオ・ヂ・アントラーヂはマシャードを高く評価しなかったらしい。
解説にはこんな一節も。

《20世紀初頭に「ブラジルらしさ」を希求したモデルニズモ(モダニズム)の作家らの間で、マシャードの評価は高くなかった(たとえば、モデルニズモの旗手、マリオ・ジ・アントラージは批判的であった)。》

マリオ・ヂ・アントラーヂがなぜマシャードに批判的だったのかはわからない。
でも、先行作家を批判するのは、後続作家の仕事のひとつだろう。


さて。
いよいよ内容だ。
本書の構成は以下の通り。

まず、作者による「序文」。
次に、書き手による「読者へ」という文章。
それから、160章におよぶ断章があり、最後に「索引」という名前の目次が記される。

160章の断章でなにが語られているのか。
これは、タイトル通り。
主人公ブラス・クーバスの一代記が、死後の〈わたし〉による一人称で語られている。
物語は〈わたし〉が死ぬところからはじまり、さかのぼって出生から語られ、死ぬところにもどって終わる。

〈わたし〉――ブラス・クーバスは、1805年10月20日生まれ。
1869年8月のある金曜日に死んだ。
享年64歳。
独身、所有財産300コント。
注によれば、300コントあれば、当時大人の奴隷が160人購入できたとのこと。

先祖は、リオデジャネイロ生まれの樽職人。
この先祖は、百姓になり、蓄財し、その息子は国家の要職について、副王クーニャ伯爵の私的な友人のひとりとなった。

ブラス・クーバスの父は、この樽職人のひ孫。
財産家とでもいうのだろうか、どんな仕事をしているのかいまひとつわからない。
おかげでブラス・クーバスは、生涯金に困ることはなかった。

叔父が2人。
ひとりは、元歩兵隊士官のジョアン。
生活が派手で、毒舌家で、話すことはすべて猥談という人物。

もうひとりの叔父は、イルデフォンソ。
神父で、司教座聖堂参事会員。
厳格で純粋だが、本質よりも序列や出世に目を向ける人物。

母は、美人で引きこもりがちの、心豊かなお人好し。
それから、妹のサビーナ。

ブラス・クーバスは、父母にたいそう甘やかされて育つ。
死んだ書き手は、自身が受けたしつけについて、こう結論する。

「よい部分もあったが概して弊害のほうが多く、不完全で、部分的にはマイナスになった」

学校では、校内の花形、キンカス・ボルバと友人に。
このキンカス・ボルバは、小説の後半、思いかけず書き手の前にあらわれる。

17歳のとき初恋。
相手は、奔放なスペイン女性マルセーラ。
ブラス・クーバスは、この女性にどんどん貢ぐ。
あんまり家のお金を費やすので、父の逆鱗にふれ、ヨーロッパに留学させられる。

大学を卒業後、ヨーロッパを放浪。
母が病気だというので、あわてて帰国。
母が亡くなり、世をはかなんで隠棲していると、父に、政界に入り結婚するようにうながされる。
相手は、ドゥトゥラ顧問官の娘、ヴィルジリア。

ブラス・クーバスは、ヴィルジリアと出会い、親密に。
ところが、ローボ・ネーヴィスという魅力的な男が現れ、横からヴィルジリアと議席を奪っていく。

息子の失策に、父親は大いに落胆。
これがもとで死んでしまう。

その後、ブラス・クーバスは、ほとんど隠遁生活者に。
評論家および詩人として、それなりに名声を勝ち得る。
のち、下院議員となり、野党系の新聞を発刊。
修道会に入会し、「このときがわたしの人生でもっとも輝いた時代となった」と記すが、具体的になにをしたのかについてはなにも書かれない――。

以上が、ブラス・クーバスの社会的な人生。
でも、これだけ紹介しておいてなんだけれど、この作品の場合、書き手の社会的人生はあまり重要ではない。
中盤から後半にかけて、もっとも分量がさかれるのは、ローボ・ネーヴィスの妻となったヴィルジリアとの逢瀬の話だ。

もう一度、この作品の構成を確認しよう。
本書は、死んだ書き手が自身の人生を回想するというスタイルをとっている。

死ぬまぎわ、ブラス・クーバスは妙な幻覚をみる。
カバの背に乗り、諸世紀の源流にさかのぼるという幻覚。
そこで、ブラス・クーバスは、「自然(ナトゥレーザ)、あるいはパンドラ」と名乗る女性と出会う。
パンドラは、万物の掟は自己保存――つまりエゴイズムだとブラス・クーバスに吹きこむ。
そして、ブラス・クーバスは山の頂から全世紀、全人種、全情念の相互破壊を目撃する。

この部分の描写は、力がこもっている。
書き手は、女神様から幻滅についての啓示を受けたといった風。
この啓示により、ブラス・クーバスは死後、作家になり、自身の人生を再構成するにいたった。
とはいっても、このあと、ブラス・クーバスは女神の啓示を参照することはない。
ただ、この逸話が物語を発動させるトリガーとなっていることは間違いないだろう。

断章形式で書かれた回想録というスタイルによくあるように、文章はとても批評的。
エセーの含有量が、通常の小説よりずいぶん高いといったらいいだろうか。
この作品を面白く読めるかどうかは、この文章を面白いと思えるかどうかにかかっている。
例をあげよう。
不倫相手のヴィルジリアの父、ドゥトゥラ顧問官についての文章はこう。

《この男はまさに真珠。にぎやかで快活で愛国者で、社会の悪に対して多少の怒りを抱いてはいるが、それをすぐに改めようと思うほどには絶望もしてはいない。》

また、はじめてヴィルジリアに会ったときの文章はこう。

《そのときの彼女は、まだわずか15、6歳。おそらくはわが民族のなかでもっとも大胆で、したがって確実にもっとも奔放な被造物だっただろう。だが、そのときすでに当時の女性たちのなかで、群を抜いた美貌を誇っていた、とは言わない。なぜならば、これは小説ではないからだ。》

うるさいといえば、少々うるさい文章だ。

作者は序文でこの作品のことを「スターン風」と呼んでいる。
スターンとはもちろん、「トリストラム・シャンディ」の作者スターンのこと。
でも、本書を読んでまず思ったのは、カート・ヴォネガットの作風のことだ。
断章形式の回想録というのがまず似ているし、ぜんたいのアイロニカルな雰囲気もよく似ている。

本書の後半、ブラス・クーバスは少年時代の友人、キンカス・ボルバと再会する。
キンカス・ボルバは独自の、奇妙な哲学というか宗教を打ち立てていて、ブラス・クーバスはそれに魅了される。
このあたりも、ヴォネガット風。

作者紹介をみると、マシャードは「キンカス・ボルバ」という作品も書いているよう。
この作品は、タイトル通り、キンカス・ボルバが主人公をつとめているのだろうか。
だとしたら、ますますヴォネガット風だ。
19世紀のブラジルにヴォネガットがいたという発見は楽しい。

もちろん、マシャードとヴォネガットではちがう点もある。
一番のちがいは構成だろう。
ヴォネガット作品は、空中ブランコのように時間軸の上を飛びまわるけれど、本書にそれだけの構成力はない。
本書の回想は一本調子で、ヴォネガットの構成力にくらべると劣る。

でも、これは時代の制約があるかもしれない。
ヴォネガットの回想に回想をかさねる手法は、映画のフラッシュバックの技法からきたと思うけれど、マシャードに同じことをもとめるのは筋ちがいだろう。
とはいえ、現代の読者は、作品の書かれた順番で読んでくれるわけではない。
作者には悪いけれど、筋ちがいの比較をするのはやむを得ないと、ここは居直ろう。

それから、話がそれるけれど――。
断章形式は、どうも男性作家が用いる手法のような気がする。
女性作家で、この手法をつかうひとはいるだろうか。
(こう書いて思ったけれど、わが国には清少納言がいた)

紹介したように、本書はシニカルなエセー風の文章で記されている。
そのため、読者の反応や反発が起こりやすい。
読んでいるとブラス・クーバスの行動や見解に、いちいち口をはさみたくなってくる。
しかし、口をはさむにしても、だれにすればいいのか。
作者のマシャードか、あるいは語り手のブラス・クーバスか。
回想録形式のフィクションになにかいうのは、ここのところが厄介だ。
なにかいおうとするたびに、作者と書き手、書き手に書かれた登場人物、およびその発言といった風に仕分けをしなければいけなくて、やけにことば数が増えてしまう。

古典というのは、読者からリアクションを引き出し、そのことば数が増えてしまうような機能をもつ作品なのかもしれない。
とすれば、本書はまさしく古典と呼べる一冊だ。



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