運動靴と赤い金魚

DVD「運動靴と赤い金魚」(1997 イラン)

イラン映画。
主人公は9歳の男の子アリ。
お使いにいった先で、アリは直してもらった妹の靴を失くしてしまう。
――観客にはわかるが、くず屋が知らずにもっていってしまった。

アリの家は貧乏だし、お母さんは腰を痛めてうごけないでいる。
怒られるから両親には内緒にし、アリは妹のザーラと、アリの靴を交代ではいて学校にいくことに。

イランの小学校は2部制なのか、最初に女子が学校にいき、そのあと男子が入れ替わりに学校にいく。
先生も、女子の部は女の先生で、男子の部は男の先生と別れている。
というわけで、学校が終わるとザーラは大急ぎで下校して、途中でサンダルをはいて待っているアリと靴を交換。
アリは大急ぎで登校する。

こんなことをしているから、アリはいつも遅刻ぎりぎり。
学校の職員に目をつけられてしまう。
でも、アリは成績優秀で、担任の先生から金のシャープペンをもらったことがあるくらい。
担任の助けで、アリは遅刻を見逃してもらう――。

靴を失くした兄妹が、どうやって窮状をしのいでいくかというストーリー。
貧乏がドラマの前提となっている。
セリフに頼らず、映像だけで状況をよくつたえる。

靴を失くした兄妹が考えることは、いかにも子どもが考えそうなことばかり。
それに困難のバリエーションが豊富。
靴を洗って干していたら雨が降ってきたり、仲間にサッカーに誘われてもアリは断らなければいけなかったり。

下校時、ザーラがアリのもとに走って帰るときには、足にあわない靴が脱げて溝に落ちてしまう。
水に流される靴を、ザーラはあわてて追う。
並のアクション映画より、みていてハラハラする場面だ。

イランにも貧富の差はあるようで、アリは父親と2人で富裕層が住む住宅街にでかけ、庭木の消毒をしてお金を稼ぐ。
また、ザーラは、失くした自分の靴をはいている女の子を校庭でみつけ、その子のあとをつける。
後日、アリと一緒にその子のうちの様子をうかがう。
その子の父親は、盲目のもの売りだった。
こんな子から靴をとりもどせない。

そのうち、マラソン大会が開催されることに。
3等賞なら運動靴がもらえるというので、アリも参加する。
新しい靴をもらったら、女の子用の靴と交換してもらおう。

マラソン大会には富裕層の子どもたちもきている。
格好いい靴をはいた子どもの姿を、親がビデオに撮っている。

マラソンの場面は、ザーラが兄のもとへと急ぐカットバックとともにみせる。
はたしてアリは、3等賞を得ることができるのか。
思わず、手に汗握ってみてしまう。


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蔵書一代

「蔵書一代」(紀田順一郎/著 松籟社 2017)

副題は、「なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか」

著者の紀田順一郎さんは、2015年、80歳のときに蔵書3万冊を処分したという。
本書は、その経緯を書いたもの。
それに加えて本書には、蔵書論とでも呼びたくなるような蔵書についての考察が記されている。

それにしても、個人で3万冊におよぶ本をもっているとはすごい。
仕事柄とはいえ、古事類苑や広文庫、大日本地名辞書までもっている。
それらを処分するさいの心持ちを思うや、察するに余りある。

《蔵書を一挙にゼロにすると、精神状態に自信が持てない。》

というので、別れるに忍びない本を6000冊ばかり残した。
搬出にはのべ8人で2日がかり。
4トントラック2台分となったそう。

去るトラックを見送ったときは、その場に倒れ伏したという。
半生かけてあつめた蔵書だもの、魂がこもっている。
その魂の大部分を去らしめたのだから、倒れ伏すのも当たり前だ。

それにしても。
蔵書を死後まで維持、保存するにはどうしたらいいのか。
しかるべき公共機関に寄贈することが考えられるが、もはや公共機関にそんな余裕はない。

《よほどの客観的な価値か、意義が伴わないかぎり無理》

であり、

《私自身の業績が、先行の文学者、研究者の水準に達していない。》

《もし文学館や記念館に引き取られ、四散を免れるという幸運に恵まれるとすれば、それはひとえに旧蔵書者の人気や知名度に負うものであろう。》

では、蔵書が丸ごと死後の保存に成功した例はあるのか。
あった。
江戸川乱歩の場合がそれだと紀田さんはいう。
あの有名な土蔵の書庫。

土蔵というのは、夏涼しく、冬暖かく、年間の温度、湿度がほぼ一定だという。
なおかつ重量物を収蔵することができ、日もあまり入らず、火災に強い。
書庫として土蔵に目をつけたところが、乱歩の慧眼だったと紀田さん。
戦時中、乱歩はこの書庫の蔵書とともに疎開したというから驚く。

この蔵書は、2002(平成14)、土蔵と内部の蔵書、旧宅を含む一切が移管され、「立教大学江戸川乱歩記念大衆文化センター」として運営されているとのこと。

《乱歩の蔵書は創作に劣らない”業績”である。》

さらに紀田さんは、蔵書とコレクションは別だということを書いている。

《蔵書というものはジャンルを問わず、最小限のバランスのとれた普遍的な群書の形において、所蔵者の人格、人間性を具現しているものではあるまいか。コレクションとは単なるものの集積で、趣味、嗜好、興味、こだわりの表現に過ぎない。》

個人蔵書の成立とのその意義を考えるにあたり、実体験だけでなく、出版文化史や、日本の図書館の歴史にいたるまで広く目配りしており、しかもわかりやすい。
本の世界で多年仕事をしてきた、紀田さんならではの書きぶりだろう。

しかし、読んで身につまされるのは、やはり実体験による細部の描写。
岡山県に書斎と書庫中心の新居を建てて移り住んださいのトラブルなどは気の毒なかぎり。
その岡山県での生活も、けっきょくたたまざる得なくなったのが痛ましい。

巻末には、紀田さんについての詳しい年譜がついている。

本書の刊行は、2017年7月。
手元にあるのは、2018年1月発行の4刷目。
蔵書に悩むひとたちが読んでいるのだろうか。

本書のことを知ったのは、津田海太郎さんの「最後の読書」(新潮社 2018)のおかげ。
津田さんは、80歳にして蔵書を処分した紀田さんを、”老英雄”とたたえている。



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