タナカの読書メモです。
一冊たちブログ
この湖にボート禁止
「この湖にボート禁止」(トリーズ 学習研究社 1976)
児童書。
訳者は、田中明子。
原書の刊行は、1949年。
主人公ビルによる、〈ぼく〉の1人称。
ビルは、お母さんと妹のスーザンと3人暮らし。
ある日、お母さんのいとこのフェイが亡くなったと知らせがくる。
ずっと疎遠だったけれど、フェイはお母さんに湖水地方の山荘〈せせらぎ荘〉を遺してくれたという。
ただし、条件がある。
5年間、毎年9か月はそこに住むこと。
ビルとスーザンの学校のこともあるし、引っ越しにはなかなか思い切れない。
でも、3人はせまい部屋を間借りして暮らしており、大家さんは意地悪。
けっきょく、お母さんが大家さんに啖呵を切り――大家さんがビルとスーザンのことを「ちびのよたもの」などといったから――3人は山荘に引っ越すことに。
引っ越し当日は大雨に降られてさんざん。
でも、山荘は旗の湖(うみ)という湖のそばにあり、なんとボートもある。
このボートも亡くなったフェイおばさんのもの。
ビルとスーザンはさっそくボートに乗り、湖の島まで探検にでかける。
ところが、その日の夕方、アルフレッド・アスキュー卿という大男が、せせらぎ荘を訪ねてくる。
アルフレッド卿はこの辺りの地主で、湖も、湖の島もアルフレッド卿のもの。
今後、湖にボートをだしたり、島にいったりしてはいけないと、アルフレッド卿は命じる。
あの島は鳥類保護場なのだ、と。
せせらぎ荘の隣りに住むタイラーおじさんによれば、アルフレッド卿はインド帰りの人物。
威張っているので、この村の嫌われ者。
せせらぎ荘にお茶を飲みにきた女性も、森を散策していたところアルフレッド卿に怒鳴られたという。
この女性は喫茶店とまちがえてせせらぎ荘にきてしまい、ビルとスーザンは女性が恥をかかないように、喫茶店のふりをして、お茶をだしたりしてあげた。
ビルが、鳥獣保護場のため島には入れないという話をすると、女性は笑う。
こんなに周りに山や林があるのに、なぜ島だけ保護場にしなければいけないの。
いわれてみれば、その通り。
アルフレッド卿には、島にひとを入れたくない理由でもあるのだろうか。
ともかく、これがきっかけで、お母さんは本当にせせらぎ荘で喫茶店をはじめることに。
ビルとスーザンは学校がはじまる。
ビルはグラマースクールに通い、謹厳実直なキングスフォード校長先生に出会う。
また、ティムという友だちができる。
ティムの将来の夢は刑事になること。
ちなみに、ビルの夢は作家になることだ。
一方、州立女学校に通うスーザンには、ペニーという友だちができる。
ペニーは女優志望だったけれど、けがのため足を少し引きずるようになってしまった。
でも、才気煥発で負けん気が強い。
こうして友だちになった4人は、徐々にアルフレッド卿と島の秘密に近づいていくことに――。
本書は、地方に引っ越した町の子が冒険にでくわすという、典型的なスタイルの児童文学。
このあと物語は、ヴァイキングをめぐるこの地方の歴史とからみ、宝探しの様相を呈してくる。
物語には2回、検死審問の場面がでてくる。
つまり、少年少女たちは歴史と社会にぶつかるので、これは優れた児童文学にそなわった特長といえるだろう。
本書は、何度か版元を変えて出版されている。
読んだのは、学習研究社版の、田中明子訳。
さすがに訳は古びているけれど、これで読んだので愛着がある。
新しい訳としては、多賀京子訳がある(福音館書店 2006)。
田中明子訳とくらべると、きびきびしている。
例として、ビルとスーザンがはじめて湖にボートを浮かべ、乗っても大丈夫だろうかと確認する場面を引用してみよう。
田中明子訳。
《「なかになにか重いものを入れてみなきゃ。ほんとうにだいじょうぶだとはいえないよ。」ぼくがいった。「喫水線のあたりに、ひょっとしたら穴があいているかもしれないよ。でもこれじゃあんまり浮きすぎているから、わかんないな。」
「じゃ、お乗んなさいよ。わたしがしっかり持っててあげるから。」スーザンがけしかけた。》
多賀京子訳。
《「まだ安心はできない。乗ったとき喫水線のあたりで水がはいってくるかも知れない。この状態だと、ボートが浮きあがりすぎていてよくわからない」
「じゃあ乗ってみてよ。しっかり綱を持っているから」》
福音館書店版には、原書のさし絵も収録されている。
印象的な大人が登場するのも、優れた児童文学の特長のひとつ。
本書の場合は、キングスフォード校長だ。
この村で育ち、旧弊で、曲がったことが大嫌いで、少々子どもっぽく、地域の歴史に詳しい。
最初こそ、ビルはキングスフォード校長の古い考えかたにうんざりするけれど、校長先生の率直な態度と、歴史への熱意に一目おくようになる。
類型的だけれど、生き生きと書かれているのがうれしい。
最後、島での宝探しの場面。
アルフレッド卿が、「その島は私有地だぞ」と怒鳴ると、キングスフォード校長はこういいかえす(ここは田中明子訳で)。
《「わしは、子どものころ、この島であそんだのじゃ、50年まえのことだ。」キングスフォード先生がやりかえした。「そして、わしは――これからだって、その気があれば、ここでつづけてあそぶぞ!」》
福音館書店版の訳者あとがきには、作者のトリーズがこの作品を書くきっかけとなった、2つの出来事が紹介されている。
ひとつは、寄宿学校の生徒を主人公にした本はたくさんあるけれど、ふつうの学校に通う子どもたちの本はだれも書いてくれないと、訪ねた学校の少女たちにいわれたため。
もうひとつは、歴史小説を書いていたトリーズに、娘のジョスリンが、たまには現代の物語を読みたいといったため。
加えて、本書の着想には、物語の後半で触れられる「ミルデンホールの宝物」についての出来事も影響しているのではないかと思う。
1942年、トラクターで畑をたがやしていたところ、すきになにか引っかかり、調べてみるとローマ時代の銀の大皿などがみつかったという、実際にあった出来事。
ロアルド・ダールがこの出来事を取材して文章を書いており、その文章にダイナミックな絵をつけた本が、「ミルデンホールの宝物」(評論社 2000)として出版されている。
児童書。
訳者は、田中明子。
原書の刊行は、1949年。
主人公ビルによる、〈ぼく〉の1人称。
ビルは、お母さんと妹のスーザンと3人暮らし。
ある日、お母さんのいとこのフェイが亡くなったと知らせがくる。
ずっと疎遠だったけれど、フェイはお母さんに湖水地方の山荘〈せせらぎ荘〉を遺してくれたという。
ただし、条件がある。
5年間、毎年9か月はそこに住むこと。
ビルとスーザンの学校のこともあるし、引っ越しにはなかなか思い切れない。
でも、3人はせまい部屋を間借りして暮らしており、大家さんは意地悪。
けっきょく、お母さんが大家さんに啖呵を切り――大家さんがビルとスーザンのことを「ちびのよたもの」などといったから――3人は山荘に引っ越すことに。
引っ越し当日は大雨に降られてさんざん。
でも、山荘は旗の湖(うみ)という湖のそばにあり、なんとボートもある。
このボートも亡くなったフェイおばさんのもの。
ビルとスーザンはさっそくボートに乗り、湖の島まで探検にでかける。
ところが、その日の夕方、アルフレッド・アスキュー卿という大男が、せせらぎ荘を訪ねてくる。
アルフレッド卿はこの辺りの地主で、湖も、湖の島もアルフレッド卿のもの。
今後、湖にボートをだしたり、島にいったりしてはいけないと、アルフレッド卿は命じる。
あの島は鳥類保護場なのだ、と。
せせらぎ荘の隣りに住むタイラーおじさんによれば、アルフレッド卿はインド帰りの人物。
威張っているので、この村の嫌われ者。
せせらぎ荘にお茶を飲みにきた女性も、森を散策していたところアルフレッド卿に怒鳴られたという。
この女性は喫茶店とまちがえてせせらぎ荘にきてしまい、ビルとスーザンは女性が恥をかかないように、喫茶店のふりをして、お茶をだしたりしてあげた。
ビルが、鳥獣保護場のため島には入れないという話をすると、女性は笑う。
こんなに周りに山や林があるのに、なぜ島だけ保護場にしなければいけないの。
いわれてみれば、その通り。
アルフレッド卿には、島にひとを入れたくない理由でもあるのだろうか。
ともかく、これがきっかけで、お母さんは本当にせせらぎ荘で喫茶店をはじめることに。
ビルとスーザンは学校がはじまる。
ビルはグラマースクールに通い、謹厳実直なキングスフォード校長先生に出会う。
また、ティムという友だちができる。
ティムの将来の夢は刑事になること。
ちなみに、ビルの夢は作家になることだ。
一方、州立女学校に通うスーザンには、ペニーという友だちができる。
ペニーは女優志望だったけれど、けがのため足を少し引きずるようになってしまった。
でも、才気煥発で負けん気が強い。
こうして友だちになった4人は、徐々にアルフレッド卿と島の秘密に近づいていくことに――。
本書は、地方に引っ越した町の子が冒険にでくわすという、典型的なスタイルの児童文学。
このあと物語は、ヴァイキングをめぐるこの地方の歴史とからみ、宝探しの様相を呈してくる。
物語には2回、検死審問の場面がでてくる。
つまり、少年少女たちは歴史と社会にぶつかるので、これは優れた児童文学にそなわった特長といえるだろう。
本書は、何度か版元を変えて出版されている。
読んだのは、学習研究社版の、田中明子訳。
さすがに訳は古びているけれど、これで読んだので愛着がある。
新しい訳としては、多賀京子訳がある(福音館書店 2006)。
田中明子訳とくらべると、きびきびしている。
例として、ビルとスーザンがはじめて湖にボートを浮かべ、乗っても大丈夫だろうかと確認する場面を引用してみよう。
田中明子訳。
《「なかになにか重いものを入れてみなきゃ。ほんとうにだいじょうぶだとはいえないよ。」ぼくがいった。「喫水線のあたりに、ひょっとしたら穴があいているかもしれないよ。でもこれじゃあんまり浮きすぎているから、わかんないな。」
「じゃ、お乗んなさいよ。わたしがしっかり持っててあげるから。」スーザンがけしかけた。》
多賀京子訳。
《「まだ安心はできない。乗ったとき喫水線のあたりで水がはいってくるかも知れない。この状態だと、ボートが浮きあがりすぎていてよくわからない」
「じゃあ乗ってみてよ。しっかり綱を持っているから」》
福音館書店版には、原書のさし絵も収録されている。
印象的な大人が登場するのも、優れた児童文学の特長のひとつ。
本書の場合は、キングスフォード校長だ。
この村で育ち、旧弊で、曲がったことが大嫌いで、少々子どもっぽく、地域の歴史に詳しい。
最初こそ、ビルはキングスフォード校長の古い考えかたにうんざりするけれど、校長先生の率直な態度と、歴史への熱意に一目おくようになる。
類型的だけれど、生き生きと書かれているのがうれしい。
最後、島での宝探しの場面。
アルフレッド卿が、「その島は私有地だぞ」と怒鳴ると、キングスフォード校長はこういいかえす(ここは田中明子訳で)。
《「わしは、子どものころ、この島であそんだのじゃ、50年まえのことだ。」キングスフォード先生がやりかえした。「そして、わしは――これからだって、その気があれば、ここでつづけてあそぶぞ!」》
福音館書店版の訳者あとがきには、作者のトリーズがこの作品を書くきっかけとなった、2つの出来事が紹介されている。
ひとつは、寄宿学校の生徒を主人公にした本はたくさんあるけれど、ふつうの学校に通う子どもたちの本はだれも書いてくれないと、訪ねた学校の少女たちにいわれたため。
もうひとつは、歴史小説を書いていたトリーズに、娘のジョスリンが、たまには現代の物語を読みたいといったため。
加えて、本書の着想には、物語の後半で触れられる「ミルデンホールの宝物」についての出来事も影響しているのではないかと思う。
1942年、トラクターで畑をたがやしていたところ、すきになにか引っかかり、調べてみるとローマ時代の銀の大皿などがみつかったという、実際にあった出来事。
ロアルド・ダールがこの出来事を取材して文章を書いており、その文章にダイナミックな絵をつけた本が、「ミルデンホールの宝物」(評論社 2000)として出版されている。
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こわがりやのおばけ
「こわがりやのおばけ」(ディーター=グリム/作 関楠生/訳 竹山のぼる/絵 講談社 1977)
ドイツの児童書。
原題は、“Archi das Gespensterkind”
原書の刊行は、1973年。
ビルボルン城にすむ、おばけの子どもアルヒバルトは、大変なこわがりや。
カーテンが風でうごいただけで、びくっとしてしまう。
おばけというものは、おばけを信じるひとがそばにいないと生きていけない。
だから、おばけは人間をおどかし、尊敬されるようにならないといけない。
そう、お城のもち主であるユリアーネおばさんにたしなめられるのだけど、アルヒバルトにはなかなかできない。
ある日、ユリアーネおばさんはお城を売りにだすことに。
買ったのは、アメリカに住む億万長者のミスター=ヒルビリー。
アルヒバルトは意を決し、ミスター=ヒルビリーをおどかそうする。
が、ミスター=ヒルビリーは逆に、アルヒバルトを10万ドルで買おうといいだす。
ここまで読んで、このあとアルヒバルトはお城とともにアメリカにいくんだなと思った。
でも、この予想ははずれ。
アルヒバルトは汽車に乗り、ユリアーネおばさんをさがしに大都会に旅立つ。
大都会はおばけを信じないひとたちばかり。
ユリアーネおばさんの居どころもわからず、アルヒバルトは意気消沈。
ところが、ミスター=ヒルビリーがアルヒバルトに10万ドルの懸賞金をかけたものだから、アルヒバルトは町中のひとに追われるはめになる――。
アルヒバルトが旅の途中で出会うのは、汽車の釜焚きネッテルベック、牛乳屋のジェイムズ、博物館長のピムフリン、風見鶏のキキ、それにおまつり広場でアーモンド売りの手伝いをしているトム少年などなど。
次つぎと新しい展開が起こり飽きさせない。
ドイツ以北の児童文学は、登場人物にやけにおじさんがでてくる。
これは一体どういうわけだろうと長年不思議に思っている。
本書には続編、「こわがりやのおばけアメリカへいく」(1985)がある.
こちらは未読。
ドイツの児童書。
原題は、“Archi das Gespensterkind”
原書の刊行は、1973年。
ビルボルン城にすむ、おばけの子どもアルヒバルトは、大変なこわがりや。
カーテンが風でうごいただけで、びくっとしてしまう。
おばけというものは、おばけを信じるひとがそばにいないと生きていけない。
だから、おばけは人間をおどかし、尊敬されるようにならないといけない。
そう、お城のもち主であるユリアーネおばさんにたしなめられるのだけど、アルヒバルトにはなかなかできない。
ある日、ユリアーネおばさんはお城を売りにだすことに。
買ったのは、アメリカに住む億万長者のミスター=ヒルビリー。
アルヒバルトは意を決し、ミスター=ヒルビリーをおどかそうする。
が、ミスター=ヒルビリーは逆に、アルヒバルトを10万ドルで買おうといいだす。
ここまで読んで、このあとアルヒバルトはお城とともにアメリカにいくんだなと思った。
でも、この予想ははずれ。
アルヒバルトは汽車に乗り、ユリアーネおばさんをさがしに大都会に旅立つ。
大都会はおばけを信じないひとたちばかり。
ユリアーネおばさんの居どころもわからず、アルヒバルトは意気消沈。
ところが、ミスター=ヒルビリーがアルヒバルトに10万ドルの懸賞金をかけたものだから、アルヒバルトは町中のひとに追われるはめになる――。
アルヒバルトが旅の途中で出会うのは、汽車の釜焚きネッテルベック、牛乳屋のジェイムズ、博物館長のピムフリン、風見鶏のキキ、それにおまつり広場でアーモンド売りの手伝いをしているトム少年などなど。
次つぎと新しい展開が起こり飽きさせない。
ドイツ以北の児童文学は、登場人物にやけにおじさんがでてくる。
これは一体どういうわけだろうと長年不思議に思っている。
本書には続編、「こわがりやのおばけアメリカへいく」(1985)がある.
こちらは未読。
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おいしいものさがし
「おいしいものさがし」(ナタリー・バビット/作 越智道雄/訳 富山房 1971)
原題は、“The Search for Delicious”
原書の刊行は、1969年。
児童書。
3人称、ほぼ主人公のゲーレン視点。
まずプロローグ。
昔むかし、山には小人たちが、森には森の精が、湖には人魚が、空には風の精がいた。
ある日、鉱石を得ようと小人が穴を掘っていると、そこから泉がわきだした。
小人たちはその泉が気に入り、石を積み、小屋をつくった。
そして、小さな石で笛をつくり、その笛である曲を吹くと、小屋の扉が閉じたりひらいたりできるようにした。
何年かたつと、泉の水はどんどんたまり、湖となり、人魚がすむようになった。
そのなかに、アルディスという小さな可愛らしい人魚がいた。
ひとりの小人が、このアルディスに人形をつくってやった。
お礼にアルディスは、いまはもう湖に沈んでしまった泉の番をすることにした。
小人たちは、例の笛をアルディスに預けた。
あるとき、岸辺に男がひとりやってきて音楽をかなでた。
アルディスはその音色にすっかり聞きほれた。
すると、男はとがった岩にぶらさがっている笛をみつけ、それをもっていってしまった。
男は笛を吹いたので――その音は人間には聞こえないのだが――泉の小屋の扉は閉まり、そのためアルディスはなかにいた人形をとりだすことができなくなってしまった。
さて、本編。
王国の総理大臣、デグリーは辞典を作成中。
ところが、「おいしいもの」の項目で王から反対意見がだされた。
「おいしいもの、は魚のフライ」
という一文が、魚のフライが嫌いな王のお気に召さなかったのだ。
その場に居あわせた将軍は、「おいしいものは一杯のビール」といい、お妃は、「おいしいものはクリスマス・プティング」だという。
ちなみに王が好きなのはリンゴ。
みんなが好き勝手なことをいい、収拾がつかない。
宮殿は不穏な空気につつまれる。
解決策として、デグリ―はすべての国民から「おいしいもの」を聞きとることを王に進言。
もと捨て子で、デグリ―のもとで息子として育てられた12歳の少年ゲーレンが、この任務のために旅立つことに。
というわけで、マロウという名前の馬に乗り、ゲーレンは出発。
王国には4つの町があり、それを順番にまわっていくのだが――。
とまあ、こういったのんきな感じで物語ははじまるのだが、後半になるにつれ思いもかけない展開に。
この作品は、ジャンルとしては童話とファンタジーの中間に位置しているように思える。
王国に妖精、おいしいものさがしといった道具立ては童話的だけれど、その後の展開は社会性があり、童話からファンタジーに傾いている。
おいしいものさがしは、もちろんうまくいかない。
各自、勝手なことをいってあらそうありさま。
それに、悪者が登場する。
お妃の弟、ヘムロック。
ゲーレンの先回りをし、国民が食べてもいいものといけないものをさだめる法律を、王がつくろうとしていると触れまわる。
ゲーレンはそのための調査にきたのだといって、町のひとたちを脅かす。
そのため、ゲーレンがある農夫の一家においしいものをたずねたところ、その夫婦は断固として野菜とこたえる。
野菜が食べてはいけないものになったら、一家は食べていけない。
夫婦の子どもは、最初お菓子とこたえるけれど、父親にきびしく叱られ、野菜とこたえるようになる。
ヘムロックの策略は功を奏し、王国はかりかりした食べ物が好きなクリスプ党と、どろどろした食べ物が好きなスコッシュ党に分裂。
戦争をはじめる。
ところで、プロローグにあらわれた、かわいそうな人魚のアルディスは物語にどうかかわってくるのか。
ゲーレンは旅の途中、森の精や、旅まわりの詩人や、おばあさんが飼っているカラスや、山で出会った小人たちから、人魚のアルディスの物語を知るようになる。
また、ヘムロックがゲーレンの先まわりをし、アルディスについてあれこれさぐりを入れていたことがわかる。
というのも、ヘムロックは湖をせきとめ、川を干上がらせ、その混乱に乗じて王を殺害しようとたくらんでいたからだ。
一方、おいしいものさがし。
町にいくと、こいつが戦争を引き起こした張本人だと、ゲーレンは町のひとから食べ物を投げつけられる。
ゲーレンは意気消沈。
昔、妖精たちがすぐにあらそいをはじめる人間たちに愛想をつかして、自然のなかにかくれたように、ゲーレンももう人間からはなれて暮らそうと決意するのだが――。
おいしいものであらそうなんてばかげたことだ。
物語の冒頭で、そういうゲーレンに、デグリ―はこうこたえた。
《「もちろん、ばかげたことじゃ」そうり大臣はじれったそうにいった。「だがのう、大事件というものは、たいていはばかげたことからはじまるものなんじゃ」》
後半、物語はやけにきびしさを増していく。
でも、そこはまだ児童書の範疇におさまっていて、最後は大団円をむかえる。
原題は、“The Search for Delicious”
原書の刊行は、1969年。
児童書。
3人称、ほぼ主人公のゲーレン視点。
まずプロローグ。
昔むかし、山には小人たちが、森には森の精が、湖には人魚が、空には風の精がいた。
ある日、鉱石を得ようと小人が穴を掘っていると、そこから泉がわきだした。
小人たちはその泉が気に入り、石を積み、小屋をつくった。
そして、小さな石で笛をつくり、その笛である曲を吹くと、小屋の扉が閉じたりひらいたりできるようにした。
何年かたつと、泉の水はどんどんたまり、湖となり、人魚がすむようになった。
そのなかに、アルディスという小さな可愛らしい人魚がいた。
ひとりの小人が、このアルディスに人形をつくってやった。
お礼にアルディスは、いまはもう湖に沈んでしまった泉の番をすることにした。
小人たちは、例の笛をアルディスに預けた。
あるとき、岸辺に男がひとりやってきて音楽をかなでた。
アルディスはその音色にすっかり聞きほれた。
すると、男はとがった岩にぶらさがっている笛をみつけ、それをもっていってしまった。
男は笛を吹いたので――その音は人間には聞こえないのだが――泉の小屋の扉は閉まり、そのためアルディスはなかにいた人形をとりだすことができなくなってしまった。
さて、本編。
王国の総理大臣、デグリーは辞典を作成中。
ところが、「おいしいもの」の項目で王から反対意見がだされた。
「おいしいもの、は魚のフライ」
という一文が、魚のフライが嫌いな王のお気に召さなかったのだ。
その場に居あわせた将軍は、「おいしいものは一杯のビール」といい、お妃は、「おいしいものはクリスマス・プティング」だという。
ちなみに王が好きなのはリンゴ。
みんなが好き勝手なことをいい、収拾がつかない。
宮殿は不穏な空気につつまれる。
解決策として、デグリ―はすべての国民から「おいしいもの」を聞きとることを王に進言。
もと捨て子で、デグリ―のもとで息子として育てられた12歳の少年ゲーレンが、この任務のために旅立つことに。
というわけで、マロウという名前の馬に乗り、ゲーレンは出発。
王国には4つの町があり、それを順番にまわっていくのだが――。
とまあ、こういったのんきな感じで物語ははじまるのだが、後半になるにつれ思いもかけない展開に。
この作品は、ジャンルとしては童話とファンタジーの中間に位置しているように思える。
王国に妖精、おいしいものさがしといった道具立ては童話的だけれど、その後の展開は社会性があり、童話からファンタジーに傾いている。
おいしいものさがしは、もちろんうまくいかない。
各自、勝手なことをいってあらそうありさま。
それに、悪者が登場する。
お妃の弟、ヘムロック。
ゲーレンの先回りをし、国民が食べてもいいものといけないものをさだめる法律を、王がつくろうとしていると触れまわる。
ゲーレンはそのための調査にきたのだといって、町のひとたちを脅かす。
そのため、ゲーレンがある農夫の一家においしいものをたずねたところ、その夫婦は断固として野菜とこたえる。
野菜が食べてはいけないものになったら、一家は食べていけない。
夫婦の子どもは、最初お菓子とこたえるけれど、父親にきびしく叱られ、野菜とこたえるようになる。
ヘムロックの策略は功を奏し、王国はかりかりした食べ物が好きなクリスプ党と、どろどろした食べ物が好きなスコッシュ党に分裂。
戦争をはじめる。
ところで、プロローグにあらわれた、かわいそうな人魚のアルディスは物語にどうかかわってくるのか。
ゲーレンは旅の途中、森の精や、旅まわりの詩人や、おばあさんが飼っているカラスや、山で出会った小人たちから、人魚のアルディスの物語を知るようになる。
また、ヘムロックがゲーレンの先まわりをし、アルディスについてあれこれさぐりを入れていたことがわかる。
というのも、ヘムロックは湖をせきとめ、川を干上がらせ、その混乱に乗じて王を殺害しようとたくらんでいたからだ。
一方、おいしいものさがし。
町にいくと、こいつが戦争を引き起こした張本人だと、ゲーレンは町のひとから食べ物を投げつけられる。
ゲーレンは意気消沈。
昔、妖精たちがすぐにあらそいをはじめる人間たちに愛想をつかして、自然のなかにかくれたように、ゲーレンももう人間からはなれて暮らそうと決意するのだが――。
おいしいものであらそうなんてばかげたことだ。
物語の冒頭で、そういうゲーレンに、デグリ―はこうこたえた。
《「もちろん、ばかげたことじゃ」そうり大臣はじれったそうにいった。「だがのう、大事件というものは、たいていはばかげたことからはじまるものなんじゃ」》
後半、物語はやけにきびしさを増していく。
でも、そこはまだ児童書の範疇におさまっていて、最後は大団円をむかえる。
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星に叫ぶ岩ナルガン
「星に叫ぶ岩ナルガン」(パトリシア・ライトソン/作 猪熊葉子/訳 評論社 1982)
原題は、“The Nargun and the Stars”
原書の刊行は、1973年。
訳者あとがきによれば、作者のパトリシア・ライトソンは、1921年生まれ。
オーストラリアのひと。
内容については、巻末の出版広告に掲載されている。この本の紹介を引こう。
《太古の岩ナルガンが深い眠りからさめ、再び大地を移動し始めた! オーストラリア原住民アボリジニーの伝説を基に描かれたファンタジーの世界。》
見返しには、作品舞台の地図がついており、物語の理解を助けてくれる。
第1章のタイトルは、「ナルガン動く」
これはプロローグに当たる章。
ナルガンといううごく岩が、ウォンガディラという山深い土地にやってきたこと。
このあたりの沼や木にすむ古い生きものたちは、それを黙認していること。
そして、この土地で生まれ育った、チャーリー・ウォータースと、その妹イディの、歳をとった兄妹がここで暮らしているということ。
2章目から物語はスタート。
主人公の名前は、サイモン・ブレント。
年齢は書いていないが、10歳くらいに思える。
交通事故で両親を亡くしたサイモンは、ウォータース兄妹の家にもらわれることに。
2人は、サイモンのお母さんのまたいとこに当たる。
それまで、サイモンはウォンガディラなんて地名を聞いたことがなかった。
イディがサイモンを迎えにきて、2人は汽車に。
駅ではチャーリーが迎えにきてくれ、1時間以上もドライブして、やっとウォンガディラの家に到着。
チャーリーとイディは、ここで牧羊を営んでいる。
サイモンは、あたりを探検。
山の上に沼があり、そこに昔からすんでいるポトクーロックという生きものと出会う。
ポトクーロックはいたずら好きな、河童みたいな生きもの。
また林には、大勢の、ツーロングと呼ばれる小人のような生きものがすんでいる。
ところで。
最近、山にはブルドーザーや地ならし機械――これは原文のママ。ローラー車みたいなものだろうか――が入りこみ、大きな音を立てて、木々をなぎ倒している。
古い生きものたちは、これが気に入らない。
ある嵐の晩、ツーロングとポトクーロックは、地ならし機械を沼に沈めてしまう。
翌日は大騒ぎ。
警察がきたり、近所のひとたちが駆りだされて捜索がはじまったり。
もちろん、地ならし機械はみつからない。
それどころか、ブルドーザーまで行方不明に。
地ならし機械が沼に沈んでいることは、ポトクーロックに教わってサイモンは知っていた。
けれど、ブルドーザーの行方はわからない。
ひとりでブルドーザーをさがしていると、サイモンは不思議なことに気づく。
前に、大きな岩に生えた苔に自分の名前を書いておいた。
その大きな岩が、なぜか峡谷の上にきている。
これもツーロングのしわざだろうかと考えていると、ぺちゃんこに押しつぶされた羊をみつける。
サイモンがポトクーロックにこの岩のことを訊くと、この古い生きものはいう。
《「あれはここのものじゃない。あれはナルガンなんだ」》
サイモンは、チャーリーにこのことを相談。
この土地で生まれ育ったチャーリーは、ポトクーロックやツーロングのことをよく知っていた。
あとでわかるけれど、もちろんイディも。
サイモンとチャーリーは、ナルガンを調べにいく。
ナルガンは、一見ただの大きな岩にしかみえない。
が、サイモンが木の棒を投げつけると、はね返ってくる。
サイモンはあやうく、はね返ってきた木の棒にぶつかりそうになる。
チャーリーがロープと馬のサプライズをつかって、ナルガンをうごかそうとすると、ナルガンは抵抗する。
また、そのとき生じたナルガンのかけらは、坂を上っていった。
その晩、ナルガンはサイモンたちが眠っているウォンガディラの家に忍びよってくる――。
評論社の児童書は、一体これは子ども向きの本だろうかと思うものが多い。
本書も、そんな作品のひとつ。
ナルガンがウォンガディラの家をのぞきにくる場面など、ほとんどホラーめいている。
このあと、サイモンとチャーリーは、ポトクーロックやツーロングたちと会見。
これら土地の精と話すには、面倒な手続きがいるのだが、サイモンがそれをやりおおせて三者協議となる。
ポトクーロックやツーロングも、ナルガンのことを好ましく思っていない。
できれば追い払いたいと思っているが、やりかたがわからない。
ナルガンのことを知っているのは、洞穴にすむナイオルだと、ツーロングはいう。
ナイオルに会うためには、サイモンがひとりでナイオルたちを訪ねなければいけない――。
ポトクーロックやツーロングやナイオルといった土地の精たちは、人語を解するものの、人間をそれほど気にとめていない。
かれらははるか昔から、この土地に暮らしている。
またナルガンは、土地の精たちよりも、さらに昔から存在している。
そして、ここが大事なところだが、ナルガンは別に敵ではない。
人間と、土地の精と、ナルガンのもつ時間はそれぞれちがっている。
今回の出来事は、それぞれ別の時間をもつ者たちが出くわしたために生じたにすぎない。
人間と土地の精にとっては、ナルガンを追い払えればそれでいいのだ。
この作品は、3人称多視点。
視点はときおりナルガンにも移る。
視点の移行はたいへんスムーズ。
この作品は、アボリジニの伝説をもとに書かれたと紹介文にはある。
もとの伝説はどんなものなのだろう。
児童書には、子どもが都会をはなれ、親戚の家にやってくるといったパターンの話がたくさんある。
でも、親戚の家で、同年代の子どもにまったく会わないという作品も、ずいぶんめずらしい。
人間関係の話ではなく、自然と人間の話であることが、このことからもよくわかるものだ。
原題は、“The Nargun and the Stars”
原書の刊行は、1973年。
訳者あとがきによれば、作者のパトリシア・ライトソンは、1921年生まれ。
オーストラリアのひと。
内容については、巻末の出版広告に掲載されている。この本の紹介を引こう。
《太古の岩ナルガンが深い眠りからさめ、再び大地を移動し始めた! オーストラリア原住民アボリジニーの伝説を基に描かれたファンタジーの世界。》
見返しには、作品舞台の地図がついており、物語の理解を助けてくれる。
第1章のタイトルは、「ナルガン動く」
これはプロローグに当たる章。
ナルガンといううごく岩が、ウォンガディラという山深い土地にやってきたこと。
このあたりの沼や木にすむ古い生きものたちは、それを黙認していること。
そして、この土地で生まれ育った、チャーリー・ウォータースと、その妹イディの、歳をとった兄妹がここで暮らしているということ。
2章目から物語はスタート。
主人公の名前は、サイモン・ブレント。
年齢は書いていないが、10歳くらいに思える。
交通事故で両親を亡くしたサイモンは、ウォータース兄妹の家にもらわれることに。
2人は、サイモンのお母さんのまたいとこに当たる。
それまで、サイモンはウォンガディラなんて地名を聞いたことがなかった。
イディがサイモンを迎えにきて、2人は汽車に。
駅ではチャーリーが迎えにきてくれ、1時間以上もドライブして、やっとウォンガディラの家に到着。
チャーリーとイディは、ここで牧羊を営んでいる。
サイモンは、あたりを探検。
山の上に沼があり、そこに昔からすんでいるポトクーロックという生きものと出会う。
ポトクーロックはいたずら好きな、河童みたいな生きもの。
また林には、大勢の、ツーロングと呼ばれる小人のような生きものがすんでいる。
ところで。
最近、山にはブルドーザーや地ならし機械――これは原文のママ。ローラー車みたいなものだろうか――が入りこみ、大きな音を立てて、木々をなぎ倒している。
古い生きものたちは、これが気に入らない。
ある嵐の晩、ツーロングとポトクーロックは、地ならし機械を沼に沈めてしまう。
翌日は大騒ぎ。
警察がきたり、近所のひとたちが駆りだされて捜索がはじまったり。
もちろん、地ならし機械はみつからない。
それどころか、ブルドーザーまで行方不明に。
地ならし機械が沼に沈んでいることは、ポトクーロックに教わってサイモンは知っていた。
けれど、ブルドーザーの行方はわからない。
ひとりでブルドーザーをさがしていると、サイモンは不思議なことに気づく。
前に、大きな岩に生えた苔に自分の名前を書いておいた。
その大きな岩が、なぜか峡谷の上にきている。
これもツーロングのしわざだろうかと考えていると、ぺちゃんこに押しつぶされた羊をみつける。
サイモンがポトクーロックにこの岩のことを訊くと、この古い生きものはいう。
《「あれはここのものじゃない。あれはナルガンなんだ」》
サイモンは、チャーリーにこのことを相談。
この土地で生まれ育ったチャーリーは、ポトクーロックやツーロングのことをよく知っていた。
あとでわかるけれど、もちろんイディも。
サイモンとチャーリーは、ナルガンを調べにいく。
ナルガンは、一見ただの大きな岩にしかみえない。
が、サイモンが木の棒を投げつけると、はね返ってくる。
サイモンはあやうく、はね返ってきた木の棒にぶつかりそうになる。
チャーリーがロープと馬のサプライズをつかって、ナルガンをうごかそうとすると、ナルガンは抵抗する。
また、そのとき生じたナルガンのかけらは、坂を上っていった。
その晩、ナルガンはサイモンたちが眠っているウォンガディラの家に忍びよってくる――。
評論社の児童書は、一体これは子ども向きの本だろうかと思うものが多い。
本書も、そんな作品のひとつ。
ナルガンがウォンガディラの家をのぞきにくる場面など、ほとんどホラーめいている。
このあと、サイモンとチャーリーは、ポトクーロックやツーロングたちと会見。
これら土地の精と話すには、面倒な手続きがいるのだが、サイモンがそれをやりおおせて三者協議となる。
ポトクーロックやツーロングも、ナルガンのことを好ましく思っていない。
できれば追い払いたいと思っているが、やりかたがわからない。
ナルガンのことを知っているのは、洞穴にすむナイオルだと、ツーロングはいう。
ナイオルに会うためには、サイモンがひとりでナイオルたちを訪ねなければいけない――。
ポトクーロックやツーロングやナイオルといった土地の精たちは、人語を解するものの、人間をそれほど気にとめていない。
かれらははるか昔から、この土地に暮らしている。
またナルガンは、土地の精たちよりも、さらに昔から存在している。
そして、ここが大事なところだが、ナルガンは別に敵ではない。
人間と、土地の精と、ナルガンのもつ時間はそれぞれちがっている。
今回の出来事は、それぞれ別の時間をもつ者たちが出くわしたために生じたにすぎない。
人間と土地の精にとっては、ナルガンを追い払えればそれでいいのだ。
この作品は、3人称多視点。
視点はときおりナルガンにも移る。
視点の移行はたいへんスムーズ。
この作品は、アボリジニの伝説をもとに書かれたと紹介文にはある。
もとの伝説はどんなものなのだろう。
児童書には、子どもが都会をはなれ、親戚の家にやってくるといったパターンの話がたくさんある。
でも、親戚の家で、同年代の子どもにまったく会わないという作品も、ずいぶんめずらしい。
人間関係の話ではなく、自然と人間の話であることが、このことからもよくわかるものだ。
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ミサゴのくる谷
「ミサゴのくる谷」(ジル・ルイス/作 さくまゆみこ/訳 評論社 2013)
原題は、“Sky Hawk”
原書の刊行は2011年。
児童書。
〈ぼく〉の1人称。
舞台はスコットランドの村。
主人公はカラムという、11歳の男の子。
3月遅く。
カラムと、友だちのロブとユーアンは、川でやせっぽっちの赤毛の女の子と出会う。
女の子の名前は、アイオナ。
アイオナは川に手を入れ、ブラウントラウトを手づかみで捕まえる。
が、そんなアイオナに、ロブが突っかかっていく。
ここはカラムの川だ。
おまえは泥棒だ。
おまえのおふくろも泥棒だった。
おれのおやじの金を盗んで逃げたんだ。
カラムとユーアンがとめるのも聞かず、ロブはアイオナから魚をとりあげる。
アイオナは、コートと運動靴を残したまま、向う岸へ。
でも、途中、川に落ちてしまい、向う岸にはい上がる。
ロブとユーアンが去ったあと、カラムはアイオナのことを心配する。
アイオナはコートも着ていないし、靴もはいていないし、服はびしょぬれ。
うろうろしてたら凍えてしまう。
森でアイオナに会ったカラムは、コートと靴を返す。
すると、アイオナは、またこの農場にきていいのなら秘密を教えてあげるという。
条件は2つ。
だれにもいわないこと。
あたしをこの農場からしめださないこと。
カラムは了承。
あしたの朝、2人は湖で会うことに。
家に帰ったカラムは、父さんに農場の秘密について訊いてみる。
「なんの秘密も思いつかないな」と、父さん。
翌朝、カラムは農場の手伝いもそこそこに湖へ。
アイオナは、オークの木の上に居心地のいい場所をつくっていた。
古い木箱で椅子をつくり、古いハリケーンランプを枝にかけ、毛布やビスケットもおいてある。
でも、アイオナの秘密はこの場所のことではなかった。
アイオナにうながされ、湖の島にあるアカマツの木立に目をやると、ミサゴが巣をつくっている。
「ミサゴがこの農場にいるなんて!」
カラムは、近くの自然保護区で2羽のミサゴが巣をつくっているのをみたことがある。
ミサゴが巣をつくった木は、人間に卵を盗まれないように、鉄条網でかこわれ、監視カメラが設置されていた。
アイオナは、オス鳥が巣をつくるところを最初からみていたという。
あしたの午後、メスのミサゴがくるよと、アイオナ。
次の日、また2人でミサゴをみていると、アイオナがいったとおりメスのミサゴがあらわれる――。
ミサゴのことは2人の秘密。
だから、だれにも話せない。
カラムは、父さんや母さんや、兄のグレアムや、ロブやユーアンをごまかさなければならない。
また、カラムはアイオナの家庭のことも徐々に知るように。
アイオナは、イカレタじいさんとあだ名をつけられた、おじいさんの小屋で暮らしている。
お母さんはダンサー。
ロンドンの舞台にでていると、アイオナはカラムに説明する。
アイオナは、カラムのクラスに通うようになる。
でも、みすぼらしい格好をして、お弁当ももってこないアイオナは、クラスのみんなにバカにされるばかり。
カラムも、ロブやユーアンの目を気にして、アイオナを邪険に扱ったりしてしまう。
2人はしばらく疎遠になってしまうのだけれど、そこに大変なできごとが。
アイオナに呼ばれ、カラムが駆けつけてみると、ミサゴのメス鳥が釣り糸にからまり木の枝からぶら下がっている。
こうなると、もう秘密などとはいってられない。
カラムは父さんを頼り、父さんは自然保護区のヘイミッシュに連絡。
ヘイミッシュはすぐきてくれ、ぶじミサゴをすくいだしてくれる。
さらに、発信器もとりつけた。
これでアイリス――アイオナがつけたミサゴの名前――がどこにいても、グーグルアースでわかるように。
父さんたちは、オークの木の上にツリーハウスをつくってくれる。
夏休みになると、カラムとアイオナはそこでほとんど毎日アイリスを観察。
卵からひなもかえり、すっかり大きくなった。
ミサゴは渡りをする。
もうすぐアフリカに向かうはず。
このあたりまで読んで、アイオナの家族の過去の話が、いろいろと物語にからんでくるのだと思ったのだけれど、この予想ははずれた。
このあと、物語は急転直下。
ミサゴの渡りと歩調をあわせ、物語は外へ外へと向かっていく。
アイリスはフランスに渡り、ピレネー山脈を越え、地中海を通って、アフリカのガンビアへ。
しかし、そこで3日もうごかない。
アイリスになにかあったのだろうか。
救うためにはどうしたらいいか。
カラムは懸命に考える。
自然や環境といった題材と、小道具としてのテクノロジーが、児童書という枠のなかでうまくひとつになっている。
ストーリーが思いがけず国際的になるのも楽しい。
この本はカバーをとると、木の上にいるカラムとアイオナの絵があらわれる。
これもまた、思いがけない楽しさだ。
原題は、“Sky Hawk”
原書の刊行は2011年。
児童書。
〈ぼく〉の1人称。
舞台はスコットランドの村。
主人公はカラムという、11歳の男の子。
3月遅く。
カラムと、友だちのロブとユーアンは、川でやせっぽっちの赤毛の女の子と出会う。
女の子の名前は、アイオナ。
アイオナは川に手を入れ、ブラウントラウトを手づかみで捕まえる。
が、そんなアイオナに、ロブが突っかかっていく。
ここはカラムの川だ。
おまえは泥棒だ。
おまえのおふくろも泥棒だった。
おれのおやじの金を盗んで逃げたんだ。
カラムとユーアンがとめるのも聞かず、ロブはアイオナから魚をとりあげる。
アイオナは、コートと運動靴を残したまま、向う岸へ。
でも、途中、川に落ちてしまい、向う岸にはい上がる。
ロブとユーアンが去ったあと、カラムはアイオナのことを心配する。
アイオナはコートも着ていないし、靴もはいていないし、服はびしょぬれ。
うろうろしてたら凍えてしまう。
森でアイオナに会ったカラムは、コートと靴を返す。
すると、アイオナは、またこの農場にきていいのなら秘密を教えてあげるという。
条件は2つ。
だれにもいわないこと。
あたしをこの農場からしめださないこと。
カラムは了承。
あしたの朝、2人は湖で会うことに。
家に帰ったカラムは、父さんに農場の秘密について訊いてみる。
「なんの秘密も思いつかないな」と、父さん。
翌朝、カラムは農場の手伝いもそこそこに湖へ。
アイオナは、オークの木の上に居心地のいい場所をつくっていた。
古い木箱で椅子をつくり、古いハリケーンランプを枝にかけ、毛布やビスケットもおいてある。
でも、アイオナの秘密はこの場所のことではなかった。
アイオナにうながされ、湖の島にあるアカマツの木立に目をやると、ミサゴが巣をつくっている。
「ミサゴがこの農場にいるなんて!」
カラムは、近くの自然保護区で2羽のミサゴが巣をつくっているのをみたことがある。
ミサゴが巣をつくった木は、人間に卵を盗まれないように、鉄条網でかこわれ、監視カメラが設置されていた。
アイオナは、オス鳥が巣をつくるところを最初からみていたという。
あしたの午後、メスのミサゴがくるよと、アイオナ。
次の日、また2人でミサゴをみていると、アイオナがいったとおりメスのミサゴがあらわれる――。
ミサゴのことは2人の秘密。
だから、だれにも話せない。
カラムは、父さんや母さんや、兄のグレアムや、ロブやユーアンをごまかさなければならない。
また、カラムはアイオナの家庭のことも徐々に知るように。
アイオナは、イカレタじいさんとあだ名をつけられた、おじいさんの小屋で暮らしている。
お母さんはダンサー。
ロンドンの舞台にでていると、アイオナはカラムに説明する。
アイオナは、カラムのクラスに通うようになる。
でも、みすぼらしい格好をして、お弁当ももってこないアイオナは、クラスのみんなにバカにされるばかり。
カラムも、ロブやユーアンの目を気にして、アイオナを邪険に扱ったりしてしまう。
2人はしばらく疎遠になってしまうのだけれど、そこに大変なできごとが。
アイオナに呼ばれ、カラムが駆けつけてみると、ミサゴのメス鳥が釣り糸にからまり木の枝からぶら下がっている。
こうなると、もう秘密などとはいってられない。
カラムは父さんを頼り、父さんは自然保護区のヘイミッシュに連絡。
ヘイミッシュはすぐきてくれ、ぶじミサゴをすくいだしてくれる。
さらに、発信器もとりつけた。
これでアイリス――アイオナがつけたミサゴの名前――がどこにいても、グーグルアースでわかるように。
父さんたちは、オークの木の上にツリーハウスをつくってくれる。
夏休みになると、カラムとアイオナはそこでほとんど毎日アイリスを観察。
卵からひなもかえり、すっかり大きくなった。
ミサゴは渡りをする。
もうすぐアフリカに向かうはず。
このあたりまで読んで、アイオナの家族の過去の話が、いろいろと物語にからんでくるのだと思ったのだけれど、この予想ははずれた。
このあと、物語は急転直下。
ミサゴの渡りと歩調をあわせ、物語は外へ外へと向かっていく。
アイリスはフランスに渡り、ピレネー山脈を越え、地中海を通って、アフリカのガンビアへ。
しかし、そこで3日もうごかない。
アイリスになにかあったのだろうか。
救うためにはどうしたらいいか。
カラムは懸命に考える。
自然や環境といった題材と、小道具としてのテクノロジーが、児童書という枠のなかでうまくひとつになっている。
ストーリーが思いがけず国際的になるのも楽しい。
この本はカバーをとると、木の上にいるカラムとアイオナの絵があらわれる。
これもまた、思いがけない楽しさだ。
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見習い職人フラピッチの旅
「見習い職人フラピッチの旅」(イワナ・ブルリッチ=マジュラニッチ/作 山本郁子/訳 二俣英五郎/絵 小峰書店)
イワナ・ブルリッチ=マジュラニッチは、クロアチアの名高い作家。
「昔々の昔から」は、あんまり素晴らしかったのでメモをとったおぼえがある。
(「昔々の昔から」と「昔々の昔から(承前)」)
その「昔々の昔から」にくらべると、本書のほうがより親しみやすい。
視点が、主人公フラピッチの行動からはなれることはないし、児童書のもつイメージの範疇に物語がよくおさまっているし、宗教色や郷土色も少ない。
それに、ストーリーの面白さはずば抜けている。
訳者あとがきによれば、本書はクロアチアのひとならだれでも知っている物語だそう。
1913年に初版が出版されて以来、ずっと読みつがれているとのこと。
文章は、3人称のですます調。
ときどき作者が顔をだして語りかけるスタイル。
小学校中学年向けくらいの読者を想定しているといえるだろうか。
主人公は、靴屋の見習い職人フラピッチ。
両親のいないフラピッチは、ムルコニャ親方のもとではたらいている。
このムルコニャ親方は、昔、悲しいできごとがあったため、すっかり冷たい性格になってしまった。
親方の奥さんは逆に、もっと心のやさしい性格になったのだけれど。
さて、ある日のこと。
あるお金持ちが、自分の息子のためにブーツを注文した。
が、できあがったそのブーツがきついと、お金持ちはブーツを受けとらず、お金も払わなかった。
腹を立てたムルコニャ親方は、フラピッチにやつあたり。
フラピッチは怒鳴られたり、殴られたりする。
その晩、フラピッチは親方のもとをはなれ、旅にでようと決意。
火にくべろと親方がいった例のブーツをはき、置き手紙を書き、パンとベーコン、突き錐、糸、革の切れはし、ナイフといった仕事道具をカバンにつめ、いたんでいた帽子のまわりに、革の切れはしを縫いつけて、さあ出発。
夜、親方の家を抜けだしたフラピッチは、明け方には町はずれに。
そこで、苦労して牛乳配達をしている老人と出会う。
フラピッチは老人を手伝い、建物の4階まで牛乳をはこんでやり、配達先のお手伝いさんには、牛乳を下までとりにいくようにお願いする。
老人と別れて草むらで寝ていると、親方の家にいた犬のブンダシュがあらわれる。
ブンダシュも、親方のところから逃げてきたのだ。
フラピッチとブンダシュは道連れに。
その後も、フラピッチは愉快に旅を続けていく。
青い星のついた家で、お母さんと2人で暮らしている少年のために、見失ったガチョウをさがしたり。
石切工たちと出会ったり。
が、旅の3日目にして災難に。
雷雨をさけて橋の下にもぐりこんで寝たところ、大事なブーツが盗まれてしまった。
盗んだのは、先に橋の下にいた、黒い男。
たとえ10年かかってもブーツをとりもどすんだと、フラピッチははだしで出発。
しばらく歩いていくと、前に奇妙な女の子が。
女の子の名前はギタ。
きれいな格好をして、肩に緑のオウムをのせている。
話を聞くと、ギタはサーカスの団員。
病気をして、元気になったらあとからくるようにと、ある村に置いていかれた。
で、いまサーカスを追いかけているところ。
ギタもまた、フラピッチとともに旅をすることに。
古典的な児童文学の主人公らしく、フラピッチは勇敢でやさしく、非の打ちどころがない。
朝、ブーツが盗まれたことに気づいたフラピッチついては、こう書かれる。
《だれだって、あんなすてきなブーツを盗まれたら、泣きだしてしまうでしょう。はだしで長い旅に出なければならないとしたらなおさらです。
でも、フラピッチは泣きませんでした。しばらく考えていましたが、とつぜん立ちあがり、ブンダシュを呼んでいいます。
「さあ、ブンダシュ、あの男をさがしに行こう。たとえ十年かかってもさがしだして、ブーツをとりもどすんだ。たとえ、王宮の煙突につるしてあったとしても」
そういってフラピッチは、ブーツをさがしにはだしで出発しました。》
また、フラピッチとギタは農家で草刈りの仕事を手伝うことに。
でも、ギタはサーカスの仕事のほかはよく知らない。
すぐ飽きてさぼるので、農夫に追い払われてしまう。
そのとき、フラピッチはこう思う。
《「だれも仕事を教えてやらなければ、仕事がわからないのは当然だから、ギタが悪いんじゃない。いっしょに旅をしているからには、ぼくがギタのめんどうをみなければ。夕食も半分分けてやろう」》
このあとも、フラピッチの旅は波乱万丈。
火事にでくわし、火を消すのを手伝ったり、盗まれたブーツをとりもどしたり、市場で貧しいかご売りが、かごを売るのを手伝ったり。
そのときかぎりと思われた登場人物が、後半ふたたび登場したり。
思いがけないことがたくさん起こり、最後は大団円。
あれもこれもみんな伏線だったのかという展開には、思わず拍手をしたくなる。
訳者の山本さんは、この本を訳してるというだけで、クロアチアのひとにほめられたという。
なるほど、クロアチアのひとたちが自慢に思うだけのことはある作品だ。
絵は、二俣英五郎さん。
あたたかみのある絵で、物語をより親しみやすいものにしている。
イワナ・ブルリッチ=マジュラニッチは、クロアチアの名高い作家。
「昔々の昔から」は、あんまり素晴らしかったのでメモをとったおぼえがある。
(「昔々の昔から」と「昔々の昔から(承前)」)
その「昔々の昔から」にくらべると、本書のほうがより親しみやすい。
視点が、主人公フラピッチの行動からはなれることはないし、児童書のもつイメージの範疇に物語がよくおさまっているし、宗教色や郷土色も少ない。
それに、ストーリーの面白さはずば抜けている。
訳者あとがきによれば、本書はクロアチアのひとならだれでも知っている物語だそう。
1913年に初版が出版されて以来、ずっと読みつがれているとのこと。
文章は、3人称のですます調。
ときどき作者が顔をだして語りかけるスタイル。
小学校中学年向けくらいの読者を想定しているといえるだろうか。
主人公は、靴屋の見習い職人フラピッチ。
両親のいないフラピッチは、ムルコニャ親方のもとではたらいている。
このムルコニャ親方は、昔、悲しいできごとがあったため、すっかり冷たい性格になってしまった。
親方の奥さんは逆に、もっと心のやさしい性格になったのだけれど。
さて、ある日のこと。
あるお金持ちが、自分の息子のためにブーツを注文した。
が、できあがったそのブーツがきついと、お金持ちはブーツを受けとらず、お金も払わなかった。
腹を立てたムルコニャ親方は、フラピッチにやつあたり。
フラピッチは怒鳴られたり、殴られたりする。
その晩、フラピッチは親方のもとをはなれ、旅にでようと決意。
火にくべろと親方がいった例のブーツをはき、置き手紙を書き、パンとベーコン、突き錐、糸、革の切れはし、ナイフといった仕事道具をカバンにつめ、いたんでいた帽子のまわりに、革の切れはしを縫いつけて、さあ出発。
夜、親方の家を抜けだしたフラピッチは、明け方には町はずれに。
そこで、苦労して牛乳配達をしている老人と出会う。
フラピッチは老人を手伝い、建物の4階まで牛乳をはこんでやり、配達先のお手伝いさんには、牛乳を下までとりにいくようにお願いする。
老人と別れて草むらで寝ていると、親方の家にいた犬のブンダシュがあらわれる。
ブンダシュも、親方のところから逃げてきたのだ。
フラピッチとブンダシュは道連れに。
その後も、フラピッチは愉快に旅を続けていく。
青い星のついた家で、お母さんと2人で暮らしている少年のために、見失ったガチョウをさがしたり。
石切工たちと出会ったり。
が、旅の3日目にして災難に。
雷雨をさけて橋の下にもぐりこんで寝たところ、大事なブーツが盗まれてしまった。
盗んだのは、先に橋の下にいた、黒い男。
たとえ10年かかってもブーツをとりもどすんだと、フラピッチははだしで出発。
しばらく歩いていくと、前に奇妙な女の子が。
女の子の名前はギタ。
きれいな格好をして、肩に緑のオウムをのせている。
話を聞くと、ギタはサーカスの団員。
病気をして、元気になったらあとからくるようにと、ある村に置いていかれた。
で、いまサーカスを追いかけているところ。
ギタもまた、フラピッチとともに旅をすることに。
古典的な児童文学の主人公らしく、フラピッチは勇敢でやさしく、非の打ちどころがない。
朝、ブーツが盗まれたことに気づいたフラピッチついては、こう書かれる。
《だれだって、あんなすてきなブーツを盗まれたら、泣きだしてしまうでしょう。はだしで長い旅に出なければならないとしたらなおさらです。
でも、フラピッチは泣きませんでした。しばらく考えていましたが、とつぜん立ちあがり、ブンダシュを呼んでいいます。
「さあ、ブンダシュ、あの男をさがしに行こう。たとえ十年かかってもさがしだして、ブーツをとりもどすんだ。たとえ、王宮の煙突につるしてあったとしても」
そういってフラピッチは、ブーツをさがしにはだしで出発しました。》
また、フラピッチとギタは農家で草刈りの仕事を手伝うことに。
でも、ギタはサーカスの仕事のほかはよく知らない。
すぐ飽きてさぼるので、農夫に追い払われてしまう。
そのとき、フラピッチはこう思う。
《「だれも仕事を教えてやらなければ、仕事がわからないのは当然だから、ギタが悪いんじゃない。いっしょに旅をしているからには、ぼくがギタのめんどうをみなければ。夕食も半分分けてやろう」》
このあとも、フラピッチの旅は波乱万丈。
火事にでくわし、火を消すのを手伝ったり、盗まれたブーツをとりもどしたり、市場で貧しいかご売りが、かごを売るのを手伝ったり。
そのときかぎりと思われた登場人物が、後半ふたたび登場したり。
思いがけないことがたくさん起こり、最後は大団円。
あれもこれもみんな伏線だったのかという展開には、思わず拍手をしたくなる。
訳者の山本さんは、この本を訳してるというだけで、クロアチアのひとにほめられたという。
なるほど、クロアチアのひとたちが自慢に思うだけのことはある作品だ。
絵は、二俣英五郎さん。
あたたかみのある絵で、物語をより親しみやすいものにしている。
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ひみつの白い石
「ひみつの白い石」(グンネル・リンデ/作 奥田継夫/共訳 木村由利子/共訳 冨山房 1982)
これは児童書。
作者のグンネル・リンデはスウェーデンのひと。
カバー袖にある作者紹介を引用しよう。
《1924年、スウェーデンのストックホルムで生まれたグンネル・リンデは、物語をつくるのが大好きな少女でした。おとなになってからも、新聞記者、ラジオやテレビの番組プロデューサーなどをしながら童話を書き、1958年の「透明クラブとトリ小屋舟」で児童文学作家としてデビュー。その後も次々と作品を発表し、1964年の「ひみつの白い石」には、ニルス・ホルゲルソン賞が与えられています。》
また、奥田継夫さんによる訳者あとがきには、作品のタイトルと出版年が記されている。
少々重複するけれど、これも引用しておこう。
《1958年、「透明クラブとトリ小屋舟」でデビュー。
1959年、「煙突横丁」で名声を確立。
1964年、「ひみつの白い石」でニルス・ホルゲルソン賞。
1997年、すでに冨山房から翻訳出版されている奇想天外なメルヘン、「ママたちとパパたちと」。
1978年、ラブ・ストーリーの「人生がだいじなら」。》
本書は3人称。
女の子と男の子の、友情の物語だ。
物語の最初と最後に、作者が顔をだしている。
いわば、エピローグとプロローグ。
この部分だけですます調なので、本編に入ると違和感がある。
でも、じきそんなことは忘れてしまう。
舞台は、スウェーデンの小さな町。
夏休みの終わり、あと一週間で新しい学年がはじまるというところ。
主人公のひとり、フィアは、黒い髪をした背の低いやせぽっちの女の子。
お母さんはピアノの先生。
小さな町では、ピアノの先生などは無用の長物と思われている。
そのため、フィアも学校ではからかわれ、肩身のせまい思いをしている。
フィアのお母さんは、判事さんの家に間借りしている。
判事さんの家には、マーリンおばさんという家政婦がいて、このひとが大変な意地悪。
フィアは、マーリンおばさんのことを、「エプロン魔女」と呼んでいる。
もうひとりの主人公は、ハンプスという名前の男の子。
親を亡くし、靴屋をしているおじさんの世話になっている。
おじさんには、自分の子どもだけで6人の子が。
半年ごとに引っ越しするので、どの土地にいっても、新しい靴屋さんと呼ばれている。
ハンプスはなかなかの暴れん坊。
いつでも厄介ごとを起こすので、すぐ引っ越すのは都合がいい。
そんなわけで、判事さんの家の前に引っ越してきたハンプスは、判事さんの家の門から外をながめているフィアと出会う。
ハンプスに名前を訊かれたフィアは、とっさに「フィデリ」とこたえる。
まるでプリンセスのような名前。
同じく、フィアに名前を訊かれたハンプスは、ちょうど通りかかったサーカスの車に貼ってあったポスターをみて、「スーパーヒーロー」と名乗る。
フィアには、お守りにしている白い石がある。
小さな、すべすべした、大事な石。
その石がほしくなったハンプスは、フィアに交換条件をもちだす。
《「ね、教会の時計台にさ、目と鼻と口をかきくわえたら、その白い石をおれにくれるかい?」》
フィアは了承。
その夜から、さっそくスーパーヒーローは行動を開始。
仔細は略すけれど、みごとに時計台に顔を描いてみせる。
翌朝、それを知ったフィアはびっくり仰天。
約束どおりハンプスに会い、白い石を渡す。
すると、ハンプスはフィアにこんなことをいう。
《「一日じゅう、だまりっぱなしで、人がなにをいっても、すごくおこっても、返事をしなかったら、この石、返してやる。できる?」》
もちろん、フィデリであるフィアは、この試練に立ち向かう。
ごちそうさまをいわなかったために、マーリンおばさんにからまれたり、判事さんに誘われてお母さんと一緒にサーカスをみにいったり――フィアはハンプスのことをサーカスの子だと思っているので、時計台にいたずら描きをしたのがばれてしまうと気が気ではない――しながら、フィアは難題をやりとげる。
次の日、フィアはハンプスに会い、白い石をとりもどす。
そして、こんどはフィアがハンプスに難題を。
《「サーカスの象を学校の女の先生の前にくくりつけること」》
こうして、白い石を仲立ちに、フィアとハンプスは親しくなっていく。
2人がだしあう難題は、作中では案外あっさりと乗り越えられる。
それが、この作品をファンタジーがかった愉快なものにしている。
2人がおたがいをよく知らず、別の名前で呼びあうことは、このファンタジー性を保証しているものだろう。
訳文は調子がいい。
よすぎるくらい。
木村由利子さんの翻訳に、奥田継夫さんが手を入れたのではないかと思うけれど、どうだろうか。
時計台に顔を描くときのような、おもに行動を書くときは、調子のいい文体でかまわない。
でも、エプロン魔女のマーリンおばさんの意地悪さを表現するときは、調子のいい文章では間にあわなくなってくる。
そのため、この作品は、やけに調子がいいところと、そうでないところが混在しているのだけれど、ストーリーが楽しいので読んでいるときは気にならない。
マーリンおばさんの意地悪さは、妙にリアリティがある。
でかけるときマーリンおばさんは、わざと判事さんのワイシャツにアイロンをかけないでおく。
判事さんが、しつけの悪い子ども――フィアのこと――と、その母親を放っておくなら、くしゃくしゃのワイシャツを着ることになったって仕方がない。
ところが、帰ってみると、ワイシャツにはちゃんとアイロンが。
フィアのお母さんであるペターソン夫人が、気をきかせてアイロンをかけたのだ。
しかし、マーリンおばさんは逆恨み。
わたしの留守をねらって点数かせぎしようとしたのね。
そこで、マーリンおばさんは、アイロンのかかったワイシャツの上にどっかりと腰をおろす。
――シャツをたんすにしまうってことに気がつかなかったのは、ペターソンさんが悪いのよ。
マーリンおばさんは、つねに自分を正当化することを忘れないのだ。
さて、このあともフィデリになったフィアと、スーパーヒーローになったハンプスは、たがいに試練をだしあい、乗り越えていく。
コーヒーショップのピアノを弾くこと。
ゆで玉子を判事さんのベッドのなかに入れること。
さらに、判事さんのベッドに入れたゆで玉子をとりもどすこと。
この最後の試練のために、ハンプスは判事さんに捕まりそうになり、2人は窮地に立たされる。
ハンプスはフィアのおかげでこの町が気に入り、もう引っ越しはしたくない。
また、フィアもハンプスと一緒に学校にいきたいと思っている。
はたして、2人の願いはかなうのか。
子どもは子どもの理屈で行動する。
その理屈はときとして、大人には思いもよらない。
本書では、それがうまく表現されている。
物語の最後のほうで、フィアとハンプスはこれまでの経緯を判事さんに説明するのだが、判事さんは2人のいうことがわからない。
そこで、2人は顔をみあわせる。
《かわいそうな判事さん! 救いようがないほどおとなになってしまった判事さん!》
それから。
フィデリとスーパーヒーローは、フィアとハンプスにもどらなければいけない。
学校がはじまれば、どうしたってもどらないわけにはいかない。
そのことに触れているエピローグは秀逸。
さし絵は、エリック・パルムクビストというひと。
登場人物のからだのうごきをたくみにとらえたペン画で、物語をより楽しいものにしている。
これは児童書。
作者のグンネル・リンデはスウェーデンのひと。
カバー袖にある作者紹介を引用しよう。
《1924年、スウェーデンのストックホルムで生まれたグンネル・リンデは、物語をつくるのが大好きな少女でした。おとなになってからも、新聞記者、ラジオやテレビの番組プロデューサーなどをしながら童話を書き、1958年の「透明クラブとトリ小屋舟」で児童文学作家としてデビュー。その後も次々と作品を発表し、1964年の「ひみつの白い石」には、ニルス・ホルゲルソン賞が与えられています。》
また、奥田継夫さんによる訳者あとがきには、作品のタイトルと出版年が記されている。
少々重複するけれど、これも引用しておこう。
《1958年、「透明クラブとトリ小屋舟」でデビュー。
1959年、「煙突横丁」で名声を確立。
1964年、「ひみつの白い石」でニルス・ホルゲルソン賞。
1997年、すでに冨山房から翻訳出版されている奇想天外なメルヘン、「ママたちとパパたちと」。
1978年、ラブ・ストーリーの「人生がだいじなら」。》
本書は3人称。
女の子と男の子の、友情の物語だ。
物語の最初と最後に、作者が顔をだしている。
いわば、エピローグとプロローグ。
この部分だけですます調なので、本編に入ると違和感がある。
でも、じきそんなことは忘れてしまう。
舞台は、スウェーデンの小さな町。
夏休みの終わり、あと一週間で新しい学年がはじまるというところ。
主人公のひとり、フィアは、黒い髪をした背の低いやせぽっちの女の子。
お母さんはピアノの先生。
小さな町では、ピアノの先生などは無用の長物と思われている。
そのため、フィアも学校ではからかわれ、肩身のせまい思いをしている。
フィアのお母さんは、判事さんの家に間借りしている。
判事さんの家には、マーリンおばさんという家政婦がいて、このひとが大変な意地悪。
フィアは、マーリンおばさんのことを、「エプロン魔女」と呼んでいる。
もうひとりの主人公は、ハンプスという名前の男の子。
親を亡くし、靴屋をしているおじさんの世話になっている。
おじさんには、自分の子どもだけで6人の子が。
半年ごとに引っ越しするので、どの土地にいっても、新しい靴屋さんと呼ばれている。
ハンプスはなかなかの暴れん坊。
いつでも厄介ごとを起こすので、すぐ引っ越すのは都合がいい。
そんなわけで、判事さんの家の前に引っ越してきたハンプスは、判事さんの家の門から外をながめているフィアと出会う。
ハンプスに名前を訊かれたフィアは、とっさに「フィデリ」とこたえる。
まるでプリンセスのような名前。
同じく、フィアに名前を訊かれたハンプスは、ちょうど通りかかったサーカスの車に貼ってあったポスターをみて、「スーパーヒーロー」と名乗る。
フィアには、お守りにしている白い石がある。
小さな、すべすべした、大事な石。
その石がほしくなったハンプスは、フィアに交換条件をもちだす。
《「ね、教会の時計台にさ、目と鼻と口をかきくわえたら、その白い石をおれにくれるかい?」》
フィアは了承。
その夜から、さっそくスーパーヒーローは行動を開始。
仔細は略すけれど、みごとに時計台に顔を描いてみせる。
翌朝、それを知ったフィアはびっくり仰天。
約束どおりハンプスに会い、白い石を渡す。
すると、ハンプスはフィアにこんなことをいう。
《「一日じゅう、だまりっぱなしで、人がなにをいっても、すごくおこっても、返事をしなかったら、この石、返してやる。できる?」》
もちろん、フィデリであるフィアは、この試練に立ち向かう。
ごちそうさまをいわなかったために、マーリンおばさんにからまれたり、判事さんに誘われてお母さんと一緒にサーカスをみにいったり――フィアはハンプスのことをサーカスの子だと思っているので、時計台にいたずら描きをしたのがばれてしまうと気が気ではない――しながら、フィアは難題をやりとげる。
次の日、フィアはハンプスに会い、白い石をとりもどす。
そして、こんどはフィアがハンプスに難題を。
《「サーカスの象を学校の女の先生の前にくくりつけること」》
こうして、白い石を仲立ちに、フィアとハンプスは親しくなっていく。
2人がだしあう難題は、作中では案外あっさりと乗り越えられる。
それが、この作品をファンタジーがかった愉快なものにしている。
2人がおたがいをよく知らず、別の名前で呼びあうことは、このファンタジー性を保証しているものだろう。
訳文は調子がいい。
よすぎるくらい。
木村由利子さんの翻訳に、奥田継夫さんが手を入れたのではないかと思うけれど、どうだろうか。
時計台に顔を描くときのような、おもに行動を書くときは、調子のいい文体でかまわない。
でも、エプロン魔女のマーリンおばさんの意地悪さを表現するときは、調子のいい文章では間にあわなくなってくる。
そのため、この作品は、やけに調子がいいところと、そうでないところが混在しているのだけれど、ストーリーが楽しいので読んでいるときは気にならない。
マーリンおばさんの意地悪さは、妙にリアリティがある。
でかけるときマーリンおばさんは、わざと判事さんのワイシャツにアイロンをかけないでおく。
判事さんが、しつけの悪い子ども――フィアのこと――と、その母親を放っておくなら、くしゃくしゃのワイシャツを着ることになったって仕方がない。
ところが、帰ってみると、ワイシャツにはちゃんとアイロンが。
フィアのお母さんであるペターソン夫人が、気をきかせてアイロンをかけたのだ。
しかし、マーリンおばさんは逆恨み。
わたしの留守をねらって点数かせぎしようとしたのね。
そこで、マーリンおばさんは、アイロンのかかったワイシャツの上にどっかりと腰をおろす。
――シャツをたんすにしまうってことに気がつかなかったのは、ペターソンさんが悪いのよ。
マーリンおばさんは、つねに自分を正当化することを忘れないのだ。
さて、このあともフィデリになったフィアと、スーパーヒーローになったハンプスは、たがいに試練をだしあい、乗り越えていく。
コーヒーショップのピアノを弾くこと。
ゆで玉子を判事さんのベッドのなかに入れること。
さらに、判事さんのベッドに入れたゆで玉子をとりもどすこと。
この最後の試練のために、ハンプスは判事さんに捕まりそうになり、2人は窮地に立たされる。
ハンプスはフィアのおかげでこの町が気に入り、もう引っ越しはしたくない。
また、フィアもハンプスと一緒に学校にいきたいと思っている。
はたして、2人の願いはかなうのか。
子どもは子どもの理屈で行動する。
その理屈はときとして、大人には思いもよらない。
本書では、それがうまく表現されている。
物語の最後のほうで、フィアとハンプスはこれまでの経緯を判事さんに説明するのだが、判事さんは2人のいうことがわからない。
そこで、2人は顔をみあわせる。
《かわいそうな判事さん! 救いようがないほどおとなになってしまった判事さん!》
それから。
フィデリとスーパーヒーローは、フィアとハンプスにもどらなければいけない。
学校がはじまれば、どうしたってもどらないわけにはいかない。
そのことに触れているエピローグは秀逸。
さし絵は、エリック・パルムクビストというひと。
登場人物のからだのうごきをたくみにとらえたペン画で、物語をより楽しいものにしている。
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リリー・モラハンのうそ
「リリー・モラハンのうそ」(パトリシア・ライリー・ギフ/作 もりうちすみこ/訳 吉川聡子/画 さ・え・ら書房 2008)
原題は、“Lily‘s Crossing”
ニューベリー賞オナー賞受賞。
3人称リリー視点。
ほとんどリリーの1人称といえる。
舞台は、1944年夏。
数週間前に、連合軍がフランスに上陸した頃。
リリーは5年生。
お母さんは小さい頃に亡くなり、お父さんと祖母と3人暮らし。
ことしの夏も、別荘のあるニューヨーク郊外の避暑地ロッカウェイで過ごす予定。
リリーはピアノが嫌いだけれど、お父さんは習わせたい。
そのため、ことしは別荘にまでピアノをもっていくはめに。
ロッカウェイには、友だちのマーガレット・ディロンがいる。
2人ともニューヨーク州のクイーンズ区に住んでいるけれど、会うのは夏のロッカウェイだけ。
ことしも2人は再会するが、すぐマーガレットはデトロイトに引っ越してしまう。
お父さんがB24をつくる工場につとめるため。
リリーはマーガレットから、ディロン家の裏口の鍵をもらう。
マーガレットはいなくなってしまったけれど、近所のオーバン家にアルバートという少年がやってくる。
やせっぽちで、もじゃもじゃ頭、真っ青な目をした少年。
リリーの大好きなお父さんも、軍の仕事ででかけることに。
どこにでかけるのかは教えられない。
手紙をだしても検閲される。
《「おれは、ぜったい、なんとかして、おまえに居場所を知らせるよ」》
と、お父さん。
お父さんはでかけることを、リリーよりも先に祖母に話した。
それでリリーは腹を立て、お父さんの出発にも立ち会わなかった。
リリーはそのことをとても後悔する。
ところで、リリーは想像力がたくましい。
すぐに嘘をついてしまう。
そのことに、自分でも困っている。
リリーは、アルバートのことをスパイだと確信する。
ことばにはなまりがあるし、真夜中にオーバン家にやってきたし、すぐに姿をくらます。
でも、オーバンさんの夕食に招待されたときに、アルバートの素性が判明。
アルバートは、2年前にハンガリーのブダペストから逃げてきた少年だった。
両親はナチスを批判したために逮捕されてしまった。
アルバートと妹のルースは、オーストリア、スイスを抜けてフランスへ。
ところが、ルースは旅の途中ではしかにかかってしまった。
そのため、船に乗ることができなかった。
アルバートがひとり船に乗り、カナダに住むオーバンさんのお兄さんの家に身をよせることになった。
ちなみに、アルバートのお父さんは、オーバンさんの弟。
そしてアルバートは、夏のあいだオーバンさんのところに遊びにきたのだった。
リリーとアルバートは、捨てネコを拾い、マーガレットの家でこっそり飼いはじめたことから、仲良くなっていく。
ルースはまだフランスの修道院にいるはずだと、アルバート。
《「ナジママ(お祖母さん)はぼくたちにいった。はなれちゃだめだ。どんなことがあっても。いっしょにいるかぎり、ひとりぼっちにならずにすむって」》
そんなアルバートに、リリーは嘘をついてしまう。
夜、ボートをこいで沖にでる。
軍艦に近づいたら、あとは泳ぐ。
その軍艦に乗って、お父さんのところまでいく。
リリーのことばを、アルバートは本気にしてしまう。
ぼくも連れていってくれる?
ぼく、泳ぎを練習する。
そして、ヨーロッパに帰ってルースをさがす――。
戦時中が舞台のため、戦争の色が濃い。
オーバンさんのA型フォードのヘッドライトは、爆撃機に狙われないようにと上半分を黒く塗ってある。
黒く塗るのは、リリーも手伝った。
夜は灯火管制が敷かれ、サーチライトが夜空を照らしている。
マーガレットのお兄さんのエディーは兵隊となり、戦場で行方不明に。
リリーと祖母は、教会にお祈りにいく。
ストーリーはこびは、少々ぎくしゃくとしている。
ひとつのエピソードの途中で、別のエピソードが割りこんでくる感じ。
でも、最後には、ストーリーは落ち着くべきところに落ち着く。
リリーは、あんまり素行がよろしくない。
すぐ嘘をつくし、ピアノの練習はさぼるし、映画はただ見するし、鍵をもらったとはいえ、ひとの家にあがりこむ。
そんなリリーも、アルバートとの交流をきっかけに変わっていく。
リリーは、泳げないアルバートに泳ぎを教える。
まず浮けるようにならなくちゃとリリーがいうと、「浮く練習なんかするひま、ぼくにはない」と、アルバートは口答えする。
それを聞いて、自分がピアノの練習に文句をいうのとまるで同じだとリリーは思う。
また、マーガレットとの手紙のやりとりから、お父さんがいなくなって祖母もさみしがっていたことをリリーは知る。
口うるさい祖母がさみしがっていたなんてと、リリーは驚く。
そんなことは、一度も考えたことはなかった。
こうして、周囲とのかかわりのなかで、リリーはひとの気持ちに気づくようになっていく。
巻末には、作者による「読者のみなさんへ」という文章が載せられている。
《わたしは、1944年の夏をおぼえています。》
と、作者。
《こわがっているのは自分だけとおもっていたのに、ほかの子どもたち、ときにはおとなさえ、おなじような思いをいだき心配していると知ったときには、おどろきました。》
吉川聡子さんのさし絵が、物語を理解する手助けをしてくれる。
また、桂川潤さんによる装丁は、ピンクのしおりひもが鮮やかだ。
原題は、“Lily‘s Crossing”
ニューベリー賞オナー賞受賞。
3人称リリー視点。
ほとんどリリーの1人称といえる。
舞台は、1944年夏。
数週間前に、連合軍がフランスに上陸した頃。
リリーは5年生。
お母さんは小さい頃に亡くなり、お父さんと祖母と3人暮らし。
ことしの夏も、別荘のあるニューヨーク郊外の避暑地ロッカウェイで過ごす予定。
リリーはピアノが嫌いだけれど、お父さんは習わせたい。
そのため、ことしは別荘にまでピアノをもっていくはめに。
ロッカウェイには、友だちのマーガレット・ディロンがいる。
2人ともニューヨーク州のクイーンズ区に住んでいるけれど、会うのは夏のロッカウェイだけ。
ことしも2人は再会するが、すぐマーガレットはデトロイトに引っ越してしまう。
お父さんがB24をつくる工場につとめるため。
リリーはマーガレットから、ディロン家の裏口の鍵をもらう。
マーガレットはいなくなってしまったけれど、近所のオーバン家にアルバートという少年がやってくる。
やせっぽちで、もじゃもじゃ頭、真っ青な目をした少年。
リリーの大好きなお父さんも、軍の仕事ででかけることに。
どこにでかけるのかは教えられない。
手紙をだしても検閲される。
《「おれは、ぜったい、なんとかして、おまえに居場所を知らせるよ」》
と、お父さん。
お父さんはでかけることを、リリーよりも先に祖母に話した。
それでリリーは腹を立て、お父さんの出発にも立ち会わなかった。
リリーはそのことをとても後悔する。
ところで、リリーは想像力がたくましい。
すぐに嘘をついてしまう。
そのことに、自分でも困っている。
リリーは、アルバートのことをスパイだと確信する。
ことばにはなまりがあるし、真夜中にオーバン家にやってきたし、すぐに姿をくらます。
でも、オーバンさんの夕食に招待されたときに、アルバートの素性が判明。
アルバートは、2年前にハンガリーのブダペストから逃げてきた少年だった。
両親はナチスを批判したために逮捕されてしまった。
アルバートと妹のルースは、オーストリア、スイスを抜けてフランスへ。
ところが、ルースは旅の途中ではしかにかかってしまった。
そのため、船に乗ることができなかった。
アルバートがひとり船に乗り、カナダに住むオーバンさんのお兄さんの家に身をよせることになった。
ちなみに、アルバートのお父さんは、オーバンさんの弟。
そしてアルバートは、夏のあいだオーバンさんのところに遊びにきたのだった。
リリーとアルバートは、捨てネコを拾い、マーガレットの家でこっそり飼いはじめたことから、仲良くなっていく。
ルースはまだフランスの修道院にいるはずだと、アルバート。
《「ナジママ(お祖母さん)はぼくたちにいった。はなれちゃだめだ。どんなことがあっても。いっしょにいるかぎり、ひとりぼっちにならずにすむって」》
そんなアルバートに、リリーは嘘をついてしまう。
夜、ボートをこいで沖にでる。
軍艦に近づいたら、あとは泳ぐ。
その軍艦に乗って、お父さんのところまでいく。
リリーのことばを、アルバートは本気にしてしまう。
ぼくも連れていってくれる?
ぼく、泳ぎを練習する。
そして、ヨーロッパに帰ってルースをさがす――。
戦時中が舞台のため、戦争の色が濃い。
オーバンさんのA型フォードのヘッドライトは、爆撃機に狙われないようにと上半分を黒く塗ってある。
黒く塗るのは、リリーも手伝った。
夜は灯火管制が敷かれ、サーチライトが夜空を照らしている。
マーガレットのお兄さんのエディーは兵隊となり、戦場で行方不明に。
リリーと祖母は、教会にお祈りにいく。
ストーリーはこびは、少々ぎくしゃくとしている。
ひとつのエピソードの途中で、別のエピソードが割りこんでくる感じ。
でも、最後には、ストーリーは落ち着くべきところに落ち着く。
リリーは、あんまり素行がよろしくない。
すぐ嘘をつくし、ピアノの練習はさぼるし、映画はただ見するし、鍵をもらったとはいえ、ひとの家にあがりこむ。
そんなリリーも、アルバートとの交流をきっかけに変わっていく。
リリーは、泳げないアルバートに泳ぎを教える。
まず浮けるようにならなくちゃとリリーがいうと、「浮く練習なんかするひま、ぼくにはない」と、アルバートは口答えする。
それを聞いて、自分がピアノの練習に文句をいうのとまるで同じだとリリーは思う。
また、マーガレットとの手紙のやりとりから、お父さんがいなくなって祖母もさみしがっていたことをリリーは知る。
口うるさい祖母がさみしがっていたなんてと、リリーは驚く。
そんなことは、一度も考えたことはなかった。
こうして、周囲とのかかわりのなかで、リリーはひとの気持ちに気づくようになっていく。
巻末には、作者による「読者のみなさんへ」という文章が載せられている。
《わたしは、1944年の夏をおぼえています。》
と、作者。
《こわがっているのは自分だけとおもっていたのに、ほかの子どもたち、ときにはおとなさえ、おなじような思いをいだき心配していると知ったときには、おどろきました。》
吉川聡子さんのさし絵が、物語を理解する手助けをしてくれる。
また、桂川潤さんによる装丁は、ピンクのしおりひもが鮮やかだ。
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死のかげの谷間
「死のかげの谷間」(ロバート・C・オブライエン/著 越智道雄/訳 評論社 1985)
原題は“Z for ZACHARIAH”
SOSシリーズ第5巻。
2010年には、「海外ミステリーBOX」とシリーズ名を変え、新装版が出版されている。
1976年の、エドガー・アラン・ポー賞受賞作。
これは児童書。
といっても、児童書の範疇から、少しとびだした児童書。
内容は、ひとことでいえば、核戦争後に生き残った少女がサバイバルする物語だ。
主人公は、アン・バーデン。
作中で16歳になる少女。
将来の夢は、国語の先生になること。
本書はアンの1人称で、日記形式でしるされる。
その冒頭はこう。
《五月二十日
こわい。
だれか来る。》
この作品の舞台は、核戦争後のとある谷間。
この谷間は、たまたま放射能を逃れているが、ほかは全滅。
わずかな期間の戦争のあと、アンのお父さんと弟のジョセフ、いとこのデイビッドは近所のオグデンの町をみにいったのだが、そこはすっかり廃墟と化していた。
次の日には、店のクラインさん夫妻も加わり、アンを残した全員で、もっとはなれたディーン町にでかけていき、そして帰ってこなかった。
家畜の世話をするために、留守番をすることになったアンは、ただひとり残されたのだ。
ラジオ局は一局ずつ消え、ついにはなにも聴こえなくなる。
電気は停まり、ガスボンベは2本あるものの節約したい。
アンは、たきぎをつくり、暖炉で煮炊きをして冬をすごす。
ニワトリや牛の世話をし、野菜畑をつくる。
電気が停まったために井戸水がくみ上げられない。
そこで小川からくんでくる。
谷間を流れる小川のうち、ひとつは汚染されているが、谷間の泉を源流とするもう一本は大丈夫。
この小川は池にそそぎ、池の魚は大切な食糧となる。
こういう生活をしていたアンのところに、冒頭の一文のような事態が。
最初にみつけたのは、焚火の煙。
それが、日を追って近づいてくる。
一体どんなひとがあらわれるのか。
万一を考え、アンは家畜を追い立て、野菜畑を掘り返し、ひとがいた形跡を消す。
22口径のライフルをもって、山腹の洞穴へ。
洞穴にはあらかじめ、水や保存食も準備しておいた。
ここから、あらわれた男を観察する。
男は、だぶだぶとしたウェットスーツのようなものを着ている。
背中には空気ボンベ。
ワゴンを引き、のろのろと歩いている。
男は緑の木々に驚く。
なにかの器具であちこちを測ってから、マスクをとり、歓声をあげる。
ひさりぶりに人間の声を聞き、アンもびっくり。
男はアンの家をのぞく。
が、家のなかで寝たりしない。
テントを張り、そこで眠る。
あのテントは、放射能をさえぎるものにちがいない。
こうして、ひそかに男を見張っていたアンだが、翌日、男は不注意にも汚染されている小川のほうで水浴びをしてしまう。
じき、男は体調をくずし、テントにもぐりこんだままに。
アンは意を決し、洞穴からでて男のもとにいく――。
男の名前は、ジョン・R・ルーミス。
のちにアンに話すのだが、ルーミスは化学者で、磁気を帯びたプラスチックによる防護服の開発に着手していた。
水のろ過装置や空気清浄機も開発し、生産にこぎつけようとしたところ、戦争が起きてしまった。
ルーミスは、シェルターで何カ月もすごしたのち、開発した防護服を身にまとい、外の世界を歩き続けていたのだった。
本書の登場人物は、アンとルーミスのみ。
ルーミスは、アンの看病とお祈りのかいあって、徐々に回復していく。
本書の科学的記述がどれほど正確なのかは、知識がないためわからない。
いま読むとリアリティをそこなっている記述があるかもしれない。
でも、サバイバル生活については詳しく書かれており、そこに迫真性が生まれる。
機械に強いルーミスの指示で、アンはガソリンポンプからガソリンを得ることに成功。
トラクターをつかい畑をたがやすことができるようになった。
アンは娘らしく、10年後には子どもを連れて野草をつみにきているかもしれないなどと想像する。
が、ストーリーはそんな風には展開しない。
2人のサバイバル生活は紆余曲折のすえ、再びアンひとりのサバイバルへともどっていく。
その物語の緊迫感は相当なもの。
アンは大変なしっかり者で、かつはたらき者。
店にいけば、野菜や果物の種があるけれど、アンはその発芽率についても心配する。
《種だって一年くらいならいいけど、二年も放っておけば発芽率は落ちるだろうし、三年四年たつうちにすっかり使いものにならなくなってしまう》
またアンは、勇気があり、けっしてへこたれることがない。
こんなアンが、理不尽な目にあうのは痛ましい。
読後、どこかで国語の先生になれたらいいのにと思わずにはいられない。
それにしても、なんとまあきびしい児童書だろう。
原題の、“Z for ZACHARIAH”については、作中に説明がある。
アンが子どものころ読んだ「聖書の文字の本」が、このタイトルの元。
この本は、「AはアダムのA」ではじまり、「Zはザカリア」のZで終わっていた。
アダムが最初の人間だから、ザカリアとは最後の人間にちがいない。
そう、子どものアンは思っていた。
つまり、この原題は、「最後のひと」という意味なのだろう。
原題は“Z for ZACHARIAH”
SOSシリーズ第5巻。
2010年には、「海外ミステリーBOX」とシリーズ名を変え、新装版が出版されている。
1976年の、エドガー・アラン・ポー賞受賞作。
これは児童書。
といっても、児童書の範疇から、少しとびだした児童書。
内容は、ひとことでいえば、核戦争後に生き残った少女がサバイバルする物語だ。
主人公は、アン・バーデン。
作中で16歳になる少女。
将来の夢は、国語の先生になること。
本書はアンの1人称で、日記形式でしるされる。
その冒頭はこう。
《五月二十日
こわい。
だれか来る。》
この作品の舞台は、核戦争後のとある谷間。
この谷間は、たまたま放射能を逃れているが、ほかは全滅。
わずかな期間の戦争のあと、アンのお父さんと弟のジョセフ、いとこのデイビッドは近所のオグデンの町をみにいったのだが、そこはすっかり廃墟と化していた。
次の日には、店のクラインさん夫妻も加わり、アンを残した全員で、もっとはなれたディーン町にでかけていき、そして帰ってこなかった。
家畜の世話をするために、留守番をすることになったアンは、ただひとり残されたのだ。
ラジオ局は一局ずつ消え、ついにはなにも聴こえなくなる。
電気は停まり、ガスボンベは2本あるものの節約したい。
アンは、たきぎをつくり、暖炉で煮炊きをして冬をすごす。
ニワトリや牛の世話をし、野菜畑をつくる。
電気が停まったために井戸水がくみ上げられない。
そこで小川からくんでくる。
谷間を流れる小川のうち、ひとつは汚染されているが、谷間の泉を源流とするもう一本は大丈夫。
この小川は池にそそぎ、池の魚は大切な食糧となる。
こういう生活をしていたアンのところに、冒頭の一文のような事態が。
最初にみつけたのは、焚火の煙。
それが、日を追って近づいてくる。
一体どんなひとがあらわれるのか。
万一を考え、アンは家畜を追い立て、野菜畑を掘り返し、ひとがいた形跡を消す。
22口径のライフルをもって、山腹の洞穴へ。
洞穴にはあらかじめ、水や保存食も準備しておいた。
ここから、あらわれた男を観察する。
男は、だぶだぶとしたウェットスーツのようなものを着ている。
背中には空気ボンベ。
ワゴンを引き、のろのろと歩いている。
男は緑の木々に驚く。
なにかの器具であちこちを測ってから、マスクをとり、歓声をあげる。
ひさりぶりに人間の声を聞き、アンもびっくり。
男はアンの家をのぞく。
が、家のなかで寝たりしない。
テントを張り、そこで眠る。
あのテントは、放射能をさえぎるものにちがいない。
こうして、ひそかに男を見張っていたアンだが、翌日、男は不注意にも汚染されている小川のほうで水浴びをしてしまう。
じき、男は体調をくずし、テントにもぐりこんだままに。
アンは意を決し、洞穴からでて男のもとにいく――。
男の名前は、ジョン・R・ルーミス。
のちにアンに話すのだが、ルーミスは化学者で、磁気を帯びたプラスチックによる防護服の開発に着手していた。
水のろ過装置や空気清浄機も開発し、生産にこぎつけようとしたところ、戦争が起きてしまった。
ルーミスは、シェルターで何カ月もすごしたのち、開発した防護服を身にまとい、外の世界を歩き続けていたのだった。
本書の登場人物は、アンとルーミスのみ。
ルーミスは、アンの看病とお祈りのかいあって、徐々に回復していく。
本書の科学的記述がどれほど正確なのかは、知識がないためわからない。
いま読むとリアリティをそこなっている記述があるかもしれない。
でも、サバイバル生活については詳しく書かれており、そこに迫真性が生まれる。
機械に強いルーミスの指示で、アンはガソリンポンプからガソリンを得ることに成功。
トラクターをつかい畑をたがやすことができるようになった。
アンは娘らしく、10年後には子どもを連れて野草をつみにきているかもしれないなどと想像する。
が、ストーリーはそんな風には展開しない。
2人のサバイバル生活は紆余曲折のすえ、再びアンひとりのサバイバルへともどっていく。
その物語の緊迫感は相当なもの。
アンは大変なしっかり者で、かつはたらき者。
店にいけば、野菜や果物の種があるけれど、アンはその発芽率についても心配する。
《種だって一年くらいならいいけど、二年も放っておけば発芽率は落ちるだろうし、三年四年たつうちにすっかり使いものにならなくなってしまう》
またアンは、勇気があり、けっしてへこたれることがない。
こんなアンが、理不尽な目にあうのは痛ましい。
読後、どこかで国語の先生になれたらいいのにと思わずにはいられない。
それにしても、なんとまあきびしい児童書だろう。
原題の、“Z for ZACHARIAH”については、作中に説明がある。
アンが子どものころ読んだ「聖書の文字の本」が、このタイトルの元。
この本は、「AはアダムのA」ではじまり、「Zはザカリア」のZで終わっていた。
アダムが最初の人間だから、ザカリアとは最後の人間にちがいない。
そう、子どものアンは思っていた。
つまり、この原題は、「最後のひと」という意味なのだろう。
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モリーのアルバム
「モリーのアルバム」(ロイス=ローリー/作 足沢良子/訳 ジェニー=オリバー/絵 講談社 1982)
これは児童書。
作者のロイス・ローリーは「ギヴァー・シリーズ」の作者として高名。
本書は、ロイス・ローリーの処女作。
姉が難病にかかったため、成長せざるを得なくなった妹が、立派に成長する物語だ。
主人公は、13歳の〈わたし〉、メグ。
メグには15歳になる姉のモリーがいる。
メグは頑固で考え深い。
将来なりたいのは、こんなひと。
《――人々が敬意をもってわたしの名まえ、メグ=チャルマーズをいうようになる、そんななにかをやりとげたいのだ。》
一方、姉のモリーはこう。
《――おとなになったら、ちがう名まえ、つまり、だれかの夫人になって、モリーなんとかになり、何人もの子どもたちから敬意をもって「お母さん」と呼ばれること。》
モリーは美人で、おだやかでのんきで自信家。
メグは、そんな姉に引け目を感じている。
お母さんはモリーに似ている。
メグはお母さんに対し、こんな感想をもっている。
《自分自身が成長していくのをもういちど見るということは、とまどうことであるにちがいない。》
お父さんは大学の先生。
「風刺に関する弁証法的総合」という本を書いている。
お父さんがこの本を完成させるために、静かな環境をもとめて、一家は11月ごろ田舎にある1840年に建てられたという家に引っ越すことに。
新しい学校で、メグは「ナツメグ」というあだ名をつけられる。
引っ越し先での気に入った小部屋は、お父さんの書斎となってしまい、メグはモリーと相部屋に。
モリーのほうは、新しい学校でもたちまちボーイフレンドをつくり、チアリーダーの補欠要員となる。
そんなわけで、引っ越してからのメグは不本意な暮らしを強いられるものの、近所で新しい友人ができる。
その友人とは、ウィル=バンクスという70歳になる老人。
ウィルは妻に先立たれ、ひとり暮らしをしている。
話してみると、メグが暮らしている家のことを、ウィルはなんでも知っている。
「あなたはあたしの家に住んでいたんですか?」とメグが訊くと、ウィルは笑う。
「あんたが、わたしの家に住んでいるんだよ」
このあたりの2つの家は、ウィルの祖父が建てたものだった。
で、ウィルは2つの家を貸し、自分は昔使用人がつかってた家に移って暮らしていたのだった。
つまりウィルは大家さん。
ウィルはメグをあたたかく迎え、メグのことを「美しいわかい娘さん」と呼ぶ。
メグは写真を撮るのが好きで、また得意。
前の学校では男の子たちをさしおいて、週間最優秀作品に選ばれたこともある。
ウィルは以前、将校としてドイツに駐屯していたことがあり、そのときカメラを購入していた。
ウィルは、ドイツ製のカメラを貸すから暗室のつかいかたを教えてほしいと、メグにもちかける。
暗室は、執筆にいき詰ったお父さんとメグが、小さな物置を改造してつくったものだ。
こうして、2人は熱心に現像についての実験をくり返すことに。
「そんなにながく現像液のなかに置いちゃだめよ、ばかね!」とメグが怒鳴ると、ウィルは、「わたしはためしているんだよ」と怒鳴り返す。
〈「危険をおかさなければわからないだろう」》
もう一軒の空き家には、ウィルが気に入ったベンとマリアという若い夫婦が引っ越してくる。
ベンはまだハーバード大学の学生で、論文を書くのに静かな場所をさがしていた。
マリアは、夏に赤ん坊がうまれる予定。
メグは、この2人とも仲良くなる。
ところで、姉のモリーのことだ。
モリーは2月ごろ、流感にかかり鼻血がとまらなくなる。
村の医者の見立てでは、寒い気候のせいで鼻の粘膜が傷つくからということ。
じき、治ったようにみえたのだが、そうではなかった。
ある夜、メグはモリーに、母さんと父さんを呼ぶようにと起こされる。
メグが両親を連れてくると、モリーは血まみれ。
両親はモリーを連れて病院へ。
メグは、きのうモリーとけんかをしなければこんなことにはならなかったと後悔する。
入院したモリーは、しばらくして退院。
だから、もうよくなったはずなのに、モリーは不機嫌で気まぐれでわがまま。
それなのに、両親はモリーのことを叱らない。
薬のせいで、モリーの美しい髪は抜けてきてしまう。
メグがウィルと出会ってカメラにより習熟したように、モリーはウィルのすすめで野の花をあつめ、押し花をつくるようになる。
ウィルは植物にとても詳しい。
しかし、モリーは再び入院する。
ベンとマリアの夫婦に赤ちゃんが生まれることをとても楽しみにしていたモリーは、「あたしがうちに帰るまで、赤ちゃんを産まないように、ベンとマリアに話して!」と、メグにいいのこす――。
こんな風に、この作品の要素だけをとりだして要約しても意味がない。
この要素のすべてがないまぜとなり、メグの体験となるのだけれど、要約ではそれが失われてしまう。
本書の訳はずいぶん硬い。
例を引くとこんな感じ。
《家が建てられた年代で、それぞれ違いがあるということは、おもしろいものである。けれどそれは、わたしをおどろかせはしない。なぜなら、たしかに人の年齢というものは、モリーとわたしのように、大きな違いをつくるから。》
13歳の少女の1人称としては、出版当時ですら硬かったのではないか。
引用したのは冒頭近くの文章。
このあと、ウィルが登場するあたりから本書は面白くなる。
ストーリーがうごきだすだけではなく、会話が増える。
会話は、これほど硬くはない。
文章は、たいへん視覚的。
小道具としてカメラがつかわれているためもあるだろうし、作者のロイス・ローリーが写真家だったためもあるのだろう。
また、訳者あとがきによれば、本書はローリーの自伝的要素を含んだ作品とのこと。
メグがはじめてウィルの家をたずねた場面はこうだ。
《玄関ホールの反対がわには、台所があった。かれが居間を見せてくれたあと、バンクスさんとわたしは、そこへいった。まきストーブが燃えていた。織った青い小さな敷物が置いてあり、その上の青と白の鉢の中には、しずかな生活を好むように三このりんごが入っていた。すべてのものが、あらってみがかれ、かがやき、適切なところに置いてあった。》
メグは、好ききらいが強く、少々気むずかしい。
そのメグがはじめて自分が撮った写真をウィルにみせたとき、ウィルはその写真のよさを的確に指摘してくれた。
そのことはメグを感激させ、あたたかい気持ちにする。
《それは、ほんとうの友だちである人が、わたしとまったく同じ感受性をもっていたからなのだ。わたしにとっては、なによりも重要であることについて、その感じ方が同じなのだ。一生涯を通じてそういうことをけっして経験しない人たちがいることを、わたしは断言する。》
このあと、ベンとマリアの夫婦は、出産を撮ってほしいとメグに頼む。
それを聞いてウィルは心配するが、メグはその話を受ける。
《「だってウィル、冒険しないでどうやって学ぶことができる?」》
そして、出産に立ち会ったメグは、それまで会いにいかなかった病院にいるモリーに会いにいく。
《わたしは、モリーに会うのがこわかったのだ。いまは、こわくない。》
ほかにも、ウィルの甥が、ウィルの2つの家を手に入れようと狙っている話があったり、お母さんがつくっているキルトの話があったりとエピソードは盛りだくさん。
この作品は最後の1行が素晴らしい。
もちろん、そんな作品はたくさんあるけれど、でも、この作品の1行はまた格別だ。
これは児童書。
作者のロイス・ローリーは「ギヴァー・シリーズ」の作者として高名。
本書は、ロイス・ローリーの処女作。
姉が難病にかかったため、成長せざるを得なくなった妹が、立派に成長する物語だ。
主人公は、13歳の〈わたし〉、メグ。
メグには15歳になる姉のモリーがいる。
メグは頑固で考え深い。
将来なりたいのは、こんなひと。
《――人々が敬意をもってわたしの名まえ、メグ=チャルマーズをいうようになる、そんななにかをやりとげたいのだ。》
一方、姉のモリーはこう。
《――おとなになったら、ちがう名まえ、つまり、だれかの夫人になって、モリーなんとかになり、何人もの子どもたちから敬意をもって「お母さん」と呼ばれること。》
モリーは美人で、おだやかでのんきで自信家。
メグは、そんな姉に引け目を感じている。
お母さんはモリーに似ている。
メグはお母さんに対し、こんな感想をもっている。
《自分自身が成長していくのをもういちど見るということは、とまどうことであるにちがいない。》
お父さんは大学の先生。
「風刺に関する弁証法的総合」という本を書いている。
お父さんがこの本を完成させるために、静かな環境をもとめて、一家は11月ごろ田舎にある1840年に建てられたという家に引っ越すことに。
新しい学校で、メグは「ナツメグ」というあだ名をつけられる。
引っ越し先での気に入った小部屋は、お父さんの書斎となってしまい、メグはモリーと相部屋に。
モリーのほうは、新しい学校でもたちまちボーイフレンドをつくり、チアリーダーの補欠要員となる。
そんなわけで、引っ越してからのメグは不本意な暮らしを強いられるものの、近所で新しい友人ができる。
その友人とは、ウィル=バンクスという70歳になる老人。
ウィルは妻に先立たれ、ひとり暮らしをしている。
話してみると、メグが暮らしている家のことを、ウィルはなんでも知っている。
「あなたはあたしの家に住んでいたんですか?」とメグが訊くと、ウィルは笑う。
「あんたが、わたしの家に住んでいるんだよ」
このあたりの2つの家は、ウィルの祖父が建てたものだった。
で、ウィルは2つの家を貸し、自分は昔使用人がつかってた家に移って暮らしていたのだった。
つまりウィルは大家さん。
ウィルはメグをあたたかく迎え、メグのことを「美しいわかい娘さん」と呼ぶ。
メグは写真を撮るのが好きで、また得意。
前の学校では男の子たちをさしおいて、週間最優秀作品に選ばれたこともある。
ウィルは以前、将校としてドイツに駐屯していたことがあり、そのときカメラを購入していた。
ウィルは、ドイツ製のカメラを貸すから暗室のつかいかたを教えてほしいと、メグにもちかける。
暗室は、執筆にいき詰ったお父さんとメグが、小さな物置を改造してつくったものだ。
こうして、2人は熱心に現像についての実験をくり返すことに。
「そんなにながく現像液のなかに置いちゃだめよ、ばかね!」とメグが怒鳴ると、ウィルは、「わたしはためしているんだよ」と怒鳴り返す。
〈「危険をおかさなければわからないだろう」》
もう一軒の空き家には、ウィルが気に入ったベンとマリアという若い夫婦が引っ越してくる。
ベンはまだハーバード大学の学生で、論文を書くのに静かな場所をさがしていた。
マリアは、夏に赤ん坊がうまれる予定。
メグは、この2人とも仲良くなる。
ところで、姉のモリーのことだ。
モリーは2月ごろ、流感にかかり鼻血がとまらなくなる。
村の医者の見立てでは、寒い気候のせいで鼻の粘膜が傷つくからということ。
じき、治ったようにみえたのだが、そうではなかった。
ある夜、メグはモリーに、母さんと父さんを呼ぶようにと起こされる。
メグが両親を連れてくると、モリーは血まみれ。
両親はモリーを連れて病院へ。
メグは、きのうモリーとけんかをしなければこんなことにはならなかったと後悔する。
入院したモリーは、しばらくして退院。
だから、もうよくなったはずなのに、モリーは不機嫌で気まぐれでわがまま。
それなのに、両親はモリーのことを叱らない。
薬のせいで、モリーの美しい髪は抜けてきてしまう。
メグがウィルと出会ってカメラにより習熟したように、モリーはウィルのすすめで野の花をあつめ、押し花をつくるようになる。
ウィルは植物にとても詳しい。
しかし、モリーは再び入院する。
ベンとマリアの夫婦に赤ちゃんが生まれることをとても楽しみにしていたモリーは、「あたしがうちに帰るまで、赤ちゃんを産まないように、ベンとマリアに話して!」と、メグにいいのこす――。
こんな風に、この作品の要素だけをとりだして要約しても意味がない。
この要素のすべてがないまぜとなり、メグの体験となるのだけれど、要約ではそれが失われてしまう。
本書の訳はずいぶん硬い。
例を引くとこんな感じ。
《家が建てられた年代で、それぞれ違いがあるということは、おもしろいものである。けれどそれは、わたしをおどろかせはしない。なぜなら、たしかに人の年齢というものは、モリーとわたしのように、大きな違いをつくるから。》
13歳の少女の1人称としては、出版当時ですら硬かったのではないか。
引用したのは冒頭近くの文章。
このあと、ウィルが登場するあたりから本書は面白くなる。
ストーリーがうごきだすだけではなく、会話が増える。
会話は、これほど硬くはない。
文章は、たいへん視覚的。
小道具としてカメラがつかわれているためもあるだろうし、作者のロイス・ローリーが写真家だったためもあるのだろう。
また、訳者あとがきによれば、本書はローリーの自伝的要素を含んだ作品とのこと。
メグがはじめてウィルの家をたずねた場面はこうだ。
《玄関ホールの反対がわには、台所があった。かれが居間を見せてくれたあと、バンクスさんとわたしは、そこへいった。まきストーブが燃えていた。織った青い小さな敷物が置いてあり、その上の青と白の鉢の中には、しずかな生活を好むように三このりんごが入っていた。すべてのものが、あらってみがかれ、かがやき、適切なところに置いてあった。》
メグは、好ききらいが強く、少々気むずかしい。
そのメグがはじめて自分が撮った写真をウィルにみせたとき、ウィルはその写真のよさを的確に指摘してくれた。
そのことはメグを感激させ、あたたかい気持ちにする。
《それは、ほんとうの友だちである人が、わたしとまったく同じ感受性をもっていたからなのだ。わたしにとっては、なによりも重要であることについて、その感じ方が同じなのだ。一生涯を通じてそういうことをけっして経験しない人たちがいることを、わたしは断言する。》
このあと、ベンとマリアの夫婦は、出産を撮ってほしいとメグに頼む。
それを聞いてウィルは心配するが、メグはその話を受ける。
《「だってウィル、冒険しないでどうやって学ぶことができる?」》
そして、出産に立ち会ったメグは、それまで会いにいかなかった病院にいるモリーに会いにいく。
《わたしは、モリーに会うのがこわかったのだ。いまは、こわくない。》
ほかにも、ウィルの甥が、ウィルの2つの家を手に入れようと狙っている話があったり、お母さんがつくっているキルトの話があったりとエピソードは盛りだくさん。
この作品は最後の1行が素晴らしい。
もちろん、そんな作品はたくさんあるけれど、でも、この作品の1行はまた格別だ。
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