「ものぐさドラゴン」「あわれなエディの大災難」

「ものぐさドラゴン」(ケネス・グレーアム/作 亀山竜樹/訳 西川おさむ/絵 金の星社 1979)

これは児童書。
読みはじめてしばらくすると、
――この本は読んだことがあるかも
と思いはじめた。

めずらしく、前に読んだ本も思いだせた。
――ケネス・グレアムが書いた、「のんきなりゅう」だ。

気のいいドラゴンが、セント・ジョージとひと芝居打ち、対決したふりをする――というストーリーは両者共通。
つまり、「ものぐさドラゴン」は、「のんきなりゅう」の別訳にちがいない。

そこで、「ものぐさドラゴン」を読み終えたあと、「のんきなりゅう」とくらべてみた。

まず、「ものぐさドラゴン」は、枠物語であるところがちがっている。
「ものぐさ――」は、〈ぼく〉と妹のシャーロットが、雪の上に奇妙な足跡をみつける場面からはじまる。
この足跡はドラゴンのものじゃないかなどと、2人は空想をはたらかせながら足跡を追う。
そのうち、〈ぼく〉の知りあいであるサーカスの団長さんと出会い、団長さんの家に呼ばれ、ごちそうされ、帰りには送ってもらう。
その帰り道に団長さんが話してくれたお話が、本筋であるドラゴンとセント・ジョージの話だ。

「のんきなりゅう」では、この枠の部分がすっかりとり払われている。
本筋だけになっていて、サーカスの団長さんなどでてこない。

「のんきなりゅう」の訳者あとがきによれば、本書は、さし絵を描いたインガ・ムーアが、出版社と相談しながら、ケネス・グレアムの文章を短く書きかえたのだとのこと。
物語の枠も、このときとり払われたのだろう。

「ものぐさ――」の亀山龍樹さんの訳は、ずいぶんこなれている。
それにくらべると、「のんきな――」の、中川千尋さんの訳は端正だ。
ならべて引用してみよう。
引用は、村にドラゴンがいることに驚いた村人たちが、話しあいをし、対策を考える場面から。

亀山訳
《それでも、うっちゃておけないということに、みんなの意見がまとまりました。おそろしいけだものは、根だやしにせねばならぬ。やっかいな、おそろしい、わざわいのたねの、ぶちこわしやろうから、村をすくわなければならないというわけです。》

中川訳
《人びとは、こうふんしたようすで、このままほうっておくわけにはいかない、と口をそろえていいました。おそろしい怪物から、村をすくわなければなりません。》

というわけで、このあと村にセント・ジョージが呼ばれることに。

ドラゴンの性格も、ちがっている。
「ものぐさ」と「のんき」のちがいといったらいいか。
「ものぐさ」のほうが、勝手気ままで野放図だ。

それから、さし絵が大いにちがっている。
インガ・ムーアのさし絵は、細部までていねいにえがかれたもの。
このさし絵では、文章だけざっくばらんにするわけにはいかないだろう。

「ものぐさ――」のイラストは、西川おさむさん。
ユーモラスな、さっぱりしたイラストだ。

「ものぐさドラゴン」には、「おひとよしのりゅう」というタイトルの、石井桃子訳もあるらしい。
こちらもなんだか気になってきた。


「あわれなエディの大災難」(フィリップ・アーダー/作 デイヴィッド・ロバーツ/絵 こだまともこ/訳 あすなろ書房 2003)
これも児童書。
たいそうバカバカしい。

舞台は、19世紀のイギリス。
主人公、エディ・ディケンズは11歳。
両親がおそろしい伝染病にかかってしまったため、イッテル・ジャック大おじさんのオソロシ屋敷にやられることに。
迎えにきた大おじさんの馬車に乗り、エディは一路、オソロシ屋敷へ。
途中、宿屋に泊まったり、旅芝居の一座に出会ったり、実家が火事で燃えたり、孤児院に入れられたりする。

エディ以外の登場人物は、みな奇妙キテレツな人物ばかり。
ジャック大おじさんは、自分の屋敷から15キロ以上はなれたところにでかけるときは、必ず家族の肖像画をもっていくことにしている。
大おじさんの奥さん、イッテル・モード大おばさんは、剥製のオコジョを手放さない。

エディのお母さんは、しばしばエディの名前をまちがえる。
お母さんとお父さんは、医者のマフィン博士のいいつけにしたがい、1日に3回しかベッドからはなれないでいる。
この日はもう2回はなれてしまい、3回目はサッカレーさんの屋敷でおこなわれる腕相撲チャンピオン大会に参加する予定なので、ベッドからでてエディを見送ることができない。

ほかに、階段下の物置で暮らす、不合格小間使いツブヤキ・ジェーンとか、悪漢役を演じるために強盗をする旅一座の親方とか。

これらの登場人物が引き起こす物語が、冗談めいた語り口で語られる。
本書でいちばんの特徴は、この語り口。
すぐに混ぜっ返すため、話がなかなか進まない。
おかげで、ずいぶんいらいらさせられる。
この本を読み通すには、この語り口に慣れることが必要だ。

語り口の例として、エディがはじめてイッテル・ジャック大おじさんと出会う場面を引用しよう。
ジャック大おじさんは、なぜか洋服ダンスのなかから登場する。

《母さんが、ベッドの向こうにある大きな洋服ダンスを指さした。息子が洋服ダンスとはどんなものか、忘れているといけないからね。
 エディは洋服ダンスの戸をおっかなびっくりであけた(おっきなビッグな洋服ダンスだったんだとさ)。
 母さんのドレスの間に、とてつもなく背が高く、とてつもなくやせた男の人がいた。その鼻先ときたら、オウムのくちばしも「はい、負けました」というくらいとがっている。
「こんにちは」
 その人は「んちはあ」でも、「ちはっ」でも、「おこんち」でもなく、正しい発音であいさつした。それから、エディに片手をさしだす。
 エディも片手をさしだして、握手した。小さな紳士になるための教育も、まんざらむだではなかったってわけだね。》

――といった具合。
訳者の、こだまともこさんは大変がんばっていると思う。

この語り口と、あまりにもバカバカしいストーリーに、すぐに読むのをやめたくなるけれど、でも、がまんして半分くらい読むと面白くなってくる。
というのは、その場の思いつきのような出来事がそれなりに伏線になり、二度と会うことはあるまいと思っていた登場人物が、再登場したりしてくるからだ。
やはり物語は、くり返しが大切。
とくに、ナンセンスな作品は。

訳者あとがきによれば、本書は3部作の1作目だそう。

《本書は二十ヵ国以上で出版され、ディケンズと「モンティ・パイソン」(奇妙キテレツな、イギリスのコメディ番組)をたして二で割った作品と評判になりました。》

とあり、イギリスやアメリカでは大変人気があったという。
でも、日本語に訳されたのはこの第1作目だけのようだ。
これはまあ、仕方がないことだろう。



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「ほんとうはひとつの話」「アンチクリストの誕生」

「カニグズバーグ選集 1」(カニグズバーグ/著 松永ふみ子/訳 岩波書店 2001)で読んだ。
この本には、「クローディアの秘密」も収録されているけれど、読んだことがあるのでとばして、これだけ読了。
ちなみに、「クローディアの秘密」は傑作。

「ほんとうはひとつの話」は短編集。
4つの短編が収録されている。
さし絵を描いているひとが、みんなちがうのが面白い。

「ジェイソンを招(よ)ぶ」 M・メイヤー/さし絵
お誕生会をする男の子の話。

「流星の夜」 L・シンデルマン/さし絵
おばあちゃんと流星をみにいく男の子の話。

「デブ・キャンプ」 G・パーカー/さし絵
デブ・キャンプにいくはめになった女の子の話。

「ママと天国の真珠の門のこと」 G・E・ヘイリー/さし絵
黒板に絵を描く女の子の話。

みな短くて読みやすい。
どれも独立した短編だけれど、「ほんとうはひとつの話」という表題でまとめられているから、各短編の底流には共通したものが流れているのだと思う。
「流星の夜」と「デブ・キャンプ」は、特に素晴らしい。
この2作は、さし絵の入れかたが絶妙だ。

「ジェイソンを招(よ)ぶ」と、「ママと天国の真珠の門のこと」には、最後に思わせぶりな一文がある。
これが少々うるさい。
「いま聴いたのはどんなお話だったの」
と、子どもを問いつめる母親のよう。

カニグズバーグはいつも素晴らしく、この本も面白かったけれど、そこだけが難点。

「アンチクリストの誕生」(レオ・ペルッツ/著 垂野創一郎/訳 筑摩書房 2017)

本書も短篇集。
収録作は以下。

・「主よ、われを憐れみたまえ」
・一九一六年十月十二日火曜日
・アンチクリストの誕生
・月は笑う
・霰(さん)弾亭
・ボタンを押すだけで
・夜のない日
・ある兵士との会話

さらに、ゆきとどいた訳者あとがきと、皆川博子による解説。

世界のあちこちを舞台にし、時代もいろいろ。
奇妙な発想にもとづいた密度の高い物語が、一気呵成に語られる。

物語は結末にいたるまでに、さまざまな可能性があるはず。
でも、本書の諸作品はほかの可能性を感じさせない。
どうしてもこうなってしまう――という感じが強い。
登場人物は、さだめられた運命を演じる人形のよう。
この点、久生十蘭や、スタンダール、ツヴァイクの諸作品を思い起こさせる。
また、奇想にもとづいた小品は、同じちくま文庫の「わが夢の女」に収録された作品のようだ。

「主よ、われを憐れみたまえ」
ロシア内乱時代。
ロシア秘密警察(チェーカー)に捕えられたヴォローシンが、いとま乞いを許され、妻子のもとへもどり、再び出頭して、いわれたとおり暗号を解読する。
「走れメロス」のような題材だけれど、どうしてもそうはならない。

「一九一六年十月十二日火曜日」
1916年10月、ロシア軍の捕虜になった予備役伍長ゲオルグ・ピヒラーは、同じ新聞を何度も読んだあげく、事件や人物をすっかりおぼえこんでしまう。
そして、記事にしるされた人物たちを、大河小説の登場人物たちのように、たがいに知りあい同士だと思いこむようになる。

「アンチクリストの誕生」
本書でもっとも長い、中編サイズの作品。
1742年ごろのパレルモが舞台。
流れ者の靴職人と結婚した女房とのあいだに、アンチクリストが誕生する。
靴職人は悩んだあげく、この赤ん坊を殺そうとするが――。

要約すると上記のような感じだけれど、読んでいるときの印象はそうではない。
靴職人には秘密があり、女房にも秘密がある。
前半は、過去の秘密に悩まされたり、秘密が明かされたりする記述が続き、物語の焦点がどこにあるのかいまひとつわからない。
これも、いわゆる奇想作家に特徴的な作風といえるだろうか。

「月は笑う」
先祖代々、月に呪われ続けてきたサラザン男爵の話。

「霰(さん)弾亭」
「アンチクリストの誕生」に次ぐ長さの作品。
〈わたし〉の1人称。
舞台はプラハ。
霰弾亭で酒豪を誇るフワステク曹長が、決別していた過去――いまは中尉夫人となった女性――と出くわし、致命的な一撃を受けたことを、〈わたし〉が語る。

「ボタンを押すだけで」
1人称による語りもの。
宮廷顧問官の娘を女房にもらったアラダーは、教養を高めるために、講演を聴いたり、芝居をみたり。
あるとき、降霊会に参加したアラダーは、だれかの霊を呼ぶことをもとめられ、まだ存命中の、女房の友人であるケレティ博士の名前を霊媒に告げる。
「月は笑う」同様、寝取られ男もの。

「夜のない日」
舞台はウィーン。
レストランでのいさかいが元で決闘するはめになったデュルヴァルは、決闘までのあいだの時間を、寸暇を惜しんで数学の研究についやす。
ガロアをモデルとした一篇。
久生十蘭が書きそうな話だ。

「ある兵士との会話」
1人称による小品。
旅行先のバルセロナで、〈わたし〉は口のきけない若いスペイン兵士と身ぶり手ぶりによる会話を楽しみ、くつろいだ気分になるものの、ある出来事が起こり、それに対する怒りと悲しみのため、兵士から〈ことば〉が失われてしまうのを目撃する。

小品が、読んでいて楽しい。
どの話もアイロニカルな味わいがある。
登場人物たちは自身になにが課せられているのかを知らないまま、運命に翻弄される。
きっと、運命というのは、皮肉の別名なのだろう。


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