ティータイム七五話

「ティータイム七五話」(真鍋博 毎日新聞社 1982)

本書は、1980年7月24日号から1982年1月17日号まで、「毎日グラフ」に連載したエッセーをまとめたもの。

著者は、だれもが知るイラストレーターで、装丁家。
小説好きなひとで、真鍋博さんがイラストを描いた本を1冊も読んでいないというひとはいないだろう。

真鍋さんのイラストは、清潔で、まじめで、几帳面。
真鍋さん自身も、どうもそういうひとだったらしい。

なにしろ、四十すぎまで、酒もタバコもギャンブルもコーヒーもやらなかったそう。
それが、近所の喫茶店でコーヒーを飲むようになった。
そうなると、こんどは一日一回、必ずコーヒータイムをとるようになる。
車の運転も、バッテリーがあがらないように、一日一回、近所を一周。

真鍋さんはずいぶんやせていたらしい(これもイラストの印象通り。あの絵を描くひとが太っているはずがない)。
医者に太れといわれ、それには運動をすることだと毎夜マラソンをはじめる。
マンションの屋上でせっせと走るが、体重は増えない。
汗をかかなければいけないと思い、ご長男の登山リュックを背負って走っていたら、階下のひとから天井に響くと文句をいわれてしまった。

こんなことが、まじめに書いてある。
失礼ながら、真鍋さんは、最近のことばでいう「天然」なひとだったのかも。

また、真鍋さんは大変几帳面。
日記はつけはじめたら、書かなければ眠れないように。
ローションなどには、マジックでつかいはじめの日付を書いておく。
こうしておくと、自分がどれくらいつかうかわかるので、旅行にいくとき便利。

几帳面で整理好きとくれば、コレクター気質があるということだ。
真鍋さんもご多分にもれず。
鳥の置物や、ハンドベルをあつめている。

それから、だれかが道順を教えるためにメモ帳などに書いた地図をあつめるのが趣味だとも。
そういう地図を地域ごとに分類して、ノートに貼っているそう。
よもや、そんなひとがいるとは。

また、イラストの資料用として、さまざまなミニチュアもあつめている。
これは想像だけれど、これらのミニチュアもきれいに並べられていたんじゃないだろうか。

装丁についての話もある。
松本清張の「黒い福音」。
「牧師が犯人なので、本全体を黒一色の聖書風にし、しかも本の小口と天を赤い色に染めた」とのこと。
(真鍋さん、犯人割っちゃってますよ!)

著者からの指名だった、三島由紀夫の「剣」。
「白地に濃紺で剣道の面に花を配した。残念なことは、白地の和紙がいたみやすく、もうボロボロなりかけていること」

仁木悦子の「林の中の家」。
「銀色の箱。そこにエッチングタッチの細い線で樹木を何本も描き、本のタイトルを横に配した。これも当時としては、えらく大胆な試みだった」

装丁原稿を2度つくるはめになったのは、高見順の「都会の雌雄」。
電車のなかで、担当者が、高見さんのご夫人に原稿をみせたところ、対向電車のすれちがいざま、強い風が吹きこみ、原稿は外に飛んでいってしまったという。
「幸い? 花の写真を使った装丁だったので、何とか同じようなものをつくり、入稿した」

最後に。
この本で知ったのだけれど、山梨県立美術館にある、ミレーの「種まく人」購入の経緯について。
「種まく人」の購入には、当時の田辺国男県知事の奔走があったという。

購入費用は、企業局の予算をあてた。
でも、企業局の利潤は関係経費以外につかってはいけないことになっている。
が、公営企業法の最後に、事業外資産に使ってもよいという一項があり、田辺国男県知事は何ヶ月にもわたり、しぶる通産省を説得したとのこと。

こんな話題も書く真鍋さんは、几帳面なだけでなく、好奇心旺盛なひとだった。
ほんとうに、絵のままのひとだ。

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翻訳味くらべ 「水仙」(翻訳入門版)

「翻訳入門」(松本安弘・松本アイリン 大修館書店 1986)は原文と既訳をならべたうえで、誤訳・拙訳を指摘し、著者による改訂訳をのせている本。
小説だけでなく、評論や詩、児童文学まで対象にしているのが特色だ。

で、今回は詩。
とりあげられいるのは、ワーズワースの「水仙」。
本書の構成にならって、まずは原文を。

“I wandered lonely as a cloud
That floats on high o'er vales and hills,
When all at once I saw a crowd,
A host, of golden daffodils,
Beside the lake, beneath the tree,
Fluttering and dancing in the breeze.

Continuous as the stars that shine
And twinkle on the milky way,
They stretch'd in never-ending line
Along the margin of a bay:
Ten thousand saw I at a glance,
Tossing their heads in sprightly dance.”

詩はぜんぶで4連あるけれど、半分だけ引用した。

つぎに、とりあげられている邦訳は弥生書房の「ワーズワース詩集」
訳者はしらべればわかるだろうけれど、面倒なのでしていない。
その訳は、こう。

「谷や丘の上たかく浮かぶ雲のように
私はひとりさまよいあるいていた。
そのときふと目にしたのは
金色の水仙の大群が
湖のほとり、木立の下で
そよ風にひるがえりおどるさま。

銀河にひしめいて
ひかりまたたく星屑のよう
彼等は入江のふちにそって
目路(めじ)のかぎりつらなっていた。
一目見てざっと一万の花が
頭をふり立て陽気におどっているのだ。」

さて、この訳にたいして、著者による指摘が入る。
すこし引用してみよう。

lonely
lonelyは「ひとりぼっちで心さびしい」「孤独である」。aloneは「ただの1人」。両者を正しく区別すること。原訳(弥生書房訳)の「ひとりさまよいあるいた」では「さびしさ」のニュアンスが出ず適訳ではない。

I saw a crowd,A host,of golden daffodils,…
コンマが訳出されていない。「一群の、いやよく見れば大群の」と、たたみかける漸層叙法で情景を盛り上げている。

o'er
詩語で「…の上の方に」(=over)。詩では場合によっては、強弱のフットを踏ませるために単語のシラブルの数を減らす必要がある。stretch'd(=stretched)、ne'er(=never)、'tis(=it is)などもこのたぐい。

vale
valley(谷)の詩語。

…,When
前にコンマがあるから、追加叙法のwhenで、and just then,at which time(そしてその時)の意。

all at once
「ふと目にした」は誤訳。「たちまち」「突然」「にわか(漢字)に」「だしぬけに」が正訳。

crowd,host
crowdは「かたまり」「群」である。hostは「大群」「大軍」で、crowdよりも大きい群。つまり、遠くから見たときには小さなかたまりに思えたのが、近づいてみると延々と続く大群(大群生)であった。原訳ではざん(漢字)層叙法のコンマを見落とし、crowdとhostの意味の違いに気づかず、両語をひっくるめてただ「ふと大群を目にした」と訳している。詩は神経質に語の解釈をしなければならない。

チェック項目はまだまだあるのだけれど、これくらいに。
続いて、著者による改訳が載るのだけれど、そのまえに、本書では詩の翻訳にかんして重大な提案がなされている。

――定型の英詩は七五調で訳せ
というのだ。

英詩のアクセントを日本語に移すのはまず無理だし、脚韻を移すのもまず無理。
しかし、日本語には七五調という定型がある。
なら、定型の英詩は七五調に訳すべきだ。
…という理屈。
著者はさらにこう続ける。

「原訳(弥生書房訳)を朗読してみると、詩のリズムが全くなく、ただの文章である。やはり、五・七・五の調子を整えるように訳詩を行いたいものである」

「そうすれば一読、突然何千、何万という美しい黄水仙の群落に出会い、その風の中で踊る陽気な花に誘われて、思わず一緒に楽しい気分になり、それまでおうおうとして楽しまなかった詩人の心が忽ち浮き浮きする様子が鮮やかに読者に伝わってくるだろう」

という著者による改訳は、こうだ。

「谷の上、丘の上なる天空にぽっかり浮かぶ雲のごと
われ淋しさにさまよえば
俄に見たり一群の、
いな大群の咲き乱る、黄金色の水仙を
湖水のほとり、木立のもとに
そよ吹く風に翻り、踊り戯る水仙を。

銀河に浮かび、瞬きて
光るあまたの星のごと
入江に沿いてひと条に
まなこの限りうち続く
ひと目のうちに一万の、群れたる花をわれは見し
花はこうべをうち振りて、陽気に踊り戯れる。」


七五調は日本語の定型かもしれないけれど、一瞬しか耐えられないものだと個人的には思う。
長く続くと、単調さが鼻につき、なんだかバカバカしくなってしまう。
この本が出版された、1986年の時点でも、すでにバカバカしかったんじゃないかと思うのだけれど、どんなものだろう。

さて、最後にもう一例。
手元にあった「イギリス名詩選」(平井正穂編訳 岩波文庫 1990)にも、「水仙」が載っていたから、それを引用してみよう。

「イギリス名詩選」(平井正穂編訳 岩波文庫 1990)より
ワーズワス「水仙」。

「谷を越え山を越えて空高く流れてゆく
白い一片の雲のように、私は独り悄然としてさまよっていた。
すると、全く突如として、眼の前に花の群が、
黄金色に輝く夥(おびただ)しい水仙の花の群が、現れた。
湖の岸辺に沿い、樹々の緑に蠅、そよ風に
吹かれながら、ゆらゆらと揺れ動き、踊っていたのだ。

夜空にかかる天の川に浮かぶ
燦(きら)めく星の群のように、水仙の花はきれめなく、
入江を縁どるかのように、はてもなく、
蜿蜒(えんえん)と一本の線となって続いていた。
一目見ただけなのに、ゆうに一万本はあったと思う、
それが皆顔をあげ、嬉々として踊っていたのだ。」


七五調ではないけれど、著者の指摘をクリアしているし、これなら及第点をもらえるんじゃないだろうか。

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この金でなにを買ったか?

「給付金をすべて本代にしよう計画」の報告。
消費税が入ったり、入っていなかったりしているので、金額はまあだいたい。
買った本は以下。

●ブックフェア
東京国際ブックフェアにでかけて買った本。
ブックフェアの本は、八掛けで買えるので、購入金額は定価より安い。
「はるかな島」は絵本。
「図書館 愛書家の楽園」はブックフェアにいった記念に買った。
「いいなづけ」が上巻しかなかったのは誤算。
「TRAVELING MAN」は洋書絵本。イブン・バットゥータの絵本があるなんて思ってもみなかったので、うっかり購入。でも、英語で書いてあるのでよくわからない。

「はるかな島」(ダイアン・ホフマイアー/文 ジュード・ダリー/絵 光村教育図書 2008) 1280円
「いいなづけ 上巻」(マンゾーニ 河出文庫 2006) 800円
「檀流クッキング」(檀一雄 中公文庫 2002) 560円
「図書館 愛書家の楽園」(アルベルト・マングェル 白水社 2008) 2856円
「ノリーの終わらない物語」(ニコルソン・ベイカー 白水社 2008) 1092円
「ガルガンチュア」(ラブレー ちくま文庫 2005) 1300円
「TRAVELING MAN」(James Rumford 2001) 808円。

●バーゲンブック
ブックフェアの筑摩書房のブースでは、バーゲンブックをしていた。
以下の本はみな半額。
思いもかけないことだったので、つい散財。

「ホメーロスの諸神讃歌」(沓掛良彦/訳註 ちくま学芸文庫 2004) 750円
「メジャーリーグのうぬぼれヤンキー」(ラードナー ちくま文庫 2003) 440円
「妖精詩集」(デ・ラ・メア ちくま文庫 1988) 370円
「ファンタステス」(マクドナルド ちくま文庫 1999) 420円

●古本屋
最近古本屋で買った本。
お金があると思って、調子にのっている。

「好色女傑伝 上下」(ブラントーム 講談社 2002) 1500円。
「アラビアの民話」(イネア・ブシュナク/編 青土社 1995) 2000円
「アイルランドの民話」(ヘンリー・グラッシー/編 青土社 1994) 2000円
「宇宙のかけら」(ロバート・シェクリイ 早川書房 1967)。1000円
「ジプシー民話集」(J・サンプソン/編 教養文庫 1991) 400円
「魚妖・置いて堀」(岡本綺堂 旺文社文庫 1976) 500円

●書店
けっきょく、「いいなづけ」の中下巻は書店で買うことに。

「いいなつげ 中下巻」(マンゾーニ 河出文庫 2006) 2100円

さて。
合計金額は…。
20176円!

うわあ、はるかに予算オーバー。
でも、まあ気にしない。
しまう場所も気にしない。
これから考える。

よし、読もう。

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極短小説

「極短小説」(スティーヴ・モス/ジョン・M・ダニエル 編 新潮社 2004)

新潮文庫の一冊。
選訳は浅倉久志。
絵は和田誠。

本書は、英語で55語以内の超短篇を公募し、入選作をまとめたもの。
原書では2冊あり、それを合本したものだという。
なんで、55という半端な数なのかは、“Fifty-Five Fiction”という頭韻のひびきが気に入ったからだと思われる、とこれは訳者あとがきから。

さらに浅倉さんのあとがきを引くと、本にするにあたって、語呂合わせのもの、日本人にはピンとこないもの、同工異曲のものははぶいたという。
さらに、訳すにあたっては、200字以内という制限を自分に設けたそう。

訳者あとがきのまえには、「〈55語の小説〉の書き方」という文章がある。
すなわち、ルールの解説。
どんなによくできていても詩はダメ、キャラクターが魅力的でもなにも起こらないのはダメ、ジョークを55語に直したのもダメ――、と書いてあるのが面白い。

さて、本書は気楽にぱらぱらやるぶんには申し分のない本。
読んでいると、だれがなにを書いたかなんて、どうでもよくなってくる。
たんに、あつめられた作品の傾向ばかりが目についてくる。
この本は応募作をあつめたものだけれど、プロの作家の超短編をあつめたものを読んでも、たぶん印象は同じじゃないだろうか。
大規模な展覧会をみたあとのような気分とでもいおうか。

とにかく、55語で話をはじめて、落ちをつけなければならないから大変。
意外性を狙うからだろうけれど、ぜんたいにシニカルさが強くなってしまう。
そうでない作品も多少あることは、むしろ驚異。

短編集はどうしても、読みながら気に入った作品をえらぶことになる。
訳者である浅倉さんのベスト3はこう。
「十二月の物語」「運命の手にすべてを」「人生を変えた五十五語」。

読み終えたこちらのベスト3はこう。
〈落ち〉を遅延させることによって効果を発揮した、「第二のチャンス」。
大いに皮肉が効いたパロディ、「愚者の贈り物」。
限りなくジョークに近い、「臨終のメッセージ」。

あと、次点として、常識の逆転をつかった「人はみかけ」や「エドマンドの発見」、それから、落ちの切れ味が鋭い「時間をさかのぼって」なんかも入れたい。
また、浅倉さんも採った、本書にはめずらしいハートウォーミングな「十二月の物語」も。

「愚者の贈り物」にかんしては、じつは一行にちぢめられると思った。
その一行を引用しよう。
「妻の髪の毛はまた生えてくるが、私の懐中時計はもうもどってこない!」

さて、本書には、各作品すべてに和田誠さんのイラストがついている。
和田さんも、いろんな技を駆使してイラストを描いているところが面白い。
なかには、一発描きのようなイラストも。
和田さんにはめずらしい。

ところで。
超短篇というと、いつもフレドリック・ブラウンのある作品を思い出す。
たしかメモをとっていたはずと、ハードディスクを探すとめずらしくみつかった。
なんの本に載っていたのか、残念なことにおぼえていない。
最後にこれを紹介しよう。
訳者は奇しくもおなじ朝倉さんだ。


   まちがい

「人を殺しました」
 と、警察に自首したスタンディッシュはいった。
「完全犯罪なんだけど、大きなまちがいをしでかしたのに気がついたもんで」
 どんなまちがいをしでかしたのか、とたずねられて、スタンディッシュは答えた。
「人を殺しました」

フレドリック・ブラウン
浅倉久志訳

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読書調査

世界思想社のPR誌、「世界思想」(2009年春号)の特集は「大学と教養」。

そのなかの、竹内洋さんの記事、「高等教育の普及は下等大衆社会の普及なり」をぱらぱらやっていたら、冒頭に、大学生協連合会による、全国大学生への読書調査というのが載っていて、目をみはった。

――読書調査というのは、新聞社と家の光協会のものしかないとばかり思っていたけど、こんな調査があったのか!

しかも、この記事によれば、半世紀前のデータもあるらしい。

で、記事の流れは、半世紀まえの大学生にくらべて、いまの学生は本を読んでいないと続く。

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装幀思案

「装幀思案」(菊地信義 角川学芸出版 2009)

著者は名高い装丁家。
本書は、著者が書店でみかけ、気に入った装丁の本について記したエッセー集。

この本をぱらぱらやっていたら、片岡義男さんの「文房具を買いに」(東京書籍 2003)が載っていたので、びっくりした。
いや、とりあげられていたのは「ナポリへの道」だったかも。
とにかく、東京書籍の本。

最近、東京書籍から出版される片岡さんの本は、たいてい片岡さん自身が装丁を手がけている(装丁者名が書いていなかったりするけれど、きっとそうだと思う)。
装丁家が、装丁についてのエッセーを書くのに、装丁家でないひとの装丁をとりあげるなんて思わなかった。
片岡さんの装丁がよかったのか、菊地さんのフトコロが深いのか。
たぶん両方だ。

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本屋の棚の話

雑談形式で書くと、いろんなことを思い出して書きやすいということに気がついた。
また、すこし思い出したことを。

先日、書店で火浦功の新刊をみつけた。
「世界征服のすゝめ みのりちゃんの実験室」(朝日新聞出版 2009)。

ほんとうは新刊ではなくて、復刊といっていい本。
以前、早川文庫からでていた「みのりちゃんシリーズ」2巻ぶんをまとめて、ほんのすこし新作をつけたしたものだ。

火浦功はいちばん好きな作家なので、迷わず購入。
小躍りしながらレジにいくと、途中に「今週の売り上げランキング」という本棚があった。
新書ノベルズ部門の売り上げで、なんと「世界征服のすゝめ」は2位。
これにはびっくり。

このときの1位は、たしか西村京太郎だった気がする。
うちの近所には火浦作品をずーっと平台に置き続ける本屋があるし、どうも火浦功には根強いファンがいるみたいだ。

その、火浦作品をずーっと平台に置き続けている本屋の話。
外国文学の棚をみていたら、その平台に、学研M文庫からでている「ゴシック名訳集成」(伝奇ノ匣シリーズ7~9)が積んであった。
――これはナイス陳列だ!
と、思った。

にわかに「伝奇ノ匣シリーズ」がほしくなってしまったのだけれど、いまのところまだ誘惑に耐えている。
でも、いずれ買ってしまいそうだ。

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「落葉籠」とか

更新の時間がとれないので、最近読んでいる本の雑談を。

「落葉籠 上下」(森銑三 中公文庫 2009)

いま、ネット書店で検索してみたら、上記の書名ではヒットしなかった。
「落葉篭」という書名で書誌データがつくられているよう。
できれば、正しい書名でもヒットしてほしいものだ。

さて、本書は雑誌「日本古書通信」に連載された短文をまとめたもの。
ひとつひとつのパラグラフが短く、読みはじめるとやめられない。

著者の森銑三さんは、古書研究家であり、人物研究家であり、西鶴研究家。
「ひとことで、なんといっていいかわからない」と、たしか山本夏彦さんが、「ペンフレンド森銑三」というタイトルで、森さんについてこう書いていたと思う。
この文書によると、森さんの手紙は候文で書かれていたそう。

森さんの仕事は、ひらたくいうと「昔の本を読んで、当時のひとや風俗を紹介した」といえるかもしれない。
とにかく、興味の範囲がすこぶる広い。
和菓子、料理、芝居、広告、そして歴史上の人物についての数々の逸話。
ぱらっと読んだだけでも、こんなに目にとびこんでくる。

森さんの学識には到底ついていけないのだけれど、文章がすきなので、とにかく本をみつけるたびに買って読んでいる。
こうやって、文庫で新刊がでるのはたまらなくうれしい。

先日、「琵琶法師〈異界〉を語る人びと」(兵藤裕己 岩波新書 2009)という本を読んでいたら、ラフカディオ・ハーンの「耳なし芳一」の話は、江戸時代の奇談集「臥遊奇談」に収められた「琵琶の秘曲幽霊を泣かす」という話を、ハーンが脚色して英訳したものだと書かれていた(さらにさかのぼると、瀬戸内海周辺で語られていた昔話や伝説にいきつくそう)。
「落葉籠」の上巻にも、同じ指摘があった。

だしぬけだけれど、〈再話の達人〉といいたくなるひとが、文学の世界にはいる。
紹介した文章のほうが、もとの文章よりもずっと面白いというひとたち。
ハーンや、渋澤龍彦や、森さんは、そんな達人に挙げられるだろう。
再話というジャンルは、文学の世界ではマイナーもいいところだろうけれど、その影響力はかなり大きいのではないかと思う。

「茶の間の数学 上下」(笹部貞市郎 聖文新社 2006)

こんな本も読んだ。
上下本だけれど、内容がつながっているわけではない。
両方とも、数学についての逸話や歴史の紹介があり、パズルがあり、随想がおさめられている。

下巻にある数学者の逸話など、とても面白い。
1から40までの数字を足せと先生にいわれて、9歳だったガウスがたちどころに答えたというのは有名な話。
この話から、こういう問題は米俵や杉丸太を重ねた図になるので、昔は杉形算(すぎなりざん)と呼んだと、話がひろがっていく。
さらに、いろんなバージョンの杉形算の問題と、その解きかたが載っているのだけれど、残念なことに、よくわからない。
われながら頭が悪いなあ。

著者は聖文社の設立者。
聖文社は聖文新社と名前を変えた。
そこで、以前、聖文社から出版したこの本も、新訂版として再出版したということらしい。

上下巻両方の巻末にある随想録に書かれていることは、刻苦勉励であり、立身出世であり、切磋琢磨。
読むと、明治のひとだなあと思わずにはいられない。

ところで、聖文社は受験の参考書などをだしている出版社だった。
たしか「受験のナントカ」という、雑誌もだしていたように思う。
その、「受験の日本史」だったか、「受験の世界史」だったかに、ラズウェル細木さんが解説マンガを描いていたような気がする。

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