2018年 ことしの一冊たち

1月

ヒギンズまとめ
「開高健」(小玉武/著 筑摩書房 2017)
「しばられ同心御免帖」(杉澤和哉/著 徳間書店 2016)

ことしの5月には、小玉武さんが編集した「開高健ベスト・エッセイ」(筑摩書房 2018)が出版された。開高健が書いたエセーを選んで1冊にまとめた本。これ以外はありえないという作品の選択がなされていて感服した。

2月

「ちょっとちがった夏休み」(ペネロープ・ファーマー/作 八木田宜子/訳 岩波書店 1980)
「輝く断片」(シオドア・スタージョン/著 大森望/編 河出書房新社 2005)

「珈琲が呼ぶ」(片岡義男/著 光文社 2018)
「驚愕の理由」(ウルス・フォン・シュルーダー/著 中村昭彦/訳 毎日新聞出版 1998)
「なつかしく謎めいて」(アーシュラ・K.ル=グウィン/著 谷垣暁美/訳 河出書房新社 2005)

「驚愕の理由」の帯の惹句は宮部みゆきさんが書いていた。
《世界のあちこちでチカリと光る、みじん切りの”人生の真実”》
「みじん切り」が赤字で書かれている。こういうスケッチ風の短篇は読んでいて楽しいのだけれど、メモをとるときには困る。焦点がいまひとつ定かではないので要約しずらいのだ。

3月

「カニグズバーグ選集 1」(カニグズバーグ/著 松永ふみ子/訳 岩波書店 2001)
「アンチクリストの誕生」(レオ・ペルッツ/著 垂野創一郎/訳 筑摩書房 2017)

レオ・ペルッツの作品では、ことしの12月に「どこに転がっていくの、林檎ちゃん」(垂野創一郎/訳 筑摩書房 2018)が出版された。これから読むのが楽しみ。それにしても、ヘンテコなタイトルだ。

「ものぐさドラゴン」(ケネス・グレーアム/作 亀山竜樹/訳 西川おさむ/絵 金の星社 1979)
「あわれなエディの大災難」(フィリップ・アーダー/作 デイヴィッド・ロバーツ/絵 こだまともこ/訳 あすなろ書房 2003)

4月

「ドイツ短篇名作集」(井上正蔵/編 白水社 学生社 1961)

「うし」を読んだときは驚いたなあ。

5月

「暗いブティック通り」(パトリック・モディアノ/著 平岡篤頼/訳 講談社 1979)
「いやなことは後まわし」(根岸純/訳 パロル舎 1997)

「のりものづくし」(池澤夏樹/著 中央公論新社 2018)

6月

「死にいたる火星人の扉」(フレドリック・ブラウン/著 鷺村達也/訳 東京創元社 1960)

7月

「闇の中で」(シェイマス・ディーン/著 横山貞子/訳 晶文社 1999)

素晴らしい作品。

8月はなし

9月

「アデスタを吹く冷たい風」(トマス・フラナガン/著 宇野利泰/訳 早川書房 2015)

よーく噛んでいるとじわじわ味わいがましてくるといった作品。

10月

「おとうさんとぼく」(e.o.プラウエン/作 岩波書店 2018)

まさか「お父さんとぼく」が再版されるとは思わなかった。9月には岩波少年文庫から「魔女のむすこたち」(カレル・ポラーチェク/作 小野田澄子/訳 岩波書店 2018)が出版され、これにも驚いた。「魔女のむすこたち」の作者は強制収容所で亡くなっている。


11月

「大好き!ヒゲ父さん いたずらっ子に乾杯!」
「ごめんね!ヒゲ父さん わんぱく小僧、どこ行った?」
「最高だね!ヒゲ父さん いつも一緒に歩いていこう」
(e.o.プラウエン/作 青萠堂 2005)

「お父さんとぼく」をネット書店で検索していたとき、この作品の存在を知った。ネットというのは便利なものだ。

12月

「ニール・サイモン戯曲集 1」(酒井洋子/訳 鈴木周二/訳 早川書房 1984)
「ニール・サイモン戯曲集 2」(早川書房 1984)

「ニール・サイモン戯曲集」は、現在6巻まで出版されているよう。このあと、ついでに手元にある読んでいない戯曲も読んでみようと思いたち、「ムサシ」(井上ひさし/著 集英社 2009)を読んでみた。あんまり展開が唐突だったので驚いた。舞台をみていた観客はついていけたんだろうか。

以上。
ことしは4月頃からむやみに忙しくなってしまい、ろくに更新ができなかった。
それでも本は読んでいて、なかにはとても素晴らしい作品もあったので、いずれ時間をみつけてはメモをとっていきたい。

メモをとらなかった本で一冊だけとりあげるなら、「泰平ヨンの航星日記 」(スタニスワフ・レム/著 深見弾/訳 早川書房 1980)。
レムの小説はなんだか面倒くさそうだと食わず嫌いをしていたのだけれど、読んでみたら「ほら吹き男爵」のSF版といった趣きで、たいそうバカバカしく、面白かった。
宇宙空間で時間の流れがおかしくなり、未来の自分が次つぎにあらわれるというアイデアは――、そして、あらわれる自分がどんどん機嫌が悪くなっていくというアイデアは――、たしか「ドラえもん」にもあったように思う。
もっと早く読んでおけばよかったと後悔した。

では、皆様よいお年を。


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ニール・サイモン戯曲集2

「ニール・サイモン戯曲集2」(早川書房 1984)

序文
「ジンジャーブレッド・レディ」
「二番街の囚人」
「サンシャイン・ボーイズ」
「名医先生」
「第二章」
ニール・サイモンとその作品(2)

「ジンジャーブレッド・レディ」
“The Gingerbread Lady”
酒井洋子訳
1970年作

アルコール中毒患者の療養所からもどってきた、エヴィ・ミエラ。
エヴィを迎えたのは、友人のジミーとトビー。

エヴィはクラブの歌手で、療養所に入るくらいだから、いままですさんだ暮らしをしていた。
ジミーはゲイの売れない役者。
劇中でも初日3日前に役をクビになったと嘆く。
昔、ミス・ミシガン大学に選ばれたことのあるトビーは厚化粧がやめられない。
劇中では、夫に離婚されてしまう。
3人は身を寄せあい、毒づきあう。
加えて、母親であるエヴィを支えようと、父と継母のいる家から引っ越してきた17歳の勇敢なポリーがいる。

劇の内容は、トビーがエヴィにいうセリフに尽きている。

《あんたは二十二じゃない。四十三だ。しかもあんたはアル中で、物事の良し悪しもわからなきゃ、責任感もない。自分と同じように弱いか、どうしようもないんでなきゃ、誰とも長続きした試しがない。だからあんたはジミーやわたしみたいなのと友だちなのよ。》

巻末の解説によれば、サイモンのシリアス・ドラマに面食らった観客の反応は複雑で、193回しか上演できなかったとのこと。
193回が多いのか少ないのかよくわからないけれど、「カム・ブロー・ユア・ホーン」の上演回数が677回というから、やはり少なかったのだろう。

「二番街の囚人」
“The Prisoner of Secound Avemue”
酒井洋子訳。
1971年作。

タイトル通り、2番街のあるアパートが舞台。
主人公は、メル・エディスンとエドナ・エディスンのエディスン夫妻。
メルはくたびれ、すりきれ、神経が切れかけた47歳。
夜は眠れず、情緒不安定で、エドナに始終不安を訴える。

悪いことはかさなり、アパートには泥棒が入り、メルは会社をクビに。
代わりにエドナがはたらきにでるが、メルの精神状態は悪化し、ついには医者にかかるはめに。
メルの兄弟たちが登場し、不肖の弟の援助について話しあったりする。

なにやら、ジェームズ・サーバーが書いた戯曲のよう。
ラストが雪で終わるところが、「はだしで散歩」のラストと符号しており、あの新婚夫婦のその後の話といった感がある。

「サンシャイン・ボーイズ」
“The Sunshine Boys”
酒井洋子訳。
1972作。

「おかしな二人」とならぶサイモンの代表作。
サンシャイン・ボーイズとはコンビの名前。
史上最高のヴォードヴィル芸人コンビとうたわれた、ウィリーとアルの物語だ。

ウィリーとアルも、いまは70代。
アパートで朦朧として暮らしているウィリーのところに、甥でありマネージャー役であるベンが仕事をもってくる。
TVで喜劇の歴史をテーマにしたバラエティ番組をつくる。
そこで、ウィリーとアルに登場してもらいたいと先方がいっている。
ひと晩、昔のコントをやるだけで、2人に2万ドル払うといっている。
伯父さんがこの2年で稼いだ額より多い。

この話をウィリーは断る。
アルは指でおれを突っつく。
セリフと一緒に、おれに唾をかける。
だいたい、先に引退をきめたのはあいつのほうだ、うんぬん。

意固地になるウィリーだが、ともかくアルがウィリーのアパートにやってきて稽古。
だしものはドクター・コントに決定。
アルはやる気だが、ウィリーはごねる。
稽古をはじめるものの、ちょっとしたことで大騒ぎ。
さらに本番、スタジオでの収録となるが――。

往年の名コンビが、再び顔をあわせ、おたがいの芸に敬意をもちながらも、寄るとさわると文句をいいあう。
最後は哀愁のただようラストへ。
堅牢無比な構成の、素晴らしい作品だ。

なお、解説によれば1972年当時、ブロードウェイの開演時間が8時にくり上がったことなどから、サイモンは長年なじんだ三幕形式から、二幕形式へ移行しだしたとのこと。

「名医先生」
“The Good Doctor”
鳴海四郎訳。
1973年作。

歌と踊りの一幕に、二幕十場の小品という、10の芝居をあつめたオムニバス。
芝居のアイデアの元は、チェーホフ。

《――サイモンは当初チェーホフの短篇「くしゃみ」(邦題「小役人の死」)に刺激されてファルスを書こうと思った。だが、一篇では一晩を構成できないため、手当たり次第に彼の短篇を読み、概ねチェーホフを土台に十本の小品を書いた。》

と、これは解説から。

第一幕、第一場「作家」
作家のモノローグによる一場。
この作家が、劇全体のナビゲーターとなる。

《なぜおまえはそんなに必死になって書き続けるのか、来る日も来る日も、短篇小説を次から次へとって。答えは簡単、それしか道がないから、私が作家だからです……。》

第二場「くしゃみ」
芝居好きの国家公務員、国立公園省事務官イワン・イリッチ・チェルジャーコフが妻とともに芝居見物にでかけたところ、直属の上司である国立公園大臣ミハイル・ブラシルホフ将軍閣下とでくわす。
絶好のチャンスとばかりに、チェルジャーコフは観劇の最中、将軍閣下に話かけるのだが、うっかりくしゃみをして、それが将軍の後頭部に命中。
必死でいいわけするはめに。

この失敗を、ほとんど精神がむしばまれるまで気に病んだチェルジャーコフは、翌日、さらに弁明することを決意。
その日は将軍閣下が60名もの陳情者から話を聞く日だったので、チェルジャーコフはその最後に、閣下のもとに赴くのだが――。

第三場「家庭教師」
住みこみの家庭教師をしている若いユリア。
女主人は、ユリアが大人しくて従順なのをいいことに、難癖をつけ、どんどん給料を値切っていく。
80ルーブル払うべきところを10ルーブルにまでしてしまう。

とにかく従順なユリアの物語。
読んでいて、メルヴィルの「バートルビー」を思いだした。

第四場「手術」
歯痛に苦しむ、教会の小間使いフォンミグラーソフが医者に駆けこむ。
が、先生はいない。
いたのは留守番をしている新米助手のクリャーチン。

大騒動のあげく、クリャーチンはフォンミグラーソフの歯を抜くが、失敗。
最後は奇跡を願い、2人で歌いだして幕というドタバタ劇。

第五場「晩秋」
公園のベンチで60代はじめの女性が本を読んでいる。
そこを70代はじめの男性が通りかかる。
おたがいに魅かれあっていることが歌によって示されるのだが、2人の距離は今日のところは縮まらない。

前の「手術」とはがらりと変わり、愁いのきいたひと幕。

第六場「色魔」
人妻を誘惑する名人ピョートルが、得々とその手管をひけらかしながら、誘惑を実践してみせる。

人妻を誘惑しようと思ったら、絶対にご亭主を通じて近づくこと。
ピョートルは偶然をよそおってはご亭主に近づき、奥さんをほめあげる。
亭主は家で妻にそれを話す。
妻のほうはまんざらでもない。
自分をほめ上げるピョートルの話を聞きたがり、ついには亭主にメモをとることを勧めたりする。
亭主のほうはそれを実行し、妻を相手にピョートルがいっていたことを読み上げたりする。
こんなことがあり、ついに妻がピョートルのもとにやってくるのだが、最後はピョートルが思ってもみなかった展開に。

第二幕、第一場「水死芸人」
桟橋を歩く作家のもとに、男が近づいてきていう。
ちょっとした見世物をみたくはないですか。
土佐衛門。
たった3ルーブル。
まじめに溺れやしないよ。
溺れる芝居をぶつんだ。
海に飛びこみ、助けてくれえとわめいてから、プーカプーカ浮かぶ。

とまあ、おかしな商売をする芸人の話。

第二場「オーディション」
オーディションにきた若い女。
受けこたえがちぐはぐで、なんともしまらない。
でも、なんとか演技をみせるまでこぎつけて、「三人姉妹」ラストを見事に演じてみせる。

第三場「弱き者、その名は……」
舞台は銀行の役員室。
事務のキスツーノスは痛風に悩まされ、痛みが増すことを恐れている。
そこに女が面会にやってくる。
亭主は団体査定係のシューキンといい、5か月前に病気になり勤めをクビになってしまった。
で、給料をもらいにいってみたら、前借りをしていたからと減らされている。
あいつが私の知らないところで前借りするはずがない。
不当な扱いをされたとシューキンに訴える。

ここは銀行であなたを助けてはあげられないと、キスツーノスは話すが女は聞き入れない。
いっそう騒ぎたて、キスツーノスは気も狂わんばかりとなる。

第四場「教育」
19歳の誕生日のお祝いに、父親が息子のアントーシャのために女性をあてがおうとする。
アントーシャは奥手で頼りない。
父親はそんなアントーシャをはげまし、いかがわしい界隈へ。

《「パパ……この辺には品性のすぐれた女はいないと思うけど」
 「品性のすぐれた女を探してるんじゃない。世間には品性すぐれた女がウジャウジャいる……だから品性すぐれた男たちはこういう場所へ来るはめになるんだ》

出会った女は30ルーブルというが、19のせがれ相手にはちょっと高い。
理由を話し、15ルーブルではどうかと父親は値切る。

《「思いやりがあるいいパパなのね。感心しました。あたいにあんたみたいなパパがいたら、いまごろこんなところで、あんたみたいなパパから値切られたりするような目にあわずにすんだのにね」》

という訳で、20ルーブルで交渉は成立するのだが――。
落語のような一篇。

第五場「作家」
再び作家が登場し、口上を述べて幕。

「第二幕」
“Chapter Two”
福田陽一郎、青井陽治訳。

舞台は、ジョージ・シュナイダーのアパートと、ジェニファー・マローンのアパートの2つ。
それが次つぎと切り替わる。
第一幕では9場もある。
映画的というべきか。

ジョージ・シュナイダーは、42歳の小説家。
12年間連れそった妻のバーバラに先立たれたばかり。
弟のレオがしきりになぐさめるが、ジョージの傷心は癒えない。

一方のジェニファーは、32歳の女優で離婚したばかり。
こちらにはフェイという、やはり女優の友人がついている。

もちろん、ジョージとジェニファーはじき出会う。
とりもつのは、レオとフェイ。
出会った2人は意気投合。
2週間後には結婚するといいだし、これにはレオも仰天する。

結婚までの2人の高揚感は大変なもの。
劇の後半その反動がやってくる。
加えて、レオとフェイの浮気話がそこにからむ。

解説によれば、サイモンにはどの作品にも自伝的要素があり、この作品もまた自伝的な作品だとのこと。

以上。
面白いと思ったのは、「カム・ブロー・ユア・ホーン」「おかしな二人」「ジンジャーブレッド・レディ」「サンシャイン・ボーイズ」。
「プラザ・スイート」のなかの「フォレスト・ヒルズの客」。
また、「名医先生」のなかの、「家庭教師」「オーディション」「教育」といったところ。
でも、これは戯曲を読んでの印象だから、舞台で見るとまたちがうのかもしれない。

読んでいて、会話が成立しているのかいないのかよくわからない場面がたびたびあった。
こう感じるのは、日本語訳で読んでいるためだろう。
アメリカのコメディ映画をみても、そう感じることはよくある。
英語がわかるひとが英語で読めば、きっと違和感はないのだろう。

それから。
親からの自立も、結婚や離婚や浮気も、アルコール中毒や仲たがいも、ありきたりといえばありきたりだ。
それが、ときによって普遍性を得る。
ありきたりな題材が普遍性を帯びるには、シチュエーションやセリフの面白さだけではなく、オスカーやフィリックスや、エヴィやウィリーやアルといった、際立ったキャラクターが必要なのではないか。
そんなことを思ったものだった。



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ニール・サイモン戯曲集 1

「ニール・サイモン戯曲集 1」(酒井洋子/訳 鈴木周二/訳 早川書房 1984)


ニール・サイモンが亡くなったという。
そういえば、うちにあったハヤカワ文庫版の「おかしな二人」(早川書房 2006)をまだ読んでいなかったなあと思いだし、引っ張りだして読んでみる。
大変面白い。

結婚に破れた2人の男が、共同生活をはじめるが、性格の不一致から別れるにいたるというストーリー。
元気がよくてずぼらなオスカーと、大人しくて神経質なフィリックスの組みあわせが秀逸。

「おかしな二人」が面白かったので、そういえばうちには分厚い「ニール・サイモン戯曲集」の1、2巻もあったなと思いだす。
この機会を逃したらもう読むことはないかもしれないと、これまた引っ張りだして、ことしの暑い夏のあいだ毎晩少しずつ読んでいった。
おかげでとても楽しい思いをした。

「ニール・サイモン戯曲集 1」

序文
「カム・ブロー・ユア・ホーン」
「はだしで散歩」
「おかしな二人」
「プラザ・スイート」

それから、訳者解説というべき、「ニール・サイモンとその作品(1)」
この解説が、よく要領を得ており素晴らしい。

「カム・ブロー・ユア・ホーン」
“Come Blow Your Horn”
酒井洋子訳。
1961年作。

すべてアランのアパートが舞台の3幕物。
21歳になるバディは、過保護な両親からの独立をこころみる。
ひとり暮らしを謳歌している、33歳の兄アランのアパートにころがりこみ、アランから指導を受けるのだが――。

という、バディの独立を中心のストーリーとしたお話。
兄の教育が実り、バディはあっといまに遊び人に。
いっぽうアランのほうは、本命の彼女であるコニーとすったもんだ。
2人の立場が入れ替わるところがおかしい。
全体に元気がよく、最後はハッピーエンド。
楽しいお芝居になっている。

訳者解説によれば、このお芝居のタイトルはマザーグースからとっているとのこと。
谷川俊太郎訳で確認してみると、こんな詩だった。

“Little boy blue,
 Come blow your horn,
The sheep‘s in the meadow,
 The cow‘s in the corn;“

《なきむしくん
  らっぱを ふけよ
 ひつじは まきば
  めうしは はたけに でてったよ》

「はだしで散歩」
“Barefoot in the Park”
鈴木周二訳。
1963年作。


新米弁護士のポールと、その妻コリーの新婚夫婦の話。
3幕物。
場所は、すべて新居であるニューヨークのアパート。

結婚して6日目の2人は大変幸せ。
だが、あすはじめて法廷に立つというポールは、コリーをかまっているひまがない。
それに、新居にはまだ家具もないし、天窓には穴が開いている。
そこに、コリーの母親が訪問。
上の階には、ヴェラスコという58歳になる妙な男が住んでいて、コニーの母親となにやら急速に親しくなっていく。

新婚家庭に暗雲がたちこめるのだけれど、最後はまあなんとかなる。

これはごく個人的な感想だけれど、ジャック・ヒギンズの小説をまとめて読んでいたときさんざんみかけた、オリヴァー・ウエンデル・ホームズの名前が、この戯曲にもでてきたのでびっくりした。
有名なひとだったのか。

「おかしな二人」
“The Odd Couple”
酒井洋子訳。
1965年作。

「おかしな二人」については、冒頭で書いたので省略。

「プラザ・スイート」
“Plaza Suite”
酒井洋子訳。
1968年作。

舞台は、プラザ・ホテルのスイート719号室。
その部屋を利用するひとたちをえがいたオムニバス。

第一幕目は、「ママロネックの客」
48歳になるカレン・ナッシュがスイート719号室に到着。
24年前、新婚の夜をここですごしたカレンは、結婚記念日を夫のサムとすごしにきた。
サムは、50歳になる若づくりの仕事中毒。

カレンはロマンチックにすごしたがるが、サムはそうはいかない。
いつも仕事のことを気にかけ、カレンといいあらそう。
コメディのつねとして、最後はめでたくまとまるのかと思いきや、そうはならない。
苦みのあるひと幕だ。

第二幕目は、「ハリウッドの客」
今度の、スイート719号室には、40歳で自信たっぷりな男、ジェス・キプリンガーが登場。
この部屋に、30代後半の魅力的な女性ミュリエル・テートがやってくる。

2人は同じ高校の卒業生。
いまでは、ミュリエルは結婚して3人の子持ちに。
ジェスは、ハリウッドのプロデューサー。
ミュリエルはハリウッドのゴシップに精通し、ジェスと会って舞い上がる。
いっぽう、17年前のミュリエルが忘れられないジェスは、ミュリエルのゴシップ好きに辟易しながらも、ミュリエルがほしがっているゴシップをたっぷりと提供してやる――。

これも、ハッピーエンドかどうかわからない。
複雑な味わい。

最後は、「フォレスト・ヒルズの客」
階下で娘が結婚式を挙げる予定の、ノーマとロイの夫婦。
だが、肝心の花嫁がバスルームに閉じこもりでてこなくなる。
「階下(した)じゃ68人もの人間がおれの酒を呑んでるんだぞ」
と、ロイは立腹。

すっかり恐慌をきたした2人は、鍵穴をのぞいたり――ノーマのストッキングが破れる、ドアに体当たりしたり――ロイが腕を痛める、窓からバスルームへの侵入をこころみたり――ロイのモーニングが破ける――。
いっそ夫婦2人で裏口から逃げだそうと相談したり、移住を考えたり――。

前2作の味わいを払拭するようなドタバタ劇。
軽く、ばかばかしく、オチも決まり、申し分ない。
たいそう愉快なお芝居だ。


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