「アウラ・純な魂」「宇宙探偵マグナス・リドルフ」「薪小屋の秘密」

また、最近読んだ本をいくつか。

「アウラ・純な魂」(フエンテス/著 木村栄一/訳 岩波書店 1995)
メキシコの作家フエンテスの短篇集。
収録作は以下。

「チャック・モール」
「生命線」
「最後の恋」
「女王人形」
「純な魂」
「アウラ」

怪談というか、ゴシック小説というか、そんな趣きの作品が多い。
フエンテスは、たとえばチェスタトンのように、すぐ考えが怖いほうにいってしまうひとのようにみえる。
この作品集だけしか知らないのでなんともいえないけれど。

本書中、もっとも完成度の高いのは「アウラ」だろう。
この出来映えは素晴らしい。
しかも2人称小説だ。
2人称小説部門というカテゴリーがあったら、「アウラ」はかなり上位にいくのではないかと思う。
2人称小説の長編部門には、都築道夫さんの「やぶにらみの時計」(中央公論社 1979)を推しておこう。

「宇宙探偵マグナス・リドルフ」(ジャック・ヴァンス/著 浅倉久志/訳 酒井昭伸/訳 国書刊行会 2016)
去年、ジャック・ヴァンスの「竜を駆る種族」(浅倉久志/訳 早川書房 2006)を読み、その面白さに大いに驚いた。
で、たまたま新刊で本書が刊行されていたので、買って読んでみた次第。
内容は、シリーズ・キャラクターであるマグナス・リドルフが、宇宙をまたにかけて活躍するというSF連作短編集。
10編の作品が収録されている。

マグナス・リドルフは温厚な老紳士。
読んでいても探偵という気がしない。
訳者あとがきでは、トラブルシュータ―と呼んでいるけれど、これも違和感がある。
マグナス・リドルフはいつも投資の回収に心を痛めているから、《宇宙投資家》ではどうだろう?
《宇宙債権回収家》では、債権回収の専門家みたいだからいいすぎか。
《宇宙コンサルタント》くらいがいいかもしれない。

このマグナス・リドルフが、いろんな宇宙人がいるいろんな星にいき、不良品に悩む缶詰工場や異生物に囲まれた保養地の再建といった、いろんな問題を解決する。
が、残念なことに、本書はそれほど面白いとは思えなかった。
訳者あとがきを読むと、すごく面白そうなのに。
どうして、面白いと思えなかったのか。
そのうちゆっくり考えよう。

本書は、全3巻を予定している「ジャック・ヴァンス・トレジャリー」シリーズの1巻目。
2巻目の、「天界の眼 切れ者キューゲルの冒険」(ジャック・ヴァンス/著 中村融/訳 2016)もすでに出版されている。
読もうか読むまいか悩んでいるところ。

「薪小屋の秘密」(アントニイ・ギルバート/著 高田朔/訳 国書刊行会 1997)
世界探偵小説全集20巻。
原書の刊行は1942年。

この本は、前に読みはじめたものの、あんまりサスペンスに富んでいるので驚いて、途中で読むのをやめたものだ。
でも、途中で読むのをやめた本というのは続きが気になる。
そこで今回、意を決して読んでみることに。

ジャンルでいうと青ひげものというのか。
オールド・ミスが結婚詐欺師にだまされる話だ。
このオールド・ミスが自らだまされていく過程が、説得力があり、読んでいてハラハラする。

作者は男性名だが、じつは女性だそう。
たしかに、だまされるオールド・ミスの皮肉めいた描きぶりや、嫉妬に身を焦がす仲間のオールド・ミスの描写など、いかにも女性作家の作品らしい。
そして中盤になり、殺人事件が起こる。
サスペンスから、ミステリらしくなる。

解説で小林晋さんが、殺人の記述について、フェアかアンフェアか考察しているけれど、これはアンフェアだろうと思う。
具体的に書かなきゃいいというものではないだろう。
しかし、べつにアンフェアでも、本書の面白さは損なわれない。

それよりも、ラストのとってつけたような解決のほうが気になった。
ただ探偵が事件を解決するだけの最終章は不要だろう。
読みやめるなら、最終章の前でやめるのがベストだった。

ところで。
死体をさがすために警官が庭を掘り起こす場面があるのだけれど、死体は一向にみつからない。
そのとき、警官のひとりがこんなことをいう。

「死体を見つける前に、ヒットラーがロンドンを占領しちまうよ」

この本の原書が刊行されたのは1942年。
この時期に、こういう本を出版し、こういうセリフが書けたのか。
そのことに感心してしまった。


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「伝記物語」「こわれがめ」「紫苑物語」「昔には帰れない」

最近忙しくて、ヒギンズ作品の要約がつくれない。
要約をつくるのは、あれでなかなか時間がかかるのだ。
ヒギンズ作品のメモとりも、もう後半にさしかかってきていて、あとはショーン・ディロンものがほとんどだから早く終わらせたいのだけれど。

というわけで、今回は最近読んだ本のメモでお茶をにごしたい。
まず「伝記物語」(ホーソン/著 守屋陽一/訳 角川書店 1959)
100ページもない本。
忙しいときにちょうどいい。
ちなみに奥付をみると、この本の定価は50円だ。
古本屋で100円で買ってしまった。

内容は、ホーソーンの児童向けの作品。
目の病気にかかった男の子のために、お父さんが世界の偉人の話をしてくれるというもの。
男の子のお兄さんと妹も、それからお母さんも、みんな一緒にお話を聞く。
お父さんが話をしてくれる偉人は次のようなひとたち。

画家のベンジャミン・ウェスト。
ニュートン。
サミュエル・ジョンスン。
オリヴァ・クロムウェル。
ベンジャミン・フランクリン。
クリスティナ女王。

文章はですます調。
子どもたちは親に敬語をつかう。
ちょっと教訓めいたお話が、なんとなくなつかしい。
森銑三の、「おらんだ正月」(岩波文庫 2003)を読んでいるようだ。
サミュエル・ジョンスンだけが前後篇で、力がこもっている。
最後、男の子の目がよくなったりするのかなと思ったが、そんな甘いことは起こらなかった。

「こわれがめ」(クライスト/作 手塚富雄/訳 岩波書店 1977)
これはドイツの名高い戯曲。
ときどき戯曲が読みたくなる。

《喜劇に乏しかったドイツでは、レッシングの「ミンナ・フォン・バルンヘルム」、フライタークの「新聞記者」と並べて三大喜劇といわれてきた…》

と、解説の岩淵達治が書いているように、この作品は喜劇。
なお、この文章は、《傑出した喜劇的個性を持つという意味では、ハウプトマンの「ビーバーの外套」が最もこの喜劇に近いと思う》と続く。

この喜劇は、法廷劇のかたちをとっている。
深夜、娘の部屋に忍びこんで、かめを割ったのはだれか?
ということが、法廷で徐々に明かされていく。

これはすぐわかることだから書いてもいいと思うが、このかめを割った犯人は、じつは裁判官をしている村長のアーダム。
自分が犯人の訴訟を、自分が裁き、しかし話をそらそうとしてもしだいに追いつめられていくという過程が喜劇を生む。
読んだあと、娘がさっさと真相を話していたら、話はすぐすんだのにと思わずにはいられない。
それにしても、アーダムはろくでもないやつだ。

解説にはクライストの生涯が書かれていて、これが作品よりも面白い。
時代に小突きまわされたあげく、矢尽き刀折れて身をほろぼす。
クライストには短編もある。
これも、そのうち読んでみたい。

「紫苑物語」(石川淳/著 講談社 1989)
講談社文芸文庫で読んだ。
「紫苑物語」「八幡縁起」「修羅」の3篇が収録されている。
「紫苑物語」は、古代を舞台にした殺伐としたファンタジーというか、幻想小説というか、そんな作品。
特筆すべきは、その文章。
内容よりも、その文章の力でのみ、作品が成り立っているようにみえる。
速度があり、柔軟で、よくしなる、芝居っ気たっぷりのその文章は、たとえばこんな感じ。

《その夜、館は宴たけなわのおりに、突然ふり落ちた光もののために風雨もろともに炎となって、一瞬に燃えあがり燃えつくし、そこにいたかぎりのものは人馬ことごとく焼けほろびた。》

ふり落ちる、燃えあがる、燃えつくす、焼けほろびるといった、動詞に動詞をかさねた書きかたが速度感を生んでいるようだ。
こんな文章で書かれた作品は、なににも頼らず、宙に浮いた球体のようにみえる。

「八幡演技」は、木地師の神が、世が移り変わるにつれ、武士の神となる、そのいきさつを書いたもの。
「修羅」は、応仁の乱ころを舞台にした歴史小説。
登場人物たちは、一条兼良の蔵に押し入ろうとする。
この作品を読んでいたら、神西清の「雪の宿り」を思いだした。

「昔には帰れない」(R・A・ラファティ/著 伊藤典夫/訳 浅倉久志/訳 早川書房 2012)
ときどき、ナンセンスな作品も読みたくなる。
そんなとき、ラファティの作品に接するのはたいへん楽しい。

本書は短編集。
第一部と第二部に別れている。
そのちがいは、伊藤典夫さんの解説によればこう。

《第一部はすべてぼくが気に入って訳した作品で、ラファティとしてはシンプルな小品を集めた。ただし、”シンプル”というのは、ぼくの個人的な見解であって、ほかの方々がこれらを読んでどんな印象をもたれるかはわからない。第二部はちょっとこじれてるかなあと思う作品と、浅倉さんの長めの翻訳でかためた。》

たしかに、第一部の作品のほうがわかりやすい。
また、伊藤さんと浅倉さんの、嗜好のちがいも興味深い。

《ぼく(伊藤さん)には、ディックの良さがさっぱりわからなかった。》

本書のなかで気に入ったのは、まず冒頭の「素顔のユリーマ」。
あんまりぐずで頭が悪いので、なんでも発明するほかない少年の話。

《アルバートは計算のほうもからきし駄目だった。自分のかわりに計算する機械をまたひとつ作るほかなかった》

という、なんともひとを食った愉快な作品。
その次の、「月の裏側」はミステリ雑誌に載るような小品。
ラファティはこんな作品も書いたのかとびっくり。

その次の…と書いていったらきりがない。
第二部では、「大河の千の岸辺」と、「1873年のテレビドラマ」が、どちらも視覚的な作品で面白かった。
いやもちろん、ほかの作品も面白い。
どの作品も、ラファティの奇想にただついていくほかない。
なんだかよくわからない作品を、ただただ読んでいくのは、それだけで楽しいことだと思うのだが、どうだろうか。


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