自分のなかに歴史をよむ

「自分のなかに歴史をよむ」(阿部勤也 筑摩書房 1988)

十代におくる書きおろしシリーズ、と銘打たれたちくまプリマーブックスの1冊。
いまは、ちくまプリマー新書というシリーズが出版されているから、プリマーブックスはもう出版されていないかもしれない。
シリーズが終わるときは、はじまるときのように広告されたりしないから、よくわからないけれど。

著者の阿部勤也さんは西洋史家。
たしか昨年亡くなられたと思う。
本は一瞬だけれど、ひとも一瞬だ。

本書は半分が自伝的エッセイで、もう半分が自身の研究の紹介。
どちらもとても面白い。
そこだけ目立ったり不要だったりする一文がまるでない、端正なですます調。

まず冒頭、大学生だった著者が上原専禄先生のお宅を訪ねるエピソードが語られている。
3年のゼミに参加する許可を得るために、生まれてはじめて大学の先生のおうちを訪れると、先生は会議中。
しばらく待っていただけますかと、先生にていねいにいわれ、会議の席にとおされる。
そこには高名な先生がたが。
上原先生が先生がたを紹介すると、紹介された先生は立ち上がり、著者に頭を下げる。
著者もあわてて頭を下げる。
その後、会議で意見をもとめられ、うろたえたりする。

このエピソードのあと、著者はこんな感想を記す。
「上原先生のお宅を訪ねて以後、私の生活は変わったのだと思います。少なくとも私は、おとなになるということはすばらしいことなのだな、と思ったからです」
これはとてもいい話だ。

著者は中学生のとき、家庭の事情からカトリック修道院の施設に入れられていた。
そこで西欧に触れるという貴重な体験をする。
その体験から、まずドイツ騎士修道院の研究をこころざすことに。

日本での研究に限界を感じ、ドイツへ留学。
学生でも読める古文書が、助教授の自分に読めないことに発奮し、文書館にかよいつめる。

最初はまるで読めない。
そのとき、上原先生が古文書を読んだときの苦労話をしてくれたときのことを思い出す。
とにかく声にだして読むことだ、と先生はいわれた。
で、じっさいやってみると、わからないことは多いけれど、一応筋はたどれる。
毎朝8時から12時まで、古文書を読もうと努力。
半年ほどたって気がつくと、読めるようになっていた。

でも、古文書が読めても著者の知りたいことはわからない。
著者が知りたかったのは、ドイツ騎士修道院のもとにいる民衆の姿だ。

さて、ドイツに留学した著者はさまざまな生活習慣のちがいにでくわす。
個人では日本人と変わらなくても、集団のなかでの振る舞いかたにはずいぶんちがいがある。
この人間関係の結びかたのちがいを歴史の問題としてとらえることはできないだろうか。
そう考えていると、ある論文でハーメルンの笛吹き男についての記述を見つけ、この伝説に夢中になる。
笛吹き男について研究することで、当時の民衆に対する視野がひらけた。

以後は、著者が研究で得た知見について。
当時のひとはマクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙)という、ふたつの宇宙のなかで暮らしていた、と著者。
ふたつの宇宙は相互に関係しあっており、小宇宙である人体に生じたことは、大宇宙の影響によるものと考えられていたそう。

この世界観を用いて、昔話の説明をした箇所はとても面白い。
さらに著者はこんなこともいう。

「私はメルヘンのもっとも重要な構造はまだ明らかにされていないと思われるのです。それはメルヘンがどのような状況のなかで、どのような必要に基づいてつくられ、語りつがれていたのかという問題です」

無時間のなかで語られやすい昔話を、歴史のなかでとらえようとしている、とても歴史家らしいことばだ。

ふたつの宇宙にもとづく世界観は、キリスト教の浸透にともない、ひとつの宇宙に収束されていき、そのさい大宇宙に属する仕事をしていたひとたちは賤視されるようになっていったらしい。

そして、大宇宙で生きていたひとびとであるジプシーや、日本の被差別の民話は、小宇宙に生きていたひとびとの民話とはまたちがうのだそう。

小宇宙の民話では、プロップのいう贈与者としての妖精などがあらわれ主人公を助けるけれど、そのときの妖精は絶対的な位置をしめていて、説明されたりしない。
ところが、大宇宙の民話では、ジプシーにこけにされてしまうなど、絶対的な位置をもっていないのだという。

「小宇宙のなかにいる人間にとっては大宇宙は神秘的なところですが、大宇宙のなかを旅して歩いているジプシーにとっては神は仲間にすぎず、頼りになる存在ではないからです」

こういう話を読むと、ジプシーの昔話も読んでみなくちゃなあなどと思ってしまう。

著者はあとがきで、こんな指摘もしている。
「歴史叙述はなぜ物語としての構造をもたなければならないのか」
こんな問題意識が、のちの世間論へとつながっていったのかもしれない。

この本は薄くて読みやすいのだけれど、実がたっぷりつまっていて要約しづらい。
端正な文章はまとめにくいものだなあと、これは余談。

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空からおちてきた男

「空からおちてきた男」(ジェラルディン・マコックラン 偕成社 2007)

訳は金原瑞人。
絵は佐竹美保。

マコックランは、「不思議を売る男」(偕成社 1998)を読んだことがある。
アンティークショップにあらわれた不思議な男が、アンティークにまつわる物語を客に話して聞かせるというストーリーで、全体としてはメタフィクションになっているという、ずいぶん凝った面白い作品だった。

今回の「空からおちてきた男」は、「不思議を売る男」にくらべると本が薄い。
すぐ読めそうだと手にとってみた。

短篇連作。
主人公のカメラマン、フラッシュは飛行機事故により、どことも知れぬ場所に落ちてしまう。
スティラとオルという姉弟に出会い、村へ。
村人は、現代文明をあんまり知らない。
長老はカメラこそ知っているが、写真は見たことがない。
フラッシュはポラロイドカメラと残り9枚のフイルムをつかい、村の素晴らしいものを写真におさめることに。

撮るのは、村で一頭しかいない大事な牛だったり、フラッシュの価値観からだいぶずれた美女だったり、巨大な岩にえがかれた壁画だったり。
毎回、なにをどう撮るかが見もの。
村の若者が自分を撮ってもらおうとあらそいをはじめると、トンチをきかせて切り抜ける。

フラッシュの造形がいい。
3枚目だけれど、相手に敬意を払うことを知っている、とてもいいやつ。

毎回の話はこびといい、ラストのオチのつけかたといい、じつに手馴れた感じ。
軽くて、楽しく、すらすら読める。
ただ、読み終わると、もうひと声ほしかったと思ってしまう。
すぐ読めそうだと手にとって、この感想は贅沢というものか。

あと、この本は佐竹さんの絵が大活躍。
表紙は煙をだした飛行機の絵で、目次は、目前にせまる樹海の絵。
そして話がはじまり、墜落した飛行機の絵が。

また、フラッシュが撮った写真も挿絵になっている。
作中で撮った写真を絵で見せるというのは、かなり危険なことだけれど、カメラのフレームを意識した構図と、影を黒で塗りつぶすという処理で、佐竹さんは楽々とクリアしている。


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縛られた男

「縛られた男」(イルゼ・アイヒンガー 同学社 2001)

訳は眞道杉、田中まり。
挿画は真道彩。

ふと手にした本が面白いと、とても得をした気分になる。
これはそんな一冊。

本書は短編集で、収録作は以下。

「この時代に物語るということ」
「縛られた男」
「開封された指令」
「ポスター」
「家庭教師」
「夜の天使」
「鏡物語」
「月物語」
「窓芝居」
「湖の幽霊たち」
「私が住んでいる場所」
「絞首台の上の演説」

作者はキャラクターをえがく気がない。
どの作品の登場人物にも名前があたえられていない。
あるのは、簡潔な文章でしるされた、途方もなく圧縮されたプロットのみ。
プロットには、逆説が秘められていて、読み手の胸のうちで大きくひろがる。

また、作者は生死をないまぜにして書く。
「この時代に物語るということ」というまえがきで、作者が「鏡物語」について紹介する文章はこんなふうだ。

「少女は死に際にその一生を鏡で映したようにもう一度体験する。そこで少女は恋人と会ったときに別れ、物語の最後のほうではお下げ髪がまた伸びて、試験のたびに知っていたことをひとつひとつ忘れ、最期の瞬間にはついにこの世に生まれるのである」

訳者あとがきによれば、この死生観は作者の体験によるものだそう。
作者はウィーンのひと。
作者の母親がユダヤ系だったため、ナチスドイツ占領下において祖母と叔父叔母は強制収容所へ。
友人たちに母をかくまってもらいながら終戦を迎える。
つまり、つねに生死の境にいざるを得なかったひとの死生観。

終戦のとき、作者は23才。
それまでユダヤ系だからと入学を拒否されていた大学で医学を学ぶが、執筆活動のため退学。
その後50年代を代表する作家になったとのこと。

「縛られた男」
目をさますと、野外で縛られていた男。
なんとか立ったり歩いたりでき、しだいにその状態に適応。
たまたま出会ったサーカス団のもとで、縛られたまま機敏にうごいてみせ人気者に。
逃げ出した狼までも、縛られたまま素手で倒す。
しかし、もう一度狼を退治してみろと客につめよられたさい、団長の妻が男の縄を切ってしまう。

縛られていたときのほうが自由だった男の物語。
縄を切られたとき、男はこう思う。
「こうやって自由の身にならないよう、あれだけ警戒していたのに。なぐさめようとする同情を警戒していたのに。縄を切るにしても、よりによって今でなくともよかったのに」

「開封された指令」
司令部から前線へ指令をはこぶ伝令の男。
敵にみつかる可能性のある道をとおるという理由から指令を開封すると、そこには男の殺害命令が記されている。
すると、一緒にいる若者は自分への監視なのか。
拳銃を抜き、機会を待っていると、敵に撃たれ負傷。
止血をしてくれた若者に、男は指令を渡す。
指令には、この指令をもってきた男を銃殺せよとあり、名前は書いていなかった。
……

話はここで終わらず、まだひねりがある。
文面を知ったために疑心暗鬼におちいる伝令の話。
それにしても、よくここまでストーリーを詰められるものだ。

ほか、線路に落ちた女の子と、駅に貼られた南の海にいる男のポスターの生死が同時に語られる「ポスター」
地球でいちばんの美女が、ミス・ユニバースを名乗るため月にいき、そこでオフィーリアに出会う「月物語」
住んでいるアパートが、どんどん地下に沈んでいく「私の住んでいる場所」

「月物語」のラストは、さりげなく舞台が月から病室にうつり、美女は入水をこころみたことが読者に知らされるというもの。
どれをとっても、じつに面白い。

本書の最後の作品「絞首台の上の演説」は、その名のとおり首をくくられる男の演説。
そのため、ほかの作品よりも作者の思想がじかにあらわれているようでわかりやすい。
放火の罪で刑をうける男は、絞首台の上から叫ぶ。
「お前たちは生まれる前に放火してきて、死ぬ運命を背負って生まれてきたのか」

圧縮された物語は、石に刻印された化石のよう。
読みほどくのに緊張が強いられるけれど、それだけのことはある。

この本はソフトカバーで薄い、小振りな本。
本文は横書きで、上下にたっぷり余白をとっている。
この造本も、この作品にふさわしいように思った。

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耳の物語

下に「耳の物語」の一節について書いたら、じっさいはどうなっていたかと気になり、本にあたってみた。
こういう文章だった。

「画は一瞥で見る。書物は一回しか読めない。音楽は一回しか聞けないのだ」

意味はあっていたけれど、ずいぶん単純化しておぼえていたものだ。

それにしても開高健の文章はかっこいい。
なにをいっているのかよくわからないところも多々あるのだけれど、文章にリズムがあり、読んでいると陶然とさせられる。

でも、いま検索してみたら、「耳の物語」は絶版になっていた。
なんということだ。

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処女読書問題について

作家は処女作にすべてがある、といういいかたがある。
その作家がこれから展開していくであろうモチーフや文体、キャラクターやプロットの萌芽がそこに見られる、という意味だろうと思う。

おんなじようなことは、読書する側にもいえるのではないか。
と、いうのが処女読書問題。

たとえば、ある作家の作品がABCとあったとする。
Aがいちばん出来がよく、Cが悪い。
しかし、その読者は最初にCを読み、この作家はつまらないと判断してしまう。
最初に読んだ作品だけで、すべてを決めつけてしまう。
これが、処女読書問題だ。

さらに、この読者が友人に、この「作家はつまらないね」と話したとしよう。
その友人が作家のファンだとしたら、こういうだろう。
「Aは面白いから、読んでみなよ」
そこで読者はAを読もうとする。
ところが、うまくいかない。
読書というのは、とても肉体的なものなので、最初Cをつまらないと思ったら、Aを読もうとしても、なんとなくからだが受けつけなくなってしまうのだ。

それでも、がんばれば読めないことはない。
でも、がんばってみるのだけれど、なにかまずいものを無理して食べているような気がして、途中で投げ出したりしてしまう。
読者本人も、最初からAを読んでいたらなあと、損をしたような気持ちになる。
なんともしがたいことだ。

へんてこな理屈をながなが書いてしまったけれど、具体的にいこう。
ジーヴスの話だ。

最初に「ジーヴズの事件簿」(P.G.ウッドハウス 岩永正勝・小山太一/編訳 2005)を読んだので、この訳に愛着をもってしまい、「ジーヴスと朝のよろこび」(P.G.ウッドハウス 森村たまき訳 2007)以降も、続々と刊行される予定の森村訳に、複雑な心境をいだかざるえなくなってしまったのだ。

もちろん、これは訳の優劣なんていう問題ではなく、たんに読んだ順番の話。
森村訳だって面白いのだけれど、べつの訳でも読みたいなあと思ってしまう。

こんなことを考えていたら、たしか開高健が「耳の物語」で書いた、こんなことばを思い出した。
「本は一度しか読めないのだ」。

まったくそのとおりだと思う。


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ファンタジーの勉強

以前、脇明子さんの「ファンタジーの世界」(岩波書店 2006)を読んだとき、違和感を感じた。
どうも、自分が読んでいたファンタジーとはちがう。

で、いくつかのファンタジー概説書を読み、ついに、そうかとわかった。
気がついてみると、なんのことはない。
そのきっかけになったのは、こういう本。

「平成16年度国際子ども図書館児童文学連続講座講義録 「ファンタジーの誕生と発展」」(国立国会図書館国際子ども図書館 2006)。

この本、一般書店には流通していないと思う。
でも、いま奥付を見ていたら、国際子ども図書館の講演会は、HPからPDF版を見ることができるのだそう。
あとは、ご近所の図書館にもあるかもしれない。

講演会の内容はこんな感じ。

「ファンタジーの周辺」 神宮輝夫
「メルヘンからファンタジーへ」 間宮史子
「イギリスのファンタジー」 定松正
「アメリカ・カナダのファンタジー」 白井澄子
「ファンタジーとはなにか」 井辻朱美

あとは国際子ども図書館の活用法や、コレクションの紹介など。
どの講演も、じつに読み応えがある。
なかでも井辻朱美さんの講演には、いろいろ教えられた。

話をものすごく簡単にしてしまうと、ファンタジーの先祖は昔話とか神話とかになる。
ロマン主義の時代に、昔話や神話に対する関心が増し、「グリム童話」などがつくられ、また、アンデルセンの童話が好評をもって迎え入れられる。
それらのインパクトにより、イギリスで「黄金の川の王さま」や「バラとゆびわ」や「水の子」や「不思議の国のアリス」や「北風のうしろの国」などが誕生する。

当初、空間の移動が主だったファンタジーは、20世紀に入り、時間を移動するようになる。
ここで、井辻さんがイグアノドンの発見(1834)に着目しているのが面白い。
地下世界に絶滅動物がいるという観念が生まれ、それが「アリス」に反映しているとのこと。

時間移動(講演ではタイム・ファンタジーとよんでいる)作品の嚆矢は、ウェルズの「タイムマシン」。
児童文学では、ウェルズの友人、ネズビットの「魔よけ物語」が最初なのだそう。

その後ファンタジーはどんどん登場人物の内面と結びつくことになり、タイム・ファンタジーもそれを受けてか、時代を超えて時間移動しないようになる。
時間移動をして出会うのは、3代まえの若いお祖母ちゃんだったりする。
いってみればルーツさがしで、井辻さんの命名では「家族史ファンタジー」。

…なんだか、話がそれてしまった。
自分が気づいたことを書こうとしたのだけれど、井辻さんの講演が面白くて、ずいぶん引用してしまった。
引用ついでに、もうひとつ。

以前、ファンタジーの魔法は石に魔法がこもっていたりなど、モノにあるものだったけれど、最近はモノがなくて情報だけ、イメージだけになってきているとのこと。
背景にネットの普及があるのではないかと、井辻さん。
これも興味深い指摘。

さて。
気づいたことというのは、井辻さんのまえの、白井澄子さんの講演を読んでいたときのことだ。
アメリカでは、「オズの魔法使い」(1900)のあと動物ファンタジーの「シャーロットの贈り物」(1951)まで、ファンタジー作品はなかった、というようなことを白井さんは話していて、とてもびっくりした。
そんなはずはない。

この本は講演だけでなく、つかったレジュメも収録されている。
白石さんの講演のつぎに収録されていた、井辻さんの講演のレジュメ「ファンタジー年表」をながめていると、1932年にこんな記述があるのを見つけた。
《R・E・ハワード「コナン・シリーズ」》。

このときやっと気づいたのだけれど、児童文学の窓からファンタジーをのぞくと、「剣と魔法もの」がごっそり抜け落ちてしまうようなのだ。
まあ、たしかに「コナン」は少年少女向けではないよなあ。

ひょっとすると、児童文学にはある傾向の作品をなかったことにしてジャンル全体を語ってしまうところがあるのかもしれない。

でも、おかげで自分の頭が、「ファンタジー=剣と魔法」となっているのがよくわかった、という次第。


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泣き虫弱虫諸葛孔明 第弐部

「泣き虫弱虫諸葛孔明 第弐部」(酒見賢一 文芸春秋 2007)

「諸葛」とか「孔明」とかって、漢字変換ですぐ出るんだなあ。

本書はタイトルどおり、「三国志」ものの小説。
特長的なのは、その文体。
講談調というか、戯作調というか、作者が作品のまえにでて、ハリセンを叩いているような文章。

戯作調の文体のいちばんの利点は、批評性を導入できることだろう。
批評性はツッコミといいかえてもいい。
ふつう、小説の3人称の文体で、登場人物にツッコミをいれると、読者はしらけてしまうものだ。
でも、戯作調の文体だとそれが可能になる。
そして、「三国志」はその成り立ちといい、豪快すぎる人物たちといい、ツッコミどころが満載なのだ。

作者は正史や「三国志演義」や、さまざまな注釈を引用しながら、ついにはこんな極論(正論?)をいう。
「言ってしまえば時の政権の方針に支障がなければべつにどっちでもよいというのが歴史なのである」。

これだけだと、ただの歴史漫談だけれど、本書は小説。
小説らしく、作者がすこし下がり、場面がまえに出てきて物語が進行する。
この、漫談と、小説的なところが継ぎ目なく一体となっている手際には、ほとほと感心する。

そしてまた、その場面も、たいていは誇張をきかせたふざけたもの。

今回のハイライトは、劉備軍団が10万もの民衆を引き連れて、日速5キロの漫遊逃亡をするところ。
このシーンに、これだけの分量をさいた「三国志」は、前代未聞ではないだろうか。
この逃亡で、独断将軍関羽はていよく別働に追いやられ、張飛は殺戮マシーンと化し、孔明の奥さんである黄氏のつくった恐竜戦車が地味に活躍する。

前巻で不憫なあつかいを受けていた、孔明の弟諸葛均は、劉備軍団に合流。
エロトークの達人、簡雍のもとで漢(おとこ)修行をすることに。

この本、けっこう厚いのだけれど、面白くてついつい一気に読んでしまった。
「三国志」をすこしでもかじったことのあるひとなら、抱腹絶倒ものだ。


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アクセラレイション

「アクセラレイション」(グラム・マクナミー マッグガーデン 2006)

副題は「シリアルキラーの手帖」。
訳は松井里弥。
挿画は緒方剛志。

帯にでかでかと、「エドガー賞受賞×緒方剛志」と書いてある。
本書は2004年のMWA賞(エドガー・アラン・ポー賞)の最優秀ヤングアダルト小説賞の受賞作だそう。
MWA賞にヤングアダルト小説部門があるだなんて、ちっとも知らなかった。

緒方剛志さんの名前も大きく載ってはいるのだけれど、描いているのは表紙の線画だけだ。
こういうことは、よしたほうがよくはないだろうか。
装丁がいまいちなのも、ヤングアダルト小説としては残念なところ。
すぐに見当たらなくなってしまう本かもしれない。

でも、内容はさすが受賞作という面白さだった。

舞台はトロント。
主人公ダンカンの一人称。
ダンカンは高校生で、去年オンタリオ湖で溺れた女の子を助けられなかったことに、自責の念をいだいている。
夏休み中のいまは、地下鉄の遺失物取扱センターでアルバイト。
そこで、動物虐待や女性の行動について詳しく書かれた不気味な日記を見つける。
ここに書かれた女性を救えるのはぼくだけかもしれないと、ダンカンは日記のもち主をさがしはじめる。
……

日記のもち主さがしにつきあうのは、ふたりの友人。
悪友のウェインと、腕に障害のあるヴィニー。
3人はいつもつるんでいて、この年頃の男の子らしい、角突きあわせるような会話をする。
このあたり、よく書けている。

また、これは個人的におどろいたのだけれど、3人が調べ物をしにイグナティウス・ハワード公共図書館にいったとき、ヴィニーが「ウォッチメン」を読むという描写があるのだ。
「ウォッチメン」は傑作だけれど、公共図書館むきとはぜんぜん思えない。
カナダの公共図書館はフトコロが深いのだろうか。

それはともかく。
登場人物がすくないのも、その登場人物それぞれに見せ場があるのも、普通の高校生がやれそうなことだけでストーリーが成り立っているのも、とても好感がもてる。
犯人の扱いはいささか疑問に思ったし、一人称のつねで客観性がとぼしいと感じられるところもあるのだけれど、これは好みの問題かもしれない。 
ラストは手に汗握る緊張感。

あと、きびきびしたセリフ回しも長所のひとつとして挙げておきたい。
「溺れた女の子の夢をまた見るようになった」というダンカンに、ヴィニーがいう。

「あんたのせいじゃない。あんたは世界を救うことなんてできない。だからキム(ダンカンの彼女)に捨てられるんだ。世界を救うことをあきらめきれないから」

予告編をつくるさいには収録しておきたいような、いいセリフだ。 

そうそう、今回書いた表紙は、人物が左右反転してしまっている。
まちがえて描いてしまった。
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自転車で月に行った男

「自転車で月に行った男」(バーナード・フィッシュマン 早川書房 1980)

訳は山田順子。
挿画は本橋靖昭。

中年男ファンタジーとでもいうべき作品。
訳者あとがきによれば、「カモメのジョナサン」や「星の王子さま」をひきあいにだした書評が、新聞や雑誌をにぎわせたそう。

主人公はステファンという45歳の男。
ニューヨークでグラフィック・デザイナーとして成功していて、美しい妻もいるのだが、くたびれ、すりきれて、無気力に。
妻や、仕事のパートナーと別れ、愛犬と田舎に引っこんだものの、その愛犬も老衰で亡くなる。
そんなとき、ピアという若い娘に出会う。
また、妻に贈られた自転車で、ニューヨーク中をサイクリングをすることに、なぐさめを見いだす。
あるとき、自転車で少し地面から浮いて走ることを習得。
ついにある晩、月にむかって飛び立つ。
……

ピアがステファンに声をかける、その第一声はこう。
「こう言ったのよ…あなたはこれまで会った人のなかで、いちばんすてきな方だって」
うーん。
ファンタジーにもほどがある。

中年男の再生には、趣味と、ペットと、風変わりな若い女性が必要なのだろうか。
考えさせられる。

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手放した本の話

本は、読み終わったらだいたい手放すことにしている。
とっておいたらきりがない。

とっておくのは、まず気に入った本。
それから、読み返したりするだろう本や、参照するであろう資料的な本。
あと、手に入りにくい本。
世界名作であれば、まあ図書館でみられるだろうから、手放しても大丈夫。

こんなことをしていると、手元には妙な本ばかり残ることになるけれど、これは仕方がない。
でも、手放してから、しまったと思う本はいくつもある。

たとえば「空中楼閣を盗め!」(ドナルド・E・ウェストレイク 早川書房 1983)。
この本は、ウェストレイク作品のなかでは、それほどのできばえではなかった。
それに、ウェストレイクほどのひとの本なら、すぐ手に入れることもできるだろう。
そう思って手放したら、以後まるで見かけない。

そういえば、ウェストレイク作品の翻訳をよくてがけている木村二郎さんの小説「ヴェニスを見て死ね」(早川書房 1994)も、手元にあったのだけれど、なんの拍子でか見当たらなくなってしまった。
この本は読んでいなかったので、残念に思いさがしているのだけれど、なかなかお目にかかれない。

アメコミの「ウォッチメン」(アラン・ムーア メディアワークス 1998)、も手放してから見かけない本のひとつ。
あの類い稀な構成力を、もう一度味わいたいと思っているのだけれど。

本を手放すとき、古本屋にもっていくことはしない。
たいてい、驚くほど買いとり金額が低いからだ。
あんまり金額が低いと自尊心が傷つくので、もっぱら捨ててしまうことにしている。


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