タナカの読書メモです。
一冊たちブログ
DVD「ライフポッド」
DVD「ライフポッド」(1993 アメリカ)
この映画は、ヒッチコックの「救命艇」のリメイク。
舞台が宇宙になり、SF仕立てとなっている。
2169年のクリスマスイヴ。
金星から地球に向かう、2000名の乗客を乗せた宇宙船GFCテラニア号の中枢部に、金属のタコのようなものがあらわれ、宇宙船は大破、爆発。
かろうじて、9名がライフポッドに乗りこみ脱出する。
その9名(赤ん坊をいれると10名)は以下。
・女性ジャーナリストのセントジョン。
・アースコープの理事、バンクス。
・金星育ちの若い女性、レナ。
・黒人のコック、パーカー。
・盲人のターマン。
・移送中の犯罪者、ケイン。
・船員のサイボーグ、Q3。
・女性操縦士のメイビーン。
・母親とその赤ん坊。
宇宙船の爆破による破片を受け、救命艇も損傷。
操縦室と居室をつなぐ通路が損傷し、いききができなくなる。
操縦室の遮蔽シールドが閉じなくなり、操縦室は宇宙線が防げなくなる。
交信システムもダウン。
パーカーは足にけがをする。
赤ん坊用の冬眠装置も破壊されてしまう。
利益最優先のアースコープ社が緊急設備を軽んじたため、物資も乏しい。
この点で、バンクスは非難を受ける。
ともかく、マーカーを射出し救助を待つことに。
レナは医学生で、地球に研修にいくところだった。
レナはパーカーの足のけがの応急手当をする。
赤ん坊が亡くなり、一時錯乱していた母親も亡くなる。
死因は、飲料水の入ったプラスチック容器をのどに詰まらせたため。
事故か、それともだれかの仕業なのか。
母子は宇宙に放出。
補給ブイの信号をとらえた救命艇は、メイビーンの判断でそちらに向かうことに。
到着まで3日の予定。
それにしても、宇宙船にいたタコのようなものとはなんなのか。
あれは採掘用具だ、とQ3。
鉱石を溶かす小型核融合炉。
そんなものがなぜ宇宙船のなかに。
また、捜索隊の通信を傍受したところ、宇宙船爆破は、金星入植者のテロ組織がバンクス理事暗殺を狙って起こしたのではないかと推測している。
アースコープは金星に収容所をつくっており、レナもそこにいたことがある。
いや、アースコープの自作自演ではないかという説もでる。
そうすれば、テロを口実に金星に派兵できる。
いずれにしても、犯人は宇宙船に乗りこみ、核融合を起こし、脱出したにちがいない。
犯人はこのなかにいるのか。
動機は、みつけようと思えば全員にある。
元安全調査官のターマンが視力を失ったのは、アースコープ社の仕事で事故に遭ったため。
そのときの補償は皆無だった。
ケインは政治犯だ。
こうして全員が全員を疑いはじめる――。
ヒッチコック映画はいつも冒頭がすばらしい。
「救命艇」も例外ではない。
この映画は、第2次大戦中の大西洋上で、Uボートの攻撃により撃沈された商船の救命艇が舞台。
冒頭、商船はすでに沈没しており、海からひとりずつ救命艇に乗りこむことで、登場人物を紹介していた。
それにくらべると、「ライフポッド」は宇宙船爆破まで手間がかかる。
なにしろ宇宙が舞台だから、ひとりずつ救命艇に乗せるというわけにもいかない。
「救命艇」にくらべると、登場人物の印象がいささか弱い感じがするのは、まずこのためだろう。
加えて、「救命艇」にあって「ライフポッド」にないのは、ユーモアとロマンスと自然現象。
それに「救命艇」の物語の背景にあるのは第2次大戦だけれど、「ライフポッド」にあるのは横暴を極める企業だ。
最後まで生き残る人数も、「ライフポッド」のほうが少ない。
未来はより殺伐としてしまうものか。
「ライフポッド」は、だれが宇宙船を爆破したのかという謎解きと、だれが生き残るのかという興味のみで最後まで押し切ろうとしている。
サバイバル色がより強い。
「救命艇」にあったようなトランプ遊びをする場面などがみられない。
そのため。少々一本調子な感じがする。
このあとも、ライフポッドには次々に危機が押し寄せる。
循環器システムが故障。
温度調節が効かなくなる。
飲料水が汚染される。
などなど。
「救命艇」にあった手術の場面は、「ライフポッド」でも再現される。
このとき「救命艇」では嵐が起き、緊迫感を否が応でも盛り上げていた。
いっぽう、「ライフポッド」では、このとき彗星の尻尾に入る。
さきほど「ライフポッド」には自然現象がないと書いたけれど、これは苦心のアイデアだ。
サイボーグのQ3は、以前木星の裏側で3週間漂流した経験がある。
そのときはQ3以外の全員が亡くなってしまった。
危機が続くなか、Q3は――ほとんどかれだけが――状況を好転させようと奮闘する。
この作品で一番印象的なのは、なんとか全員を助けようとするQ3の姿だ。
この映画は、ヒッチコックの「救命艇」のリメイク。
舞台が宇宙になり、SF仕立てとなっている。
2169年のクリスマスイヴ。
金星から地球に向かう、2000名の乗客を乗せた宇宙船GFCテラニア号の中枢部に、金属のタコのようなものがあらわれ、宇宙船は大破、爆発。
かろうじて、9名がライフポッドに乗りこみ脱出する。
その9名(赤ん坊をいれると10名)は以下。
・女性ジャーナリストのセントジョン。
・アースコープの理事、バンクス。
・金星育ちの若い女性、レナ。
・黒人のコック、パーカー。
・盲人のターマン。
・移送中の犯罪者、ケイン。
・船員のサイボーグ、Q3。
・女性操縦士のメイビーン。
・母親とその赤ん坊。
宇宙船の爆破による破片を受け、救命艇も損傷。
操縦室と居室をつなぐ通路が損傷し、いききができなくなる。
操縦室の遮蔽シールドが閉じなくなり、操縦室は宇宙線が防げなくなる。
交信システムもダウン。
パーカーは足にけがをする。
赤ん坊用の冬眠装置も破壊されてしまう。
利益最優先のアースコープ社が緊急設備を軽んじたため、物資も乏しい。
この点で、バンクスは非難を受ける。
ともかく、マーカーを射出し救助を待つことに。
レナは医学生で、地球に研修にいくところだった。
レナはパーカーの足のけがの応急手当をする。
赤ん坊が亡くなり、一時錯乱していた母親も亡くなる。
死因は、飲料水の入ったプラスチック容器をのどに詰まらせたため。
事故か、それともだれかの仕業なのか。
母子は宇宙に放出。
補給ブイの信号をとらえた救命艇は、メイビーンの判断でそちらに向かうことに。
到着まで3日の予定。
それにしても、宇宙船にいたタコのようなものとはなんなのか。
あれは採掘用具だ、とQ3。
鉱石を溶かす小型核融合炉。
そんなものがなぜ宇宙船のなかに。
また、捜索隊の通信を傍受したところ、宇宙船爆破は、金星入植者のテロ組織がバンクス理事暗殺を狙って起こしたのではないかと推測している。
アースコープは金星に収容所をつくっており、レナもそこにいたことがある。
いや、アースコープの自作自演ではないかという説もでる。
そうすれば、テロを口実に金星に派兵できる。
いずれにしても、犯人は宇宙船に乗りこみ、核融合を起こし、脱出したにちがいない。
犯人はこのなかにいるのか。
動機は、みつけようと思えば全員にある。
元安全調査官のターマンが視力を失ったのは、アースコープ社の仕事で事故に遭ったため。
そのときの補償は皆無だった。
ケインは政治犯だ。
こうして全員が全員を疑いはじめる――。
ヒッチコック映画はいつも冒頭がすばらしい。
「救命艇」も例外ではない。
この映画は、第2次大戦中の大西洋上で、Uボートの攻撃により撃沈された商船の救命艇が舞台。
冒頭、商船はすでに沈没しており、海からひとりずつ救命艇に乗りこむことで、登場人物を紹介していた。
それにくらべると、「ライフポッド」は宇宙船爆破まで手間がかかる。
なにしろ宇宙が舞台だから、ひとりずつ救命艇に乗せるというわけにもいかない。
「救命艇」にくらべると、登場人物の印象がいささか弱い感じがするのは、まずこのためだろう。
加えて、「救命艇」にあって「ライフポッド」にないのは、ユーモアとロマンスと自然現象。
それに「救命艇」の物語の背景にあるのは第2次大戦だけれど、「ライフポッド」にあるのは横暴を極める企業だ。
最後まで生き残る人数も、「ライフポッド」のほうが少ない。
未来はより殺伐としてしまうものか。
「ライフポッド」は、だれが宇宙船を爆破したのかという謎解きと、だれが生き残るのかという興味のみで最後まで押し切ろうとしている。
サバイバル色がより強い。
「救命艇」にあったようなトランプ遊びをする場面などがみられない。
そのため。少々一本調子な感じがする。
このあとも、ライフポッドには次々に危機が押し寄せる。
循環器システムが故障。
温度調節が効かなくなる。
飲料水が汚染される。
などなど。
「救命艇」にあった手術の場面は、「ライフポッド」でも再現される。
このとき「救命艇」では嵐が起き、緊迫感を否が応でも盛り上げていた。
いっぽう、「ライフポッド」では、このとき彗星の尻尾に入る。
さきほど「ライフポッド」には自然現象がないと書いたけれど、これは苦心のアイデアだ。
サイボーグのQ3は、以前木星の裏側で3週間漂流した経験がある。
そのときはQ3以外の全員が亡くなってしまった。
危機が続くなか、Q3は――ほとんどかれだけが――状況を好転させようと奮闘する。
この作品で一番印象的なのは、なんとか全員を助けようとするQ3の姿だ。
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探偵物語
「探偵物語」(別役実 大和書房 1977)
探偵X氏を主人公とした連作短編集。
収録作は以下。
1. X氏登場
2. 夕日事件
3. 監視人失踪事件
4. 大女殺人事件
5. X氏と探偵小説
探偵にX氏などと名づけることからわかるように、この作品は探偵小説のパロディ。
X氏は探偵なのだが、街のひとたちから探偵と認知されていない。
それがX氏には腹立たしい。
看板をだしたらと、夫人にいわれると、X氏はこう抗弁する。
《「どんな駆け出しの安っぽい探偵だって、看板なんか出しゃしないよ。(…)それでも、何となくみんながそいつを探偵だと知っていて、捜査を頼みにくる……。それが本当の探偵だよ」》
X氏は、探偵はかくあるべしという信念にとりつかれた、自意識過剰な探偵なのだ。
だから、「探偵物語」というタイトルは、この作品にふさわしい。
ちなみに、X氏と夫人の生活費の大半は、夫人の父親がだしてくれている。
ところで、なにかで読んだのだけれど、小説を評価するには3つのポイントがあるという。
・ストーリー
・キャラクター
・文章
の3つ。
それに加えて、ある種の小説には、
・屁理屈
という4つ目のポイントが、小さいながらにあるように思う。
世の中には、屁理屈小説といいたくなるような小説がある。
たとえば本書の作者である、別役実さんの作品とか。
チェスタトンの作品とか。
だいたい屁理屈小説は、奇をてらい、誇張がはなはだしく、ものごとに対する批評性が強い。
逆説を弄し、そのためしばしば理屈は幻想に近づき、滑稽さや不条理さを感じさせる。
という訳なので、屁理屈小説であるこの作品で、X氏はまともな事件に出会うことはない。
X氏が出会うのは、次のような事件だ。
「夕日事件」
この事件でX氏に頼みごとをしてくるのは、入院中の少女。
少女は博物館――X氏の事務所兼自宅は博物館の地下にある――の屋上に立ち、海に沈む夕日をみるX氏の背中ごしに夕日をみていた。
というのも、博物館が邪魔で、実際の夕日はみえなかったから。
そして、X氏の背中から、美しい夕日を充分に感じとることができたからだ。
そのことを知ったX氏は、少女のために博物館の屋上に立ち、海に沈む夕日をみる。
すると、少女からダメだしがでる。
あなたの背中は、私がいる窓のほうばかり気にしている。
ちゃんと夕日をみていない――。
知らないあいだに解決していたのに、知ってしまったら解決できなくなってしまった。
X氏が出会った事件とはこういうもの。
この後、X氏はちゃんと夕日をみるために、博物館の屋上に立ち続ける。
X氏にダメだしをする少女は、役者にただ立っていればいいと指示する演出家のようだ。
「監視人殺人事件」
1年以内に自転車を食べると公言し、みごと食べきったことで街の名士となったT氏。
T氏は、こんどは6年がかりで新品のバスを食べると宣言。
不正がおこなわれないよう、市から派遣された監視員が見守るなか、T氏はバスを食べ続けていたのだが、ある日監視員のD氏が消えてしまうという事件が――。
こうして、市長の依頼でX氏は調査を開始。
みずから監視員となり、T氏のもとへおもむく。
ひょっとして、監視員D氏は、T氏に食べられてしまったのではないか。
口頭でも手紙でも、市長はX氏にそれとなく注意をうながすのだが、X氏はどうしてもそのことに気づかない。
そこで、コントのような展開になっていく。
「大女殺人事件」
たまたま歩いていた倉庫街の路地で、X氏は死体をみつけてしまう。
長ながとのびた大女の死体。
調べてみると、首にロープで絞められた跡が。
ここでX氏は一計を案じる。
この死体を隠してしまおう。
そして、警察がみつける前にさっさと捜査をしてしまおう。
人数の多い警察のやつらに勝つには、こうするしかない。
X氏は大女の死体をうごかそうとするが、相手は重くてうごかない。
すると、大女の良人と名乗る、倉庫番のN氏があらわれる。
X氏はあわてて言い訳。
X氏の話を聞いたN氏は動揺もせず、手伝いを買ってでる。
2人はとうとう大女を倉庫にかくしてしまう。
ところが、X氏が事務所に捜査の道具をとりにいっているあいだに、警察が到着。
X氏は大いに冷や汗をかくことに。
警察よりも先に捜査するために、死体をかくそうとする探偵もなかなかいない。
さらにあろうことか、自分がしたことが露見しないよう、X氏は警察の目を別人に向けようとする。
その工作をしているさい、X氏は警察に捕まってしまうのだが、警察のR主任はX氏の行動に感動をおぼえる。
《さすが、私立探偵だけのことはある。捜査というものは、本来こうあるべきものではないだろうか。我々がこれまでやってきたものは、受身の捜査である。犯人が尻尾を出すのを、じっと腕をこまねいて待っているだけなのだ。しかるにこの男は、それでは満足しない。彼は、積極的に捜査をする。攻撃的であり、もしかしたら創造的ですらあるではないか。》
この探偵にして、この警察ありといったところ。
このあと物語は二転三転。
読者には真相が察せられるけれど、登場人物はだれひとり真相に気づかない。
登場人物が注意深く真相をさけていく様子が、面白可笑しくえがかれる。
「X氏と探偵小説」
この章はエピローグ。
X氏が書いた探偵小説なるものが紹介されている。
短いものなので全文を引用しよう。
《彼は、背広の右のポケットに手を突っこんでみた。あるべきものがないので彼はそこから手を抜いて暫く考え、今度は左のポケットに手を突っこんでみた。お財布は、そこにあった。》
この探偵小説について、X氏は夫人にこう説明する。
《簡単に言ってしまえば、被害者と加害者と探偵が全く同一人物であるという驚嘆すべき事情が、ほとんどさり気なく取り扱われているということなんだよ。》
ひとことでいえば、ひとり芝居。
本書についての、みごとな解説だ。
探偵X氏を主人公とした連作短編集。
収録作は以下。
1. X氏登場
2. 夕日事件
3. 監視人失踪事件
4. 大女殺人事件
5. X氏と探偵小説
探偵にX氏などと名づけることからわかるように、この作品は探偵小説のパロディ。
X氏は探偵なのだが、街のひとたちから探偵と認知されていない。
それがX氏には腹立たしい。
看板をだしたらと、夫人にいわれると、X氏はこう抗弁する。
《「どんな駆け出しの安っぽい探偵だって、看板なんか出しゃしないよ。(…)それでも、何となくみんながそいつを探偵だと知っていて、捜査を頼みにくる……。それが本当の探偵だよ」》
X氏は、探偵はかくあるべしという信念にとりつかれた、自意識過剰な探偵なのだ。
だから、「探偵物語」というタイトルは、この作品にふさわしい。
ちなみに、X氏と夫人の生活費の大半は、夫人の父親がだしてくれている。
ところで、なにかで読んだのだけれど、小説を評価するには3つのポイントがあるという。
・ストーリー
・キャラクター
・文章
の3つ。
それに加えて、ある種の小説には、
・屁理屈
という4つ目のポイントが、小さいながらにあるように思う。
世の中には、屁理屈小説といいたくなるような小説がある。
たとえば本書の作者である、別役実さんの作品とか。
チェスタトンの作品とか。
だいたい屁理屈小説は、奇をてらい、誇張がはなはだしく、ものごとに対する批評性が強い。
逆説を弄し、そのためしばしば理屈は幻想に近づき、滑稽さや不条理さを感じさせる。
という訳なので、屁理屈小説であるこの作品で、X氏はまともな事件に出会うことはない。
X氏が出会うのは、次のような事件だ。
「夕日事件」
この事件でX氏に頼みごとをしてくるのは、入院中の少女。
少女は博物館――X氏の事務所兼自宅は博物館の地下にある――の屋上に立ち、海に沈む夕日をみるX氏の背中ごしに夕日をみていた。
というのも、博物館が邪魔で、実際の夕日はみえなかったから。
そして、X氏の背中から、美しい夕日を充分に感じとることができたからだ。
そのことを知ったX氏は、少女のために博物館の屋上に立ち、海に沈む夕日をみる。
すると、少女からダメだしがでる。
あなたの背中は、私がいる窓のほうばかり気にしている。
ちゃんと夕日をみていない――。
知らないあいだに解決していたのに、知ってしまったら解決できなくなってしまった。
X氏が出会った事件とはこういうもの。
この後、X氏はちゃんと夕日をみるために、博物館の屋上に立ち続ける。
X氏にダメだしをする少女は、役者にただ立っていればいいと指示する演出家のようだ。
「監視人殺人事件」
1年以内に自転車を食べると公言し、みごと食べきったことで街の名士となったT氏。
T氏は、こんどは6年がかりで新品のバスを食べると宣言。
不正がおこなわれないよう、市から派遣された監視員が見守るなか、T氏はバスを食べ続けていたのだが、ある日監視員のD氏が消えてしまうという事件が――。
こうして、市長の依頼でX氏は調査を開始。
みずから監視員となり、T氏のもとへおもむく。
ひょっとして、監視員D氏は、T氏に食べられてしまったのではないか。
口頭でも手紙でも、市長はX氏にそれとなく注意をうながすのだが、X氏はどうしてもそのことに気づかない。
そこで、コントのような展開になっていく。
「大女殺人事件」
たまたま歩いていた倉庫街の路地で、X氏は死体をみつけてしまう。
長ながとのびた大女の死体。
調べてみると、首にロープで絞められた跡が。
ここでX氏は一計を案じる。
この死体を隠してしまおう。
そして、警察がみつける前にさっさと捜査をしてしまおう。
人数の多い警察のやつらに勝つには、こうするしかない。
X氏は大女の死体をうごかそうとするが、相手は重くてうごかない。
すると、大女の良人と名乗る、倉庫番のN氏があらわれる。
X氏はあわてて言い訳。
X氏の話を聞いたN氏は動揺もせず、手伝いを買ってでる。
2人はとうとう大女を倉庫にかくしてしまう。
ところが、X氏が事務所に捜査の道具をとりにいっているあいだに、警察が到着。
X氏は大いに冷や汗をかくことに。
警察よりも先に捜査するために、死体をかくそうとする探偵もなかなかいない。
さらにあろうことか、自分がしたことが露見しないよう、X氏は警察の目を別人に向けようとする。
その工作をしているさい、X氏は警察に捕まってしまうのだが、警察のR主任はX氏の行動に感動をおぼえる。
《さすが、私立探偵だけのことはある。捜査というものは、本来こうあるべきものではないだろうか。我々がこれまでやってきたものは、受身の捜査である。犯人が尻尾を出すのを、じっと腕をこまねいて待っているだけなのだ。しかるにこの男は、それでは満足しない。彼は、積極的に捜査をする。攻撃的であり、もしかしたら創造的ですらあるではないか。》
この探偵にして、この警察ありといったところ。
このあと物語は二転三転。
読者には真相が察せられるけれど、登場人物はだれひとり真相に気づかない。
登場人物が注意深く真相をさけていく様子が、面白可笑しくえがかれる。
「X氏と探偵小説」
この章はエピローグ。
X氏が書いた探偵小説なるものが紹介されている。
短いものなので全文を引用しよう。
《彼は、背広の右のポケットに手を突っこんでみた。あるべきものがないので彼はそこから手を抜いて暫く考え、今度は左のポケットに手を突っこんでみた。お財布は、そこにあった。》
この探偵小説について、X氏は夫人にこう説明する。
《簡単に言ってしまえば、被害者と加害者と探偵が全く同一人物であるという驚嘆すべき事情が、ほとんどさり気なく取り扱われているということなんだよ。》
ひとことでいえば、ひとり芝居。
本書についての、みごとな解説だ。
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「開高健」「しばられ同心御免帖」
ヒギンズ作品の読書がひと段落したので、また最近読了した本のメモをとっていきます。
まず、ことしのお正月に読んでいた本。
「開高健」(小玉武/著 筑摩書房 2017)
開高健についての評伝。
副題は、「書いた、生きた、ぶつかった!」
多少なりとも開高健の生涯を知っていると、たいそう面白い。
妻であり、詩人であった牧洋子さんが、開高健の人生にあらわれた場面では、
「悪役ヒロイン登場」
とあって、思わず笑ってしまった。
開高健の早逝の理由を、ヴェトナム戦争で浴びたり吸いこんだりしたと思われる枯葉剤にもとめているところも興味深い。
また、開高健が森有正の著書を愛読していたとは知らなかった。
(ここで、バッハの音楽が風景のなかから響いてきたといったような手紙――「アリアンヌへの手紙」――を、森有正が書いていたことを思いだす。開高健がその文体で駆使した、共感覚的な感銘について書かれた手紙だった)
ただ、後半は失速。
「日本三文オペラ」誕生の経緯について書かれたあたりまでは面白かったのに。
著者は、サントリー宣伝部ではたらいていたひと。
つまり、開高健の部下だったひとだ。
そのため、開高健の後半生とは、うまく距離感がとれなかったのだろう。
「しばられ同心御免帖」(杉澤和哉/著 徳間書店 2016)
くだらない、ばかばかしい小説が好きでよく読む。
本書もまたじつにばかばかしい作品だった。
主人公、邑雨(むらさめ)真十郎は、南町奉行所の定町廻り同心。
世間からは、「しばられ同心」とか「しばられさま」とか呼ばれている。
なぜこんな風に呼ばれるのか。
真十郎は大変な美男子。
縛られ、吊るされていると、そのあまりの美しさに悪党たちは呆然としてしまう。
そして、ぼーっとしているところを踏みこまれ、一網打尽にされてしまう。
つまり、悪党たちをぼーっとさせるのが、真十郎の役目。
しかし、真十郎自身はこの役目を自覚していない。
真面目な真十郎は、いつも職務に忠実に悪党たちの内偵にはげんでいる。
が、真十郎の上司である佐渡谷平八郎が、いつも悪党たちにばらしてしまう。
その結果、真十郎は縛られ、吊るされ、打擲されたりしまう。
で、悪党たちはぼーっとしてしまい、そこを佐渡谷平八郎らが踏みこみ、一網打尽にするという次第。
加えて佐渡谷平八郎には、縛られた真十郎をみたいという、よこしまな思惑も――。
真十郎をかこむ登場人物も、マンガ的にえがかれた強烈な人物ばかり。
手下の久吉は、無類のべっぴん好きで、「べっぴん改め方」と称している。
道場の師範代をしている美少女、千葉野ゆきわは、隙あらば真十郎と結婚しようともくろむ。
広小路三十三小町なるアイドルグループが人気を博し、吊るされた真十郎の姿は、二次創作物としてひそかに売買されている。
そのほかいろいろ。
冗談小説らしく、文章も愉快なもの。
一例として、南町奉行根岸肥前守鎮衛(やすもり)についての説明を挙げよう。
《肥前守は、七十を目前にしながらかくしゃくとして背筋も伸び、目にも強い光がある。『耳袋』の著者であり、大岡越前守忠相、遠山左衛門尉景元とともに名奉行ビッグ・スリーとして後世の者にも人気のある、たたきあげにして違いのわかる男であった。》
それにしても、この小説は一体だれが読むのだろう。
普通の時代小説と思って買ったひとは怒るのではないだろうか。
ポルノだと思ったひともまた同様。
ライトノベルの読者なら、この小説を受け入れる素地があるかもしれないけれど、なら表紙はもっとライトノベルらしいものにしなければいけないかった。
それに、ライトノベルの読者といっても、この小説を読めるのは中年以上だろう。
よくまあこんな小説を出版したなあと感心。
まず、ことしのお正月に読んでいた本。
「開高健」(小玉武/著 筑摩書房 2017)
開高健についての評伝。
副題は、「書いた、生きた、ぶつかった!」
多少なりとも開高健の生涯を知っていると、たいそう面白い。
妻であり、詩人であった牧洋子さんが、開高健の人生にあらわれた場面では、
「悪役ヒロイン登場」
とあって、思わず笑ってしまった。
開高健の早逝の理由を、ヴェトナム戦争で浴びたり吸いこんだりしたと思われる枯葉剤にもとめているところも興味深い。
また、開高健が森有正の著書を愛読していたとは知らなかった。
(ここで、バッハの音楽が風景のなかから響いてきたといったような手紙――「アリアンヌへの手紙」――を、森有正が書いていたことを思いだす。開高健がその文体で駆使した、共感覚的な感銘について書かれた手紙だった)
ただ、後半は失速。
「日本三文オペラ」誕生の経緯について書かれたあたりまでは面白かったのに。
著者は、サントリー宣伝部ではたらいていたひと。
つまり、開高健の部下だったひとだ。
そのため、開高健の後半生とは、うまく距離感がとれなかったのだろう。
「しばられ同心御免帖」(杉澤和哉/著 徳間書店 2016)
くだらない、ばかばかしい小説が好きでよく読む。
本書もまたじつにばかばかしい作品だった。
主人公、邑雨(むらさめ)真十郎は、南町奉行所の定町廻り同心。
世間からは、「しばられ同心」とか「しばられさま」とか呼ばれている。
なぜこんな風に呼ばれるのか。
真十郎は大変な美男子。
縛られ、吊るされていると、そのあまりの美しさに悪党たちは呆然としてしまう。
そして、ぼーっとしているところを踏みこまれ、一網打尽にされてしまう。
つまり、悪党たちをぼーっとさせるのが、真十郎の役目。
しかし、真十郎自身はこの役目を自覚していない。
真面目な真十郎は、いつも職務に忠実に悪党たちの内偵にはげんでいる。
が、真十郎の上司である佐渡谷平八郎が、いつも悪党たちにばらしてしまう。
その結果、真十郎は縛られ、吊るされ、打擲されたりしまう。
で、悪党たちはぼーっとしてしまい、そこを佐渡谷平八郎らが踏みこみ、一網打尽にするという次第。
加えて佐渡谷平八郎には、縛られた真十郎をみたいという、よこしまな思惑も――。
真十郎をかこむ登場人物も、マンガ的にえがかれた強烈な人物ばかり。
手下の久吉は、無類のべっぴん好きで、「べっぴん改め方」と称している。
道場の師範代をしている美少女、千葉野ゆきわは、隙あらば真十郎と結婚しようともくろむ。
広小路三十三小町なるアイドルグループが人気を博し、吊るされた真十郎の姿は、二次創作物としてひそかに売買されている。
そのほかいろいろ。
冗談小説らしく、文章も愉快なもの。
一例として、南町奉行根岸肥前守鎮衛(やすもり)についての説明を挙げよう。
《肥前守は、七十を目前にしながらかくしゃくとして背筋も伸び、目にも強い光がある。『耳袋』の著者であり、大岡越前守忠相、遠山左衛門尉景元とともに名奉行ビッグ・スリーとして後世の者にも人気のある、たたきあげにして違いのわかる男であった。》
それにしても、この小説は一体だれが読むのだろう。
普通の時代小説と思って買ったひとは怒るのではないだろうか。
ポルノだと思ったひともまた同様。
ライトノベルの読者なら、この小説を受け入れる素地があるかもしれないけれど、なら表紙はもっとライトノベルらしいものにしなければいけないかった。
それに、ライトノベルの読者といっても、この小説を読めるのは中年以上だろう。
よくまあこんな小説を出版したなあと感心。
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双生の荒鷲
「双生の荒鷲」(ジャック・ヒギンズ/〔著〕 黒原敏行/訳 角川書店 1999)
原題は“Flight of Eagles”
原書の刊行は1998年。
本書は、「反撃の海峡」や「鷲は飛び立った」と同様、特殊作戦実行部(SOE)のドゥーガル・マンロー准将が登場し、秘密基地コールド・ハーパーが舞台となる作品。
また、訳者あとがきには以下のような指摘がある。
《「鷲は舞い降りた」およびその続編「鷲は飛び立った」と同じく「鷲」の一語がはいっている。》
加えて、
《著者とおぼしき作家が「わたし」という一人称で語り、秘話を掘り起こすプロローグとエピローグがついている。この形をとっているのは、既訳作品を確認した範囲では、前期二作だけだ。》
さらにつけ加えるなら、本書は「反撃の海峡」と同じく双子の物語でもある。
(「反撃の海峡」は姉妹で、こちらは兄弟というちがいはあるけれど)
本書は、たがいに戦闘機乗りとなった双子の物語だ。
では、まずプロローグから。
1997年、ハリウッド映画のプロデューサーから作品の映画化の打診を受けた〈わたし〉は、急いで住まいであるジャージー島からイギリス本土へ渡らなくてはならなくなる。
そこで、エアタクシー会社に連絡し、妻のデニーズとともにセスナ310型機に乗りこむことに。
セスナ310は複座なので、右側の操縦席には、飛行機操縦の経験が豊富なデニーズが座った。
左側は、会社の操縦士デュポン。
飛行機が飛び立つと、運が悪いことに霧がでて、視界が閉ざされてしまう。
加えて、右側のエンジンが停止してしまう。
さらに、操縦士のデュポンが心臓発作を起こして倒れてしまう。
管制官の指示にしたがい、コールド・ハーパー方面に向かっていたセスナは、デニーズの操縦により海面に不時着。
すぐに、倒れたデュポンとともに、妻と脱出。
このとき、デニーズのマスコットである、ぬいぐるみのクマ、タークィンも忘れずに連れだす。
タークィンは、ブライトンの骨董屋でみつけたクマ。
第2次大戦当時の、イギリス空軍の青い飛行つなぎを着て、革の飛行帽をかぶり、飛行長靴をはいている立派なクマだ。
店主の説明によれば、このクマは、前のもち主である戦闘機搭乗員と一緒に、何度も英本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)に出撃したという。
海上にでた3人は、すぐコールド・ハーパーからの救助艇に助けだされる。
その乗組員のひとり、80代とおぼしき老人が、クマをみていう。
「おや、タークィンじゃないか。いったいどこで手にいれたんだね」
助けだされた操縦士のデュポンは、すぐ病院へ。
〈わたし〉とデニーズは、タークィンを知るアクランド老人が経営しているパブ兼旅館に泊まることに。
夫妻はそこで、第2次大戦中、秘密基地としてつかわれていたコールド・ハーパーと、タークィンにまつわる驚くべき話を聞く。
この件は国家機密。
だが、もう88歳のアクランド老人は、かまうものかと話してくれた。
この話には、ドイツ側のできごとが欠けている。
〈わたし〉はドイツの親類、コンラートに連絡をとる。
コンラートは、元ゲシュタポ。
ハンブルグ警察主任警部ののち、西ドイツ情報部に所属。
かれなら機密情報にアクセスできるかもしれない。
連絡をとってみると、コンラートは肺ガンにかかっている。
が、「気に入ったよ、その話。老後の楽しみになる」と、コンラートは喜んで調査を引き受けてくれる。
このシーンの直前に、〈わたし〉が自身の人生を回想する場面がある。
徴兵され、旧近衛騎兵第2連隊に配属され、ベルリンで占領任務につく。
その後、職を転々とし、電力局に勤めながら売れない小説を書いたり、教師になったりする。
ここで、フィクションだろうけれど、諜報活動に従事するためになり、活劇まで演じる〈わたし〉の姿がえがかれる。
それはともかく。
以上でプロローグは終了。
このあと、アクランド老人とコンラートの調査をもとにしたという、イギリスとドイツに分かれて戦闘機乗りとなった双子の兄弟、ハリー・ケルソーと、マックス・フォン・ハルダーの物語が語られる。
物語は、双子の父の話から。
1917年8月。
ボストン屈指の裕福な名家の跡継ぎであるジャック・ケルソーは、22歳。
クマのタークィンとともに、ブリストル戦闘機に乗り、イギリス陸軍航空隊で2年目の勤務についている。
当時、搭乗員が臆病になるという理由で、イギリス陸軍省は落下傘の使用を禁じていた。
が、金持ちの息子であるケルソーは、いつも私物の落下傘を操縦席にもちこんでいた。
撃墜されたときも、その落下傘で脱出。
負傷したジャックは野戦病院へ。
そこで看護婦をしていたエルザ・フォン・ハルダー男爵令嬢と出会い、結婚。
男爵家は、プロイセンの格式ある家柄だったが、お金はまったくなかった。
妊娠したエルザは、ひとりアメリカにいき、義父の大歓迎を受け、社交界の人気者に。
生まれた双子は、それぞれの父親の名前をとり、マックスとハリーと名づけられた。
ジャックはイギリス陸軍航空隊にとどまり、中佐に昇進。
大戦が終結すると、家族のいるボストンへもどってくる。
しかし、戦争のため心に深い傷を負ったジャックは、その後、死のうが生きようがかまわないといった生活をする。
1930年、ジャックは自動車事故で死亡。
双子は、この父親とそっくりの人生を送ることになる。
ジャックがいなくなったいま、エルザはアメリカにいる気がない。
それに、マックスはフォン・ハルダー家の跡継ぎだ。
義父の支援を受け、エルザはマックスを連れて故国にもどる。
ベルリンでもまた、社交界の花形に。
亡き父の旧友のひとり、いまではナチ党幹部のゲーリングを通じ、ナチの指導者たちと面識をもつ。
1934年、マックスはアメリカにもどり、半年間祖父のもとで暮らすことに。
祖父のエイブはふたりの16歳の誕生日に、ジャックが利用していた航空クラブに連れていった。
このとき、飛行機の操縦について、2人には天賦の才があることがわかる。
兄弟はどちらが飛ぶときも、父親と同じようにタークィンを操縦席に乗せて飛んだ。
コーチ役である西部戦線のエース、ロッキー・ファーソンから、2人はさまざまな技をさずかる。
また、ファーソンにもとめられ、エイブはカーチス練習機を2機、2人に買いあたえた。
ベルリンにもどったマックスは、母親を通じて口をきいてくれたゲーリングのおかげで、当地の飛行クラブへ。
その才能に驚いた周囲により、陸軍士官学校に入ることになる。
また、このとき、23歳の空軍少尉、アドルフ・ガーランドと知りあう。
ハリーも、ボストンで飛行機の操縦を続けながら、ハーヴァード大学に入学。
兄のマックスは、ドイツ空軍少尉に。
スペイン内戦が勃発すると、マックスとガートラントもハインケルHe51複葉戦闘機に乗りたたかう。
1938年、帰国し、中尉に昇進。
ドイツによるポーランド侵攻のさいは、20機の撃墜戦果を挙げ、大尉に昇進。
「黒い男爵」の異名をとる。
ゲーリングのお気に入りとなるが、当人は特定の政治的立場を表明することもなく、ナチ党員でもない。
一戦闘機乗りに尽きた。
いっぽうハーヴァードを卒業したハリーはフィンランドへ。
ソ連がフィンランドに侵攻し、飛行士不足のフィンランド軍が外国人義勇兵を募っていたため、ハリーはそれに応じたのだ。
ハリーは、タークィンとともに出撃し、たちまち勇名をはせる。
マックスもハリーも雑誌の取材を受け、その雑誌によりおたがいの消息を知る。
のちには、諜報機関をつうじて、たがいの動向を知ることになる。
1940年3月12日、フィンランドは降伏。
ハリーは規則に反して脱出し、ストックホルム郊外の航空クラブに着陸。
スウェーデン当局に察知されないうちにイギリスへ。
そして、ロンドンの航空省に出頭し、フィンランド人として英国空軍に所属することに。
こうして、兄弟は敵味方に分かれる。
とはいえ、2人の望みは空を飛ぶことだけ。
国のことなど関係ない。
不時着したMe109を手に入れたイギリス空軍は、その評価をするために、フィンランドで同機を飛ばしたことのあるハリーに声をかける。
そこで、ハリーはD課のドゥーガル・マンロー准将と出会う。
マンローはハリーに興味をもち、勧誘するが、ハリーは首を縦に振らない。
そのやりとりのなか、ハリーはマンローの姪モリーと親しくなる。
モリーは、クロムウェル病院で外科医をしている女医。
一方、あるパーティーに出席したマックスは、その出生や、弟がイギリス軍で活躍していることなどから、ヒムラーに目をつけられる。
ところで。
ドイツ国防軍諜報部アプヴェールがイギリスに張っていた諜報網は、根こそぎにされてしまっていた。
が、保安諜報部には、アプヴェールも知らない潜入工作員がいた。
ひとりは、駐英ポルトガル大使館の館員、フェルナンド・ロドリゲス。
弟はベルリン大使館付きの商務官。
もうひとりは、イギリス陸軍省職員サラ・ディクソン。
サラは、IRAの活動家だった祖父がイギリス軍に殺されたのを恨んでいる。
保安部の指示により、ロドリゲスはサラに接触。
2人は親密に。
その後も戦争は続く。
マックスはアフリカにいったり、東部戦線にいったり。
ハリーもアフリカにいったり、爆撃機隊に転属したり。
ゲシュタポが、ドイツ人を妻にもつユダヤ人を一斉に検挙したさい、その抗議にあつまったひとびとの最前列には双子の母エルザの姿が。
エルザは、夫を連れ去られた使用人とともに、抗議に参加したのだった。
そのことは、ヒムラーの心証を大いにそこねる。
アメリカ人をあつめたイーグル中隊をつくるというので、ハリーは参加を乞われるが、断る。
父親のように、イギリス空軍のままでいたい。
そのため、イギリス空軍のままでいられるマンロー准将の勧誘に応えることに。
こうして、ハリーはコールド・ハーパーで任務につく。
――このへんで、だいたい本書の半分くらい。
しかし、こんなにあらすじを書いておいてなんだけれど、この作品は要約したところでちっとも面白さがつたわらない。
この作品は、もともと抽象度が高い。
特に、前半はものすごいスピードで話が進んでいく。
小説の冒頭は説明することが多いから、そういうことになりがちだけれど、この作品は双子の略歴を語る速度が、そのまま後半まで維持される。
まるで大河小説の要約を読んでいるよう。
あるいは、小説というよりノンフィクションのよう。
記述は高空を飛翔し、なかなか地上に降りてこないといった風情。
後期のヒギンズは、カットバックで読ませる作風となったが、その手法をここまで推し進めたかと思う。
とはいえ、部分部分はいつもの通りつかいまわし。
ハリーの恋人となるモリーは、またしても女医。
諜報員の人物配置は「鷲は飛び立った」を思い起こさせる。
主人公の双子、ハリーとマックスは空を飛ぶことしか考えていない。
ヒギンズ作品につねにあらわれる、求道的人物だ。
空中戦のさい、後ろにつかれたときにフラップを下げる技は、もう何度もみた。
これをすると、追突を避けた相手機が海面などに突っこむ。
最初にみたのは「裁きの日」だったか。
さがせば、まださかのぼれるかもしれない。
後半はもう少し、普通の小説らしくなる。
陰謀があり、計画がある。
潜入があり、露見があり、脱出がある。
双子は当然入れかわる。
劇的な場面が抑制の効いた筆致でえがかれているのも、本書の魅力のひとつだ。
はなればなれになった双子は、どこかで再会しなければいけない。
それはいったいどこだろうという興味で読んでいると、ついに双子は再会する。
この場面は、ことさら盛り上げようと書かれているわけではない。
にもかかわらず、積み重ねてきた描写が効いて見事な場面となっている、
素晴らしい名場面だ。
原題は“Flight of Eagles”
原書の刊行は1998年。
本書は、「反撃の海峡」や「鷲は飛び立った」と同様、特殊作戦実行部(SOE)のドゥーガル・マンロー准将が登場し、秘密基地コールド・ハーパーが舞台となる作品。
また、訳者あとがきには以下のような指摘がある。
《「鷲は舞い降りた」およびその続編「鷲は飛び立った」と同じく「鷲」の一語がはいっている。》
加えて、
《著者とおぼしき作家が「わたし」という一人称で語り、秘話を掘り起こすプロローグとエピローグがついている。この形をとっているのは、既訳作品を確認した範囲では、前期二作だけだ。》
さらにつけ加えるなら、本書は「反撃の海峡」と同じく双子の物語でもある。
(「反撃の海峡」は姉妹で、こちらは兄弟というちがいはあるけれど)
本書は、たがいに戦闘機乗りとなった双子の物語だ。
では、まずプロローグから。
1997年、ハリウッド映画のプロデューサーから作品の映画化の打診を受けた〈わたし〉は、急いで住まいであるジャージー島からイギリス本土へ渡らなくてはならなくなる。
そこで、エアタクシー会社に連絡し、妻のデニーズとともにセスナ310型機に乗りこむことに。
セスナ310は複座なので、右側の操縦席には、飛行機操縦の経験が豊富なデニーズが座った。
左側は、会社の操縦士デュポン。
飛行機が飛び立つと、運が悪いことに霧がでて、視界が閉ざされてしまう。
加えて、右側のエンジンが停止してしまう。
さらに、操縦士のデュポンが心臓発作を起こして倒れてしまう。
管制官の指示にしたがい、コールド・ハーパー方面に向かっていたセスナは、デニーズの操縦により海面に不時着。
すぐに、倒れたデュポンとともに、妻と脱出。
このとき、デニーズのマスコットである、ぬいぐるみのクマ、タークィンも忘れずに連れだす。
タークィンは、ブライトンの骨董屋でみつけたクマ。
第2次大戦当時の、イギリス空軍の青い飛行つなぎを着て、革の飛行帽をかぶり、飛行長靴をはいている立派なクマだ。
店主の説明によれば、このクマは、前のもち主である戦闘機搭乗員と一緒に、何度も英本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)に出撃したという。
海上にでた3人は、すぐコールド・ハーパーからの救助艇に助けだされる。
その乗組員のひとり、80代とおぼしき老人が、クマをみていう。
「おや、タークィンじゃないか。いったいどこで手にいれたんだね」
助けだされた操縦士のデュポンは、すぐ病院へ。
〈わたし〉とデニーズは、タークィンを知るアクランド老人が経営しているパブ兼旅館に泊まることに。
夫妻はそこで、第2次大戦中、秘密基地としてつかわれていたコールド・ハーパーと、タークィンにまつわる驚くべき話を聞く。
この件は国家機密。
だが、もう88歳のアクランド老人は、かまうものかと話してくれた。
この話には、ドイツ側のできごとが欠けている。
〈わたし〉はドイツの親類、コンラートに連絡をとる。
コンラートは、元ゲシュタポ。
ハンブルグ警察主任警部ののち、西ドイツ情報部に所属。
かれなら機密情報にアクセスできるかもしれない。
連絡をとってみると、コンラートは肺ガンにかかっている。
が、「気に入ったよ、その話。老後の楽しみになる」と、コンラートは喜んで調査を引き受けてくれる。
このシーンの直前に、〈わたし〉が自身の人生を回想する場面がある。
徴兵され、旧近衛騎兵第2連隊に配属され、ベルリンで占領任務につく。
その後、職を転々とし、電力局に勤めながら売れない小説を書いたり、教師になったりする。
ここで、フィクションだろうけれど、諜報活動に従事するためになり、活劇まで演じる〈わたし〉の姿がえがかれる。
それはともかく。
以上でプロローグは終了。
このあと、アクランド老人とコンラートの調査をもとにしたという、イギリスとドイツに分かれて戦闘機乗りとなった双子の兄弟、ハリー・ケルソーと、マックス・フォン・ハルダーの物語が語られる。
物語は、双子の父の話から。
1917年8月。
ボストン屈指の裕福な名家の跡継ぎであるジャック・ケルソーは、22歳。
クマのタークィンとともに、ブリストル戦闘機に乗り、イギリス陸軍航空隊で2年目の勤務についている。
当時、搭乗員が臆病になるという理由で、イギリス陸軍省は落下傘の使用を禁じていた。
が、金持ちの息子であるケルソーは、いつも私物の落下傘を操縦席にもちこんでいた。
撃墜されたときも、その落下傘で脱出。
負傷したジャックは野戦病院へ。
そこで看護婦をしていたエルザ・フォン・ハルダー男爵令嬢と出会い、結婚。
男爵家は、プロイセンの格式ある家柄だったが、お金はまったくなかった。
妊娠したエルザは、ひとりアメリカにいき、義父の大歓迎を受け、社交界の人気者に。
生まれた双子は、それぞれの父親の名前をとり、マックスとハリーと名づけられた。
ジャックはイギリス陸軍航空隊にとどまり、中佐に昇進。
大戦が終結すると、家族のいるボストンへもどってくる。
しかし、戦争のため心に深い傷を負ったジャックは、その後、死のうが生きようがかまわないといった生活をする。
1930年、ジャックは自動車事故で死亡。
双子は、この父親とそっくりの人生を送ることになる。
ジャックがいなくなったいま、エルザはアメリカにいる気がない。
それに、マックスはフォン・ハルダー家の跡継ぎだ。
義父の支援を受け、エルザはマックスを連れて故国にもどる。
ベルリンでもまた、社交界の花形に。
亡き父の旧友のひとり、いまではナチ党幹部のゲーリングを通じ、ナチの指導者たちと面識をもつ。
1934年、マックスはアメリカにもどり、半年間祖父のもとで暮らすことに。
祖父のエイブはふたりの16歳の誕生日に、ジャックが利用していた航空クラブに連れていった。
このとき、飛行機の操縦について、2人には天賦の才があることがわかる。
兄弟はどちらが飛ぶときも、父親と同じようにタークィンを操縦席に乗せて飛んだ。
コーチ役である西部戦線のエース、ロッキー・ファーソンから、2人はさまざまな技をさずかる。
また、ファーソンにもとめられ、エイブはカーチス練習機を2機、2人に買いあたえた。
ベルリンにもどったマックスは、母親を通じて口をきいてくれたゲーリングのおかげで、当地の飛行クラブへ。
その才能に驚いた周囲により、陸軍士官学校に入ることになる。
また、このとき、23歳の空軍少尉、アドルフ・ガーランドと知りあう。
ハリーも、ボストンで飛行機の操縦を続けながら、ハーヴァード大学に入学。
兄のマックスは、ドイツ空軍少尉に。
スペイン内戦が勃発すると、マックスとガートラントもハインケルHe51複葉戦闘機に乗りたたかう。
1938年、帰国し、中尉に昇進。
ドイツによるポーランド侵攻のさいは、20機の撃墜戦果を挙げ、大尉に昇進。
「黒い男爵」の異名をとる。
ゲーリングのお気に入りとなるが、当人は特定の政治的立場を表明することもなく、ナチ党員でもない。
一戦闘機乗りに尽きた。
いっぽうハーヴァードを卒業したハリーはフィンランドへ。
ソ連がフィンランドに侵攻し、飛行士不足のフィンランド軍が外国人義勇兵を募っていたため、ハリーはそれに応じたのだ。
ハリーは、タークィンとともに出撃し、たちまち勇名をはせる。
マックスもハリーも雑誌の取材を受け、その雑誌によりおたがいの消息を知る。
のちには、諜報機関をつうじて、たがいの動向を知ることになる。
1940年3月12日、フィンランドは降伏。
ハリーは規則に反して脱出し、ストックホルム郊外の航空クラブに着陸。
スウェーデン当局に察知されないうちにイギリスへ。
そして、ロンドンの航空省に出頭し、フィンランド人として英国空軍に所属することに。
こうして、兄弟は敵味方に分かれる。
とはいえ、2人の望みは空を飛ぶことだけ。
国のことなど関係ない。
不時着したMe109を手に入れたイギリス空軍は、その評価をするために、フィンランドで同機を飛ばしたことのあるハリーに声をかける。
そこで、ハリーはD課のドゥーガル・マンロー准将と出会う。
マンローはハリーに興味をもち、勧誘するが、ハリーは首を縦に振らない。
そのやりとりのなか、ハリーはマンローの姪モリーと親しくなる。
モリーは、クロムウェル病院で外科医をしている女医。
一方、あるパーティーに出席したマックスは、その出生や、弟がイギリス軍で活躍していることなどから、ヒムラーに目をつけられる。
ところで。
ドイツ国防軍諜報部アプヴェールがイギリスに張っていた諜報網は、根こそぎにされてしまっていた。
が、保安諜報部には、アプヴェールも知らない潜入工作員がいた。
ひとりは、駐英ポルトガル大使館の館員、フェルナンド・ロドリゲス。
弟はベルリン大使館付きの商務官。
もうひとりは、イギリス陸軍省職員サラ・ディクソン。
サラは、IRAの活動家だった祖父がイギリス軍に殺されたのを恨んでいる。
保安部の指示により、ロドリゲスはサラに接触。
2人は親密に。
その後も戦争は続く。
マックスはアフリカにいったり、東部戦線にいったり。
ハリーもアフリカにいったり、爆撃機隊に転属したり。
ゲシュタポが、ドイツ人を妻にもつユダヤ人を一斉に検挙したさい、その抗議にあつまったひとびとの最前列には双子の母エルザの姿が。
エルザは、夫を連れ去られた使用人とともに、抗議に参加したのだった。
そのことは、ヒムラーの心証を大いにそこねる。
アメリカ人をあつめたイーグル中隊をつくるというので、ハリーは参加を乞われるが、断る。
父親のように、イギリス空軍のままでいたい。
そのため、イギリス空軍のままでいられるマンロー准将の勧誘に応えることに。
こうして、ハリーはコールド・ハーパーで任務につく。
――このへんで、だいたい本書の半分くらい。
しかし、こんなにあらすじを書いておいてなんだけれど、この作品は要約したところでちっとも面白さがつたわらない。
この作品は、もともと抽象度が高い。
特に、前半はものすごいスピードで話が進んでいく。
小説の冒頭は説明することが多いから、そういうことになりがちだけれど、この作品は双子の略歴を語る速度が、そのまま後半まで維持される。
まるで大河小説の要約を読んでいるよう。
あるいは、小説というよりノンフィクションのよう。
記述は高空を飛翔し、なかなか地上に降りてこないといった風情。
後期のヒギンズは、カットバックで読ませる作風となったが、その手法をここまで推し進めたかと思う。
とはいえ、部分部分はいつもの通りつかいまわし。
ハリーの恋人となるモリーは、またしても女医。
諜報員の人物配置は「鷲は飛び立った」を思い起こさせる。
主人公の双子、ハリーとマックスは空を飛ぶことしか考えていない。
ヒギンズ作品につねにあらわれる、求道的人物だ。
空中戦のさい、後ろにつかれたときにフラップを下げる技は、もう何度もみた。
これをすると、追突を避けた相手機が海面などに突っこむ。
最初にみたのは「裁きの日」だったか。
さがせば、まださかのぼれるかもしれない。
後半はもう少し、普通の小説らしくなる。
陰謀があり、計画がある。
潜入があり、露見があり、脱出がある。
双子は当然入れかわる。
劇的な場面が抑制の効いた筆致でえがかれているのも、本書の魅力のひとつだ。
はなればなれになった双子は、どこかで再会しなければいけない。
それはいったいどこだろうという興味で読んでいると、ついに双子は再会する。
この場面は、ことさら盛り上げようと書かれているわけではない。
にもかかわらず、積み重ねてきた描写が効いて見事な場面となっている、
素晴らしい名場面だ。
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漫画 吾輩は猫である
心理学者の河合隼雄と、詩人の長田弘が、子どもの本について語りあった、「子どもの本の森へ」(岩波書店 1998)という本がある。
その本のなかに、以下のような一節がある。
《長田 (…)夏目漱石の『吾輩は猫である』というのも、ぼくにとっては二つあるんです。一つは、もちろん夏目漱石の『吾輩は猫である』で、「吾輩は猫である。名前はまだない」という有名な一行から始まる。もう一つは、昭和の初めの新潮文庫ででた近藤浩一路(畫)という『漫画吾輩は猫である』で、その始まりは「吾輩は猫である。名前は無い」。漫画のうほうは「まだ」がないんです。
河合 持っておられるんですか?
長田 はい。右頁は全頁、簡潔で、無駄のまったくない要約が十行くらい。この要約が何ともいえず傑作なんです。左頁は全頁、線画で、ユニークきわまりない漫画だけ。「まだ」という未練のない、その漫画版の書き出しが、ぼくは大好きですね(笑)。》
このくだりを読んだとき、ぜひ「漫画 吾輩は猫である」を読んでみたいと思った。
それから、月日は流れて、ことし岩波文庫からこの本が出版された。
ことしは漱石生誕150周年だそうだから、それに合わせたものだろう。
長らく読めなかった本が読めるのは、なんともうれしいことだ。
「漫画 吾輩は猫である」を手にとってまずしたのは、長田さんの指摘の確認。
たしかに「まだ」は省かれている。
そして、右ページに簡潔きわまりない要約があり、左ページにユニークな漫画が描かれている。
漫画とはいうけれど、コマ割りはされていない。
滑稽なイラストといった風。
もともと「吾輩は猫である」は、漫文調というか戯文調で書かれている。
だから、漫画と相性がいいのかもしれない。
それにしても、全編1ページに収まる要約をつくり、イラストをつけるというのは、なかなか大変だったのではないか。
《たしかに読みやすい。が、これは翻案というべきだろう。当然著作権者の許諾が必要だが、当時そんなことがあったかどうか怪しい》
とは、巻末の夏目房之介さんによる解説。
漱石の孫にして、漫画研究者の夏目房之介さんは、この本の解説者としてまさに適任だ。
ふたたび解説によれば、「漫画 吾輩は猫である」は、1919(大正8)年、新潮社より、文庫サイズのハードカバーで刊行されたとのこと。
昭和のはじめではなかった。
そして、原本の表紙にも奥付にも、漱石の名前は載っていないという。
あるのは、近藤浩一路の名前だけ。
これはまた、じつに神経が太い。
今回の岩波文庫版もそれを踏襲してか、漱石の名は、表紙・奥付ともに記されていない。
「漫画 吾輩は猫である」の〈吾輩〉は、白ネコとして描かれている。
これは少々以外だった。
〈吾輩〉は勝手に黒ネコだと思っていた。
でも、俥屋の黒は黒ネコだから、絵にするなら黒ネコ以外がいいだろう。
黒ネコだと思っていたのは、「『坊っちゃん』の時代」(関川夏央/著 谷口ジロー/著 双葉社)の印象が強かったせいかもしれない。
「吾輩は猫である」は、全編通して読んだことがない。
読めば、〈吾輩〉の容姿に触れた箇所があるのだろうか。
黒ネコが駄目なら、〈吾輩〉は三毛猫にちがいないと、また勝手に考えているのだけれど。
その本のなかに、以下のような一節がある。
《長田 (…)夏目漱石の『吾輩は猫である』というのも、ぼくにとっては二つあるんです。一つは、もちろん夏目漱石の『吾輩は猫である』で、「吾輩は猫である。名前はまだない」という有名な一行から始まる。もう一つは、昭和の初めの新潮文庫ででた近藤浩一路(畫)という『漫画吾輩は猫である』で、その始まりは「吾輩は猫である。名前は無い」。漫画のうほうは「まだ」がないんです。
河合 持っておられるんですか?
長田 はい。右頁は全頁、簡潔で、無駄のまったくない要約が十行くらい。この要約が何ともいえず傑作なんです。左頁は全頁、線画で、ユニークきわまりない漫画だけ。「まだ」という未練のない、その漫画版の書き出しが、ぼくは大好きですね(笑)。》
このくだりを読んだとき、ぜひ「漫画 吾輩は猫である」を読んでみたいと思った。
それから、月日は流れて、ことし岩波文庫からこの本が出版された。
ことしは漱石生誕150周年だそうだから、それに合わせたものだろう。
長らく読めなかった本が読めるのは、なんともうれしいことだ。
「漫画 吾輩は猫である」を手にとってまずしたのは、長田さんの指摘の確認。
たしかに「まだ」は省かれている。
そして、右ページに簡潔きわまりない要約があり、左ページにユニークな漫画が描かれている。
漫画とはいうけれど、コマ割りはされていない。
滑稽なイラストといった風。
もともと「吾輩は猫である」は、漫文調というか戯文調で書かれている。
だから、漫画と相性がいいのかもしれない。
それにしても、全編1ページに収まる要約をつくり、イラストをつけるというのは、なかなか大変だったのではないか。
《たしかに読みやすい。が、これは翻案というべきだろう。当然著作権者の許諾が必要だが、当時そんなことがあったかどうか怪しい》
とは、巻末の夏目房之介さんによる解説。
漱石の孫にして、漫画研究者の夏目房之介さんは、この本の解説者としてまさに適任だ。
ふたたび解説によれば、「漫画 吾輩は猫である」は、1919(大正8)年、新潮社より、文庫サイズのハードカバーで刊行されたとのこと。
昭和のはじめではなかった。
そして、原本の表紙にも奥付にも、漱石の名前は載っていないという。
あるのは、近藤浩一路の名前だけ。
これはまた、じつに神経が太い。
今回の岩波文庫版もそれを踏襲してか、漱石の名は、表紙・奥付ともに記されていない。
「漫画 吾輩は猫である」の〈吾輩〉は、白ネコとして描かれている。
これは少々以外だった。
〈吾輩〉は勝手に黒ネコだと思っていた。
でも、俥屋の黒は黒ネコだから、絵にするなら黒ネコ以外がいいだろう。
黒ネコだと思っていたのは、「『坊っちゃん』の時代」(関川夏央/著 谷口ジロー/著 双葉社)の印象が強かったせいかもしれない。
「吾輩は猫である」は、全編通して読んだことがない。
読めば、〈吾輩〉の容姿に触れた箇所があるのだろうか。
黒ネコが駄目なら、〈吾輩〉は三毛猫にちがいないと、また勝手に考えているのだけれど。
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「裁きの日」「デリンジャー」
「裁きの日」(ジャック・ヒギンズ/著 菊池光/訳 早川書房 1983)
原題は“Day of Judgment”
原書の刊行は、1978年。
1975年に「鷲は舞い降りた」を刊行したあと、ヒギンズが発表した作品を順に並べると、こんな風になる。
1976 「脱出航路」
1977 「ヴァルハラ最終指令」
1978 「裁きの日」
1980 「暗殺のソロ」
「暗殺のソロ」までいくと、安定したカットバックの技量が楽しめる。
が、それまではそうはいかない。
というわけで、「裁きの日」の面白さはいまひとつだ。
手早くストーリーを紹介して、終わりにしてしまおう。
3人称多視点。
主人公は、「非情の日」の主役だったサイモン・ヴォーン元イギリス陸軍少佐。
舞台は、1963年のベルリン。
葬儀屋の車で検問所を越え、西ベルリンに入った女性、マーガレット・キャンブル。
父は物理学者のグレゴリー・キャンブルという英国人で、原爆の情報を東側に流した人物。
その後、この父娘は東ドイツで暮らしていた。
しかし、肺ガンにかかり余命いくばくもないグレゴリー・キャンブルは祖国にもどりたがっている。
そこで、なにか手はないかと、娘のマーガレットは検問を越えてやってきたのだ。
が、ヴォーンは、マーガレットの話を信じない。
マーガレットは、キリスト教徒の地下組織〈復活連盟〉の神父、ショーン・コンリンと面会。
東ドイツにもどり、コンリン神父が救出にくるのを待つことに。
しかし、ヴォーンが見抜いたように、マーガレットは嘘をついていた。
東ベルリンに潜入したコンリン神父は、東ドイツの国家保安省第2局第5部長、ヘルムート・クラインによ捕まってしまう。
なぜ、東ドイツ側はこんな手間をかけてコンリン神父を捕まえたのか。
コンリン神父と復活連盟の活動は有名で、コンリン神父はノーベル平和賞の受賞候補に推薦されたほど。
このコンリン神父を洗脳する。
そして、公開裁判で、コンリン神父が西側の工作員であったことを自白させる。
折しも、来月はケネディ大統領がベルリンに訪問する予定。
成功すれば、西側に打撃をあたえることができる。
コンリン神父は、ノイシュタット城に収容され、アメリカ人の心理学者ハリイ・ヴァン・ビューレンにより洗脳をほどこされる。
一方、父がすでに死んだと知らされたマーガレットは、自分がただクラインに利用されていたと知る。
コンリン神父が捕まった現場から逃げだし、川に落ち、流され、ノイシュタット村で暮らすルーテル派のフランシスコ修道会に拾われる。
マーガレットは、フランシスコ修道会会士コンラートに、これまでのいきさつを説明する。
コンラート会士は西ベルリンにおもむき、ヴォーンと接触。
2人は、憲法保護局ベルリン支局長、ブルーノ・トイゼンと会う。
トイゼンは、ナチス・ドイツ時代、カナリス提督のもとで仕事をしていた人物。
コンリン神父捕まるの報が世界を駆けめぐる。
バチカンとアメリカがうごく。
バチカンでうごいたのは、コンリン神父と同じ、イエズス会士のバチェリ神父。
現在、サン・ロベルト・ベラルミノ神学校の歴史研究部長の職にある。
ノイシュタット村に閉鎖された教会があることを知ったバチェリ神父は、東ベルリン聖庁のハルトマン神父に連絡をとる。
ホワイトハウスは、スミソニアンで講演していた、チャールズ・バスコウ英文学教授と接触。
バスコウ教授は、戦時中、イギリス軍情報局ではたらいていた。
そのとき、ブルーノ・トイゼンとは敵対関係に。
しかし、今回はともにはたらくことになる。
というわけで、みんなベルリンにあつまってきて作戦会議。
まず、国境警備隊を買収。
それから、ノイシュタット村のフランシスコ修道会から穴を掘る。
穴は、ノイシュタット城の排水溝までつなげ、そこからコンリン神父を救出する。
バチェリ神父の指示により、ハルトマン神父は閉鎖されている教会を調査するという名目でノイシュタット村へ。
そして、ハルトマン神父の監視役に化けたヴォーンも、同じくノイシュタット村に潜入する――。
本書が面白くない理由のひとつは、バチカンやらホワイトハウスやらがでてきてスケールが大きくなったさいの手際の悪さにある。
登場人物ばかり増えて、応接にいとまがない。
読者はすっかり置いてきぼりだ。
また、洗脳の話というのは、面白くするのがむつかしい。
けっきょく、コンリン神父が洗脳に耐えましたという話になるのだが。
本書には、ハルトマン神父が排水溝にはまった配管工を助けだす場面がある。
雨で水位が上がっている水のなかに飛びこんで、半トンものブロックをどかす。
ヒギンズ作品によくでてくる場面だ。
また、閉鎖された教会におもむいたハルトマンは、村びとに乞われるままに告解を聞く。
さらに、英雄的行為をおこなう。
これもまた、「サンタマリア特命隊」などで見慣れた場面。
マンネリだって面白ければいい。
でも、そうはなっていないので残念だ。
もう一冊。
ハリー・パタースン名義で書かれた作品。
「デリンジャー」(ハリー・パタースン/著 小林理子/訳 東京創元社 1990)
原題は“Dillinger”
原書の刊行は、1983年。
デリンジャーは、実在したアメリカの名高い銀行強盗。
本書は1934年、インディアナ州のレイク・カウンティ刑務所から脱獄したデリンジャーの、空白期間をえがいたもの。
メキシコに逃亡したデリンジャーは鉱山や原住民をめぐる争いに巻きこまれた――というのがその内容。
というわけで、この作品は「サンタマリア特命隊」の焼き直しのよう。
やはり、いまひとつといわざるを得ない作品だった。
原題は“Day of Judgment”
原書の刊行は、1978年。
1975年に「鷲は舞い降りた」を刊行したあと、ヒギンズが発表した作品を順に並べると、こんな風になる。
1976 「脱出航路」
1977 「ヴァルハラ最終指令」
1978 「裁きの日」
1980 「暗殺のソロ」
「暗殺のソロ」までいくと、安定したカットバックの技量が楽しめる。
が、それまではそうはいかない。
というわけで、「裁きの日」の面白さはいまひとつだ。
手早くストーリーを紹介して、終わりにしてしまおう。
3人称多視点。
主人公は、「非情の日」の主役だったサイモン・ヴォーン元イギリス陸軍少佐。
舞台は、1963年のベルリン。
葬儀屋の車で検問所を越え、西ベルリンに入った女性、マーガレット・キャンブル。
父は物理学者のグレゴリー・キャンブルという英国人で、原爆の情報を東側に流した人物。
その後、この父娘は東ドイツで暮らしていた。
しかし、肺ガンにかかり余命いくばくもないグレゴリー・キャンブルは祖国にもどりたがっている。
そこで、なにか手はないかと、娘のマーガレットは検問を越えてやってきたのだ。
が、ヴォーンは、マーガレットの話を信じない。
マーガレットは、キリスト教徒の地下組織〈復活連盟〉の神父、ショーン・コンリンと面会。
東ドイツにもどり、コンリン神父が救出にくるのを待つことに。
しかし、ヴォーンが見抜いたように、マーガレットは嘘をついていた。
東ベルリンに潜入したコンリン神父は、東ドイツの国家保安省第2局第5部長、ヘルムート・クラインによ捕まってしまう。
なぜ、東ドイツ側はこんな手間をかけてコンリン神父を捕まえたのか。
コンリン神父と復活連盟の活動は有名で、コンリン神父はノーベル平和賞の受賞候補に推薦されたほど。
このコンリン神父を洗脳する。
そして、公開裁判で、コンリン神父が西側の工作員であったことを自白させる。
折しも、来月はケネディ大統領がベルリンに訪問する予定。
成功すれば、西側に打撃をあたえることができる。
コンリン神父は、ノイシュタット城に収容され、アメリカ人の心理学者ハリイ・ヴァン・ビューレンにより洗脳をほどこされる。
一方、父がすでに死んだと知らされたマーガレットは、自分がただクラインに利用されていたと知る。
コンリン神父が捕まった現場から逃げだし、川に落ち、流され、ノイシュタット村で暮らすルーテル派のフランシスコ修道会に拾われる。
マーガレットは、フランシスコ修道会会士コンラートに、これまでのいきさつを説明する。
コンラート会士は西ベルリンにおもむき、ヴォーンと接触。
2人は、憲法保護局ベルリン支局長、ブルーノ・トイゼンと会う。
トイゼンは、ナチス・ドイツ時代、カナリス提督のもとで仕事をしていた人物。
コンリン神父捕まるの報が世界を駆けめぐる。
バチカンとアメリカがうごく。
バチカンでうごいたのは、コンリン神父と同じ、イエズス会士のバチェリ神父。
現在、サン・ロベルト・ベラルミノ神学校の歴史研究部長の職にある。
ノイシュタット村に閉鎖された教会があることを知ったバチェリ神父は、東ベルリン聖庁のハルトマン神父に連絡をとる。
ホワイトハウスは、スミソニアンで講演していた、チャールズ・バスコウ英文学教授と接触。
バスコウ教授は、戦時中、イギリス軍情報局ではたらいていた。
そのとき、ブルーノ・トイゼンとは敵対関係に。
しかし、今回はともにはたらくことになる。
というわけで、みんなベルリンにあつまってきて作戦会議。
まず、国境警備隊を買収。
それから、ノイシュタット村のフランシスコ修道会から穴を掘る。
穴は、ノイシュタット城の排水溝までつなげ、そこからコンリン神父を救出する。
バチェリ神父の指示により、ハルトマン神父は閉鎖されている教会を調査するという名目でノイシュタット村へ。
そして、ハルトマン神父の監視役に化けたヴォーンも、同じくノイシュタット村に潜入する――。
本書が面白くない理由のひとつは、バチカンやらホワイトハウスやらがでてきてスケールが大きくなったさいの手際の悪さにある。
登場人物ばかり増えて、応接にいとまがない。
読者はすっかり置いてきぼりだ。
また、洗脳の話というのは、面白くするのがむつかしい。
けっきょく、コンリン神父が洗脳に耐えましたという話になるのだが。
本書には、ハルトマン神父が排水溝にはまった配管工を助けだす場面がある。
雨で水位が上がっている水のなかに飛びこんで、半トンものブロックをどかす。
ヒギンズ作品によくでてくる場面だ。
また、閉鎖された教会におもむいたハルトマンは、村びとに乞われるままに告解を聞く。
さらに、英雄的行為をおこなう。
これもまた、「サンタマリア特命隊」などで見慣れた場面。
マンネリだって面白ければいい。
でも、そうはなっていないので残念だ。
もう一冊。
ハリー・パタースン名義で書かれた作品。
「デリンジャー」(ハリー・パタースン/著 小林理子/訳 東京創元社 1990)
原題は“Dillinger”
原書の刊行は、1983年。
デリンジャーは、実在したアメリカの名高い銀行強盗。
本書は1934年、インディアナ州のレイク・カウンティ刑務所から脱獄したデリンジャーの、空白期間をえがいたもの。
メキシコに逃亡したデリンジャーは鉱山や原住民をめぐる争いに巻きこまれた――というのがその内容。
というわけで、この作品は「サンタマリア特命隊」の焼き直しのよう。
やはり、いまひとつといわざるを得ない作品だった。
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脱出航路
「脱出航路」(ジャック・ヒギンズ/著 佐和誠/訳 早川書房 1982)
原題は、“Storm Warning”
原書の刊行は、1976年。
原題の意味は、「暴風警報」。
こちらのほうが、本書の内容によくあっている。
でも、それは読んだからいえるので、本のタイトルとしては、「暴風警報」では意味不明か。
本書の刊行は、「鷲が舞い降りた」の翌年。
よく、ヒギンズの代表作として、「鷲が舞い降りた」とともに並び称される。
たしかに、その評価はうなずける。
後半の盛り上がりぶりは尋常ではない。
では、ストーリー。
3人称多視点。
舞台は、第2次大戦中の1944年。
本書は、だいたい3つの筋からなる。
そのひとつは、ブラジルから大西洋を渡りドイツへ向かう、老帆船ドイッチェラントの物語だ。
ドイツのUボートにより、自国の商船が犠牲になったことから、1942年8月、ブラジルはドイツに宣戦布告をした。
そのため、沿岸に漂着したドイツ海軍将兵をどう扱うかという問題が、ブラジル側に生じた。
費用のかかる捕虜収容所などは論外。
そこで、ブラジル政府は、ドイツ領事補が提出する同胞についての月例報告に目を通すことで満足することにした。
ベルガ―船長も、このブラジル式の待遇を受けたひとり。
もともと、合衆国燃料補給船ジョージ・グラントに偽装した潜水艦補給船エッセンの艦長だったが、3度目の補給任務のさい、イギリスの潜水艦に魚雷をぶちこまれる。
泳いでいるところを、ポルトガルの貨物船に拾われ、リオでブラジル官憲に引き渡された。
《この国には一種の仮釈放ともいえるシステムがあって、敵性国人だろうと職を見つけられればその恩恵に浴することができる》
というわけで、沿岸交易をいとなむドイツ系商会の所有する帆船ドイッチェラントの船長となり、リオとベレンを往復する日々を送ることに。
このドイッチェラント号を拝借し、故国ドイツをめざす。
そのさい、ドイッチェラント号はスウェーデン国籍のグドリド・アンデルセン号に偽装。
本物は、イェーテボリに停泊しているはず。
スウェーデン国旗や、偽の航海日誌、偽の救命道具も用意。
スウェーデンのパスポートも用意した。
これら偽装の事務を担当したのが、ブラジル駐在ドイツ領事補オットー・プラガー。
プラガーとその妻は、ベルガ―船長がほしがっていた無線機をもって、ドイッチェラント号に乗船。
すでに65歳のプラガーにこの航海は無理だと、ベルガ―船長はさとすが、プラガーは聞き入れない。
さらに、プラガーは5人の尼僧を連れてくる。
彼女たちは、僻地で伝道につとめていたが、ブラジル内務省の政策変更のため伝道所をたたむことになった。
また、イタリア戦線に派遣されたブラジル部隊の被害状況が報じられたら、どんな目に遭うかわからない。
結局、ベルガ―船長は、プラガーと修道女のシスター・アンゲラに押し切られる。
乗船を認めることに。
かくして、乗組員22名、プラス尼僧5名とプラガー夫妻の計29名が乗船。
船の積み荷は底荷(バラスト)だけなので、なんとか乗れる。
乗組員22名のうち10名も、同胞のあいだでくじを引いて決めた者たち。
みんな帰国したいのだ。
1944年8月26日午前2時。
8000キロはなれた故国に向け、ドイッチェラント号はベレンを出港する――。
このまま、ドイッチェラント号の航海について語られるのかと思ったら、そうではない。
次は、ハリー・ジェーゴという人物に焦点が当たる。
ジェーゴは25歳のアメリカ海軍大尉。
エール大を中途退学して海軍に入隊。
第2艦隊に編入され、ソロモン沖海戦に投じられる。
その後、アメリカ特務機関員を拾うようにというOSS(戦略事務局。CIAの前身)の要望で、急遽イングランドへ。
ノルマンディー上陸作戦にも参加。
ライム湾に待機するアメリカ軍上陸用舟艇が、Eボートに襲われたさい、応戦し、負傷。
退院後、生き残りの部下9名とともに、イギリス海軍の好意で貸与された砲艇で、ヘブリーズ諸島の各施設をまわる、郵便集配業務に従事することに。
ジェーゴが訪れたファーダ島は、撃沈されたUボートの乗組員が流れ着くようなところ。
また、この島には、負傷して隠遁生活を送っているケアリー・リープ海軍少将がいる。
現役復帰を願っているリープ閣下は、休暇をとってロンドンにいくというジェーゴに、2通の手紙を託す。
1通は、ロンドンで医者をしている姪のジャネット・マンロー宛て。
もう1通は、アイゼンハワー将軍宛て。
空襲下のロンドンで、ジャネットは大忙し。
またしても、「サンタマリア特命隊」同様、赤ん坊をとりあげるシーンがある。
そんななか、アイゼンハワー将軍がジャネットに会いにくる。
リープに用意できるポストは、〈補給兵員統合本部〉の副長官しかない。
前線にでたがっているリープにとって、この返事は望むところではないだろう。
そこで、ジャネットはアイゼンハワー将軍の意向をうけ、ファーダ島を訪れ、リープをなだめることに。
ジェーゴはジャネットにも手紙を届けにくる。
2人は急速に親しくなる。
3つ目の物語は、Uボートの艦長、ポール・ゲリッケ少佐にまつわるもの。
ゲリッケは、ファルマス湾内に潜入し、機雷を敷設せよとの無茶苦茶な指令をうける。
が、無茶苦茶でも指令は指令。
小船団にくっついて防潜網をくぐり抜け、湾内へ。
機雷をまき終え、退去というとき、一隻のタグボートが機雷に触れて爆発。
戦闘のすえ離脱するが、その途中、司令塔で指揮していたゲリッケは海に投げだされてしまう。
その後、イギリス海軍の魚雷艇に拾われ、訊問されたのち、ロンドンに移送。
ゲリッケは、アメリカ側に引き渡されることになる。
グラスコーまではこばれ、そこから合衆国へ。
同じ列車にはジャネットとジェーゴも乗っている。
列車がグラスコーに着くと、ゲリッケは用足しを口実にしてまんまと脱走。
出発した列車に乗りこみ、機転をきかせ、ジャネットのいるコンパートメントに入りこむ。
が、けっきょく捕まり、ふたたび捕虜の身に。
マレーグまでいき、午後の列車でグラスコーにもどるということになったが、ゲリッケはまたもや脱走。
マレーグに着いたジャネットは、迎えにきたマクロード――島で救命艇の艇長をつとめる偉丈夫――の船でファーゴ島に向かう。
なんと、その船にゲリッケが隠れていた。
ゲリッケは一時、主導権を握ったものの、すぐに逆転。
ファーダ島の留置所に入れられる。
一方、マレーグから自身の船で出発していたジェーゴは、ゲリッケがファーダ島にいるという連絡を受け、身柄を確保するためにファーダ島へ。
また一方、ブラジルを出発したドイッチェラント号――。
イギリスの潜水艦に臨検されたり、見習い尼のロッテと掌帆長のリヒターが恋仲になったり、そのロッテに手をだそうとしたコックが海に蹴り落とされたり、コックがいなくなったために尼僧たちがその代わりをしたり、貨物船と遭遇したり、嵐に翻弄されたりしながら、よろよろと大西洋を横断し、スコットランド沖へ。
というわけで、関係者一同がファーダ島周辺に集結する――。
このころのヒギンズは、まだカットバックの手際がいまひとつだった。
後半に重要な役割を果たす人物に、ドイツ空軍ユンカース爆撃機の機長、ホルスト・ネッカー大尉がいる。
大暴風に遭い、坐礁したドイッチェラント号の周囲を飛び続け、ファーダ島と交信を続ける人物。
ネッカーが登場したのは、ジェーゴの登場と同時。
ジェーゴの砲艇を、ネッカーのユンカースが襲撃するのだ。
だが、それから150ページほど読まないと、ネッカーの次の出番はやってこない。
さすがに、おぼえていられない。
関係者をファーダ島に集結させる手続きも、いささかご都合主義にみえる。
2度脱走に成功し、2度ともジャネットに出会うゲリッケなどは、思わず笑いだしてしまうところだ。
にもかかわらず、後半の盛り上がりは素晴らしい。
全ての欠点を帳消しにする、途方もない盛り上がりぶり。
後期のヒギンズ作品にはない、粘りのある筆致で書かれたクライマックスは、大変な迫力だ。
訳者あとがきを引用すると、「怒涛の寄り身」。
この場面だけで傑作と呼べるだろう。
ところで、本書を読んでいたとき、ヒギンズ作品には、よくハイデッガーの同じ文句が引用されることに気づいた。
正確には、ヒギンズ作品の登場人物が、よくハイデガーの同じ文句を引きあいにだす。
本書ではこういう訳文。
《真に生きる者にとって必要不可欠なこと、それは死と断固対決することである。》
「狐たちの夜」ではこう。
《真に生きるためには決然と死に対決することが必要だ》
使いまわしが好きなヒギンズのことだ.
さがせばまだまだみつかるだろう。
原題は、“Storm Warning”
原書の刊行は、1976年。
原題の意味は、「暴風警報」。
こちらのほうが、本書の内容によくあっている。
でも、それは読んだからいえるので、本のタイトルとしては、「暴風警報」では意味不明か。
本書の刊行は、「鷲が舞い降りた」の翌年。
よく、ヒギンズの代表作として、「鷲が舞い降りた」とともに並び称される。
たしかに、その評価はうなずける。
後半の盛り上がりぶりは尋常ではない。
では、ストーリー。
3人称多視点。
舞台は、第2次大戦中の1944年。
本書は、だいたい3つの筋からなる。
そのひとつは、ブラジルから大西洋を渡りドイツへ向かう、老帆船ドイッチェラントの物語だ。
ドイツのUボートにより、自国の商船が犠牲になったことから、1942年8月、ブラジルはドイツに宣戦布告をした。
そのため、沿岸に漂着したドイツ海軍将兵をどう扱うかという問題が、ブラジル側に生じた。
費用のかかる捕虜収容所などは論外。
そこで、ブラジル政府は、ドイツ領事補が提出する同胞についての月例報告に目を通すことで満足することにした。
ベルガ―船長も、このブラジル式の待遇を受けたひとり。
もともと、合衆国燃料補給船ジョージ・グラントに偽装した潜水艦補給船エッセンの艦長だったが、3度目の補給任務のさい、イギリスの潜水艦に魚雷をぶちこまれる。
泳いでいるところを、ポルトガルの貨物船に拾われ、リオでブラジル官憲に引き渡された。
《この国には一種の仮釈放ともいえるシステムがあって、敵性国人だろうと職を見つけられればその恩恵に浴することができる》
というわけで、沿岸交易をいとなむドイツ系商会の所有する帆船ドイッチェラントの船長となり、リオとベレンを往復する日々を送ることに。
このドイッチェラント号を拝借し、故国ドイツをめざす。
そのさい、ドイッチェラント号はスウェーデン国籍のグドリド・アンデルセン号に偽装。
本物は、イェーテボリに停泊しているはず。
スウェーデン国旗や、偽の航海日誌、偽の救命道具も用意。
スウェーデンのパスポートも用意した。
これら偽装の事務を担当したのが、ブラジル駐在ドイツ領事補オットー・プラガー。
プラガーとその妻は、ベルガ―船長がほしがっていた無線機をもって、ドイッチェラント号に乗船。
すでに65歳のプラガーにこの航海は無理だと、ベルガ―船長はさとすが、プラガーは聞き入れない。
さらに、プラガーは5人の尼僧を連れてくる。
彼女たちは、僻地で伝道につとめていたが、ブラジル内務省の政策変更のため伝道所をたたむことになった。
また、イタリア戦線に派遣されたブラジル部隊の被害状況が報じられたら、どんな目に遭うかわからない。
結局、ベルガ―船長は、プラガーと修道女のシスター・アンゲラに押し切られる。
乗船を認めることに。
かくして、乗組員22名、プラス尼僧5名とプラガー夫妻の計29名が乗船。
船の積み荷は底荷(バラスト)だけなので、なんとか乗れる。
乗組員22名のうち10名も、同胞のあいだでくじを引いて決めた者たち。
みんな帰国したいのだ。
1944年8月26日午前2時。
8000キロはなれた故国に向け、ドイッチェラント号はベレンを出港する――。
このまま、ドイッチェラント号の航海について語られるのかと思ったら、そうではない。
次は、ハリー・ジェーゴという人物に焦点が当たる。
ジェーゴは25歳のアメリカ海軍大尉。
エール大を中途退学して海軍に入隊。
第2艦隊に編入され、ソロモン沖海戦に投じられる。
その後、アメリカ特務機関員を拾うようにというOSS(戦略事務局。CIAの前身)の要望で、急遽イングランドへ。
ノルマンディー上陸作戦にも参加。
ライム湾に待機するアメリカ軍上陸用舟艇が、Eボートに襲われたさい、応戦し、負傷。
退院後、生き残りの部下9名とともに、イギリス海軍の好意で貸与された砲艇で、ヘブリーズ諸島の各施設をまわる、郵便集配業務に従事することに。
ジェーゴが訪れたファーダ島は、撃沈されたUボートの乗組員が流れ着くようなところ。
また、この島には、負傷して隠遁生活を送っているケアリー・リープ海軍少将がいる。
現役復帰を願っているリープ閣下は、休暇をとってロンドンにいくというジェーゴに、2通の手紙を託す。
1通は、ロンドンで医者をしている姪のジャネット・マンロー宛て。
もう1通は、アイゼンハワー将軍宛て。
空襲下のロンドンで、ジャネットは大忙し。
またしても、「サンタマリア特命隊」同様、赤ん坊をとりあげるシーンがある。
そんななか、アイゼンハワー将軍がジャネットに会いにくる。
リープに用意できるポストは、〈補給兵員統合本部〉の副長官しかない。
前線にでたがっているリープにとって、この返事は望むところではないだろう。
そこで、ジャネットはアイゼンハワー将軍の意向をうけ、ファーダ島を訪れ、リープをなだめることに。
ジェーゴはジャネットにも手紙を届けにくる。
2人は急速に親しくなる。
3つ目の物語は、Uボートの艦長、ポール・ゲリッケ少佐にまつわるもの。
ゲリッケは、ファルマス湾内に潜入し、機雷を敷設せよとの無茶苦茶な指令をうける。
が、無茶苦茶でも指令は指令。
小船団にくっついて防潜網をくぐり抜け、湾内へ。
機雷をまき終え、退去というとき、一隻のタグボートが機雷に触れて爆発。
戦闘のすえ離脱するが、その途中、司令塔で指揮していたゲリッケは海に投げだされてしまう。
その後、イギリス海軍の魚雷艇に拾われ、訊問されたのち、ロンドンに移送。
ゲリッケは、アメリカ側に引き渡されることになる。
グラスコーまではこばれ、そこから合衆国へ。
同じ列車にはジャネットとジェーゴも乗っている。
列車がグラスコーに着くと、ゲリッケは用足しを口実にしてまんまと脱走。
出発した列車に乗りこみ、機転をきかせ、ジャネットのいるコンパートメントに入りこむ。
が、けっきょく捕まり、ふたたび捕虜の身に。
マレーグまでいき、午後の列車でグラスコーにもどるということになったが、ゲリッケはまたもや脱走。
マレーグに着いたジャネットは、迎えにきたマクロード――島で救命艇の艇長をつとめる偉丈夫――の船でファーゴ島に向かう。
なんと、その船にゲリッケが隠れていた。
ゲリッケは一時、主導権を握ったものの、すぐに逆転。
ファーダ島の留置所に入れられる。
一方、マレーグから自身の船で出発していたジェーゴは、ゲリッケがファーダ島にいるという連絡を受け、身柄を確保するためにファーダ島へ。
また一方、ブラジルを出発したドイッチェラント号――。
イギリスの潜水艦に臨検されたり、見習い尼のロッテと掌帆長のリヒターが恋仲になったり、そのロッテに手をだそうとしたコックが海に蹴り落とされたり、コックがいなくなったために尼僧たちがその代わりをしたり、貨物船と遭遇したり、嵐に翻弄されたりしながら、よろよろと大西洋を横断し、スコットランド沖へ。
というわけで、関係者一同がファーダ島周辺に集結する――。
このころのヒギンズは、まだカットバックの手際がいまひとつだった。
後半に重要な役割を果たす人物に、ドイツ空軍ユンカース爆撃機の機長、ホルスト・ネッカー大尉がいる。
大暴風に遭い、坐礁したドイッチェラント号の周囲を飛び続け、ファーダ島と交信を続ける人物。
ネッカーが登場したのは、ジェーゴの登場と同時。
ジェーゴの砲艇を、ネッカーのユンカースが襲撃するのだ。
だが、それから150ページほど読まないと、ネッカーの次の出番はやってこない。
さすがに、おぼえていられない。
関係者をファーダ島に集結させる手続きも、いささかご都合主義にみえる。
2度脱走に成功し、2度ともジャネットに出会うゲリッケなどは、思わず笑いだしてしまうところだ。
にもかかわらず、後半の盛り上がりは素晴らしい。
全ての欠点を帳消しにする、途方もない盛り上がりぶり。
後期のヒギンズ作品にはない、粘りのある筆致で書かれたクライマックスは、大変な迫力だ。
訳者あとがきを引用すると、「怒涛の寄り身」。
この場面だけで傑作と呼べるだろう。
ところで、本書を読んでいたとき、ヒギンズ作品には、よくハイデッガーの同じ文句が引用されることに気づいた。
正確には、ヒギンズ作品の登場人物が、よくハイデガーの同じ文句を引きあいにだす。
本書ではこういう訳文。
《真に生きる者にとって必要不可欠なこと、それは死と断固対決することである。》
「狐たちの夜」ではこう。
《真に生きるためには決然と死に対決することが必要だ》
使いまわしが好きなヒギンズのことだ.
さがせばまだまだみつかるだろう。
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死にゆく者への祈り
「死にゆく者への祈り」(ジャック・ヒギンズ/著 井坂清/訳 早川書房 1982)
原題は“A Prayer for the Dying”
原書の刊行は1973年。
「鷲が舞い降りた」まで、あと2年。
訳者あとがきによれば、自作のなかで一番好きな作品はなにかという質問に対し、ヒギンズは本書、「死にゆく者への祈り」を挙げたとのこと。
3人称多視点。
ほとんど、ひとつの町を舞台にしたスモール・タウンもの。
天才的な銃の使い手にして、オルガンの名手、元IRA中尉マーチン・ファロンの物語だ。
冒頭、昔の仲間と警察と、双方から追われるファロンは、ロンドンの武器商人クリストゥをたずねる。
クリストゥは、ファロンがほしがっているパスポートとオーストラリアいきの船の切符、それから200ポンドを条件に仕事をもちかける。
標的は、ジャン・クラスコという男。
依頼主は、〈英国版アル・カポネ〉と呼ばれるジャック・ミーアン。
裏社会のもめごとの果ての依頼だ。
IRAの一員として活動中、ファロンは誤ってスクールバスを吹き飛ばしたことがある。
クリストゥがそのことに触れると、ファロンは激昂。
この依頼を断る。
しかし、クリストゥがファロンを特別保安部(スペシャル・ブランチ)に密告したことでゆき場をなくしたファロンは、この仕事を引き受けざるを得なくなる。
ファロンは依頼を達成すべく町にいき、司祭を装い墓参中のクラスコに近づき、射殺。
が、その場面をダコスタ神父にみられてしまう。
ダコスタ神父は、戦時中はSAS(特殊部隊)の中尉だった。
戦後は、叙階を受け、伝道の仕事につき、朝鮮にいって中国軍に5年近く捕まる。
その後、モザンピークに派遣されるが、反乱軍に同情的すぎるとの理由で国外追放にあい、現在はいまにもくずれそうなこの町の教会の司祭をしている。
ファロンは、ダコスタ神父に殺人をおかしたことを告解。
わたしを利用したなと、ダコスタ神父は大いに怒るがどうにもならない。
告解の秘密は神聖であり、ほかにもらすことはできない。
ヒッチコック映画、「私は告白する」状態に。
クラスコ殺しの捜査のために、ミラー警視とフィッツジェラルド警部がダコスタ神父に協力をもとめにくるのだが、神父は話すことができない。
ミラー警視は、この殺人事件の背後にジャック・ミーアンがいることに気がついている。
この事件をきっかけにして、いつも法の網をくぐり抜けるミーアンを捕まえたいと思っているのだが、証拠がつかめない。
ジャック・ミーアンの本業は葬儀社の経営。
葬儀の職務にたいしては、大変熱心かつ真摯。
が、もちろん乱暴者で、不適切な行為をした部下の手を、作業台に打ちつけたりする。
にもかかわらず読書家で、ハイデガーやアウグスチヌスの「神の国」を読むという複雑な人物。
ファロンはミーアンのもとにでむき、仕事の結果を報告。
1500ポンドと、日曜の朝、船に乗ってから、あと2000ポンド支払われることになる。
ただし、目撃者であるダコスタ神父も消すようにとミーアン。
この依頼をファロンは断る。
日曜日まで、ファロンはどこかに隠れていなくてはいけない。
そこで、ミーアンの口利きで、元娼婦のジェニー・フォックスの家に厄介になることに―――。
このあたりまでが、本書の3分の1くらい。
元IRAのガンマンという設定は、「サンタマリア特命隊」の主人公エメット・ケオーを思いださせる。
スクールバスを爆破したなどという負い目をもつところも同様。
音楽的才能をもつという点では、「暗殺のソロ」の主人公、ジョン・ミカリにつながる設定といえるだろう。
登場人物の各資質を少しずつずらしながら再利用し、作風を洗練させていったヒギンズ作品の軌跡がうかがえる。
神父が主要な登場人物である点も、「サンタマリア特命隊」と似ている。
ヒギンズ作品には神父や修道女がよくでてくるけrど、ヒギンズはカトリックなんだろうか。
ダコスタ神父には、一緒に暮らすアンナという盲目の姪がいる。
(「ラス・カナイの要塞」には、主人公の盲目の妹が登場したなと、ここでも思い出す)
このあと、ミーアンに狙われたダコスタ神父とアンナを、ファロンが守るという展開になっていく。
この作品でも、キャラクターや作中の雰囲気を強く印象づけようとするあまり描写がくどくなるという、初期ヒギンズ作品のくせがでている。
登場人物の情報を小出しにするという、思わせぶりなだけで効果のない手法も依然として残っている。
また、場面、場面はよいのだけれど、場面と場面のつながりがよくない。
必然性がいまひとつたりない。
後期のヒギンズは、場面と場面のつながりだけで読ませるような作風になることを思うと、やはりまだ技量が落ちると感じてしまう。
けれども、全体としてはよくまとまっている。
欠点は欠点として、作風がひとつの完成にいたったと感じられる。
上記のような感想は、ヒギンズ作品をさんざん読んでから、この作品を読んだために感じたことかもしれない。
最初にこの本を読んでいたら、またちがっていたかもしれない。
読んだのは、2013年に刊行された、16刷。
新装版で、通常の文庫より1センチほど背が高いサイズのもの。
表紙には写真がつかわれている。
ヒギンズ作品というと、表紙はいつも生頼範義さんのイラストだという印象があるから、写真だったのは少々さみしい気持ちがしたものだ。
原題は“A Prayer for the Dying”
原書の刊行は1973年。
「鷲が舞い降りた」まで、あと2年。
訳者あとがきによれば、自作のなかで一番好きな作品はなにかという質問に対し、ヒギンズは本書、「死にゆく者への祈り」を挙げたとのこと。
3人称多視点。
ほとんど、ひとつの町を舞台にしたスモール・タウンもの。
天才的な銃の使い手にして、オルガンの名手、元IRA中尉マーチン・ファロンの物語だ。
冒頭、昔の仲間と警察と、双方から追われるファロンは、ロンドンの武器商人クリストゥをたずねる。
クリストゥは、ファロンがほしがっているパスポートとオーストラリアいきの船の切符、それから200ポンドを条件に仕事をもちかける。
標的は、ジャン・クラスコという男。
依頼主は、〈英国版アル・カポネ〉と呼ばれるジャック・ミーアン。
裏社会のもめごとの果ての依頼だ。
IRAの一員として活動中、ファロンは誤ってスクールバスを吹き飛ばしたことがある。
クリストゥがそのことに触れると、ファロンは激昂。
この依頼を断る。
しかし、クリストゥがファロンを特別保安部(スペシャル・ブランチ)に密告したことでゆき場をなくしたファロンは、この仕事を引き受けざるを得なくなる。
ファロンは依頼を達成すべく町にいき、司祭を装い墓参中のクラスコに近づき、射殺。
が、その場面をダコスタ神父にみられてしまう。
ダコスタ神父は、戦時中はSAS(特殊部隊)の中尉だった。
戦後は、叙階を受け、伝道の仕事につき、朝鮮にいって中国軍に5年近く捕まる。
その後、モザンピークに派遣されるが、反乱軍に同情的すぎるとの理由で国外追放にあい、現在はいまにもくずれそうなこの町の教会の司祭をしている。
ファロンは、ダコスタ神父に殺人をおかしたことを告解。
わたしを利用したなと、ダコスタ神父は大いに怒るがどうにもならない。
告解の秘密は神聖であり、ほかにもらすことはできない。
ヒッチコック映画、「私は告白する」状態に。
クラスコ殺しの捜査のために、ミラー警視とフィッツジェラルド警部がダコスタ神父に協力をもとめにくるのだが、神父は話すことができない。
ミラー警視は、この殺人事件の背後にジャック・ミーアンがいることに気がついている。
この事件をきっかけにして、いつも法の網をくぐり抜けるミーアンを捕まえたいと思っているのだが、証拠がつかめない。
ジャック・ミーアンの本業は葬儀社の経営。
葬儀の職務にたいしては、大変熱心かつ真摯。
が、もちろん乱暴者で、不適切な行為をした部下の手を、作業台に打ちつけたりする。
にもかかわらず読書家で、ハイデガーやアウグスチヌスの「神の国」を読むという複雑な人物。
ファロンはミーアンのもとにでむき、仕事の結果を報告。
1500ポンドと、日曜の朝、船に乗ってから、あと2000ポンド支払われることになる。
ただし、目撃者であるダコスタ神父も消すようにとミーアン。
この依頼をファロンは断る。
日曜日まで、ファロンはどこかに隠れていなくてはいけない。
そこで、ミーアンの口利きで、元娼婦のジェニー・フォックスの家に厄介になることに―――。
このあたりまでが、本書の3分の1くらい。
元IRAのガンマンという設定は、「サンタマリア特命隊」の主人公エメット・ケオーを思いださせる。
スクールバスを爆破したなどという負い目をもつところも同様。
音楽的才能をもつという点では、「暗殺のソロ」の主人公、ジョン・ミカリにつながる設定といえるだろう。
登場人物の各資質を少しずつずらしながら再利用し、作風を洗練させていったヒギンズ作品の軌跡がうかがえる。
神父が主要な登場人物である点も、「サンタマリア特命隊」と似ている。
ヒギンズ作品には神父や修道女がよくでてくるけrど、ヒギンズはカトリックなんだろうか。
ダコスタ神父には、一緒に暮らすアンナという盲目の姪がいる。
(「ラス・カナイの要塞」には、主人公の盲目の妹が登場したなと、ここでも思い出す)
このあと、ミーアンに狙われたダコスタ神父とアンナを、ファロンが守るという展開になっていく。
この作品でも、キャラクターや作中の雰囲気を強く印象づけようとするあまり描写がくどくなるという、初期ヒギンズ作品のくせがでている。
登場人物の情報を小出しにするという、思わせぶりなだけで効果のない手法も依然として残っている。
また、場面、場面はよいのだけれど、場面と場面のつながりがよくない。
必然性がいまひとつたりない。
後期のヒギンズは、場面と場面のつながりだけで読ませるような作風になることを思うと、やはりまだ技量が落ちると感じてしまう。
けれども、全体としてはよくまとまっている。
欠点は欠点として、作風がひとつの完成にいたったと感じられる。
上記のような感想は、ヒギンズ作品をさんざん読んでから、この作品を読んだために感じたことかもしれない。
最初にこの本を読んでいたら、またちがっていたかもしれない。
読んだのは、2013年に刊行された、16刷。
新装版で、通常の文庫より1センチほど背が高いサイズのもの。
表紙には写真がつかわれている。
ヒギンズ作品というと、表紙はいつも生頼範義さんのイラストだという印象があるから、写真だったのは少々さみしい気持ちがしたものだ。
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暗殺のソロ
「暗殺のソロ」(ジャック・ヒギンズ/著 井坂清/訳 早川書房 1986)
原題は“Solo”
原書の刊行は、1980年。
3人称。
主人公は、ジョン・ミカリ。
地中海にあるイドラ島の出身。
ミカリ家は、海運業で財を成した名家。
早くに父母を失くしたミカリは、祖母と家政婦の手で育てられる。
稀有の音楽的才能をもつミカリのために、一家はミカリが14歳のときニューヨークに移住。
が、17歳のとき、祖母が心臓の発作で倒れ亡くなる。
アテネ大学で道徳哲学の教授をしている祖父のディミトリアスのすすめで、ミカリはイドラ島にもどる。
じきショックから回復し、こんどはパリのコンセルヴァトワールに入り、ひたすらピアノに打ちこむ。
1960年2月22日。
あと2日で18歳の誕生日というとき、子どものころから家政婦をつとめていたカティナがひき逃げにあい亡くなる。
カティナをひいたトラックの運転手は、クロード・ギャレイ。
整備工を2人雇い、セーヌの近くで小さな自動車修理屋をしているろくでなし。
ミカリは復讐におもむく。
トラックのギアをニュートラルにし、ハンドブレーキをはずすことで、坂の下にある地下室ではたらいていたギャレイを押しつぶす。
その後、町をさまよい、売春婦を抱き、翌日、外人部隊に入隊。
全精力を訓練にそそぎ、ライフルと銃の名手となり、格闘技でも高い評価を得る。
アルジェリアで12カ月間戦闘に参加。
凄惨な白兵戦を体験する。
負傷した翌日、独立記念日となり、戦争は終了。
傷病のため除隊し、再びイドラ島にもどり、養生する。
充分回復すると、こんどはロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックに入学。
3年すごしたあと、ウィーンで1年学ぶ。
ヨークシャーのリーズ音楽祭に参加し3位に入賞。
ザルツブルグのピアノ・コンテストでは1位に。
以後、世界的なピアニストとして活躍。
が、祖父の死により転機が。
当初、祖父の死因はバルコニーから転落したためだと聞かされていたが、実際はそうではなかった。
軍事政権下で民主戦線のために活動していた祖父は、陸軍情報部により拷問を受け、殺されていたのだった。
今回もミカリは復讐を決意。
たまたま出会った外人部隊の旧友ジャロとともに、パリでの演奏旅行中、同じくパリにきていた陸軍情報部の政治部門責任者、ヨルゴス・ヴァシリコス大佐と、部下のアレコ軍曹およびペトラスキ軍曹を、CRS(共和国治安警備隊)のふりをして近づき射殺。
その後、ミカリはすぐコンサートをこなす。
コンサートは大成功。
一方、外人部隊の旧友ジャロは、ミカリの復讐を手伝ったことを気に病み、知りあいの刑事専門弁護士ドヴィルに相談をもちかける。
このドヴィルが、じつは25年も祖国をはなれているウクライナ人。
本名をニコライ・アシモフ大佐というGRU(赤軍情報部)の工作員だった。
西側に混乱をつくりだすことを任務とするドヴィルは、ミカリに接触。
ドヴィルの申し出を受け、以後ミカリは演奏旅行のあいまに暗殺をこなすピアニストとなる――。
ちなみに、このあと旧友のジャロは、ドヴィルとミカリにより殺されてしまう。
ミカリの経歴を語る部分は手際よく、じつに快調。
初期のヒギンズにはできなかったことだ。
ところで。
本作品は、冒頭、〈クレタ人〉と呼ばれる男が、リージェント・パーク近くの邸宅に住む、シオニストの衣料会社会長を暗殺する場面からはじまる。
この〈クレタ人〉とはミカリのこと。
暗殺時、カティナから教わったクレタ訛りのことばをつかったため、当局からそう名づけられた。
ミカリは〈クレタン・ラヴァー〉とも呼ばれており、それは性にめっぽう強く、暗殺時、障害となった女性と親密になることで問題をやりすごしたりしたためだ。
で、冒頭。
暗殺をすませたミカリは、自動車での逃走中、自転車をはね、乗っていた少女を殺してしまう。
少女の父親は、エイサー・モーガンといって、英陸軍パラシュート連隊の大佐だった。
モーガンは、ウェールズの炭鉱夫の息子。
軍隊に入隊し、第2次大戦では空挺隊員に。
パレスチナでは都市ゲリラを経験。
朝鮮では中共軍に捕まり、1年間抑留される。
帰国してから、毛沢東をしょっちゅう引用した革命戦争の新しい概念についての論文を発表する。
この、朝鮮で抑留されたあと、毛沢東を引用する論文を書いたという経歴は、「非情の日」の主人公、サイモン・ヴォーンとそっくり。
作者は少々手を抜いているようだ。
元妻のヘレンは、ヒギンズ作品にたびたび登場する絵を描く女性。
別れた理由は、モーガンが戦争に夢中で、家庭をかえりみないため。
すでに演奏旅行にあわせて、世界各国でイデオロギーの別なく、同じ手口で要人暗殺をくり返していたミカリは、各国治安当局の耳目をあつめていた。
モーガンは、英国秘密情報部、DI5のファーガスン准将によるコントロールをうけながら、独自にミカリを追っていく。
ここに、暗殺者ミカリと、ミカリを追うモーガンという図式ができた。
そこに、キャサリン・ライリーという女性がからんでくる。
キャサリンはアメリカ人。
父はハリウッドの脚本家だったが、赤狩りのためハリウッドをはなれ、スクリプト・ドクターとして生計を立てる。
母は早くに亡くなった。
キャサリン自身は心理学を専攻。
ケンブリッジで博士号を取得。
専門はテロリズム。
異性との関係に問題をかかえていて、父が亡くなると、特別研究員としてケンブリッジに勤めるように。
こんなキャサリンに、ミカリが接触してくる。
というのも、フランクフルトで東ドイツの大臣を暗殺したさい、親密となった女性をキャサリンが面接したからだ。
ミカリはキャサリンと親しくなる。
そして、彼女がなにも知らないと確信を得る。
以来、ミカリとキャサリンは恋仲のように。
また、キャサリンがテロリズムの専門家であるため、モーガンもキャサリンに接触してくる。
というわけで、キャサリンを中心に、互いに相手を知らない三角関係が成立。
ミカリとキャサリンとモーガンは、もっている情報がそれぞれちがう。
ストーリーが進行するにつれ、その情報がたがいに浸透していく。
それが、困惑や疑惑や行動を生みだしていく。
ミカリにくらべると、モーガンの扱いはいささか粗い。
いままでのヒギンズ作品の登場人物をつぎはぎして、いままでの作品の枠内でうごかしているような印象。
それでも、ミカリとの対決シーンは盛り上げる。
最初の、イドラ島での対決のさい、きみは気違いだとモーガンがいうと、ミカリはこたえる。
《「どうして? 以前、ぼくは軍服を着て同じことをやっていたが、それで勲章をもらった。あなたの立場もそっくり同じだ。あなたが鏡をのぞけば、ぼくが映っているだろう」》
2度目の、そして最後の対決ももちろんある。
場所はアルバート・ホール。
大いに盛り上げる。
それから、細かいことだけれど。
本書には、ミカリが飲むクルーグというシャンパンがでてくる。
これは、のちにヒギンズ作品の登場人物が愛飲するグリュッグのことだろうか。
また、ヒギンズの登場人物はなぜかむやみと雨が好きなのだが、雨が好きなミカリはそのはしりかもしれない。
原題は“Solo”
原書の刊行は、1980年。
3人称。
主人公は、ジョン・ミカリ。
地中海にあるイドラ島の出身。
ミカリ家は、海運業で財を成した名家。
早くに父母を失くしたミカリは、祖母と家政婦の手で育てられる。
稀有の音楽的才能をもつミカリのために、一家はミカリが14歳のときニューヨークに移住。
が、17歳のとき、祖母が心臓の発作で倒れ亡くなる。
アテネ大学で道徳哲学の教授をしている祖父のディミトリアスのすすめで、ミカリはイドラ島にもどる。
じきショックから回復し、こんどはパリのコンセルヴァトワールに入り、ひたすらピアノに打ちこむ。
1960年2月22日。
あと2日で18歳の誕生日というとき、子どものころから家政婦をつとめていたカティナがひき逃げにあい亡くなる。
カティナをひいたトラックの運転手は、クロード・ギャレイ。
整備工を2人雇い、セーヌの近くで小さな自動車修理屋をしているろくでなし。
ミカリは復讐におもむく。
トラックのギアをニュートラルにし、ハンドブレーキをはずすことで、坂の下にある地下室ではたらいていたギャレイを押しつぶす。
その後、町をさまよい、売春婦を抱き、翌日、外人部隊に入隊。
全精力を訓練にそそぎ、ライフルと銃の名手となり、格闘技でも高い評価を得る。
アルジェリアで12カ月間戦闘に参加。
凄惨な白兵戦を体験する。
負傷した翌日、独立記念日となり、戦争は終了。
傷病のため除隊し、再びイドラ島にもどり、養生する。
充分回復すると、こんどはロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックに入学。
3年すごしたあと、ウィーンで1年学ぶ。
ヨークシャーのリーズ音楽祭に参加し3位に入賞。
ザルツブルグのピアノ・コンテストでは1位に。
以後、世界的なピアニストとして活躍。
が、祖父の死により転機が。
当初、祖父の死因はバルコニーから転落したためだと聞かされていたが、実際はそうではなかった。
軍事政権下で民主戦線のために活動していた祖父は、陸軍情報部により拷問を受け、殺されていたのだった。
今回もミカリは復讐を決意。
たまたま出会った外人部隊の旧友ジャロとともに、パリでの演奏旅行中、同じくパリにきていた陸軍情報部の政治部門責任者、ヨルゴス・ヴァシリコス大佐と、部下のアレコ軍曹およびペトラスキ軍曹を、CRS(共和国治安警備隊)のふりをして近づき射殺。
その後、ミカリはすぐコンサートをこなす。
コンサートは大成功。
一方、外人部隊の旧友ジャロは、ミカリの復讐を手伝ったことを気に病み、知りあいの刑事専門弁護士ドヴィルに相談をもちかける。
このドヴィルが、じつは25年も祖国をはなれているウクライナ人。
本名をニコライ・アシモフ大佐というGRU(赤軍情報部)の工作員だった。
西側に混乱をつくりだすことを任務とするドヴィルは、ミカリに接触。
ドヴィルの申し出を受け、以後ミカリは演奏旅行のあいまに暗殺をこなすピアニストとなる――。
ちなみに、このあと旧友のジャロは、ドヴィルとミカリにより殺されてしまう。
ミカリの経歴を語る部分は手際よく、じつに快調。
初期のヒギンズにはできなかったことだ。
ところで。
本作品は、冒頭、〈クレタ人〉と呼ばれる男が、リージェント・パーク近くの邸宅に住む、シオニストの衣料会社会長を暗殺する場面からはじまる。
この〈クレタ人〉とはミカリのこと。
暗殺時、カティナから教わったクレタ訛りのことばをつかったため、当局からそう名づけられた。
ミカリは〈クレタン・ラヴァー〉とも呼ばれており、それは性にめっぽう強く、暗殺時、障害となった女性と親密になることで問題をやりすごしたりしたためだ。
で、冒頭。
暗殺をすませたミカリは、自動車での逃走中、自転車をはね、乗っていた少女を殺してしまう。
少女の父親は、エイサー・モーガンといって、英陸軍パラシュート連隊の大佐だった。
モーガンは、ウェールズの炭鉱夫の息子。
軍隊に入隊し、第2次大戦では空挺隊員に。
パレスチナでは都市ゲリラを経験。
朝鮮では中共軍に捕まり、1年間抑留される。
帰国してから、毛沢東をしょっちゅう引用した革命戦争の新しい概念についての論文を発表する。
この、朝鮮で抑留されたあと、毛沢東を引用する論文を書いたという経歴は、「非情の日」の主人公、サイモン・ヴォーンとそっくり。
作者は少々手を抜いているようだ。
元妻のヘレンは、ヒギンズ作品にたびたび登場する絵を描く女性。
別れた理由は、モーガンが戦争に夢中で、家庭をかえりみないため。
すでに演奏旅行にあわせて、世界各国でイデオロギーの別なく、同じ手口で要人暗殺をくり返していたミカリは、各国治安当局の耳目をあつめていた。
モーガンは、英国秘密情報部、DI5のファーガスン准将によるコントロールをうけながら、独自にミカリを追っていく。
ここに、暗殺者ミカリと、ミカリを追うモーガンという図式ができた。
そこに、キャサリン・ライリーという女性がからんでくる。
キャサリンはアメリカ人。
父はハリウッドの脚本家だったが、赤狩りのためハリウッドをはなれ、スクリプト・ドクターとして生計を立てる。
母は早くに亡くなった。
キャサリン自身は心理学を専攻。
ケンブリッジで博士号を取得。
専門はテロリズム。
異性との関係に問題をかかえていて、父が亡くなると、特別研究員としてケンブリッジに勤めるように。
こんなキャサリンに、ミカリが接触してくる。
というのも、フランクフルトで東ドイツの大臣を暗殺したさい、親密となった女性をキャサリンが面接したからだ。
ミカリはキャサリンと親しくなる。
そして、彼女がなにも知らないと確信を得る。
以来、ミカリとキャサリンは恋仲のように。
また、キャサリンがテロリズムの専門家であるため、モーガンもキャサリンに接触してくる。
というわけで、キャサリンを中心に、互いに相手を知らない三角関係が成立。
ミカリとキャサリンとモーガンは、もっている情報がそれぞれちがう。
ストーリーが進行するにつれ、その情報がたがいに浸透していく。
それが、困惑や疑惑や行動を生みだしていく。
ミカリにくらべると、モーガンの扱いはいささか粗い。
いままでのヒギンズ作品の登場人物をつぎはぎして、いままでの作品の枠内でうごかしているような印象。
それでも、ミカリとの対決シーンは盛り上げる。
最初の、イドラ島での対決のさい、きみは気違いだとモーガンがいうと、ミカリはこたえる。
《「どうして? 以前、ぼくは軍服を着て同じことをやっていたが、それで勲章をもらった。あなたの立場もそっくり同じだ。あなたが鏡をのぞけば、ぼくが映っているだろう」》
2度目の、そして最後の対決ももちろんある。
場所はアルバート・ホール。
大いに盛り上げる。
それから、細かいことだけれど。
本書には、ミカリが飲むクルーグというシャンパンがでてくる。
これは、のちにヒギンズ作品の登場人物が愛飲するグリュッグのことだろうか。
また、ヒギンズの登場人物はなぜかむやみと雨が好きなのだが、雨が好きなミカリはそのはしりかもしれない。
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虎の潜む嶺
「虎の潜む嶺」(ジャック・ヒギンズ/著 伏見威蕃/訳 早川書房 1998)
原題は“Year of the Tiger”
原書の刊行は1996年。
が、もともと本書は1963年に刊行されたものだという。
ヒギンズは、マーティン・ファロン名義で、英国情報部員シャヴァスが主人公のシリーズを6作書いており、本書はそのうちの1冊だった。
その旧作に加筆をほどこし、タイトルは元のままで、1996年に上梓したのがこの本――と、以上は訳者あとがきから。
というわけで、本書はシャヴァスものの1冊。
加筆されたのは、おもにプロローグとエピローグのよう。
旧作を、1995年現在のプロローグとエピローグで挟み、本編をフラッシュバックにすることで、面目を新たにしている。
人称は、3人称シャヴァス視点。
で、まず1995年のロンドン。
シャヴァスは65歳。
一週間前にナイト爵に叙されたばかり。
そして、あす、勤め先である英国秘密情報部の一部門、ビューロー(局)を引退する予定。
シャヴァスはこの職場で、20年現場工作員をつとめ、20年上官イアン・モンクリーフ卿の後任をつとめたのだ。
が、シャヴァスの経歴を惜しむメイジャー首相が、じきじきに残留をもとめてきて、シャヴァスは困惑する。
ところで、この3日というもの、何者かがシャヴァスの住まいをうかがっていた。
メイジャー首相に会った帰り、暴漢に襲われていたその“何者”を、シャヴァスは助ける。
“何者”はチベット人の僧侶。
名前は、ラマ・モロ。
この3日、シャヴァスの家のまわりを俳諧していたのは、シャヴァスに会う機会をうかがっていたため。
ドアをノックするだけでは追い返されるだろうと思っていた。
シャヴァスは、モロに夕食をとらせ、話を聞く。
モロは、スコットランドのグレアン・アリストンにあるチベット仏教寺院で、図書館員としてはたらいている。
シャヴァスが、1959年3月の、ダライ・ラマ猊下のチベット脱出にかかわっていたのはすっかり承知していると、モロ。
しかし、3年後の1962年、チベットのチャングという町に出向き、当地の医療伝道団で長年にわたりはたらいていた、偉大な数学者カール・ホフナーの出国にまつわる事情は知り得ていない。
モロは、直接シャヴァスにその話を聞きにきたのだった。
というわけで、シャヴァスが当時のことを語るとなってフラッシュバック。
舞台は1959年のチベット。
もともとは、この章がプロローグだったのだろう。
さて、ダライ・ラマの一行は、現在インド国境に向かっている。
国境を越えたところにはインド空軍のパイロットが待機していて、ダライ・ラマをデリーまではこぶ予定。
が、中共軍がダライ・ラマ一向に追いつかんとしている。
中共軍はまだチョロ峡谷を超えてはいない。
チョロ峡谷には木の橋がかかっていて、谷を越えるにはそこを通るしかない。
インドは中共軍と戦争状態にあるわけではないから、飛行機でいって橋を爆破してくるというわけにはいかない。
だいたい、航空機で偵察すること自体が完全な違法行為だ。
そこで、ダライ・ラマ一行の先駆けとして、ひと足早く国境検問所にきていたシャヴァスが、橋を爆破しにいくことに。
違法行為ついでに、飛行機で現地にはこんでもらい落下傘降下。
さらに飛行機は、ダライ・ラマ一行に通信筒を落下し、現状を連絡。
随行しているパターン族のハミド少佐がシャヴァスの応援に向かう。
降下したシャヴァスは、中共軍と戦闘しつつ、プラスティック爆弾により橋を爆破。
ハミドも駆けつけ、中共軍を壊滅させたあと、ハミドが用意してくれた馬に乗り、現場を去る。
舞台は変わり、デリーの英国大使館。
一行はぶじインドに到着したのだ。
デリーの重要人物は皆、ダライ・ラマに拝謁するためにあつまっている。
なかにひとり中国人の姿が。
貧民向けの診療所をいとなんでいる、台湾の国民党員、ドクター・張(チャン)。
が、実際はちがう。
あの男の写真を、先月ロンドンのSIS(秘密情報部)の、中国課のファイルでみたと、シャヴァスの上司であるモンクリーフ卿がいう。
休憩のため庭にでたダライ・ラマのあとを追うと、ちょうど張がダライ・ラマに拳銃を突きつけているところ。
ハミドが張に飛びかかり、なんとかことなきを得る。
このプロローグは、大変テンポよく進む。
初期のヒギンズにこの芸当ができたかどうか。
このあたりにも、手を加えたのかどうかが気になるところだ。
次は、1962年のロンドン。
ここ2ヶ月ほど事務仕事ばかりしていたシャヴァスのもとに、待望の任務が舞いこむ。
10日前、若いチベット貴族がカシミールの首都スリナガルに到着した。
現地の工作員ファーガスンが、身柄を保護。
そのチベット貴族は、クレイグ教授にあてたカール・ホフナーの手紙をもっていた。
医師であり数学者であるホフナー博士は、人生をチベットに捧げ、現在カシミールから国境を越えて150マイルほどのところにあるチャングという小さな町で軟禁状態にある。
博士は、空間からエネルギーをとりだすアイデアをもっており、それを元学友のクレイグ教授に手紙でつたえてきたのだった。
このアイデアをもってすれば、現在ソ連が実験しているイオン駆動エンジンに対抗できる。
なんとかして、ホフナーを奪還しなければいけない。
そこで計画。
チベットに入って50マイルほどのところに、日土(ルト)という町がある。
そのあたりは、中国の支配はゆるいらしい。
日土の郊外にある寺は、抵抗運動の中心になっている。
カシミールから飛行機でラダーク山脈を越え、日土にいき、そこからチャングに向かう。
若いチベット貴族も、それに同行する。
ホフナー博士に会ったとき、シャヴァスのことをどう納得してもらうかという問題もある。
クレイグ教授は、過去に博士とのあいだにあったできごとをシャヴァスに話す。
クレイグ教授と博士は、同じ女性を好きになったことがあった。
2人はコインで順番を決め、彼女に話をしにいった。
このいきさつは、2人しか知らないことだ。
シャヴァスは現地へ。
スリナガルで、現地工作員のファーガスンと接触。
ファーガスンの手配で、元RAF(英国空軍)少佐のポーランド人、ケレンスキイとも会い、出発の日時を決定。
いま難民の野営地にいる、チベットから脱出してきた若い貴族のジョロにも会いにいく。
ジョロは、歳は30ほど。
ホフナー博士の配慮で、デリーのミッションスクールにいき3年間勉強した。
博士をたいそう敬っている。
ジョロがカシミールにやってきたのは、中共軍とたたかう武器を買いつけるため。
武器のほうはファーガスンが用意して、シャヴァスと一緒に、飛行機でチベットに運びこむ予定。
シャヴァスはジョロから現地の様子を聞く。
日土近くのヤルン寺(ゴンバ)には大勢仲間がいる。
僧侶たちができるだけ援助をしてくれるはず。
ホフナー博士は、チャングの家で暮らしている。
体調は良くない。
町からでることを禁じられているが、体力のない老人だからどこにもいけない。
そのため、見張りはそういない。
そこがつけ目になる。
地域全体の指揮官は、李(リー)大佐。
博士の家には、ひとり女性がいる。
カーチャ・ストラノワという名前で、母親は中国人、父親はロシア人。
両親ともに亡くなり、ホフナー博士が引きとった。
ひょっとすると、この女が厄介かもしれないと、ジョロ。
しかし、前途に不安のない任務などない。
その夜、シャヴァスはジョロとともに、ケレンスキイの操縦するビーヴァー機でチベット領内へ――。
この作品は、「鋼の虎」によく似ている。
舞台はともにチベットだし、インドから中国側に潜入し、要人を連れて脱出するというストーリーも同じ。
「鋼の虎」には、パターン人のハーミト少佐なる人物が登場するし、英国のエージェントであるファーガスンもあらわれる。
もっとも、本書のファーガスンは足を悪くしているけれど、「鋼の虎」のファーガスンにはそんな記述はみられない。
「虎の嶺」の最初の刊行は1963年で、「鋼の虎」の刊行は1966年。
「虎の嶺」の舞台をつかいまわして、「鋼の虎」を書いたのは、まず間違いないだろう。
加えて冒頭に記したように、「虎の嶺」は1996年にリメイクされている。
3度もつかいまわしているというのは、商売上手なのか、舞台に愛着があるのか、あるいはその両方だろうか。
リメイクされる前の「虎の嶺」がどんな作品なのかわからないけれど、本書を読み進んでいくうちに、プロローグとエピローグだけではなく、作品全体に手が入れられているような気がしてきた。
さりげなく書かれた描写がそう感じさせる。
たとえば、さきほどふれた、ファーガスンの足についての記述。
《「ちかごろ、脚のぐあいは?」
ファーガスンは、肩をすくめた。「まあこんなものだろう。いまもときたま、まだあるような気がするが、何年もそういう錯覚が残ることがあるそうだ」》
これだけで、ファーガスンの足の状態が示唆される。
まったく上手いものだ。
このあとシャヴァスはチベットに潜入。
しかし、もちろん計画通りにはいかない。
シャヴァスは、ピンボールのボールのように小突き回される。
それでも、運良く目的地にたどり着き、ホフナー博士と接触する。
シャヴァスはクレイグ教授から聞いた話をして、ホフナー博士に、自分の正体に気づいてもらう。
この場面もまた、さりげなくて素晴らしい。
ヒギンズの初期作品のなかでは、シャヴァス物は読むのが楽だ。
それは、シャヴァスがエージェントであるためではないだろうか。
ヒギンズの初期作品によくあらわれる、辺境で苦闘するような人物は、どうしても主張が強く、そのため作品がうるさくなってしまう。
でも、エージェントは任務を遂行すればいい。
アイデンティティを主張する必要がない。
これが、シャヴァス物の読みやすさの理由ではないかと思う。
原題は“Year of the Tiger”
原書の刊行は1996年。
が、もともと本書は1963年に刊行されたものだという。
ヒギンズは、マーティン・ファロン名義で、英国情報部員シャヴァスが主人公のシリーズを6作書いており、本書はそのうちの1冊だった。
その旧作に加筆をほどこし、タイトルは元のままで、1996年に上梓したのがこの本――と、以上は訳者あとがきから。
というわけで、本書はシャヴァスものの1冊。
加筆されたのは、おもにプロローグとエピローグのよう。
旧作を、1995年現在のプロローグとエピローグで挟み、本編をフラッシュバックにすることで、面目を新たにしている。
人称は、3人称シャヴァス視点。
で、まず1995年のロンドン。
シャヴァスは65歳。
一週間前にナイト爵に叙されたばかり。
そして、あす、勤め先である英国秘密情報部の一部門、ビューロー(局)を引退する予定。
シャヴァスはこの職場で、20年現場工作員をつとめ、20年上官イアン・モンクリーフ卿の後任をつとめたのだ。
が、シャヴァスの経歴を惜しむメイジャー首相が、じきじきに残留をもとめてきて、シャヴァスは困惑する。
ところで、この3日というもの、何者かがシャヴァスの住まいをうかがっていた。
メイジャー首相に会った帰り、暴漢に襲われていたその“何者”を、シャヴァスは助ける。
“何者”はチベット人の僧侶。
名前は、ラマ・モロ。
この3日、シャヴァスの家のまわりを俳諧していたのは、シャヴァスに会う機会をうかがっていたため。
ドアをノックするだけでは追い返されるだろうと思っていた。
シャヴァスは、モロに夕食をとらせ、話を聞く。
モロは、スコットランドのグレアン・アリストンにあるチベット仏教寺院で、図書館員としてはたらいている。
シャヴァスが、1959年3月の、ダライ・ラマ猊下のチベット脱出にかかわっていたのはすっかり承知していると、モロ。
しかし、3年後の1962年、チベットのチャングという町に出向き、当地の医療伝道団で長年にわたりはたらいていた、偉大な数学者カール・ホフナーの出国にまつわる事情は知り得ていない。
モロは、直接シャヴァスにその話を聞きにきたのだった。
というわけで、シャヴァスが当時のことを語るとなってフラッシュバック。
舞台は1959年のチベット。
もともとは、この章がプロローグだったのだろう。
さて、ダライ・ラマの一行は、現在インド国境に向かっている。
国境を越えたところにはインド空軍のパイロットが待機していて、ダライ・ラマをデリーまではこぶ予定。
が、中共軍がダライ・ラマ一向に追いつかんとしている。
中共軍はまだチョロ峡谷を超えてはいない。
チョロ峡谷には木の橋がかかっていて、谷を越えるにはそこを通るしかない。
インドは中共軍と戦争状態にあるわけではないから、飛行機でいって橋を爆破してくるというわけにはいかない。
だいたい、航空機で偵察すること自体が完全な違法行為だ。
そこで、ダライ・ラマ一行の先駆けとして、ひと足早く国境検問所にきていたシャヴァスが、橋を爆破しにいくことに。
違法行為ついでに、飛行機で現地にはこんでもらい落下傘降下。
さらに飛行機は、ダライ・ラマ一行に通信筒を落下し、現状を連絡。
随行しているパターン族のハミド少佐がシャヴァスの応援に向かう。
降下したシャヴァスは、中共軍と戦闘しつつ、プラスティック爆弾により橋を爆破。
ハミドも駆けつけ、中共軍を壊滅させたあと、ハミドが用意してくれた馬に乗り、現場を去る。
舞台は変わり、デリーの英国大使館。
一行はぶじインドに到着したのだ。
デリーの重要人物は皆、ダライ・ラマに拝謁するためにあつまっている。
なかにひとり中国人の姿が。
貧民向けの診療所をいとなんでいる、台湾の国民党員、ドクター・張(チャン)。
が、実際はちがう。
あの男の写真を、先月ロンドンのSIS(秘密情報部)の、中国課のファイルでみたと、シャヴァスの上司であるモンクリーフ卿がいう。
休憩のため庭にでたダライ・ラマのあとを追うと、ちょうど張がダライ・ラマに拳銃を突きつけているところ。
ハミドが張に飛びかかり、なんとかことなきを得る。
このプロローグは、大変テンポよく進む。
初期のヒギンズにこの芸当ができたかどうか。
このあたりにも、手を加えたのかどうかが気になるところだ。
次は、1962年のロンドン。
ここ2ヶ月ほど事務仕事ばかりしていたシャヴァスのもとに、待望の任務が舞いこむ。
10日前、若いチベット貴族がカシミールの首都スリナガルに到着した。
現地の工作員ファーガスンが、身柄を保護。
そのチベット貴族は、クレイグ教授にあてたカール・ホフナーの手紙をもっていた。
医師であり数学者であるホフナー博士は、人生をチベットに捧げ、現在カシミールから国境を越えて150マイルほどのところにあるチャングという小さな町で軟禁状態にある。
博士は、空間からエネルギーをとりだすアイデアをもっており、それを元学友のクレイグ教授に手紙でつたえてきたのだった。
このアイデアをもってすれば、現在ソ連が実験しているイオン駆動エンジンに対抗できる。
なんとかして、ホフナーを奪還しなければいけない。
そこで計画。
チベットに入って50マイルほどのところに、日土(ルト)という町がある。
そのあたりは、中国の支配はゆるいらしい。
日土の郊外にある寺は、抵抗運動の中心になっている。
カシミールから飛行機でラダーク山脈を越え、日土にいき、そこからチャングに向かう。
若いチベット貴族も、それに同行する。
ホフナー博士に会ったとき、シャヴァスのことをどう納得してもらうかという問題もある。
クレイグ教授は、過去に博士とのあいだにあったできごとをシャヴァスに話す。
クレイグ教授と博士は、同じ女性を好きになったことがあった。
2人はコインで順番を決め、彼女に話をしにいった。
このいきさつは、2人しか知らないことだ。
シャヴァスは現地へ。
スリナガルで、現地工作員のファーガスンと接触。
ファーガスンの手配で、元RAF(英国空軍)少佐のポーランド人、ケレンスキイとも会い、出発の日時を決定。
いま難民の野営地にいる、チベットから脱出してきた若い貴族のジョロにも会いにいく。
ジョロは、歳は30ほど。
ホフナー博士の配慮で、デリーのミッションスクールにいき3年間勉強した。
博士をたいそう敬っている。
ジョロがカシミールにやってきたのは、中共軍とたたかう武器を買いつけるため。
武器のほうはファーガスンが用意して、シャヴァスと一緒に、飛行機でチベットに運びこむ予定。
シャヴァスはジョロから現地の様子を聞く。
日土近くのヤルン寺(ゴンバ)には大勢仲間がいる。
僧侶たちができるだけ援助をしてくれるはず。
ホフナー博士は、チャングの家で暮らしている。
体調は良くない。
町からでることを禁じられているが、体力のない老人だからどこにもいけない。
そのため、見張りはそういない。
そこがつけ目になる。
地域全体の指揮官は、李(リー)大佐。
博士の家には、ひとり女性がいる。
カーチャ・ストラノワという名前で、母親は中国人、父親はロシア人。
両親ともに亡くなり、ホフナー博士が引きとった。
ひょっとすると、この女が厄介かもしれないと、ジョロ。
しかし、前途に不安のない任務などない。
その夜、シャヴァスはジョロとともに、ケレンスキイの操縦するビーヴァー機でチベット領内へ――。
この作品は、「鋼の虎」によく似ている。
舞台はともにチベットだし、インドから中国側に潜入し、要人を連れて脱出するというストーリーも同じ。
「鋼の虎」には、パターン人のハーミト少佐なる人物が登場するし、英国のエージェントであるファーガスンもあらわれる。
もっとも、本書のファーガスンは足を悪くしているけれど、「鋼の虎」のファーガスンにはそんな記述はみられない。
「虎の嶺」の最初の刊行は1963年で、「鋼の虎」の刊行は1966年。
「虎の嶺」の舞台をつかいまわして、「鋼の虎」を書いたのは、まず間違いないだろう。
加えて冒頭に記したように、「虎の嶺」は1996年にリメイクされている。
3度もつかいまわしているというのは、商売上手なのか、舞台に愛着があるのか、あるいはその両方だろうか。
リメイクされる前の「虎の嶺」がどんな作品なのかわからないけれど、本書を読み進んでいくうちに、プロローグとエピローグだけではなく、作品全体に手が入れられているような気がしてきた。
さりげなく書かれた描写がそう感じさせる。
たとえば、さきほどふれた、ファーガスンの足についての記述。
《「ちかごろ、脚のぐあいは?」
ファーガスンは、肩をすくめた。「まあこんなものだろう。いまもときたま、まだあるような気がするが、何年もそういう錯覚が残ることがあるそうだ」》
これだけで、ファーガスンの足の状態が示唆される。
まったく上手いものだ。
このあとシャヴァスはチベットに潜入。
しかし、もちろん計画通りにはいかない。
シャヴァスは、ピンボールのボールのように小突き回される。
それでも、運良く目的地にたどり着き、ホフナー博士と接触する。
シャヴァスはクレイグ教授から聞いた話をして、ホフナー博士に、自分の正体に気づいてもらう。
この場面もまた、さりげなくて素晴らしい。
ヒギンズの初期作品のなかでは、シャヴァス物は読むのが楽だ。
それは、シャヴァスがエージェントであるためではないだろうか。
ヒギンズの初期作品によくあらわれる、辺境で苦闘するような人物は、どうしても主張が強く、そのため作品がうるさくなってしまう。
でも、エージェントは任務を遂行すればいい。
アイデンティティを主張する必要がない。
これが、シャヴァス物の読みやすさの理由ではないかと思う。
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