ひみつの白い石

「ひみつの白い石」(グンネル・リンデ/作 奥田継夫/共訳 木村由利子/共訳 冨山房 1982)

これは児童書。
作者のグンネル・リンデはスウェーデンのひと。
カバー袖にある作者紹介を引用しよう。

《1924年、スウェーデンのストックホルムで生まれたグンネル・リンデは、物語をつくるのが大好きな少女でした。おとなになってからも、新聞記者、ラジオやテレビの番組プロデューサーなどをしながら童話を書き、1958年の「透明クラブとトリ小屋舟」で児童文学作家としてデビュー。その後も次々と作品を発表し、1964年の「ひみつの白い石」には、ニルス・ホルゲルソン賞が与えられています。》

また、奥田継夫さんによる訳者あとがきには、作品のタイトルと出版年が記されている。
少々重複するけれど、これも引用しておこう。

《1958年、「透明クラブとトリ小屋舟」でデビュー。
 1959年、「煙突横丁」で名声を確立。
 1964年、「ひみつの白い石」でニルス・ホルゲルソン賞。
 1997年、すでに冨山房から翻訳出版されている奇想天外なメルヘン、「ママたちとパパたちと」。
 1978年、ラブ・ストーリーの「人生がだいじなら」。》

本書は3人称。
女の子と男の子の、友情の物語だ。

物語の最初と最後に、作者が顔をだしている。
いわば、エピローグとプロローグ。
この部分だけですます調なので、本編に入ると違和感がある。
でも、じきそんなことは忘れてしまう。

舞台は、スウェーデンの小さな町。
夏休みの終わり、あと一週間で新しい学年がはじまるというところ。

主人公のひとり、フィアは、黒い髪をした背の低いやせぽっちの女の子。
お母さんはピアノの先生。
小さな町では、ピアノの先生などは無用の長物と思われている。
そのため、フィアも学校ではからかわれ、肩身のせまい思いをしている。

フィアのお母さんは、判事さんの家に間借りしている。
判事さんの家には、マーリンおばさんという家政婦がいて、このひとが大変な意地悪。
フィアは、マーリンおばさんのことを、「エプロン魔女」と呼んでいる。

もうひとりの主人公は、ハンプスという名前の男の子。
親を亡くし、靴屋をしているおじさんの世話になっている。
おじさんには、自分の子どもだけで6人の子が。
半年ごとに引っ越しするので、どの土地にいっても、新しい靴屋さんと呼ばれている。

ハンプスはなかなかの暴れん坊。
いつでも厄介ごとを起こすので、すぐ引っ越すのは都合がいい。

そんなわけで、判事さんの家の前に引っ越してきたハンプスは、判事さんの家の門から外をながめているフィアと出会う。
ハンプスに名前を訊かれたフィアは、とっさに「フィデリ」とこたえる。
まるでプリンセスのような名前。
同じく、フィアに名前を訊かれたハンプスは、ちょうど通りかかったサーカスの車に貼ってあったポスターをみて、「スーパーヒーロー」と名乗る。

フィアには、お守りにしている白い石がある。
小さな、すべすべした、大事な石。
その石がほしくなったハンプスは、フィアに交換条件をもちだす。

《「ね、教会の時計台にさ、目と鼻と口をかきくわえたら、その白い石をおれにくれるかい?」》

フィアは了承。
その夜から、さっそくスーパーヒーローは行動を開始。
仔細は略すけれど、みごとに時計台に顔を描いてみせる。

翌朝、それを知ったフィアはびっくり仰天。
約束どおりハンプスに会い、白い石を渡す。
すると、ハンプスはフィアにこんなことをいう。

《「一日じゅう、だまりっぱなしで、人がなにをいっても、すごくおこっても、返事をしなかったら、この石、返してやる。できる?」》

もちろん、フィデリであるフィアは、この試練に立ち向かう。
ごちそうさまをいわなかったために、マーリンおばさんにからまれたり、判事さんに誘われてお母さんと一緒にサーカスをみにいったり――フィアはハンプスのことをサーカスの子だと思っているので、時計台にいたずら描きをしたのがばれてしまうと気が気ではない――しながら、フィアは難題をやりとげる。

次の日、フィアはハンプスに会い、白い石をとりもどす。
そして、こんどはフィアがハンプスに難題を。

《「サーカスの象を学校の女の先生の前にくくりつけること」》

こうして、白い石を仲立ちに、フィアとハンプスは親しくなっていく。

2人がだしあう難題は、作中では案外あっさりと乗り越えられる。
それが、この作品をファンタジーがかった愉快なものにしている。
2人がおたがいをよく知らず、別の名前で呼びあうことは、このファンタジー性を保証しているものだろう。

訳文は調子がいい。
よすぎるくらい。
木村由利子さんの翻訳に、奥田継夫さんが手を入れたのではないかと思うけれど、どうだろうか。

時計台に顔を描くときのような、おもに行動を書くときは、調子のいい文体でかまわない。
でも、エプロン魔女のマーリンおばさんの意地悪さを表現するときは、調子のいい文章では間にあわなくなってくる。
そのため、この作品は、やけに調子がいいところと、そうでないところが混在しているのだけれど、ストーリーが楽しいので読んでいるときは気にならない。

マーリンおばさんの意地悪さは、妙にリアリティがある。
でかけるときマーリンおばさんは、わざと判事さんのワイシャツにアイロンをかけないでおく。
判事さんが、しつけの悪い子ども――フィアのこと――と、その母親を放っておくなら、くしゃくしゃのワイシャツを着ることになったって仕方がない。

ところが、帰ってみると、ワイシャツにはちゃんとアイロンが。
フィアのお母さんであるペターソン夫人が、気をきかせてアイロンをかけたのだ。
しかし、マーリンおばさんは逆恨み。
わたしの留守をねらって点数かせぎしようとしたのね。

そこで、マーリンおばさんは、アイロンのかかったワイシャツの上にどっかりと腰をおろす。
――シャツをたんすにしまうってことに気がつかなかったのは、ペターソンさんが悪いのよ。
マーリンおばさんは、つねに自分を正当化することを忘れないのだ。

さて、このあともフィデリになったフィアと、スーパーヒーローになったハンプスは、たがいに試練をだしあい、乗り越えていく。
コーヒーショップのピアノを弾くこと。
ゆで玉子を判事さんのベッドのなかに入れること。
さらに、判事さんのベッドに入れたゆで玉子をとりもどすこと。

この最後の試練のために、ハンプスは判事さんに捕まりそうになり、2人は窮地に立たされる。

ハンプスはフィアのおかげでこの町が気に入り、もう引っ越しはしたくない。
また、フィアもハンプスと一緒に学校にいきたいと思っている。
はたして、2人の願いはかなうのか。

子どもは子どもの理屈で行動する。
その理屈はときとして、大人には思いもよらない。
本書では、それがうまく表現されている。
物語の最後のほうで、フィアとハンプスはこれまでの経緯を判事さんに説明するのだが、判事さんは2人のいうことがわからない。
そこで、2人は顔をみあわせる。

《かわいそうな判事さん! 救いようがないほどおとなになってしまった判事さん!》

それから。
フィデリとスーパーヒーローは、フィアとハンプスにもどらなければいけない。
学校がはじまれば、どうしたってもどらないわけにはいかない。
そのことに触れているエピローグは秀逸。

さし絵は、エリック・パルムクビストというひと。
登場人物のからだのうごきをたくみにとらえたペン画で、物語をより楽しいものにしている。


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リリー・モラハンのうそ

「リリー・モラハンのうそ」(パトリシア・ライリー・ギフ/作 もりうちすみこ/訳 吉川聡子/画 さ・え・ら書房 2008)

原題は、“Lily‘s Crossing”
ニューベリー賞オナー賞受賞。

3人称リリー視点。
ほとんどリリーの1人称といえる。
舞台は、1944年夏。
数週間前に、連合軍がフランスに上陸した頃。

リリーは5年生。
お母さんは小さい頃に亡くなり、お父さんと祖母と3人暮らし。
ことしの夏も、別荘のあるニューヨーク郊外の避暑地ロッカウェイで過ごす予定。

リリーはピアノが嫌いだけれど、お父さんは習わせたい。
そのため、ことしは別荘にまでピアノをもっていくはめに。

ロッカウェイには、友だちのマーガレット・ディロンがいる。
2人ともニューヨーク州のクイーンズ区に住んでいるけれど、会うのは夏のロッカウェイだけ。
ことしも2人は再会するが、すぐマーガレットはデトロイトに引っ越してしまう。
お父さんがB24をつくる工場につとめるため。
リリーはマーガレットから、ディロン家の裏口の鍵をもらう。

マーガレットはいなくなってしまったけれど、近所のオーバン家にアルバートという少年がやってくる。
やせっぽちで、もじゃもじゃ頭、真っ青な目をした少年。

リリーの大好きなお父さんも、軍の仕事ででかけることに。
どこにでかけるのかは教えられない。
手紙をだしても検閲される。
《「おれは、ぜったい、なんとかして、おまえに居場所を知らせるよ」》
と、お父さん。

お父さんはでかけることを、リリーよりも先に祖母に話した。
それでリリーは腹を立て、お父さんの出発にも立ち会わなかった。
リリーはそのことをとても後悔する。

ところで、リリーは想像力がたくましい。
すぐに嘘をついてしまう。
そのことに、自分でも困っている。

リリーは、アルバートのことをスパイだと確信する。
ことばにはなまりがあるし、真夜中にオーバン家にやってきたし、すぐに姿をくらます。
でも、オーバンさんの夕食に招待されたときに、アルバートの素性が判明。

アルバートは、2年前にハンガリーのブダペストから逃げてきた少年だった。
両親はナチスを批判したために逮捕されてしまった。
アルバートと妹のルースは、オーストリア、スイスを抜けてフランスへ。
ところが、ルースは旅の途中ではしかにかかってしまった。
そのため、船に乗ることができなかった。
アルバートがひとり船に乗り、カナダに住むオーバンさんのお兄さんの家に身をよせることになった。

ちなみに、アルバートのお父さんは、オーバンさんの弟。
そしてアルバートは、夏のあいだオーバンさんのところに遊びにきたのだった。

リリーとアルバートは、捨てネコを拾い、マーガレットの家でこっそり飼いはじめたことから、仲良くなっていく。
ルースはまだフランスの修道院にいるはずだと、アルバート。

《「ナジママ(お祖母さん)はぼくたちにいった。はなれちゃだめだ。どんなことがあっても。いっしょにいるかぎり、ひとりぼっちにならずにすむって」》

そんなアルバートに、リリーは嘘をついてしまう。
夜、ボートをこいで沖にでる。
軍艦に近づいたら、あとは泳ぐ。
その軍艦に乗って、お父さんのところまでいく。

リリーのことばを、アルバートは本気にしてしまう。
ぼくも連れていってくれる?
ぼく、泳ぎを練習する。
そして、ヨーロッパに帰ってルースをさがす――。

戦時中が舞台のため、戦争の色が濃い。
オーバンさんのA型フォードのヘッドライトは、爆撃機に狙われないようにと上半分を黒く塗ってある。
黒く塗るのは、リリーも手伝った。
夜は灯火管制が敷かれ、サーチライトが夜空を照らしている。

マーガレットのお兄さんのエディーは兵隊となり、戦場で行方不明に。
リリーと祖母は、教会にお祈りにいく。

ストーリーはこびは、少々ぎくしゃくとしている。
ひとつのエピソードの途中で、別のエピソードが割りこんでくる感じ。
でも、最後には、ストーリーは落ち着くべきところに落ち着く。

リリーは、あんまり素行がよろしくない。
すぐ嘘をつくし、ピアノの練習はさぼるし、映画はただ見するし、鍵をもらったとはいえ、ひとの家にあがりこむ。
そんなリリーも、アルバートとの交流をきっかけに変わっていく。

リリーは、泳げないアルバートに泳ぎを教える。
まず浮けるようにならなくちゃとリリーがいうと、「浮く練習なんかするひま、ぼくにはない」と、アルバートは口答えする。
それを聞いて、自分がピアノの練習に文句をいうのとまるで同じだとリリーは思う。

また、マーガレットとの手紙のやりとりから、お父さんがいなくなって祖母もさみしがっていたことをリリーは知る。
口うるさい祖母がさみしがっていたなんてと、リリーは驚く。
そんなことは、一度も考えたことはなかった。
こうして、周囲とのかかわりのなかで、リリーはひとの気持ちに気づくようになっていく。

巻末には、作者による「読者のみなさんへ」という文章が載せられている。
《わたしは、1944年の夏をおぼえています。》
と、作者。

《こわがっているのは自分だけとおもっていたのに、ほかの子どもたち、ときにはおとなさえ、おなじような思いをいだき心配していると知ったときには、おどろきました。》

吉川聡子さんのさし絵が、物語を理解する手助けをしてくれる。
また、桂川潤さんによる装丁は、ピンクのしおりひもが鮮やかだ。


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