銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件

「銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件」(アンドリュー・カウフマン/著 田内志文/訳 東京創元社 2013)

装丁とタイトルが、まず目を引く。
真っ黄色の表紙に、黒い文字で書かれたタイトル。
本の背はタイトルだけでいっぱいで、棚にあると否が応でも目にとまる。
カバーをはずした本体も、見返しも、同様にまぶしい黄色だ。
装丁は、森田恭行。

それから、タイトル。
原題は、「The Tiny Wife」だということを考えると、見事なタイトルだ。
全体に、本書には才走った感があり、その印象は内容に触れても続いていく。
いや、内容に才気があるから、それが外にでて、こんな本になったのか。

作者紹介によれば、アンドリュー・カウフマンはカナダの作家。
本書が3作目で、日本語訳されたのは、これがはじめてとのこと。
本書に散りばめられた影絵のようなイラストは、イングランドに住む絵本作家、トム・パーシバルによるものとのこと。

本書は、〈僕〉の1人称。
冒頭、まずタイトル通りに銀行強盗があらわれる。
が、この強盗は金銭を要求しない。
拳銃をちらつかせながら、妙なものを要求する。
いま、あなたがもっているもので、もっとも思い入れのあるものを差しだしていただきたい。
そう、強盗はいう。

客と行員は一列に並ばせられる。
その先頭にいたのは、デイビット・ビショップ。
デイビットは、母からもらった腕時計をさしだす。
列の2番目、ジェナ・ジェイコブがさしだしたのは、子どもの写真。

3番目は〈僕〉の妻。
数学を愛する〈僕〉の妻は、微分積分の授業でつかっていた電卓をさしだす。
高校2年生のときのこの授業で、席が隣同士だった〈僕〉と〈僕〉の妻は知りあったのだった。

それから、ダニエル・ジェームズは妻の両親の結婚写真。
ジェニファー・レイオンは、すっかり読み古したカミュの「異邦人」。
列の一番後ろにいた、昇進したての副支店長、サム・リビングストンは、最新の給料明細。

ひと通り、思い入れのある品物を頂戴すると、強盗は魂の話をはじめる。
魂はつねに回復させなければならない。
運転しながら充電する、車のバッテリーのように。
うんぬん。

また、あなたがたの魂の51%をもっていくと、強盗はいう。
そのせいで、あなたがたの身に一風変わったことが起きる。
あなたがたは、自身で失った51%の魂を回復させなければいけない。
でなければ、命を落とすことになる。
そういって、強盗は去る。

強盗がいった通り、このとき居合わせたひとびとに、奇妙なことが起こる。
列の7番目にいた、27歳のバス運転手ティモシー・ブレイカーが強盗にさしだしたのは、2年間つきあった恋人に突き返された婚約指輪。
そして、事件から6時間後。
ティモシーが運転していたバスに、例の元恋人が乗ってくる。
元恋人のナンシーは、ティモシーの胸に手を突っこみ、心臓をつかみだすと、バスから降り、マスタングに乗って走り去る。
ナンシーと自身の心臓を追って、ティモシーは乗客を乗せたままバスを疾走させる――。

また、事件から3日後。
列の9番目にいたウィリアム・フィリップ刑事から、〈僕〉の妻に電話がかかってくる。
刑事は、事件後に起こった奇妙な出来事を〈僕〉の妻に教えてくれる。
たとえば、列の5番目にいた、妻の両親の結婚写真をさしだしたダニエル・ジェームズは、事件から2日後、靴をはこうとしたところ、靴ひもが次つぎと切れ、そして妻は死んでしまった。

列から2番目にいて、子どもの写真をさしだしたジェナ・ジェイコブは、からだがキャンディになり、子どもたちと夫にすっかり平らげられてしまった。

聖マシュー合同教会で開かれた、被害者の会合に参加した〈僕〉の妻は、さらにさまざまな話を聞く。
強盗の翌日、ジェニファー・レイオンは、自分の部屋で神を拾ったという。
恋人との別れに踏み切った自分の勇気をたたえるために、くるぶしのすぐ上にライオンのタトゥーを入れていたドーン・マイケルズは、事件から3日後、そのライオンのタトゥーが皮膚から抜けだし、自分に襲いかかるようになってしまったという。

そして、気がつくと〈僕〉の妻は、どんどん縮みはじめていて――。

という訳で。
本書はありえないことが次つぎと起こるシュールな作品だ。
そのわりに、とても読みやすいのは、展開が早くたくみなためだろう。
冒頭の、銀行強盗の場面から、奇妙な出来事を知らされる場面まで、じつに無駄がない。
この読みやすさは特筆されるべきことだ。


シュールな作品がむつかしいのは、作者が力をもちすぎてしまうことだろう。
作者が、無理に話をこしらえてしまうと、読者ははなれていってしまう。
また、あんまり寓意が透けてみえるのもよくない。
読者は、自分で作品の意味をみつけたい――花をもたせてもらいたいのだ。

しかし、寓意を押しつけずに、作者のひとりよがりにもならず、生き生きとしたシュールな作品を書くのは、途方もなくむつかしい。
それが、長編であればなおさら。

その点、この作品はどうか。
ちょっと押しつけがましい感じがする。
寓意を読みとるように、つねにプレッシャーをかけられている感じがするところが、いささかうるさい。
このうるささは、全ての状況を把握している、銀行強盗から発するうるささでもあるだろう。

この本を読んだあと、マルセル・エーメの「クールな男」(マルセル・エイメ/著 露崎俊和/訳 福武書店 1990)を読んだ。
どこかで読んだなあと思いながら、全部読んでしまったのだけれど、この本の改訂版である「マルセル・エメ傑作短編集」(マルセル・エメ/著 露崎俊和/訳 中央公論新社 2005)を以前読んでいたのだった。
マルセル・エーメも、シュールな作品を書く名手だ。
ありえないことがどんどん進行し、登場人物は右往左往する。
が、全体の状況を把握している人物はひとりもいない。
読者は、右往左往する登場人物たちを、ただ面白がってみていればいい。
そこに、寓意を読みとっても、読みとらなくてもいい。
そこが、「銀行強盗―」とちがうところかなあと、読んでいて思ったことだった。


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昭和な街角

「昭和な町角」(火浦功/著 毎日新聞出版 2016)

本書は、火浦功の単行本未収録作品をあつめた、短編集。
まだ、こんなに未収録作品があったのかと驚く。
収録作は以下。

「ただのバカ一代」
「聞いた話」
「終わる日」
「アモルフの棲む街」
「花の遠山署シリーズ キャロル・ザ・ウェポン」
「明るい世紀末のすごし方 ブロークン・ハーティッド・シティ」
「STUDIO」
「発見された妻の日記 閉じこめられて」

「ただのバカ一代」は、たしか「奥様はマジ」(角川書店 1999)に収録されていたように記憶している。
そのときのタイトルは、「父カエル」ではなかったか。
いま手元に本がなくて確認できないけれど。

以降の7編は、単行本未収録作品。
「聞いた話」は、本書で3ページ。
ショートショートというより、小噺といった風。
七面鳥のバカさかげんについて語られている。

「終わる日」
この作品も短い。
本書で7ページ。
タイトル通り、学生の〈ぼく〉の視点から、世界が終わる前日を抒情的に書いたもの。
なにかヤングアダルト向きのアンソロジーにでも収録されたらいいと思う。

「アモルフの棲む街」
アメリカを舞台にした伝奇小説といったらいいか。
未完。

「花の遠山署シリーズ キャロル・ザ・ウェポン」
警察ものの一篇。
特徴のあるキャラクターが多数登場し、これからというところで中絶。
惜しい。

「明るい世紀末のすごし方 ブロークン・ハーティッド・シティ」
本書でもっとも分量が多く、ちゃんと完結している、まとまった作品。
三十代なかばの3人の男。
かれらがまだ若かったころ、一緒に遊んでいた直子という女性がいた。
が、直子は突然3人の前から姿を消す。

久しぶりに再会した3人は、直子のことを語りあう。
その後、3人のうちのひとり、映画の小道具係をしている香坂は、仕事ででかけた尾道で直子をみたと知らせてくる。
そこで、3人のうちのもうひとり、本編の主人公であるイラストレーターの克也は、仕事をほっぽりだして尾道に向かうのだが――。

ジャック・フィニィ風の作品といったらいいだろうか。
懐古趣味と、憧れの女性さがしというストーリーがうまく溶けあっている。
なにか手がかりがみつかったと思ったら、はぐらかされる、火浦作品にしてはめずらしく粘りのある感じも良かった。

「STUDIO」
作家が作品を書く様子を、映像作品の撮影風に書いた作品。
これは紹介が不可能だ。
実物をみてもらうしかない。
しかし、よくまあこんなことをするなあ。

「発見された妻の日記 閉じこめられて」
タイトル通り、妻の日記風の一篇。
カナダへスキー・ツアーにでかけた作家夫婦。
が、吹雪のなかでホテルに閉じこめられてしまい――。
見事にいいかげんなショートショートだ。

さて。
火浦功は、ものすごく変な語り口をもつ作家だ。
それについて、前にも書いたことがあるような気がするけれど、また書いておきたい。

まず、前提として。
火浦作品は、笑いの要素が多い。
本書では、「終わる日」と「アモルフの棲む街」以外がそう。
笑いの要素が多いというと、ユーモア小説を思い浮かべるかもしれないが、火浦作品はそれとはちがう。
語り口がちがうのだ。

一般的に小説は、語り手が、視点人物を通して物語を語るものだ。
視点人物が、ほかの登場人物やものごとにたいし、批評的なことばづかいをすることで笑いを得る。
たいていのユーモア小説は、このパターンだろう。

また、笑いをもとめる小説は、しばしば語り手と視点人物が分離する。
語り手が、登場人物にたいし批評的になり――つまりはツッコミを入れて――笑いをとる。
これも、よくあるパターン。

このパターンの場合、登場人物の行動なり言動なりを、語り手が指摘することで、はじめて笑いが起こる。
登場人物が、わざわざ笑いを狙って、なにかをいったりやったりすることはまずない。
ところが、火浦作品はそれをするのだ。

「発見された妻の日記」には、こういう一節がある。
(この作品の場合は、1人称なので、語り手と視点人物は一緒)
作家の奥さんが、ミミズがのたくったような字で書かれた作家の原稿をみて、こういう。

《「つまり、これは『シャイニング』のパロディだったのね」》

「これ」というのは、この作品をさしている。
登場人物が、自分が登場している作品について言及しているのだ。
誰に向かって言及しているかといえば、読者に向かってだ。
そして、そう言及しながらも、ストーリーは平然と進行していく。

作中で、叙述のレベルが変わる。
これが、火浦作品の不思議な語り口だ。
この芸は、できそうでできない。
やっても、たいていは失敗する。

ここで、漫画のことを思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。
漫画には、よく作中に作者が登場して、自作に言及して笑いをとるといった技法がある。
(余談だが、漫画と劇画のちがいは、作者が作中に登場するか否かで、おおざっぱに分けられる。これはたしか「漫画原論」(四方田犬彦/著 筑摩書房 1999)に書いてあったと思うけれど)

漫画は、こんな風に語り手が登場人物として登場しやすい。
が、同じことを小説でやるのは至難の業だ。

「明るい世紀末のすごし方」のなかで、3人組のうちの2人、克也と山岸が、おかしな店名について話す場面がある。
そこで、克也のセリフの末尾にこんな注釈がつけられる。

《「去年、長野のスキー場へ行った時に見たんだけど、旅館で『電気屋』ってのがあった」(筆者註=実話である)》

これも、漫画ではやりやすいだろう。
でも、小説ではどうだろうか。
さらに、この作品には作者と思しきSF作家も登場する。
こういうことをして、作品世界がこわれないというのは、じつに不思議なことだ。

「叙述のレベルを変える」という技法だけで書かれたような作品が、「STUDIO」。
作者は、「犬だった男」という小説を、さまざまなバリエーションで語り続ける。
映像作品の撮影風に書かれているこの作品のいいかたでは、「テイクを重ねていく」。
毎回、語るたびに、ページの外から――カメラの外からではなく――ストップがかかり、そのたびに作者は文句をいいながら、別の話をつくっていく。
そのうち、作者がいなくなる。
すると、字幕があらわれる。
字幕は、登場人物のように、読者に向かって語りはじめる。
くり返すけれど、よくまあこんな作品を書いたなあ。

作品の途中で、叙述のレベルを変えるのはむつかしい。
それをすると、語り手の信用が落ちる。
リアリティを失い、作品の底が抜ける。
いいかげんに書くというのは、むつかしいのだ。

作品世界を維持しながら、叙述のレベルを変えるにはどうしたらいいか。
そこで、語り手が登場人物化し、キャラクターは類型的で、場面場面はありきたり、随所に登場人物にたいしてツッコミを入れながら、それを非常にゆるい文章で記す――という作風が生きてくる。
ギャグにして抒情という、不思議な作品があらわれる。

しかし、こういった作品は、そうそう書き続けることはできないだろう。
だいたい、自作にたいしてあまり批評的になりすぎると、話が進まなくなってしまう。
進まないどころか、書きだす前からくたびれてしまうのではないだろうか。

最後に、火浦作品でもっとも読みやすいものはなにかと考えてみた。
ナンセンスな短編として、もっとも完成度が高いのは「奥様はマジ」だろうか。
また、「俺に撃たせろ」(火浦功/著 徳間書店 2001)も捨てがたい。
両書とも、シリーズものではないので、それだけで楽しめる。
それに、見事なまでにバカバカしい。
もちろん、これは褒め言葉だ。



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