「フロベールの鸚鵡」と「ノリーの終わらない物語」

語り口の凝った小説を2冊読んだ。
両方とも白水社。
「フロベールの鸚鵡」(ジュリアン・バーンズ/著 斎藤昌三/訳 白水社 1993)
「ノリーのおわらない物語」(ニコルソン・ベイカー/著 岸本佐知子/訳 白水社 2008)

まず、「フロベールの鸚鵡」から。
ジュリアン・バーンズの小説は「10 1/2章で書かれた世界の歴史」(丹治愛/訳 丹治敏衛/訳 白水社 1995)を読んだことがある。
タイトルどおり、人類の歴史を10と1/2章で語った、こってりとした味わいの小説だった。
いま具体的に思いだせるのは、ノアの箱舟の密航者として、キクイムシがいたということだけだ。
たしか、キクイムシは中世で裁判にかけられるんじゃなかったっけ。

さて、「フロベールの鸚鵡」の話。
本書は〈僕〉の1人称。
〈僕〉は、フロベールマニアのイギリス人。
フロベールの生地ルーアンを訪れた〈僕〉は、そこで2羽のオウムの剥製と出会う。

1羽目は市立病院。
フロベールの生まれた部屋などをみせてもらった〈僕〉は、そこでオウムの剥製と対面する。
もう1羽との対面は、フロベール邸のはなれにつくられた記念館。

フロベールは短篇「純な心」を執筆中、オウムの剥製をルーアン博物館から借りだし、机の上に置いていた。
フロベールが借りだしたというオウムは、一体どっちだったのか。

これが冒頭。
〈僕〉の1人称で書かれているし、フロベールについての知識が次つぎに披露されるし、本書はまるでフロベールについての文学エセーのよう。

このあと、オウムについての探索がはじまるのかと思うと、そうはならない。
フロベールの年譜が紹介されたり、「フロベール動物誌」というタイトルで、フロベールにかんする動物の話題を扱ったり、フロベールとつきあいのあった女性、ルイーズ・コレが1人称で語る章があったり、紋切り型辞典のフロベール伝記版があらわれたりする。
つまり、この作品も、「10 1/2章で書かれた世界の歴史」と同様、コラージュの手法が用いられている。
よくまあ、跳んだりはねたりするものだと感心。

個人的には、コラージュの手法で書かれた小説は好きだ。
たぶん、登場人物にあんまり感情移入しないのと、飽きっぽいためだからだと思う。

ところで、フロベールの年譜は3種類紹介されている。
勝手に名前をつけるけれど、それぞれ、栄光編、悲惨編、フロベールが自身について語った文章をあつめた自筆編の3つ。
1826年、15歳のフロベールが落ちた恋は、栄光編ではこう書かれる。

「ドイツ人音楽出版業者の夫人エリザ・シュレザンジェにトゥルーヴィルで出会い、「とてつもない恋心」を抱く。この恋は以後の青年期に光明を投ずる。夫人はこまやかな心遣いに満ちた優しい態度で彼に接してくれた」

このエピソードが悲惨編ではこうなる。

「エリザ・シュレザンジェに対する、望みなく取り憑かれたような恋のはじまり。この恋は彼の心に焼き鏝を押し当て、以後、他の女性を十全に愛することができなくなる」

人生はひとつでも、解釈は無限だ。

それにしても、年譜など読まされたら、普通の読者は、これは一体小説なんだろうかと困惑するばかりだろう。

ところが、この文学エセーみたいな作品は、ラスト近くになって突然小説に変貌する。
そのテーマは、どれほど追いかけても他人の人生は理解できないということだろうか。
この手並みは鮮やかだ。

とにかく、頭の先からシッポの先まで、フロベールのうんちくで一杯の小説。
〈僕〉と同じようなフロベールマニアが読んだら、
――フロベール好きでよかったなあ
と、思うかもしれない。

それから。
本書の冒頭でもちだされた「純な心」は大変な傑作だ。
あんまりすごいので、以前メモをとった。
最後に、この作品について〈僕〉が語る、素晴らしい賛辞を紹介しておこう。

「滑稽な名前をつけられた不細工な剥製の鳥がついに三位一体のうちの精霊の位置を占めるに至る物語、しかも諷刺とか感傷とか冒瀆といった意図のない物語を書くなどということが、いかに技術的に困難なものか考えてみていただきたい」

「さらには、なんと驚くべきことに、こうした物語を無知で年老いた女の視点から語っていながら、馬鹿にしたような調子にも、お涙頂戴の調子にもなっていないのである」

もう一冊。
「ノリーのおわらない物語」

この小説は3人称。
けれど、全体に描出話法がつかわれていて、ほとんど1人称小説のようになっている。
これが、この本の一番の特徴。
なぜ、こんな書きかたをしたのか。

訳者あとがきによれば、この本は、作者の当時9歳になる娘が、じっさいに語ったり経験したりしたことをもとに書かれたのだそう。
一家でアメリカからイギリスに移り住んだ1年間、作者は毎日娘のアリスを学校まで車で迎えにいった。
車のなかで話を聞き、それに独自の加工をほどこして文章にしていった。

「主人公ノリーの思考にぴったりと寄り添いながらも三人称の語りであるという、この小説の独特のスタイルも、そういう二人の共同作業を思えば、ごく自然に選ばれたものだったのだろう」

と、訳者の岸本佐知子さん。
この小説がどんな文章でつくられているのか、冒頭を引用しよう。

「エレノア・ウィンスロウはアメリカから来た九さいの女の子で、おかっぱの髪の毛は茶色、目も茶色だった。しょう来の夢は、歯医者さんかペーパーエンジニアになることだった。ペーパーエンジニアというのは、とび出す絵本やとび出すカードをデザインする人のことで、こういうみんなの人生を楽しい気もちにするものが、お店で気軽にこう入できるのは、すごくすごくだいじなことだと思う」

いきなり、最後に「思う」とくるところが面白い。
いったい、だれが「思った」のか。
もちろん、ノリーだ。
少なめな漢字も、9歳の女の子の発言ということを強調している。

というわけで、この小説の一番の魅力は、この語り口。
いかにも子どもらしい発想や感じかたが随所にあって、読んでいるとじつに楽しい。
息の長い文章がくせになり、読むのがやめられなくなる。
これには、訳者の手腕も大いにあずかっているにちがいない。

ベッドのなかで眠りかかっていたノリーは、頭のなかで勝手に怖い考えがはじまり止らなくなってしまう。

「ノリーはとうとうベッドを出て一階におりていった。お父さんとお母さんはキッチンにいて、いかにも子供のねたあとの大人っぽく、ひそひそと静かな声で話をしていて…」

そう、大人は子どもが寝たあと、ひそひそ話すものだった。
そこに闖入したりすると、大いに驚かれたりしたものだ――と、子どものころのことを思いだす。

ノリーは怖い映画が苦手。
映画のなかには、ほかの部分はぜんぜん怖くないのに、1ヶ所だけ急に怖くなる映画があって、そういう映画は絶対ビデオの箱のところに注意書きを書くべきだ、と力説する。

「これはとてもいい映画ですけど一か所だけ心ぞうが止まるくらいこわいシーンがあって、どんなに忘れようとしても一生忘れられなくなるかもしれません(それと、男の子が芋虫を食べる気持ちわるいシーンもあります)とか書いておくべきだと思う」

それから、ノリーはお話をつくるのが大好き。
本書にも、ノリーがつくったお話がたくさんでてくる。
ノリーはいつもお話の最後に「つづく」と書くけれど、続けたためしがない。

「…パロアルトにいたころ、机の中から大むかしの、七、八さいごろに書いたお話がいっぱい出てきて、どれもこれも、いちばん最後に「つづく」と大きな字で書いたままほったらかしになっていて、それを見たノリーは「まあ、あたしったら、言ったことをぜんぜん守ってないじゃない」と思った」

ノリーはいじめられっ子のパメラと友だちになる。
でも、もうひとりの友だちのキラは、ノリーがパメラと仲良くするのが気に入らない。
そこで、ノリーは「友情のしん」ということを考える。
9歳の女の子が、自分の全人生をもとに友情について考えるその姿は、なかなか感動的だ。

それから、パメラのことに親身になるノリーだけれど、しばしば空回りもする。
ここのところの呼吸がうまいところ。

――とまあ、これまで書いてきたように、この本はストーリーが面白いというより、語り口が面白い。
語り口が面白い小説というのは、得なもので、何度読み返しても楽しめる。

読み終えた小説は、たいてい手放すことにしているのだけれど、この小説は手元に残しておいて、ときどき開き、ノリーの声を聞き返そう。


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月長石の感想〈承前〉

いつもながら変な理屈を振り回してしまって、申し訳ありません。
ただ、「月長石」は、非常にサスペンスにあふれていて、それには回想形式が効果的に使われているといいたかったのです。
あの長い物語を夢中になって読むことができたのは、じつにこのおかげでした。

もうすこし「月長石」に近づきましょう。
作者のウィルキー・コリンズは、構成だけではなく、登場人物の造形にもすばらしい手腕を発揮しています。
「ロビンソン・クルーソー」教徒のベタレッジ執事、薔薇好きのカッフ部長刑事、偽善者の鏡のようなゴドフリー・エーブルホワイト、隙あらばフランクリンに近づいていってしまう、かわいそうなロザンナ。
そのほか、どの人物をとっても、じつに生き生きと描かれています。

それは単に、読者に対して、登場人物に親しみをもたせるだけではありません。
レイチェル嬢は非常な強情っぱりです。
フランクリンは快活ですが、どこか粗放なところがあります。
月長石をめぐる謎は、この二人を中心に起こり、解かれました。
ここでは、その性格が、綿密な構成を支えています。
性格と構成は幸福に結ばれています。
二人はたがいに二人を思って、事件をややこしくしていたのです。
こういう話を読むことが、喜びでなくてなんでしょうか。

「月長石」は回想のリレーでできていますが、語り手だったひとが別の語り手によって語られるところも、この物語を読む醍醐味といえるでしょう。
友達のことを、べつの友達から聞いたときの楽しさ。
フランクリンによって書かれた文章のなかで、ひさしぶりにベタレッジ執事と再会したときは、じつに嬉しいものでした。

ただ文中、語り手の思い入れが強い相手が出てきたときは、その語り手の語りかたに鼻白む思いがしたことも事実です。
具体的には、フランクリンによって書かれたレイチェル嬢のこと。
「私は彼女を腕の中に抱き、接吻の雨で彼女の顔をおおった」
なんていうところは、読みながら、
――自分でこういうことを書くなよ
と、ツッコミを入れたものでした。

語り手のなかで、ほかのひとたちと毛色がちがうことで深い印象をのこすのが、クラック嬢とエズラ・ジェニングスです。

クラック嬢は、ブラッフ弁護士に「狂信者」呼ばわりされるほどの、熱心な、いささか迷惑なキリスト教徒です。
このクラック嬢の書く文章によって、読者の事件に対する混乱の度合いは深まります。
なにしろこのひとは、レイチェル嬢やブラッフ弁護士がきらいで、ゴドフリー・エーブルホワイトが大好きなのですから。
またクラック嬢は、当人は気づいていないかもしれませんが、とても滑稽味があります。
近くにいたらげんなりするでしょうけれど、見ているぶんにはとても面白い。
作者はこんな人物を、よくつくり、うまく描いたものだと思います。

いっぽうエズラ・ジェニングスには、そんな滑稽味はありません。
かれは痛々しい人物です。
生まれてから辛い目にあいつづけて、物語にあらわれたときは、病気と阿片で苦しんでいます。
物語には、そう明言されていませんが、もしかしたらかれの親はジプシーだったのかもしれないと思いました(ホームズ物にもジプシーは何度か出てきましたね)。

この二人はまるで似ていませんが、ただ物語のなかで二人とも孤独だというところに共通点があります。
おかげで、物語全体をとおして、二人は物語に陰影をつけるという役割をみごとに果たしたといえそうです。
この二人がいなければ、物語はもっと平板なものになっていたことでしょう。

しかし、この傑作である『月長石』にも、文句をつけたいところがあります。
トリックのことです。
宝石がなくなったのは、知らぬまに阿片を飲んで心神喪失となったフランクリンが、自分でも気づかぬうちに、レイチェル嬢の箪笥の引出しから宝石を盗んだからで、これが本編最大の謎の種明かしでした。

しかしこれは、なんだかずるじゃないかと思います。
これがよしとされるなら、作者の都合で勝手に登場人物に阿片を飲ませて、宝石を盗ませることができるでしょう。
誕生会で、キャンディさんとフランクリンのあいだに伏線を張ったことはわかりますが、しかしなんだか卑怯な感じがします。
作者が力をもちすぎているのです。

といっても、この小説はミステリという形式ができるまえのものですから、この文句は的外れかもしれません。
こんなことよりも、ロザンナが流砂に隠した箱から、フランクリンのナイトガウンが出てきたところや、エズラ・ジェニングスとの実験を愉しんだほうがずっと得かとも思います。
実際、ここのところは読んでわくわくしてものでした。

(そして、あんまりわくわくしたので、種明かしのずるさに腹を立てるということにもなるのですが)
(そしてまた、腹を立てること自体も愉しいのですが)

さて、こうして「月長石」は読み終わりました。
つぎはどんな本が読みましょうか。
読んでない本の在庫には、たとえばダシール・ハメットの「デイン家の呪い」(早川書房 1987)や、ドナルド・E・ウェストレイクの「逃げだした秘宝」(早川書房 1998)などがあります。
どちらも宝石がらみの小説です。

しかし、ここはスティーヴンスンの「バラントレーの若殿」(岩波文庫 1996)でいきたいと思います。
この小説は、宝石こそ出てきませんが、名門バラントレー家の執事による回想記という体裁なのです。
執事物なんてジャンルは、あるのかどうか知りませんが、まあその部類に入る一作です。
それに、怪しいインド人も出てきます。
しかも変な術を使うらしいので、これから読むのが楽しみです。
ただ悲劇なので、執事の語りがベタレッジ執事のような愛嬌に乏しいところが、玉に瑕かもしれません。

と、つぎの展望を述べたところで、感想はおしまい。
お疲れ様でした。


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「月長石」の感想 2006.5.14 〈再掲〉

※ネタバレありです。

「月長石」(ウィルキー・コリンズ/著 中村能三/訳 東京創元社 1981)を読み終えました。
この長い、たっぷりとした物語を読み終えたかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。

あともうすこしで読み終えるというときに気になったのは、結末の落しどころでした。
なくなった宝石が、もち主のレイチェル嬢のところにもどっても、インド人がねらっているあいだはハッピーエンドにはなりません。
かといって、宝石がインド人の手にわたるのも、最良の結末とは思えませんし、なんだかシャクな話です。
目次には「宝石の発見」というタイトルがあります。
物語の終わりには、宝石はだれかに確実に発見される運命にあるようです。

それで、いったいだれが宝石を発見するのかと思っていたら、インド人たちがあっさり宝石をもっていってしまったのでした。

しかし、考えてみるとこの小説、冒頭はともかく、後半は月長石をとりもどす必要はまるでないのでした。
後半は、レイチェル嬢とフランクリンの恋が成就すればよくて、それにはレイチェル嬢のフランクリンに対する誤解が解けさえすれば、それでよかったのです。
そして、それはエズラ・ジェニングスの実験によって証明されました。

「こんなダイヤモンドはこなければよかったのに」

と、執事のベタレッジがいった月長石は、もうもどらなくてよかったのです。
もう月長石は、インド人のものになってよかったのでした。

これはまったく、うまい結末の落しかただと思います。

インド人が宝石を手に入れても、まだ物語は続きます。
インド人たちの逃走経路を、語り手は律儀に語ってゆきます。
ここはもう、なくったっていいところです。
なくて、探検家がインドで月長石を見つけてジ・エンドとしてかまわない。
にもかかわらず、物語はインド人たちの消息を追っていって、このマメマメしさも気に入っています。
長い物語にはそれなりのていねいな結末が欲しいもので、それをしていると思ったのです。

さて、一歩下がって、小説全体をながめてみることにしましょう。

これはまえから思っていたのですが、(そして以前話したような気がするのですが)、ミステリに回想という手法は、とてもあう気がします。
「薔薇の名前」(ウンベルト・エーコ/著 河島英昭/訳 東京創元社 1990)を読んだときもそう思いましたし、ずっとまえホームズを読んだときにも、つくづくそう思いました。
以下、ちょっと横道にはいって、ホームズ物を例に、回想がどんなに便利かを話してみることにしましょう。

回想がどんなに便利か。その①
ご存知のとおり、ホームズ物はワトソン博士の回想という形式で書かれています。
この回想が便利なのは、話が早いことです。
ホームズのところにくる依頼人たちは、自分たちの身に起こった出来事を、じつに正確に相手につたえることができます。
これは依頼人たちの有能さばかりではなくて、ワトソン博士の手際のよさもあるのではないかと思うのです。
この手際を発揮するのに、回想という手法はとても便利なものでしょう。
おかげで読者は、煩雑な事実関係にわずらわされることなく、ホームズの名推理ぶりを味わうことができるのです。

回想がどんなに便利か。その②
また回想には伝聞がともないます。
読者は現場に案内されることはなく、ただワトソン博士から話を聞いて、その事情を察します。
これが、ワトソン博士がホームズから聞いた話となると、読者-ワトソン-ホームズとなります。
さらにホームズが依頼人から話を聞いて、なおかつその依頼人がだれかと話していたなんてことになると、読者-ワトソン-ホームズ-依頼人-だれか、となって、ほとんど伝言ゲームみたいなことが起こります。

ホームズ物はよく考えるとバカバカしい事件が、妙なリアリティをもって読むひとをとらえますが、その原因はここにあるのではないかと思うのです。
「友達の友達」の話を聞いている気分とでもいえばいいでしょうか(もちろん回想者の手腕が第一ですが)。
バカバカしい話が好きな人間にとって、この伝聞とは、かくも魅力のあるものなのです。

だしぬけですが、ホームズ物にあって、クリスティにないのはここのところ、「バカバカしさ」ではないかと思います。
クリスティの登場人物は、物語とはあんまり関係がないくだらない話をしません。
クリスティは、お勧めの、「謎のクィン氏」(早川文庫 1978)と「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」(早川文庫 1981)くらいしか読んでいないのですが、勝手にこうだと確信している次第です。
ぜんぶ読まなくたって、わかるものはわかる。

回想がどんなに便利か。その③
回想形式では,事件はもう終わっています。
それは語るさい、事件のつじつまがあってもおかしくないという感じをあたえます。
現在形のミステリは、読んでいる最中、「そううまくいくものかなあ」という気がするときがあるものです。
真相は「藪の中」が当然とまではいいませんが、そのほうがより真実味があるような気がするのです。
またもやだしぬけですが、伝聞だけれど回想形式ではない、「隅の老人の事件簿」(バロネス・オルツィ 東京創元社 1982)で、「隅の老人」の語る話が非常にうさんくさいのは、このためのような気がします。

◆回想がどんなに便利か。その④
それから回想形式では、話は思い出して語られるので、しみじみとした風情が漂います。
これは、「赤い館の秘密」(A.A.ミルン 東京創元社 1989)のラスト、犯人からの手紙が好きなKさんには、わかってもらえるでしょう。
また回想形式は、事件に対して余裕が生まれます。
現在形のものにありがちなように、せっぱつまっていない。
これも回想形式の徳のひとつかと思います。

〈続く〉

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