先生、巨大コウモリが廊下を飛んでいます!

「先生、巨大コウモリが廊下を飛んでいます!」(小林朋道 築地書館 2007)

副題は「[鳥取環境大学]の森の人間動物行動学」。

本書は、鳥取環境大学に勤める先生が、身の回りの生き物をめぐって起きた事件について記したエッセー集。
読み終わり、これはひょっとすると類書がなかなかない本じゃないかと思った。

まず、観察が細かく、文章が軽快。
素晴らしく読みやすい。
これだけでも大変なことだ。

それから、とりあげられている動物の種類が豊富。
コウモリ、イモリ、ヘビ、ヤツメウナギ、ヤギ、ハト、ハサミムシ…。
昆虫から哺乳類まで、分けへだてがない。

さらに、大学の先生が書いたものらしく事件のあとには興味深い考察が述べられる。
以上、3点をかねそなえている本はそうない気がする。

例として、表題にもなっている冒頭の「巨大コウモリ事件」をみてみよう。

5月の終わりの夜7時ごろ。
校内で出会った学生が、著者にこういう。

「巨大なコウモリが一階のドアの内側で飛びまわっていて、天井の隙間に入りました」

それに対する著者の反応は、太字でこう。

巨大なコウモリが侵入したか。…………素晴らしい。

先生はどうも動物に出会うと興奮してしまう体質らしいのだ。
で、ともかく現場へ。
休日で事務室もしまっていたために、カサ立てをはこんできて積み重ねるという曲芸のようなことをして、天井の戸袋のような部分を確認。
このときはみつけられず、大捜索は中断。

でも後日、学生から報告をうけ、現場に急行し、捕獲に成功。
オヒキコウモリという、鳥取県での捕獲例ははじめての珍しい種類のコウモリだったそう。
著者はその後一日間、コウモリとたっぷりふれあいをもち、翌日大学林に放してやったいう。

さらにその翌日。
大学院の実習でつかう山の麓に下見にでかけたところ、斜面に洞窟を発見。
無性にしらべたくなり、学生と一緒になかへ。

われわれはワクワクしながらすすんでいった。

そこで、キクガシラコウモリを発見。
さて、ユング派なら“同時性の法則”というかもしれない、この連続コウモリ事件について、著者はこう考察する。
最初のコウモリ事件で、コウモリに対する感受性・反応性が引き上げられていたために、斜面の穴に敏感に反応したのではないだろうか、と。

…と、まあ、「巨大コウモリ事件」を引き合いにだしたけれど、全編がこんなふうに書かれている。
読んでいて印象深いのは、生きものに対する著者のセンス。

たとえば、著者は校内でハサミムシがダンゴムシを捕食する光景をみかけて感動する。
人工空間内でおこなわれている野生の営みに潤いをおぼえると書くのだ。

いっぽう、目前で進行中の「野生の営み」では、ダンゴムシを尻のハサミにはさんだハサミムシが3メートル先のカサ立ての下に入り出てこない。
著者は気になる。

「まだ残っている仕事もあるしこのまま立ち去ろうかと思ったが、私の中の好奇心が頭をもたげてくる。
 中は一体どうなっているのだろう。

で、好奇心に負けて、カサ立てをうごかす。
そこには食べられたダンゴムシの遺体が6匹ほど。
ちょうどハサミではさんだままダンゴムシの腹側を食べていたハサミムシは、驚いた様子で獲物を放り出して逃げていった。

こんな著者のゆくところ、動物にまつわる事件が多々起きる。
それについてはこんなふうに説明。

「同じ山道を歩いていても、私は出会い、私以外の人は出会わない、そういったことが起こるのはなぜか」

「それは、私の五感は、絶えず無意識のうちに、自然の変化の信号に反応しているからである」

とはいうものの、変化を感じ、じっとしていたら足元をテンが駆けていったとか、枯葉の音からヒミズ(モグラの一種)を捕まえたとかは、そうだれにでもできることとは思えない。
著者の「自然の信号」をキャッチする感度は優れているにちがいない。

身近な動物の話となると、どうしても保護の話がでてくる。
この本にも保護の話はでてくるのだけれど、ちっとも大げさでないところが好ましい。

たとえばイモリのいる池の話。
イモリのいる池をみつけて観察していたところ、工事がはじまるというので、市の担当者や業者のひとと現場で話あうことに。
いろんな案を検討したものの埋め立ては避けられない。
そこで、似たような環境の水場をつくり、学生や市の担当者、工事関係者らとともに、イモリを採集して移すことになったという。

とはいえ、この本のエッセーの場合、これが本論なのではない。
この採集中、ヤツメウナギを捕まえたという話のほうが眼目。
このあたり、話のバランスがとてもいい。

考察よりも、著者の感情のほうがすこし前にでているところが、この本の最大の美点だろうか。
なにより、自然について書いてうるさくならないというのは、それだけで推奨するに足るように思う。

この本を読んでいたら、子どものころハサミムシに出会った記憶がよみがえった。
釣りにいくのでミミズを捕まえようと、庭のレンガをどかしたら、そこにハサミムシがいたのだった。
うしろには、鮮やかな黄色い卵があり、その卵を守ろうとするように、ハサミムシは尻尾のハサミを振り上げていた。
やあごめんよ、とレンガをもとにもどしたことをおぼえている。



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世界短編傑作集2

「世界短編傑作集2」(江戸川乱歩編 東京創元社 1961)

創元推理文庫の一冊。
読んでいるのは、たまたま手元にある初版で、もうぼろぼろもいいところなのだけれど、造本は堅牢で壊れる気配がない。
製本は鈴木製本所。
最近の、驚くべき壊れやすさの本とくらべると、昔の仕事はたいしたものだなあと思ってしまう。

さて、収録作は9編。

「赤い絹の肩かけ」モーリス・ルブラン 井上勇訳
「奇妙な跡」バルドイン・グロルラー 阿部主計訳
「ズームドルフ事件」M・D・ポースト 宇野利泰訳
「オスカー・ブロズキー事件」R・オースチン・フリーマン 井上勇訳
「ギルバート・マレル卿の絵」V・L・ホワイトチャーチ 中村能三訳
「好打」E・C・ベントリー 井上勇訳
「ブルックベント荘の悲劇」アーネスト・ブラマ 井上勇訳
「急行列車内の謎」F・W・クロフツ 橋本福夫訳
「窓のふくろう」G・D・H&M・I・コール 井上勇訳

訳者では、井上勇さんが大活躍されている。
面白かったのは以下。

「赤い絹の肩かけ」モーリス・ルブラン 井上勇訳
朝、家をでたガニマール警部は、いかにも怪しい通行人を目撃。
あとをつけてみると、あらわれたのはリュパン。
じつは、いままでのことはガニマール警部をおびきだすための芝居。
リュパンは、さまざまな証拠品とともに、昨夜起こった殺人事件ついて語りだし、「この事件をきみに贈呈する」という。
「ぼくはこの肩かけのきれはしだけもらっておく。肩かけを復元したいときは残りを持参したまえ」とも。
ガニマール警部は、ちくしょうと思いつつも、リュパンの推理の裏づけ捜査をはじめるが…。

ルパン物の一編。
リアリティという点では、こころもとないけれど、ルパン物は他愛ない面白さに満ちている。
最後までわくわくしながら読むことができた。

「オスカー・ブロズキー事件」R・オースチン・フリーマン 井上勇訳
科学者探偵、ソーンダイク博士物の一編。
倒叙形式。

陽気で思慮分別に富んだサイラス・ヒクラーは、泥棒で生計を立てている人物。
いつもひとりで仕事をし、もうけは不動産に投資。
ある日、ひとりの男が道をたずねてくる。
サイラスはその男をひと目でブロズキーだと認める。
ブロズキーは名高いダイヤモンド商人で、原石のストックができるとそれを自分でアムステルダムまでもっていき、自分で監督してカットさせる。
いまも、原石をもっているにちがいない。
サイラスはブロズキーを鉄棒で殴って殺し、原石を奪う。


死体は線路にはこび、列車にひかせる。
大騒ぎの駅構内には、博士とよばれる背の高い男がいる。
ここでソーンダイク博士が登場。
同時に章が変わり、第2章へ。

いままでは3人称だったけれど、章がかわったここからは、ソーンダイク博士と同行した医師の談話という形式で、ソーンダイク博士の捜査が語られる。

もともと倒叙形式はそう好きではないし、科学的捜査というのも細ごましていて面倒そうだと、ソーンダイク博士物はこれまで敬遠してきたのだけれど、これは面白かった。
とにかく緊迫感がある。
サイラスがブロズキーを殺すところもそうだし、サイラスが残した証拠を、博士が地道にあつめていく作業もそう。
やっぱり、自分で読んでみなければわからないものだ。

「巧打」E・C・ベントリー 井上勇訳
トレント物の短篇。
ゴルフ場が舞台。

第2ホールのフェアウェーで倒れているところを発見されたアーサー・フリア。
死因がなにかはよくわからず。
落雷か、なにかの爆発のようなものがあったよう。
トレントは関係者に話を聞き、アーサー・フリアの人間関係と、使用された凶器を推理する。

この短篇、完成度が高いとはいえないと思う。
落雷と爆発は、それほどまちがえやすいものだろうか。
使用された凶器は、そう簡単につくれるものだろうか。
ましてや、その凶器を特定の場所で被害者がつかわなければ、ことは成就しないというのは、あまりにも危険が大きすぎるのではないか。
それに、凶器についてトレントしか気づかないというのは、いかにも無理がある。

にもかかわらず、この作品が気に入ったのは、最後の会話のため。
殺されたアーサー・フリアは、好人物とはとてもいえない人間だった。
トレントと犯人は、たがいに真相を知りつつ、犯人の犯行への苦心とその心境についてことばをかわす。
こういう腹芸的場面に弱いのだ。

解説はいつものとおり中島河太郎さん。
収録作発表当時の状況をひとことでみごとにあらわしているので、最後に引用しておこう。

「(当時の作品は)人情の機微をついたものより、科学的な犯罪工作に工夫をこらしたものが多かった。意外性が重視されればされるほど作者は難解な謎を用意し、それを合理的に説明するために、専門知識をもちこまねばならぬようになって、読者の敗北感はすっきりしなくなってきた。そのため、本格的な謎解き短篇はだんだん袋小路にはいってしまうのである」



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現代日本のユーモア文学 3

「現代日本のユーモア文学 3」(立風書房 1980)

編集は吉行淳之介・丸谷才一・開高健。
装丁、山藤章二。

収録作は以下。

「ロマネスク」「親友交歓」太宰治
「人魚」「数へうた」堀口大學
「思想と無思想の間」丸谷才一
「やぶれかぶれのオロ氏」「最高級有機質肥料」筒井康隆
「初春夢の宝船」「扮装する男」遠藤周作
「種貸さん」田辺聖子
「甲子夜話の忍者」山田風太郎
「西遊記の一節」佐藤惣之助
「たばこ娘」源氏鶏太
「尋三の春」木山捷平
「鮠の子」室生犀星

3巻は粒ぞろい。
どれもこれも面白い。
なかでも面白かったものを簡単に紹介していきたい。

「ロマネスク」太宰治
ひとを食ったような創作説話3編をたばにしたもの。
仙術太郎、喧嘩次郎兵衛、嘘の三郎という、運に見放されたような3人の半生が語られる。
太宰治の文章は調子がよくて、するする読める。

近代の文学者たちが説話の手法をとり入れなかったら、その仕事は荒地のような惨状だったのではないか。
これは説話好きの思い入れかもしれないけれど。

「最高級有機質肥料」筒井康隆
総統の娘と結婚できるということで、惑星国家ミトラヴァルナに大使としておもむいた〈私〉。
その惑星は、すべての大使がとんで帰ってきたという、いわくつきの惑星だった。
ミトラヴァルナ人は植物から進化した生物で、〈私〉は非常な歓待をうける。
が、翌日〈私〉の排泄物を頂戴したというミトラヴァルナ人から、それがどれほど美味だったかえんえんと聞かされるはめにおちいる。

スカトロジックな一編。
この描写力はさすがと思わせられるけれど、あまり思い出したくない。
ラスト、〈私〉は地球の病院に収容されている。
総統の娘が見舞いにきても、最高級有機質肥料製造機がやってきたと感じるだけ。

「初春夢の宝船」遠藤周作
ミクロの決死圏が実現化された未来。
山里凡太郎は、肺がんを削除すべく、医師らとともに潜水艇に乗りこみ、あこがれの女性の体内へおもむく。
手術は成功したものの、祝杯が効きすぎ、帰り道をまちがえて肛門のほうへ。
大変な苦労ののち脱出する。

「最高級有機肥料」のつぎに並べられているのがこの作品。
「最高級…」と同テーマではあるのだけれど、ラストがちがっている。
脱出した山里凡太郎は、あこがれの女性を相変わらず美しいと思い、幻滅したりしないのだ。
個人的には、〈私〉より山里のほうが幸せでいいなあ。

編集者たちは、このふたつの作品を並べることに喜びをおぼえたにちがいない。

「種貸さん」田辺聖子
早く子どもがほしいと思っている里枝。
最初の夫は交通事故でなくなった。
再婚相手は、これも再婚である夫の他市。
他市には別れた妻とのあいだに娘がいて、ときどき訪ねてくる。
里枝は娘をかわいがりたいのだけれど、娘は里枝になつかない。
夫と娘、それに姑は、いつも3人固まって、陰気で頼りないくせに気むずかしい。
3人が温泉にでかけたさい、里枝は住吉大社の種貸さんを訪れる…。

愚痴っぽい小説だけれど、そう感じさせない。
とにかくうまい。
小説と聞いてイメージする最大公約数的なものがここにある気がする。

「甲子夜話の忍者」山田風太郎
忍術書をめぐるエッセー風の出だし。
忍術書の集大成、「万川集海」は、寛政年間、衰亡に瀕していた甲賀流の末裔が、忍術と生活双方の保護を幕府に訴えるために作成したものだと作者。
書いたものは当人も信じていなかったにちがいない。
原稿料のために忍術小説を書いた身として、作者は大いに同情する。

と、ここまでが前置き。
話は、松浦静山の「甲子夜話」にでてくる忍者の話へ。
作者は、忍者の子孫が静山のまえで術を披露する話を小説仕立てで紹介する。

と、思ったら、「どういうわけかこの話は、いま流布されている「甲子夜話」には載っていない」と、最後の一行でひっくり返す。

エッセーから小説へ、どこでどう変わったのかわからず狐につままれたような気分になる。
まさに忍術を目の当たりにしたような一篇。

「たばこ娘」源氏鶏太
戦後まもないころが舞台。
〈私〉はタバコ中毒で、いつもツユという娘からタバコを買っている。
ツユから買うのは、それがただ単に安いから。
ところが、ツユのほうは〈私〉にべつの気持ちをもっている。
〈私〉がタバコを10個ほしいというと、ツユは断る。
「十個もいっぺんに買うたら、兄さん、無茶のみするにきまっとる。それよりなア、うちやっぱり、兄さんから毎日買うてほしい」
その後ふたりは阪急で会う約束をするのだが…。

ラストは安直。
でも、主人公のタバコにかける情熱と懊悩、その過剰さがとても面白く記憶に残る。

「尋三の春」木山捷平
作者が小学3年生のとき、若い男の先生が赴任してきた、その回想記。
この面白さは要約ではつたわらない。
なんでもないことが、みずみずしくえがかれている。
結論めいたことはなにも書かないのに忘れがたい。
こういうのを名作というのだろう。

「数へうた」堀口大學
これも面白かったので、最後に引用しよう。
「最後の一聯は佐藤春夫君が追加してくれた、おかげで大そう立派になった」
と註がついている。

「うそを数えて
 ほんまどす

 めくらを数えて
 あんまどす

 ととを数えて
 さんまどす

 とんぼを数えて
 やんまどす

 まぬけを数えて
 とんまどす

 くとうを数えて
 コンマどす

 したを数えて
 エンマどす」

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作家の生き方

「作家の生き方」(池内紀 集英社 2007)

集英社文庫の一冊。
もとは「生きかた名人 たのしい読書術」のタイトルで、綜合社より発行、集英社より発売された本とのこと。

内容は、あるキーワードをもとに作家の人生を点描したもの。
キーワードと、とりあげられた作家を目次から写してみよう。

借金 内田百鬼園
飲み助 吉田健一
心中 太宰治
病気 堀辰雄
妬み 芥川龍之介
退屈 坂口安吾
借用 井伏鱒二
貧乏 林芙美子
反復 小川未明
気まぐれ 洲之内徹
おかし男 長谷川四郎
雑学 植草甚一
小言 三田村鳶魚
かたり 柴田錬三郎
腹話術 堀口大学
子沢山 与謝野晶子
メランコリー 若山牧水
偏屈 正岡容
ホラ 寺山修司
生きのびる 田中小実昌

みな、池内さん偏愛の作家たちだという。

作品そのものではなく、作品についての解説やら評論やらエッセイを読むことを、個人的に「周辺的読書」と呼んでいる。
あなたは周辺的読書が好きねえと、知りあいにしみじみいわれたのがその由来。

周辺的読書好きにとって、池内さんの書くものにはつねづねお世話になっている。
その主語と接続詞を拝した軽みのある文章で紹介された本は、なんでも面白そうに思えるから妙だ。

口当たりがよすぎて、つい読み飛ばしてしまうけれど、作家の来歴の紹介や、キーワードに則した語り口、作風の核をそっと披露するところなど、その手際には舌を巻く。
紹介している作家を分析するのではなく、味方についているところも好ましい。

そのとりあげかたの例をいくつかあげてみよう。

まず、堀辰雄。
堀辰雄は雄々しい作家だったと池内さんはいう。
病いとツバ競りあいをしながら、作品をものした。
ペン一本で、軽井沢の面目を一新した。

その作風は、読書で得た知識をみごとに秩序づけものだそう。
「読書の成果を置き換えて、まったくべつの文学世界をつくり出した」
その仕事は日本が軍国化していくなかでなされた。
「どうしてこれが弱い人などであるだろう」

ここで池内さんが、当時威勢のよかった軍人やプロレタリア文学者などを引きあいにだして、さんざんやっつけているのが面白い。
きっと池内さんは、威勢のいいものが嫌いなのだろう。

つぎに、井伏鱒二。
井伏鱒二を語るのに、「借用」というキーワードをもってきたところがまず面白い。

井伏鱒二は、資料をもとに作品をつくるということが好きだったらしい。
資料がないときは、架空の資料をでっち上げる。
この手法で書かれた「漂民宇三郎」について、池内さんはこういう。
「架空の史料が加えられてはじめて現存の史料が威力を発揮した」

現代小説であっても、その手法は変わらない。
「多甚古村」では、村の巡査の日記をわざわざ創作して、それを語り手が編みなおしたというスタイルにしたそう。

こうなると、話は「黒い雨」におよばないわけにはいかない。
「黒い雨」には窃盗の疑惑がある。
作品のおおよそ半分が、重松静馬の「被爆日記」ほかの引用でできている。
しかし、著者はここで果然、作者の側に立つ。

「資料をそのまま使えば、それが盗みになるのか? 一字一句変えなかったからこそ創作の名に値する場合があるのではないか」

粉飾また文飾をほどこすことなど容易にできたが、作者はそれをしなかったのだとしてこう続ける。

「ことのほか重いテーマであれば、何よりも素材を生かすべきであり、借用へのひとしおの敬意がなくてはならない。つまるところ、人が窃盗とするところこそ、とびきり高度な創作であって、「創作部分」とされたところは、現存する資料を生かすための架空の資料にあたる」

「『黒い雨』は、むろん、井伏鱒二のとびきり優れた創作である。借用し、そしてこの上ない利子をつけて返却した」

こう引用しているときりがない。
あと、ひとつ、坂口安吾だけ。

安吾は「日本文化私観」で、必要に応じたものこそ美しい、必要なら法隆寺をこわして停車場をつくればいいといい放って、後世のひとにくり返し引用されてきた。
しかし、「私観」は四部構成で、くり返し引用されるのは「一」のみ。
「二」以下はだれもとり上げないと、著者。

「二」以下で書かれているのは、京都だったり取手だったりですごした、空々漠々
たる毎日。
つまり「私観」は退屈(アンニュイ)の土から咲いた人工の華だという。

「どこまでも誠実な彼は、エッセイの「二」以下で、きちんとそのことを明示していた。人がわざとのように見すごしただけである」

ここのところを読んだとき、「私観」を読み返してみたくなり、本をひっぱりだしてみた。
ひさしぶりにとりだした本には、茶色いしみが点々としていた。
読んでみたらたしかに著者のいうとおり。
ただ、自分の記憶力を棚にあげていうのだけれど、激烈なことばの並ぶ「一」とか「四」の終わり以外は、記憶に残らなくても仕方がないと思う。
退屈は忘れやすいのだろう。

まあ、それはそれとして。
ひさしぶりに安吾のエッセイを再読したら楽しかった。
この本には再読のきっかけとなる力があり、それも魅力のひとつだ。


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象を洗う

「象を洗う」(佐藤正午 光文社 2008)

光文社文庫の一冊。
2001年に岩波書店から出版されたエッセー集を文庫化したもの。
エッセーのあいだに、「葉書」「ドラマチック」「そこの角で別れましょう」という掌編が3つ入っている。

以前、著者が岩波のPR誌「図書」に連載していた読書エッセーを毎月楽しみに読んでいたことがあった。
連載中のタイトルは「書く読書」だったと思う。
小説のひとことにこだわり、そこをいきつもどりつする筆致がすこぶる楽しい。
連載は、「小説の読み書き」(岩波新書 2006)として一冊にまとまり、これもまた楽しく読んだ。

そんな記憶があったので、最近文庫化されたこのエッセー集も手にとってみた。
これまた楽しい。
著者はさまざまな可能性を列挙することに長けている。
その例をあとがきからとろう。

今回の文庫版で装丁を担当した高林昭太さんは、カバーそのほかでつかわれた佐世保の写真を自分で撮ってきたそう。
そのさい、佐世保に住んでいる著者にはなんの連絡もくれず、仕事を終えて帰京したという。
そのことについて、著者はあとがきでこう述べる。

「何の連絡もなかったのが無視されたようで傷ついた、というのではなくて、そういう仕事のやり方、人付き合いよりも仕事の中身を優先する姿勢が僕には好ましく思われるので、余計な裏話かもしれないがあえて書いておく」

「というのでは」ないのなら、はじめっから書かなければいいのに。
起こらなかったことを書くことで、読者になにごとかを察せさせるというユーモア。

「脚本」というエッセーもそう。
著者は以前、小説を書きたくなることはあっても、脚本を書きたくなることはない、というようなことをエッセーに書いたという。
でも、著者にいわせると、エッセーというのは謙虚さ旨とするものであって、たとえ他人が書いたものであっても、割り引いて読まなくてはならない。

「最近、めっきり本を読まなくなった、とでも書いてあればその筆者はいまでも一日一冊程度は読んでいるのである。年とともに体力はなくなった、と書いてあれば、それはマラソンを完走するのは無理だが20キロならまだ軽く走れるというくらいの意味である」

「だから、エッセイとはもともとそんなふうに謙虚な性質なものだから、脚本なんかに興味がないと書いてあれば、これは自動的に、そちらから依頼があればいつでも書きますよ、というくらいの意味になる」

こんな著者のもとに、ついにはじめての脚本の仕事がやってくる。
「やっと僕の謙虚さが日の目を見るときが来た」

ユーモラスな感じは、対象や自分との距離のとりかたからも生じている。
デビュー直後のインタビューについて、それから20年近くたった著者はこんなふうに書く。

「地方に住むずぶの素人が、独力で、長い小説を書き上げて、出版社に認められた。その直後のインタビューだから、多少、有頂天になって我を見失うのも無理はない。多めに見てやってほしい。と自分でかばってやりたくなるような生意気な発言である」

それから3年後、まだ新人賞を自慢している記事をみつけて、こう。

「新人賞を受賞し小説家として認められたことがよほど嬉しかったのに違いない」

この後、むかしの自分を自慢したいとは思わないが、否定しようとも思わない、なぜならもう忘れかけているからだ、と文章は続く。

ところで。
著者の書くエッセーには女友達がやたらとでてくる。
その真似ではないけれど、上記の脚本の話を、こういうところが面白いんだと知りあいの女性にみせてみたら、

「まわりくどい」

と、ひとこと、まわりくどくない表現でいわれた。

自分が気に入ったものを、ひとに気に入ってもらえないのはさみしいものだけれど、でもこの場合、こういわれるのが、この著者のエッセー的といえなくもないか。


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最近読んだ本いろいろ

本はたくさん読んでいるのだけれど、メモをとる時間がない。
本にも、メモをとりやすいものととりにくいものがあり、これらの本はメモをとりにくいものばかり。
また、メモをとるまでもないという本もある。

今回はそれらの本を並べてみました。

「蒸気駆動の少年」(ジョン・スラデック 河出書房新社 2008)
柳下毅一郎編。奇想コレクションの一冊。
これはメモをとりにくい本の筆頭。
スラデックはミステリ「見えないグリーン」(早川書房 1985)を面白く読んだおぼえがある。
ところが、この本はあまりにへんてこな小説が並んでいて、残念ながらついていけなかった。
自分の限界を思い知った次第。

作者は、あっというまにジャンルの臨界にまで達してしまうような思考のもち主だったらしく、すぐジャンルの約束事を茶化した作品を書いてしまう。
そこのところを面白いと思えるかどうかが勝負の分かれ目のよう。

収録作のなかでは、「教育用書籍の渡りに関する報告書」がいちばん気に入った。
ひとに読まれない本は寂しさのあまり空をとんで旅立ってしまうのだという掌編。
そのイメージには心を揺さぶられるものがある。
「お昼ごろ、かなり大きな群れがこの街の上空を通過するんですって」
なんていわれたら、なにはさておき見にいってしまうにちがいない。

「ノウサギの選択」(デニス・ハムリー 宮下嶺夫訳 評論社 1994)
これは児童書。
非常に凝った構成をしている。
まず、ノウサギが車にひかれるまでの話があり、その死体を子どもたちがみつける話があり、子どもたちがノウサギのためにつくった物語があり、ノウサギが選択をする話がある。

ストーリーは時系列でならんでいるから、わからなくなることはないけれど、児童書の限界に挑戦しているような、メタフィクショナルな構成。

しかも、ラストはオープン・エンディング。
ちょっとやりすぎなような気がしないでもない。
メタフィクションという手法は、物語とはどういうものかという問いかけのために用いるものだと思うけれど、それとラストの効果が相殺されてしまうような気がする。

子どもたちがつくった物語はとても面白い。
それが終わってもまだストーリーが続くことには驚かされた。

「 BA-BAHその他 」(橋本治 筑摩書房 2006)
短編集。
コラムの文体で人生の断片を切りとったような短篇が収録されている。
扱っている人物は老若男女と幅がひろい。
橋本さんは、世代や性別ごとの、幻滅のコレクションをしているようだ。

収録作で面白かったのは、なんといっても「組長のはまったガンダム」
息子のつきあいで観はじめた「ガンダム」に、やくざの組長がはまってしまうという話。
組長が、ガンダムの主人公アムロのことを「アムロさん」などと呼ぶのがやけにおかしい。
また、やくざ視点でみたガンダムのストーリーの要約もすこぶる興味深い。

この話は前後編で、後編のタイトルは「さらば、赤い彗星のシャア」
哀感漂う名品だ。
ガンダムの小説アンソロジーなどがあったら、ぜひ入れてほしい。

「もしもソクラテスに口説かれたら」(土屋賢二 岩波書店 2007)
「哲学塾」というシリーズの一冊。
ソクラテスの口説き文句を通して、こういうふうに口説かれたらあなたはどうするか、違和感を感じるとしたらそれはどんなところかなどを、土屋先生が学生と語りあっていく。
座談会形式なので読みやすい。
ソクラテスはひとのいうことに反駁を加えることばかりしたから、モテなかったろうなあと思った。

「ゾロアスター教」(青木健 講談社 2008)
講談社選書メチエの一冊。
ゾロアスター教の概説書。
とにかく、知らないことばかり。
いまも信者がいることすら知らなかった。
その発祥からイスラームに改宗していく過程ばかりでなく、ヨーロッパからみたゾロアスター幻想について1章もうけているのが嬉しい。

ゾロアスターと聞くと、すぐニーチェが思い浮かぶけれど、なぜニーチェがゾロアスターをもちだしたのかについては、「反哲学入門」(木田元 新潮社 2007)に面白いことが書いてあった。
ゾロアスター教は近親相姦を肯定した(それには教義と社会体制の組みあわせがあったそう)。
で、ニーチェも妹さんが好きで、それでゾロアスターをもちだしたのだ、というのが木田さんの説。
「反哲学入門」も、話しことばで書かれているので読みやすく、面白かった。


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リサイクルブックにいった話(承前)

続きです。

会場はたいへんなひとごみ。
バーゲンなみか。
いや、それ以上かも。

会議室のような部屋に、長机がおかれ、その上に本を入れたダンボールがずらりとならんでいる。
お客はだれもかれも非常な集中力を発揮して本に見入っていて、ほかのことなど眼中にない。

ベビーカーでなかに入りこんでしまったお母さんが、
「通してくださーい」
と、叫んでいるけれど、だれも聞く耳なんかもたない。

「この子の親御さんはいらっしゃいますかー」
と、声を張り上げているのは、職員のかた。
阿鼻叫喚の光景だ。

ぼけっとしていないで、阿鼻叫喚にとびこむ。
図書館のリサイクルブックでありがたいと思ったのは、並んでいる本が一度図書館のフィルターを通っていること。
だから、見るにたえないような本はそうない。
それから、分類ごとに分けられているのもありがたい。

見回っていたら、横田順彌さんの「日本SFこてん古典」(早川書房 1981)をみつけた。
全3冊ぞろいなんて、はじめて見た。
きっと、借りられなかったんだろう。

かなり心がうごいたけれど、この3冊はとてもかさばる。
いいひとにもらわれるんだよと、しばしの思案ののち別れる。

これでスイッチが入り、俄然、熱をこめて本を精査。
みつけたのは、たとえばこんな本。

「幻獣の書」(タニス・リー 角川書店 1992)
「きみの血を」(シオドア・スタージョン 早川書房 1971)
「ある魔術師の物語」(ヒラリイ・ワトスン編 早川文庫 1980)
「生きている小説」(長谷川伸 中公文庫 1990)
……

机の下にも本を入れたダンボールがおかれ、そこから職員のかたが机のうえにどんどん補充していく。

日本世界を問わず、名作全集が山積み。
これはたぶん、ご家庭でいらなくなったものだろう。
捨てるにしのびなく図書館でひきとってもらったけれど、さすがに図書館にその手の本はあるにきまっているから、こうしてリサイクルにだされたものにちがいない。
文学全集は、いまやご家庭のお荷物だ。

端本だったけれど、日本思想大系まであったのにはびっくりした。

リサイクル本は、図書館のバーコードのところにリサイクルと書かれたシールが貼ってある。
もう図書館の本ではありませんよという印。
ところが、本のなかに別の市のリサイクルシールが貼られた本がまぎれこんでいた。
いったいどこからきたものやら。

ひとまわりして余裕がでてくると、ほかのお客の行動も目に入るようになってくる。
薄っぺらい美術全集をごっそりかかえて、壁ぎわで選別している女性がいる。
バーゲンで習いおぼえた技だろうか。

いかにも転売目的というひとも目につく。
本を部屋のそとにもちだしては、もどってくる。
「勝海舟全集」によりかかり、携帯電話でしゃべっているひともあやしい。

とにかく本をつかみ、天の部分が焼けてないか確認するひともいる。
このひとは、ひどい臭いを発していた。
それにも負けず、このひととダンボールのとりあいを演じるひとも。
果敢だ。

児童書の会場は別室。
いってみたら、なにも残っていなかった。

会場には正味30分もいただろうか。
よろよろになり退散。
こんなにはげしい世界だとは思いもよらなかった。
つぎくるときは覚悟してこよう。

帰り道、「日本SFこてん古典」のことが何度も脳裏をよぎる。
重くとも手に入れるべきだったか。
またしても、後悔の種を増やしてしまったか。

後日。
「幻獣の書」を読了。
官能的なファンタジーで、とても面白かった。
ただ、最後のページがとれてなくなっていた。
ただでもらってきたものだから、文句もつけられない。
おかげで、いまだに最後のページを読めないでいる。

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