リリー・モラハンのうそ

「リリー・モラハンのうそ」(パトリシア・ライリー・ギフ/作 もりうちすみこ/訳 吉川聡子/画 さ・え・ら書房 2008)

原題は、“Lily‘s Crossing”
ニューベリー賞オナー賞受賞。

3人称リリー視点。
ほとんどリリーの1人称といえる。
舞台は、1944年夏。
数週間前に、連合軍がフランスに上陸した頃。

リリーは5年生。
お母さんは小さい頃に亡くなり、お父さんと祖母と3人暮らし。
ことしの夏も、別荘のあるニューヨーク郊外の避暑地ロッカウェイで過ごす予定。

リリーはピアノが嫌いだけれど、お父さんは習わせたい。
そのため、ことしは別荘にまでピアノをもっていくはめに。

ロッカウェイには、友だちのマーガレット・ディロンがいる。
2人ともニューヨーク州のクイーンズ区に住んでいるけれど、会うのは夏のロッカウェイだけ。
ことしも2人は再会するが、すぐマーガレットはデトロイトに引っ越してしまう。
お父さんがB24をつくる工場につとめるため。
リリーはマーガレットから、ディロン家の裏口の鍵をもらう。

マーガレットはいなくなってしまったけれど、近所のオーバン家にアルバートという少年がやってくる。
やせっぽちで、もじゃもじゃ頭、真っ青な目をした少年。

リリーの大好きなお父さんも、軍の仕事ででかけることに。
どこにでかけるのかは教えられない。
手紙をだしても検閲される。
《「おれは、ぜったい、なんとかして、おまえに居場所を知らせるよ」》
と、お父さん。

リリーは、お父さんが自分よりも先に祖母に、でかけることを話したことに立腹。
お父さんの出発にも立ち会わなかった。
リリーはそのことをとても後悔する。

ところで、リリーは想像力がたくましい。
すぐに嘘をついてしまう。
そのことに、自分でも困っている。

リリーは、アルバートのことをスパイだと確信する。
ことばにはなまりがあるし、真夜中にオーバン家にやってきたし、すぐに姿をくらます。
でも、オーバンさんの夕食に招待されたときに、アルバートの素性が判明。

アルバートは、2年前にハンガリーのブダペストから逃げてきた少年だった。
両親はナチスを批判したために逮捕されてしまった。
アルバートと妹のルースは、オーストリア、スイスを抜けてフランスへ。
ところが、ルースは旅の途中ではしかにかかってしまった。
そのため、船に乗ることができなかった。
アルバートがひとり船に乗り、カナダに住むオーバンさんのお兄さんの家に身をよせることになった。

ちなみに、アルバートのお父さんは、オーバンさんの弟。
そしてアルバートは、夏のあいだオーバンさんのところに遊びにきたのだった。

リリーとアルバートは、捨てネコを拾い、マーガレットの家でこっそり飼いはじめたことから、仲良くなっていく。
ルースはまだフランスの修道院にいるはずだと、アルバート。

《「ナジママ(お祖母さん)はぼくたちにいった。はなれちゃだめだ。どんなことがあっても。いっしょにいるかぎり、ひとりぼっちにならずにすむって」》

そんなアルバートに、リリーは嘘をついてしまう。
夜、ボートをこいで沖にでる。
軍艦に近づいたら、あとは泳ぐ。
その軍艦に乗って、お父さんのところまでいく。

リリーのことばを、アルバートは本気にしてしまう。
ぼくも連れていってくれる?
ぼく、泳ぎを練習する。
そして、ヨーロッパに帰ってルースをさがす――。

戦時中が舞台のため、戦争の色が濃い。
オーバンさんのA型フォードのヘッドライトは、爆撃機に狙われないようにと上半分を黒く塗ってある。
黒く塗るのは、リリーも手伝った。
夜は灯火管制が敷かれ、サーチライトが夜空を照らしている。

マーガレットのお兄さんのエディーは兵隊となり、戦場で行方不明に。
リリーと祖母は、教会にお祈りにいく。

ストーリーはこびは、少々ぎくしゃくとしている。
ひとつのエピソードの途中で、別のエピソードが割りこんでくる感じ。
でも、最後には、ストーリーは落ち着くべきところに落ち着く。

リリーは、あんまり素行がよろしくない。
すぐ嘘をつくし、ピアノの練習はさぼるし、映画はただ見するし、鍵をもらったとはいえ、ひとの家にあがりこむ。
そんなリリーも、アルバートとの交流をきっかけに変わっていく。

リリーは、泳げないアルバートに泳ぎを教える。
まず浮けるようにならなくちゃとリリーがいうと、「浮く練習なんかするひま、ぼくにはない」と、アルバートは口答えする。
それを聞いて、自分がピアノの練習に文句をいうのとまるで同じだとリリーは思う。

また、マーガレットとの手紙のやりとりから、お父さんがいなくなって祖母もさみしがっていたことをリリーは知る。
口うるさい祖母がさみしがっていたなんてと、リリーは驚く。
そんなことは、一度も考えたことはなかった。
こうして、周囲とのかかわりのなかで、リリーはひとの気持ちに気づくようになっていく。

巻末には、作者による「読者のみなさんへ」という文章が載せられている。
《わたしは、1944年の夏をおぼえています。》
と、作者。

《こわがっているのは自分だけとおもっていたのに、ほかの子どもたち、ときにはおとなさえ、おなじような思いをいだき心配していると知ったときには、おどろきました。》

吉川聡子さんのさし絵が、物語を理解する手助けをしてくれる。
また、桂川潤さんによる装丁は、ピンクのしおりひもが鮮やかだ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

さらば、シェヘラザード

「さらば、シェヘラザード」(ドナルド・E・ウェストレイク/著 矢口誠/訳 国書刊行会 2018)
原題は、”Adios,Scheherazade”
原書の刊行は1970年。

作者のウェストレイクは、2008年に亡くなったミステリ作家。
ひと口にミステリといっても、いろんなミステリがある。
そのいろんなミステリ、――ハードボイルドからユーモアものまで――を、ウェストレイクはたくさん書いた。
なかでも、不運な泥棒ドートマンダーを主人公とする、ドートマンダー・シリーズが有名。
ウェストレイク亡きあと、こんな風に、コミカルでユーモラスで、かつ都会的といった作品を書くことができるミステリ作家はいるのだろうか。

その2008年に亡くなったウェストレイクの作品が、去年の2018年に刊行された。
それが本書。
なんでまたいまになって。
でも、ファンとしてはありがたい。

本書はミステリではなく、なんというかまあ、ジャンル分け不能のケッタイな小説。
訳者あとがきによれば、マニアのあいだでささやかれていた幻の作品だったとのこと。
内容は、ポルノ小説のゴーストライターが、ポルノが書けなくて困り、なおかつどんどん困っていくという、哀れで滑稽な物語だ。

主人公は〈ぼく〉、エド・トップリス。
エドは、追いつめられている。
あと10日のうちにポルノ小説を一冊仕上げなければいけない。
なぜ、こんな状況におちいったのか。

1964年、大学を卒業したばかりのエドは、すでに結婚していて、実家で母親と同居していた。
キャピタルシティ・ビール卸売販売という会社ではたらいていて、そのとき妻のベッツィーは妊娠7ヶ月だった。
そんなエドのもとに、大学のルームメイトで、いまは作家のロッドがもうけ話をもちこんでくる。
それがポルノ小説のゴーストライター。

ロッドは以前ポルノ小説を書いていたが、いまはまともな小説を書いている。
ポルノ小説のほうは、ゴーストライターに書かせている。
ロッドのゴーストライターになれば、その原稿料は1200ドル。
200ドルは、名義料としてロッドへ、あとの1000ドルはゴーストライターへ。
ただし、10日で一冊書かなければいけない。
一冊の長さは5万語。
1章25ページで、全10章。

エドがキャピタルシティ・ビール卸売販売で得る収入は、年に3750ドルだ。
エドは、ロッドからポルノ小説の公式を教わる。
(若者が小さな町をでて広い世界へ……。あるいは、若い女性が小さな町をでて広い世界へ……)

こうして、エドはロッドのゴーストライターに。
最初は調子が良かった。
1日平均4時間書き、トータル40時間で一冊を書き上げた。
この生活を1年半ほど続ければ、お金も貯まり大学院に進学できるだろう。
そうエドは思ったが、実際はちがった。
1年半後、お金はぜんぜんたまっていなかった。
代わりに、借りた家に、家具やら車やらが増えていった。

さらにロッドの忠告。
「こんなクソを永遠につづけられるやつはいない」
このことばどおり、じわじわとポルノ小説が書けなくなっていった。

最初に締め切りを破ったのは、1967年6月。
24番目の作品、「熱く乱れて」のとき。
原稿は、ロッドのエージェントである、ランス・パングルに渡すことになっている。
とはいえ、ランスのオフィスにいるのは、いつもサミュエルという若者なので、サミュエルに渡す。

次の作品も遅れ、その次の作品も同様。
しかも、遅れる日数が増えていくように。
そして、ついにランスから電話が。
もう一度遅れたらバイバイだからな。
それが、11月10日のこと。

というわけで、エドは必死になってポルノ小説を書かなければならない状況にある。
が、なにも思いつかない。
でも、とにかくなにか書かなければ。
なぜ、こんな状況におちいったのかについて。
ガールズグループのメンバーだった、元歌手の母親や、双子の妹ハンナとヘスターについて。
ベッツィーとの出会いから、破綻しかかっている現在の結婚生活について。
エドは、1章25ページ分のくりごとを書き続ける――。

そのエドのくりごとが、この小説という趣向。
この趣向をあらわすため、本書では、1章も2章も3章も、すべて1という番号が振られている。
これからポルノ小説の1章目を書こうとする、エドの切ないあがきだ。

また、本書のページ上に振られているノンブルは、いつも1章分の25ページでストップする。
次のページからは、また1章目の1ページ目からスタート。
こうして、再び25ページ分のくりごとが続く。
(ちなみに、作品全体のノンブルはちゃんとページ下に振られている)

ときには、うまくポルノ風に話が進むときもある。
なんとか2章目に進むこともあるのだけれど、すぐにもとのくりごとにもどってしまう。

エドもただ手をこまねいていたわけではない。
ポルノ小説のゴーストライターという境遇から脱出しようとこころみたこともあった。
ミステリの短篇を書いてみたし、ノンフィクション記事にも挑戦した。
せめてゴーストではないポルノ小説家になろうと、サミュエルにもちかけたこともある。
しかし、サミュエルの返事はすげない。

《「あんたが一カ月にもう一冊書いてもうちには枠はない。枠をつくるにはほかの誰かを首にしなきゃならないわけだが、率直にいって、あんたに毎月二冊書いてもらうために誰かを首にしたくなるほど、あんたは優れちゃいない」》

どうしても、エドは作家にはなれない。

ウェストレイクは、実際にポルノ小説を手がけていたという。
また、メタフィクションの手法も用いている本書には、楽屋落ちがたくさんあると、訳者あとがきが教えてくれる。
たとえばエドが、映画「ポイントブランク」をみにいったりする。
「ポイントブランク」の原作者は、ウェストレイクだ。
また、本書はウェストレイクが離婚した翌年に出版されている。
だから、自分の経験を盛りこんでいるかもしれない。
巻末には、ウェストレイクの主要著作リストが掲載。

このあと、ストーリーは、エドが書いたくりごとをベッツィーが読んでしまったことから急転直下。
最後はドタバタに。

本書の面白さは、くりごとの面白さだ。
ただ、男の身勝手なくりごとだから、女性には不向きかもしれない。
訳文は、くりごとに切迫感があり、素晴らしい。

エドのくりごとは、手際がいい。
自身の置かれている状況を簡潔に述べ、これからどうなっていくのかと読み手を引きこむ。
書いている小説に、自分で口をはさみ、泣き言をいいながら、書くことをやめられず、書き続ける。

ポルノ小説家としては失格かもしれない。
でも、きみのくりごとはなかなか読みごたえがあるよ。
そうエドにいってあげたい。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

死のかげの谷間

「死のかげの谷間」(ロバート・C・オブライエン/著 越智道雄/訳 評論社 1985)

原題は“Z for ZACHARIAH”
SOSシリーズ第5巻。
2010年には、「海外ミステリーBOX」とシリーズ名を変え、新装版が出版されている。
1976年の、エドガー・アラン・ポー賞受賞作。

これは児童書。
といっても、児童書の範疇から、少しとびだした児童書。
内容は、ひとことでいえば、核戦争後に生き残った少女がサバイバルする物語だ。

主人公は、アン・バーデン。
作中で16歳になる少女。
将来の夢は、国語の先生になること。
本書はアンの1人称で、日記形式でしるされる。
その冒頭はこう。

《五月二十日
 こわい。
 だれか来る。》

この作品の舞台は、核戦争後のとある谷間。
この谷間は、たまたま放射能を逃れているが、ほかは全滅。
わずかな期間の戦争のあと、アンのお父さんと弟のジョセフ、いとこのデイビッドが近所のオグデンの町をみにいったが、そこはすっかり廃墟と化していた。
次の日には、店のクラインさん夫妻も加わり、アンを残した全員で、もっとはなれたディーン町にでかけていき、そして帰ってこなかった。
家畜の世話をするために、留守番をすることになったアンは、ただひとり残された。

ラジオ局は一局ずつ消え、ついにはなにも聴こえなくなる。
電気は停まり、ガスボンベは2本あるものの節約したい。
アンは、たきぎをつくり、暖炉で煮炊きをして冬をすごす。
ニワトリや牛の世話をし、野菜畑をつくる。

電気が停まったために井戸水がくみ上げられない。
小川からくんでくる。
谷間を流れる小川のうち、ひとつは汚染されているが、谷間の泉を源流とするもう一本は大丈夫。
この小川は池にそそぎ、池の魚は大切な食糧となる。

こういう生活をしていたアンのところに、冒頭の一文のような事態が。
最初にみつけたのは、焚火の煙。
それが、日を追って近づいてくる。
一体どんなひとがあらわれるのか。

万一を考え、アンは家畜を追い立て、野菜畑を掘り返し、ひとがいた形跡を消す。
22口径のライフルをもって、山腹の洞穴へ。
洞穴にはあらかじめ、水や保存食も準備しておいた。
ここから、あらわれた男を観察する。

男は、だぶだぶとしたウェットスーツのようなものを着ている。
背中には空気ボンベ。
ワゴンを引き、のろのろと歩いている。

男は緑の木々に驚く。
なにかの器具であちこちを測ってから、マスクをとり、歓声をあげる。
ひさりぶりに人間の声を聞き、アンもびっくり。

男はアンの家をのぞく。
が、家のなかで寝たりしない。
テントを張り、そこで眠る。
あのテントは、放射能をさえぎるものにちがいない。

こうして、ひそかに男を見張っていたアンだが、翌日、男は不注意にも汚染されている小川のほうで水浴びをしてしまう。
じき、男は体調をくずし、テントにもぐりこんだままに。
アンは意を決し、洞穴からでて男のもとにいく――。

男の名前は、ジョン・R・ルーミス。
のちにアンに話すのだが、ルーミスは化学者で、磁気を帯びたプラスチックによる防護服の開発に着手していた。
水のろ過装置や空気清浄機も開発し、生産にこぎつけようとしたところ、戦争が起きてしまった。
ルーミスは、シェルターで何カ月もすごしたのち、開発した防護服を身にまとい、外の世界を歩き続けていたのだった。

本書の登場人物は、アンとルーミスのみ。
ルーミスは、アンの看病とお祈りのかいあって、徐々に回復していく。

本書の科学的記述がどれほど正確なのかは、知識がないためわからない。
いま読むとリアリティをそこなっている記述があるかもしれない。
でも、サバイバル生活については詳しく書かれており、そこが読んでいて楽しい。

機械に強いルーミスの指示で、アンはガソリンポンプからガソリンを得ることに成功。
トラクターをつかい畑をたがやすことができるように。

アンは娘らしく、10年後には子どもを連れて野草をつみにきているかもしれないなどと想像する。
が、ストーリーはそんな風には展開しない。
2人のサバイバル生活は紆余曲折のすえ、再びアンひとりのサバイバルへともどっていく。
その物語の緊迫感は相当なもの。

アンは大変なしっかり者で、かつはたらき者。
店にいけば、野菜や果物の種があるけれど、アンはその発芽率についても心配する。

《種だって一年くらいならいいけど、二年も放っておけば発芽率は落ちるだろうし、三年四年たつうちにすっかり使いものにならなくなってしまう》

またアンは、勇気があり、けっしてへこたれることがない。
こんなアンが、理不尽な目にあうのは痛ましい。
読後、どこかで国語の先生になれたらいいのにと思わずにはいられない。
それにしても、なんとまあきびしい児童書だろう。

原題の、“Z for ZACHARIAH”については、作中に説明がある。
アンが子どものころ読んだ「聖書の文字の本」が、このタイトルの元。
この本は、「AはアダムのA」ではじまり、「Zはザカリア」のZで終わっていた。
アダムが最初の人間だから、ザカリアとは最後の人間にちがいない。
そう、子どものアンは思っていた。

つまり、この原題は、「最後のひと」という意味なのだろう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

モリーのアルバム

「モリーのアルバム」(ロイス=ローリー/作 足沢良子/訳 ジェニー=オリバー/絵 講談社 1982)

これは児童書。
作者のロイス・ローリーは「ギヴァー・シリーズ」の作者として高名。
本書は、ロイス・ローリーの処女作。
内容は、姉が難病にかかったため、成長せざるを得なくなった妹が、立派に成長する物語だ。

主人公は、13歳の〈わたし〉、メグ。
メグには15歳になる姉のモリーがいる。
メグは頑固で考え深い。
将来なりたいのは、こんなひと。

《――人々が敬意をもってわたしの名まえ、メグ=チャルマーズをいうようになる、そんななにかをやりとげたいのだ。》

一方、姉のモリーはこう。

《――おとなになったら、ちがう名まえ、つまり、だれかの夫人になって、モリーなんとかになり、何人もの子どもたちから敬意をもって「お母さん」と呼ばれること。》

モリーは美人で、おだやかでのんきで自信家。
メグは、そんな姉に引け目を感じている。

お母さんはモリーに似ている。
メグはお母さんに対し、こんな感想をもっている。
《自分自身が成長していくのをもういちど見るということは、とまどうことであるにちがいない。》

お父さんは大学の先生。
「風刺に関する弁証法的総合」という本を書いている。
お父さんがこの本を完成させるために、静かな環境をもとめて、一家は11月ごろ田舎にある1840年に建てられたという家に引っ越すことに。

新しい学校で、メグは「ナツメグ」というあだ名をつけられる。
引っ越し先での気に入った小部屋は、お父さんの書斎となってしまい、メグはモリーと相部屋に。
モリーのほうは、新しい学校でもたちまちボーイフレンドをつくり、チアリーダーの補欠要員となる。

そんなわけで、引っ越してからのメグは不本意な暮らしを強いられるものの、近所で新しい友人ができ、その生活に光がさす。
その友人とは、ウィル=バンクスという70歳になる老人。
ウィルは妻に先立たれひとり暮らし。
話してみると、メグが暮らしている家のことを、ウィルはなんでも知っている。
「あなたはあたしの家に住んでいたんですか?」とメグが訊くと、ウィルは笑う。
「あんたが、わたしの家に住んでいるんだよ」

このあたりの2つの家は、ウィルの祖父が建てたもの。
ウィルは2つの家を貸し、自分は昔使用人がつかってた家に移って暮らしている。
ウィルはメグをあたたかく迎え、メグのことを「美しいわかい娘さん」と呼ぶ。

メグは写真を撮るのが好きで、また得意。
前の学校では男の子たちをさしおいて、週間最優秀作品に選ばれたこともある。
ウィルは以前、将校としてドイツに駐屯していたことがあり、そのときカメラを購入していた。
ウィルは、ドイツ製のカメラを貸すから暗室のつかいかたを教えてほしいと、メグにもちかける。
暗室は、執筆にいき詰ったお父さんとメグが、小さな物置を改造してつくったもの。

こうして、2人は熱心に現像についての実験をくり返すことに。
「そんなにながく現像液のなかに置いちゃだめよ、ばかね!」とメグが怒鳴ると、ウィルは、「わたしはためしているんだよ」と怒鳴り返す。
「危険をおかさなければわからないだろう」

もう一軒の空き家には、ウィルが気に入ったベンとマリアという若い夫婦が引っ越してくる。
ベンはまだハーバード大学の学生で、論文を書くのに静かな場所をさがしていた。
マリアは、夏に赤ん坊がうまれる予定。
メグは、この2人とも仲良くなる。

ところで、姉のモリーのことだ。
モリーは2月ごろ、流感になり鼻血がとまらなくなる。
村の医者の見立てでは、寒い気候のせいで鼻の粘膜が傷つくからということ。
じき、治ったようにみえたのだが、そうではなかった。

ある夜、メグはモリーに、母さんと父さんを呼ぶようにと起こされる。
メグが両親を連れてくると、モリーは血まみれ。
両親はモリーを連れて病院へ。
メグは、きのうモリーとけんかをしなければこんなことにはならなかったと後悔する。

入院したモリーは、しばらくして退院。
だから、もうよくなったはずなのに、モリーは不機嫌で気まぐれでわがまま。
それなのに、両親はモリーのことを叱らない。
薬のせいで、モリーの美しい髪は抜けてきてしまう。

メグがウィルと出会ってカメラにより習熟したように、モリーはウィルのすすめで野の花をあつめ、押し花をつくるように。
ウィルは植物にとても詳しい。

しかし、モリーは再び入院する。
ベンとマリアの夫婦に赤ちゃんが生まれることをとても楽しみにしていたモリーは、「あたしがうちに帰るまで、赤ちゃんを産まないように、ベンとマリアに話して!」と、メグにいいのこす――。

こんな風に、この作品の要素だけをとりだして要約しても仕方がない。
この要素のすべてがないまぜとなり、メグの体験となるのだけれど、要約ではそれが失われてしまう。

本書の訳はずいぶん硬い。
例を引くとこんな感じ。

《家が建てられた年代で、それぞれ違いがあるということは、おもしろいものである。けれどそれは、わたしをおどろかせはしない。なぜなら、たしかに人の年齢というものは、モリーとわたしのように、大きな違いをつくるから。》

13歳の少女の1人称としては、出版当時ですら硬かったのではないか。
引用したのは冒頭近くの文章。
このあと、ウィルが登場するあたりから本書は面白くなる。
ストーリーがうごきだすだけではなく、会話が増える。
会話は、これほど硬くはない。

文章は、たいへん視覚的。
小道具としてカメラがつかわれているためもあるだろうし、作者のロイス・ローリーが写真家だったためもあるのだろう。
また、訳者あとがきによれば、本書はローリーの自伝的要素を含んだ作品とのこと。
メグがはじめてウィルの家をたずねた場面はこう。

《玄関ホールの反対がわには、台所があった。かれが居間を見せてくれたあと、バンクスさんとわたしは、そこへいった。まきストーブが燃えていた。織った青い小さな敷物が置いてあり、その上の青と白の鉢の中には、しずかな生活を好むように三このりんごが入っていた。すべてのものが、あらってみがかれ、かがやき、適切なところに置いてあった。》

メグは、好ききらいが強く、少々気むずかしい。
そのメグがはじめて自分が撮った写真をウィルにみせたとき、ウィルはその写真のよさを的確に指摘してくれた。
そのことはメグを感激させ、あたたかい気持ちにする。

《それは、ほんとうの友だちである人が、わたしとまったく同じ感受性をもっていたからなのだ。わたしにとっては、なによりも重要であることについて、その感じ方が同じなのだ。一生涯を通じてそういうことをけっして経験しない人たちがいることを、わたしは断言する。》

このあと、ベンとマリアの夫婦は、出産を撮ってほしいとメグに頼む。
それを聞いてウィルは心配するが、メグはその話を受ける。

《「だってウィル、冒険しないでどうやって学ぶことができる?」》

そして、出産に立ち会ったメグは、それまで会いにいかなかった病院にいるモリーに会いにいく。

《わたしは、モリーに会うのがこわかったのだ。いまは、こわくない。》

ほかにも、ウィルの甥が、ウィルの2つの家を手に入れようと狙っている話があったり、お母さんがつくっているキルトの話があったりとエピソードは盛りだくさん。

この作品は最後の1行が素晴らしい。
もちろん、そんな作品はたくさんあるけれど、でも、この作品の1行はまた格別だ。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

コディン(承前)

続きです。

ある日、町にコレラが広がる。
住人たちは逃げだし、コディンやアドリアンたちも町からはなれた台地にテントを張り避難。
じき、アドリアンの母親の体調が悪くなる。
が、コディンの親身の看病により一命をとりとめる。

このコレラ騒動のとき、ある事件が起こる。
コディンの情婦であるイレーヌと、コディンのもう一人の、形ばかりの義兄弟であるアレクシスとが親しくなっていたのだ。
それに気づいたアドリアンは、コディンにそのことを勘づかれないように振る舞う。
けれど、結局コディンの知るところに。
コディンはアドリアンに、義兄弟の契りの解消をもとめる。

《「だって、だってよ、この世じゃ兄弟愛なんて成り立たねえからさ……」》

無償の愛をもとめる無法者、コディンの物語。
このあと、話は一直線に惨劇へと進む。

「キール・ニコラウス」
再び3人称。
アドリアンは14歳。
小学校を卒業し、酒場のボーイになったものの、その奴隷のような生活とは1年で縁を切り、いまはただ読書をしたり、ぶらついたりしている。

キール・ニコラスは近所に住む、菓子屋をいとなむアルバニア人。
金もなければ、若くもなく、薄汚い、年齢不詳のおじさん。
外国人のため、近所からさげすまれ、《ヴェネティク》――いかがわしい外国人などと呼ばれている。
ニコラスが騎兵隊兵舎で、兵士たちに、プラチンタとコヴリギを売る許可を得てからは、「金は貯まる一方だねえ!」などと、おかみ連中たちにやっかまれる始末。
ニコラスはアドリアンに、こうぼやく。

《「――俺が1スーもなく、しおたれて、籠に3個のコヴリギを入れて、いろんな街を流していた頃は、俺は《シラミのたかった奴》だったさ。20年間働きづめで体もぼろぼろになって、ようやく今日では2スー貯えられるようになると、まわりの連中は何ともさもしい目でこちらをじろじろ見ちゃ、《薄汚いアルバニア人》呼ばわりするのさ。――」》

さて、菓子屋の手伝いをはじめたアドリアンは、最初こそ近所の子どもたちから物笑いにされる。
が、じき、連中はお愛想をいっては菓子をねだるように。
なかには、きわどい格好をして菓子をねだる女の子もいて、女性に甘いニコラスはつい菓子をあげてしまったりする。

ニコラスには、じつは年下の内縁の妻がいる。
レレア・ズィンカという名前。
レレアは、もとはタバコ工場の女工で、羽振りのいい男に見初められ、結婚した。
が、1年後、17歳のときにニコラスに口説かれて駆け落ちしたのだった。
いまではこの奥さんは、結核のためやつれ果て、なかばやけになっている。

レレア・ズィンカは、毎週土曜日に大掃除をし、部屋の模様替えをする。
日曜日にはパーティーを開き乱痴気騒ぎ。
それから、ニコラスを罵倒したり、連れてきたアコーディオン弾きを怒ったり、女友だちにいやみをいったり。

女友だち連中も腹を立てるが、翌週にはまたやってきて同じことをくり返す。
ニコラスは、奥さんのわがままをなんでも聞いてやろうとしている。

ニコラスは兵舎でも菓子を売っている。
ところが、売り子も兵隊も盗みをする。
兵舎のなかでは、上官が部下をいたぶっていて、アドリアンもそれを目の当たりにする。
ニコラスは兵舎のことを「不幸製造工場」と呼んでいる。

さて、こうして外国人であることを気兼ねして、平身低頭して暮らしているニコラスだが、夜から早朝、お菓子づくりをしているときは本来の姿にもどる。

《キール・ニコラスが頭上で透明になった生地をくるくると旋回させている様を、アドリアンが目の当たりにするこの時こそ、恐るべき敵の猛攻と闘っている英雄の姿を彷彿とさせるのだ。》

この作品には、読書にまつわるエピソードがおさめられている。
アドリアンは本好きだが、ニコラスはそうではない。
「本のなかには美しいことや、真実が書かれているよ」とアドリアンがいっても、ニコラスはとりあわない。

ニコラスは、アテネで哲学の大物教授になったという、自分の伯父の話をアドリアンに聞かせる。
この伯父は、自分だけいい暮らしをして、ほかの連中を見下していた。
兄弟や親戚にろくに援助もしなかった。
本というものは、それを書く連中を立派にはしていない。

ニコラスの話を聞き、アドリアンは動揺する。
人間を愛さずに、どうして人間のためになる本なんか書けるんだろうかと、アドリアンは考える。
ちょうどそのとき読んでいたのが、ドストエフスキーの「罪と罰」。
ドストエフスキーも、ニコラスの哲学教授のように無情な心のもち主なのか。

それを確かめようと、アドリアンは中学校に通っている友人に声をかける。
そして、馬鹿にされながらも、ドストエフスキーの自伝的作品「死の家の記録」を図書室から借りてきてもらう。
一心不乱に本を読んだアドリアンは、ドストエフスキーに対し申し訳ない気持ちでいっぱいに。
そして、ニコラスの家に駆けこみ、その内容を読んで聞かせる。
ニコラスは、自分の信念は曲げない。
でも、アドリアンの話を最後まで黙って聞いてくれた――。

菓子屋のキール・ニコラスを主人公とした、スケッチ風の作品。
アルバニア人のためさげすまれ、あなどられながらも、キール・ニコラスは誠実にはたらく。

作者のイストラティも、父親がギリシア人、母親がルーマニア人であり、しかも私生児だった。
本書の作品はすべて父親を乞うような話だけれど、それは作者の境遇から説明できるかもしれない。


また、「コディン」と「キール・ニコラス」を読んで印象に残るのは、アドリアンの母親の立派さ。
日雇いの洗濯婦であるこの母親は、コモロフカに流れ着いても、ニワトリを育て、鉢植えの手入れを怠らない。
アドリアンには、こざっぱりした身なりをするように気をくばる。

コディンがはじめてアドリアンを認めたのは、お使いを頼んだとき、アドリアンが駄賃をほしがらなかったため。
また、キール・ニコラスがアドリアンを認めたのは、お菓子を買ったあと、アドリアンがほの子たちとちがって泥坊猫(フリボン)みたいに目をそらさず、自分を真っ直ぐみたから。
いずれも、母親の薫陶のたまものだ。

全体をおおう貧しさも、特徴のひとつ。
貧しさは痛ましいけれど、ものごとをシンプルにし、作品に力強さをあたえる場合がある。
本書もそんな作品といえるだろう。

最後にもうひとつ。
この小説は、少年が世間で出会った人物についてえがいたものだ。
この、「少年が世間で出会った人物についてえがく」という形式は、それだけで作品の面白さをいくぶんか保証してくれるものだろう。
この形式で書かれた、いろんな国の小説を読んだら、きっと楽しいにちがいないと思う。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

コディン

「コディン」(パナイト・イストラティ/著 田中良知/訳解説 未知谷 2010)

ときどき、まったく読んだことがない国の小説を読んでみたくなる。
この本の作者はルーマニアのひと。
作者、パナイト・イストラティについては、後ろのカバー袖にある経歴を引用しよう。

《パナイト・イストラティ(1884-1935)
ルーマニアはドナウ川下流の港町ブライラの生まれ。貧窮家庭に育ち12歳で母の下を去る。20歳の時、ロシアの革命運動の影響を受けて、社会主義運動と接触。その後近東を中心に地中海沿岸を放浪。自殺未遂事件をきっかけにフランスの作家ロマン・ロランの知遇を得て、下層階級の人々を題材に、郷土色豊かな作品をフランス語で発表し、作家となる。「バルカンのゴーリキー」とはロマン・ロランの評。代表作には「キラ・キラリナ」(1923)、「アンゲル叔父」(1924)、本書「コディン」(1926)などのほか、史実に取材した「バラカン平原のアザミ」(1928)などがある。》

本書は中短編集。
収録作は3つ。

「沼沢地での一夜」
「コディン」
「キール・ニコラス」

どの作品も、主人公や語り手は、作者の分身であるアドリアンという少年。
アドリアンが見聞きしたことが物語となっている。

「沼沢地での一夜」
3人称。
アドリアンは7歳で、ディミ叔父の家にあずけられている。
叔父一家は、まるで奴隷のような貧乏暮らし。
ディミ叔父は妻に暴力を振るい、妻は泣き、老母は義憤にかられて息子を天秤棒でひっぱたく。
叔父は笑いながら、母に叩かれるにまかせる。
老母は嫁にむかっていう。

《「――こんな奴と結婚しなきゃよかったのにさ! 貧乏と愛が夫婦になっても絶対うまくいく例(ためし)はないよ。子供たちにはいい教訓になるよ。》

とはいうものの、ディミ叔父ははたらき者であり、笛の名手。
嫌われ者ではなかった。
また、アドリアンは叔父と仲がいい。
叔父が自分を殴らないとわかっていたから、叔父が叔母を殴ろうとするたびに仲裁に入った。

ある夜、ディミ叔父は沼沢地に葦を刈りにでかける。
沼沢地の葦は領主のものであり、刈るには許可書がいるのだが、それは20フランする。
もちろん、ディミ叔父は許可書などもってはいない。

葦を刈りにいくディミ叔父に、アドリアンもついていく。
沼のなかから、叔父は葦を刈りとってはもどってくる。
が、そのうち馬が鳴きはじめる。
鳴かれると監視人にみつかる恐れがある。
腹を立てた叔父は、馬の腹を殴りつけるのだが、不運なことに、そのとき惨劇が起こる――。

本書のなかで一番短い作品。
イストラティが「バルカンのゴーゴリ―」と呼ばれたのは、自伝的であり、貧乏をえがいたためだろう。
また、読んでいたときは、なぜかヘミングウェイの「インディアンの村」(「われらの時代・男だけの世界」(新潮社 1995)所収 )を思い出した。
両方とも、幼い少年が痛ましいできごとを目撃する話だからだと思う。


「コディン」
100ページほどある中編。
この作品だけ、アドリアンの1人称。

アドリアンは12歳で、母と2人暮らし。
引っ越しをかさね、評判の悪いコモロフカに流れ着いたところ。
コモロフカの界隈は、夜になると警察も立ち入らない無法地帯。
ここで、アドリアンは隣りに住むコディンという無法者と仲良くなる。

コディンは30代。
無口で酒豪で大食漢。
腕っぷしが強く、だれからも恐れられている。
また、素朴なモラルのもち主。
コディンと仲良くなったことで、当初あなどられていたアドリアンも、同年代の子どもたちから一目置かれるようになる。

コディンのつきそいで、アドリアンは朝4時におこなわれる《袋運び》の割り当てをみにいく。
港の鉄道の貨車から穀物の袋をはこびだすのは、実入りのいい日雇い仕事。
その仕事の割り当ては、作業班をつくる班長が仕切っている。
そのため、班長を接待している友人たちばかりが仕事にありつく。
大多数は、午前2時から順番を待ち、余り仕事にありつくほかない。
コディンは班長に話をつけ、何人かの貧相な人夫を作業班に押しこむ。

帰り道、アドリアンがいいことをしたので気分はいいのではないかというようなことを訊くと、コディンは不機嫌にこたえる。

《「おまえはバカだよ! お節介でいいことしたって、無意味ってことよ」》

コディンは容姿がみにくかったので、両親から虐げられ、周りの連中からはからかわれて育った。
成長したのちは、腕力にものをいわせ、両親を打ちのめすようになった。

あるとき、ケンカをしたコディンは、相手にやられないように、泳いで《支流》を渡り沼地で寝る暮らしをしていたところ、さがしにきた敵を殺した。
これは正当防衛で無罪放免に。
しかし、情婦のベッドにいる男を刺し殺したことで、10年間徒刑囚として塩坑ではたらくはめに。

以上のような話を、アドリアンはコディンが連れていってくれた、川向こうの《ゲチェト》の岸のおばさんから聞く。

アドリアンと知りあってからも、コディンは酒場で大立ち回りを演じる。
アドリアンは、コディンに人殺しをさせまいと、あいだに入る。
また、コディンは毎晩母親を殴りつけている。
この母親は土地をもっていて、コディンはそれを売らせようとする。
が、母親はどんなに殴られても売ろうとしない。
母親のほうは、息子が人殺しをして、また徒刑囚になればいいと思っている。

アドリアンはコディンとともに、湿地帯に鴨と雁の狩猟にでかける。
そこで、2人は義兄弟の契りを結ぶ。

――まだ話は途中だけれど、長くなったので続きは次回に。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

トーニオ・クレーガー

「トーニオ・クレーガー」(トーマス・マン/著 平野卿子/訳 河出書房新社 2011)

光文社の古典新訳文庫で「トニオ・クレーガー」(マン/著 浅井晶子/訳 光文社 2018)が刊行されたので読んでみた。
が、あんまりピンとこなくて、河出文庫版で再読した。
こちらのほうが好ましい。
古典はいろんなひとの訳が出版されているから、こういうときありがたい。

おかげで、立て続けに2度読むことになったけれど、考えようによってはよかったかもしれない。
この作品は、くり返しが重要だから。

トーニオ・クレーガーは主人公の名前。
解説によれば、トーニオには作者の経歴が色濃く反映されているという。
物語は、3人称トーニオ視点で語られる。

この作品は中編。
全9章より成っている。
第1章に登場するトーニオは14歳。
町の名士であるクレーガー領事の息子だが、ぼんやり者で、学校の成績もいまひとつ。
詩を書いたりしている少年だ。

トーニオは、金髪のハンス・ハンゼンにあこがれている。
ハンスはトーニオとは反対の、溌溂としたスポーツ万能の優等生。
学校の帰り、トーニオはハンスと一緒に散歩をしながら家に帰る。
切々とハンスの友情をもとめ、自分が感動したシラーの「ドン・カルロス」をハンスに薦めたりする。

第2章のトーニオは16歳。
金髪のインゲボルグ・ホルムに恋をしている。
フステーデ家でのダンスと作法を学ぶ講習会で、トーニオはダンス中にミスをしてしまう。
インゲにすっかり気をとられ、「ご婦人の旋舞」を一緒に踊ってしまい、会場のみんなに笑われてしまう。
もちろんインゲにも。

第3章は、その後のトーニオについて。
《トーニオは自分の進むべき道を行った。いくぶん面倒くさそうに、だらだらと。吹くともなく口笛を吹きながら、ちょっと首をかしげ、遠くを見つめて歩いていった。》

祖母と父が亡くなり、美しい母は再婚。
クレーガー家は没落。
トーニオは町を去り、あちらこちらで暮らし、退廃した生活を送るように。
そんな生活の代わりに、芸術家としての資質は研ぎ澄まされ、作家として世に立つようになる。

第4章.
この章は、ほとんどトーニオの演説に終始。
トーニオ少年もずいぶん饒舌になったものだと思わせる。
場所はミュンヘンの一角。
話し相手はロシア人の画家リザヴェータ・イヴァーノヴナ。
トーニオはリザヴェータに、独特の芸術家論を述べる。

《人間的なものを演じたり、もてあそんだり、効果的にうまく描きだしたかったら、人間でいてはまずいんだ。非人間的な存在でいなければ。人間的なものに対して奇妙に距離をおいて傍観していなくては。そもそも優れた文体や様式、表現などの才というものは、人間的なものに対する冷ややかで気むずかしい関係、言うなれば一種の人間的な貧しさや荒廃が前提になっているんだから。》

芸術家は、人間のマイナス面のかたまりのようなものだというのがトーニオの説。
そのため、芸術家を信奉するひとたちには同情を禁じ得ない。
しかし、芸術など必要としない平凡なひとたちには強くあこがれる。
こんなトーニオの演説を、リザヴェータ軽くいなす。

ここがちょうど物語の折り返し地点。
第5章以降は後半となる。
トーニオはデンマークに旅行にでかける。
途中、13年ぶりに故郷の町を訪れる。
我が家はいまでは市民図書館に。
ホテルを出立するときには、詐欺師と間違えられそうになったりする。

それから、船でデンマークへ。
海が荒れるものの、トーニオは歓喜をおぼえる。
コペンハーゲンを観光し、ヘルシンゲアの先、エーレ海峡とスウェーデンの海岸が見渡せるホテルに落ち着く。
ホテルでのんびり日を送っていたところ、ある日、大勢の客がやってくる。
その客のなかに、ハンスとインゲの姿をみつけ、トーニオは驚く。

正確には、2人はハンスとインゲ本人ではない。
しかし、同じ種類の人物ではある。
夜、ガラス戸ごしにダンスパーティーをみながら、トーニオは湧き上がるさまざまな感情にうごかされる――。

この小説は音楽的な構成をもっていて、同じシチュエーションがくり返される。
ハンスとインゲは再びあらわれるし、自作の詩を披露する少尉と、デンマークのいきの船で乗りあわせた若い男は対照をなしている。
物語が、同じシチュエーションの周りをダンスしているといったらいいか。

トーマス・マンの文章はくどい。
海辺のホテルで、ハンスがザントクーヘンを食べる描写はこんな風だ。

《ケーキの屑を受けるため、手のひらをくぼませて顎の下にあてがっていた。》

あごの下に手をやるだけではすまない。
「手のひらをくぼませて」と書く。

くどくて、いまひとつはっきりしないマンの文章は、注意深く読むことを強いられる。
この文章のおかげで、作品に独特の雰囲気と統一感が生じているよう。

トーニオはホテルでの経験を経て、少年時代から現在まで続く自分と和解するにいたる。
そして、作家として更新する。
芸術家は人間を見下すけれど、自分は人間を見下すことはできない。
物書きを作家にすることができるものがあるとすれば、平凡なものによせる愛だと悟る。
リザヴェータへの手紙にトーニオはこう書く。

《リザヴェータ、ぼくはこれからもっとよいものを作るつもりだ――》

トーニオがインゲに夢中になっていたころ、トーニオに親しいそぶりをみせる娘がいた。
弁護士の娘である、マグダレーナ・フェアメーレン。
ダンスのときはよく転ぶけれど、相手を選ぶときは必ずトーニオのところにきた。
トーニオが詩を書いていることを知っていて、みせてくれとせがんだりした。
もちろん、そのころのトーニオには、マクダレーナなど眼中になかった。

その後の、トーニオが熱心にみていた海岸のホテルのダンスパーティーには、ハンスやインゲばかりでなく、このマクダレーナをほうふつとさせる娘もあらわれる。
その貧相な青白い娘は、ダンス中に転んでしまうのだけれど、トーニオは床に倒れたままの娘をそっと腕をつかんで助けおこしてやる。
この小説の中で、一番好きな場面だ。

本書には、「トーニオ・クレーガー」と同じくらいの長さの中編、「マーリオと魔術師」が収録されている。
イタリアの避暑地にでかけた〈私〉とその家族が、チッポラという魔術師の見世物をみるというストーリー。
催眠術師というべきチッポラが、観客の心をつかみ、自由にうごかすさまがえがかれる。

解説によれば、この作品は「ファシズムの心理学」といわれているそう。
また、ファシズム批判の書として、刊行直後にイタリアで発禁処分にあったとのこと。

この作品は、全体の3分の2が、チッポラの舞台の描写についやされている。
それがまた、微に入り細をうがって書かれているため、読んでいるとぼんやりしてきてしまう。

チッポラのやり口は、観客のひとりを選びだし、そのひとの自尊心を傷つけることで、ほかの観客の喝采を浴びるというもの。
〈私〉はそのやり口に終始批判的だ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

試行錯誤

「試行錯誤」(アントニイ・バークリー/著 鮎川信夫/訳 東京創元社 1994)

すでに古典となった傑作ミステリ。
名高い作品でも、読んでみたら相性があわなかったということはよくある。
しかし、この作品についてはその心配は杞憂だった。
傑作は、まごうことなく傑作だった。
それがわかり、大変うれしい。

全体はプロローグとエピローグのほか5部に分かれる。
目次から引用しよう。

プロローグ 討論会
第一部 悪漢小説風(ピカレスク)
トッドハンター氏、犠牲者を求む
第二部 安芝居風(トランズポンタイン)
あずまやでの殺人
第三部 推理小説風(ディティクティヴ)
超完全殺人事件
第四部 新聞小説風(ジャーナリスティック)
法廷の場
第五部 怪奇小説風(ゴシック)
土牢
エピローグ

冒頭には《P・G・ウッドハウスに》ということばが掲げられている。
このことばや目次から、このミステリは同時にユーモア小説でもあり、一種のパロディなのだと見当がつく。

主人公はローレンス・トッドハンター氏。
作中ではつねに、《トッドハンター氏》と呼ばれている。
本書は、だいたい3人称トッドハンター氏視点で話が進んでいく。

トッドハンター氏は、雑誌に書評を寄稿するほかはなにもしていないよう。
いわゆる有閑階級のひとり。

さて、ストーリー。
プロローグの、トッドハンター氏が主人役をつとめる友人たちのあつまりにおいて、次のようなことが話題にのぼる。
医者に、2、3か月しか寿命がないといわれた男が善行をおこなおうとした場合、なにをしたらいいか。

友人たちは、ムッソリーニを射殺することだといったり、ヒトラーを殺すことだといったり。
(ちなみに原書の刊行は1937年)
しかし、ヒトラーを抹殺することは、必ずしもヒトラー主義を壊滅させることにはならない。
そこで議論をまとめると、こういう結論に。

《「――人間がなしうる最大の善は、ある種の悪を行なう者の死が、悲惨を幸福にかえるならば、その人物を除去すべきだというのですね」》

ところで、トッドハンター氏は大動脈瘤をわずらっており、余命いくばくもなかった。
友人たちの意見にもとづき、氏は悪を除去することを決意する。

しかし、おあつらえむきの悪人にはなかなか出会えない。
おかげで、トッドハンター氏の心痛は増すばかり。
ところが、ついに格好の相手が。
ことの起こりは、氏が寄稿しているロンドン・レビューに勤めるオギルビーが解雇されていしまったことから。
社主のフェリックスボーン卿が雇ったアメリカ系ユダヤ人、イシドール・フィッシュマンが、年金もやらずにオギルビーをクビにしてしまったのだ。

その後、2、3の調査をし、フィッシュマンが社内を恐怖におとし入れていることを確信したトッドハンター氏は、フィッシュマンの殺害を決意。
銃砲店でピストルを購入する。

が、老嬢じみたトッドハンター氏には、殺人者の素質がまったくない。
ピストルが届けられる一週間ばかりのあいだに、悪を除去する情熱は冷めていくいっぽう。
すると、諸般の事情により、この計画はすっかりおじゃんに。
やれやれ、ひとを殺さなくてすんだとトッドハンター氏は胸をなでおろす。

ところが、そんな氏の前に新たな悪の影が。
ジーン・ノーウッドという女優がそう。
ジーンに迷い、大衆作家であるニコラス・ファロウェーは身をもちくずしている。
お金を湯水のようにそそぎこみ、妻に送金もしない。
ファロウェーには娘が3人いるが、一番上のバイオラの夫ビンセントもジーンに夢中。
バイオラからみれば、父と夫が同じ女をあらそっている。
さらにファロウェーの次女フェリシティは、その才能をジーンにねたまれて劇団を追われてしまった。

慎重なトッドハンター氏は、各関係者から話を聞いていく。
そのさい、ジーンに誘惑されたりする。
結局、ジーンを殺すことが世のためひとのためと決まった。
義務感と良心の板ばさみになりながら、トッドハンター氏はピストルを手にジーンの家へ。

ことがすむと、再び各関係者のもとを訪れ、氏なりに対策をほどこし、またフェリシティが主演する劇には金をだし、これで全てがすんだと氏は船の客となり旅にでる。
が、事件すんでいなかった。
ビンセントがジーン殺しの容疑者として逮捕されたことを東京で知った氏は、ロンドンへとんぼ帰りする――。

ここからが第三部の幕開け。
ロンドンにもどったトッドハンター氏は、犯人はビンセントではなく自分なのだと主張するのだが警察は耳を貸さない。
そこで、氏は友人である犯罪研究家、アンブローズ・チタウィック(「毒入りチョコレート事件」にも登場したと訳注)の助けを借り、自分の犯罪を立証しようとこころみる。

この小説は、すっかりさかさまになった探偵小説だといっていい。
ひとりの男が殺人をおかそうと努力をかさねる。
そして、犯人になりたいがため探偵をやとう。

このあと、自分の犯罪を立証しようとしている最中に出会った王室顧問弁護士アーネスト・プリティボーイ卿に、氏は自分を犯人にしてくれと訴える。
裁判がはじまり、結局トッドハンター氏は喚問されないまま、ビンセントの有罪が評決され、死刑が確定。
すると、有能なアーサー卿はトッドハンター氏を相手どり、殺人に対する民事訴訟を起こす。
この訴訟がすむまでビンセントの処刑は延期されなければいけないと議会にねじこみ、きわどいところで処刑の延期にもちこむ。
こうして、ややこしい法的手続きを乗りこえたのち、後半は白熱の法廷劇に。
それにしても、こんなに有罪になりたがる登場人物もめずらしい。

この、すっかりさかさまになった探偵小説は、結果的にいくところまでいく。
そしてエピローグにいたり、この作品はさかさまになった探偵小説というだけでなく、実際に探偵小説だったということが明かされる。
この手並みには讃嘆を禁じ得ない。

解説で、宮脇昭雄さんも触れているけれど、この大技を決めるのに、ユーモア小説風の文体が大いに効果をあげている。
この作品はユーモア・ミステリでもあり、このこしらえがなければこの構成も、大技も、成り立たせるのは不可能だった。
殺人をするために、トッドハンター氏は探偵小説を読み、ついで犯罪学の本を読んで勉強する。
その場面をえがいた文章はこんな風だ。

《――トッドハンター氏はさらに金を使って通俗犯罪小説の本をしこたま買いこみ、その大部分の無学な文体に恐れをなしながらも、熱心に読んで研究した。これらの書物によると、もっとも成功している殺人芸術の専門家たち(つまり、結局は容疑をかけられるどころではすまない大しくじりをやってしまうが、それまでに二度や三度はまんまと完全犯罪の殺人を犯しているといった種類の連中)は、死体を処理するに当たって、火を使う方法を好んでいるようだった。しかし、トッドハンター氏はこの方法を採用するつもりはなかった。できるだけ慈悲深いやり方で殺し、全速力で逃げたいというのが、彼の考えだった。殺したあとの死体には指一本触れたくなかった。したがって、そうした書物を読みながら彼がもっとも注意を集中したのは、何ひとつ手がかりを残さず、すばやく、沈黙のうちに行われた殺人の話だった。》

センテンスが長いので引用も長くなってしまう。
語り手とトッドハンター氏は分離しており、決して一緒にはならない。
その分離しているあいだに、皮肉や批評や分析や評価などが入りこみ、ユーモラスな雰囲気をつくりだしている。
この諧謔に満ちた文体は、ついに作品の最後まで維持され、ミステリとしての構築にひと役買うばかりでなく、作品全体を興趣あふれるものにしている。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

装飾庭園殺人事件

「装飾庭園殺人事件」(ジェフ・ニコルスン/著 風間賢二/訳 扶桑社 2011)

ホテルの一室で、ある中年男性が死体となって発見される。
男はTVにも出演している著名な造園家、リチャード・ウィズデン。
発見された状況は、自殺以外にありえない。

が、リチャードの美しい妻リビーは、夫の死を自殺とは考えていなかった。
死体の第一発見者であるホテルの警備員ジョン・ファサムに、リビーは事件の調査を依頼する――。

という場面から、この作品はスタート。
本書は、1人称多視点。
つまり、語り手が次つぎと変わる形式をとっている。

こういう形式の場合、たいてい語り手の人物は何人かに決まっている。
3人だとしたら、3人が交互に物語を語っていくというのが定石。
ところが、この作品はそうではない。
最後まで、次つぎと新しい語り手があらわれる。
また、ある語り手は途中から姿をあらわさなくなったりする。

語り手の一部は以下の面々。
やはりリビーから事件の調査を依頼される、リビーの友人であり医師であるモーリン・テンプル。
リビーの依頼でリチャードの著書を読むことになる、英文学教授ダン・ラウントリン。
物語の途中でけがをする、リチャードとその愛人アンジェリカとのあいだの息子である少年デイヴィット。
銀行家にして性的な秘密結社の書記官であるバジル・ショー。
リチャードの著書のために写真を撮ったことのある、いまはネヴァダ砂漠にいるカメラマンのエヴァ・サゲンドルフ。

ほかに、エヴァが泊っているホテルのフロント嬢、ローズマリー。
リビーにリチャードの真似をさせられる売れない俳優、ポール・コンラッド。
リチャードの先生であり、最初の経営パートナーであったハーブ園芸家のエスター。
などなど。

話はどんどん広がり、散らかっていく。
一体この小説はちゃんと着地することができるのだろうかと、読んでいて不安になってくる。
結果的にいうと、まあ着地はする。
が、読んだひとの一部は怒りだすのではないかという着地の仕方。
この本は面白かったとひとに薦めるのがためらわれるような結末だ。

この小説では登場人物たちがすっかり駒と化している。
小説というものにあるはずの、作品全体を流れる感情的なものが欠けている。
そのため不条理さが際立つことになる。

作者の着想と、それを実現させた根気に敬意を払うことができれば、面白く読める小説だと思う。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

2018年 ことしの一冊たち

1月

ヒギンズまとめ
「開高健」(小玉武/著 筑摩書房 2017)
「しばられ同心御免帖」(杉澤和哉/著 徳間書店 2016)

ことしの5月には、小玉武さんが編集した「開高健ベスト・エッセイ」(筑摩書房 2018)が出版された。開高健が書いたエセーを選んで1冊にまとめた本。これ以外はありえないという作品の選択がなされていて感服した。

2月

「ちょっとちがった夏休み」(ペネロープ・ファーマー/作 八木田宜子/訳 岩波書店 1980)
「輝く断片」(シオドア・スタージョン/著 大森望/編 河出書房新社 2005)

「珈琲が呼ぶ」(片岡義男/著 光文社 2018)
「驚愕の理由」(ウルス・フォン・シュルーダー/著 中村昭彦/訳 毎日新聞出版 1998)
「なつかしく謎めいて」(アーシュラ・K.ル=グウィン/著 谷垣暁美/訳 河出書房新社 2005)

「驚愕の理由」の帯の惹句は宮部みゆきさんが書いていた。
《世界のあちこちでチカリと光る、みじん切りの”人生の真実”》
「みじん切り」が赤字で書かれている。こういうスケッチ風の短篇は読んでいて楽しいのだけれど、メモをとるときには困る。焦点がいまひとつ定かではないので要約しずらいのだ。

3月

「カニグズバーグ選集 1」(カニグズバーグ/著 松永ふみ子/訳 岩波書店 2001)
「アンチクリストの誕生」(レオ・ペルッツ/著 垂野創一郎/訳 筑摩書房 2017)

レオ・ペルッツの作品では、ことしの12月に「どこに転がっていくの、林檎ちゃん」(垂野創一郎/訳 筑摩書房 2018)が出版された。これから読むのが楽しみ。それにしても、ヘンテコなタイトルだ。

「ものぐさドラゴン」(ケネス・グレーアム/作 亀山竜樹/訳 西川おさむ/絵 金の星社 1979)
「あわれなエディの大災難」(フィリップ・アーダー/作 デイヴィッド・ロバーツ/絵 こだまともこ/訳 あすなろ書房 2003)

4月

「ドイツ短篇名作集」(井上正蔵/編 白水社 学生社 1961)

「うし」を読んだときは驚いたなあ。

5月

「暗いブティック通り」(パトリック・モディアノ/著 平岡篤頼/訳 講談社 1979)
「いやなことは後まわし」(根岸純/訳 パロル舎 1997)

「のりものづくし」(池澤夏樹/著 中央公論新社 2018)

6月

「死にいたる火星人の扉」(フレドリック・ブラウン/著 鷺村達也/訳 東京創元社 1960)

7月

「闇の中で」(シェイマス・ディーン/著 横山貞子/訳 晶文社 1999)

素晴らしい作品。

8月はなし

9月

「アデスタを吹く冷たい風」(トマス・フラナガン/著 宇野利泰/訳 早川書房 2015)

よーく噛んでいるとじわじわ味わいがましてくるといった作品。

10月

「おとうさんとぼく」(e.o.プラウエン/作 岩波書店 2018)

まさか「お父さんとぼく」が再版されるとは思わなかった。9月には岩波少年文庫から「魔女のむすこたち」(カレル・ポラーチェク/作 小野田澄子/訳 岩波書店 2018)が出版され、これにも驚いた。「魔女のむすこたち」の作者は強制収容所で亡くなっている。


11月

「大好き!ヒゲ父さん いたずらっ子に乾杯!」
「ごめんね!ヒゲ父さん わんぱく小僧、どこ行った?」
「最高だね!ヒゲ父さん いつも一緒に歩いていこう」
(e.o.プラウエン/作 青萠堂 2005)

「お父さんとぼく」をネット書店で検索していたとき、この作品の存在を知った。ネットというのは便利なものだ。

12月

「ニール・サイモン戯曲集 1」(酒井洋子/訳 鈴木周二/訳 早川書房 1984)
「ニール・サイモン戯曲集 2」(早川書房 1984)

「ニール・サイモン戯曲集」は、現在6巻まで出版されているよう。このあと、ついでに手元にある読んでいない戯曲も読んでみようと思いたち、「ムサシ」(井上ひさし/著 集英社 2009)を読んでみた。あんまり展開が唐突だったので驚いた。舞台をみていた観客はついていけたんだろうか。

以上。
ことしは4月頃からむやみに忙しくなってしまい、ろくに更新ができなかった。
それでも本は読んでいて、なかにはとても素晴らしい作品もあったので、いずれ時間をみつけてはメモをとっていきたい。

メモをとらなかった本で一冊だけとりあげるなら、「泰平ヨンの航星日記 」(スタニスワフ・レム/著 深見弾/訳 早川書房 1980)。
レムの小説はなんだか面倒くさそうだと食わず嫌いをしていたのだけれど、読んでみたら「ほら吹き男爵」のSF版といった趣きで、たいそうバカバカしく、面白かった。
宇宙空間で時間の流れがおかしくなり、未来の自分が次つぎにあらわれるというアイデアは――、そして、あらわれる自分がどんどん機嫌が悪くなっていくというアイデアは――、たしか「ドラえもん」にもあったように思う。
もっと早く読んでおけばよかったと後悔した。

では、皆様よいお年を。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ