文芸編集者はかく考える

「文芸編集者はかく考える」(大久保房男 紅書房 1988)。

タイトルどおり、文芸編集者だった著者のエッセイ。
巻末に200字の自伝があり、これが要を得ている。

大正10年生まれ。熊野出身。
民俗学者たらんと折口信夫先生に師事するも、師を越えること不可能と覚り、都電の「群像」創刊広告を見て講談社に入った。

前半は文章について。

純文学と大衆文学とでは、文章に対する神経のつかいかたに、差はたしかにある、と著者。
純文学では、型どおりの、手垢のついたことばは避けなければならない。
「雨がしとしと降る」、「黒山のようなひとだかり」はつかってはいけない。

さて。
今回この本を紹介しようと思ったのは、この本にも志賀直哉の文章について書かれていたところがあったなあと、思い出したからだった。

正確には、この本に紹介されている。「ラガナの文章修業」(ドメニコ・ラガナ 講談社 1979)という本。

孫引きになるけれど引用すると、著者のドメニコ・ラガナさんは、読んだ本をとじて内容を思い出しながら書き、本とくらべてみるということをして、短い文章のなかに豊富な内容を盛りこむという日本語の特徴に気づいたのだそう。

例は、志賀直哉の「兎」。
ラガナさんが思い出して書いたのは、こう。

「私が兎を買ったのは、これで3回目になる。第1回目は、私が山科にいたときであり、第2回目は、奈良にいたときだった。しかし、その頃の私は、兎をおもしろい動物とは思わなかった」

対して、じっさいの志賀直哉の文章は、こう。

「兎は前に山科で一度、奈良で一度飼ったことがあるが、飼って面白い動物とは思わなかった」

すごい圧縮力。
でも、これは日本語の特徴というより、志賀直哉の特徴かもなあ。

本の後半は、文士や文壇の話。
文士なんてことばはもうなくなってしまったけれど、著者は文士についてこんなことをいっている。

「本当のことだけをいおうとするのが文士というものだ」

この認識は正宗白鳥からあたえられたという。

「晩年の氏はいい顔をしていた。本当のことだけをいってきたひとは、ああいう顔になるのか」

敬愛がにじみ、読んで気持ちがいい。
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