出版ダイジェスト休刊

社団法人 出版梓会がだしていた「出版ダイジェスト」が、2011年10月21日号(通巻2238号)をもって休刊となった。
ついこのあいだ知り、あんまり驚いたので書いておく。
どうりで、紙面のあちこちに「ありがとうございました」の文字が踊っていると思った。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

佐藤忠良さん亡くなる

彫刻家の佐藤忠良さんが亡くなられたと知り驚く。
ろくにメディアに接しない生活を送っているので、知るのが遅い。
美術館でみた、落葉の水彩画や木のスケッチなどを思いだす。
なにを描いても清明さがあるのが心地よかった。
ご冥福をお祈りします。

以前みた展覧会のメモをとっていたので、リンクを貼っておきます。
「彫刻の〈職人〉佐藤忠良」と「大きなかぶ」(再掲)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

地震

東日本大震災で被災された皆様に、心からお見舞い申しあげます。

わが家は無事でした。
本が散乱したくらいですみました。

うちでは、とっておく本はケースに入れ、それ以外の本は棚に積み重ねているのですが、この積み重ねていた本がかなりくずれてしまいました。
いまは整理もせず、とりあえずまた棚に積み上げています。
でも、棚のてっぺんに天井までかさねてあるケースが落ちてこなくて、ほんとうによかった。
現在、まだ余震が続いているので、本棚からなるべくはなれて寝るようにしています(中島敦の「文字禍」という短篇を思い出します)。

あとは、実家の瓦がくずれたくらい。
これも、職人さんにきてもらい、シートをかぶせてもらったので、当面は大丈夫。

阪神大震災のときは、書誌学者谷沢永一さんのお宅の蔵書5万冊がくずれ、大半を古本屋に引きとってもらったという話があったかと思います。
おそらく、多くの愛書家宅や図書館、図書室などで、同様の惨事が起こったことでしょう。

これからも大変な日々が続くでしょうが、とりあえず前向きに、これからも読書メモをとっていこうと思います。


コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )

笑死小辞典に載っていたペトリュス・ボレルの墓碑銘

「笑死小辞典」(フィリップ・エラクレス/編 リオネル・シュルザノスキー/編 ケルルルー/挿画 河盛好蔵/訳 立風書房 1988)という、墓碑銘や死についての逸話などをあつめた本を読んでいたら、ペトリュス・ボレルの墓碑銘がでてきたのでメモ。

「君が死んで、君の骨を
 土のなかに運ぶだろうとき、
 蛆でも嫌う死骸のあることを
 人は初めて見るだろう」

この墓碑銘のタイトルは、「ある批評家のために」。
作者は不明。
「リカントロープ(狼人)」と称したひとにふさわしい墓碑銘だ。

ボレルの小説は、「解剖学者ドン・ベサリウス」(ペトリュス・ボレル 沖積舎 1989)だけ読んだことがあって、以前メモをとった。
読んだら、こんどは主人公のヴェサリウスが気になって、「謎の解剖学者ヴェサリウス」(坂井建雄 筑摩書房 1999)を読んで、またメモをとった。

メモをとるという行為はくせになるものだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

翻訳味くらべ「クリスマス・キャロル」に追加。

「バスカビルの魔物」(坂田靖子 早川書房 2006)を読んでいたら、「スクルージ・ビフォア・クリスマス」という、愉快な一編があったので、翻訳味くらべ「クリスマス・キャロル」に追加。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

一冊たち絵本も再開

一冊たち絵本」も再開。
ただただ、絵本を紹介するサイトです。
よろしければどうぞ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

山田風太郎による司馬遼太郎評

――山田風太郎は、司馬遼太郎のことをどう見ていたのか。

と、いうことがなんとなく気になっていた。
先日、「風山房風呂焚き唄」(山田風太郎 筑摩書房 2008)というエッセイ集をぱらぱらやっていたら、「挫折した人間としてとらえる」という、司馬遼太郎の「真説宮本武蔵」(講談社文庫)についての書評が収録されているのをみつけた。

「徳川初期の、五人の豪傑の物語り。むろん作者は、この豪傑たちの講談的武勇伝を避けて、それぞれ豪傑にはちがいないが、彼らを挫折した人間と見て描いている」

「この時代の武将を、のちの儒教道徳の眼鏡を通して見ることの、誤っていることはいうまでもないが、さればとて現代の作者が顔を出すと、海音寺潮五郎氏の「ぼくはこう見る」式の史伝となる。作者はそれを避けて、同時代の人間に、彼らの人間像を語らせる手法をとっている」

「作風には凛呼としたものがあり、清爽なものがある。ただ対象が豪傑であるためか、やや大ざっぱなところがないでもない」

作品の内容から、手法、その作風まで、勘所を押さえて間然とするところがない。
さらに、「作家を何々派と動植物的に分類するのは私はきらいだが」と、前置きしてこうもいっている。

「時代小説を推理小説式に、大ざっぱに本格派と変格派にわけると、この作者は、やはりオーソドックスな本格派に属する人のように思われる」

どう見ていたのかという疑問は、「よく見ていた」と答えるほかない。
この書評が書かれたのが1962年というのも驚く。
並なみならぬ眼力だ。

ついでながら、この本には「露伴随筆」(岩波書店 1983)についてのエッセイも収録されている。
現代露伴を読むひとはそうたくさんはあるまい、それは読めるひとがいないからだと嘆息して、こう続けている。

「作品は歳月の間に淘汰されて、いいものだけが残るというのは真実ではない。淘汰されて悪貨ばかり残るのは、作品だけでなく、読者もまた然りなのである」

ミもフタもない。
あんまりミもフタもないので、思わず笑ってしまった。
あんまりものが見えるひとは、ミもフタもなくなってしまうのかもしれないなあ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

橋の上から身を投げようとしているひとを止める話。

どこかで見るか聞くかした、フランスの話。
ある哲学の先生が、こんな問題をだしたそう。

「いま君の目の前で、橋の上から身投げしようとしているひとがいる。君はそれを思いとどまらせる。なんといって止めるか」

この問題に対するいちばん短い回答は、こういうものだったそう。

「結婚してください」

問題をだしたのはアラン、回答したのはマルローだったと思ったけれど、ほんとうかどうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ポケミスのカバーがくっついた話

少し本の整理をしたら、早川ポケットミステリにかかっているビニールカバーが、ほかの文庫本のカバーとくっついてしまっているのを見つけた。
なんということだ。
ポケミスを、文庫本に重ねていたのが敗因。
でも、くっついたままにもしておけない。
えいやとはがしたら、文庫本のカバーがだいぶ傷んでしまった。
ああ…。
こんどから気をつけよう。

というわけで。
すいません、「隅の老人の事件簿」(バロネス・オルツィ 創元推理文庫 1982)。
みんな「暗殺のジャムセッション」(ロス・トーマス 早川書房 2009)がいけないんです。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ