「開高健」「しばられ同心御免帖」

ヒギンズ作品の読書がひと段落したので、また最近読了した本のメモをとっていきます。
まず、ことしのお正月に読んでいた本。

「開高健」(小玉武/著 筑摩書房 2017)
開高健についての評伝。
副題は、「書いた、生きた、ぶつかった!」
多少なりとも開高健の生涯を知っていると、たいそう面白い。
妻であり、詩人であった牧洋子さんが、開高健の人生にあらわれた場面では、
「悪役ヒロイン登場」
とあって、思わず笑ってしまった。

開高健の早逝の理由を、ヴェトナム戦争で浴びたり吸いこんだりしたと思われる枯葉剤にもとめているところも興味深い。
また、開高健が森有正の著書を愛読していたとは知らなかった。
(ここで、バッハの音楽が風景のなかから響いてきたといったような手紙――「アリアンヌへの手紙」――を、森有正が書いていたことを思いだす。開高健がその文体で駆使した、共感覚的な感銘について書かれた手紙だった)

ただ、後半は失速。
「日本三文オペラ」誕生の経緯について書かれたあたりまでは面白かったのに。
著者は、サントリー宣伝部ではたらいていたひと。
つまり、開高健の部下だったひとだ。
そのため、開高健の後半生とは、うまく距離感がとれなかったのだろう。



「しばられ同心御免帖」(杉澤和哉/著 徳間書店 2016)

くだらない、ばかばかしい小説が好きでよく読む。
本書もまたじつにばかばかしい作品だった。

主人公、邑雨(むらさめ)真十郎は、南町奉行所の定町廻り同心。
世間からは、「しばられ同心」とか「しばられさま」とか呼ばれている。
なぜこんな風に呼ばれるのか。

真十郎は大変な美男子。
縛られ、吊るされていると、そのあまりの美しさに悪党たちは呆然としてしまう。
そして、ぼーっとしているところを踏みこまれ、一網打尽にされてしまう。

つまり、悪党たちをぼーっとさせるのが、真十郎の役目。
しかし、真十郎自身はこの役目を自覚していない。

真面目な真十郎は、いつも職務に忠実に悪党たちの内偵にはげんでいる。
が、真十郎の上司である佐渡谷平八郎が、いつも悪党たちにばらしてしまう。
その結果、真十郎は縛られ、吊るされ、打擲されたりしまう。
で、悪党たちはぼーっとしてしまい、そこを佐渡谷平八郎らが踏みこみ、一網打尽にするという次第。
加えて佐渡谷平八郎には、縛られた真十郎をみたいという、よこしまな思惑も――。

真十郎をかこむ登場人物も、マンガ的にえがかれた強烈な人物ばかり。
手下の久吉は、無類のべっぴん好きで、「べっぴん改め方」と称している。
道場の師範代をしている美少女、千葉野ゆきわは、隙あらば真十郎と結婚しようともくろむ。
広小路三十三小町なるアイドルグループが人気を博し、吊るされた真十郎の姿は、二次創作物としてひそかに売買されている。
そのほかいろいろ。

冗談小説らしく、文章も愉快なもの。
一例として、南町奉行根岸肥前守鎮衛(やすもり)についての説明を挙げよう。

《肥前守は、七十を目前にしながらかくしゃくとして背筋も伸び、目にも強い光がある。『耳袋』の著者であり、大岡越前守忠相、遠山左衛門尉景元とともに名奉行ビッグ・スリーとして後世の者にも人気のある、たたきあげにして違いのわかる男であった。》

それにしても、この小説は一体だれが読むのだろう。
普通の時代小説と思って買ったひとは怒るのではないだろうか。
ポルノだと思ったひともまた同様。
ライトノベルの読者なら、この小説を受け入れる素地があるかもしれないけれど、なら表紙はもっとライトノベルらしいものにしなければいけないかった。
それに、ライトノベルの読者といっても、この小説を読めるのは中年以上だろう。

よくまあこんな小説を出版したなあと感心。


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ヒギンズまとめ

ヒギンズは、1929年生まれ。
最新作は、2016年に出版されているようだから驚く。
87歳のときの作品という勘定になる。

ディロン・シリーズの5作目、「悪魔と手を組め」には、85歳になったリーアム・デヴリンが登場する。
ハンナ・バーンスタイン警部をみて、
「やれやれ、おれが75歳でなかったら惚れているところだ」
といったデヴリンは、
「75歳? あんたはとんでもない嘘つきだな」
と、ディロンに冷やかされる。
ヒギンズも、意気軒高なところはまるでデヴリンのようだ。

ヒギンズの作品リストをみて思うのは、その律義さ。
年にほぼ1作書いている。

ヒギンズの前期の作品は、あまり買わない。
登場人物がなにをしたいのか、いっこうにわからない作品ばかり。
でも、ヒギンズは、最低限のラインをやや超したかと思われるだけの面白くない作品を、教師などをしながら15年ほど書き続けている。
その律義さには、つくづく感心する。

一体なぜ、15年も売れない作品を書き続けられたのだろう。
どうやってモチベーションを維持したのだろうか。
ひょっとしたら、ヒギンズは売れようが売れまいが関係なく、ただ書きたかっただけのひとなのかもしれない。
その証拠に、「鷲が舞い降りた」の成功のあとでも、ヒギンズは律義に作品を書き続けている。

前期の作品では、よく辺境を舞台にしている。
登場人物は、貧しさに追い立てられていたりする。
が、「鷲は舞い降りた」以降は、そうではなくなる。
主要な登場人物は、みなお金持ちになる。
エリートで、インテリで、貴族で、社会の上層にいる人間ばかりになる。
これは、ヒギンズ本人が成功したためかもしれない。

ヒギンズには、15歳年下の奥さんがいる(「双生の荒鷲」によれば)。
ヒギンズ作品にはしばしば中年男性と若い女性のカップルがあらわれ、これは読者サービスだと思っていたけれど、そうではなかったのかもしれない。
書いている本人には、リアリティがあったのかも。

何度もいうけれど、前期の作品の登場人物は、なにをしたいのかよくわからない。
ちょうど、ヒギンズがなぜ売れない作品を15年も書き続けていたのかよくわからないように。
ヒギンズとしては、読者に、登場人物の動機なり心情なりを察してほしかったのかもしれない。
でも、そこまで洗練された作品を書くことはできなかったと思う。
この線でもっとも成功したのは、「死にゆく者への祈り」だろう。

中期以降の作品では、登場人物に軍人や政府関係者が多くなる。
かれらは、社会的役割によって動機を免除されている。
そして、お金持ちの登場人物たちは、それでもあえてするということで、動機が強調される。
(色と金と政治的信条も充分にシンプルな動機たりえると思うけれど、ヒギンズの登場人物は高潔なので、“それでもあえて”という点が必要かつ重要なのだ)
おかげで、中期以降の作品は、登場人物がなにをしたいのかわからないということがなくなり、格段に読みやすくなった。

ヒギンズ作品は、焼き直しが多い。
似たようなシチュエーション、似たような展開、似たようなセリフ回しがたびたびあらわれる。

育ちのいい主人公は、あえて戦場に赴く。
お産を手伝ったり、水没しかけた村を救ったりして善行をほどこす。
敵側に捕まると、井戸などに放りこまれ、水責めを受ける。
最後のたたかいは、どこかのお城で。
ラストシーンは墓地。
――というのが、ヒギンズ作品の最大公約数的ストーリーだろうか。

オリヴァー・ウェンデル・ホームズやハイデガーの一節は、何度も引用されていて、ほとんどトレードマークだ。
後期のディロン・シリーズにいたっては、登場人物の名前や経歴を新しく考えるのも、もう面倒臭いといった風。

でも、これは仕方がない。
ひとりの人間の表現の幅は、存外せまい。
だれかの全集などをひと通り読めば、すぐわかることだ。
書いた当人も、おそらくこれでいいと思っているにちがいない。

日本語訳されたディロン・シリーズは、「報復の鉄路」が最後。
その後も10作以上シリーズは続いているよう。
つまらなくてもいいから読んでみたいので、日本語訳されないだろうか。
いや、つまらなかったら、それはまあ無理か。

さて。
いろいろ書いたけれど、これだけたくさんの作品を読んだのは、ひとえにヒギンズ作品に魅力があったからだ。
いま、ネット書店で調べてみると、現在入手可能な作品は次の3作のよう。

「死にゆく者への祈り」
「鷲は舞い降りた」
「鷲は飛び立った」

日本語訳された作品が40作以上もあるのに、現在入手可能なものが3作とは。
少ないというべきか、よく残ったというべきか。

個人的に気に入ったヒギンズ作品は以下。

2役の替え玉が邂逅するトリッキーな構成の、「狐たちの夜」
早いカットバックにより、叙事詩のような趣をもつ、「双生の荒鷲」
ディロン・シリーズからは、ヒギンズがえがく女性像の結晶ともいうべきヒロインが印象的な、「ホワイトハウス・コネクション」
そして最後に、こんなにたくさんの作品を読むきっかけとなった、「鷲は舞い降りた」

ヒギンズの作品は、この4作があれば充分だ。


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