タナカの読書メモです。
一冊たちブログ
ニール・サイモン戯曲集2
「ニール・サイモン戯曲集2」(早川書房 1984)
序文
「ジンジャーブレッド・レディ」
「二番街の囚人」
「サンシャイン・ボーイズ」
「名医先生」
「第二章」
ニール・サイモンとその作品(2)
「ジンジャーブレッド・レディ」
“The Gingerbread Lady”
酒井洋子訳
1970年作
アルコール中毒患者の療養所からもどってきた、エヴィ・ミエラ。
エヴィを迎えたのは、友人のジミーとトビー。
エヴィはクラブの歌手で、療養所に入るくらいだから、いままですさんだ暮らしをしていた。
ジミーはゲイの売れない役者。
劇中でも初日3日前に役をクビになったと嘆く。
昔、ミス・ミシガン大学に選ばれたことのあるトビーは厚化粧がやめられない。
劇中では、夫に離婚されてしまう。
3人は身を寄せあい、毒づきあう。
加えて、母親であるエヴィを支えようと、父と継母のいる家から引っ越してきた17歳の勇敢なポリーがいる。
劇の内容は、トビーがエヴィにいうセリフに尽きている。
《あんたは二十二じゃない。四十三だ。しかもあんたはアル中で、物事の良し悪しもわからなきゃ、責任感もない。自分と同じように弱いか、どうしようもないんでなきゃ、誰とも長続きした試しがない。だからあんたはジミーやわたしみたいなのと友だちなのよ。》
巻末の解説によれば、サイモンのシリアス・ドラマに面食らった観客の反応は複雑で、193回しか上演できなかったとのこと。
193回が多いのか少ないのかよくわからないけれど、「カム・ブロー・ユア・ホーン」の上演回数が677回というから、やはり少なかったのだろう。
「二番街の囚人」
“The Prisoner of Secound Avemue”
酒井洋子訳。
1971年作。
タイトル通り、2番街のあるアパートが舞台。
主人公は、メル・エディスンとエドナ・エディスンのエディスン夫妻。
メルはくたびれ、すりきれ、神経が切れかけた47歳。
夜は眠れず、情緒不安定で、エドナに始終不安を訴える。
悪いことはかさなり、アパートには泥棒が入り、メルは会社をクビに。
代わりにエドナがはたらきにでるが、メルの精神状態は悪化し、ついには医者にかかるはめに。
メルの兄弟たちが登場し、不肖の弟の援助について話しあったりする。
なにやら、ジェームズ・サーバーが書いた戯曲のよう。
ラストが雪で終わるところが、「はだしで散歩」のラストと符号しており、あの新婚夫婦のその後の話といった感がある。
「サンシャイン・ボーイズ」
“The Sunshine Boys”
酒井洋子訳。
1972作。
「おかしな二人」とならぶサイモンの代表作。
サンシャイン・ボーイズとはコンビの名前。
史上最高のヴォードヴィル芸人コンビとうたわれた、ウィリーとアルの物語だ。
ウィリーとアルも、いまは70代。
アパートで朦朧として暮らしているウィリーのところに、甥でありマネージャー役であるベンが仕事をもってくる。
TVで喜劇の歴史をテーマにしたバラエティ番組をつくる。
そこで、ウィリーとアルに登場してもらいたいと先方がいっている。
ひと晩、昔のコントをやるだけで、2人に2万ドル払うといっている。
伯父さんがこの2年で稼いだ額より多い。
この話をウィリーは断る。
アルは指でおれを突っつく。
セリフと一緒に、おれに唾をかける。
だいたい、先に引退をきめたのはあいつのほうだ、うんぬん。
意固地になるウィリーだが、ともかくアルがウィリーのアパートにやってきて稽古。
だしものはドクター・コントに決定。
アルはやる気だが、ウィリーはごねる。
稽古をはじめるものの、ちょっとしたことで大騒ぎ。
さらに本番、スタジオでの収録となるが――。
往年の名コンビが、再び顔をあわせ、おたがいの芸に敬意をもちながらも、寄るとさわると文句をいいあう。
最後は哀愁のただようラストへ。
堅牢無比な構成の、素晴らしい作品だ。
なお、解説によれば1972年当時、ブロードウェイの開演時間が8時にくり上がったことなどから、サイモンは長年なじんだ三幕形式から、二幕形式へ移行しだしたとのこと。
「名医先生」
“The Good Doctor”
鳴海四郎訳。
1973年作。
歌と踊りの一幕に、二幕十場の小品という、10の芝居をあつめたオムニバス。
芝居のアイデアの元は、チェーホフ。
《――サイモンは当初チェーホフの短篇「くしゃみ」(邦題「小役人の死」)に刺激されてファルスを書こうと思った。だが、一篇では一晩を構成できないため、手当たり次第に彼の短篇を読み、概ねチェーホフを土台に十本の小品を書いた。》
と、これは解説から。
第一幕、第一場「作家」
作家のモノローグによる一場。
この作家が、劇全体のナビゲーターとなる。
《なぜおまえはそんなに必死になって書き続けるのか、来る日も来る日も、短篇小説を次から次へとって。答えは簡単、それしか道がないから、私が作家だからです……。》
第二場「くしゃみ」
芝居好きの国家公務員、国立公園省事務官イワン・イリッチ・チェルジャーコフが妻とともに芝居見物にでかけたところ、直属の上司である国立公園大臣ミハイル・ブラシルホフ将軍閣下とでくわす。
絶好のチャンスとばかりに、チェルジャーコフは観劇の最中、将軍閣下に話かけるのだが、うっかりくしゃみをして、それが将軍の後頭部に命中。
必死でいいわけするはめに。
この失敗を、ほとんど精神がむしばまれるまで気に病んだチェルジャーコフは、翌日、さらに弁明することを決意。
その日は将軍閣下が60名もの陳情者から話を聞く日だったので、チェルジャーコフはその最後に、閣下のもとに赴くのだが――。
第三場「家庭教師」
住みこみの家庭教師をしている若いユリア。
女主人は、ユリアが大人しくて従順なのをいいことに、難癖をつけ、どんどん給料を値切っていく。
80ルーブル払うべきところを10ルーブルにまでしてしまう。
とにかく従順なユリアの物語。
読んでいて、メルヴィルの「バートルビー」を思いだした。
第四場「手術」
歯痛に苦しむ、教会の小間使いフォンミグラーソフが医者に駆けこむ。
が、先生はいない。
いたのは留守番をしている新米助手のクリャーチン。
大騒動のあげく、クリャーチンはフォンミグラーソフの歯を抜くが、失敗。
最後は奇跡を願い、2人で歌いだして幕というドタバタ劇。
第五場「晩秋」
公園のベンチで60代はじめの女性が本を読んでいる。
そこを70代はじめの男性が通りかかる。
おたがいに魅かれあっていることが歌によって示されるのだが、2人の距離は今日のところは縮まらない。
前の「手術」とはがらりと変わり、愁いのきいたひと幕。
第六場「色魔」
人妻を誘惑する名人ピョートルが、得々とその手管をひけらかしながら、誘惑を実践してみせる。
人妻を誘惑しようと思ったら、絶対にご亭主を通じて近づくこと。
ピョートルは偶然をよそおってはご亭主に近づき、奥さんをほめあげる。
亭主は家で妻にそれを話す。
妻のほうはまんざらでもない。
自分をほめ上げるピョートルの話を聞きたがり、ついには亭主にメモをとることを勧めたりする。
亭主のほうはそれを実行し、妻を相手にピョートルがいっていたことを読み上げたりする。
こんなことがあり、ついに妻がピョートルのもとにやってくるのだが、最後はピョートルが思ってもみなかった展開に。
第二幕、第一場「水死芸人」
桟橋を歩く作家のもとに、男が近づいてきていう。
ちょっとした見世物をみたくはないですか。
土佐衛門。
たった3ルーブル。
まじめに溺れやしないよ。
溺れる芝居をぶつんだ。
海に飛びこみ、助けてくれえとわめいてから、プーカプーカ浮かぶ。
とまあ、おかしな商売をする芸人の話。
第二場「オーディション」
オーディションにきた若い女。
受けこたえがちぐはぐで、なんともしまらない。
でも、なんとか演技をみせるまでこぎつけて、「三人姉妹」ラストを見事に演じてみせる。
第三場「弱き者、その名は……」
舞台は銀行の役員室。
事務のキスツーノスは痛風に悩まされ、痛みが増すことを恐れている。
そこに女が面会にやってくる。
亭主は団体査定係のシューキンといい、5か月前に病気になり勤めをクビになってしまった。
で、給料をもらいにいってみたら、前借りをしていたからと減らされている。
あいつが私の知らないところで前借りするはずがない。
不当な扱いをされたとシューキンに訴える。
ここは銀行であなたを助けてはあげられないと、キスツーノスは話すが女は聞き入れない。
いっそう騒ぎたて、キスツーノスは気も狂わんばかりとなる。
第四場「教育」
19歳の誕生日のお祝いに、父親が息子のアントーシャのために女性をあてがおうとする。
アントーシャは奥手で頼りない。
父親はそんなアントーシャをはげまし、いかがわしい界隈へ。
《「パパ……この辺には品性のすぐれた女はいないと思うけど」
「品性のすぐれた女を探してるんじゃない。世間には品性すぐれた女がウジャウジャいる……だから品性すぐれた男たちはこういう場所へ来るはめになるんだ》
出会った女は30ルーブルというが、19のせがれ相手にはちょっと高い。
理由を話し、15ルーブルではどうかと父親は値切る。
《「思いやりがあるいいパパなのね。感心しました。あたいにあんたみたいなパパがいたら、いまごろこんなところで、あんたみたいなパパから値切られたりするような目にあわずにすんだのにね」》
という訳で、20ルーブルで交渉は成立するのだが――。
落語のような一篇。
第五場「作家」
再び作家が登場し、口上を述べて幕。
「第二幕」
“Chapter Two”
福田陽一郎、青井陽治訳。
舞台は、ジョージ・シュナイダーのアパートと、ジェニファー・マローンのアパートの2つ。
それが次つぎと切り替わる。
第一幕では9場もある。
映画的というべきか。
ジョージ・シュナイダーは、42歳の小説家。
12年間連れそった妻のバーバラに先立たれたばかり。
弟のレオがしきりになぐさめるが、ジョージの傷心は癒えない。
一方のジェニファーは、32歳の女優で離婚したばかり。
こちらにはフェイという、やはり女優の友人がついている。
もちろん、ジョージとジェニファーはじき出会う。
とりもつのは、レオとフェイ。
出会った2人は意気投合。
2週間後には結婚するといいだし、これにはレオも仰天する。
結婚までの2人の高揚感は大変なもの。
劇の後半その反動がやってくる。
加えて、レオとフェイの浮気話がそこにからむ。
解説によれば、サイモンにはどの作品にも自伝的要素があり、この作品もまた自伝的な作品だとのこと。
以上。
面白いと思ったのは、「カム・ブロー・ユア・ホーン」「おかしな二人」「ジンジャーブレッド・レディ」「サンシャイン・ボーイズ」。
「プラザ・スイート」のなかの「フォレスト・ヒルズの客」。
また、「名医先生」のなかの、「家庭教師」「オーディション」「教育」といったところ。
でも、これは戯曲を読んでの印象だから、舞台で見るとまたちがうのかもしれない。
読んでいて、会話が成立しているのかいないのかよくわからない場面がたびたびあった。
こう感じるのは、日本語訳で読んでいるためだろう。
アメリカのコメディ映画をみても、そう感じることはよくある。
英語がわかるひとが英語で読めば、きっと違和感はないのだろう。
それから。
親からの自立も、結婚や離婚や浮気も、アルコール中毒や仲たがいも、ありきたりといえばありきたりだ。
それが、ときによって普遍性を得る。
ありきたりな題材が普遍性を帯びるには、シチュエーションやセリフの面白さだけではなく、オスカーやフィリックスや、エヴィやウィリーやアルといった、際立ったキャラクターが必要なのではないか。
そんなことを思ったものだった。
序文
「ジンジャーブレッド・レディ」
「二番街の囚人」
「サンシャイン・ボーイズ」
「名医先生」
「第二章」
ニール・サイモンとその作品(2)
「ジンジャーブレッド・レディ」
“The Gingerbread Lady”
酒井洋子訳
1970年作
アルコール中毒患者の療養所からもどってきた、エヴィ・ミエラ。
エヴィを迎えたのは、友人のジミーとトビー。
エヴィはクラブの歌手で、療養所に入るくらいだから、いままですさんだ暮らしをしていた。
ジミーはゲイの売れない役者。
劇中でも初日3日前に役をクビになったと嘆く。
昔、ミス・ミシガン大学に選ばれたことのあるトビーは厚化粧がやめられない。
劇中では、夫に離婚されてしまう。
3人は身を寄せあい、毒づきあう。
加えて、母親であるエヴィを支えようと、父と継母のいる家から引っ越してきた17歳の勇敢なポリーがいる。
劇の内容は、トビーがエヴィにいうセリフに尽きている。
《あんたは二十二じゃない。四十三だ。しかもあんたはアル中で、物事の良し悪しもわからなきゃ、責任感もない。自分と同じように弱いか、どうしようもないんでなきゃ、誰とも長続きした試しがない。だからあんたはジミーやわたしみたいなのと友だちなのよ。》
巻末の解説によれば、サイモンのシリアス・ドラマに面食らった観客の反応は複雑で、193回しか上演できなかったとのこと。
193回が多いのか少ないのかよくわからないけれど、「カム・ブロー・ユア・ホーン」の上演回数が677回というから、やはり少なかったのだろう。
「二番街の囚人」
“The Prisoner of Secound Avemue”
酒井洋子訳。
1971年作。
タイトル通り、2番街のあるアパートが舞台。
主人公は、メル・エディスンとエドナ・エディスンのエディスン夫妻。
メルはくたびれ、すりきれ、神経が切れかけた47歳。
夜は眠れず、情緒不安定で、エドナに始終不安を訴える。
悪いことはかさなり、アパートには泥棒が入り、メルは会社をクビに。
代わりにエドナがはたらきにでるが、メルの精神状態は悪化し、ついには医者にかかるはめに。
メルの兄弟たちが登場し、不肖の弟の援助について話しあったりする。
なにやら、ジェームズ・サーバーが書いた戯曲のよう。
ラストが雪で終わるところが、「はだしで散歩」のラストと符号しており、あの新婚夫婦のその後の話といった感がある。
「サンシャイン・ボーイズ」
“The Sunshine Boys”
酒井洋子訳。
1972作。
「おかしな二人」とならぶサイモンの代表作。
サンシャイン・ボーイズとはコンビの名前。
史上最高のヴォードヴィル芸人コンビとうたわれた、ウィリーとアルの物語だ。
ウィリーとアルも、いまは70代。
アパートで朦朧として暮らしているウィリーのところに、甥でありマネージャー役であるベンが仕事をもってくる。
TVで喜劇の歴史をテーマにしたバラエティ番組をつくる。
そこで、ウィリーとアルに登場してもらいたいと先方がいっている。
ひと晩、昔のコントをやるだけで、2人に2万ドル払うといっている。
伯父さんがこの2年で稼いだ額より多い。
この話をウィリーは断る。
アルは指でおれを突っつく。
セリフと一緒に、おれに唾をかける。
だいたい、先に引退をきめたのはあいつのほうだ、うんぬん。
意固地になるウィリーだが、ともかくアルがウィリーのアパートにやってきて稽古。
だしものはドクター・コントに決定。
アルはやる気だが、ウィリーはごねる。
稽古をはじめるものの、ちょっとしたことで大騒ぎ。
さらに本番、スタジオでの収録となるが――。
往年の名コンビが、再び顔をあわせ、おたがいの芸に敬意をもちながらも、寄るとさわると文句をいいあう。
最後は哀愁のただようラストへ。
堅牢無比な構成の、素晴らしい作品だ。
なお、解説によれば1972年当時、ブロードウェイの開演時間が8時にくり上がったことなどから、サイモンは長年なじんだ三幕形式から、二幕形式へ移行しだしたとのこと。
「名医先生」
“The Good Doctor”
鳴海四郎訳。
1973年作。
歌と踊りの一幕に、二幕十場の小品という、10の芝居をあつめたオムニバス。
芝居のアイデアの元は、チェーホフ。
《――サイモンは当初チェーホフの短篇「くしゃみ」(邦題「小役人の死」)に刺激されてファルスを書こうと思った。だが、一篇では一晩を構成できないため、手当たり次第に彼の短篇を読み、概ねチェーホフを土台に十本の小品を書いた。》
と、これは解説から。
第一幕、第一場「作家」
作家のモノローグによる一場。
この作家が、劇全体のナビゲーターとなる。
《なぜおまえはそんなに必死になって書き続けるのか、来る日も来る日も、短篇小説を次から次へとって。答えは簡単、それしか道がないから、私が作家だからです……。》
第二場「くしゃみ」
芝居好きの国家公務員、国立公園省事務官イワン・イリッチ・チェルジャーコフが妻とともに芝居見物にでかけたところ、直属の上司である国立公園大臣ミハイル・ブラシルホフ将軍閣下とでくわす。
絶好のチャンスとばかりに、チェルジャーコフは観劇の最中、将軍閣下に話かけるのだが、うっかりくしゃみをして、それが将軍の後頭部に命中。
必死でいいわけするはめに。
この失敗を、ほとんど精神がむしばまれるまで気に病んだチェルジャーコフは、翌日、さらに弁明することを決意。
その日は将軍閣下が60名もの陳情者から話を聞く日だったので、チェルジャーコフはその最後に、閣下のもとに赴くのだが――。
第三場「家庭教師」
住みこみの家庭教師をしている若いユリア。
女主人は、ユリアが大人しくて従順なのをいいことに、難癖をつけ、どんどん給料を値切っていく。
80ルーブル払うべきところを10ルーブルにまでしてしまう。
とにかく従順なユリアの物語。
読んでいて、メルヴィルの「バートルビー」を思いだした。
第四場「手術」
歯痛に苦しむ、教会の小間使いフォンミグラーソフが医者に駆けこむ。
が、先生はいない。
いたのは留守番をしている新米助手のクリャーチン。
大騒動のあげく、クリャーチンはフォンミグラーソフの歯を抜くが、失敗。
最後は奇跡を願い、2人で歌いだして幕というドタバタ劇。
第五場「晩秋」
公園のベンチで60代はじめの女性が本を読んでいる。
そこを70代はじめの男性が通りかかる。
おたがいに魅かれあっていることが歌によって示されるのだが、2人の距離は今日のところは縮まらない。
前の「手術」とはがらりと変わり、愁いのきいたひと幕。
第六場「色魔」
人妻を誘惑する名人ピョートルが、得々とその手管をひけらかしながら、誘惑を実践してみせる。
人妻を誘惑しようと思ったら、絶対にご亭主を通じて近づくこと。
ピョートルは偶然をよそおってはご亭主に近づき、奥さんをほめあげる。
亭主は家で妻にそれを話す。
妻のほうはまんざらでもない。
自分をほめ上げるピョートルの話を聞きたがり、ついには亭主にメモをとることを勧めたりする。
亭主のほうはそれを実行し、妻を相手にピョートルがいっていたことを読み上げたりする。
こんなことがあり、ついに妻がピョートルのもとにやってくるのだが、最後はピョートルが思ってもみなかった展開に。
第二幕、第一場「水死芸人」
桟橋を歩く作家のもとに、男が近づいてきていう。
ちょっとした見世物をみたくはないですか。
土佐衛門。
たった3ルーブル。
まじめに溺れやしないよ。
溺れる芝居をぶつんだ。
海に飛びこみ、助けてくれえとわめいてから、プーカプーカ浮かぶ。
とまあ、おかしな商売をする芸人の話。
第二場「オーディション」
オーディションにきた若い女。
受けこたえがちぐはぐで、なんともしまらない。
でも、なんとか演技をみせるまでこぎつけて、「三人姉妹」ラストを見事に演じてみせる。
第三場「弱き者、その名は……」
舞台は銀行の役員室。
事務のキスツーノスは痛風に悩まされ、痛みが増すことを恐れている。
そこに女が面会にやってくる。
亭主は団体査定係のシューキンといい、5か月前に病気になり勤めをクビになってしまった。
で、給料をもらいにいってみたら、前借りをしていたからと減らされている。
あいつが私の知らないところで前借りするはずがない。
不当な扱いをされたとシューキンに訴える。
ここは銀行であなたを助けてはあげられないと、キスツーノスは話すが女は聞き入れない。
いっそう騒ぎたて、キスツーノスは気も狂わんばかりとなる。
第四場「教育」
19歳の誕生日のお祝いに、父親が息子のアントーシャのために女性をあてがおうとする。
アントーシャは奥手で頼りない。
父親はそんなアントーシャをはげまし、いかがわしい界隈へ。
《「パパ……この辺には品性のすぐれた女はいないと思うけど」
「品性のすぐれた女を探してるんじゃない。世間には品性すぐれた女がウジャウジャいる……だから品性すぐれた男たちはこういう場所へ来るはめになるんだ》
出会った女は30ルーブルというが、19のせがれ相手にはちょっと高い。
理由を話し、15ルーブルではどうかと父親は値切る。
《「思いやりがあるいいパパなのね。感心しました。あたいにあんたみたいなパパがいたら、いまごろこんなところで、あんたみたいなパパから値切られたりするような目にあわずにすんだのにね」》
という訳で、20ルーブルで交渉は成立するのだが――。
落語のような一篇。
第五場「作家」
再び作家が登場し、口上を述べて幕。
「第二幕」
“Chapter Two”
福田陽一郎、青井陽治訳。
舞台は、ジョージ・シュナイダーのアパートと、ジェニファー・マローンのアパートの2つ。
それが次つぎと切り替わる。
第一幕では9場もある。
映画的というべきか。
ジョージ・シュナイダーは、42歳の小説家。
12年間連れそった妻のバーバラに先立たれたばかり。
弟のレオがしきりになぐさめるが、ジョージの傷心は癒えない。
一方のジェニファーは、32歳の女優で離婚したばかり。
こちらにはフェイという、やはり女優の友人がついている。
もちろん、ジョージとジェニファーはじき出会う。
とりもつのは、レオとフェイ。
出会った2人は意気投合。
2週間後には結婚するといいだし、これにはレオも仰天する。
結婚までの2人の高揚感は大変なもの。
劇の後半その反動がやってくる。
加えて、レオとフェイの浮気話がそこにからむ。
解説によれば、サイモンにはどの作品にも自伝的要素があり、この作品もまた自伝的な作品だとのこと。
以上。
面白いと思ったのは、「カム・ブロー・ユア・ホーン」「おかしな二人」「ジンジャーブレッド・レディ」「サンシャイン・ボーイズ」。
「プラザ・スイート」のなかの「フォレスト・ヒルズの客」。
また、「名医先生」のなかの、「家庭教師」「オーディション」「教育」といったところ。
でも、これは戯曲を読んでの印象だから、舞台で見るとまたちがうのかもしれない。
読んでいて、会話が成立しているのかいないのかよくわからない場面がたびたびあった。
こう感じるのは、日本語訳で読んでいるためだろう。
アメリカのコメディ映画をみても、そう感じることはよくある。
英語がわかるひとが英語で読めば、きっと違和感はないのだろう。
それから。
親からの自立も、結婚や離婚や浮気も、アルコール中毒や仲たがいも、ありきたりといえばありきたりだ。
それが、ときによって普遍性を得る。
ありきたりな題材が普遍性を帯びるには、シチュエーションやセリフの面白さだけではなく、オスカーやフィリックスや、エヴィやウィリーやアルといった、際立ったキャラクターが必要なのではないか。
そんなことを思ったものだった。
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ニール・サイモン戯曲集 1
「ニール・サイモン戯曲集 1」(酒井洋子/訳 鈴木周二/訳 早川書房 1984)
ニール・サイモンが亡くなったという。
そういえば、うちにあったハヤカワ文庫版の「おかしな二人」(早川書房 2006)をまだ読んでいなかったなあと思いだし、引っ張りだして読んでみる。
大変面白い。
結婚に破れた2人の男が、共同生活をはじめるが、性格の不一致から別れるにいたるというストーリー。
元気がよくてずぼらなオスカーと、大人しくて神経質なフィリックスの組みあわせが秀逸。
「おかしな二人」が面白かったので、そういえばうちには分厚い「ニール・サイモン戯曲集」の1、2巻もあったなと思いだす。
この機会を逃したらもう読むことはないかもしれないと、これまた引っ張りだして、ことしの暑い夏のあいだ毎晩少しずつ読んでいった。
おかげでとても楽しい思いをした。
「ニール・サイモン戯曲集 1」
序文
「カム・ブロー・ユア・ホーン」
「はだしで散歩」
「おかしな二人」
「プラザ・スイート」
それから、訳者解説というべき、「ニール・サイモンとその作品(1)」
この解説が、よく要領を得ており素晴らしい。
「カム・ブロー・ユア・ホーン」
“Come Blow Your Horn”
酒井洋子訳。
1961年作。
すべてアランのアパートが舞台の3幕物。
21歳になるバディは、過保護な両親からの独立をこころみる。
ひとり暮らしを謳歌している、33歳の兄アランのアパートにころがりこみ、アランから指導を受けるのだが――。
という、バディの独立を中心のストーリーとしたお話。
兄の教育が実り、バディはあっといまに遊び人に。
いっぽうアランのほうは、本命の彼女であるコニーとすったもんだ。
2人の立場が入れ替わるところがおかしい。
全体に元気がよく、最後はハッピーエンド。
楽しいお芝居になっている。
訳者解説によれば、このお芝居のタイトルはマザーグースからとっているとのこと。
谷川俊太郎訳で確認してみると、こんな詩だった。
“Little boy blue,
Come blow your horn,
The sheep‘s in the meadow,
The cow‘s in the corn;“
《なきむしくん
らっぱを ふけよ
ひつじは まきば
めうしは はたけに でてったよ》
「はだしで散歩」
“Barefoot in the Park”
鈴木周二訳。
1963年作。
新米弁護士のポールと、その妻コリーの新婚夫婦の話。
3幕物。
場所は、すべて新居であるニューヨークのアパート。
結婚して6日目の2人は大変幸せ。
だが、あすはじめて法廷に立つというポールは、コリーをかまっているひまがない。
それに、新居にはまだ家具もないし、天窓には穴が開いている。
そこに、コリーの母親が訪問。
上の階には、ヴェラスコという58歳になる妙な男が住んでいて、コニーの母親となにやら急速に親しくなっていく。
新婚家庭に暗雲がたちこめるのだけれど、最後はまあなんとかなる。
これはごく個人的な感想だけれど、ジャック・ヒギンズの小説をまとめて読んでいたときさんざんみかけた、オリヴァー・ウエンデル・ホームズの名前が、この戯曲にもでてきたのでびっくりした。
有名なひとだったのか。
「おかしな二人」
“The Odd Couple”
酒井洋子訳。
1965年作。
「おかしな二人」については、冒頭で書いたので省略。
「プラザ・スイート」
“Plaza Suite”
酒井洋子訳。
1968年作。
舞台は、プラザ・ホテルのスイート719号室。
その部屋を利用するひとたちをえがいたオムニバス。
第一幕目は、「ママロネックの客」。
48歳になるカレン・ナッシュがスイート719号室に到着。
24年前、新婚の夜をここですごしたカレンは、結婚記念日を夫のサムとすごしにきた。
サムは、50歳になる若づくりの仕事中毒。
カレンはロマンチックにすごしたがるが、サムはそうはいかない。
いつも仕事のことを気にかけ、カレンといいあらそう。
コメディのつねとして、最後はめでたくまとまるのかと思いきや、そうはならない。
苦みのあるひと幕だ。
第二幕目は、「ハリウッドの客」。
今度の、スイート719号室には、40歳で自信たっぷりな男、ジェス・キプリンガーが登場。
この部屋に、30代後半の魅力的な女性ミュリエル・テートがやってくる。
2人は同じ高校の卒業生。
いまでは、ミュリエルは結婚して3人の子持ちに。
ジェスは、ハリウッドのプロデューサー。
ミュリエルはハリウッドのゴシップに精通し、ジェスと会って舞い上がる。
いっぽう、17年前のミュリエルが忘れられないジェスは、ミュリエルのゴシップ好きに辟易しながらも、ミュリエルがほしがっているゴシップをたっぷりと提供してやる――。
これも、ハッピーエンドかどうかわからない。
複雑な味わい。
最後は、「フォレスト・ヒルズの客」。
階下で娘が結婚式を挙げる予定の、ノーマとロイの夫婦。
だが、肝心の花嫁がバスルームに閉じこもりでてこなくなる。
「階下(した)じゃ68人もの人間がおれの酒を呑んでるんだぞ」
と、ロイは立腹。
すっかり恐慌をきたした2人は、鍵穴をのぞいたり――ノーマのストッキングが破れる、ドアに体当たりしたり――ロイが腕を痛める、窓からバスルームへの侵入をこころみたり――ロイのモーニングが破ける――。
いっそ夫婦2人で裏口から逃げだそうと相談したり、移住を考えたり――。
前2作の味わいを払拭するようなドタバタ劇。
軽く、ばかばかしく、オチも決まり、申し分ない。
たいそう愉快なお芝居だ。
ニール・サイモンが亡くなったという。
そういえば、うちにあったハヤカワ文庫版の「おかしな二人」(早川書房 2006)をまだ読んでいなかったなあと思いだし、引っ張りだして読んでみる。
大変面白い。
結婚に破れた2人の男が、共同生活をはじめるが、性格の不一致から別れるにいたるというストーリー。
元気がよくてずぼらなオスカーと、大人しくて神経質なフィリックスの組みあわせが秀逸。
「おかしな二人」が面白かったので、そういえばうちには分厚い「ニール・サイモン戯曲集」の1、2巻もあったなと思いだす。
この機会を逃したらもう読むことはないかもしれないと、これまた引っ張りだして、ことしの暑い夏のあいだ毎晩少しずつ読んでいった。
おかげでとても楽しい思いをした。
「ニール・サイモン戯曲集 1」
序文
「カム・ブロー・ユア・ホーン」
「はだしで散歩」
「おかしな二人」
「プラザ・スイート」
それから、訳者解説というべき、「ニール・サイモンとその作品(1)」
この解説が、よく要領を得ており素晴らしい。
「カム・ブロー・ユア・ホーン」
“Come Blow Your Horn”
酒井洋子訳。
1961年作。
すべてアランのアパートが舞台の3幕物。
21歳になるバディは、過保護な両親からの独立をこころみる。
ひとり暮らしを謳歌している、33歳の兄アランのアパートにころがりこみ、アランから指導を受けるのだが――。
という、バディの独立を中心のストーリーとしたお話。
兄の教育が実り、バディはあっといまに遊び人に。
いっぽうアランのほうは、本命の彼女であるコニーとすったもんだ。
2人の立場が入れ替わるところがおかしい。
全体に元気がよく、最後はハッピーエンド。
楽しいお芝居になっている。
訳者解説によれば、このお芝居のタイトルはマザーグースからとっているとのこと。
谷川俊太郎訳で確認してみると、こんな詩だった。
“Little boy blue,
Come blow your horn,
The sheep‘s in the meadow,
The cow‘s in the corn;“
《なきむしくん
らっぱを ふけよ
ひつじは まきば
めうしは はたけに でてったよ》
「はだしで散歩」
“Barefoot in the Park”
鈴木周二訳。
1963年作。
新米弁護士のポールと、その妻コリーの新婚夫婦の話。
3幕物。
場所は、すべて新居であるニューヨークのアパート。
結婚して6日目の2人は大変幸せ。
だが、あすはじめて法廷に立つというポールは、コリーをかまっているひまがない。
それに、新居にはまだ家具もないし、天窓には穴が開いている。
そこに、コリーの母親が訪問。
上の階には、ヴェラスコという58歳になる妙な男が住んでいて、コニーの母親となにやら急速に親しくなっていく。
新婚家庭に暗雲がたちこめるのだけれど、最後はまあなんとかなる。
これはごく個人的な感想だけれど、ジャック・ヒギンズの小説をまとめて読んでいたときさんざんみかけた、オリヴァー・ウエンデル・ホームズの名前が、この戯曲にもでてきたのでびっくりした。
有名なひとだったのか。
「おかしな二人」
“The Odd Couple”
酒井洋子訳。
1965年作。
「おかしな二人」については、冒頭で書いたので省略。
「プラザ・スイート」
“Plaza Suite”
酒井洋子訳。
1968年作。
舞台は、プラザ・ホテルのスイート719号室。
その部屋を利用するひとたちをえがいたオムニバス。
第一幕目は、「ママロネックの客」。
48歳になるカレン・ナッシュがスイート719号室に到着。
24年前、新婚の夜をここですごしたカレンは、結婚記念日を夫のサムとすごしにきた。
サムは、50歳になる若づくりの仕事中毒。
カレンはロマンチックにすごしたがるが、サムはそうはいかない。
いつも仕事のことを気にかけ、カレンといいあらそう。
コメディのつねとして、最後はめでたくまとまるのかと思いきや、そうはならない。
苦みのあるひと幕だ。
第二幕目は、「ハリウッドの客」。
今度の、スイート719号室には、40歳で自信たっぷりな男、ジェス・キプリンガーが登場。
この部屋に、30代後半の魅力的な女性ミュリエル・テートがやってくる。
2人は同じ高校の卒業生。
いまでは、ミュリエルは結婚して3人の子持ちに。
ジェスは、ハリウッドのプロデューサー。
ミュリエルはハリウッドのゴシップに精通し、ジェスと会って舞い上がる。
いっぽう、17年前のミュリエルが忘れられないジェスは、ミュリエルのゴシップ好きに辟易しながらも、ミュリエルがほしがっているゴシップをたっぷりと提供してやる――。
これも、ハッピーエンドかどうかわからない。
複雑な味わい。
最後は、「フォレスト・ヒルズの客」。
階下で娘が結婚式を挙げる予定の、ノーマとロイの夫婦。
だが、肝心の花嫁がバスルームに閉じこもりでてこなくなる。
「階下(した)じゃ68人もの人間がおれの酒を呑んでるんだぞ」
と、ロイは立腹。
すっかり恐慌をきたした2人は、鍵穴をのぞいたり――ノーマのストッキングが破れる、ドアに体当たりしたり――ロイが腕を痛める、窓からバスルームへの侵入をこころみたり――ロイのモーニングが破ける――。
いっそ夫婦2人で裏口から逃げだそうと相談したり、移住を考えたり――。
前2作の味わいを払拭するようなドタバタ劇。
軽く、ばかばかしく、オチも決まり、申し分ない。
たいそう愉快なお芝居だ。
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「ニッポン縦断歩き旅」「四国八十八か所ガイジン夏遍路」
今回も、外国人による日本探訪記。
著者、クレイグ・マクラクランさんの著書は4冊。
「ニッポン縦断歩き旅」1998(1996)
「四国八十八か所 ガイジン夏遍路」2000(1997)
「ニッポン百名山よじ登り」1999(1998)
「西国三十三か所ガイジン巡礼珍道中」2003
いずれも、出版は小学館。
訳は、橋本恵。
カッコ内の数字は、原書の刊行年。
「珍道中」については未確認。
クレイグさんは、ニュージーランドのひと。
滞日経験が長く、日本語が堪能。
奥さんは日本人。
カバー袖の著者紹介によれば、現在(といっても出版当時)、クイーンズタウンに在住。
トレッキングガイドをしているとのこと。
というわけで、著者はよく日本の社会風俗に慣れ親しんでいる。
だから、日本を訪問したばかりの外国人のように、日本のことがなにもかも新鮮にみえるというようなことはない。
ましてや、なんでもかんでも一般化したりしない。
外国人が、一般化した日本を礼賛するような本を読みたい向きには、本書はものたりないかもしれない。
また、ものごとを一般化するさいに生じるゆがみを楽しみたいひとも同様。
では、本書にはなにが書いてあるのか。
どこそこを歩いて、どこそこに泊まり、なにを食べ、だれに会った――ということが、ずっと書いてある。
つまり、愉快な調子で書かれた移動の記録。
そんなものが面白いのかといわれると、とても面白い。
だいたい、移動の話というのはそれだけで面白い。
ものをつくる話と、移動する話には、まずはずれがないものだ。
ただ、日本人としては読んで面白いけれど、英語圏のひとはこの本を読んで面白いのだろうか。
もう少し、日本社会を一般化して解説するような文章があったほうが、日本を知らない読者にとっては親切ではないだろうか。
そんな、よけいな気をまわしてしまう。
では、一冊ずつみていこう。
「ニッポン縦断歩き旅」
まえがきによれば、著者は1977年に日本を縦断したイギリス人、アラン・ブースの「佐多への旅」を、今回の旅の手本としたとのこと。
(ちなみに、「佐多への旅」の日本語訳は、「ニッポン縦断日記」(柴田京子/訳 東京書籍 1988)ではないかと思う。これは未読。同じ著者の「津軽」(柴田京子/訳 新潮社 1995)は以前読んだことがある。これもまた移動の記録。ちょっと憂いが効いていたように記憶している)
1993年5月20日。
著者は九州の南端、佐多岬を出発。
日本海側を北上していき、99日目、宗谷岬に到着。
著者は大柄な白人男性なものだから、地方を歩いているとたいそう目立つ。
しばしば、子どもたちにまとわりつかれる。
どこにいってもアメリカ人とまちがえられる。
よくひとから食べものをもらう。
車に乗らないかという誘いは、目的を話して断る。
旅の途中、じつにさまざまなひとたちに会う。
しかし、なにしろ旅の途中なので、そのひとたちがどういうひとたちで、その後どうなったということは皆目わからない。
ただすれちがうばかりで、それが余韻を残す。
たとえば、熊本から宮崎のおばあちゃんのところまでいくという、自転車の少年。
会った時点で、宮崎は120キロ先だ。
少年はぶじおばあちゃんのところにいけただろうか。
もちろん、その後のことはわからない。
著者の旅はいきあたりばったり。
事前に宿の手配をしたりしない。
そのため、その日の食事、風呂、寝床の確保がなによりも大切になる。
あるときはテントを張って野宿し、あるときは民宿に泊まり、あるときはゆきずりのひとの好意により、そのひとの家に泊めてもらったりする。
鹿児島で民宿に泊まろうとしたときは、そこの94歳になるおばあちゃんの話すことばがわからなかった。
ヘルパーの女性が通訳してくれるが、著者のいうことも、ヘルパーさんが通訳しておばあちゃんに伝えるのをみて、著者は仰天する。
鹿児島から宮崎に入ったところで、温泉に入る。
すると、一緒に温泉につかっていた年配者に声をかけられる。
《「鹿児島弁わかった? 宮崎にきてほっとしただろう。ここなら、日本語がまともだからねえ」》
島根の醸造所を訪れたときは、日本語がわからないふりをして、味見コーナーでワインを堪能。
ここに、著者にしてはめずらしく、日本人の「外人恐怖症」についての解説めいた文章があるので引用したい。
《最初は誰も、話しかけてくれない。誰かに日本語で話しかけてはじめて、見るからにほっとした様子で、恐怖症の垣根が取り除かれ、ごく普通の人間として扱ってもらえるようになる》
《レストランに入るときには、天気について二言三言いえば、たいていはうまくいく。もっとも、バックパックを背負った、背の高い半ズボン姿の外人が、田舎の小さな食堂にやってくるとは、誰も予想していないにちがいない》
《のちに梅雨入りしてからは、宿探しで「外人恐怖症」にはずいぶん泣かされたが、そのころはもう慣れていて、苦労の種の一つと見なせるようになっていた》
米子駅近くのビジネスホテルに泊まったとき。
朝食の席に浴衣姿でいったところ、ほかの客はスーツにネクタイ。
「外人が浴衣を着ている」と苦笑する。
《「そっちこそ、日本人のくせにスーツを着ているじゃないか」と内心毒づきながら、わたしも笑い返した。》
高山のあるお寺に泊まったときのこと。
朝食にゆで卵がでた。
外人は生卵が苦手だと思い、ゆでてくれたのだ。
でも、著者は生卵も食べられる。
《親切のつもりで卵をゆでてくれたのだろうが、わたしは特別扱いされることに、いい加減うんざりしていた》
この寺には、ほかの外国人も泊まっていた。
「あなたの卵、ゆでてあるんですよ」と訴えると、その外国人は「ああ、それはありがたい」と喜ぶ。
そこで、著者はまたしても毒づく。
《「この外人め!」》
こんな著者は、福岡県の途上で一度、中年女性に、「にいちゃん、何時ごろでしょうか?」とたずねられた。
《これには、驚いた。時間を聞かれたからではない。「にいちゃん」と呼ばれたことに、である。「にいちゃん」とは直訳すれば「兄」という意味だが、この場合は「そこのお若いの」という意味になる。非常にくだけた、親しげな呼びかけの言葉で、そのように呼ばれたのは初めてだった》
著者は大いに喜ぶのだが、この一件を奥さんに話すと、奥さんはにべもなくこたえる。
《「きっと目が悪くて、あなたが日本人に見えたのよ」》
著者が日本を縦断したのは、1993年。
期せずして、本書は当時の世相を映している箇所があり、味わい深い。
《皇太子の結婚式まで、あと三日。日本中が興奮の渦につつまれている》
長野オリンピックはまだ開催されていなかった。
《長野は、来るべき冬季オリンピックに備えて、建設ラッシュに沸いていた。…脚光を浴びる日が待ちきれなくて、町全体が浮足立っているのは、はた目にも明らかだった》
福井県で道連れとなった49歳の男性は、東京で力仕事をしていたものの、不景気のため建設現場の仕事が激減。
故郷にもどるところだった。
《敦賀までの電車賃で蓄えを使い果たし、ここ三日間ほど歩き続けているという。荷物はなく、イカの干物を入れたビニール袋を持っているだけだ》
酒田の路上でマスクメロンを売っていたおばさんはいう。
《「バブルがはじけったって言うけどさ、あたしにゃ何のことだか、さっぱりわからない。わかるのは、誰もメロンを買わないってことだけ。バブルとやらと、どういう関係があるんだろうねえ」》
大野をでて、九頭竜峡に向かう途中の、ひなびた食堂に入った著者は、そこで恐るべきものをみる。
食堂のなかは、動物のはく製でいっぱい。
さらに女主人は、冷凍庫から冷凍タヌキをもちだしてくる。
《「これはね、お客様に見せるためにとってあるの。みなさん、たぬきを見たがるから」》
このときの印象がよほど強かったのだろう。
著者は、のちの「百名山」の旅の途中、この食堂を再訪している。
このあとも、痛めた足を手術したり、パイロットをしている友人のアンディと一緒に歩いたり――アンディは1日歩いただけで足を痛めて帰ってしまう――小学校を訪れたり、知的な障害をもつ子どもたちと一泊したり、青森でねぷたに参加したりしながら、旅は続く。
「四国八十八か所 ガイジン夏遍路」
こちらは、1995年、四国八十八か所を徒歩でめぐった旅の記録。
以前から、著者は四国巡礼をしてみたいと思っていた。
そこで、以前から娘がほしいと思っていた奥さんは、著者の希望を逆手にとる。
お遍路は、肉食、飲酒、情交を断たなければならない。
――はめられた。
と思いながら、著者はお遍路に出発する。
出発は7月なかば。
お遍路といえば春だが、仕事の都合で夏しかいけない。
スタートは、徳島市にある一番札所(ふだしょ)の、竺和山霊山寺(じくわさんりょうせんじ)から。
白衣(びゃくえ)を着て、金剛杖をもち、菅笠をかぶり、いざ出発。
本書は、八十八か所のお寺について、くわしく書かれている。
ガイドブックとしてもつかえそうだ。
また、当節のお遍路事情を知ることができる。
お遍路には序列があるという。
一番えらいのが、著者のような歩き遍路。
次が、自転車遍路。
以下、バイク遍路、カー遍路、タクシー遍路、バス遍路と続く。
歩き遍路でも、野宿をするとえらい。
野宿をした遍路は、泊まり遍路を見下す。
しかし、歩き遍路のほうがタクシー遍路より上だと、いい切っていいものかと、著者は疑う。
《タクシー遍路だって、旅の足と宿に相応の時間と費用をかけて、行脚を終えようとそれなりに努力しているではないか。》
これは、すべてのエセーについていえることだろうけれど、エセーを面白くするのは、この自己批評性だろう。
外国人の歩き遍路である著者に、地元のひとたちは優しい。
ほうぼうで、お布施をもらい、えらいえらいとほめられる。
《今回の旅は、数年前の日本列島縦断の歩き旅とは、がらりと趣向が異なりそうだ。八十八か所の霊場巡りという目的があるし、白衣という出立ちだけに、通りがかりの人にもお遍路さんだとすぐにわかる。歩き遍路は精神的に、あるいは食料や金銭という目に見える形でさまざまな支援を受けられる。これは、実にありがたい。》
旅をはじめて4日目(だと思う)。
二十一番札所、舎心山太龍寺(しゃしんざんたいりゅうじ)で、タケゾウという若い僧侶と出会う。
このタケゾウ、じつにろくでもない。
金がないと開き直って、他人の善意にすがることを、お遍路だと確信している。
民宿にただで泊まろうと計略を練り、まず風呂を借りようとする。
が、民宿の主人はその手には乗らない。
タケゾウはしつこく食い下がるが、主人はその申し出を断る。
この光景をみて、著者は、これまで千年間、托鉢僧にたかられてきた四国のひとたちを気の毒に思う。
こうして、しばらく著者とタケゾウの珍道中が続くのだが、タケゾウは著者の健脚についていかれない。
ついにタケゾウを置いて、著者は先に進む。
牟岐(むぎ)町で一泊したときは、ちょうどお祭りをしているときだった。
そこで、今回の旅ではじめて外国人に会う。
その若い女性は著者に、スペイン語は話せますかと聞いてくる。
女性は、漁師をしている夫と故郷のウルグアイで出会い、日本にやってきたのだった。
著者と女性は日本語で話しあう。
《「日本には、八年前に来たんですよ。でもこのあたりじゃあ、スペイン語を話せる人なんていなくて。みなさん英語で話しかけてきては、通じないと知って驚くんです。あなたが日本語を話せて、よかった!》
お遍路さんは、霊場に着くと納経所にいく。
そこで、納経帳に寺の名前を書いてもらい、朱印を押してもらう。
そのため、どこの納経所にもドライヤーが置いてあるという。
納経帳が汚れないためにだ。
観光バスがずらりと並んだある寺の納経所では、なにごとにも無関心を貫くお坊さんしかいなかった。
《思うにこれは観光業がもたらした、「坊さん燃え尽き症候群」なのではあるまいか。》
また、別の寺で。
護摩を見物した著者は、事務室で住職と話しあう。
そのとき、護摩で助手をつとめた2人の尼さんがやってきて、タイムレコーダーを押す。
1995年は、フランスがムルロアで核実験をした年だった。
著者がニュージーランド人だと知ったある男性は、「フランスはムルロアで何てことをするんだ!」と怒る。
《核問題についてはおなじ意見を、道中で何度も耳にした。現実に核爆弾を投下された唯一の国家として、核問題で激高しない日本人はまずいない。反核の気運が高まって反核の立場を明確に示したニュージーランドに、わたしが出会ったおおかたの日本人が拍手喝采してくれた。》
スーパーに入ると、外国人ということで、たいそう驚かれる。
著者はいたずらっぽく書いている。
《道を行く場合は、はるか遠くからでも姿が見えるから、遍路が来たぞと相手にも構える余裕がある。少なくとも、落ち着いた顔を装うことならできる。しかしスーパーマーケットとなると話は別で、面白いこと請け合いである。商品がならんだ棚に挟まれて、通路も狭く、誰もこちらに気づかない。買い物客がひょいと角を曲がったら、不意に奇怪な予想外の恐ろしいもののけが登場するというわけだ》
著者はときどき、スーパーにいき、地元のひとを驚かせては楽しんでいたようだ。
このあとも、足摺のユースホステルでアホ少年と同宿するはめになったり、学校のプールを借りてひと泳ぎしたり、一泊1500円の民宿に泊まったり、タケゾウと再会したりしながら歩き続ける。
それにしても、著者は観察が細かい。
どこの納経所に美人がいたかなんてことを、よく書いている。
毎日40キロほど歩いて、さらにメモをとっていたのだろうか。
それとも、みんな記憶で書いたのだろうか。
どちらにしても、たいしたものだ。
著者、クレイグ・マクラクランさんの著書は4冊。
「ニッポン縦断歩き旅」1998(1996)
「四国八十八か所 ガイジン夏遍路」2000(1997)
「ニッポン百名山よじ登り」1999(1998)
「西国三十三か所ガイジン巡礼珍道中」2003
いずれも、出版は小学館。
訳は、橋本恵。
カッコ内の数字は、原書の刊行年。
「珍道中」については未確認。
クレイグさんは、ニュージーランドのひと。
滞日経験が長く、日本語が堪能。
奥さんは日本人。
カバー袖の著者紹介によれば、現在(といっても出版当時)、クイーンズタウンに在住。
トレッキングガイドをしているとのこと。
というわけで、著者はよく日本の社会風俗に慣れ親しんでいる。
だから、日本を訪問したばかりの外国人のように、日本のことがなにもかも新鮮にみえるというようなことはない。
ましてや、なんでもかんでも一般化したりしない。
外国人が、一般化した日本を礼賛するような本を読みたい向きには、本書はものたりないかもしれない。
また、ものごとを一般化するさいに生じるゆがみを楽しみたいひとも同様。
では、本書にはなにが書いてあるのか。
どこそこを歩いて、どこそこに泊まり、なにを食べ、だれに会った――ということが、ずっと書いてある。
つまり、愉快な調子で書かれた移動の記録。
そんなものが面白いのかといわれると、とても面白い。
だいたい、移動の話というのはそれだけで面白い。
ものをつくる話と、移動する話には、まずはずれがないものだ。
ただ、日本人としては読んで面白いけれど、英語圏のひとはこの本を読んで面白いのだろうか。
もう少し、日本社会を一般化して解説するような文章があったほうが、日本を知らない読者にとっては親切ではないだろうか。
そんな、よけいな気をまわしてしまう。
では、一冊ずつみていこう。
「ニッポン縦断歩き旅」
まえがきによれば、著者は1977年に日本を縦断したイギリス人、アラン・ブースの「佐多への旅」を、今回の旅の手本としたとのこと。
(ちなみに、「佐多への旅」の日本語訳は、「ニッポン縦断日記」(柴田京子/訳 東京書籍 1988)ではないかと思う。これは未読。同じ著者の「津軽」(柴田京子/訳 新潮社 1995)は以前読んだことがある。これもまた移動の記録。ちょっと憂いが効いていたように記憶している)
1993年5月20日。
著者は九州の南端、佐多岬を出発。
日本海側を北上していき、99日目、宗谷岬に到着。
著者は大柄な白人男性なものだから、地方を歩いているとたいそう目立つ。
しばしば、子どもたちにまとわりつかれる。
どこにいってもアメリカ人とまちがえられる。
よくひとから食べものをもらう。
車に乗らないかという誘いは、目的を話して断る。
旅の途中、じつにさまざまなひとたちに会う。
しかし、なにしろ旅の途中なので、そのひとたちがどういうひとたちで、その後どうなったということは皆目わからない。
ただすれちがうばかりで、それが余韻を残す。
たとえば、熊本から宮崎のおばあちゃんのところまでいくという、自転車の少年。
会った時点で、宮崎は120キロ先だ。
少年はぶじおばあちゃんのところにいけただろうか。
もちろん、その後のことはわからない。
著者の旅はいきあたりばったり。
事前に宿の手配をしたりしない。
そのため、その日の食事、風呂、寝床の確保がなによりも大切になる。
あるときはテントを張って野宿し、あるときは民宿に泊まり、あるときはゆきずりのひとの好意により、そのひとの家に泊めてもらったりする。
鹿児島で民宿に泊まろうとしたときは、そこの94歳になるおばあちゃんの話すことばがわからなかった。
ヘルパーの女性が通訳してくれるが、著者のいうことも、ヘルパーさんが通訳しておばあちゃんに伝えるのをみて、著者は仰天する。
鹿児島から宮崎に入ったところで、温泉に入る。
すると、一緒に温泉につかっていた年配者に声をかけられる。
《「鹿児島弁わかった? 宮崎にきてほっとしただろう。ここなら、日本語がまともだからねえ」》
島根の醸造所を訪れたときは、日本語がわからないふりをして、味見コーナーでワインを堪能。
ここに、著者にしてはめずらしく、日本人の「外人恐怖症」についての解説めいた文章があるので引用したい。
《最初は誰も、話しかけてくれない。誰かに日本語で話しかけてはじめて、見るからにほっとした様子で、恐怖症の垣根が取り除かれ、ごく普通の人間として扱ってもらえるようになる》
《レストランに入るときには、天気について二言三言いえば、たいていはうまくいく。もっとも、バックパックを背負った、背の高い半ズボン姿の外人が、田舎の小さな食堂にやってくるとは、誰も予想していないにちがいない》
《のちに梅雨入りしてからは、宿探しで「外人恐怖症」にはずいぶん泣かされたが、そのころはもう慣れていて、苦労の種の一つと見なせるようになっていた》
米子駅近くのビジネスホテルに泊まったとき。
朝食の席に浴衣姿でいったところ、ほかの客はスーツにネクタイ。
「外人が浴衣を着ている」と苦笑する。
《「そっちこそ、日本人のくせにスーツを着ているじゃないか」と内心毒づきながら、わたしも笑い返した。》
高山のあるお寺に泊まったときのこと。
朝食にゆで卵がでた。
外人は生卵が苦手だと思い、ゆでてくれたのだ。
でも、著者は生卵も食べられる。
《親切のつもりで卵をゆでてくれたのだろうが、わたしは特別扱いされることに、いい加減うんざりしていた》
この寺には、ほかの外国人も泊まっていた。
「あなたの卵、ゆでてあるんですよ」と訴えると、その外国人は「ああ、それはありがたい」と喜ぶ。
そこで、著者はまたしても毒づく。
《「この外人め!」》
こんな著者は、福岡県の途上で一度、中年女性に、「にいちゃん、何時ごろでしょうか?」とたずねられた。
《これには、驚いた。時間を聞かれたからではない。「にいちゃん」と呼ばれたことに、である。「にいちゃん」とは直訳すれば「兄」という意味だが、この場合は「そこのお若いの」という意味になる。非常にくだけた、親しげな呼びかけの言葉で、そのように呼ばれたのは初めてだった》
著者は大いに喜ぶのだが、この一件を奥さんに話すと、奥さんはにべもなくこたえる。
《「きっと目が悪くて、あなたが日本人に見えたのよ」》
著者が日本を縦断したのは、1993年。
期せずして、本書は当時の世相を映している箇所があり、味わい深い。
《皇太子の結婚式まで、あと三日。日本中が興奮の渦につつまれている》
長野オリンピックはまだ開催されていなかった。
《長野は、来るべき冬季オリンピックに備えて、建設ラッシュに沸いていた。…脚光を浴びる日が待ちきれなくて、町全体が浮足立っているのは、はた目にも明らかだった》
福井県で道連れとなった49歳の男性は、東京で力仕事をしていたものの、不景気のため建設現場の仕事が激減。
故郷にもどるところだった。
《敦賀までの電車賃で蓄えを使い果たし、ここ三日間ほど歩き続けているという。荷物はなく、イカの干物を入れたビニール袋を持っているだけだ》
酒田の路上でマスクメロンを売っていたおばさんはいう。
《「バブルがはじけったって言うけどさ、あたしにゃ何のことだか、さっぱりわからない。わかるのは、誰もメロンを買わないってことだけ。バブルとやらと、どういう関係があるんだろうねえ」》
大野をでて、九頭竜峡に向かう途中の、ひなびた食堂に入った著者は、そこで恐るべきものをみる。
食堂のなかは、動物のはく製でいっぱい。
さらに女主人は、冷凍庫から冷凍タヌキをもちだしてくる。
《「これはね、お客様に見せるためにとってあるの。みなさん、たぬきを見たがるから」》
このときの印象がよほど強かったのだろう。
著者は、のちの「百名山」の旅の途中、この食堂を再訪している。
このあとも、痛めた足を手術したり、パイロットをしている友人のアンディと一緒に歩いたり――アンディは1日歩いただけで足を痛めて帰ってしまう――小学校を訪れたり、知的な障害をもつ子どもたちと一泊したり、青森でねぷたに参加したりしながら、旅は続く。
「四国八十八か所 ガイジン夏遍路」
こちらは、1995年、四国八十八か所を徒歩でめぐった旅の記録。
以前から、著者は四国巡礼をしてみたいと思っていた。
そこで、以前から娘がほしいと思っていた奥さんは、著者の希望を逆手にとる。
お遍路は、肉食、飲酒、情交を断たなければならない。
――はめられた。
と思いながら、著者はお遍路に出発する。
出発は7月なかば。
お遍路といえば春だが、仕事の都合で夏しかいけない。
スタートは、徳島市にある一番札所(ふだしょ)の、竺和山霊山寺(じくわさんりょうせんじ)から。
白衣(びゃくえ)を着て、金剛杖をもち、菅笠をかぶり、いざ出発。
本書は、八十八か所のお寺について、くわしく書かれている。
ガイドブックとしてもつかえそうだ。
また、当節のお遍路事情を知ることができる。
お遍路には序列があるという。
一番えらいのが、著者のような歩き遍路。
次が、自転車遍路。
以下、バイク遍路、カー遍路、タクシー遍路、バス遍路と続く。
歩き遍路でも、野宿をするとえらい。
野宿をした遍路は、泊まり遍路を見下す。
しかし、歩き遍路のほうがタクシー遍路より上だと、いい切っていいものかと、著者は疑う。
《タクシー遍路だって、旅の足と宿に相応の時間と費用をかけて、行脚を終えようとそれなりに努力しているではないか。》
これは、すべてのエセーについていえることだろうけれど、エセーを面白くするのは、この自己批評性だろう。
外国人の歩き遍路である著者に、地元のひとたちは優しい。
ほうぼうで、お布施をもらい、えらいえらいとほめられる。
《今回の旅は、数年前の日本列島縦断の歩き旅とは、がらりと趣向が異なりそうだ。八十八か所の霊場巡りという目的があるし、白衣という出立ちだけに、通りがかりの人にもお遍路さんだとすぐにわかる。歩き遍路は精神的に、あるいは食料や金銭という目に見える形でさまざまな支援を受けられる。これは、実にありがたい。》
旅をはじめて4日目(だと思う)。
二十一番札所、舎心山太龍寺(しゃしんざんたいりゅうじ)で、タケゾウという若い僧侶と出会う。
このタケゾウ、じつにろくでもない。
金がないと開き直って、他人の善意にすがることを、お遍路だと確信している。
民宿にただで泊まろうと計略を練り、まず風呂を借りようとする。
が、民宿の主人はその手には乗らない。
タケゾウはしつこく食い下がるが、主人はその申し出を断る。
この光景をみて、著者は、これまで千年間、托鉢僧にたかられてきた四国のひとたちを気の毒に思う。
こうして、しばらく著者とタケゾウの珍道中が続くのだが、タケゾウは著者の健脚についていかれない。
ついにタケゾウを置いて、著者は先に進む。
牟岐(むぎ)町で一泊したときは、ちょうどお祭りをしているときだった。
そこで、今回の旅ではじめて外国人に会う。
その若い女性は著者に、スペイン語は話せますかと聞いてくる。
女性は、漁師をしている夫と故郷のウルグアイで出会い、日本にやってきたのだった。
著者と女性は日本語で話しあう。
《「日本には、八年前に来たんですよ。でもこのあたりじゃあ、スペイン語を話せる人なんていなくて。みなさん英語で話しかけてきては、通じないと知って驚くんです。あなたが日本語を話せて、よかった!》
お遍路さんは、霊場に着くと納経所にいく。
そこで、納経帳に寺の名前を書いてもらい、朱印を押してもらう。
そのため、どこの納経所にもドライヤーが置いてあるという。
納経帳が汚れないためにだ。
観光バスがずらりと並んだある寺の納経所では、なにごとにも無関心を貫くお坊さんしかいなかった。
《思うにこれは観光業がもたらした、「坊さん燃え尽き症候群」なのではあるまいか。》
また、別の寺で。
護摩を見物した著者は、事務室で住職と話しあう。
そのとき、護摩で助手をつとめた2人の尼さんがやってきて、タイムレコーダーを押す。
1995年は、フランスがムルロアで核実験をした年だった。
著者がニュージーランド人だと知ったある男性は、「フランスはムルロアで何てことをするんだ!」と怒る。
《核問題についてはおなじ意見を、道中で何度も耳にした。現実に核爆弾を投下された唯一の国家として、核問題で激高しない日本人はまずいない。反核の気運が高まって反核の立場を明確に示したニュージーランドに、わたしが出会ったおおかたの日本人が拍手喝采してくれた。》
スーパーに入ると、外国人ということで、たいそう驚かれる。
著者はいたずらっぽく書いている。
《道を行く場合は、はるか遠くからでも姿が見えるから、遍路が来たぞと相手にも構える余裕がある。少なくとも、落ち着いた顔を装うことならできる。しかしスーパーマーケットとなると話は別で、面白いこと請け合いである。商品がならんだ棚に挟まれて、通路も狭く、誰もこちらに気づかない。買い物客がひょいと角を曲がったら、不意に奇怪な予想外の恐ろしいもののけが登場するというわけだ》
著者はときどき、スーパーにいき、地元のひとを驚かせては楽しんでいたようだ。
このあとも、足摺のユースホステルでアホ少年と同宿するはめになったり、学校のプールを借りてひと泳ぎしたり、一泊1500円の民宿に泊まったり、タケゾウと再会したりしながら歩き続ける。
それにしても、著者は観察が細かい。
どこの納経所に美人がいたかなんてことを、よく書いている。
毎日40キロほど歩いて、さらにメモをとっていたのだろうか。
それとも、みんな記憶で書いたのだろうか。
どちらにしても、たいしたものだ。
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戯曲アルセーヌ・ルパン
明けましておめでとうございます。
お正月は「戯曲アルセーヌ・ルパン」(モーリス・ルブラン フランシス・ド・クロワッセ/著 小高美保/訳 論創社 2006)を読んでいました。
カバー袖の文章によれば、ルパンの戯曲を1冊にまとめた本は、世界初だそう。
世界初とはすごい。
収録されている戯曲は3本。
「戯曲アルセーヌ・ルパン」
「アルセーヌ・ルパンの帰還」
「アルセーヌ・ルパンの冒険」
最初の、「戯曲アルセーヌ・ルパン」が4幕もの。
「帰還」と「冒険」は1幕もの。
また、最初の2つは、劇作家フランシス・ドクロワッセとの共同執筆だとのこと。
犯行予告や、犯行後に残したサイン。
海外へでた人物との入れ替わり。
恋心のために、どうしても正体を明かさずにはおれないルパン――。
こんな大時代な道具立てが山盛りで、大変楽しかったです。
個人的には、最後の一幕物、「アルセーヌ・ルパンの冒険」が気楽に読めてよかった。
でも、「戯曲アルセーヌ・ルパン」の、振幅のあるルパン像も捨てがたい。
本書には、アルセーヌ・ルパン研究家(!)住田忠久さんによる、大変充実した解説がついている。
本書の、5分の1くらいが解説。
でも、いいたいことがありすぎるのだろう。
ひとつのセンテンスにたくさん荷物をのせるため、文章がいささか読みにくい。
で、解説によれば、「戯曲アルセーヌ・ルパン」は、大当たりだったそう。
1908年の初演の翌年、1909年にはイギリスで公開されることに。
この公開にあわせて、戯曲のノベライズが企画され、イギリスの作家、エドガー・アルフレッド・ジェプスンがノベライズを担当。
1910年には、アメリカでも公開。
同じ年、日本でノベライズが翻案。
そして、このノベライズが、日本では現在でも「ルパンの冒険」といったタイトルで、ルブラン名義の小説として刊行されているとのこと。
おお、そうだったのか。
ノベライズで読んだら、また趣がちがって面白いかもしれない。
南洋一郎訳で読むか、講談社青い鳥文庫として、2000年に刊行されたという「怪盗ルパン 王女の宝冠」を読むか、悩むところ。
さて。
今年もまた読んだ本のメモをとっていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。
お正月は「戯曲アルセーヌ・ルパン」(モーリス・ルブラン フランシス・ド・クロワッセ/著 小高美保/訳 論創社 2006)を読んでいました。
カバー袖の文章によれば、ルパンの戯曲を1冊にまとめた本は、世界初だそう。
世界初とはすごい。
収録されている戯曲は3本。
「戯曲アルセーヌ・ルパン」
「アルセーヌ・ルパンの帰還」
「アルセーヌ・ルパンの冒険」
最初の、「戯曲アルセーヌ・ルパン」が4幕もの。
「帰還」と「冒険」は1幕もの。
また、最初の2つは、劇作家フランシス・ドクロワッセとの共同執筆だとのこと。
犯行予告や、犯行後に残したサイン。
海外へでた人物との入れ替わり。
恋心のために、どうしても正体を明かさずにはおれないルパン――。
こんな大時代な道具立てが山盛りで、大変楽しかったです。
個人的には、最後の一幕物、「アルセーヌ・ルパンの冒険」が気楽に読めてよかった。
でも、「戯曲アルセーヌ・ルパン」の、振幅のあるルパン像も捨てがたい。
本書には、アルセーヌ・ルパン研究家(!)住田忠久さんによる、大変充実した解説がついている。
本書の、5分の1くらいが解説。
でも、いいたいことがありすぎるのだろう。
ひとつのセンテンスにたくさん荷物をのせるため、文章がいささか読みにくい。
で、解説によれば、「戯曲アルセーヌ・ルパン」は、大当たりだったそう。
1908年の初演の翌年、1909年にはイギリスで公開されることに。
この公開にあわせて、戯曲のノベライズが企画され、イギリスの作家、エドガー・アルフレッド・ジェプスンがノベライズを担当。
1910年には、アメリカでも公開。
同じ年、日本でノベライズが翻案。
そして、このノベライズが、日本では現在でも「ルパンの冒険」といったタイトルで、ルブラン名義の小説として刊行されているとのこと。
おお、そうだったのか。
ノベライズで読んだら、また趣がちがって面白いかもしれない。
南洋一郎訳で読むか、講談社青い鳥文庫として、2000年に刊行されたという「怪盗ルパン 王女の宝冠」を読むか、悩むところ。
さて。
今年もまた読んだ本のメモをとっていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。
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小松左京自伝
「小松左京自伝」(小松左京 日本経済新聞出版社 2008)
副題は「実存を求めて」
表紙には、本やビデオテープでいっぱいの大きな机の前に、ガウンを着て座っている小松左京の写真が。
背後は、これまた本でいっぱいの書棚。
写真の下には、「日本経済新聞社出版社」
「社」がひとつ多い。
これはまちがいだろうか。
タイトル通り、本書は自伝。
まず、最初の4分の1ほどに、「人生を語る」として、日本経済新聞の「私の履歴書」に連載された自伝が載せられている。
その後、「自作を語る」として、小松左京が70歳をすぎてから道楽としてはじめたという同人誌「小松左京マガジン」に掲載された、作品についてのインタビューが載せられている。
さらに、親友だった高橋和巳について語った「特別編」があり、資料編として主要作品のあらすじがあり、年譜と索引がある。
中心になっているのは、「自作を語る」。
聞き手をつとめているのは、小松左京研究会のかたがた。
このインタビューは素晴らしい。
小松左京の、映像作品や評論やエセーやイベントといった多岐にわたる仕事について、よく話を聞いている。
膨大な作品(短篇だけで約480作あるそう)をよく読んで、つねに全体像を念頭におきながら、個々の作品についての創作譚を聞き出している。
こんな風にインタビューされるなんて、小松左京は幸せな作家だ。
さて、まずありがたいのは、作品群をいくつかの系列に腑分けしてくれていること。
タイムスリップやタイムパラドックスものといった時間SFがある。
ポリティカルフィクションがある。
歴史小説があり、女シリーズと呼ばれる作品群がある。
社会批評(諷刺)系があり、ホラーがある。
小松左京初心者にとって、この腑分けは助かる。
そして、どの作品にもSFの手法なり発想がつかわれている。
SFの手法というのは、ものごとを相対化するということ。
このあたりの機微について、小松左京はこう明言している。
「文学は科学でさえ相対化する。だからサイエンスもフィクションにできるんだ」
初期の小松左京は、じつに多くの作品をものしている。
その背後には、大変な勉強があった。
「先生は当時(「復活の日」のころ)どんな風に勉強されていたんですか?」という質問に、こうこたえている。
「アメリカ文化センターに『サイエンティフィック・アメリカン』とか、『ナショナル・ジオグラフィック』があったんだ」
多いときは週に5日通っていたという。
「コピー機がないころだから、とにかく書き写しとくんだよ」と、こともなげにいっているけれど、これはすごいことだ。
小松左京といえば、一番有名な作品は「日本沈没」だろう。
とにかく、爆発的に売れた。
おかげでたっぷり税金をとられたとこぼしている。
「それまで年数百万円で暮らしていたのに、もし収入が何千万円になったら課税率65%。増刷を止めてくれって電話したら、そんなわけにはいきませんと(笑)」
当時の高額納税者公示制度によると、1973年の収入が1億2千万円で、文壇部門の5位。
「銀行がこれだけの収入があったということを1回通帳に載せましょうと。今は最高税率50%だから、孫に見せてやろうと思ってるんだ。日本はこんないい国になったんだよって(笑)」
お孫さんの話は、ジュブナイル作品についてのインタビューのときにもでてくる。
ジュブナイルにも目を配っているところが、このインタビューのえらいところだ。
「孫娘が「おじいちゃまのSFが小学校の図書館にありました」って言ってきたんだけど、それが「宇宙人のしゅくだい」で、あのときはうれしかったな。やっぱりちゃんと書いておかないといけないと思ったよ」
「女シリーズ」は小松作品の系譜のなかでも異色作だ。
でも、インタビューによれば、この作品もSFの発想がある。
「SF作家は異世界というものに常に興味を持つだろ。同じ人間だと思っていたら、宇宙人だったとか海底人だったとかね。異世界のルポのつもりで書いて…」
当時は大衆作家のあいだにSF作家は女が書けんという噂があり、それならタイトルに「女」とつけたのを書いてやろうとも思ったとのこと。
こういう負けん気も、インタビューのはしばしにあらわれる。
それにしても、「女シリーズ」は異世界ルポだったとは。
このインタビューを読むまで気がつかなかった。
ノンフィクションの系列からは、「小松左京の大震災’95」をとりあげよう。
小松左京は、阪神・淡路大震災に遭遇したとき、非常なショックを受けたともらしている。
「僕はあれだけ地震や地殻変動を調べてて、阪神間にあんな地震が来るとは思ってなかったんだ。関西で歴史に残っているのは文禄4年(1596年)の伏見大地震。だから京都のはずれに断層があるのは知ってたけど、阪神間にあんなのがあるとは。つまり僕の勉強が足らんという、そのショックだな」
「日本沈没」の作者にして、この言ありというところだろうか。
ほかの作家との交友についても少しだけ記述がある。
最初の長篇、「日本アパッチ族」は、開高健の「日本三文オペラ」から着想を得たという説があるけれど、そうではなかったらしい。
「日本三文オペラ」のことはぜんぜん知らずに作品を書き、その後開高健と出会って意気投合したという。
ほかにも、本書はインタビュー集らしく、雑学が満載。
京都の色街についての説明があったり、平安三部作では、ウナギの蒲焼についてのうんちくがあったり。
さて。
本書の後半には、小松左京の主要作品のあらすじ(と初出年)が、五十音順に収録されている。
作成は、小松左京研究会。
あらすじをつくるというのは、苦労が多いわりに、だれからもほめられることがない。
だから、ここでは大いにほめちぎっておきたい。
この主要作品のあらすじは大労作だ。
以下、なにが主要作品と目されたのか、タイトルだけ引用してみよう。
「青い宇宙の冒険」(ジュブナイル長篇)
「青ひげと鬼」
「秋の女」
「明日泥棒」(長篇)
「雨と、風と、夕映えの彼方へ」
「アメリカの壁」
「あやつり心中」
「飢えた宇宙(そら)」
「飢えなかった男」
「ヴォミーサ」
「エスパイ」(長篇)
「お糸」
「お召し」
「終りなき負債」
「糸遊(かげろう)」
「紙か髪か」
「神への長い道」
「牙の時代」
「極冠作戦」
「虚無回廊」(長篇)
「空中都市008」(ジュブナイル連作長篇)
「くだんのはは」
「曇り空の下で」
「劇場」
「結晶星団」
「氷の下の暗い顔」
「五月の晴れた日に」
「御先祖様万歳」
「こちらニッポン…」(長篇)
「コップ一杯の戦争」
「子供たちの旅」
「ゴルディアスの結び目」
「鷺娘」
「さよならジュピター」(長篇)
「四月の十四日間」
「時空道中膝栗毛」
「首都消失」(長篇)
「召集令状」
「人類裁判」
「第二日本国誕生」
「題未定」
「旅する女」
「地球になった男」
「地には平和を」
「継ぐのは誰か?」(長篇)
「哲学者の小径」
「天神山縁糸苧環(てんじんやまおにしのおだまき)」
「共喰い」
「長い部屋」
「流れる女」
「南海太閤記」
「日本アパッチ族」(長篇)
「日本沈没」(長篇)
「眠りと旅と夢」
「HAPPY BIRTHDAY TO……」
「果てしなき流れの果に」(長篇)
「華やかな兵器」
「BS6005に何が起こったか」
「HE・BEA計画」
「復活の日」(長篇)
「保護鳥」
「岬にて」
「見知らぬ明日(長篇)
「模型の時代」
「やぶれかぶれ青春記」(ジュブナイル長篇)
「夜が明けたら」
「とりなおし(リテイク)」
(長篇)と書いたもの以外は、みな短篇。
これをみると、自分は小松左京作品の裏街道を歩いてきたんだなと思う。
個人的に好きな「イッヒッヒ作戦」が落とされているのが悲しい。
「南海太閤記」よりも、完成度は上だと思うのだけれど。
あらすじには、作品についての情報やエピソードもおさめられている。
「HE・BEA計画」は、短編集「神への長い道」にあつめられる小松未来史の劈頭作品だとのこと。
そんなこととはつゆ知らずに作品を読んでいた。
ちなみに、「神への長い道」は小松左京が自身の作品のなかで一番好きな作品だそう。
それから、「御先祖様万歳」は、発表当時、村の所在を問い合わせる電話が編集部に殺到したというエピソードがあるとのこと。
ところで、本書には知りたかったことが2つ、書いていなかった。
それについて記しておこう。
ひとつは、小松左京が作品の完成度というものをどう考えていたのかということ。
小松作品には尻切れトンボが多い。
問題提起をしたり、アイデアを披露したりすればそれでいいと思っていたのだろうか。
それにしては、とんでもない完成度の作品もある。
今回の作品はこれくらいと、毎回落としどころを変えていたのか。
小松作品の完成度がいまひとつなのは、作者が登場人物のことを忘れて、考察をまくしたててしまうからだ。
こういうスタイルをとるなら、いっそ最初から評論なり科学エセーなりを書いてしまえばいいのにと読んでいるこちらは思うけれど、ご本人はそんなこと念頭にも浮かばなかったらしい。
中学生のころ「神曲」に心酔した小松左京は、文学を大切に思い、なによりお話が好きだった。
このインタビューのあちこちにも、お話にたいする愛着が語られている。
「僕は本当は「お話」が好きなんだ」と述べる姿は、ちょっと感動的だ。
完成度がいまひとつでも、小松作品はみんな面白く読める。
文体がエネルギッシュで、つい読まされてしまうからだ。
小松左京の文体はどこからきたのか。
これが知りたかった2つ目のこと。
このことについて、言及はなにもない。
ただ、小松左京はSF作家として認知されるまで、漫才の台本書きをしていた。
4年間で、200字詰め1万2千枚を書いたというから、すさまじい。
小松左京の文体は、ひょっとしたらこの漫才の台本書きで鍛えられたのではないかと思うのだけれど、どんなものだろう。
小松左京作品をひとことでいうと、「SFという手法をつかって戦争をえがいた」ということになると思う。
インタビューを読んでいても、戦争の影が落ちていない作品はない。
敗戦のとき14歳だった小松左京は従軍経験をもたなかった。
だから、本人いわく「戦争について書く資格がない」
しかし、SFという、なんでも相対化できる手法をつかえば、戦争について書く資格が得られる。
そして、小松左京はこの手法をつかって、戦争を端緒に、政治歴史文明人類宇宙生命そのほか諸もろについて旺盛に書き記した。
だしぬけだけれど、インタビューを読んでいて印象に残るのは、ときおりみせるナイーブな発言だ。
たとえば、高橋和巳と開高健について、「これだけは言っておくわ」と威儀を正してこう述べる。
「高橋和巳と開高健な。美の体系が生き残る理由とか、宇宙における人間の存在根拠の話をすると、彼らの目の輝きがぱっと変わるんだ。「それ大事だけど、君はどう思う」「うん。僕も考えるから、一緒に考えろよ」って言ってるうちに、二人とも死んでしまった」
すべての作品の核には、このナイーブさがひそんでいるようにみえる。
そして、その核は、14歳の少年の姿をしているのだろう。
副題は「実存を求めて」
表紙には、本やビデオテープでいっぱいの大きな机の前に、ガウンを着て座っている小松左京の写真が。
背後は、これまた本でいっぱいの書棚。
写真の下には、「日本経済新聞社出版社」
「社」がひとつ多い。
これはまちがいだろうか。
タイトル通り、本書は自伝。
まず、最初の4分の1ほどに、「人生を語る」として、日本経済新聞の「私の履歴書」に連載された自伝が載せられている。
その後、「自作を語る」として、小松左京が70歳をすぎてから道楽としてはじめたという同人誌「小松左京マガジン」に掲載された、作品についてのインタビューが載せられている。
さらに、親友だった高橋和巳について語った「特別編」があり、資料編として主要作品のあらすじがあり、年譜と索引がある。
中心になっているのは、「自作を語る」。
聞き手をつとめているのは、小松左京研究会のかたがた。
このインタビューは素晴らしい。
小松左京の、映像作品や評論やエセーやイベントといった多岐にわたる仕事について、よく話を聞いている。
膨大な作品(短篇だけで約480作あるそう)をよく読んで、つねに全体像を念頭におきながら、個々の作品についての創作譚を聞き出している。
こんな風にインタビューされるなんて、小松左京は幸せな作家だ。
さて、まずありがたいのは、作品群をいくつかの系列に腑分けしてくれていること。
タイムスリップやタイムパラドックスものといった時間SFがある。
ポリティカルフィクションがある。
歴史小説があり、女シリーズと呼ばれる作品群がある。
社会批評(諷刺)系があり、ホラーがある。
小松左京初心者にとって、この腑分けは助かる。
そして、どの作品にもSFの手法なり発想がつかわれている。
SFの手法というのは、ものごとを相対化するということ。
このあたりの機微について、小松左京はこう明言している。
「文学は科学でさえ相対化する。だからサイエンスもフィクションにできるんだ」
初期の小松左京は、じつに多くの作品をものしている。
その背後には、大変な勉強があった。
「先生は当時(「復活の日」のころ)どんな風に勉強されていたんですか?」という質問に、こうこたえている。
「アメリカ文化センターに『サイエンティフィック・アメリカン』とか、『ナショナル・ジオグラフィック』があったんだ」
多いときは週に5日通っていたという。
「コピー機がないころだから、とにかく書き写しとくんだよ」と、こともなげにいっているけれど、これはすごいことだ。
小松左京といえば、一番有名な作品は「日本沈没」だろう。
とにかく、爆発的に売れた。
おかげでたっぷり税金をとられたとこぼしている。
「それまで年数百万円で暮らしていたのに、もし収入が何千万円になったら課税率65%。増刷を止めてくれって電話したら、そんなわけにはいきませんと(笑)」
当時の高額納税者公示制度によると、1973年の収入が1億2千万円で、文壇部門の5位。
「銀行がこれだけの収入があったということを1回通帳に載せましょうと。今は最高税率50%だから、孫に見せてやろうと思ってるんだ。日本はこんないい国になったんだよって(笑)」
お孫さんの話は、ジュブナイル作品についてのインタビューのときにもでてくる。
ジュブナイルにも目を配っているところが、このインタビューのえらいところだ。
「孫娘が「おじいちゃまのSFが小学校の図書館にありました」って言ってきたんだけど、それが「宇宙人のしゅくだい」で、あのときはうれしかったな。やっぱりちゃんと書いておかないといけないと思ったよ」
「女シリーズ」は小松作品の系譜のなかでも異色作だ。
でも、インタビューによれば、この作品もSFの発想がある。
「SF作家は異世界というものに常に興味を持つだろ。同じ人間だと思っていたら、宇宙人だったとか海底人だったとかね。異世界のルポのつもりで書いて…」
当時は大衆作家のあいだにSF作家は女が書けんという噂があり、それならタイトルに「女」とつけたのを書いてやろうとも思ったとのこと。
こういう負けん気も、インタビューのはしばしにあらわれる。
それにしても、「女シリーズ」は異世界ルポだったとは。
このインタビューを読むまで気がつかなかった。
ノンフィクションの系列からは、「小松左京の大震災’95」をとりあげよう。
小松左京は、阪神・淡路大震災に遭遇したとき、非常なショックを受けたともらしている。
「僕はあれだけ地震や地殻変動を調べてて、阪神間にあんな地震が来るとは思ってなかったんだ。関西で歴史に残っているのは文禄4年(1596年)の伏見大地震。だから京都のはずれに断層があるのは知ってたけど、阪神間にあんなのがあるとは。つまり僕の勉強が足らんという、そのショックだな」
「日本沈没」の作者にして、この言ありというところだろうか。
ほかの作家との交友についても少しだけ記述がある。
最初の長篇、「日本アパッチ族」は、開高健の「日本三文オペラ」から着想を得たという説があるけれど、そうではなかったらしい。
「日本三文オペラ」のことはぜんぜん知らずに作品を書き、その後開高健と出会って意気投合したという。
ほかにも、本書はインタビュー集らしく、雑学が満載。
京都の色街についての説明があったり、平安三部作では、ウナギの蒲焼についてのうんちくがあったり。
さて。
本書の後半には、小松左京の主要作品のあらすじ(と初出年)が、五十音順に収録されている。
作成は、小松左京研究会。
あらすじをつくるというのは、苦労が多いわりに、だれからもほめられることがない。
だから、ここでは大いにほめちぎっておきたい。
この主要作品のあらすじは大労作だ。
以下、なにが主要作品と目されたのか、タイトルだけ引用してみよう。
「青い宇宙の冒険」(ジュブナイル長篇)
「青ひげと鬼」
「秋の女」
「明日泥棒」(長篇)
「雨と、風と、夕映えの彼方へ」
「アメリカの壁」
「あやつり心中」
「飢えた宇宙(そら)」
「飢えなかった男」
「ヴォミーサ」
「エスパイ」(長篇)
「お糸」
「お召し」
「終りなき負債」
「糸遊(かげろう)」
「紙か髪か」
「神への長い道」
「牙の時代」
「極冠作戦」
「虚無回廊」(長篇)
「空中都市008」(ジュブナイル連作長篇)
「くだんのはは」
「曇り空の下で」
「劇場」
「結晶星団」
「氷の下の暗い顔」
「五月の晴れた日に」
「御先祖様万歳」
「こちらニッポン…」(長篇)
「コップ一杯の戦争」
「子供たちの旅」
「ゴルディアスの結び目」
「鷺娘」
「さよならジュピター」(長篇)
「四月の十四日間」
「時空道中膝栗毛」
「首都消失」(長篇)
「召集令状」
「人類裁判」
「第二日本国誕生」
「題未定」
「旅する女」
「地球になった男」
「地には平和を」
「継ぐのは誰か?」(長篇)
「哲学者の小径」
「天神山縁糸苧環(てんじんやまおにしのおだまき)」
「共喰い」
「長い部屋」
「流れる女」
「南海太閤記」
「日本アパッチ族」(長篇)
「日本沈没」(長篇)
「眠りと旅と夢」
「HAPPY BIRTHDAY TO……」
「果てしなき流れの果に」(長篇)
「華やかな兵器」
「BS6005に何が起こったか」
「HE・BEA計画」
「復活の日」(長篇)
「保護鳥」
「岬にて」
「見知らぬ明日(長篇)
「模型の時代」
「やぶれかぶれ青春記」(ジュブナイル長篇)
「夜が明けたら」
「とりなおし(リテイク)」
(長篇)と書いたもの以外は、みな短篇。
これをみると、自分は小松左京作品の裏街道を歩いてきたんだなと思う。
個人的に好きな「イッヒッヒ作戦」が落とされているのが悲しい。
「南海太閤記」よりも、完成度は上だと思うのだけれど。
あらすじには、作品についての情報やエピソードもおさめられている。
「HE・BEA計画」は、短編集「神への長い道」にあつめられる小松未来史の劈頭作品だとのこと。
そんなこととはつゆ知らずに作品を読んでいた。
ちなみに、「神への長い道」は小松左京が自身の作品のなかで一番好きな作品だそう。
それから、「御先祖様万歳」は、発表当時、村の所在を問い合わせる電話が編集部に殺到したというエピソードがあるとのこと。
ところで、本書には知りたかったことが2つ、書いていなかった。
それについて記しておこう。
ひとつは、小松左京が作品の完成度というものをどう考えていたのかということ。
小松作品には尻切れトンボが多い。
問題提起をしたり、アイデアを披露したりすればそれでいいと思っていたのだろうか。
それにしては、とんでもない完成度の作品もある。
今回の作品はこれくらいと、毎回落としどころを変えていたのか。
小松作品の完成度がいまひとつなのは、作者が登場人物のことを忘れて、考察をまくしたててしまうからだ。
こういうスタイルをとるなら、いっそ最初から評論なり科学エセーなりを書いてしまえばいいのにと読んでいるこちらは思うけれど、ご本人はそんなこと念頭にも浮かばなかったらしい。
中学生のころ「神曲」に心酔した小松左京は、文学を大切に思い、なによりお話が好きだった。
このインタビューのあちこちにも、お話にたいする愛着が語られている。
「僕は本当は「お話」が好きなんだ」と述べる姿は、ちょっと感動的だ。
完成度がいまひとつでも、小松作品はみんな面白く読める。
文体がエネルギッシュで、つい読まされてしまうからだ。
小松左京の文体はどこからきたのか。
これが知りたかった2つ目のこと。
このことについて、言及はなにもない。
ただ、小松左京はSF作家として認知されるまで、漫才の台本書きをしていた。
4年間で、200字詰め1万2千枚を書いたというから、すさまじい。
小松左京の文体は、ひょっとしたらこの漫才の台本書きで鍛えられたのではないかと思うのだけれど、どんなものだろう。
小松左京作品をひとことでいうと、「SFという手法をつかって戦争をえがいた」ということになると思う。
インタビューを読んでいても、戦争の影が落ちていない作品はない。
敗戦のとき14歳だった小松左京は従軍経験をもたなかった。
だから、本人いわく「戦争について書く資格がない」
しかし、SFという、なんでも相対化できる手法をつかえば、戦争について書く資格が得られる。
そして、小松左京はこの手法をつかって、戦争を端緒に、政治歴史文明人類宇宙生命そのほか諸もろについて旺盛に書き記した。
だしぬけだけれど、インタビューを読んでいて印象に残るのは、ときおりみせるナイーブな発言だ。
たとえば、高橋和巳と開高健について、「これだけは言っておくわ」と威儀を正してこう述べる。
「高橋和巳と開高健な。美の体系が生き残る理由とか、宇宙における人間の存在根拠の話をすると、彼らの目の輝きがぱっと変わるんだ。「それ大事だけど、君はどう思う」「うん。僕も考えるから、一緒に考えろよ」って言ってるうちに、二人とも死んでしまった」
すべての作品の核には、このナイーブさがひそんでいるようにみえる。
そして、その核は、14歳の少年の姿をしているのだろう。
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魂の文章術
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
では、さっそく読んだ本のメモを――
お正月に読んでいたのは、「魂の文章術」(ナタリー・ゴールドバーグ 春秋社 2006)。
旧版のタイトルは、「クリエイティヴ・ライティング 〈自己発見〉の文章術」。
本書は、この旧版を改題、増補新装したもの。
この本は、多くの文章術の本と、遠くかけはなれている。
多くの本にあるような、「どうやったら効率よく、効果的な文章が書けるのか」といった問いに、いっさい触れていないからだ。
この本に書かれているのは、ただひとつ、
「黙って書け」
ということだけ。
とにかく書く。
制限時間を好きなように決め、その時間内は手をうごかし続ける。
書いたものは消さない。
読み返さない。
つづりや、句読点や、文法は気にしない。
考えない。
論理的にならない。
心になにか怖い感じのものが浮かんできたら、それに飛びつく。
そこに、おそらくエネルギーが潜んでいる。
とにかく、一心不乱に書き続ける。
こうして、日々書き続けることで、一体なにがどうなるのか。
まず、自分を知ることができる。
それから、自分をかこむ世界について知ることができる。
忍耐力がつちかわれ、より率直になり、おそらく精神の安定が増す。
自由を得、そしてきっと文章が上達する。
つまり、この本は文章術の本などではない。
文字どおり、文章修行の本。
修行の2文字により多くのアクセントが置かれた本なのだ。
文章の書きかたの本はたくさんあるけれど、こんな本はめずらしい。
著者は、禅を学んでいるそうで、随所に師のことばがあらわれる。
師の教えは、ときおりユーモラス。
著者はあるとき、なにかを書こうとすると、きまって頭が空っぽになり、恍惚状態になる時期があったそう。
「すごい! 私は悟りを開きつつあるんだ! こっちのほうが書くことよりずっと重要だわ」
著者はこのことを師に告げた。
すると、師はこうこたえたという。
「それは怠け心にすぎん。ちゃんと仕事しなさい」
こんな風に、本書には著者の体験がたくさん盛りこまれている。
一章の長さは、長からず短からず。
ひと息に読むのにちょうどいい。
そして、ひと息に読んでいるうちに、あっというまに全部読み終えてしまう。
世の中には、傑作や名作を書いたものの、アル中になったり自殺してしまったりする作家が数多くいる。
この本が教えようとしているのは、傑作の書きかたではない。
正気でいるための書きかただ。
そして、師のいう、「つねにどんなときでも、一切衆生にやさい思いやりをもち続ける」ことを目指す書きかた。
この、「正気でいるための文章術」は、テクニカルな面ばかり語る、ほかの文章の書きかたの本の、いい毒消しになるだろうと思う。
なにかに上達したいと思ったら、それをやり続ける以外に道はないという、当たり前のことを思い出させてくれるからだ。
ひとによっては、大いに勇気づけられるだろう。
これまで紹介してきたように、この本はいささか求道的。
お正月に読んで、身を正すのにぴったりの一冊だった。
本年もよろしくお願いします。
では、さっそく読んだ本のメモを――
お正月に読んでいたのは、「魂の文章術」(ナタリー・ゴールドバーグ 春秋社 2006)。
旧版のタイトルは、「クリエイティヴ・ライティング 〈自己発見〉の文章術」。
本書は、この旧版を改題、増補新装したもの。
この本は、多くの文章術の本と、遠くかけはなれている。
多くの本にあるような、「どうやったら効率よく、効果的な文章が書けるのか」といった問いに、いっさい触れていないからだ。
この本に書かれているのは、ただひとつ、
「黙って書け」
ということだけ。
とにかく書く。
制限時間を好きなように決め、その時間内は手をうごかし続ける。
書いたものは消さない。
読み返さない。
つづりや、句読点や、文法は気にしない。
考えない。
論理的にならない。
心になにか怖い感じのものが浮かんできたら、それに飛びつく。
そこに、おそらくエネルギーが潜んでいる。
とにかく、一心不乱に書き続ける。
こうして、日々書き続けることで、一体なにがどうなるのか。
まず、自分を知ることができる。
それから、自分をかこむ世界について知ることができる。
忍耐力がつちかわれ、より率直になり、おそらく精神の安定が増す。
自由を得、そしてきっと文章が上達する。
つまり、この本は文章術の本などではない。
文字どおり、文章修行の本。
修行の2文字により多くのアクセントが置かれた本なのだ。
文章の書きかたの本はたくさんあるけれど、こんな本はめずらしい。
著者は、禅を学んでいるそうで、随所に師のことばがあらわれる。
師の教えは、ときおりユーモラス。
著者はあるとき、なにかを書こうとすると、きまって頭が空っぽになり、恍惚状態になる時期があったそう。
「すごい! 私は悟りを開きつつあるんだ! こっちのほうが書くことよりずっと重要だわ」
著者はこのことを師に告げた。
すると、師はこうこたえたという。
「それは怠け心にすぎん。ちゃんと仕事しなさい」
こんな風に、本書には著者の体験がたくさん盛りこまれている。
一章の長さは、長からず短からず。
ひと息に読むのにちょうどいい。
そして、ひと息に読んでいるうちに、あっというまに全部読み終えてしまう。
世の中には、傑作や名作を書いたものの、アル中になったり自殺してしまったりする作家が数多くいる。
この本が教えようとしているのは、傑作の書きかたではない。
正気でいるための書きかただ。
そして、師のいう、「つねにどんなときでも、一切衆生にやさい思いやりをもち続ける」ことを目指す書きかた。
この、「正気でいるための文章術」は、テクニカルな面ばかり語る、ほかの文章の書きかたの本の、いい毒消しになるだろうと思う。
なにかに上達したいと思ったら、それをやり続ける以外に道はないという、当たり前のことを思い出させてくれるからだ。
ひとによっては、大いに勇気づけられるだろう。
これまで紹介してきたように、この本はいささか求道的。
お正月に読んで、身を正すのにぴったりの一冊だった。
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本へのとびら
「本へのとびら」(宮崎駿 岩波書店 2011)
副題は「岩波少年文庫を語る」
岩波新書の一冊。
本書は、宮崎駿監督が、岩波少年文庫からオススメの本を50冊えらび、子どもの読書について語った本。
前半は、コメントとともに50冊を推薦していて、これは、たしか去年だったか、スタジオジブリで非売品として作成された小冊子「岩波少年文庫の50冊」をもとにしたもの。
後半は、小冊子のためにおこなわれたインタビューと、テレビ番組のためにおこなわれた阿川佐和子さんとの対談をもとに構成したもの。
最後に、「3月11日のあとに」という、新たなインタビューがつけ加えられている。
冒頭にある、成立事情を記した文章にはこんなことも。
「小社少年文庫では、同じ作品でも訳者、編者、挿絵等を変えて新版として刊行している場合がありますが、本書でご紹介しているのは著者推薦の版です」
というわけで、「銀のスケート」は、改題前の「ハンス・ブリンカー」のタイトルで紹介されたりしている。
まず、後半のインタビューからいこう。
宮崎監督の発言は率直で、大変面白い。
50冊くらい選ぶのは軽いと思っていたら、内容をおぼえているのを挙げたら10冊くらいで終わってしまった。
「日本霊異記」と「聊斎志異」は入れたけど、「今昔物語集」はさんざん悩んでやめた。
この2冊を読むひとなら、じき必ず読むだろうと思って。
ファージョンなんて、本国ではすっかり忘れられているのに、今も読まれているのは石井桃子さんのせいだろう。
「ハンス・ブリンガー」は今回はじめて読んだ。
「まぼろしの白馬」もそう。
「まぼろしの白馬」は、中川李枝子さんに薦められて読むしかないと覚悟をきめた。
否定できない魅力があるけれど、けっこういいところのお嬢さんが好きになりそうな本だと思ったりして。
……
えらばれた50冊のコメントをみると、「ぼくはこの本を読んでいません」なんて書いているのもある。
奥さんの推薦なので入れたのだそう。
こんな風に、大いに私情を交えているところが愉快だ。
子どものころよく読んだのは、他の出版社のダイジェストの名作ものだそう。
ほとんど、貸本屋さんで借りて読んだとのこと。
「巌窟王」とか「奇巌城」とか「秘密の花園」とか。
――なので、ひょっとすると監督は、これらの作品を少年文庫では読んでいないのではないか
と、疑われる。
まあ、細かい話だけれど。
それから、子どものころの読書についてはこんなことも。
「「バラとゆびわ」や「愛の妖精」が好きでドキドキしながら隠れて読んだりしました。女の子が主人公ですからね。どんなに熟読していても、男として、友人に言えないものは言えない。兄弟にも言わなかった。友人に言ったら思い切りバカにされるだけですからね」
挿絵の話も多い。
児童文学は挿絵の魅力が大いにものをいう。
この本は、図版が多いのでありがたい。
「自分で絵を描くときに「チポリーノの冒険」の挿絵などはずいぶん影響を受けました」
「「たのしい川べ」なんかもシェパードの絵を見ていると、こいつをアニメーターにしたらすごかろうと思います」
「たのしい川べ」は50冊のなかにも選ばれている。
でも、監督はこの本を読み通せたことがないそう。
本の最後のほうは読書論に。
「本には効き目なんかないんです。振り返ってみたら効き目があったということにすぎない」
という断言は大変好ましい。
それから、こんなことも。
「児童文学はやり直しがきく話であるということです」
「子どもにむかって絶望を説くなということなんです」
「やり直しがきく話」というのが、監督の児童文学についての定義。
ところで、石井桃子さんたちは敗戦後の困難を乗り越えようとして少年文庫をつくったという。
この、「児童文学は敗戦から生まれた」というのは、児童文学界の定説なんだろうか。
いまも、こんな風に語られているんだろうか。
それから前半にもどって。
宮崎監督が選んだ50冊を挙げておこう。
「星の王子さま」
「バラとゆびわ」
「チポリーノの冒険」
「ムギと王さま」
「三銃士」
「秘密の花園」
「ニーベルンゲンの宝」
「シャーロック・ホウムズの冒険」
「ふしぎの国のアリス」
「小さい牛追い」
「せむしの小馬」
「ファーブル昆虫記」
「日本霊異記」
「イワンのばか」
「第九団のワシ」
「クマのプーさん」
「長い冬」
「風の王子たち」
「思い出のマーニー」
「たのしい川べ」
「とぶ船」
「フランバース屋敷の人びと」
「真夜中のパーティー」
「トム・ソーヤーの冒険」
「注文の多い料理店」
「海底二万里」
「床下の小人たち」
「ハイジ」
「長い長いお医者さんの話」
「ツバメ号とアマゾン号」
「飛ぶ教室」
「ロビンソン・クルーソー」
「宝島」
「みどりのゆび」
「ネギをうえた人」
「聊斎志異」
「ドリトル先生航海記」
「森は生きている」
「小公子」
「西遊記」
「クローディアの秘密」
「やかまし村の子どもたち」
「ホビットの冒険」
「影との戦い ゲド戦記1」
「まぼろしの白馬」
「ぼくらはわんぱく5人組」
「ジェーン・アダムスの生涯」
「キュリー夫人」
「オタバリの少年探偵たち」
「ハンス・ブリンカー」
50冊には、それぞれコメントがつけられている。
コメントの分量がそれぞれちがうので、字が大きくなったり小さくする。
そんなところも適当で愉快。
また、「フランバース屋敷の人びと」のコメントなんて、飛行機のことしか書いていない。
趣味を押し通しているところが素晴らしい。
コメントまで引用するのはよすけれど、ただ「ハイジ」にだけはふれておきたい。
それは、こんなコメントだ。
「アニメより原作を本で読んだ方がいいという人がいます。ぼくも半分位そう思っていますが、この作品はちがうと思っています。見、読みくらべてみて下さい。ぼくらはいい仕事をしたと、今でも誇りに思っています」
副題は「岩波少年文庫を語る」
岩波新書の一冊。
本書は、宮崎駿監督が、岩波少年文庫からオススメの本を50冊えらび、子どもの読書について語った本。
前半は、コメントとともに50冊を推薦していて、これは、たしか去年だったか、スタジオジブリで非売品として作成された小冊子「岩波少年文庫の50冊」をもとにしたもの。
後半は、小冊子のためにおこなわれたインタビューと、テレビ番組のためにおこなわれた阿川佐和子さんとの対談をもとに構成したもの。
最後に、「3月11日のあとに」という、新たなインタビューがつけ加えられている。
冒頭にある、成立事情を記した文章にはこんなことも。
「小社少年文庫では、同じ作品でも訳者、編者、挿絵等を変えて新版として刊行している場合がありますが、本書でご紹介しているのは著者推薦の版です」
というわけで、「銀のスケート」は、改題前の「ハンス・ブリンカー」のタイトルで紹介されたりしている。
まず、後半のインタビューからいこう。
宮崎監督の発言は率直で、大変面白い。
50冊くらい選ぶのは軽いと思っていたら、内容をおぼえているのを挙げたら10冊くらいで終わってしまった。
「日本霊異記」と「聊斎志異」は入れたけど、「今昔物語集」はさんざん悩んでやめた。
この2冊を読むひとなら、じき必ず読むだろうと思って。
ファージョンなんて、本国ではすっかり忘れられているのに、今も読まれているのは石井桃子さんのせいだろう。
「ハンス・ブリンガー」は今回はじめて読んだ。
「まぼろしの白馬」もそう。
「まぼろしの白馬」は、中川李枝子さんに薦められて読むしかないと覚悟をきめた。
否定できない魅力があるけれど、けっこういいところのお嬢さんが好きになりそうな本だと思ったりして。
……
えらばれた50冊のコメントをみると、「ぼくはこの本を読んでいません」なんて書いているのもある。
奥さんの推薦なので入れたのだそう。
こんな風に、大いに私情を交えているところが愉快だ。
子どものころよく読んだのは、他の出版社のダイジェストの名作ものだそう。
ほとんど、貸本屋さんで借りて読んだとのこと。
「巌窟王」とか「奇巌城」とか「秘密の花園」とか。
――なので、ひょっとすると監督は、これらの作品を少年文庫では読んでいないのではないか
と、疑われる。
まあ、細かい話だけれど。
それから、子どものころの読書についてはこんなことも。
「「バラとゆびわ」や「愛の妖精」が好きでドキドキしながら隠れて読んだりしました。女の子が主人公ですからね。どんなに熟読していても、男として、友人に言えないものは言えない。兄弟にも言わなかった。友人に言ったら思い切りバカにされるだけですからね」
挿絵の話も多い。
児童文学は挿絵の魅力が大いにものをいう。
この本は、図版が多いのでありがたい。
「自分で絵を描くときに「チポリーノの冒険」の挿絵などはずいぶん影響を受けました」
「「たのしい川べ」なんかもシェパードの絵を見ていると、こいつをアニメーターにしたらすごかろうと思います」
「たのしい川べ」は50冊のなかにも選ばれている。
でも、監督はこの本を読み通せたことがないそう。
本の最後のほうは読書論に。
「本には効き目なんかないんです。振り返ってみたら効き目があったということにすぎない」
という断言は大変好ましい。
それから、こんなことも。
「児童文学はやり直しがきく話であるということです」
「子どもにむかって絶望を説くなということなんです」
「やり直しがきく話」というのが、監督の児童文学についての定義。
ところで、石井桃子さんたちは敗戦後の困難を乗り越えようとして少年文庫をつくったという。
この、「児童文学は敗戦から生まれた」というのは、児童文学界の定説なんだろうか。
いまも、こんな風に語られているんだろうか。
それから前半にもどって。
宮崎監督が選んだ50冊を挙げておこう。
「星の王子さま」
「バラとゆびわ」
「チポリーノの冒険」
「ムギと王さま」
「三銃士」
「秘密の花園」
「ニーベルンゲンの宝」
「シャーロック・ホウムズの冒険」
「ふしぎの国のアリス」
「小さい牛追い」
「せむしの小馬」
「ファーブル昆虫記」
「日本霊異記」
「イワンのばか」
「第九団のワシ」
「クマのプーさん」
「長い冬」
「風の王子たち」
「思い出のマーニー」
「たのしい川べ」
「とぶ船」
「フランバース屋敷の人びと」
「真夜中のパーティー」
「トム・ソーヤーの冒険」
「注文の多い料理店」
「海底二万里」
「床下の小人たち」
「ハイジ」
「長い長いお医者さんの話」
「ツバメ号とアマゾン号」
「飛ぶ教室」
「ロビンソン・クルーソー」
「宝島」
「みどりのゆび」
「ネギをうえた人」
「聊斎志異」
「ドリトル先生航海記」
「森は生きている」
「小公子」
「西遊記」
「クローディアの秘密」
「やかまし村の子どもたち」
「ホビットの冒険」
「影との戦い ゲド戦記1」
「まぼろしの白馬」
「ぼくらはわんぱく5人組」
「ジェーン・アダムスの生涯」
「キュリー夫人」
「オタバリの少年探偵たち」
「ハンス・ブリンカー」
50冊には、それぞれコメントがつけられている。
コメントの分量がそれぞれちがうので、字が大きくなったり小さくする。
そんなところも適当で愉快。
また、「フランバース屋敷の人びと」のコメントなんて、飛行機のことしか書いていない。
趣味を押し通しているところが素晴らしい。
コメントまで引用するのはよすけれど、ただ「ハイジ」にだけはふれておきたい。
それは、こんなコメントだ。
「アニメより原作を本で読んだ方がいいという人がいます。ぼくも半分位そう思っていますが、この作品はちがうと思っています。見、読みくらべてみて下さい。ぼくらはいい仕事をしたと、今でも誇りに思っています」
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共同体の基礎理論
「共同体の基礎理論」(内山節 農山漁村文化協会 2010)
副題は「自然と人間の基層から」。
「シリーズ地域の再生」の2巻。
この本で印象に残ったのは2つ。
ひとつは、神仏分離令がだされたのは「明治元年」だということ。
明治元年といえば、幕府を倒しただけ。
五稜郭では、榎本武揚や土方歳三がまだ抵抗を続けている。
明治政府の基本姿勢を示した「五箇条の御誓文」がだされたのは、明治4年だ。
こんな状況で、なぜ明治政府(というか、まだ政府の体をなしていない)は神仏分離令をだしたのか。
内山さんの結論はこう。
「私は神仏分離令は、江戸期の支配者の悲願だったのではないかと理解している」
では、江戸の(あるいはそれ以前からの)為政者たちが目の敵にしたものはなんだったのか。
というのが、印象に残った2つ目のこと。
それは、この本のことばだと、農村共同体の信仰だということになる。
日本の寺社は神仏が分かれてはいなかった。
そもそも寺社は、支配者や教団の直轄寺をのぞけば、大半は地域のひとが祈りをささげるお堂としてスタートした。
お堂は、その地域の信仰の拠点だから、土地の神様も、自分たちが大事にしている神様も、仏様も、みんなもちこまれた。
日本における仏教の系列化は、この「お堂」を教団がとりあうかたちで展開していった。
この日本の宗教観は、たとえば「日本仏教史」というような本を読むよりも実感として腑に落ちる。
お寺が宗派をころころ変えていたりするのは、こういうことだったのかなどと思った。
副題は「自然と人間の基層から」。
「シリーズ地域の再生」の2巻。
この本で印象に残ったのは2つ。
ひとつは、神仏分離令がだされたのは「明治元年」だということ。
明治元年といえば、幕府を倒しただけ。
五稜郭では、榎本武揚や土方歳三がまだ抵抗を続けている。
明治政府の基本姿勢を示した「五箇条の御誓文」がだされたのは、明治4年だ。
こんな状況で、なぜ明治政府(というか、まだ政府の体をなしていない)は神仏分離令をだしたのか。
内山さんの結論はこう。
「私は神仏分離令は、江戸期の支配者の悲願だったのではないかと理解している」
では、江戸の(あるいはそれ以前からの)為政者たちが目の敵にしたものはなんだったのか。
というのが、印象に残った2つ目のこと。
それは、この本のことばだと、農村共同体の信仰だということになる。
日本の寺社は神仏が分かれてはいなかった。
そもそも寺社は、支配者や教団の直轄寺をのぞけば、大半は地域のひとが祈りをささげるお堂としてスタートした。
お堂は、その地域の信仰の拠点だから、土地の神様も、自分たちが大事にしている神様も、仏様も、みんなもちこまれた。
日本における仏教の系列化は、この「お堂」を教団がとりあうかたちで展開していった。
この日本の宗教観は、たとえば「日本仏教史」というような本を読むよりも実感として腑に落ちる。
お寺が宗派をころころ変えていたりするのは、こういうことだったのかなどと思った。
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かくれ佛教
「かくれ佛教」(鶴見俊輔 ダイヤモンド社 2010)
前々回、マクヴェイ山田久仁子さんが書かれた、「鶴見俊輔さんの本をハーバード大でみつけた話」(「一冊の書きこみ本から」)を読んでから、鶴見俊輔ブームが到来している。
で、今回は、「かくれ佛教」。
インタビューをまとめた本なので読みやすい。
話は具体的で、エピソードは豊富、注釈は充実。
鶴見さんはあとがきで、「この本は村上紀史郎氏との合作である」と記している。
鶴見さんにインタビューし、構成し、出展を調べたのは村上紀史郎さんなのだそう。
本書は、鶴見さんが宗教についての考え、あるいは感慨を述べたもの。
インド人アーナンダー・クーマラスワミーの「ブッダ伝」を読んで、鶴見さんは学問としての仏教にふれた。
それから、法然、親鸞、一遍、良寛。
大逆事件に連座した内山愚童、アナキスト石川三四郎。
柳宗悦、橋本峰雄、創価学会の創始者牧口常三郎。
祖師禅の創始者、馬祖道一。
その遠い日本の弟子である岡夢堂。
キリスト教では、ドイツの神秘主義者エックハルト。
作家ヘンリー・ジェームズの兄で、「有限の神」という考えを述べたというウィリアム・ジェームズ。
…などなどのひとたちについて語っている。
この本のなかで、鶴見さんは「客観性の誤用」ということを述べている。
「例えば「USAに湾岸戦争を止める動きはなかったのか」。そういったことを社会科学が問題として出す。これはmisplaced objectivityだ。objectivity(客観性)は、そういうふうに使うべきではない。自分が入っているとどうなるかと考える」
本書の語り口は、客観性とは逆。
主観的というか、縁あるひとたちについて語っている。
上に挙げたひとたちも、一見、雑多なようだけれど、すべて鶴見さんに縁あるひとたちだ。
どのひとをとっても、鶴見さんの肉声が響いている。
だから面白いのだろう。
一例として。
良寛にふれたとき、鶴見さんは、「良寛はunlearnした人だ」という。
unlearnとは、「学びほどく」というほどの意味。
このことばを、鶴見さんは、ヘレン・ケラーから教わった。
ニューヨークの図書館で、ヘレン・ケラーに会ったとき、「私はハーヴァードの隣りのラドクリフでたくさんのことを学んだけれど、大学をはなれてから、多くをunlearnしなければならなかった」と、ヘレン・ケラーはいったのだそう。
それに感銘を受けた鶴見さんは、良寛も「unlearnしたひとではなかったか」と思う。
鶴見さんを介して、良寛とヘレン・ケラーが出会う。
これがこの本の面白いところ。
もうひとつ。
鶴見さんは、創価学会にわりあい好意的。
それはなぜか。
じつは、鶴見さんの家庭教師が、創価教育学会(創価学会の前身)系統のひとだったから。
家庭教師がもってきた、戸田城外(のち城聖)のつくった参考書で、小学生の鶴見さんは勉強したという。
縁は、引きあうものだけではなく、反発するものもある。
戦時中、一部にせよ、中国人を殺していいと本気で信じて駆け回っている坊さんや牧師がいた。
あの戦争を支持しないということに、大変な努力を払った鶴見さんは、これら坊さんや牧師さんに非常な違和感をもった。
よって、「一代限りの恨みがある」。
「私の葬式のときは、友人の僧侶や牧師に説教などしてもらいたくない」
縁があるといえば、鶴見さんがハーヴァードの図書館で、「余は如何にして基督信徒となりし乎」を借りだしたら、そのなかに手紙がくっいていたという。
どうも、ウィリアム・ジェームズがこの本を読めといって渡した本が、転々としてこの図書館にたどり着いたらしい。
だれに渡したのかがわかれば面白いのだけれど、さすがにそこまでは書いていなかった。
それにしても、ハーヴァードの図書館には、書きこみや手紙つきの本がたくさん眠っているのだろうか。
それから、驚いたことがひとつ。
この本の終わりごろに、内山節さんの「共同体の基礎理論」(農山漁村文化協会 2010)という本について触れた箇所がでてくる。
たまたま読んでいたから、おやっと思ったのだけれど、この本がでたのは2010年の3月だ。
「かくれ佛教」は、同じ年の12月にでている。
ということは、鶴見さんは、「共同体の基礎理論」が出版されるとすぐに読み、すぐインタビューで話したのだろう。
米寿を越えてなおこうかと、その好奇心には感心してしまう。
(この本の巻末にはインタビューの日付も載っている。それをみると、あとがきに記された日付のあとにもインタビューをしていることがわかる。こんなところも面白い)
最後に、鶴見さんのハーヴァードでの卒論が、「一冊の書きこみ本から」と「かくれ佛教」でちがっているので、それを記しておきたい、
「一冊の書きこみ本から」に載っている卒論のタイトルは、
「ウィリアム・ジェームズのプラグマティズム Pragmatism of William james」。
この卒論は、「名誉ある卒論 honor thesis」として、いまも大学で保存・公開しているそう。
いっぽう、「かくれ佛教」で、鶴見さんが語っている卒論のタイトルはこう。
「実在しないものについての理論、ないということについて、とくに強調をこめて A theory of non-existential being with a special emphasis on nothing in particular」。
これはジョークだね、と鶴見さんは述べている。
前々回、マクヴェイ山田久仁子さんが書かれた、「鶴見俊輔さんの本をハーバード大でみつけた話」(「一冊の書きこみ本から」)を読んでから、鶴見俊輔ブームが到来している。
で、今回は、「かくれ佛教」。
インタビューをまとめた本なので読みやすい。
話は具体的で、エピソードは豊富、注釈は充実。
鶴見さんはあとがきで、「この本は村上紀史郎氏との合作である」と記している。
鶴見さんにインタビューし、構成し、出展を調べたのは村上紀史郎さんなのだそう。
本書は、鶴見さんが宗教についての考え、あるいは感慨を述べたもの。
インド人アーナンダー・クーマラスワミーの「ブッダ伝」を読んで、鶴見さんは学問としての仏教にふれた。
それから、法然、親鸞、一遍、良寛。
大逆事件に連座した内山愚童、アナキスト石川三四郎。
柳宗悦、橋本峰雄、創価学会の創始者牧口常三郎。
祖師禅の創始者、馬祖道一。
その遠い日本の弟子である岡夢堂。
キリスト教では、ドイツの神秘主義者エックハルト。
作家ヘンリー・ジェームズの兄で、「有限の神」という考えを述べたというウィリアム・ジェームズ。
…などなどのひとたちについて語っている。
この本のなかで、鶴見さんは「客観性の誤用」ということを述べている。
「例えば「USAに湾岸戦争を止める動きはなかったのか」。そういったことを社会科学が問題として出す。これはmisplaced objectivityだ。objectivity(客観性)は、そういうふうに使うべきではない。自分が入っているとどうなるかと考える」
本書の語り口は、客観性とは逆。
主観的というか、縁あるひとたちについて語っている。
上に挙げたひとたちも、一見、雑多なようだけれど、すべて鶴見さんに縁あるひとたちだ。
どのひとをとっても、鶴見さんの肉声が響いている。
だから面白いのだろう。
一例として。
良寛にふれたとき、鶴見さんは、「良寛はunlearnした人だ」という。
unlearnとは、「学びほどく」というほどの意味。
このことばを、鶴見さんは、ヘレン・ケラーから教わった。
ニューヨークの図書館で、ヘレン・ケラーに会ったとき、「私はハーヴァードの隣りのラドクリフでたくさんのことを学んだけれど、大学をはなれてから、多くをunlearnしなければならなかった」と、ヘレン・ケラーはいったのだそう。
それに感銘を受けた鶴見さんは、良寛も「unlearnしたひとではなかったか」と思う。
鶴見さんを介して、良寛とヘレン・ケラーが出会う。
これがこの本の面白いところ。
もうひとつ。
鶴見さんは、創価学会にわりあい好意的。
それはなぜか。
じつは、鶴見さんの家庭教師が、創価教育学会(創価学会の前身)系統のひとだったから。
家庭教師がもってきた、戸田城外(のち城聖)のつくった参考書で、小学生の鶴見さんは勉強したという。
縁は、引きあうものだけではなく、反発するものもある。
戦時中、一部にせよ、中国人を殺していいと本気で信じて駆け回っている坊さんや牧師がいた。
あの戦争を支持しないということに、大変な努力を払った鶴見さんは、これら坊さんや牧師さんに非常な違和感をもった。
よって、「一代限りの恨みがある」。
「私の葬式のときは、友人の僧侶や牧師に説教などしてもらいたくない」
縁があるといえば、鶴見さんがハーヴァードの図書館で、「余は如何にして基督信徒となりし乎」を借りだしたら、そのなかに手紙がくっいていたという。
どうも、ウィリアム・ジェームズがこの本を読めといって渡した本が、転々としてこの図書館にたどり着いたらしい。
だれに渡したのかがわかれば面白いのだけれど、さすがにそこまでは書いていなかった。
それにしても、ハーヴァードの図書館には、書きこみや手紙つきの本がたくさん眠っているのだろうか。
それから、驚いたことがひとつ。
この本の終わりごろに、内山節さんの「共同体の基礎理論」(農山漁村文化協会 2010)という本について触れた箇所がでてくる。
たまたま読んでいたから、おやっと思ったのだけれど、この本がでたのは2010年の3月だ。
「かくれ佛教」は、同じ年の12月にでている。
ということは、鶴見さんは、「共同体の基礎理論」が出版されるとすぐに読み、すぐインタビューで話したのだろう。
米寿を越えてなおこうかと、その好奇心には感心してしまう。
(この本の巻末にはインタビューの日付も載っている。それをみると、あとがきに記された日付のあとにもインタビューをしていることがわかる。こんなところも面白い)
最後に、鶴見さんのハーヴァードでの卒論が、「一冊の書きこみ本から」と「かくれ佛教」でちがっているので、それを記しておきたい、
「一冊の書きこみ本から」に載っている卒論のタイトルは、
「ウィリアム・ジェームズのプラグマティズム Pragmatism of William james」。
この卒論は、「名誉ある卒論 honor thesis」として、いまも大学で保存・公開しているそう。
いっぽう、「かくれ佛教」で、鶴見さんが語っている卒論のタイトルはこう。
「実在しないものについての理論、ないということについて、とくに強調をこめて A theory of non-existential being with a special emphasis on nothing in particular」。
これはジョークだね、と鶴見さんは述べている。
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「花の館・鬼灯」
「花の館・鬼灯」(司馬遼太郎 中央公論社 1994)
本書は、司馬遼太郎による戯曲を2編おさめている。
司馬遼太郎が戯曲を書いていたとは知らなかった。
最初、この本のことを知ったとき、
――司馬遼太郎と戯曲は、あんまり相性がよくないんじゃないの?
と思った。
司馬遼太郎の面白さは、随筆的な面白さだから、構成とセリフで魅せる戯曲はむいていないのではないか。
司馬遼太郎作品の解説本は山ほどでているけれど、この2作品に言及している本というのは聞いたことがない。
それはともかく。
まず、「花の館」から。
舞台は、室町時代。
日野富子や、足利善政がいた頃。
プロローグで、3人の地獄の使者というのがでてくるのが目を引く。
地獄に落ちた現代の人間が、客に室町時代の光景をみせる――というのが、この戯曲の枠組みなのだ。
一体なんだってこんなことをしたのかと思うけれど、たぶん、作者が戯曲を書く上で必要な仕掛けだったのだろう。
そして本編。
足利義政や、日野富子や、義政の弟である義尋や、僧や、能役者や、家族を捨てて盗賊になった男やらがでてくる。
でてくるのだけれど、これらの登場人物は、なにか行動を起こしたり、その結果としての、「一体このからどうなるのだろう」といったような展開をみせてくれたりはしない。
日野富子は、自分の子どもを将軍の世継ぎにしたがっている。
足利義政は寺を建てたがっていて、その金を富子に無心する。
京の都が焼けているときに、こんなことをしている。
地獄の使者がみせてくれるのは、無残な光景ばかりだ。
「花の館」のあとがきには、どうしてこの戯曲を書くことになったのか、その経緯が記されている。
そこに、こんな一文がある。
「私はいまの世の中に対してえたいの知れぬ恐怖と怒りと、かといって発言する気もおこらぬほどの無力感のような、つまりいったい世の中においてなにが邪悪なのかということが自分でもわからぬような感じのなかにいる」
この感じを芝居にしたいということで、この戯曲を書いたという。
その意図は達せられたと思うけれど、それが面白いかどうかは、また別の話。
ちなみに、「花の館」は1970年、文学座により上演されたとのこと。
次は「鬼灯」。
舞台は戦国時代。
主役は、荒木摂津守村重。
荒木村重は織田信長の家臣で、明智光秀が本能寺の変をおこす4年前に謀反をおこした人物。
一国を挙げて信長に対してたたかいを挑んだのだけれど、結局はほろぼされた。
そのさい、女子どもはみな信長に虐殺された。
が、村重はひとり落ちのびた。
信長への叛逆をひとりで決定した村重は、一族郎党を巻きこんだあげく、ひとりで逃げだしたのだった。
その後、畿内を放浪した村重は、もと朋輩の秀吉にひろわれ、御伽衆として余生をすごしたという――。
戯曲はこの史実にもとづいて書かれている。
中心になるのは、「毛利の援軍」がくると信じて篭城を続ける村重と、その家臣や妻とのやりとり。
「花の館」よりも、具体的で、切迫した状況をあつかっているためか、劇的な集中の度合いが高い。
そのぶん、より面白い。
この作品にも、あとがきに当たる「鬼灯創作ノート」という文章が巻末にそえられている。
そこでは触れられていないけれど、司馬遼太郎の頭には、太平洋戦争のときの軍人の振る舞いがどこかにあったのではないかという気が、ちらとする。
あの戦争のとき、軍人や公務員の一部は民間人を見捨てたのだけれど、それが念頭にあったのではないか。
より技術的な面では、この戯曲でも「花の館」の地獄の使者のように、「ただ見ているだけ」という、幽霊のよう登場人物がでてくる。
それから、ト書きが面白い。
後半、亡霊にさいなまれる村重についてのト書きはこうだ。
「村重の心境は、一要素としては諸亡霊から売れる恐怖もある。また一要素として、自分は悪くなかった――自分は、毛利の援軍を待っていただけだ、それだけだ――という政治的レベルでしか、自他の物事の善悪を考えられない男。このことは、村重における欠落というへきもので、天性、そういう意味での倫理的無神経さがある。安見野のいう、片身の削げたような男、もしくは背中のない男だというべきか」
安見野(やすみの)というのは、劇中にでてくる村重の妻の名前だ。
それにしても、「……というべきか」というのはなんだろう。
このト書きは、村重の人物解説に終始している。
司馬遼太郎の地のスタイルが顔をだしているという感じで、とても面白い。
「鬼灯」は1975年、文学座により上演されたとのこと。
「花の館」と「鬼灯」の共通するテーマは、退廃といえるだろうか。
あるいは政治的退廃と、それがもたらす惨事。
この戯曲だけみると、司馬遼太郎は、人間集団の退廃に格別の興味があったように思える。
本書は、司馬遼太郎による戯曲を2編おさめている。
司馬遼太郎が戯曲を書いていたとは知らなかった。
最初、この本のことを知ったとき、
――司馬遼太郎と戯曲は、あんまり相性がよくないんじゃないの?
と思った。
司馬遼太郎の面白さは、随筆的な面白さだから、構成とセリフで魅せる戯曲はむいていないのではないか。
司馬遼太郎作品の解説本は山ほどでているけれど、この2作品に言及している本というのは聞いたことがない。
それはともかく。
まず、「花の館」から。
舞台は、室町時代。
日野富子や、足利善政がいた頃。
プロローグで、3人の地獄の使者というのがでてくるのが目を引く。
地獄に落ちた現代の人間が、客に室町時代の光景をみせる――というのが、この戯曲の枠組みなのだ。
一体なんだってこんなことをしたのかと思うけれど、たぶん、作者が戯曲を書く上で必要な仕掛けだったのだろう。
そして本編。
足利義政や、日野富子や、義政の弟である義尋や、僧や、能役者や、家族を捨てて盗賊になった男やらがでてくる。
でてくるのだけれど、これらの登場人物は、なにか行動を起こしたり、その結果としての、「一体このからどうなるのだろう」といったような展開をみせてくれたりはしない。
日野富子は、自分の子どもを将軍の世継ぎにしたがっている。
足利義政は寺を建てたがっていて、その金を富子に無心する。
京の都が焼けているときに、こんなことをしている。
地獄の使者がみせてくれるのは、無残な光景ばかりだ。
「花の館」のあとがきには、どうしてこの戯曲を書くことになったのか、その経緯が記されている。
そこに、こんな一文がある。
「私はいまの世の中に対してえたいの知れぬ恐怖と怒りと、かといって発言する気もおこらぬほどの無力感のような、つまりいったい世の中においてなにが邪悪なのかということが自分でもわからぬような感じのなかにいる」
この感じを芝居にしたいということで、この戯曲を書いたという。
その意図は達せられたと思うけれど、それが面白いかどうかは、また別の話。
ちなみに、「花の館」は1970年、文学座により上演されたとのこと。
次は「鬼灯」。
舞台は戦国時代。
主役は、荒木摂津守村重。
荒木村重は織田信長の家臣で、明智光秀が本能寺の変をおこす4年前に謀反をおこした人物。
一国を挙げて信長に対してたたかいを挑んだのだけれど、結局はほろぼされた。
そのさい、女子どもはみな信長に虐殺された。
が、村重はひとり落ちのびた。
信長への叛逆をひとりで決定した村重は、一族郎党を巻きこんだあげく、ひとりで逃げだしたのだった。
その後、畿内を放浪した村重は、もと朋輩の秀吉にひろわれ、御伽衆として余生をすごしたという――。
戯曲はこの史実にもとづいて書かれている。
中心になるのは、「毛利の援軍」がくると信じて篭城を続ける村重と、その家臣や妻とのやりとり。
「花の館」よりも、具体的で、切迫した状況をあつかっているためか、劇的な集中の度合いが高い。
そのぶん、より面白い。
この作品にも、あとがきに当たる「鬼灯創作ノート」という文章が巻末にそえられている。
そこでは触れられていないけれど、司馬遼太郎の頭には、太平洋戦争のときの軍人の振る舞いがどこかにあったのではないかという気が、ちらとする。
あの戦争のとき、軍人や公務員の一部は民間人を見捨てたのだけれど、それが念頭にあったのではないか。
より技術的な面では、この戯曲でも「花の館」の地獄の使者のように、「ただ見ているだけ」という、幽霊のよう登場人物がでてくる。
それから、ト書きが面白い。
後半、亡霊にさいなまれる村重についてのト書きはこうだ。
「村重の心境は、一要素としては諸亡霊から売れる恐怖もある。また一要素として、自分は悪くなかった――自分は、毛利の援軍を待っていただけだ、それだけだ――という政治的レベルでしか、自他の物事の善悪を考えられない男。このことは、村重における欠落というへきもので、天性、そういう意味での倫理的無神経さがある。安見野のいう、片身の削げたような男、もしくは背中のない男だというべきか」
安見野(やすみの)というのは、劇中にでてくる村重の妻の名前だ。
それにしても、「……というべきか」というのはなんだろう。
このト書きは、村重の人物解説に終始している。
司馬遼太郎の地のスタイルが顔をだしているという感じで、とても面白い。
「鬼灯」は1975年、文学座により上演されたとのこと。
「花の館」と「鬼灯」の共通するテーマは、退廃といえるだろうか。
あるいは政治的退廃と、それがもたらす惨事。
この戯曲だけみると、司馬遼太郎は、人間集団の退廃に格別の興味があったように思える。
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