ラ・ロシュフーコー公爵伝説

「ラ・ロシュフーコー公爵伝説」(堀田善衛/著 集英社 1998)

ラ・ロシュフーコー公爵は、実在したフランスのひと。
1613年に生まれ、1680年に死んだ。
前半生は武人として生き、後半生は文人として生きた。
著作は、「箴言」が名高い。
同時代人として、ルイ13世と14世、リシュリュー、マザラン、モリエール、パスカル、ラ・ファイエット夫人、ラ・フォンテーヌなどなど。

本書は、このラ・ロシュフーコー公爵に材をとった歴史小説。
この本を読んだあと、参考書として、「ラ・ロシュフーコーと箴言」(田中仁彦/著 中央公論社 1986)を読んだ。

でも、参考書を1冊読んだくらいでは、作者が歴史的事実をどう作品化したかなんてことは、皆目検討がつかない。
だから、この作品の語り口について語りたい。
これが大変独特なのだ。

この作品は1人称。
ラ・ロシュフーコー公爵の回想記という体裁で書かれている。
これはまあ、よくある手法といっていいと思う。
回想記仕立てではないけれど、秀吉の1人称で書かれた、坂口安吾の「狂人遺書」などがすぐ思い浮かぶ。

ところが、公爵の回想は時間の幅が非常に長いのだ。
じつに600年ほど前、フーコー1世の頃から語りはじめる。
ひとりの登場人物がこんなに昔の話から語りはじめる回想記仕立てのフィクション――というのは、ほかにあるだろうか。
ちょっと思い出せない。

公爵は、600年のあいだに起こった一族の歴史を──ということはフランスの歴史を──ゆるゆると語っていく。
異教徒のノルマン人が攻めてきたり、100年戦争があったり、サン・バルテルミーの虐殺で曾祖父のフランソア3世が殺されたり。
それから、なにがなにやらさっぱりわからないカトリックとプロテスタントの確執があったり。

それにしても、なぜ600年も前のご先祖のことから話をはじめるのか。
公爵によるいいぶんはこうだ。

「いまは17世紀だが、私が600年もむかしのことから言い出したのは、長く続いた古い家系というものに、何が溜めこまれていて、どんな淀みがあるのかということを言いたかったのだ。過去は決して闇などではない。それらのすべては私のなかに生きているのだ」

さらに公爵はこうもいう。

「人は現在だけに、あるいは現在だけで生きるものではないのだ。現代だけが時代ではない」

この、「現代だけが時代ではない」という思いが、公爵をして600年前から語らせている原動力であるだろう。

また、本書の回想形式のつかいかたは、少々ややこしい。
というのも、語り手である公爵は、自分のことを3人称で語ったり、〈私〉という1人称で語ったりするからだ。
だいたい、公的生活では3人称をつかい、私生活では1人称をつかう。

3人称から1人称に変わるとき、公爵は毎回読者の許可をもとめるように変わることを記す。
なにやらほほえましい。
ややこしいことをしているのだけれど、読者を混乱させるような書きかたを公爵は決してしない。
第6章の最後、公爵がその武人としての前半生を終え、3人称から1人称に変わるときには、次のような文章が宣言のように記される。

「私が私に帰るのだ」

この3人称と1人称をないまぜにして語るというアイデアはどこからきたのだろう。
作中の記述によれば、ラ・ロシュフーコー公爵が書いた「回想録」自体、3人称と1人称がないまぜにつかわれているという。
きっと、本書の語り口のアイデアは、ここからきているのだろう。

ただ、作者の堀田善衛さんといえば評伝の名手だ。
スペインの画家ゴヤをえがいた「ゴヤ」、モンテーニュを主人公とした「城館の人」、藤原定家の日記を丹念にたどった「定家明月記私抄」など、どれも素晴らしい達成を示している。
ラ・ロシュフーコー公爵についても、同じように評伝として語る選択肢もあったはずだ。
なぜ、そうしなかったのか。

これも、600年という長さの歴史を語るためだったかもしれない。
長い歴史を3人称で語ると、散漫な作品になってしまう可能性がある。
それを避けるために、回想形式を採用したのかもしれない。

いや、でもほんとうはもっと単純な理由かも。
評伝を書くのに飽きて、回想形式という、なんでも扱える便利でロマネスクな形式で、公爵一族の歴史を語りたかっただけかもしれない。

600年前から語りだすとはいっても、本書の中心はやはり公爵の人生だ。
1613年に生まれた公爵は、ろくな教育も受けず、頭のなかは騎士道物語の妄想でいっぱいの少年として育つ。
(この妄想でいっぱいの少年という踏みこみかたが、回想形式という語り口の愉快なところだ)

1627年、ラ・ロッシェル功囲戦において初陣。
(「ラ・ロシュフーコーと箴言」では、初陣はイタリア戦線に参加した1629年としている。ラ・ロッシェル功囲戦は勘定に入れなかったようだ)

1628年、冬の休戦期間にパリに帰り結婚。
1629年、イタリア戦線に参加。
これは、イタリア北部でのスペイン軍とのたたかい。
冬の休戦期間──北イタリアではだいたい9月の第3週からだという──パリにもどり宮廷に出仕。

当時、宮廷は王母マリー・ド・メディシスと宰相のリシュリュウ枢機卿が実権を握っていた。
王はルイ13世で、王妃はスペインからきたアンヌ・ドートリシュだった。

リシュリュウに嫌われていた王妃は大変孤独。
妄想少年だった公爵は、王妃に大いに同情する。
王妃のとりまきの仲間となり、王妃の手紙をスペインに届ける秘密ルートの入り口役となる。

その後、マリー・ド・メディシスは実権を失う。
権力はリシュリュウに集中する。
王母のとりまきは追放され、公爵も父とともに閉門蟄居を命じられる。

しかし、権力というものは勝手なもので、戦争が起こるとでてこいと命令してくる。
公爵は、フランドルでのスペインとのたたかい──スペイン本国ではなく、スペイン領低地諸国のスペイン軍とのたたかい──において戦功をあげる。

ところが、リシュリュウの義弟である指揮官の不手際をののしったために、なんの栄誉も得られない。

ところで、アンヌ・ドートリシュ王妃には、シュヴルーズ公爵夫人というとりまきがいた。
この当時宮廷にいた、全身陰謀家といった女性のひとりで、反リシュリュウに血道をあげていた。

この、王妃とシュヴルーズ公爵夫人の陰謀のとばっちりで、1637年、公爵はバスチーユ監獄に送られてしまう。
まあ、8日ででてくるのだが。

1642年、リシュリュウが亡くなる。
その遺言により、マザラン枢機卿が後継者に。
マザランはもともとイタリア人。
王妃の愛人だったので、これで王妃アンヌ・ドートリシュは体制派となった。
となると、いままで王妃の側近として仕えてきた公爵も報われるのかと思うけれど、そうはならない。
自ら望むところもあり、また要領の悪さもあり、公爵は反体制派のまま。

このころから、公爵はロングヴィル公爵夫人と昵懇になる。
ロングヴィル公爵夫人もまた、数奇な人生を歩む傑物なのだけれど、長くなるので省略。
この夫人はフロンドの乱で大活躍をする。

1646年、ダンケルク浜辺のマルディック攻防で、公爵は3発の火縄銃の銃撃を肩に受け、重傷を負う。
その後、軍務への復職を希望するが、かなえられない。
マザランに尻尾を振ってみるが、昇任されることもない。

ところで、当時、パリ高等法院と王国政府のあいだに、行政権をめぐる暗闘があった。
マザランは、新設の国王監察官を含む直属の行政官僚体制の完成をめざしていた。
が、古くからの特権を守ろうとするパリ高等法院は、これに抵抗。
王国政府が次つぎにかけてくる新税を拒否したい民衆も、高等法院の側についていた。

これが火種となり、フロンドの乱が勃発。
パリで籠城戦がおこなわれる。

王軍に包囲されたパリには食料がない。
そこで、公爵は包囲陣を突破し、小麦をパリ市内にもちこもうとする。
その作戦のさなか、一発の銃弾がのどをを貫通。
公爵は瀕死の重傷を負う。

パリ籠城戦はひと段落。
公爵は王母摂政──王妃アンヌ・ドートリシュ。このひとの息子がルイ14世だ──のはからいにより、司政職に復帰。

しかし、王国内は乱れる。
大逆罪の容疑で王室から出頭命令を受けた公爵は、反乱を決意。
亡くなった父の葬儀にかこつけて、兵をあつめ、ボルドオに進駐。
王軍との籠城戦のすえ、マザランと和平。
和平を結んだものの公爵の手にはなにも残らない。
処罰されることはなかったものの、なんとも徒労を禁じえない。

――長くなってきたので、続きます。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ヴェネツィアの薔薇

「ヴェネツィアの薔薇」(ミッシェル・ロヴリック/著 ミンマ・バーリア/著 富士川義之/訳 集英社 2002)

副題は「ラスキンの愛の物語」

白地に、太い緑色の枠線で囲まれた表紙。
上部に大きくアルファベットで、原題が記されている。
日本誤訳のタイトルは、大きな帯に隠れるように、下に小さく置かれている。

集英社は、一時期外国文学を、こんな似たようなような感じの装丁で出版していた。
新書と同じで、装丁を統一することで価格を抑えられると考えたのかもしれない。
この装丁で出版された外国文学は、どれも薄くて涼しげ。
この本もまた同様。

タイトルにあるラスキンは、19世紀の英国の批評家、ジョン・ラスキンのこと。
カバー袖に記された内容紹介はこう。

「水の都ヴェネツィアを背景に哀切に語られる、英国ヴィクトリア朝における最も名高い恋物語」

ページを開くと、ラスキンのえがいた絵や、ヴェネツィアの画家カルパッチョの「聖ウルスラ伝」連作の絵が続く。
モノクロなのが残念だ。
緑を基調としたモノクロなのは、ブックデザインを考えてのこのだろう。
活字の色も、本書では緑色がつかわれている。

小説の内容をひとことでいうと、恋人に先立たれたラスキンが、冬のヴェネツィアで回復するというもの。
この恋人ローズと、ラスキンの関係がなかなかややこしい。
巻末の年譜や、訳者解説を手がかりに、簡単にラスキンとローズのかかわりをみていきたい。

ラスキンは1819年に生まれる。
亡くなったのは1900年。
ヴィクトリア女王は、ラスキンと同じ年に生まれ、ラスキンが亡くなった翌年に亡くなったそうだから、ラスキンは、ヴィクトリア朝時代を丸まる生きたひとだった。

厳しい両親に育てられ、ラスキンは神童ぶりを発揮。
1848年、29歳のとき、ユーフィミア(通称エフィー)・グレイと結婚。
1854年、離婚。
翌年、エフィーは画家のミレーと結婚。

ラスキンは、ローズの母マリアに懇望され、ローズとその姉に絵を教えることになる。
1858年、39歳のラスキンは、はじめてローズ・ラ・トゥーシュと出会う。
このとき、ローズは10歳。

1861年、ラスキンはローズへの恋心に気づく。
1862年、ラスキンの恋心に気づいたローズの両親により、ラスキンはローズから引きはなされる。
が、ローズとはしばしば手紙をやりとりし、何度か会うことも許される。

1866年、ラスキンは18歳のローズに求婚。
ローズは3年待ってほしいと頼む。

1868年、ローズの母マリアは、ラスキンの前妻エフィーに、ラスキンと別れた原因について手紙で問いただす。
結婚を解消した理由は、ラスキンの性的能力の欠如だと、エフィーはマリアに返答する。

1872年、友人夫妻の仲介で、ラスキンとローズは仲直りする。
しかし、同年ローズは重い病(髄膜炎)に倒れる。
その後、ラスキンは文通することも会うことも許されない。

1874年、ラスキンはローズに会うことを許される。
オックスフォードで講義をしたあと、ロンドンに赴き、ローズを見舞うという生活をする。
1875年、ローズ亡くなる、27歳。

──以上が、この小説の前提。
本書の舞台となるのは、その翌年、1876年のヴェネツィア。
著書「ヴェネツィアの石」の改訂版をだすという企画のため、ヴェネツィアにやってきたものの、うつろな日々をすごしていたラスキンは、アカデミア美術館のカルパッチョの絵、「聖ウルスラ伝」連作に心奪われる。
ラスキンはアカデミア美術館に通いつめ、聖ウルスラの寝顔を模写する。

なぜ、ラスキンは「聖ウルスラ伝」に惹かれるのか。
聖ウルスラの物語は、ローズとの恋を想起させるためだ。

聖ウルスラの物語は、ブルターニュの王女ウルスラのもとに、イングランドの王子コノンからの求婚使節がやってくるところからはじまる。
当時のイングランドは、まだキリスト教化されていない。
コノンとウルスラは、そのため結婚できない。

思えば、ローズはその父の影響で、熱烈な福音主義派の信者だった。
いっぽうラスキンは、信仰を捨ててしまっていた。
この宗教観のちがいも、おそらく2人の障害となっていたはずだ。

それから、ウルスラはコノンとの結婚に3つの条件をつけた。
ひとつは、コノンがキリスト教徒となり、エステリウスと改名すること。
2つめは、結婚まで3年間待つこと。
3つめは、ローマまで1万1千人の処女とともに、2人で巡礼の旅にでること。

この2つめの、結婚まで3年待つという条件も、ローズの条件を彷彿とさせる。

そして、その年のクリスマス・イブ。
ロンドンのキュー植物園に勤める植物学者友人から、乾燥させたミルトの小枝が、ラスキンのもとに届けられる。
これをみてラスキンは大いに喜ぶ。
ミルトは天上の愛を意味する。
絵のなかのウルスラの寝室にある、棚の上に飾られていたのがミルトだった。

それから、クリスマスにはカーネーションが届く。
カーネーションは地上の愛を意味する。
これもまた、ウルスラの寝室に飾られていた花。
ラスキンは、これらのことは、天上にいるローズからのメッセージだと思いこむ──。

本書には、充実した訳者あとがきがついている。
内容は、ほとんど本編のくり返しといっていい。
本編に匹敵する訳者あとがきだ。

その訳者あとがきで、富士川義之さんはこう書いている。

「ラスキンにとっての少女は、ワーズワスにとっての少年と同じように、いわば宗教的信仰の代用になるものと見られていた」

「つまりさまざまな世間的野望や野心に汚された男性中心主義の社会に対して明確に対立する純粋で無垢な存在として少女は思い描かれているのだ」

つまり、ヴィクトリア朝というのはそういう時代だった。
そして、ラスキンはその精神風俗を如実に反映したひとだった──ということになるだろうか。

本書は3人称ラスキン視点で書かれている。
そのため、ローズがラスキンをどう思っていたのかさっぱりわからない。
ラスキンの長い恋は、たんなる独り合点のように思える。

でも、これは野暮ないいぐさかもしれない。
恋も信仰も、独り合点以外にありはしないだろう。
1876年のクリスマスに、ラスキンが幸せを感じたのなら、それは喜ばしいことだ。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )