賢人ナータン

「賢人ナータン」(レッシング/著 篠田英雄/訳 1978)

レッシングの戯曲、「賢人ナータン」を読んだのは、林達夫のエセーがきっかけ。
林達夫に、「3つの指環の話」というエセーがあり、これがすこぶる面白かったためだ。
「林達夫著作集3」(平凡社 1971)所収)

「3つの指環」というのは、たとえ話。
――ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の3つのうち、どれが真実の教えか?
と、王様に問われたユダヤ人が、父から指環をもらった3人の息子というたとえ話をつかって、これに答えるというもの。

この話は、「デカメロン」や、その他、さまざまな説話集におさめられてきた。
林達夫によれば、ヨーロッパ文学にあらわれた「3つの指環の話」は、「賢人ナータン」をあわせて8つあるという。
以下、エセーからその8つを引いてみよう。

1.「ユダヤ古伝集」
15世紀の終わりごろ、ユダヤ人サロモ・アベン・ヴェルガが著したもの。
このなかに、1100年ごろの出来事として、アラゴン王ペドロが、ユダヤ人エフライム・サンクスをいじめる話があり、これを一般に学者は、3つの指環のたとえ話の最も古い、最も純粋な形であるとみなしているとのこと。

2.「聖霊の七つの賜について」
1260年ごろに死んだ、ドミニカン派の僧、エティエンヌ・ド・ブルボンによるもの。

3.「まことの指環の唄」
作者不詳。1270-94年のあいだにフランスでつくられた小詩。

4.「ローマ人事蹟」
1300年ごろにイギリスにあらわれた、ラテン語で書かれた通俗物語集。

5.「古譚百種」または「百物語」
13世紀の末、イタリアのトスカナ地方で編纂された通俗物語集。異本が多いが、そのうちの第71話、ないし72話、あるいは73話に当たる話が、3つの指環の話。

6.「冒険的なシチリア人」
1350年ごろにイタリアでつくられた「退屈な」一種の歴史小説。

7.「デカメロン」
ボッカッチョが1348-50年にかけて書いた有名な物語集。その第1日、第3話に、3つの指環の話がある。

8.「賢者ナータン」
レッシングが1799年に完成した劇詩。

林達夫は、もちろん原タイトルと原著者を挙げているけれど、ここでは省略。
8つの物語集における「3つの指環の話」は、それぞれの時代や社会状況により、さまざまに姿を変えている。
林達夫は、その変遷をていねいに追いかける。
その内容はじつに興味深いのだけれど、詳しいことはエセーにゆずろう。
そして、林達夫によれば、さまざまな「3つの指環の話」のうち、「レッシングのほど深い美しさにおいて輝いているものはない」

前置きが長くなったけれど、というわけで「賢人ナータン」を読んだ。
感想は、ナータンはたしかに賢人だったというものだ。
この戯曲は、いまでも古くなっていない。
ひょっとしたら、今後も古くならないのではないか。

ただ、ひとつだけ腑に落ちないことが。
登場人物のひとり、神殿騎士は、ナータンの娘レーハと相思相愛になる。
が、最後に、神殿騎士とレーハは、じつは兄妹だったことが明かされる。
この戯曲は、まるで歌舞伎のように、最後に登場人物の大部分が、血がつながっていることがわかるのだ。

さて、血がつながっていると知った2人の反応はどうか?
これが、2人とも大いに喜ぶ。
ここが、いまひとつ納得がいかない。
これは少々悲しいことではないだろうか。

――賢人ナータンについて、なにか書かれたものはないか?
そう思って、さがしてみると、「賢者ナータンと子どもたち」(ミリヤム・プレスラー/作 森川弘子/訳 岩波書店 2011)という本をみつけた。

これは、「賢人ナータン」をノベライズした児童書だ。
1799年に書かれた戯曲をノベライズするに当たり、作者はいろいろと考えたのだろう。
さまざまなこころみがなされている。

まず、各登場人物が1人称で1章分を語るという形式をつかっている。
レーハが語ったあとは、神殿騎士が語り、次はナータンの友人にして、サラディンの蔵頭であるアル・ハーフィが語るといった具合だ。
それから、新しい登場人物をつけくわえている。
さらに、リアリティを増すためだろうけれど、心理描写がぐっと増している。

作者の苦心はよくわかる。
が、これらの改変をほどこして、それで効果があったのかというと、ないといっていいと思う。
もとの戯曲とくらべると、1人称で語るためか、テーマ性がより強くなっている。
そのぶん、説教臭くなってしまっている。
それに、心理描写は増えたぶんだけうるさくなってしまっている。

残念なことに、そう面白い作品ではなかった。
この本は児童書として出版されているけれど、これを読み通せるのはよほど忍耐力のある子どもだけだろう。
まあ、戯曲を先に読んだから、そう感じるのかもしれないけれど。

さて、懸案の神殿騎士とレーハについて。
「賢者ナータンと子どもたち」では、2人は兄妹とされてはいなかった。
リアリティの面から、そうしたのだろう。
また、本作は戯曲のように大団円を迎えない。
これもまたリアリティの面からしたことだろうけれど、でもこんな無体なことをしなくてもいいのにと思わずにはいられなかった。
リライトとはむつかしいものだ。

ところで。
「3つの指環の話」は、実際、法廷で語られたことがある。
そのことを、「チーズとうじ虫」(カルロ・ギンズブルグ/著 杉山光信/訳 みすず書房 2012)という本が教えてくれる。

本書は、北イタリアで粉挽屋をしていたメノッキオという人物が、異端審問にかけられた際の裁判記録を解説した歴史書。
なぜ、メノッキオが異端審問にかけられたのかというと、世界はチーズで、天使はそこからでてきたうじ虫のようなものだという、世界の成り立ちについての独特な理論を語っていたため。
この本の妙なタイトルはここからきている。

メノッキオが、「3つの指環の話」について言及したのは、記録によれば、1599年7月12日。
第2回目の裁判のときのことだ。
「3つの指環の話」をしたメノッキオに、審問官はこうたずねる。

「それではお前は、3つのうちでどれがもっともすぐれた法かわからないと考えているのか」

これに対し、メノッキオの答えはこうだ。

「猊下、各々のものは自分の信仰がもっともすぐれていると思っているのですが、どれがもっともすぐれているかは知ることができない、と私は考えているのです」

メノッキオは、なにで「3つの指環の話」を知ったのか。
知人から借りた「デカメロン」で知ったという。
しかし、当時の「デカメロン」に収録された「3つの指環の話」は、宗教上の理由から検閲を受けていた。
だから、著者のギンズブルグは、メノッキオはより古い版の「デカメロン」を利用したにちがいないし、いずれにしても検閲の介入を逃れたものを利用したにちがいない、と書いている。

でも、そうではないのではないか。
と、最近、「図書」2014年12月号(岩波書店)で、宮下志郎さんが書いていた。
メノッキオの想像力をもってすれば、削除版からでも同様の結論は引きだせたのではないか。
検閲によって削除された部分を引きあいにだしながら、宮下さんはそう記している。

最後に。
細かいことだけれど、林達夫も、「賢者ナータンと七人の子どもたち」も、ともに「賢者」という訳語をつかっている。
でも、篠田英雄さん訳の岩波文庫版では、ナータンは、「賢人」だ。

これが、なんとなく気になる。
想像だが、篠田英雄さんは「賢者」という訳語も思いつきつつも、「賢人」ということばを選んだのではないか。
わざわざ「賢人」という訳語をつかったのは、ナータンは、「賢者」というより「賢人」と呼んだほうがふさわしい、と思ったからではないだろうか。
もちろん、正解はわからない。
ただ、そんなことをぼんやりと考えている。


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「ウィンダミア公爵夫人の扇」「愛の勝利・贋の侍女」「過去ある女」

個人的に戯曲ブームがきた。
きっかけは、DVDで映画「理想の女(ひと)」をみたこと。
ワイルドの喜劇、「ウィンダミア公爵夫人の扇」を原作とした映画。
主演は、スカーレット・ヨハンソン。
それに、ヘレン・ハント。
内容は、ひとことでいえば、上流階級人情喜劇といったところだろうか。

この映画をみていたところ、スカーレット・ヨハンソンの旦那さんである、ウィンダミア公爵の扱いが、なんとも腑に落ちなかった。
――これでは、劇的要素を削いでしまう
という感じなのだ。

で、原作を当たってみた。
当たったのは、ワイルドの劇作をあつめた「ワイルド全集」の2巻(西村考次/訳 青土社 1981)。
原作を読んで、これならわかると納得。
映画は、リアリティをだそうとしたために、劇の焦点をぼかす結果になってしまったようだ。
原作の通り、公爵は真面目人間のほうがよかったのに。

映画は、喜劇よりも人情に大きく傾いてつくられている。
スカーレット・ヨハンソンの生みの母親である、ヘレン・ハントをより大きくとり上げている。
映画には、映画全体を担う視点的人物(ビュー・キャラクター)が必要で、その役割をこの母親に負ってもらったということだろう。

ワイルド全集には、ワイルドが書いた戯曲がすべて収録されていた。
で、ものはついでだと、喜劇だけすべて読んだ。
具体的には、以下の4作。

「ウィンダミア卿夫人の扇」
「つまらぬ女」
「理想の夫」
「まじめが肝心」

この映画の邦題、「理想の女」は、「理想の夫」をもじったのかもしれない
ワイルドが書いた喜劇のなかでは、「まじめが肝心」が群を抜いている。
素晴らしい傑作だ。

ワイルドは男色家として名高い。
中公新書の「オスカー・ワイルド」(宮崎かすみ/著 中央公論新社 2013)を読んでいたら、「まじめが肝心」には、男色をあらわす語句が、ひそかに散りばめられていると書かれていた。
本来、公共の場で語られることの許されないことばが、劇場内を飛びかうのをみて、ワイルドは溜飲を下げたのだろう。

それから。
これもまたDVDで、「愛の勝利」という映画をみた。
原作は18世紀、マリヴォーが書いた戯曲。
監督は、ロバート・アルトマン。

ストーリーはこう。
とある王女様が、ある青年を見初める。
が、その青年は、王女を仇として育てられていた。
というもの、王女の叔父が、王であった青年の父から国を奪ったため。
当時、まだ赤ん坊だった青年は、王女の叔父の手からからくも逃れた。
そして現在、哲学者である兄妹を親代わりとし、人里はなれた館で暮らしていたのだった。

いっぽう、叔父は亡くなり、国は王女の父が引き継ぎ、父が亡くなると王女が継ぐことになった。
で、たまたまこの青年に出会い、王女は恋に落ちた。
でも、青年には仇と思われていて、近づくこともかなわない。
そこで、王女は一計を案じる。
男装して近づこう。
その上で青年を籠絡しよう。
そして結婚したあかつきには、青年の手に国を返そう。

青年には、哲学者の兄妹がついている。
2人とも未婚で、青年とともに世間から隠れて暮らしている。
この2人を青年から遠ざけるため、男装の王女は妹にせまる。
また、兄にすぐに女性だと見破られた王女は、兄にせまる。
結果、2人の心をともに手中におさめ、さらに王女は青年をも射止める。

――という、狙った獲物は必ずしとめる、王女快進撃の物語。
「理想の女」とくらべると、この映画はより戯曲を原作とした映画らしい。
作品のなかにおける、時空間の飛躍がとぼしいためだろう。
衣装は、18世紀風。
話に艶があるのにあわせて、場面場面に色気があるのが好ましい。

ただ、劇中、突然現代の格好をした観客があらわれるシーンがあり、これには面食らった。
やりたいことはよくわかる。
古典戯曲を映画化するにあたり、戯曲との距離を観客に知らしめたい。
批評性を導入することで、18世紀の戯曲が原作なのだと客に思い出させたい。
でも、これが、オリジナルのコスチュームプレイ・ムービーだったら、こんな演出はとられなかったのではないかと思う。
おかげで、すっかり興をそぐ結果となってしまった。

映画をみたあと、これも原作を読んでみようと思いさがした。
海外作品の古典を読もうと思ったら、岩波文庫の世話になるほかない。
さがしてみると、すぐみつかった。
「愛の勝利・贋の侍女」(マリヴォー/作 佐藤実枝/訳 井村順一/訳 岩波書店 2009)
まったく岩波文庫はありがたい。

で、読んだ。
映画はほぼ原作通りだった。
驚いたのは、王女エルミダスは、スパルタの王女となっていること。
この戯曲の舞台は、古代ギリシアであるらしい。
でも、実際はどこの場所や時代でもかまわないように書かれている。
それで映画は、この戯曲が書かれた18世紀風の舞台にしたのだろう。

ついでに、併録されていた「贋の侍女」も読んだ。
副題は、「または罰をうけたペテン師」
この作品も、女性が男装する異装劇だ。

ヒロインに名前はない。
ただ、身分があり、財産もある人物。
このヒロインには、レリオという名のまだ見ぬ結婚相手がいる。
が、ある仮面舞踏会で、レリオが女性を連れてあらわれる。
その舞踏会に、たまたま騎士の格好で出席していたヒロインは、レリオの様子を知ろうと、自身の素性を隠したままかれに近づく。

レリオが不実な人物であることは、すぐに露見。
この男は、じつはとある伯爵夫人と結婚する予定だった。
しかし、伯爵夫人よりもより財産をもつヒロインとの縁談がもちこまれたため、伯爵夫人とは別れようと考えているところだった。

伯爵夫人と別れるには、障害がある。
レリオは、購入した土地の代金を支払うために、伯爵夫人に1万エキュ借り、証文をとられていた。
さらに、2人は、どちらかが婚約を破談にした場合、1万エキュの違約金を払うという約束も交わしていた。
レリオは、自分から結婚を破談にし、違約金を払いたくない。
もちろん、借りた金も返したくない。
そこで、レリオは騎士に扮したヒロインに、伯爵夫人を誘惑してくれともちかける。
夫人のほうから破談にしてくれれば、違約金を手に入れ、かつその金で夫人にたいして借金を返すことができる。

レリオから話をもちかけられたヒロインは憤る。
そして、レリオの化けの皮をはがそうとする――。

「愛の勝利」はストーリーがじつに明快だけれど、この作品はそうではない。
恋愛に金銭がからんで、複雑さが増している。
それから、コミカルななかに、いささか不気味なところがある。
特に不気味なのは、ヒロインの従者トリヴラン。
騎士の正体を知っているこの高慢な従者は、ヒロインをゆすり、高圧的な態度をとり、人格の底が抜けたような発言をくり返す。
おかげで、話はさらにこじれてきてしまう。

この本は、解説も充実。
読書の理解を助けてくれる。
解説によれば、マリヴォーは20世紀になってから再評価されたとのこと。
「愛の勝利」の映画化も、マリヴォー再評価の機運に乗った企画だったのかもしれない。
また、「贋に侍女」にみられる不気味さは、ジョン・ローによる金融システムの破綻という、当時の世相が反映しているとのこと。
作者のマリヴォーも、この金融システムの破綻により大損害を受けたひとりだという。

長くなってしまうけれど、もう一冊。
「過去ある女」(レイモンド・チャンドラー/著 小鷹信光/訳 小学館 2014)

これは、戯曲ではなく、映画の脚本。
チャンドラーは苦手な作家だけれど、この脚本は面白かった。
映画のシナリオなので、1人称で長ながと語ることができないのがいい。
それに、マーロウがでてこないのがいい。

内容は、ヴァンクーヴァーのホテルを舞台としたミステリ。
裏表紙に書かれた内容紹介によれば、「フィルム・ノワールの逸品」。

ヒロインは、ベティ・メイスフィールドという若い女性。
タイトル通り、ベティには過去がある。
それは、夫殺しの容疑をかけられたこと。

陪審員の評決は有罪だったが、裁判長がその判決をしりぞけ、ベティは無罪となった。
が、街の有力者である夫の父、つまりベティの義父はその判決を認めない。
義父からの報復を逃れるために、ベティは北カロライナをはなれ、ヴァンクーヴァーへ。

物語は、ベティが乗る、ヴァンクーヴァーに向かう列車からスタート。
過去のことはフラッシュバックでえがかれる。

ヴァンクーヴァーのホテルに着いたベティは、こんどはホテルで起きた殺人事件に巻きこまれ、またも容疑者となる。
さらに、義父が雇った探偵もあらわれて――。

ベティが夫殺しの容疑をかけられる状況は、大変微妙なもの。
ホテルの殺人事件の状況も、また微妙。
ややこしい状況設定を、チャンドラーは手際よくみせる。
それに、人物造形がしっかりしており、出来事は思いがけない展開をみせる。

このシナリオは、けっきょく映画化されなかった。
解説によれば、ユニヴァーサル社の資料室に眠っていたのを発見されたという。

のちに、チャンドラーはこのシナリオを自作に流用し、「プレイバック」(レイモンド・チャンドラー/著 清水俊二/訳 早川書房 1998)を書いた。
そのさい主人公はもちろんマーロウとなった。
おかげで、ベティに惚れて彼女を逃がそうとまでする、魅力的なキレイン警部の出番はなくなってしまった。
なんとも残念なことだ。



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