火のくつと風のサンダル

「火のくつと風のサンダル」(ウルズラ・ウェルフェル/作 関楠生/訳 童話館出版 1997)

絵は、久米宏一。

本書はドイツの児童文学。
3、4年生くらい向きだろうか。

主人公のチムはもうすぐ7歳。
クラスで一番のでぶで、一番のちび。
そのことで、友だちからいつもからかわれる。

お父さんの仕事は、靴の修繕。
お話をつくったり、話したりするのも上手。
暮らしはあまり豊かではない。
でも、お母さんはそんなことはへっちゃら。

さて、7歳の誕生日、チムはプレゼントに新しい靴と、遠足用のリュックサックをもらう。
靴はお父さんが、リュックサックはお母さんがつくってくれたもの。
でも、もっといいものがもらえると思っていたチムはしょげてしまう。
ところが、お父さんが夏休みの大計画の話をすると、すっかり気をとり直す。

お父さんの大計画というのは、チムと2人で靴直しのたびにでかけるというもの。
4週間は家に帰らない。
高い山に登り、静かな農家や小さな村へいこう。

「おとうさんは、くつをなおして、そのお礼に、泊めてもらい、食事をさせてもらう。もちろん、お金ももらえる。そうしたら、お金は、おかあさんのところに送ろう。どうだい、おとうさんといっしょに、いく気があるかい?」

もちろん、チムは大賛成。
チムは「火のくつ」、お父さんは「風のサンダル」と名前をつけて、たがいにその名を呼びあいながら、夏のあいだ2人は旅をすることに。

旅のなかで、チムはさまざまな経験をする。
ウシに引きずられたり、川に落ちたり、村の子たちにやっぱりでぶだといわれたり。
そして、なにかあるたびに、お父さんはうまくお話をこしらえてチムに話す。

お父さんのお話は、忠告やお説教の代わり。
だから、少々うるさいところがある。
でも、実際の忠告やお説教よりはずっとまし。
起こったできごとをすぐお話に仕立て上げる、お父さんの手並みには感心するばかり。

この本に登場するひとたちは、みんなよく笑う。
チムもお父さんもお母さんも、よく大笑いする。
みな、気持ちがさっぱりしていて、長く思い悩むことがない。
旅の途中、チムはホームシックになったり、雨のなかを歩いて不機嫌になったりするけれど、お父さんのお話のおかげもあって、すぐに機嫌をとり直す。

旅から帰っても、チムはやせるわけではない。
相変わらずでぶのままなのだけれど、チムはもう旅の前のように、そのことを気に病んだりしない。
まあ、多少しゃくではあるけれど――。

陽気で、笑いがあり、登場人物たちは強い信頼で結ばれ、たがいにたがいを思いやる。
なんとも気持ちのいい一冊だった。

作者のウルズラ・ウェルフェルには、「灰色の畑と緑の畑」(岩波書店 2004)という、厳しい状況に置かれた子どもたちを扱った傑作短編集がある。
その児童書の枠を超えたハードボイルドぶりには驚かされるのだけれど、登場人物たちにそそがれる作者の目はあたたかい。
それは「火のくつと風のサンダル」に感じられるまなざしと同様。
そのことがわかったのが収穫だった。

それから。
「火のくつと風のサンダル」は、1978年に学研から出版されている。
今回読んだ童話館出版は、その再版だ。
少し前に読んだ「ぼくのすてきな冒険旅行」も学研からでた本だった。
当時の学研の、「少年少女学研文庫」のラインナップはじつに充実している。
きっと、目が高いひとがいたのだろう。


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ぼくのすてきな冒険旅行

「ぼくのすてきな冒険旅行」(シド・フライシュマン/著 久保田輝男/訳 学習研究社 1970)
さし絵は、長尾みのる。

シド・フライシュマンは、アメリカの名高い児童文学作家。
「ゆうれいは魔術師」が、とても面白かったという印象が残っている。

訳者あとがきによれば、本書は作者の2作目であるらしい。
原書の刊行は1965年。
本書の刊行は1970年だから、なかなか早く翻訳されている。

この本、2006年に、「ゴールドラッシュ」のタイトルで、新訳が刊行されている。
新訳が刊行されたということは、それだけ面白いということだ。

でも、読んだのは旧訳のほう。
もちろん、訳は古めかしい。
「――にちがいない」と、いまなら書くところを、「――にそういない」なんて書いてある。

これが、最初から日本語で書かれていたら、どうにもならなかっただろう。
でも、外国語だったから、新訳が刊行され、新鮮な日本語で読むことができるようになった。

さし絵もまた古めかしい。
いまとなっては、それが味わい深い。

ストーリーは、1849年1月27日、帆船レディ・ウルマ号が183人の乗客を乗せ、ボストン港を出発するところから。
レディ・ウルマ号は、ケープ・ホーンをまわり、サンフランシスコをめざす。
じつはこの船には、密航者が2人乗っていた。
ひとりは、12歳の少年ジャック。
もうひとりは、ジャックの忠実な召使い、プレイズワージ。

2人は好んで密航者になったわけではない。
船に乗る切符を買うために列にならんできたとき、スリにあってしまったのだ。

なぜ、2人はサンフランシスコをめざすのか。
これにはもちろん訳がある。

ジャックの両親はコレラにかかって亡くなり、ジャックと2人の姉妹は、アラベラおばさんの大きなお屋敷に身をよせていた。
ところが、遺産は徐々になくなり、もう1年もすれば一文なしになってしまうことが明らかとなった。
そこで、ジャックとプレイズワージは、お屋敷が売り払われる前に金を稼ごうと、ちょうど1年前からゴールドラッシュで沸き立っているカリフォルニアゆきの船に乗りこんだのだった――。

本書の半分は、カリフォルニアに到着するまでの船旅の話。
もう半分は、カリフォルニアに到着し、金鉱掘りに励む話。
物語の進行と、空間の移動が一致している。
ロードムービー的な構成だ。

作者のシド・フライシュマンは、ストーリーを巧みにあやつる素晴らしい腕前の持ち主。
ストーリーも文章もきびきびとしていて駆動力がある。
つたえなければならない必要事項をさっと述べ、すぐ読者を物語の世界へと招き入れる。

本書は伏線が回収されるのが早い。
これは児童文学の特徴だろう。
その章で張られた伏線は、その章のうちに回収される。
おかげで、読者を退屈させるということがない。
もちろん、2人がぶじに金を手に入れることができるのか――といった、大きな伏線は、最後まで読まないとわからない。

小さな伏線で読者を引きつけてはなさず、大きな伏線を最後に回収してみせる。
その手並みはじつに見事。

それから、特筆すべきはプレイズワージのキャラクター。
機知に富み、困難にめげることのない不屈の精神をもちながら、物腰はあくまで柔らか。
つねに主人のかたわらにあり、主人を支え続ける。
その姿はジーヴズだって見劣りするほどだ。

このプレイズワージが、物語が進むにつれて変化していく。
代々執事の家系であるその職業意識はいささかのおとろえもみせないけれど、それに加えて新たな面がみいだされる。
登場時、山高帽にコウモリ傘といったいでたちだったプレイズワージは、抵抗しながらも、後半すっかり金鉱掘りの姿になってしまう。
後半は、プレイズワージが主人公だといっていいだろう。

そして、ラスト。
思いがけないことが次つぎと起こりながら、物語は大団円になだれこむ。
――まったく、なんて上手いのだろう
と、感嘆せずにはいられない。

最後に。
旧訳と新訳の冒頭を、それぞれ引用しておこう。

「ゴールドラッシュ」(金原瑞人・市川由季子/訳 ポプラ社 2006)
《両側に大きな水車のような外輪をつけた帆船が、ボストンの港をでた。水しぶきをあげ、ホーン岬まわりでサンフランシスコをめざしているところだ。甲板の下はぎしぎし音をたてるまっくらな船倉だ。そこにジャガイモのたるが十八個ならんでいた。そのうちのふたつのたるのなかにとなりあわせで密航者がひとりずつかくれていた。》

「ぼくのすてきな冒険旅行」
《両側に大きな車輪をつけた帆船が、波をけちらしながらボストン港を出帆した。ケープ・ホーン(南アメリカの最南端にある岬)まわり、サンフランシスコゆきの船である。
 ところで、その船の甲板のはるか下、キシキシきしむ船倉のくらがりのなかに、十八個のジャガイモのたるがおいてある。そして、そのうちの二つのたるのなかに、肩をならべて、密航者がふたりしゃがんでいた。》


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