「皺」「ひとりぼっち」そして灯台

日本のマンガは世界一だというひとがいる。
そういうひとは、日本以外のマンガに目を通しているのだろうか。
まずそうとは思われない。

日本以外のマンガを知らないのに、日本のマンガを世界一だというのは、だれもいない土俵でおれヨコヅナーといっているようなものだから、やめたほうがいい。
と思うのだけれど、そういっているひとは、日本マンガの世界一性を精確に計量したいと思っているわけではないだろう。
たんに無邪気なだけだろう。
だから、そういうひとに出会ったときは、ただ微笑むだけにしている。

たしかに、市場の規模なら、日本のマンガは世界一かもしれない。
でも、日本以外のマンガを一冊でも読んでみれば、それがなかなか日本でいうマンガの範疇に当てはまらないことがわかるだろう。
マンガのイメージがちがうのだ。
外国のマンガは、日本のマンガとは別のモノサシでつくられている。
たからといって、外国のマンガがつまらないということはまったくない。

長くなってしまったけれど、ここまでが前置き。
最近、2つの外国マンガを読んだ。
どちらもとても面白かった。

ひとつは、スペインのマンガ。
「皺」(パコ・ロカ/著 小野耕世/訳 高木菜々/訳 小学館集英社プロダクション 2011)。
舞台は老人ホーム。
記憶を失っていく老人をえがいた物語だ。

記憶を失っていく、あるいは現在と過去が入りまじる表現がたいそう見事。
老人が、次のコマでは若くなっていて、顔が思いだせないときは顔の部分が空白になる。
突然、コマのなかの絵が、だれかの主観になる。
うろおぼえだけれど、吉野朔美の短編集「いたいけな瞳」のどこかに入っていた、老人ホームの話を思いだした。

「皺」には、もう一つ「灯台」という短編が収録されている。
戦場から落ちのびた兵士が、灯台と灯台守のもとで回復していくという物語。
これも面白かった。

もう一冊は、フランスのマンガ。
「ひとりぼっち」(クリストフ・シャブテ/著 中里修作/訳 国書刊行会 2010)。
「皺」はカラーだったけれど、こちらは白黒。
そして、これも灯台が舞台。
あまりに醜い容貌のため、灯台から一歩も外に出ないで育った男が主人公。

このマンガは、非常にテンポが遅い。
寄せては返す波の音のごとくだ。
最初とまどうけれど、すぐに慣れる。

男はどうやって暮らしているのか。
もう亡くなった男の親が、食べものをはこんでやるよう、ある船長に頼んでいたのだ。
新米の助手と船長の会話により、男の事情が少しずつ明かされていく。
新米の助手はいぶかりながらも、船長の指示通りにはたらくのだが…。

男は、辞書を開き、あらわれた単語の意味を想像するという遊びをする。
外の世界を知らない男がする想像は、キテレツなものばかり。
男の孤独を表現する、素晴らしいエピソードだ。
また、その容貌とは裏腹に、男がやさしい心のもち主であることも示される。
セリフに頼らずに男のキャラクターを表現する、その手際は素晴らしい。

灯台でひとつ思い出した。
最近、財務省の広報誌「ファイナンス」(2012年7月号)を読んでいたら、株式会社オリエンタルランド代表取締役会長、加賀見俊夫氏による講演録が載っていた。
(財務省のHPからみられるかと思ったら、残念みられない)

加賀見氏によれば、東京ディズニーシーの開発は、オリエンタルランドとディズニー社による日米合作でおこなわれたという。
そして、当初、ディズニー社からは、シンボルに灯台をという提案があったそう。
が、灯台のイメージには、彼我で開きがある。

アメリカ人にとっては、灯台は港の中心にあり、華やかな憧れや温もりがある。
でも、日本人には、岬の先端に立つ、哀愁を帯びた、寂しいものに映る。

指摘されてみると、この違いは面白い。
アメリカの絵本には、灯台を主人公にしたものがあるけれど、日本の絵本で灯台を主人公にしたものがあったかどうか。
そもそも、欧米の小説では、灯台はよく舞台につかわれるように思う。
今回紹介した2冊のマンガもそうだし、ほかにも何冊かはすぐに思い出せる。
欧米のひとは、日本人よりも灯台に親しみをおぼえるのだろうか。

さて、オリエンタルランドの加賀見氏は、実際に日本の灯台にいくなどして、ディズニー社側にイメージのちがいを感じでもらったとのこと。
結果、ディズニーシーのシンボルにはオリエンタルランド社が主張した、水の惑星地球を表現した地球儀(アクアスフィア)がシンボルに採用されることに。

でも、オリエンタルランド社はディズニー社のひとたちを、一体どこの灯台に連れていったのか。
それが、ちょっと気になるところ。


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浪人八景

「浪人八景」(山手樹一郎 春陽堂 1977)

時代小説の巨匠は、亡くなったあとでもよく読まれる。
山本周五郎、池波正太郎、藤沢周平、みんな読まれる。
山手樹一郎も、いまだに版元を変え出版される。
ということは、きっと面白いのだろう。

昔、貸本屋があったころ、山本周五郎と山手樹一郎が、その買出冊数において双璧だったとなにかで読むか聞くかしたことがある。
山本周五郎は好きな作家で、けっこう読んだ。
でも、山手樹一郎はまだ読んだことがない。
一体、なにがそんなに面白いのか。
というわけで、「浪人八景」を読んでみることに。

3人称1視点。
主人公は、比良雪太郎。
訳あって浪人の身で、いま江戸に向かって東海道を旅しているところ。
そこへ、松江という美女が声をかけてくる。
一緒に箱根の関を越えてほしい。
雪太郎は快諾し、ふたりは即席の夫婦ということに。

しばらくして、こんどは中村吉松という、江戸の役者が声をかけてくる。
道中でおごりすぎて、いささか薄汚れていやす。
なにか旦那の荷物をもたせてやってくれやせんか。
つまり、即席の家来にしてくれということ。
雪太郎は、これも快諾。

ぶじ箱根の関所を越えると、こんどは浪人者にからまれる。
その娘は貴様の家内ではない。
関所破りにちがいあるまい。

雪太郎が、
「貴公、よくわしの家内のことを知っておるようだな。後をつけていたのかね」
というと、浪人者がこたえる。
「けしからんことをいうな。後をつけていたんではない。娘の一人旅、あぶないと思ったから、親切でそれとなく見ていてやったんだ」

このあと、雪太郎と浪人者とのあいだで、こんな問答が続く。
「昨日までの娘が、今日から家内、お嫁にかわる、夫婦というものはみんなそうなんじゃないのか」
「バカッ、それは野合だ。さては、貴様たち、野合をやったのか」
「いや、野合ではない、ちゃんと三島大明神の前でお嫁にしたんだ。神聖なものだ」
「なんだ、娘のほうは三島神社の中へかくれていたのか。どうも足が早すぎると思った」

うーん、すごい。
ものすごい、のんき会話だ。
浪人者は、名を三井鐘太郎という。
雪太郎は、浪人の世渡りを教えてほしいと三井に提案。
ひとのいい恐喝者である三井は、この提案を了承。
雪太郎に先生と呼ばれる。
その後の、先生と弟子の会話はこんな風。

「先生は、あの娘をどこからつけまわしていたんです」
「こらッ、師匠に向かって失礼なことを聞くな」
「いや、わしは正直を愛し、光明正大を信条としている青年ですからな、つい思ったことは口に出してしまうのです」
「そうか。それは立派な心がけだ」

うーん、やっぱりすごい。
ところで、雪太郎はなぜ浪人をしているのか。
これにはもちろん訳がある。
雪太郎は明石藩の出身だが、そこの姫君である露姫にすっかり惚れられてしまったのだ。
そこで、雪太郎は生涯浪人でいることを決意し、父親に勘当してもらって、江戸にむかうことにしたのだった。

このあと、即席の嫁さんが去っていったり、助けをもとめてきたお妻という手品師の姉御を助けたりして、江戸に到着。
ここで、雪太郎は露姫と再会。
露姫輿入れの陰謀に巻きこまれることに。

この陰謀についても、簡単に説明しておこう。
露姫が輿入れするのは、郡山藩。
現在の当主は、元服したばかりの又一郎君。
露姫は、この又一郎君に輿入れするはずだったのだが、じつは又一郎君は疱瘡にかかり亡くなってしまった。
相続人が決まっていない場合、家名は断絶させられてしまう。
そこで、藩では身代わりを立てた。
公儀の目をくらますためにも、露姫のお見舞いはぜひ必要に。

それから、郡山藩の跡目騒動がある。
順当にいけば、又一郎君の同腹の弟である順之助さまが次の当主になるはず。
ところが、叔父の大学というのがいて、国家老の赤柴刑部ともども横槍を入れてくる。
刑部は、露姫をとりこにして江戸家老側を脅迫し、大学を跡目につけて露姫を奥方にしようとたくらんでいる。
そこで、雪太郎は露姫がさらわれるのを防ぐため、姫の護衛役となって――。

とまあ、これが全体の筋立て。
この小説は、とかく会話が多い。
跡目相続の事情説明も、すべて雪太郎と松江(松江は郡山藩のお中老だった)の会話でおこなわれる。
会話ですべてが進行するといっていい。
地の文による要約なんてない。
つねに場面がこしらえられていく。
登場したわりに、たいして活躍しない人物がいるのは、きっとプロットを吟味せず、場面だけで話をつなげていくからだろう。


つねに場面につきあわなければいけないので、面倒臭いところがなきにしもあらず。
でも、読みやすいことはこの上ない。
それに、さっきみたように、山手樹一郎は会話を書くのがうまい。
とくに、軽口のかけあいなど、読んでいてじつに楽しい。
おかげで、とどこおりなくするする読める。

主人公の雪太郎は明朗快活。
清く正しく、腕っぷしも強く、頭はまわり、口も達者。
登場する女性は、みんな雪太郎に惚れてしまうが、雪太郎はずっと露姫を慕っている。
露姫は、お姫様らしいお姫様。
やっぱり雪太郎を慕い続けている。

――なるほど、山手樹一郎がいまでも読まれるのは、会話が多くて楽しかったり、すべて場面をつないでいったりする手法だけでなく、純情が書かれているためか。
と、思った。
でも、山手作品はこの一冊しか読んでいない。
もう一冊くらい読んでたしかめるべきか、この一冊でわかったことにしてしまうか。
いま考えているところ。


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