崖の上のポニョ

「崖の上のポニョ」(宮崎駿 徳間書店 2008)

スタジオジブリ絵コンテ全集16。

先日、遅ればせながら映画「崖の上のポニョ」を観てきた。
とても面白かった。
つじつまなんかどうでもいいという感じが、濃厚にある。
あるイメージを羅列しただけの映画は、観ているとだんだんつらくなってくるものだけれど、この映画はそうはならない。
場面と場面が、それなりにつながっている感じがするところに、妙味があるのだろう。

くわえて、場面ごとの表現力が圧倒的。
イメージが、こちらの想像をはるかに越え、ほとばしっている。

映画が面白かったので、絵コンテも買って読んでみた。
絵コンテというのは、映像作品をつくるうえでの設計図といえるもの。
カメラワークや、その場面の秒数、登場人物のセリフや演技、効果音など、作品を成り立たせるうえで基本的なことが記されている。
もっと簡単にいうと、絵が描いてあり、横に絵の説明がある。
アニメーションは、ゼロからすべてをつくりあげるから、この設計図はとても重要。

絵コンテは、すべて宮崎監督の手によって描かれている。
宮崎監督の絵のうまさは尋常ではない。
しかも、この絵コンテは過半が水彩で着色されている。
絵コンテが着色されるのが普通のことなのかどうかよくわからないけれど、それがフルカラーで出版されるというのは前代未聞のことじゃないだろうか。

絵コンテは、絵をみていくだけでも楽しいけれど、監督の手による注意書きも楽しい。
作り手の細心さというのは、受け手のそれをしばしば凌駕している。
主人公、宗介の母親であるリサが料理をしているシーン。
沸き立つ湯に青菜を入れるカットには、こうある。

「これは野菜が足りなくなりがちな亭主に食べさせようと青菜(季節はずれだがホーレン草でイイ)を入れるリサの手」

また、ポニョの初登場のシーン。
大勢の妹たちに、「年中組」、「年少組」と注意書きが書かれている。

画面をみても、妹たちが二手に分かれているなんて、まあ気づくことではないし、作品全体を通して、妹たちを分けた意図が貫徹しているかどうかも怪しい。
でも、この注意書きがスタッフにつたえられることによって、妹たちの演技に幅ができ、それが無意識のうちに観客にとどいているかもしれない。

(これは余談だけれど、この映画は説明が少ないから、最初のうちはキャラクター同士の関係がわからない。一緒に観ていた知人は、妹たちを、映画の中盤までずっとポニョの娘だと思っていたそうだ)

それから、ポニョが再会した宗介に突進していくところの説明文はこうだ。
「大真剣」

ところで、宮崎監督はシナリオをつくらず、いきなりコンテを書きはじめるという。
そして、コンテが全部完成しないまま、作画作業に突入するという製作スタイルをとっている。
そのせいかどうかわからないけれど、映画ではひとつひとつのシーンが妙に長いという印象をうけた。
シナリオがあって、すべてを把握してからコンテを書くのでは、こういうふうにはならないのではないかという気がする。
全体に奉仕しない細部は、どんどん削られていってしまうのではないか。

ひとつひとつのシーンが長くなるのは、考えながら一歩一歩すすんでいくためだろう。
冒頭、ビンにはまり、網に捕らえられるポニョの場面には、こんな書きつけが。
「ああ、出られるか…」
宮崎監督はポニョの身を案じている。
つまり、考えるというのは、登場人物のいる時空間に身をおくことなのだ。

この映画で好きな場面は多々あるけれど、なかでも宗介がポニョの入ったバケツをひっくり返してしまう場面は気に入っている。
5才の子がこんなことしてたら、必ずこうなるだろうという場面。
でも、必ずこうなるだろうというのは、後知恵にすぎない。
その時空間に入りこまなくては、思いつくことはないだろう。

この場面は、ストーリーの進展に、そう貢献しているわけではない。
映画全体からみれば、削ってしまってもかまわないくらい。
でも、削ってしまったら、この作品の臨場感というか、その場にいる感じ、「その場感」とでもいうものがなくなってしまったろう。

一歩一歩すすんでいるのだから、途中の一歩を抜かすわけはいかない。

そしてまた、この場面を観たときは本当に、大変だ!と思い、そう思った自分にびっくりした。
自分もすっかり5才児になっていた。
5才児のように「大変だ」と思ったのは、こちらの頭の年齢が低いせいかもしれないけれど、でも、あんまりそうは思いたくないから、この作品にはひとを5才児にする力があるんだということにしよう。

で、その力は、いきなり絵コンテを書きはじめるという、宮崎監督の製作スタイルに多分によっているのではないかというのが、絵コンテを読んだ得た感想。
絵コンテには、粘り強く展開される時空間に対する想像力が描かれている。

えー、なんだか、話がややこしくなってしまったけれど、こんなことを書くつもりじゃなかった。
絵コンテに描かれている説明文は面白いというつもりだった。
かわいそうなフジモトが、海のお母さんであるグラン・マンマーレと出会う場面の説明文はこうだ。

「フジモト感激」


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やさしく極める“書聖”王義之

「やさしく極める“書聖”王義之」(石川九楊 新潮社 1999)

「とんぼの本」の一冊。

先日、喫茶店に入ったら、店の壁に「蘭亭叙」が飾ってあった。
「蘭亭叙」は“書聖”王義之が書いたもので、よく習字のお手本につかわれる。
習字を少ししたことのあるひとならだれでも知っているもの。

「これ、書いたことある」
と、一緒にいたひとにいうと、
「「蘭亭叙」ってよく聞くけど、なんなの?」
と、訊かれて返答に窮した。
習字の手本だとは知っているけれど、それ以上のことはなにも知らない。

そんなことがあったものだから、江戸東京博物館に「蘭亭叙」がきたと知ったときは、いそいそと出かけていった。
平日の午後にいったのだけれど、ガラスケースにおさめられた「蘭亭叙」には、おばさまがたがスクラムを組むようにして見入っている。
しょうがないので、隙間からチラッとのぞく。
よし、これで「蘭亭叙」はみた!
鑑賞したというより、視認したという感じだけれど、とにかく見たということに。

展覧会では、時代的に王義之以降の書が多数展示されていた。
様式がきまると、あとは精密さの度合いが上がっていく一方になるという、どのジャンルにも起こる現象は、書道にもいえることらしい。
なんというか、うにゃうにゃしてくる。
人間業とは思えないような端正な字もあらわれる。

そんななか、ものすごくいいかげんに書かれた「蘭亭叙」があった。
なにもかもどうでもいいという感じ。
だれが書いたのだろうと思ったら、八大山人だった。
(これは余談だけれど、八大山人についててっとり早く知ろうと思ったら、司馬遼太郎の「微光のなかの宇宙」におさめられている文章がいいと思う)

さて、「蘭亭叙」はみた。
つぎは、なにか解説書が読みたい。
で、前置きが長くなったけれど、王義之についてカンタンに書かれた本はないかとさがしたら、この本にいきあたった。

著者は、高名な書家で書史家。
Q&A方式で、王義之の生涯や、書の歴史、日本への影響などが記されている。
「とんぼの本」のシリーズなので、図版も多数。
ただ、話の途中で、図版があいだに入ってくることがあり、そうなると読む気がそがれることも。

本書によれば王義之は4世紀、中国の六朝時代のひと。
東晋で重きをなした名門の一族の出。

驚くのは、王義之の真筆は一点も現存していないのだそう。
王義之の作品といわれるものは、すべて後世の複製品。
(だから、展覧会の「蘭亭叙」も、3つある複製品のうちのひとつがやってきたということだった)

「蘭亭叙」の原本がなくなったのは、唐の第2代皇帝、太宗李世民(たいそうりせいみん)のせい。
太宗は、王義之のマニアで、国中から遺作をあつめ、宮中において大量の複製をつくらせて、ひとびとの書の手本とした。
いわば、王義之を書聖にした立役者。

太宗は名高い「蘭亭叙」もほしがった。
「蘭亭叙」は代々王義之の子孫につたえられ、唐のはじめには僧である弁才がもっていた。
太宗の所望にたいし、弁才は、「昔みたことがあるが、その後の乱世でいまは行方不明だ」としらを切るのだけれど、太宗の命をうけた監察御史の奸計にあい、盗まれてしまう。

「蘭亭叙」を手に入れた太宗は大喜び。
自分が死んだら、一緒に墓に埋めろといいのこした。
太宗死後、それは実行され「蘭亭叙」の原本はこの世から消えてしまったという。

すべてが複製品だとすると、そのなかでもどれが王義之の真筆に近いのかという話が当然でてくる。
著者の石川さんが真筆に近いと考えているのが、「姨母帖」(いぼじょう)、「初月帖」(しょげつじょう)、「寒切帖」(かんせつじょう)など。
当時の役人が書いていたのと同じ、素朴な書法をのこしたもの。

「この《姨母帖》や《寒切帖》こそが、まさに現在私たちが書と呼ぶ芸術の始まりの姿だと言ってよいでしょう」
と、石川さん。

つまり、王義之という人物は、紙に筆と墨をつかって字を書くという書道芸術のはじまりと、その理想を仮託された、シンボル的存在なのだ。

石川さんは、王義之の書の内容にも言及している。
王義之の手紙は、日常のことをこまごま書いた、めめしい感じのものばかり。
しかし、そこには画期的な意味があったという。
それは、それまで政治文書オンリーだった東アジア世界にはじめてあらわれた、政治の枠をはみだす、人間の喜び哀しみが記された文章だった。
もちろん、六朝時代の時代感情も反映してのことにちがいない。

展覧会で見逃した、「蘭亭叙」についての訳と解説も載っている。
蘭亭というのは、地名。
王義之の呼びかけにより、そこに一族知人らがあつまり、曲水の宴をおこなった。
曲水の宴というのは、小さな流れに盃を流し、その盃が自分のまえをすぎるまでに詩をつくるという遊び。
詩がつくれなければ、罰として盃を飲み干さなくてはいけない。

このときできた詩をまとめたのが「蘭亭集」といい、王義之が序文として記したのが、「蘭亭叙」。
訳文を読んでみると、なんだか無常観が濃い。

「…人の生き方は無限に異なり、静動も同じではないとはいえ、その境遇が喜ばしく得意の時には、誰しも自分に満足し、老いがすぐそこに迫っていることにさえ気がつかない」

昔の人が感慨を催した理由は、わたしたちと変わらず、後世のひとたちがわたしたちを見るのも、いまのわたしたちが昔のひとを見るのとおなじだろう。
ゆえに、ここにあつまった者たちの名を列記し、その作品を収録する。
世が異なり状況が変わっても、感動の源はおなじだろう。
後世の読者も、きっとこれらの作品に心をうごかしてくれるだろう。


この無常観と、素朴さを残す書法のためか、日本で王義之は大いにうけた。
王義之の書を、自分たちの書に反映させるのは平安初期の三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)のころからという。
ここで、著者は面白い指摘を。

「彼らは、私の考えでは、楷書に代表されるようなあまりにも政治的で人工的な中国文化(唐文化)に違和感をいだいた、最初の日本人だったのです」

「これ以後の日本の書道史は、楷書の歴史を欠いた形で歩んでゆくことになります」

どうも、われわれは王義之に仮託された感受性の延長線上にいるらしい。

とばしてしまったけれど、この本のなかでは、書の成り立ちも解説していて、この部分がいちばん分量が多い。
これもまた、早わかりでとても面白かった。

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「スナップ写真のルールとマナー」と「エドさんのピンホール写真教室」

「スナップ写真のルールとマナー」(日本写真家協会編 朝日新聞社 2007)

朝日新書の一冊。

友人が“FLEX LIFE”というタイトルのブログをやっている。
毎回写真を載せているのだけれど、これがいい。
で、いつぞや、スナップ写真を撮るうえで、被写体にどんな配慮をしたものか悩んでいるようだったので、読んでないけどこんな本があるよと、この本を紹介したところ、
「えー、読んでないのー」
と、いわれた。

まあ、たしかに読んでいないのにひとに薦めるのは無責任。
でも、本というのは、ちゃんと読まなくても、ぱらぱらやれば、だいたいのところはわかるものだ。
とくに、実用書はそう。
とはいうものの、それでは説得力がないので、ちゃんと読んでみることに。

結論としては、この本はオススメできるものだと思う。
新書なのでハンディだし、肖像権や著作権についてもわかりやすく書いてある。
Q&Aは、質問の設定が非常に具体的だし、回答も穏当。
どういう構成か、目次から引いてみよう。

・「楽しく写真を撮るために」 田沼武能(日本写真家協会会長)
・「「肖像権」とはなにか」 松本徳彦(日本写真家協会専務理事)
・「Q&A スナップ写真と肖像権」
 
 1.こんな場所で撮っていいの?
 2.撮った写真を公表したい
 3.パブリシティーがらみの写真
 4.写真を撮ってトラブルに
 5.そのほかのケース

・「鼎談 スナップ写真はこう撮ろう」 松本徳彦・毛利壽夫・山口勝廣
・「写真の著作権」 毛利壽夫
・「参考文献」
・「法的視点から見た「肖像権」について」 北村行夫
・「法的視点から見た「著作権」の基本について」 北村行夫

中心になっているのは、5章に渡る「Q&A スナップ写真と肖像権」。
見開きで1例ずつ、全66例が挙げられている。
その質問については、たとえばこう。

「歩行者天国で大道芸をしている人を撮りました。まわりには、たくさんの人が写っています」
「大道芸に見とれていた女の子のスナップをブログで公表したい」
「よく出かける公園で、保育園児のスナップ写真を撮りました」
「背景にあったポスターに写っている女優から掲載使用料を請求された」
「他人の犬を撮ったら「この犬はプロだから謝礼を払えといわれた」
「テーマパークで撮った家族写真をブログに載せたい」

などなど。
さて、回答によくでてくるのが「暗黙の了解」ということば。
でも、このことば、「暗黙」だけあって、いまいち意味がはっきりしない。
被写体と挨拶をかわすことで、被写体から撮影の許可を得たと判断することを、こういうふうにいうらしい。

たとえば、あるとひとが素晴らしい表情をしていたとする。
事前に撮らせてくださいと許可をもらえれば一番だけれど、それをするとカメラを意識して素晴らしい表情が消えてしまう恐れがある。
そのため、なにもいわず写真を撮る。
撮ったあと、被写体に挨拶をする。

これで「暗黙の了解」が成立するらしいのだけれど、問題はこの「挨拶」。
黙礼や会釈ていどなのか、お礼をいったのかで「暗黙の了解」の強度が変わってくるらしい。
それから、「暗黙の了解」は撮影のことだけであって、公表は認めていないという考えかたもあるという。
このあたりはややこしいけれど、被写体ひとりひとりの感じかたのちがいだから、ややこしくもなるだろう。
この微妙なところを、さまざまなケースを用いながら説明しているところが、この本の美点。

事前に公表することがわかっている場合は、相手にそれをつたえ、なおかつ相手の住所を教えてもらって、写真を送ったりできればいい。
でも、住所を教えてもらえるとはかぎらないし、大勢写っていて、全員に許可をとるのが不可能な場合もある。
そんなときはどうすればいいか。

回答者のひとり、松本徳彦さんは、ある回答でこんなことを書いている。

「写真家が肝に銘じておくことは「撮る行為、発表する行為、すべて自分自身に責任がある」ということです。この「責任がある」ということを念頭に置いて、撮ったり発表したりすれば、問題は起きないはずです」

つまり、最終的には覚悟の問題らしい。
こそこそせず、堂々と撮り、事前や事後には挨拶をし、場合によっては撮影意図を説明できるようにして…、やることをやったあとは覚悟の問題。
この考えかたは、わかりやすくていい。
さらに、松本さんはこうもいっている。

「気持ちのよい美しい作品であれば、誰も文句は言わないでしょう」

ところで、公表について。
雑誌に応募したり、展覧会に出品したりするよりも、ブログにアップするほうが敷居が高いのだそう。
ネットではだれもがみられるし、勝手に書き換えることもできるから、より注意が必要だと本書にある。

具体的な事例を知り、復習し、そのあとは覚悟を新たにする。
それが実用書としての、本書のつかいかたかもしれない。

この本には、回答者が撮ったスナップ写真もいくつか載っている。
せっかく載せているのだから、どんな状況で、どんなふうに相手に断ってこの写真を撮ったのかも書いてあるとよかった。

写真つながりでもう一冊。

「エドさんのピンホール写真教室」(エドワード・レビンソン 岩波書店 2007)

副題は「スローライフな写真術」。
翻訳は鶴田静。
著者は日本で暮らしているカメラマン。

本書は、実用書でもあるけれど、それよりはピンホールカメラをめぐるエッセーといったほうがいいかも。
ピンホールカメラのつくりかたがあり、撮影のコツがあり、ワークショップ参加者の作品への評があり、自作の解説がある。

ピンホールカメラは露出にとても時間がかかるものだから、スナップ写真は無理だろうと、かってに思っていたのだけれど、本書を読んだら、そんな思いこみは完全にくつがえされてしまった。
素晴らしいスナップ写真がたくさん載っている。

まず気に入ったのは、これはワークショップに参加したかたの作品だけれど、昼寝している犬を至近距離から撮った写真。
この写真に、著者はこんなことばをつけている。

「まどろんでいる犬を見ると、僕はいつも嫉妬を感じる。犬はスローダウンする方法や、望む時には世の中を無視する方法を知っているのだ。しかし彼らは、何かが起こりそうだと、一瞬のうちに気付いていつでもそちらにいく用意ができている」

著者が撮った、川にむかい彼女を肩車している高校生のカップルの写真や、団地の女の子を撮った写真も魅力的。
団地の女の子の写真は、たまたまあらわれたその子に、「30秒間でいいからそこにそのまま立っててくれませんか?」とお願いして撮ったものだそう。

あとできっと彼女は知らない人と話してはいけないと叱られたに違いない、と著者は書いているけれども、この作品をみたら、親も叱るのをやめるんじゃないだろうか。

ピンホールカメラで撮ったスナップは、普通のスナップ写真とは趣が異なる。
写真にこめられた時間の量がふつうの写真よりも多いぶん、一瞬をより強く意識させるようになる。
それがピンホール写真の魅力のひとつだろう。

著者の作品はEdophotosで見ることができる。

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老師と少年

「老師と少年」(南直哉 新潮社 2006)

著者は禅僧。
これで、ミナミ・ジキサイと読む。

求道的な小説、というジャンルがあるように思う。
たとえば、テグジュペリの「星の王子さま」。
リチャード・パックの「かもめのジョナサン」や「イリュージョン」。
あるいはヘッセの作品とか。
「老師と少年」もそんな一冊。

求道的な小説は、たいてい寓話的。
なので、一般的な小説より抽象度が上がる。
具体的にいうと、固有名詞がなくなる。

それから、求道的な小説は一般に1人称が多い。
「私」がだれそれに出会った、というかたちをとりやすい。
ただ、寓話のレベルが上がると、より抽象度を上げるためだと思うけれど、3人称になる。

さて、本書はそれでいうと3人称。
登場人物は老師と少年、それに少女という、固有名詞のない3人のみ。
ほとんど、老師と少年の問答で話が進む。
少年は老師を「師」と呼び、老師は少年を「友よ」と呼ぶ。

夜、老師をたずねる少年は、「生とは、死とは、自分とはなにか?」といった根源的な悩みを老師にぶつけていく。
その問答が7晩つづくというのが、本書の形式。

老師の答えには諦念があり、それが誠実さとおかしみ、あるいはあたたかさといったものを感じさせる。

「本当の自分を知りたい」
という少年に対して、老師は答えはこうだ。
「『本当』と名のつくものは、どれも決して見つからない」

それから、少女という登場人物の立ち位置が面白い。
少女は、老師の世話をしていて、毎晩、少年が去ったあと少年について老師と短い会話を交わす。

「老師。彼は今夜、何を学んだのでしょう」
「彼は今夜、自分が一人でないことを知ったのだ」

少女は、少年と老師に対して批評的な場所を占めている。
これは、求道的な小説には、とてもめずらしいことのように思える。
なにしろ、求道的な小説は、なにかをもとめて前のめりになっていたりするから、自己批評性をもちづらい。
批評性をもとうとすると、前のめりのまま方向転換してしまって、自己否定に走ったりする。

本書のラスト、老師から託されたことばを少年に告げるのも少女。
「あなたが老師と会った最後の夜、老師は私がもう一度あなたに会うことがあったら、こう伝えてくれといっていました」
このことばはとても味があるのだけれど、本書に直接ふれるひともいるかもしれないから、ここに書くのは控えよう。

この本、本屋や図書館でどこにおいてあるのかわかりずらい。
宗教の棚かもしれないし、小説の棚かもしれない。
初版は2006年で、手元にあるのは2007年の3刷。
うまく、こういう本が好きなひとのもとに届くといいのだけれど。


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