探偵物語

「探偵物語」(別役実 大和書房 1977)

探偵X氏を主人公とした連作短編集。
収録作は以下。

1. X氏登場
2. 夕日事件
3. 監視人失踪事件
4. 大女殺人事件
5. X氏と探偵小説

探偵にX氏などと名づけることからわかるように、この作品は探偵小説のパロディ。
X氏は探偵なのだが、街のひとたちから探偵と認知されていない。
それがX氏には腹立たしい。
看板をだしたらと、夫人にいわれると、X氏はこう抗弁する。

《「どんな駆け出しの安っぽい探偵だって、看板なんか出しゃしないよ。(…)それでも、何となくみんながそいつを探偵だと知っていて、捜査を頼みにくる……。それが本当の探偵だよ」》

X氏は、探偵はかくあるべしという信念にとりつかれた、自意識過剰な探偵なのだ。
だから、「探偵物語」というタイトルは、この作品にふさわしい。
ちなみに、X氏と夫人の生活費の大半は、夫人の父親がだしてくれている。

ところで、なにかで読んだのだけれど、小説を評価するには3つのポイントがあるという。
・ストーリー
・キャラクター
・文章
の3つ。

それに加えて、ある種の小説には、
・屁理屈
という4つ目のポイントが、小さいながらにあるように思う。
世の中には、屁理屈小説といいたくなるような小説がある。
たとえば本書の作者である、別役実さんの作品とか。
チェスタトンの作品とか。

だいたい屁理屈小説は、奇をてらい、誇張がはなはだしく、ものごとに対する批評性が強い。
逆説を弄し、そのためしばしば理屈は幻想に近づき、滑稽さや不条理さを感じさせる。

という訳なので、屁理屈小説であるこの作品で、X氏はまともな事件に出会うことはない。
X氏が出会うのは、次のような事件だ。

「夕日事件」
この事件でX氏に頼みごとをしてくるのは、入院中の少女。
少女は博物館――X氏の事務所兼自宅は博物館の地下にある――の屋上に立ち、海に沈む夕日をみるX氏の背中ごしに夕日をみていた。
というのも、博物館が邪魔で、実際の夕日はみえなかったから。
そして、X氏の背中から、美しい夕日を充分に感じとることができたからだ。

そのことを知ったX氏は、少女のために博物館の屋上に立ち、海に沈む夕日をみる。
すると、少女からダメだしがでる。
あなたの背中は、私がいる窓のほうばかり気にしている。
ちゃんと夕日をみていない――。

知らないあいだに解決していたのに、知ってしまったら解決できなくなってしまった。
X氏が出会った事件とはこういうもの。
この後、X氏はちゃんと夕日をみるために、博物館の屋上に立ち続ける。
X氏にダメだしをする少女は、役者にただ立っていればいいと指示する演出家のようだ。

「監視人殺人事件」
1年以内に自転車を食べると公言し、みごと食べきったことで街の名士となったT氏。
T氏は、こんどは6年がかりで新品のバスを食べると宣言。
不正がおこなわれないよう、市から派遣された監視員が見守るなか、T氏はバスを食べ続けていたのだが、ある日監視員のD氏が消えてしまうという事件が――。

こうして、市長の依頼でX氏は調査を開始。
みずから監視員となり、T氏のもとへおもむく。

ひょっとして、監視員D氏は、T氏に食べられてしまったのではないか。
口頭でも手紙でも、市長はX氏にそれとなく注意をうながすのだが、X氏はどうしてもそのことに気づかない。
そこで、コントのような展開になっていく。

「大女殺人事件」
たまたま歩いていた倉庫街の路地で、X氏は死体をみつけてしまう。
長ながとのびた大女の死体。
調べてみると、首にロープで絞められた跡が。

ここでX氏は一計を案じる。
この死体を隠してしまおう。
そして、警察がみつける前にさっさと捜査をしてしまおう。
人数の多い警察のやつらに勝つには、こうするしかない。

X氏は大女の死体をうごかそうとするが、相手は重くてうごかない。
すると、大女の良人と名乗る、倉庫番のN氏があらわれる。
X氏はあわてて言い訳。

X氏の話を聞いたN氏は動揺もせず、手伝いを買ってでる。
2人はとうとう大女を倉庫にかくしてしまう。
ところが、X氏が事務所に捜査の道具をとりにいっているあいだに、警察が到着。
X氏は大いに冷や汗をかくことに。

警察よりも先に捜査するために、死体をかくそうとする探偵もなかなかいない。
さらにあろうことか、自分がしたことが露見しないよう、X氏は警察の目を別人に向けようとする。
その工作をしているさい、X氏は警察に捕まってしまうのだが、警察のR主任はX氏の行動に感動をおぼえる。

《さすが、私立探偵だけのことはある。捜査というものは、本来こうあるべきものではないだろうか。我々がこれまでやってきたものは、受身の捜査である。犯人が尻尾を出すのを、じっと腕をこまねいて待っているだけなのだ。しかるにこの男は、それでは満足しない。彼は、積極的に捜査をする。攻撃的であり、もしかしたら創造的ですらあるではないか。》

この探偵にして、この警察ありといったところ。
このあと物語は二転三転。
読者には真相が察せられるけれど、登場人物はだれひとり真相に気づかない。
登場人物が注意深く真相をさけていく様子が、面白可笑しくえがかれる。

「X氏と探偵小説」
この章はエピローグ。
X氏が書いた探偵小説なるものが紹介されている。
短いものなので全文を引用しよう。

《彼は、背広の右のポケットに手を突っこんでみた。あるべきものがないので彼はそこから手を抜いて暫く考え、今度は左のポケットに手を突っこんでみた。お財布は、そこにあった。》

この探偵小説について、X氏は夫人にこう説明する。

《簡単に言ってしまえば、被害者と加害者と探偵が全く同一人物であるという驚嘆すべき事情が、ほとんどさり気なく取り扱われているということなんだよ。》

ひとことでいえば、ひとり芝居。
本書についての、みごとな解説だ。


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プラヴィエクとそのほかの時代

「プラヴィエクとそのほかの時代」(オルガ・トカルチュク/著 小椋彩/訳 松籟社 2019)

作者はポーランドのひと。
2019年ノーベル文学賞を受賞。
本書は、断章形式で書かれた、ポーランドの架空の村の年代記。

断章形式で書かれた架空の土地という、似たスタイルをもつ作品として、丸山健二の「千日の瑠璃」(上下巻 文藝春秋 1992)を思い出した。
といっても、ちがう部分も多い。
「千日――」は、断章の分量がほぼ一定だけれど、「プラヴィエク」は長短さまざま。
「千日――」はタイトル通り千日ぶんの話だけれど、「プラヴィエク」は1914年夏から1980年代後半に渡る。

よく似たところとしては、人間以外のものが語り手に、またその章の視点になること。
「千日――」では、全ての断章は「私は――だ。」という一文からはじまる。
この〈私〉には、法律からニュートリノまで登場する。
(私は法律だ。という一文から章がはじまるのだ)

「プラヴィエク」では、神や天使やキノコについての章が登場する。
この点、両者ともおとぎ話的。
小説を少し地面から浮かすような、おとぎ話的な要素を盛りこむには、断章形式はやりやすいのかもしれない。

また、これもおとぎ話的というべきか、本書は登場人物にたいして過酷。
プラヴィエクは戦時中、前線となり、無残なことがたびたび起こる。

とはいえ、無残な印象ばかりが強いわけではない。
読み終わって残るのは、たくさんの時間が流れましたという感覚だ。
これもまた、おとぎ話的であり、断章形式の功徳といえるだろう。

全体に、本作のストーリーは菌糸がのびるように語られていく。
とてもよく書かれた解説によれば、トカルチュク作品にはキノコのモチーフが頻出するという。
作者はキノコが好きなのかも。

登場人物の各個人に、劇的な瞬間はたびたび起こる。
でも、ストーリー全体としてクライマックスといったものはない。
解説にはトカルチュク作品の女性性について書かれていたけれど、この全体の構成も女性性をあらわしているのかもしれない。

もっとも、本書で一番女性性が強く感じられるのは、鮮やかなピンクのしおりひも。
「千日――」にピンクのしおりひもがつかわれるのは、ちょっと考えられない。


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