高校の現実

「高校の現実」(喜入克 草思社 2007)

副題は「生徒指導の現場から」。
著者は高校の先生。
お名前はキイレカツミと読むそう。

現在の学校をとりまく状況について、現場から報告し、意見を述べた本。
どの道の専門家も、よく実情を反映したうまいことばづかいをするけれど、この本にも感心するいいまわしに出会った。

ひとつは「商取り引きの論理」。
生徒や保護者が商取り引きの発想をするようになったという。
たとえば、嫌いな先生がいたとすると、それでその先生は問題教師とされてしまう。
好悪が問題教師にスライドしてしまう。
そして自分はあの先生が嫌いだからと授業を拒否する。
これは、あるお店に入ってみたら、自分の気に入る商品がなかったので、このお店に入るのはやめた、というのとおなじ。

保護者をよんで指導しようとすると、保護者がいう。
自分たちを指導するなら、相手の先生も指導してくれ。
まさに取り引きの論理。

この「商取り引きの論理」は、きっと以前からあったのだと思うけれど、それが露骨にでてきたよう。
お客の立場から学校のサービスを値踏みしてくるので、
「ここには子ども自身を変えていくという発想がない」

まあ、高校生にもなったらしかたないかなーと思うけれど、著者はかさねてこうもいう。
「子どもは絶対に傷つけない。子どもはお客様であり、お客様は一人前の顧客であるからだ」

もうひとつは、「植物モデル」ということば。
これは、教育の役割は必要な日光と水を、その伸びていく流れに沿ってただあたえていけばいいという教育観をさしたもの。

昔は世間の目があったから、「植物モデル」を抑制する機能がはたらいていた。
でも、いまはそれがない。
「どんな奇怪な花であっても、世界にひとつだけの花としてもち上げられるようになった」

こんなふうに状況が変わり、では現場はどう対処したか。
あらかじめすべてを説明するようになった。
そのうえで、生徒がそこから逸脱したら、容赦なく指導するようになった。

また、学校はわけのわからない情報開示請求に振り回されているという。

生徒への評価が書かれた指導要録というものがある。
これをを見たいというひとがあらわれ、裁判であらそわれたすえ教育委員会側が負けてしまった。
判決理由は、教師がほんとうにひの子のことを思って書いたのなら、公開に耐えないような内容になるはずがない、というもの。

しかし、世の中には誠意を尽くしてもつたわらないことがある。
結果、教師たちはあたりさわりのない評価しかつけないようになった。
指導要録は意味のないものになってしまった。

あるいは「一都民」としか名乗らないひとからメールがくる。
そのひとがどういう意図で、どうそれを利用するのかわからないままに、試験問題を各学校の各教科ごとにまとめて返信する。

ここにも「商取り引きの理論」があると著者。
ニーズがあれば、なにも隠しませんというのがもっとも大切。

ところが、このニーズは時と場合によって変わる。
ニーズにあわせて総合学習の時間に大学受験用の講座をひらいていたら、それはいきすぎだと外部から批判されたりする。

これは著者が勤めている東京都の話だろうから特にそうなのかもしれないけれど、もう教師側にも生徒や社会の側にも共同体というものはなくなってしまったよう。
現場は、水の上のボードのような、非常に不安定な足場のうえで仕事をするはめになっている。
大変なストレスだろう。

あと、2006年夏、埼玉県ふじみ野市の流れるプールで起きた事故について、著者の見解が載っていたのでメモしておきたい。

あの事故は、給水口に金網も防護壁もなかったために小学生がそこにはまって死亡したというもの。
このプールは公営だったが、業務は民間委託していた。
そこが事件の争点になると著者は思ったが、じっさいは大変な公務員バッシングが展開された。
お役所仕事だからダメという論調で、民間委託の話はでてこなかった。

で、全国の公立プールを点検し直すことになり、1500ヶ所の不備があったとして夏休み中に直すことになった。
マスコミは文科省のすばやい対応を肯定的に報道しつづけた。

でも、事故が起きたのは流れるプール。
使用禁止となったのは、ほとんど学校のプールだった。
どれほどの税金が投下されたのか、意味のない工事だった。

著者が、文科省の対応をたたえているひとに、事故が起きたのは流れるプールだと指摘すると、たいがいこんな反応が返ってきたという。
それは現場にいないとわからないね。

「ちょっと考えればわかるはずだ」
と、著者は憤ったように記している。


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となりのクレーマー

「となりのクレーマー」(関根眞一 中央公論新社 2007)

中公新書ラクレの1冊。
副題は「苦情を言う人との交渉術」。
著者は、西武百貨店で長年苦情対応を担当してきたひと。

現代社会に生きる者にとって、苦情対応は欠かせない。
というわけで、本書を手にとってみた。
読むだけで動悸が早まるような、恐ろしい事例が盛りだくさん。

たとえば――
婚約指輪を買った20代女性。
たかり癖のある67歳男性。
やくざ。
紙製品の卸売業者社長Dさん。
2円のつり銭まちがいで怒声を浴びせる55歳男性。
などなど。

婚約指輪を買った女性は、指輪に関してのクレームだけではなく、名前を名乗らず、ある社会現象について当百貨店ではどう判断するかと電話をかけてきたそう。
ここで著者の対応がわるければ、また噛みついてきたのだろう。
なんて恐ろしい。

また、クレーマーは圧倒的に男性が多いのだそう。
それも、年齢が上がるにつれ、たちが悪くなる。
Dさんとの攻防戦などは、手に汗にぎらずには読めないものだ。

読んでいると、いくら客とはいえ、ここまで尊大になる権利をどこで得たのだろうと不思議な思いがしてくる。
腹が立ってくるのだけれど、苦情対応でそれはご法度。
苦情対応は、「勝ったら負け」。
また、お客がまちがえていた場合は、やんわりと気づかせる。
「誤るだけで解決しようとするのは、お客様をダメにしてしまう最悪の処理法です」
厳しい世界だ。

でも、この本でいちばん驚いたのは、百貨店ではなく、学校に対するこんなクレーム。
「学校へ苦情をいいにきたが、会社を休んできたのだから休業補償を出せ」

教師はこれまで苦情と縁がなかった、苦情対応経験の少ないひとたちだという。
しかし、これは教師ならずとも呆然としてしまう。
百貨店の事例では、クレーマーを入店禁止にした例もあったけれど、学校ではそんなこともできないだろう。
どうしたらいいものやら。

著者の文章は非常に腰が低く、ていねい。
クレーマーとのやりとりはすこぶる臨場感がある。
また、バランス感覚がよく、極端な事例ばかりに走らない。
苦情は申し出るほうも体力が必要と、苦情をいうひとへの思いやりを欠かさない。
「どのような内容であれ、このように体力を使わせて苦情に至らせた道義的責任はスタッフが考えている以上に大きいといえるでしょう」

さらに、著者はこんなこともいう。
「私はこれほど面白い職場もないと思います。人が怒り文句をいうさまはなかなかまともに見ることができないわけで、その対応のために、その場で立ち会うのですから、リアリティーがあり、言葉はおかしいですが「楽しい」とすら感じられます」

ここまで達観するのに、どれほど場数を踏まなければならないものか。
それとも、この感慨は著者ならではのものだろうか。


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あとがきを先に読む男

読書を趣味とするひとは、2種類に分けられる。
あとがきを先に読むひとと、そうでないひとだ。

おまえはどちらだと問われれば、断然先に読む派。
本を買うかどうか迷ったときは、あとがきを読んできめる。

あとがきがなかったら解説をまず読む。
解説がなかったら序文を読む(これは普通か)。

世の中には、あとがきも解説も先に読まず、冒頭を数行読んで購入の是非をきめるひとがいるというけれど、とても真似できない。
あとがきも解説もない本は途方にくれてしまう。
いま思ったけれど、外国の小説を多く読むのは、たんに解説が好きなだけだからかもしれない。

解説のなかには、ときおりストーリーを割ってしまうものがある。
最近の本は、解説も広告の一部だとこころえているのか、そういうものは少ない。
ラストにふれるときは、断り書きをつけている。
その点、これは印象なのだけれど、むかしの本は無頓着だった気がする。

ここで念頭においているのは、山本周五郎の「さぶ」につけられた、河盛好蔵さんの解説のこと。
この解説はみごとにラストを割っているのだ。

「さぶ」を読み終えたあと、薦めてくれたひとに「最後びっくりしなかった」とい訊かれて、先に解説を読んでいたので驚かなかったとこたえたら、とても怒られた。

この山本周五郎の傑作は、ラストが割れていることなどものともしないけれど、もしこれから読むひとがいたら、解説はあとに読むようにと忠告しておきたい。

解説で、文字通り作品を解いてくれたおかげで面白さがわかったということも多々ある。
なかでも助かったのが「赤い右手」(J・T・ロジャーズ 国書刊行会 1997)。
この本は推理小説なのだけれど、読み終わったあとこれほど呆然とした小説もない。
解説を読んでもまだ呆然としている。
何度も解説を読んでやっと合点がいき、わが身の不明を恥じたものだ。



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アラビアンナイトの結末について

またアラビアンナイトの話で恐縮ですが。

今回、西尾哲夫さんの岩波新書の「アラビアンナイト」を読んで驚いたことのひとつは、アラビアンナイトには結末にさまざまなバージョンがあるということだった。

最終的に、王様シャフリヤールが処刑をとりやめ、シェヘラザードを妻とするところは一緒なのだけれど、そこに至るまでいろいろある。

まずガラン版では、子どももなく、シェヘラザードが命乞いをするまでもなく、シャフリヤールが彼女の知恵と勇気に感じ入って処刑をとりやめるというもの。

オーストリア人の東洋学者プルクシュタールが入手した写本はこれと逆。
千一夜目に、物語に飽きたシャフリヤールがシェヘラザードを処刑しようとすると、彼女は王とのあいだにできた3人の王子を連れてきて命乞いをする。
ちなみに、この写本は現在行方不明なのだそう。

また王子が2人で、王が自発的に処刑をとりやめるという折衷案ものもある。
これは捏造写本の結末らしいけれど。

さらにべつの写本では、シェヘラザードは意図的に冒頭の枠物語を語りはじめ、途中で王がこれは自分たちの話だと気づくというもの。
自分の子らはどこかと王がたずねると、シェヘラザードは王子たちを見せ、王はすべてを悟って前非を悔いる。

この結末は、「アラビアンナイト」のもとになったとされる、中世ペルシア語の物語集「千の物語」のあらすじとよく似ているらしい。
「千の物語」自体は消滅してしまい、物語に関する記録が残っているだけというのが、なんとももどかしいことだ。

まったくの好みだけれど、個人的には、この最後のバージョンがスマートでいいと思う。
あまり命乞いをするシェヘラザードは見たくないものだ。

今回描いた絵は、「金曜日の本」(ジョン・バース 筑摩書房 1989)。
はたして千一夜のあいだに3人の子どもをもうけることは可能なのか、この疑問に対し、著者はあきれるばかりの緻密さで考えをめぐらせている。


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アラビアンナイト(承前)

続きです。

絵は「図説アラビアンナイト」(西尾哲夫 河出書房新社 2004)。
表紙はレオン・カレの手による絵がつかわれている。
とても細密で、再現不能。

この本のほうが記述が簡明。
「アラビアンナイト」の歴史が時系列で記されていて、岩波新書の「アラビアンナイト」よりもわかりやすかった。
それに、新書では見づらいイラストもカラーで楽しめる。
レオン・カレ、エドムンド・デュラックの絵が素晴らしい。

さて、ガラン版によって「アラビアンナイト」に「シンドバッド」「アラジン」「空とぶ絨毯」が追加されたのだけれど、ほかにもこんなことがあった。

ガラン版はベストセラーになり、出版社は続刊の出版を急いだが、ガランはなかなか原稿を渡してくれない。
で、出版社は、先にガランから渡されていた1話に、べつの本からべつの訳者が訳した話をくっつけて、ガラン版第8巻としてだしてしまったという。

さらに、どこかに「定本アラビアンナイト」があるはずという勘ちがいは、来歴のよくわからない写本を頻出させることに。
ガラン版以後には、偽写本があらわれたり、翻訳者が創作を混ぜるといったありさま。

でも、「アラビアンナイト」の水増し作業は中東時代から起こっていたらしい。
「アラビアンナイト」の核となったのは、「千の物語」というペルシアの物語集であるらしく、それがアラビア語に翻訳され、そのさいタイトルと物語の数をあわせようとしたのか、歴代編集者たちによりさまざまな物語がどんどん追加されていったらしい。

なんだか「らしい」が続くけれど、真相はわからないのだからしかたがない。
とにかく、物語はどんどん増えていったのだ。
ボルヘスは「七つの夜」(みすず書房 1997)で、「千一夜物語は今もなお成長し続けている」といったけれど、これは至言。

そのおかげで「アラビアンナイト」は古今東西の説話の宝庫となった。

それから受容史について。
「アラビアンナイト」はヨーロッパで普及するにつれて、その受容形式が変化していった。
ひとつは児童文学、ひとつは好色文学、さらに東方世界の情報源。

児童文学は、当時あらわれた市民階級の子女むけとして、「アラビアンナイト」のファンタジー性がうまく適応したもの。
これににより、中東世界という背景をはなれた「アラビアンナイト」は、登場人物や小道具がパーツ化され、受け手のニーズにあわせて自在に変形することになった。

好色文学として有名なのはバートン版。
バートンの翻訳は、性的な箇所を強調したものだという。
「本人の宣伝文句を素直に受けとめた読者の中には、バートン版こそが本来のアラビアンナイトの姿だと思ってしまった人も多かった」
という、新書の指摘が面白い。
好色のほうを真と思うのはひとの常ということだろうか。

また、バートン版が世界中で読まれたのは、当時「アラビアンナイト」の名の下に知られていたあらゆる物語が収録されていたためでもあるそう。

日本ではバートン版にならんで、マルドリュス版も有名。
ところが、マルドリュス版も性的な誇張や原典にない創作が目立つ訳なのだという。
両者とも時代の嗜好を色濃く反映していて、バートン版は最盛期の大英帝国を、マルドリュス版は世紀末の退廃的な美意識を反映するかたちとなったのだそう。

「最盛期の大英帝国」というのは、バートンが「アラビアンナイト」を、大英帝国の領土であるイスラム世界を理解するための一大百科事典として意識したため。
バートンがつけた膨大な注釈もこの意識によるもの。

ここからオリエンタリズムの話につながる。
「アラビアンナイト」の挿絵の変遷を追うと、シェヘラザードは好色文学のイメージが強まるにつれ、だんだん薄着になっていったそう。
とても面白く、わかりやすい指摘。
ここにはもう受容するヨーロッパの事情があるだけで、中東女性の実像などわからない。

新書の末尾で、著者は、他者を物語化する5つのパターンを提示している。
これが、小説というジャンルの発生までも視野におさめた、じつに示唆に富むもの。
くわえて、近代日本のオリエンタリズムにも言及している。

…とまあ、ずいぶん長くなってしまったけれど、最後にまたボルヘスをひきあいにだして終わりにしよう。
「七つの夜」で、ボルヘスは「千一夜物語」に対しこんな賛辞を贈っている。

「私の人生は不幸であるかもしれない、けれど家にはその17巻本がある」

「その17巻本」というのは、バートン版のことだ。


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アラビアンナイト

「アラビアンナイト」(西尾哲夫 岩波書店 2007)

副題は「文明のはざまに生まれた物語」。
岩波新書の一冊。

手元に大場正史訳の「千夜一夜物語 バートン版」がある。
読んでいないけれど、いつかは読むつもりだ。

本書は「アラビアンナイト」の解説書。
内容の紹介というより、成立史や受容史について書かれている。
これがじつにややこしく、興味深い。

ややこしさの理由は、まず「アラビアンナイト」が語り物だったということ。
定本が存在せず、いろんな写本がある。
結末すらいろいろあると、今回はじめて知った。

くわえて、翻訳の問題。
どの写本を、どういう姿勢で編集し、翻訳したかということで、さまざまな「アラビアンナイト」が生まれてくる。

ヨーロッパにはじめて紹介されたのは、東洋学者ガランによるフランス語訳。
1704年のこと。
これがルイ14世の宮廷で、あっというまにベストセラーに。
1706年には英語版が登場し、以後続々と各国語に訳されていく。

ちなみに「アラビアンナイト」の存在は、ゴシック小説やファンタジーに影響をあたえたとのこと。
このへん、最近よんだ国際子ども図書館の講義録、「ファンタジーの誕生と発展」では語られていたっけと思い、本をあたってみると、ちゃんと井辻さんの講演でふれられていた。

さて、ガラン版によって、「アラビアンナイト」にいくつか決定的なことがおこる。
まずひとつは、「シンドバッド航海記」が「アラビアンナイト」にふくまれるようになったこと。
「シンドバッド」は、もともと「アラビアンナイト」とはべつに成立していたらしいのだけれど、ガランさんはなにを勘ちがいしたのか、「アラビアンナイト」に入れてしまった。

それから、「アラジン」と、空とぶ絨毯がでてくる「アフマッド王子と妖精パリ・バヌー」の話が入れられたこと。
このふたつの有名な話は、写本をすべて訳し終え、ネタ切れに苦しんでいたガランさんが、ハンナ・ディヤープというマロン派(東方キリスト教の一派)修道僧から教えてもらったのだそう。

それにして、「アラビアンナイト」を代表する話として知られる「シンドバット」も「アラジン」も「空とぶ絨毯」も、ガラン版以前には確認できないというのはびっくりだ。

また、ガランさんがつかった写本に記された話は、ぜんぶで40話、282夜ぶんだったそう。
そこでガランさんは、自分の手元にあるのは不完全な写本であり、残り700夜あまりをおさめた完全な写本が存在すると信じていたらしい。
が、これも勘ちがい。

どうも最初期の「アラビアンナイト」、つまり「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」(千一夜)は、せいぜい200夜あまりだったらしい。

…なんだか長くなりそうなので、次回に続きます。

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きりの国の王女

「きりの国の王女」(フィツォフスキ再話 福音館書店 1968)

訳は内田莉莎子。
絵は堀内誠一。
さすがに素晴らしい。

副題は「ジプシーのむかしばなし2」。
阿部勤也さんの「自分のなかに歴史をよむ」を読んだら、ジプシーの昔話が気になったので読んでみることに。
なぜ2巻かというと、たまたまこれだけ手元にあったから。
収録話数は10話。

「きりの国の王女」
「ひつじかいのバクレングロ」
「雨乞いの名人」
「七人の兄弟と悪魔」
「魔法の小鳥」
「すてられた子どもたち」
「悪魔をだましたジプシー」
「太陽の王の三本の金髪」
「魔法の箱」
「ヒキガエルとまずしいやもめ」

阿部さんは、ジプシーの昔話には贈与者がでてこないと書いていたけれど、そんなことはないよう。
「魔法の小鳥」の、ほしいものをだしてくれる魔法の小鳥をくれたおじいさん(じつはジプシーの守り神)などは贈与者といっていい存在だと思う。
それよりも心にのこったのは、登場人物の欲の少なさ。
魔法の小鳥に食べ物と馬をだしてもらった若者は、それ以上なにももとめないのだ。
「さむくもない、はらもすいてない。世界じゅうを旅してまわれる。もう、それでぼくはまんぞくだ」。

この若者は、欲深な王さまにつかまり、牢屋に入れられてしまう。
牢屋には先客の、美しい娘が。
娘は森のなかでジプシーの宝ものの歌をうたっていたところ、王さまに聞かれ、閉じこめられてしまったのだ。
宝もののありかを白状するよう責めたてられても、娘はひとこともこたえない。
「たとえ、そのひみつをうちあけたとしても、なんのやくにもたたなかったでしょう。ジプシーのたからものというのは、旅をすることなのですから」。
その後、おじいさんに助けられ、ふたりはともに旅をする。

「すてられた子ども」は、途中まで「ヘンゼルとグレーテル」そっくりの話。
継母に迫られて、父親が兄妹を森へ捨てる。
父親が灰をまいておいてくれたおかげで、1度目はもどってこられたが、2度目はアワだったので駄目。
森をさまよい、おばあさんの家に。

おばあさんの弟はおそろしい竜で、ちょうど山のむこうの魔法使いを倒して宝ものをいただいてきたところ。
宝ものは、空とぶ布きれ、いのちの水、なんでもうつる鏡。
でも、これらの宝ものは、もち主が7年たたないと魔法の力を発揮しない。

兄妹は竜が眠ったすきに宝ものを盗みだし、湖のそばに家を建て7年すごす。
さて、7年たち、ためしに鏡をのぞくと、年をとった父親と継母の墓が。
すぐ帰ろう、ということになるが、そのまえに兄が夢でみた美しい町をみてみる。
すると大きな屋敷に、いまにも死にそうな王さまがいる。

ふたりは魔法のきれに乗り、町へいくと、いのちの水で王さまを助ける。
「このおわかいお方は、きょうからわしのむすこじゃ! わしの国をはんぶんわけてあげよう。のぞむことをなんなりとかなえてあげよう!」

しかし、この話でも兄妹は王さまの申し出をことわるのだ。
「わたしにはちょっとのあいだもわすれられない父がいます。国のはんぶんをくださるおはなしもありがたいのですが、せっかくいただいても、わたしには、なんのやくにもたちません」

兄妹がもとめるのは、やはり馬。
しかも、かわりに魔法のきれをあげてしまう。
なんて気前がいいんだろう。
最後に、兄妹は父のもとにもどり、また旅をすることに。

それにしても、魔法のきれといって、絨毯ではないところがなんとなく面白い。

ほかに「雨乞いの名人」「悪魔をだましたジプシー」は、ともにだましたり、だまされたりする話。
とくに「雨乞いの名人」のほうは、雨をふらせるといって村人をだまそうとしたおじいさんが、さらにキツネにだまされる。
このだましかたが、じつに他愛がなくておかしい。

こうして逐一みていくと、収録作はバラエティに富んでいる。
この感想文を書かなければ、編集の妙に気づかなかったところだ。

あと、これは余談だけれど、昔話を読むと小説を読むのが面倒くさくなってしまうなあ。

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猫が耳のうしろをなでるとき

「猫が耳のうしろをなでるとき」(マルセル・エーメ 大和書房 1979)

訳は岸田今日子、浅輪和子。
絵は佐野洋子。
初版は1979年。
読んだ本は新装版で1988年。

訳者あとがきによれば、原書では16の話が入っていて、そのうち9つは「おにごっこ物語」(鈴木力衛訳 岩波書店)として訳されているそう。
でも、それ以外のも面白いので訳出したとのこと。

とはいうものの、この本に入っているお話は5つ。
どうせなら7つ訳してしまえばよかったのに。

また、「おにごっこ物語」には続編「もう一つのおにごっこ物語」がある。
こちらに残りがすべて訳されているのかもしれないけれど、読んでないのでわからない。

さて。
この本は、エーメの子どもの本はどうなっているのだろうと思い手にとってみたのだった。。
でも、ちがいは動物が口をきくくらいで、なんの変わりもない。

あたりまえのようにに起こり、あたりまえのように消えていく奇妙な前提。
課題解決にむけてまっすぐには進まないストーリー。
不平をいうチャンスを逃さない登場人物。
アイロニカルな味わいの結末。
…どこをとってもエーメ風だ。

子どもの本というより、大人の童話といったところ。
じっさい、そういうあつかいの本なのかもしれない。

内容は、デルフィーヌとマリネットという姉妹が主人公の短編集。
登場人物はほかに、両親と農場の動物たち。
収録作は以下。

「鹿と犬」
「絵具箱」
「問題」
「猫の脚」
「ろばと馬」

本のタイトルと同じ名前の作品はない。
似た内容のものは「猫の脚」

お皿をわってしまい、こわいメリナ伯母さんのところにいくはめになった姉妹。
猫にたのみ、耳のうしろをなででもらうことに。
猫が耳のうしろをなでると雨がふるので、伯母さんのところにいかなくてすむ。
ところが、いろいろあって腹を立た猫は、1週間雨をふらせる。
怒った両親は、猫を袋づめに。
川に投げこまれようとする猫をたすけるために、姉妹は動物たちと会議をひらくが…。

「猫が顔を洗うと雨」と日本ではいうけれど、フランスでも似たようなことわざがあるのかもしれない。
けっきょく猫は助かるのだけれど、面白いのはそのあと。
猫を殺したと思いこんで悲しむ両親を、猫が助かっていることを知っている姉妹はこんなふうになぐさめるのだ。

「けっきょく、こうなったのも自業自得なのよ」
「お父さんたちはたしかにアルフォンスを袋に入れて、棒でなぐって、川に投げこんだわよ。だけどそれは、あたしたちみんなのしあわせのためでしょ」

なんて皮肉に満ちたセリフだろう。

最後の「ろばと馬」も、なんともきびしい作品。

姉妹はある朝めざめると、ろばと馬になっている。
最初こそ両親は悲しむが、ひと月もたつとすっかり慣れてしまい、邪険にあつかうように。
ろばと馬をはたらかせ、ぶったり、ののしったり。
ついには、ろばと馬が娘だったことすら忘れてしまう。
おなじく、ろばと馬も、むかし自分がなんだったのか忘れてしまい、ぶたれるのも当然と思うように。
……

最後はもとにもどるのだけれど、この甘味のなさには感心してしまう。
この2編にみたように、両親は姉妹に小言ばかりいう。

「この本に出て来る姉妹の両親は、普通の童話に出て来る両親と違って、どちらかというと憎まれ役で、その辺も母親である我々にとっては興味深く…」

と、訳者あとがきで岸田今日子さんが書いているのが印象的だ。


《追記》
ことし(2010年)、「ゆかいな農場」というタイトルで、また本書の新訳がでた。
いい機会なので、わかる範囲で本書の書誌をまとめてみた。

「おにごっこ物語」(マルセル・エーメ/作 鈴木力衛/訳 岩波書店 1956)

・オオカミ
・ウシ
・小さな黒いオンドリ
・イヌ
・ゾウ
・いじわるなガチョウ
・トンビとブタ
・アヒルとヒョウ
・クジャク

「もう一つのおにごっこ物語」(マルセル・エーメ/作 金川光夫/訳 岩波書店 1981)

・ネコの足
・メウシたち
・絵の具箱
・問題
・シカとイヌ
・ロバとウマ
・ヒツジ
・ハクチョウたち

「猫が耳のうしろをなでたら」(マルセル・エーメ/著 岸田今日子/訳 浅輪和子/訳 大和書房 1979)
その後、「猫が耳のうしろをなでるとき(1988)と改題した新装版が出版。
さらに文庫化(村松友視/解説 筑摩書房 1996)

・鹿と犬
・絵具箱
・問題
・猫の脚
・ろばと馬

あとがきで、岸田今日子さんが「(原書には)16のお話が入っていて…」と書いているけれど、「もう一つ…」の訳者あとがきでは、「原作の『おにごっこ物語』は17篇からなっており…」と書かれている。
2冊の「おにごっこ」と短篇の数を数えると、17篇。
ひょっとすると翻訳につかった原書がちがうのかもしれない。
いちがいに、岸田さんの数えまちがいとはいえない。

「ゆかいな農場」(マルセル・エーメ/作 さくまゆみこ/訳 福音館書店 2010)

・変身したメンドリ(ゾウ)
・ニワトリの家出(小さな黒いオンドリ)
・いばりんぼうのガチョウ父さん(いじわるなガチョウ)
・農家にやってきたシカ(シカとイヌ)
・クジャク式ダイエット(クジャク)
・むずかしい宿題(問題)
・白鳥の歌(ハクチョウたち)

カッコ内は2冊の「おにごっこ」の該当する短篇。
でも、冒頭だけ照らし合わせて、「これとこれとは同じ話だなー」と判断したので、全部読んだらじつはちがう話かも。
万一、参考にするかたがいたらお気をつけください。

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天のろくろ

「天のろくろ」(アーシュラ・K・ル=グィン ブッキング 2006)

訳は脇明子。
ジャンルとしてはSFになるだろうか。

主人公のジョージ・オアは、他人の薬剤カードをつかい、割当量を超えた薬物を服用していた。
これは違法なので、精神科の医者に診てもらわなくてはならない。
オアを担当することになったウィリアム・ヘイバー博士は、オアが薬物を過剰摂取していた理由を聞く。
オアは夢をみないようにしていた。
夢をみると、その夢が現実になってしまうのだ。

はじめ信じていなかったヘイバー博士も、オアに催眠暗示をかけ、その夢が現実化するにおよび、夢の効力を知る。
夢が現実化するなど自分の妄想ではないかと悩んでいたオアは、博士が自分の能力を認めてくれたことによろこぶ。
しかし、博士はオアの能力を利用し、世界を変えようとたくらんでいた。
物事を変えたくないと思っているオアは、ヘザー・ルラッシュ弁護士に相談をもちかけるが…。

夢はなかなか自分の思いどおりにみられない。
そのため、暗示をかけても望んでいたのとはちがった素っ頓狂なことが起こる。
この点、悪魔や魔神に願いごとをかなえてもらうたぐいの話に似ている。
ここが本書のいちばんの読みどころだろうか。
その展開には呆然としてしまう。
なにしろ異星人まででてきてしまうのだ。

登場人物は、ほとんど上記の3人のみ。
3人称で、章ごとに登場人物の視点が変わる。
ことばを変えると、視点となった登場人物だけが、その章で内面を語ることを許される。

夢のようなぐにゃぐにゃしたものを扱い、長編に仕立てる、作者の構成力と描写力は抜群のもの。
ラスト、効力のある夢を一般化することに成功したヘイバー博士が、みすからの夢を現実化させるシーンは圧巻。

3人の造形も興味深い。
とくに主人公のオアは、非常に受動的な人物としてえがかれる。
「彫られていない木の塊。自分以外の何物でもないがゆえにすべてであるという存在」
とは、ヘザーからみたオア評。

つねに全体のことを考えるオアは、夢をみて現実を変化させることに慎重にならざるを得ない。
しかしヘイバー博士は積極的に世界を変えようとする。
「ゲド戦記」でおなじみのテーマが、この作品でも反復されている。

訳者あとがきによれば、タイトルの「天のろくろ」とは、英語版「荘子」の誤訳を、ル=グィンさんがそうとは知らずにつかったものだそう。
これもまた面白いことだ。

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暁の女王と精霊の王の物語

「暁の女王と精霊の物語」(ネルヴァル 角川書店 1952)

金ぴかの表紙なのだけれど、絵はどうみてもカレー色になってしまった。

初版は1952年。
手元のものは1988年第4版。
角川文庫リバイバルコレクションの1冊。
訳は中村真一郎。

自分の本棚にどんな本があるのか、だんだん把握できなくなってきた。
この本もそうで、なんだかわからないけれどみつけたので読んでみることに。

この物語はネルヴァルの東方旅行中の産物。
現在では「東方紀行」におさめられている――と、これは物語の前におかれた訳者はしがきから。

はしがきによれば、ネルヴァルにとってシバの女王バルキスは、同時にエジプトの女神イシスであり、ローマのウラニヤであり、キリスト教のマリアであり、またパリの一女優ジェニイ・コロンだったそう。
訳者は、この女性像をひとことで「悲しめる母」よんでいる。
さすが中村真一郎さんは洒落たことをいう。

また、1884年2月、ニューオリンズの一新聞に「狂える浪漫主義者」と題する文章が載り、これがおそらくこの作品にたいする最初の評論だそう。
書いたのはラフカディオ・ハーン。
「ラフカディオ・ハーン全集」をみてみたら、ちゃんとこの文章が載っていた。

さて物語。
シバの女王バルキスが、ソロモン王のもとを訪ねてくる。
訪問の理由は、謎かけをし、王の知恵をためすためと結婚するため。
ソロモン王は巨大な俗物というべき人物。
シバ人の大祭司から解答を買っておいたので、なんなく謎を解く。

ソロモン王の都は王自身の設計によるもので、壮麗ではあるが単調。
「新しい宮殿をつくるのに13年かかった」
と、ソロモン王が自慢すると、機知に富んだ女王がいう。
「あなたの建築家は大芸術家ですわ」
「すべてを秩序づけ、職人に金を払ったのは私です」
と、ソロモン王。

ソロモン王の都市計画を実現したのは、アドニラムという孤高の建築家。
女王が職人たちのまえでアドニラムをほめたいといいだしたので、アドニラムはかれの下ではたらく10万以上の職人たちを、たちまちあつめてみせる。

アドニラムは銅の海をつくろうとするが、職人のなかに裏切り者がいたために失敗。
溶けた銅があふれだし、そのなかからトバル・カインと名乗る幽霊があらわれる。
アドニラムはカインに連れられ、炎に満ちた地下世界を目撃する。

また、カインがいうには、世界には火から生まれた一族と泥から生まれた一族がいる。
アドニラムと女王は火の一族、地の灰からこねあげられたセムの子とはちがう。
かくして、アドニラムと女王は通じあうが…。

小説というより劇のよう。
セリフは客にむかって話しているようだし、人物の出入りも舞台を思わせる。

地下世界の描写は迫力があるのだけれど、ここでカインが語る火の一族と泥の一族との確執は、正直、よく理解できなかった。
聖書の知識や、ソロモン王伝説についての知識があれば楽しめるところなのだろう。
ぜひとも注釈がほしいところだ。

この物語に、フド・フドと呼ばれる鳥がでてくる。
鳥の王で、女王が命ずると鳥たちをひきいて天蓋をつくったりする。
このフド・フドはヤツガシラのことだと、たまたま読んでいた澁澤龍彦さんの「思考の紋章学」(河出書房新社 1985)に書いてあった。



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