「新カンタベリー物語」と「奇跡への旅」


「新カンタベリー物語」(ジャン・レー 創元推理文庫 1986)
訳は篠田知和基。

訳者あとがきによれば、ジャン・レーは、ベルギー最大の幻想作家。
ジョン・フランダースの別名で、子どもむけ冒険譚を書きまくり、とくに《アメリカのシャーロック・ホームズ》と銘打った推理小説雑誌ないし叢書、「ハリー・ディクスン」をほとんどひとりでだし続けたとのこと。
「おおげさにいうと、一日に一冊くらい書いた作家」だという。

「ハリー・ディクスン」は岩波少年文庫にはいっていたのを読んだことがある。
ケレン味というかハッタリがよく効いていて、ルブランの文体で書かれたホームズという感じだった。
岩波少年文庫は、いま装丁をあらたにして旧作を再版をしているけれど、「ハリー・ディクスン」は通俗味がありすぎるから、たぶん復活しないんじゃないだろうか。

さて、本編。
タイトルどおり、「カンタベリー物語」を模したもの。
「カンタベリー物語」は、カンタベリーにむかう巡礼者たちが、途中、《陣羽織》亭に立ち寄ったさい、互いに物語を披露しあうというものだった。
本書では、三文文士トビアス・ウィープが、《陣羽織》亭という薄暗い料理屋に迷いこむ。
そこで、あつまった亡霊たちの話を聞くという趣向。

亡霊たちのなかには、牡猫ムルだとか、フォルスタッフだとか、物語の登場人物たちがでてくる。
よく知らないけれど、カニヴェ博士とか、クプフェルグルン氏なども、なにかの物語にでてくるのかもしれない。
かれらが登場したのは、パロディというおおげさなものではなくて、作者のこの種の作品にたいする愛着のゆえだろう。

ところで、肝心の亡霊が語る話。
これが、正直にいうとあんまり面白くない。
薄味で、賞味期限が切れてしまっている感じ。
語り口も一定でなく、3人称だったり1人称だったり、前口上があったりなかったりするところも、読む気を削いでしまう。
趣向は面白そうなのに、残念だ。

けっきょく、パラパラと通読したのだけれど、ラスト近く、牡猫ムルの演説には真情がかよっているようで印象に残った。
ムルは、未完の作品を他人が、また作者の亡霊が勝手につづけて完結させてしまってはいけないと説く。
なぜなら、「死がなし遂げたものは立派になし遂げられたからなのです」。

「奇跡への旅」(ミッシェル・トゥルニエ パロル舎 1995)
副題は「三賢王礼拝物語」。
訳は石田明夫。
装丁・挿絵、森隆一。
見開きの挿画は、物語の流れを切断してしまったのではないかと思うけれど、どうだろう。

訳者あとがきによれば、トゥルニエはフランスの作家。
一般向けに書いた本を、児童向けに自分で書きなおすことで有名とのこと。
この本は児童向け。
一般向けの本は、「オリエントの星の物語」(白水社 2001)として、榊原晃三氏の手により訳出されているそう。

さて内容は、ですます調の三人称。
副題どおり、聖書から材をとった東方の三賢王(博士)の物語。
まず、第一は黒人王ガスパール。
白人の金髪奴隷に恋をしてしまったガスパールは、自分の肌が忌わしくなり、旅にでることに。
旅のはてに、イエスの誕生を目の当たりにし、イエスが黒人だったと(その両親は白人なのに)知る。

つぎは芸術王バルタザール。
古今東西の芸術品をあつめた、バルタザール館を建立するも、反乱した民衆により略奪される。
傷心のバルタザールは旅にでて、途中ガスパールなどとも合流しつつ、ベツレヘムへ。
イエスの誕生に立会い、放浪の母親が放浪の子どもに身をかがめている姿に、新しい芸術の息吹を感じる。

最後は、タオール。
聖書にはうといけれど、三賢王が、ガスパール、バルタザール、メルキオールということくらいは知っている。
タオールというのはだれだ?

じつはタオールは、4人目の賢王として作者がつくりだした人物。
メルキオールの物語は、一般向けの本にはあるらしいけれど、この本では削られてしまった。
タオールの物語はいちばん長く、本書の半分以上をしめている。

ほかの賢王とちがって、タオールは傷心から旅にでたりしない。
タオールはお菓子が大好きで、これから生まれる《高貴な菓子作りの神》が発明するはずの食べ物をもとめて旅にでる。
無邪気かつ無頓着な王子は、遅刻の常習犯。
ベツレヘムに着いたときには、イエスと両親はヘロデ王の手から逃れるために当地を去ったあとだった。
さらに艱難辛苦が続き、ひとの身代わりになり塩坑ではたらくはめに。

最終的に、タオールは高貴な食べ物を口にすることができる。
それにしても、キリスト教の寓話というのは、なんだって唐突にひとが死ぬんだろうか。

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さらに最近読んだ本いろいろ

まだ忙しさが去らない。
更新もしてないのにきてくださっているかたには、ほんとうに申し訳ないです。

今回も、読んだ小説についていくつか小さなメモを。

「ガールハンター」(ミッキー・スピレイン 早川書房 1962)
訳は小笠原豊樹。
ハヤカワポケットミステリの一冊。

ハードボイルド。
名高い私立探偵マイク・ハマーもので、このシリーズを読むのははじめて。

マイク・ハマーものの第一作は、スピレインの処女作でもある「裁くのは俺だ」。
その後、シリーズが何作続いたのか知らないけれど、訳者あとがきに「9年ぶりのマイク・ハマー」とあるから、ずいぶん間が空いて出版されたもののよう。

原書の出版は1962年。
同じ年に翻訳が出版されている。
当時はとても人気があったのだろう。
訳者の小笠原さんも、「ペイパーバックになれば、かるく百万部は売れるだろう」と書いている。
いまは読むひとはいるだろうか。

さて、ストーリー。
〈おれ〉の一人称。
冒頭、マイク・ハマーはアル中の姿で読者のまえにあらわれる。
ハマーがアル中になったのは、秘書であり愛した女だったヴェルダの死を、自分の責任だと思いつめたため。
ドブで発見されたハマーは、チェンバース警部の手により、ある死にかけた男に引きあわせらる。
その男は、ヴェルダは生きているという。
しかも、自分を殺った殺し屋にヴェルダも狙われていると告げる。
かくして、ハマーはヴェルダを捜し出すため奔走する。

ハマーの旧友であるチェンバース警部は、ヴェルダのことが好きだったので、ハマーに対し愛憎半ばした気持ちをもっている。
ハマーは、捜査の過程で美女と遭遇、雨の街をさまよいながら考えごとをし、いつでも軽口を忘れない。
会話はテンポがよく、くり返しが多い。
「逢えてよかったな、マイク」
「逢えてよかったな、ナット」
と、いった具合。

ほとんどパロディとみまごうばかりの紋切り型。
紋切り型はきらいではなく、むしろ好きなくらい。
紋切り型というのは、親切でつかわれるものじゃないだろうかと思う。
それに、紋切り型は、一片の真実が含まれているからこそ紋切り型になるものだし。

けれど、あんまり多用されると、賞味期限が切れてしまったような感じをうける。
表現が擦り切れ、現実感がとぼしくなってしまう。
まるで全編、アル中のハマーがみた夢のような小説。

とはいうものの、シリーズ第一作の「裁くのは俺だ」には、もっと切迫感があったのかも。
いずれ、読んでたしかめてみなくてはいけないか。

ときどき、ハマーが内省的になると、文章がカタカナになる。
原文ではイタリックで書かれていたのかもしれない。

「迷宮1000」(ヤン・ヴァイス 創元推理社 1987)
創元推理文庫の一冊。
訳は、深見弾。
著者はチェコの作家。

内容は、幻想探偵譚とでもいうべきもの。
とある男が目覚めたのは、千階建てのビルディング。
男は記憶を失っていたが、ポケットに残ったメモから、自分がピーター・ブロークという名の探偵であること、失踪したタマーラ姫をもとめてこのミューラー館に潜入したことなどを悟る。
ピーターは、姫をさがしだし、館の謎を解くために探索を開始する。

なにも知らない主人公が徐々に知識を得ていったり、全編、巨大な建物のなかで話が進むところなど、読んでいるあいだ、ロールプレイング・ゲームのダンジョンをさまよっているような感じ。

ミューラー館は、全知全能のヒスファー・ミューラーに支配されており、その建物のなかでは労働者階級が革命を起こそうとしている。
また、ミューラーは巨大総合商社〈宇宙〉を経営し、ひとびとを他の惑星に移住させている。
なんというか、なつかしさと奇抜さがまざりあったような設定。
原書の刊行は1929年。
訳者あとがきによれば、これほどみごとにナチスのガス室を予見した作品は皆無といっていいとのこと。

この作品が、半分くらい賞味期限が切れながらもまだ読めるのは、情報のだしかたがたくみなのと、構成がよくできていること、あとやはり筆力があるためだと思う。
設定だけでは小説は書けない。
全編、建物をさまようだけの小説が面白く読めるのだから、その想像力には感心してしまう。
この本も、あんまり読むひとがいないだろうから、もうちょっとメモがとりたいなあ。

「恐怖の兜」(ヴィクトル・ペレーヴィン 角川書店 2006)
新・世界の神話シリーズの一冊。
訳は、中村唯史。

迷宮小説をもう一冊。
これはロシアの小説。
目覚めると、それぞれ見知らぬ部屋にいた8人の男女。
部屋にはパソコンがあり、登場人物たちはチャットをしながら、状況を確認していく。
どうも、この世界はミノタウロスが君臨している世界らしい。
すると、われわれは迷宮にとらわれているのか。
ミノタウロスの神話と同じように、テセウスを待つ8人に、意外な真実が訪れる。

チャットをならべた文章なので読みやすい。
この「意外な真実」を目にしたときは、思わず笑ってしまった。
手法と真実が結びついている点で、じつによくできている。
けれど、ひとによっては怒るひともいるかも。
だれかに薦めるときには、注意が必要だ。

毎日ちょっとずつ読んでいる「オリヴァー・ツイスト」は、現在下巻に突入。
「大いなる遺産」にくらべると、理屈と、気の利いた感じのうるさい表現が多く、いかにも若い感じがする。
とはいえ、面白い。
「オリバー…」を読んだらつぎはディケンズのなにを読もうかと、いまから考えている。


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最近読んだ本いろいろ

最近忙しくて、本を読むのはともかく、メモをとるヒマがない。
なにしろ書くのが遅いから、週一回の更新もひと苦労なのだけれど、それすらもおぼつかない。
なので、今回は最近読んだ本についての小さなメモをとることに。
ここのところ、脈絡のない更新が続いたから、今回は小説だけ(でも例によってジャンルはむちゃくちゃ)。
そのうち時間ができたら、もう少し詳しいメモをとりたいなあ。

「ロールスロイスに銀の銃」(チェスター・ハイムズ 角川文庫 1971)
訳は篠原慎。

ニューヨークのハーレムが舞台。
“墓掘り”ジョーンズと“棺桶”エドという、ふたりの黒人刑事が活躍する。
タイトルに偽りありで、ロールスロイスも銀の銃も小説にはでてこない。
カバーの袖などに映画のスチール写真がつかわれているから、映画に便乗して訳されたのかも。

ストーリーは、ある小悪党が黒人相手に〈アフリカに帰ろう運動〉という詐欺を画策。
集会を催したところ、何者かの襲撃をうけ、集金を強奪される。
で、“墓掘り”と“棺桶”がその事件を調査するというもの。

にぎやかで、狂騒的。
活気とユーモアのある語り口が楽しい。
いまどきこんな本を読むひともあまりいないだろうから、いずれもうちょっとちゃんとしたメモがとりたい。

「風雲海南記」(山本周五郎 新潮文庫 1992)
これは時代小説。
主人公が、とある藩主の子でありながら、双子の弟だったために寺に預けられていたり、その藩は御家騒動を起こしていたり、御家騒動には秘巻のとりあいがあったりするという、いかにもな道具立て。
できばえは、でこぼこした感じ。
小説が、いま現在読者の目の前で登場人物がなにかしているという「場面」と、それまでの経緯などを紹介する「説明」とに分けられるとすると、この両者がよく混ざっていないという印象。
でも、こと「場面」にかんしては、じつに生き生きしている。
さすが山本周五郎だ。

話は最後、海外脱出で終わるのかと思っていたら、まだ続いて驚いた。
解説によれば、この本は戦前、新聞に連載されたものだとのこと。
国境意識は、その時代の国境線を反映すると思われるから、いまの作家ではこうはいかないかも知れない。

「妖精ディックのたたかい」(キャサリン・M・ブリッグズ 岩波書店 1987)
訳は山内玲子。

これは児童書。
著者はイギリスの民俗学者にして妖精学者。
なにか妖精のことをしらべようと思ったら、井村君江さんやこのひとをさけて通るのはまず無理だろうと思う。

原題は「ホバティ・ディック」。
これは家つき妖精のこと。
家つき妖精というのは、本書によれば、家や家族や家畜を守り、気に入ったひとには世話を焼き、気に入らないやつにはいたずらしたりする、日本の妖怪でいうと座敷わらしみたいな妖精らしい。
本書の主人公、ホバティ・ディックのホブも、新しく自分の家にきた家族のために奮闘する。
日本語のタイトルは、内容からすると少々おおげさか。

物語の舞台は17世紀で、王党派と清教徒があらそい、社会階層の塗り替えがおこなわれた時期。
それが物語にうまく反映されている。

作風は地味でていねい。
若者たちの恋があり、子どもの誘拐があり、宝探しがある。
と、こう書くと波乱万丈なのだけれど、作風のためかいまいち起伏にとぼしい。
このままだと、どんな話だったのか忘れるのは必定なので、これもちゃんとメモをとりたい一冊。

「こわがってるのはだれ?」(フィリパ・ピアス 岩波書店 1992)
訳は高杉一郎。
この本も児童書。

いまネットで書誌をしらべたら、「フィリパ」と「フィリッパ」で書誌が分かれていた。
外国人名の日本語表記はややこしい。
検索のさいは注意が必要だ。

さて、フィリパ・ピアスは「トムは真夜中の庭で」(岩波書店)で高名。
この本は短編集。
収録作は以下。

「クリスマス・プティング」
「サマンサと幽霊」
「よその国の王子」
「黒い目」
「あれがつたってゆく道」
「おばさん」
「弟思いのやさしい姉」
「こわがってるのは、だれ?」
「ハレルさんがつくった洋だんす」
「こがらしの森」
「黄いろいボール」

どれも怖い、不気味な話。
大別すると、傾向は3つに分けられる。
1、ゴースト・ストーリー。
2、超常現象話。
3、ねじれた人間関係の話。

ゴースト・ストーリーでは、犬の幽霊がでてくる「黄いろいボール」がよかった。
とぼけた味わいのある「サマンサと幽霊」も捨てがたい。

超常現象話では、「あれがつたってゆく道」。
これは不気味だ。

ねじれた人間関係の話では、「黒い目」。
すべての作品が、目にみえていることだけが現実ではないとさししめしている。
でも、この本のなかで、いちばん怖いのは、ピーター・メルニチュクによるさし絵だ。

「大いなる遺産 上下」(ディケンズ 新潮文庫)
訳は山西英一。

ときどき、「もっと早く読んでおくんだった」と思う本がある。
「大いなる遺産」を読んだとき、つくづくそう思った。
まさかこんなに面白いとは。
中学生くらいのころに読んでいたら、もっと夢中になったかもしれないのに。

人物も情景も、みな濃厚。
それがじつに生き生きとしている。
とくにディフォルメの効いた人物描写が素晴らしい。
好きになった登場人物がでてくると、それだけで嬉しくなる。
思えば、小説を読むよろこびというのは、こういうものだった。

また、ストーリーでは、後半、張りめぐらされた伏線が爆発する。
下巻の半分あたりからは、つぎつぎに点火される伏線の打ち上げ花火をみているよう。

というわけで、いまにわかにディケンズ・ブームがきている。
最近は、一日の終わりに「オリバー・ツイスト」を少し読むのが楽しみ。


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ナポリへの道

「ナポリへの道」(片岡義男 東京書籍 2008)

ここでいうナポリとは、スパゲティのナポリタンのこと。
本書は、ナポリタンをめぐるエッセー集。

たしか、著者の「白いプラスティックのフォーク」(日本放送出版協会 2005)のなかに、ナポリタンについての文章があったかと思う。
絶滅寸前と思われる、スバゲティ・ナポリタンをたずねる旅をしたら面白いだろう、という内容の文章だったはず。
この文章のアイデアをもとに書き下ろしたのが、たぶんこの本
ひょっとすると、「白い…」を読んだ編集者に、ナポリタンで一冊つくりませんかなどといわれたのかもしれない。

(著者には、「吉永小百合の映画」(東京書籍 2004)で赤木圭一郎にふれたところ、それが発展して「一九六〇年、青年と拳銃」(毎日新聞社 2008)という、赤木圭一郎の映画をめぐる本が生まれたという前例もあった。じっさいのところはわからないけれど、これも「吉永…」を読んだ編集者が話をもちかけたにちがいないと、両書を面白く読んだ身としてかってに思っている)

さて、本書は変な本だ。
喜ばしくも変な本。
ナポリタンの本といっても、店の案内が羅列してあるわけではないし、おいしそうな写真とともにレシピが載っているというわけでもない。

すると、この本はなんなのか。
これは、著者の個人的な記憶や感覚で貫かれた、ナポリタンについての本だと、ひとまずいいたい。
個人的なもので貫かれている点で、この本は自由研究に似ている。
奥付の発行日も9月1日だし。

著者がまずするのは、ナポリタンという名称の考察。
それから、文献にあたり、日米合作といえるナポリタン誕生の瞬間をたしかめ、それを要約。
考察は、パスタからトマトソース、そしてケチャップという、よく考えると摩訶不思議な食材へと続く。
雑誌をひっくり返し、喫茶店でつくられたナポリタンの記事を確認。
はじめてナポリタンを食べたときのことを記す。

これらの記述に、著者の体験がかさなる。
パスタというのは、要するに小麦をどう食べるかという、たくさんの解答のうちのひとつだ。
ここで、著者は幼少のころ、小麦の収穫に参加し、石臼で小麦を粉にした経験を語る。

またトマトについて。
瀬戸内海で育った著者は、友人たちと、海でトマトを投げあって遊んだ。
さらに、トマトジュースづくりにも挑戦した。
煮込んだり、ジャムにしたり、試行錯誤をくり返した。

こういった、少年時代の夏の記憶と結びついているところが、いよいよ自由研究。

ところで、ナポリタンをたずねる「ナポリへの旅」はどうなったのか。
結果からいうと、どうもナポリタンを絶滅寸前と考えたのは、著者の早合点だったようだ。
ナポリタンは健在で、あちこちの店で散見される。
ではなぜ、一瞬みえなくなったように思ったのか。
著者が知人たちとナポリタンを食べながらだした結論は、要約するとこんなふう。

「ナポリタンはスタートした時点で、すでに日本のものだった。ところが、イタリア料理が流行したさい、ナポリタンはイタリア料理ではないという否定的な評価をうけた。パスタ類に関して認識を新たにした日本人の一部分が、得たばかりの知識でなにかを批判する対象として、ナポリタンを発見した」

「こうしてナポリタンはいったんその位置をかなり沈下させた。ところが、流行が去ると、ふたたびナポリタンが盛んに目にとまるようになった」

この後も、ナポリタンにかんする考察は続く。
レトルトを買いこみ、ウィンドーに飾られたサンプルについて思いをはせる。
サンプルの話は、この著者らしい興味のありかたが色濃くでていて面白い。
それにしても、ナポリタンという話題ひとつをどこまでもよく転がすなあと感心。

著者は、ナポリタン初体験のときから、ナポリタンに日本そのものをみている。
ナポリタンは日本そのものだという論証が、この本だといってもいい。
その論証を貫いているのは、著者の体験であり、感じかただ。

つまりこの本は、ナポリタンの解説書ではなく、ナポリタンは日本そのものだという考察の書。
おかげで、ジャンル分けがとてもしづらい。
先に、この本は変な本だといったのは、そういう意味。

しかし、個人の感じかたが、すみずみまでいきわたっている点で、この本は喜ばしい。
この本を読んで思い出したのは、ジャンルはまるでちがうけれど、たとえば山本夏彦の「私の岩波物語」(文芸春秋 1997)といった本だった。
どちらも、ジャンル分けにとまどう本で、どちらも個人的な感じかたに満ちている。

こういう本を読むのはとても楽しい。
なぜ、こうも楽しいのか。
あんまり考えたことはなかったけれど、おそらく、ここにこのひとがいるという感じがするからじゃないだろうか。

そうそう、この本を読んだあと、無性にナポリタンを食べたくなり、近所のファミレスにでかけた。
でも、そのファミレスにナポリタンはなかった。
やはり、喫茶店のほうがナポリタンに遭遇する率は高いのか。
いずれナポリタンを食べに喫茶店にいってみるつもりだ。


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