「八月の暑さのなかで」と「バラとゆびわ」

岩波少年文庫を2冊読んだ。

「八月の暑さのなかで」(金原瑞人/編訳 岩波書店 2010)
カバーと挿画は佐竹美保。
副題は「ホラー短編集」。

本書は副題どおり、英米のホラーを13作おさめた本。
収録作は以下。

「こまっちゃった」 エドガー・アラン・ポー/原作 金原瑞人/翻案
「八月の暑さのなかで」 W・F・ハーヴィー
「開け放たれた窓」 サキ
「ブライトンへいく途中で」 リチャード・ミドルトン
「谷の幽霊」 ロード・ダンセニイ
「顔」 レノックス・ロビンスン
「もどってきたソフィ・メイソン」 E・M・デラフォード
「後ろから声が」 フレドリック・ブラウン
「ポドロ島」 L・P・ハートリー
「十三階」 フランク・グルーバー
「お願い」 ロアルド・ダール
「だれかが呼んだ」 ジェイムズ・レイヴァー
「ハリー」 ローズマリー・ティンパリ

ホラー小説は怖いので、いままで読むことはなかったのだけれど、最近になってやっと読むようになった。
でも、まだ初心者のせいか、いまひとつ楽しみかたがつかめない。
この本に収録された作品はどれもさっぱりした味わいのものばかり。
だいたい、サキの「開け放たれた窓」はホラーじゃないだろうと思うのだけれど、どんなものだろう。

冒頭の「こまっちゃった」にかんしては説明がいる。
これは、ポーの「ある苦境」を訳者が翻案したものだ。
この短篇は、ものすごくふ厚い「ポオ全集」(東京創元社 1986)の3巻に収録されていて、この機会にと読んでみたら、「ボンボン」の系列につらなるナンセンス小説(またはファルス小説)だった。

個人的にポーの作品のなかでは、ボンボン」がいちばん好きだ。
坂口安吾もポーのファルス小説が好きだったらしい。
「風博士」の作者が、ポーのファルス小説が好きだというのは、じつによくわかる。

話がそれた。
「こまっちゃった」は、ストーリーの概要は一緒で、ただ語り手を女の子にしたところがちがっている。
これが成功しているかどうかはなんともいえない。
ただ、バカバカしくて少し不気味なこの作品が冒頭に置かれているため、「この本はこんな感じですよ」と知らしめる効果は果たしていると思う。
それから、この作品を読んでいたら、アニメ映画「ルパン三世 カリオストロの城」を思い出した。
仕掛けというか、舞台が一緒なのだ。
(さらに訳者あとがきによると、江戸川乱歩の「魔術師」でも同じアイデアがつかわれているそう。そっちは読んだことがない)

この本のなかで、気に入ったのは表題作の「八月の暑さのなかで」と、「ポドロ島」の2編。
「八月の暑さのなかで」は素晴らしくうまい。
「ポドロ島」はなんだかわからないけれど印象に残る。
ほかの作品は忘れても、この2編は忘れないのではないかと思う。

それから、この本はまず50編くらいの作品を選んで、そこから13編にしぼったのだそう。
その最初の50編には、どんな作品が選ばれていたのかできれば知りたいと思った。
デ・ラ・メアの「なぞ物語」なんかは選ばれていただろうか。


「バラとゆびわ」(サッカレイ 岩波書店 1952)
訳は刈田元司。

岩波少年文庫創刊60周年記念復刊の一冊。
この「バラとゆびわ」と、「隊商」が復刊されたので、本屋にいって買ってきた。

「バラとゆびわ」は前から気になっていた作品で、なぜかというと藤子不二雄Aの作品「まんが道」で、主人公の2人がこの作品をマンガ化していたからだ。
記憶で書いているので間違っているかもしれないけれど。
で、「バラとゆびわ」を読んでみたら、びっくりした。
こんなふざけた語り口の小説だとは思ってもみなかった。
たとえば、作中、語り手はこんなことをいいだしたりする。

「もしも、わたしが、小説家のように書けたら、このことだけでも、ながながと書くことができるでしょうが、わたしは、みじかくつめて、あなたがたの本のねだんが、すこしでも安くすむように、しましょうね」

タイトルの「バラとゆびわ」というのは、「黒杖」と呼ばれる女魔法使いが、クリム・タタリ国のパデラ公爵夫人と、パフラゴニア国のサヴィオ王の奥さんにあたえた魔法の品。
それをもっていると、夫の目には美しくみえ、一生夫から愛されることになる。
でも、おかげで2人は、「うつり気で、なまけもので、ふきげんで、おそろしくみえぼうで、いやな目つきの梅ぼしばばあに」なってしまったと、女魔法使いは大変後悔。
そこで、パフラゴニア国のキグリオ王子が生まれたとき、「黒杖」はこんなことをいう。

「かわいそうな子じゃ。おまえには、不孝しかあげられないのじゃよ」

クリム・タタリの国王、カボルフィオアのひとり娘ロサルバにも、「黒杖」は同じことをいう。
このキグリオ王子とロサルバが本書の主人公。
「黒杖」のいったとおり、パフラゴニア国では摂政である王様の弟が君主になって、キグリオ王子は王位をうばわれてしまう。
また、クリム・タタリ国では謀反が起こり、ロサルバ王女はパフラゴニア国の現王女アンジェリカ姫(つまりキグリオのいとこ)の腰元になるはめに。
さらに、ゆびわの魔力のせいで、キグリオ王子はアンジェリカ姫の家庭教師、ガミガミ公爵夫人と結婚の約束をしてしまう。

とまあ、いろいろあるのだけれど、もちろん最後は大団円。
語り口のせいか、妙な名前のせいか、だれがどこの国のなんなのかすぐわからなくなり苦労したけれど、半分も読めばさすがに人間関係も呑みこめてくる。
まさかあれが伏線だったとはと、ストーリーのまとめかたに感心した。

それから、サッカレイは本書のさし絵も描いているそう。
稚拙な、マンガみたいな絵なのだけれど、それが作品によくあっている。

「バラとゆびわ」の印象は、「オズの魔法使い」とよく似ている。
ありきたりな話に飽きてしまった子どもは、ひょっとしたら面白がるかもしれない。

さて、次は「隊商」を読まなくては――。


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「キス・キス」「夜の旅その他の旅」

大きな災害や災難が訪れると、フィクションを読むのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
電車に乗っても、目に入る広告など凄まじく白じらしい。
そうだった、惨事が起こるとこういう気分になるんだったと思い出した。

じゃあ、最近は小説を読んでいないのかというとそんなことはない。
むしろ、いままで以上に、なかばムキになって読んでいる。

最近読んだのは、「異色作家短編集」のこの2冊。

「キス・キス」(ロアルド・ダール 早川書房 1974)
訳は開高健。
収録作は以下。

「女主人」
「ウィリアムとメアリイ」
「天国への登り道」
「牧師のたのしみ」
「ビクスビイ夫人と大佐のコート」
「ローヤル・ジェリイ」
「ジョージイ・ポーギイ」
「誕生と破局」
「暴君エドワード」
「豚」
「ほしぶどう作戦」

「夜の旅その他の旅」(チャールズ・ボーモント 早川書房 1978)
訳は小笠原豊樹。
収録作は以下。

「黄色い金管楽器の調べ」
「古典的な事件」
「越してきた夫婦」
「鹿狩り」
「魔術師」
「お父さん、なつかしいお父さん」
「夢と偶然と」
「淑女のための唄」
「引金」
「かりそめの客(チャド・オリヴァーと共作)」
「性愛教授」
「人里離れた死」
「隣人たち」
「叫ぶ男」
「夜の旅」

じつは、チャールズ・ボーモントのほうは読んだものの、あんまりピンとこなかった。
タイトルは素敵だし、うまいのはわかるんだけど…という感じ。
このなかで好きなのは、闘牛を題材にした「黄色い金管楽器の調べ」くらいだ。

いっぽう、ロアルド・ダールのほうは堪能した。
短編集で、こんなに粒がそろっているのはめずらしいと思うくらい、どれも読みごたえがある。
ユーモラスなのは、奇想天外な方法でキジの密猟をたくらむ「ほしぶどう作戦」くらい。
あとはどの作品も、冷酷で残酷で不気味。


まず面白かったのは、若い男が部屋を貸している女主人と出会う「女主人」
不気味なほのめかしかたがじつに見事だ。

それから、フォスター老夫妻のあいだに起こったできごとをえがいた、ミステリ風味の「天国への登り道」
ワン・アイデア小説なのだけれど、よく読ませる。

日曜日ごとに牧師に化けて、田舎町をめぐっては骨董家具をみつけて買い叩くポギス氏の物語、「牧師のたのしみ」は素晴らしい完成度。
ダールは、すぐに通になるタイプのひとだったのか、ウンチクの多い作品がよくあって、これもそのひとつ。
読んでいて、別にポギス氏に肩入れするわけではないのだけれど、結末がみえてくると思わず脈が早くなる。
本書中、随一の一篇だ。

愛人から手切れの品として、とても高価なミンクのコートを贈られたビクスビイ夫人。
夫に怪しまれないように、コートを質に入れ、質札をタクシーで拾ったように偽るのだが…という、「ビクスビイ夫人と大佐のコート」も、夫婦もので、皮肉の効いた一篇。

あんまり不気味すぎるのは、個人的にダメだった。
「ウィリアムとメアリイ」とか「ローヤル・ジェリイ」とか。
最初、童話めいた語り口で楽しく読んでいたら、最後にとんでもないオチがつく「豚」もあんまり。

訳者あとがきで、開高健は小泉太郎氏と常盤新平氏に感謝を記しているけれど、小泉太郎は、生島治郎の本名じゃなかったかと思う。
そして、「キス・キス」は下訳を小泉氏がやり、開高健がこのままでいいといって、ほとんど下訳を完成稿として出版したという逸話が、ハヤカワミステリにかかわっていたころを題材とした生島治郎の回想小説、「浪漫疾風録」(講談社 1996)に書いてあったような気がする。

初期のハヤカワミステリに興味のあるひとは、この小説を読むときっと面白い。
田村隆一が、支離滅裂ながら、なにやら格好良よかったのが印象的。

長年の懸案だった、「手元の異色作家短編集をぜんぶ読む」は今回の2冊でついに終了。
読み終わった本はみんな手元から放したけれど、「キス・キス」だけはとっておこうかと、いま悩んでいるところ。


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地震

東日本大震災で被災された皆様に、心からお見舞い申しあげます。

わが家は無事でした。
本が散乱したくらいですみました。

うちでは、とっておく本はケースに入れ、それ以外の本は棚に積み重ねているのですが、この積み重ねていた本がかなりくずれてしまいました。
いまは整理もせず、とりあえずまた棚に積み上げています。
でも、棚のてっぺんに天井までかさねてあるケースが落ちてこなくて、ほんとうによかった。
現在、まだ余震が続いているので、本棚からなるべくはなれて寝るようにしています(中島敦の「文字禍」という短篇を思い出します)。

あとは、実家の瓦がくずれたくらい。
これも、職人さんにきてもらい、シートをかぶせてもらったので、当面は大丈夫。

阪神大震災のときは、書誌学者谷沢永一さんのお宅の蔵書5万冊がくずれ、大半を古本屋に引きとってもらったという話があったかと思います。
おそらく、多くの愛書家宅や図書館、図書室などで、同様の惨事が起こったことでしょう。

これからも大変な日々が続くでしょうが、とりあえず前向きに、これからも読書メモをとっていこうと思います。


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ルポ・ラオス クラフト生産者を訪ねる旅

雑誌「エネルギーレビュー」2011年3月号((株)エネルギーレビューセンター)に、「ルポ・ラオス クラフト生産者を訪ねる旅」という記事が載っていた。
執筆者は、公益社団法人シャンティ国際ボランティア会(SVA)のボランティア、三島真知さん。

三島さんが訪ねたのは、ラオスのモン族のひとたち。
なんか聞いたことがあるなと思ったら、モン族は刺繍で有名で、その刺繍をつかった絵本が日本で出版されている。

三島さんが訪ねたのは、まずシビライ村というところ。

「ラオスが1975年以降、迫害を恐れてタイ国境の難民キャンプに逃れ、1992年以降の帰還事業により国に戻ったモン族・243人の村。当初、国連とラオス政府が用意した土地で子供が亡くなる不孝が続き、そこを離れてこの場所に移ったという」

この村には、難民キャンプでこの村のひとたちと出会い、その後も一緒に暮らしている元SVA職員の安井清子さんという女性がいるそう。
このひとは、先の絵本の訳者ではないだろうか。

モン族というのは、シビライ村のひとたちだけではない。
翌日、三島さんはタンピアゥ村というところを訪ねる。

「ここは内戦時代の1972年にタイ国境の難民キャンプに逃れたモン族の人たちのために、帰還事業で1993年に森を切り拓いて用意した土地で、133世帯950人が暮らしている。難民キャンプで支援活動をしていたカマクラフトというアメリカのNGOが、帰還後も村を支えている」

この村のクラフトは、モン族の暮らしを描いた「ライフシーン」という刺繍。
57人の女性たちが、農作業のかたわらつくっているという。

「この技法は、クリント・イーストウッド監督・主演の映画「グラン・トリノ」で、モン族の家庭の壁掛けとして登場するものになっているが、元々は難民キャンプ時代、文字を持たないモンの人々が民族の誇りと文化を失わないよう、暮らしや民話を表す方法として、欧米の支援者たちの指導で生まれたものだ」

このページには、レイアウトのバランスを逸したような、大きな写真が載せられている。
これが「ライフシーン」なのだろう、こんなキャプションがつけられている。

「モン族の歴史を描いた難民キャンプでの作品。大陸を南下、森の暮らし、戦乱、難民、アメリカへの移住などをつづった大作」

この「ライフシーン」を大きくとり上げたのは正解。
一瞥して胸を打つ作品だ。

ところで、先の絵本は「一冊たち絵本」でとりあげたことがある。
「サルとトラ」
「かたつむりとさる」
の2冊がそう。

「一冊たち絵本」は、ことしに入って400冊を超えたはず(もうよくおぼえてない)。
われながら、よく続くなあ。


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カストロの尼

「カストロの尼」(スタンダール 角川書店 1990)
訳は、宗左近。
角川リバイバルコレクションの1冊。
スタンダールの「イタリア年代記」もののうち5編をあつめた本。
収録作は以下。

「ヴァニーナ・ヴァニーニ」
「カストロの尼」
「バリアノ公爵夫人」
「サン・フランチェスカ・ア・リッパ」
「ヴィットリア・アッコランボニ・ブラッチャーノ公爵夫人」

「イタリア年代記」は上記のほかに、以下の3編があるそう。

「チェンチ一族」
「修道女スコラスティカ」
「深情け」

スタンダールは、ローマで発見した古文書をもとに、これらの作品をこしらえたという。
5編のなかでは、「カストロの尼」がとび抜けて面白い。
「カストロの尼」だけが、ほとばしっている。
なので、この本から「カストロの尼」だけとりあげたい。
以下、簡単にストーリーの概要を。

1542年、イタリアの町アルバノに、エレーナ・カンピレアーニという娘が生まれた。
父は、この地方随一の裕福な貴族。
母は、ヴィットリア・カラッファという名で、ナポリ王国に広大な土地をもつ女性。

エレーナは、当時ローマの王侯のほとんどが娘を預けたという、カストロの町にある聖マリア訪問童貞会修道院の寄宿生となり、そこで丸8年をすごす。
17歳のエレーナは絶世の美女に成長。

ところで、アルバノから1キロほどはなれたあばら屋に、ジュリオ・ブランチフォルテという、22歳になる若者が住んでいた。
貧乏で、美しくもなかったが、アルバノ中の娘たちに、あのひとの心がつかめたらどんなに嬉しいだろうと思わせるなにかをもった青年。

ジュリオは、カンピレアーリの屋敷の、エレーナの部屋の窓をしげしげとながめるようになる。
が、エレーナの父カンピレアーリ卿に罵倒されてから、昼間は屋敷の前にあらわれなくなる。

ある夏の真夜中ごろ、エレーナが窓を開け放って、海から吹いてくる微風にあたって涼んでいると、ふいに花束がさしだされる。
ここは屋敷の3階なのに。
エレーナは、迷ったあげく花束を受けとる。
花束には手紙がついている。
自分の貧乏暮らしを率直に語り、毎晩窓のまえの木の下にかくれていますという内容の手紙。

その後、ジュリオとエレーナの逢引きが続く。
が、毎晩エレーナの部屋に明かりがみえると告げる者があり、カンピレアーリ卿は、自分とエレーナの兄ファビオのぶんの火縄銃を用意。

エレーナは、父親が恋人を殺そうとしていることを察したが、ジュリオにつたえるすべがない。
夜、明かりをつけずにいると、いつものように手紙と花束があらわれる。
エレーナがそれを受けとったとき、父と兄が発砲。

翌日は日曜日。
聖堂でジュリオをみかけたエレーナは、ジュリオがけがをしてないことにほっとする。
紙くずに似せた手紙を落とし、ジュリオに目くばせ。
「お名前のほかは、すべて露見――」

家に帰ると、屋敷の大階段に紙きれが。
「やむなくローマにいくが、3日後には帰る――」
この手紙をみてエレーナは、ジュリオは兄さんの鉄砲が怖いのかしらと悲しく思う。
……

この作品は、随所にこんな心理の考察がある。
情熱とか恋愛とかが大好きだったスタンダールの面目躍如。
このあとに続くのは、こんな箴言。
「恋というものはすべてを許す。だが、相手が身をひくことを許しはしない」

「イタリア年代記」はエセーの文体で書かれている。
そのせいか、時間がしばしば前後する。
それに、どうもスタンダールはエンジンのかかるのが遅い作家らしくて、最初のうちは辛抱して読まなくてはいけない。
でも、このあたりまでくると盛り上がる。
もう読むのをやめられない。

ところで、ジュリオの父は山賊(傭兵)だった。
コロンナ家に仕え、息子に家や畑を残して亡くなった。
父親の副官をしていたラヌッチオは、ことのほかジュリオを愛し、たびたび会いにきていた。

ラヌッチオに誘われて、ジュリオも戦場にでたことがあった。
ジュリオの勇猛果敢なたたかいぶりに、ラヌッチオは一目置いていた。
が、ジュリオ自身は戦争は大好きだったが、略奪は嫌いだった。

さて、じつはエレーナの父、カンピレアーリ卿に罵倒されたとき、ジュリオはラヌッチオに相談しにいっていた。
ラヌッチオは、さっそくカンピレアーリ卿を殺そうとするが、ジュリオはなんとか思いとどまらせる。

カンピレアーリ卿と、その息子のファビオに火縄銃を発砲されたときも、ラヌッチオはそばにいた。
ジュリオはまたしても、ラヌッチオがファビオを殺そうとするのを思いとどまらせるのに大変骨を折る。

で、3日後。
ジュリオは、ローマからもち帰った服をみせびらかして歩く。
加えて、果物売りの老婆を通じて、自分がどんな人間かを書いた、途方もなく長い手紙をエレーナに渡す。

さらに3日後。
カンピレアーリ卿とファビオが海岸の領地へ馬ででかけたさい、ジュリオとエレーナははじめて出会う。
ジュリオは、「自分は山賊の子なのです」と告白し、エレーナは卒倒しそうになって、思わずジュリオの胸に倒れこむ。
……

じつは、スタンダールの作品は、この「イタリア年代記」以外読んだことがない。
だから、勘でいうのだけれど、スタンダールはストーリーの緩急をあやつる、アクセルとブレーキの踏みかたに独特のものがあるように思う。
この、エレーナがジュリオの胸に倒れこんだ場面などは、大変盛り上がるところだと思うけれど、ここでスタンダールは顔をだし、写本についての講釈をはじめる。
なんだなんだと思っているうちに、すでに場面は変わってしまって、呆然とさせられる。
スタンダール作品の、読後の印象が深いのは、「いまのは一体なんだったんだ」と読者が考えてしまうような記述のしかたにあるのかも。

閑話休題。
さて、カンピレアーリ卿とファビオは、ジュリオが憎くてしかたがない。
しかし、ジュリオを殺すと、ラヌッチオとその一党に復讐される恐れがあるので手がだせない。
そこで、エレーナを再びカストロにある聖マリア訪問童貞修道院に預けることに。

ところで、亡くなったジュリオの父親は、傭兵としてコロンナ家に仕えていた。
コロンナ家の宿敵はオルシーニ家といって、カンピレアーリ卿は、このオルシーニ家と遠い縁続きだった。

で、コロンナ家とオルシーニ家の小競りあいが起きたさい、ジュリオはエレーナの兄ファビオと戦場で合間見えるはめにおちいってしまう。
なおかつ、ジュリオはファビオを殺してしまう。

もはやエレーナに会わせる顔がないジュリオだったが、それでもエレーナに会いにカストロにおもむく。
最初は仲たがいしたものの、また2人は心を通わせ、ジュリオは修道院からエレーナを強奪しようとたくらむ――。

まだまだ物語は続くのだけれど、ここまで要約するだけでもほとほとくたびれた。
このへんにしよう。
後半は、エレーナの母親であるヴィットリア・カラッファの存在感が増す。
母は娘のためを思って策を弄するのだけれど、それが裏目にでて、エレーナを窮地に追いやることに。

話は少々「カストロの尼」からはなれて――。
「カストロの尼」を読んでいたとき、
――この話は知っているぞ
と、思った。
ちょうど、ジュリオの父親が山賊だったというくだりにさしかかったとき。
似たような話を読んだことがある。

われながらめずらしいことに、似た話はすぐに思い出せた。
久生十蘭の「うすゆき抄」だ。
きっと、十蘭は「カストロの尼」を失敬したにちがいない。

で、「カストロの尼」を読了後、「うすゆき抄」が収録されている「無月物語」(久生十蘭傑作選5 社会思想社 1977)を本棚から引っ張りだしてみた。
舞台は日本の戦国時代に移され、主人公大炊介(おおいのすけ)は、関東一の乱破の大将、風摩小太郎の息子になっている。
でも、ストーリーは変わらない。

――これは発見だ
と、思ったら、この本の解説で都筑道夫さんがすでに指摘されていた。
以前、この解説も読んでいたはずなのだけれど、都合よく忘れていたらしい。
がっかりだ。

しかも、この本に収録されている「無残やな」は、同じく「イタリア年代記」の「チェンチ一族」が種本なのだという。
そこで、図書館から「スタンダール全集」を借りてきて、「チェンチ一族」を読んでみた。

「カストロの尼」と「うすゆき抄」とでは、軍配は「カストロの尼」に上がる。
「うすゆき抄」は、これから面白くなるのにというところで終わっているからだ。
でも、「チェンチ一族」と「無残やな」では、「無残やな」に軍配を上げたい。

「カストロの尼」と「うすゆき抄」の関係同様、「無残やな」も「チェンチ一族」の途中までを換骨奪還している。
しかし、「無残やな」は効果の集中が素晴らしい。
「チェンチ一族」は、「無残やな」の長い後日譚のようだ。

話は、「カストロの尼」にもどって――。
「カストロの尼」のラストは、大変な切れ味をみせている。
皮肉な運命にあやつられた2人を待ちうけているのは、たった4つのセンテンスだ。
この4つのセンテンスは忘れがたい。
名作と呼ばれている作品は、さすがにすごいものだ。


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