おいしいものさがし

「おいしいものさがし」(ナタリー・バビット/作 越智道雄/訳 富山房 1971)
原題は、“The Search for Delicious”
原書の刊行は、1969年。

児童書。
3人称、ほぼ主人公のゲーレン視点。

まずプロローグ。
昔むかし、山には小人たちが、森には森の精が、湖には人魚が、空には風の精がいた。
ある日、鉱石を得ようと小人が穴を掘っていると、そこから泉がわきだした。
小人たちはその泉が気に入り、石を積み、小屋をつくった。
そして、小さな石で笛をつくり、その笛である曲を吹くと、小屋の扉が閉じたりひらいたりできるようにした。

何年かたつと、泉の水はどんどんたまり、湖となり、人魚がすむようになった。
そのなかに、アルディスという小さな可愛らしい人魚がいた。
ひとりの小人が、このアルディスに人形をつくってやった。
お礼にアルディスは、いまはもう湖に沈んでしまった泉の番をすることにした。
小人たちは、例の笛をアルディスに預けた。

あるとき、岸辺に男がひとりやってきて音楽をかなでた。
アルディスはその音色にすっかり聞きほれた。
すると、男はとがった岩にぶらさがっている笛をみつけ、それをもっていってしまった。
男は笛を吹いたので――その音は人間には聞こえないのだが――泉の小屋の扉は閉まり、そのためアルディスはなかにいた人形をとりだすことができなくなってしまった。

さて、本編。
王国の総理大臣、デグリーは辞典を作成中。
ところが、「おいしいもの」の項目で王から反対意見がだされた。
「おいしいもの、は魚のフライ」
という一文が、魚のフライが嫌いな王のお気に召さなかったのだ。

その場に居あわせた将軍は、「おいしいものは一杯のビール」といい、お妃は、「おいしいものはクリスマス・プティング」だという。
ちなみに王が好きなのはリンゴ。
みんなが好き勝手なことをいい、収拾がつかない。
宮殿は不穏な空気につつまれる。

解決策として、デグリ―はすべての国民から「おいしいもの」を聞きとることを王に進言。
もと捨て子で、デグリ―のもとで息子として育てられた12歳の少年ゲーレンが、この任務のために旅立つことに。

というわけで、マロウという名前の馬に乗り、ゲーレンは出発。
王国には4つの町があり、それを順番にまわっていくのだ――。

とまあ、こういったのんきな感じで物語ははじまるのだが、後半になるにつれ思いもかけない展開に。
この作品は、ジャンルとしては童話とファンタジーの中間に位置しているように思える。
王国に妖精においしいものさがしといった道具立ては童話的だけれど、その後の展開は社会性があり、童話からファンタジーに傾いている。

おいしいものさがしは、もちろんうまくいかない。
各自、勝手なことをいってあらそうありさま。

それから悪者があらわれる。
お妃の弟、ヘムロック。
ゲーレンの先回りをし、国民が食べてもいいものといけないものをさだめる法律を、王がつくろうとしていると触れまわる。
ゲーレンはそのための調査にきたのだといって、町のひとたちを脅かす。

そのため、ゲーレンがある農夫の一家においしいものをたずねたところ、その夫婦は断固として野菜とこたえる。
野菜が食べてはいけないものになったら、一家は食べていけない。
夫婦の子どもは、最初お菓子とこたえるけれど、父親にきびしく叱られ、野菜とこたえるように。

ヘムロックの策略は功を奏し、王国はかりかりした食べ物が好きなクリスプ党と、どろどろした食べ物が好きなスコッシュ党に分裂。
戦争をはじめる。

ところで、プロローグにあらわれた、かわいそうな人魚のアルディスは物語にどうかかわってくるのか。
ゲーレンは旅の途中、森の精や、旅まわりの詩人や、おばあさんが飼っているカラスや、山で出会った小人たちから、人魚のアルディスの物語を知るようになる。
また、ヘムロックがゲーレンの先まわりをし、アルディスについてあれこれさぐりを入れていたことがわかる。
というのも、ヘムロックは湖をせきとめ、川を干上がらせ、その混乱に乗じて王を殺害しようとたくらんでいたからだ。

一方、おいしいものさがし。
町にいくと、こいつが戦争を引き起こした張本人だと、ゲーレンは町のひとから食べ物を投げつけられる。
ゲーレンは意気消沈。
昔、妖精たちがすぐにあらそいをはじめる人間たちに愛想をつかして、自然のなかにかくれたように、ゲーレンももう人間からはなれて暮らそうと決意するのだが――。

おいしいものであらそうなんてばかげたことだ。
物語の冒頭で、そういうゲーレンに、デグリ―はこうこたえた。

《「もちろん、ばかげたことじゃ」そうり大臣はじれったそうにいった。「だがのう、大事件というものは、たいていはばかげたことからはじまるものなんじゃ」》

後半、物語はやけにきびしさを増していく。
でも、そこはまだ児童書の範疇におさまっていて、最後は大団円をむかえる。


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シーグと拳銃と黄金の謎

「シーグと拳銃と黄金の謎」(マーカス・セジウィック/著 小田原智美/訳 作品社 2012)

原題は、“Revolver”
原書の刊行は、2009年。

作者はイギリスのひと。
金原瑞人選、オールタイム・ベストYAの一冊。

時間と場所を変えた2つの物語が、ほぼ交互に語られていく構成。
ひとつは、1910年スウェーデン北部のギロンという街で起こった、一昼夜のできごと。
もうひとつは、1900年アラスカのノームという街で起こったできごと。
もちろん、2つの物語は密接に関係している。
ヤングアダルト小説らしく、一章ごとの長さが短く読みやすい。

3人称。
主人公はシーグという14歳の男の子。
家族とともに、森のなかの丸太小屋で暮らしている。

父親のエイナルは、ギロンにあるベイルマン社の鉱石分析所ではたらいている。
ギロンに越してきてから、シーグはベイルマン社がつくった学校に2年間通ったものの、いつまでも周りに溶けこめない。
14歳になると学校をやめ、その後はときおり父の手伝いをしたり、薪を割ったり、棚を直したり、小屋のこわれたところを修理したり、犬たちの世話をしたりしてすごしている。

シーグの家族はほかに、歳のはなれた姉のアンナと、エイナルの若い妻ナディア。
アンナとナディアはそう歳がちがわない。
アンナは陽気なたちで、いつも歌うか笑っている。
一方のナディアはとても敬虔。
2人はときどき険悪に。
シーグは、自分には母親が2人いるみたいだと思っている。

さて、物語は、小屋のなかでシーグが死んだ父親をみつめるという緊迫した場面からスタート。
父のエイナルは、湖の氷の上に倒れていたのだ。
最初に父親をみつけたのはシーグ。

迎えにいったところ、湖の上に倒れている父親をみつけた。
そばには4頭の犬がそりとともに、だれかくるのを辛抱強く待っていた。
普段、エイナルは湖を突っ切ったりはしない。
安全に、湖を迂回していく。

おそらく、そりで氷上を走っていたエイナルは、氷が割れ、湖に落ちた。
なんとか、湖から這いだしたものの、凍死してしまった。
まわりにはマッチが散らばっており、それはエイナルが火をつけようとしたためだろう。
父親が落ちた穴は、寒気のためすでにふさがっている。

あとからきたアンナとナディアと協力し、3人はエイナルをそりに乗せ、丸太小屋にはこびこむ。
とにかく、だれか呼ばなくてはいけない。
シーグが残り、アンナとナディアがいくことに。
そして、ひとりシーグが死んだ父親と丸太小屋にいたところ、だれかがドアをノックする音が――。

一方、10年前。
1900年、アラスカのノームという街で、エイナルとその家族は困窮していた。
ゴールドラッシュに誘われ、ひと山当てにきたものの、妻のマリアは病気になってしまった。
アンナとシーグという2人の幼い子どもをかかえているのに、どうにもならない。

マリアもまたナディアに似て、敬虔な性格。
こんな地の果てに家族も連れてきたのはエイナルだけ。
街に白人の女はマリアしかいない。
エイナルは家族のそばをはなれるわけにはいかない。

やけになったエイナルは、強盗をしようと拳銃をもち酒場にいく。
が、そこで出会った男に仕事をあたえられる。
男はソールズベリーという名前の、政府の役人。
仕事は、鉱石分析官。
金の純度を調べ、重さをはかり、値をつける。

ソールズベリーがエイナルを選んだのは、エイナルには家族がいるから。
失うものが多い人間は信用できるという理屈。
勤めはじめて数か月たったある日、ソールズベリーはエイナルにこんなことをいう。

《「真実を知りたいか? ほんとうのことを知りたいか、エイナル? ここにいる鉱夫たちも、一獲千金を夢見てやってきたやつらも、一生金もちにはなれない。大半のやつらは、今後も夢はもうすぐかなうと思える程度の砂金を見つけつづけるだけで、夢が現実になることはぜったいにないさ。なかには大もうけするやつもいるだろうが、金もち気分を味わえるのはぜんぶ使いきっちまうまでのたった数日間のことだ。そして、じっさいに金もちになるのはわたしや君のような人間、つまり、町で事業にたずさわっている人間だけだ。……」》

その日の午後、ウルフという名前の、熊のような大男があらわれ、エイナルに金の分析をもとめてくる。
もうきょうは戸締りをしてしまったとエイナルが断ると、ウルフはごねる。
翌日、ウルフは再び金の分析に。
エイナルが分析してみると、結果はかんばしくなく、10パーセントの純度しかない。

その後、ウルフは腰を分析所に腰をすえ、エイナルの仕事ぶりをじっとみていく。
さらに何日間か、ウルフはエイナルの仕事ぶりを観察。
そして、ある日こう切りだす。

《「半分もらいたい。おまえの金を半分くれ。おまえはとてもかしこい男だ。だからわかるはずだ。おれに半分くれ」》

《「おれを見くびるな。まぬけな仕事仲間の目はごまかせても、おれはだませないぞ。おれはおまえのやり口を知ってるんだ。おまえの金を半分よこせ。そうすれば、だまっててやる。いいな? 相棒だよ。おれとおまえは相棒なのさ」》

再び、1910年、ギロン。
ドアをノックしてきたのは、もちろんウルフ。
エイナルが留守だと知ると、ウルフは一度去るのだが、再びあらわれ、小屋に入り、シーグを脅しはじめる。

《「おまえのおやじとおれは取引した。おれたちはいっしょに働いていたんだ。あのころ、ノームでな。おれたちは取引した。ある約束をしたんだ。やつはそれをわすれちまったらしい。わかれもいわずにあの町を出ていった。おれがここに来たのはその約束をやつに思い出させるためだ」》

《「おまえのおやじがおれからぬすんだ金はどこにある?」》

当時幼かったシーグは、ウルフのことをおぼえていない。
だいたい、父がした取引とはなにか。
父は本当に金を手に入れていたのか。
だとしたら、なぜこんな貧乏暮らしをしているのか。
また、父が湖を犬ぞりで渡ろうとしたこととウルフとは、なにか関係があるのだろうか。

ところで。
この本の原題は、「リヴォルバー」だ。
タイトルになっているだけあり、本書には拳銃が重要な小道具として登場する。
父のエイナルは、シーグの12歳の誕生日に、「世界でもっとも美しいもの」といって拳銃をみせる。
その拳銃――コルト・シングル・アクション・アーミー1873年型、通称ピースメーカー――が、内部でどんな化学反応を起こすのか、ことこまかに説明する。

一方、マリアやアンナは拳銃を毛嫌いしている。
マリアがもっとも大事にしているのは黒革の聖書だ。

父と母の教えにみちびかれ、シーグはウルフと対決。
物語は数かずの伏線を回収しながら、ヤングアダルト作品らしい鮮やかな着地をみせる。



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シスターズ・ブラザース

「シスターズ・ブラザーズ」(パトリック・デウィット/著 茂木健/訳 東京創元社 2013)

原題は、“The Sisters Brothers”
原書の刊行は、2011年。

この奇妙なタイトルは、シスターズという姓をもつ兄弟という意味。
兄のチャーリーと、弟のイーライのシスターズ兄弟は、殺し屋として名高い。
このシスターズ兄弟が、提督と呼ばれるボスから指示を受け、オレゴンからゴールド・ラッシュで沸きたつサンフランシスコへ向かう――というのが、本書の大筋。
つまり、西部劇であり、ロード・ノベルの体裁をとっている。

訳者あとがきで、ゴールド・ラッシュの歴史的経緯ついて、訳者の茂木健さんが簡潔に記しているので引用しておこう。

《サクラメントの北東に位置する開拓地で砂金が発見されたのは、本書の物語に先立つこと3年前の1848年だった。これが世に言うゴールド・ラッシュの発端となり、アメリカ領となったばかりでわずか2万人ほどだったカリフォルニアの人口は、翌49年にはたった1年で一挙に10万人に増えているから、すさまじい増加率だ。》

語り手は、殺し屋兄弟の弟イーライ。
本書は、イーライによる〈おれ〉の1人称。

イーライは、巨漢で、純情で、お人好し。
でも、逆上すると手がつけられない。
イーライ自身は、殺し屋稼業にすっかり嫌気がさし、洋服屋でもやりたいと考えている。
一方、兄のチャーリーは、けちで冷血漢で大酒飲み。
しょっちゅうイーライを小馬鹿にしている、たいそう自分勝手な人物だ。

1851年のオレゴン・シティから物語はスタート。
チャーリーは提督から仕事を請け負う。
カリフォルニアにでかけ、ハーマン・カーミット・ウォームという名前の山師を始末するというのがその仕事。
提督の連絡係をつとめるヘンリー・モスが、現在ウォームを監視している。
チャーリーとイーライは、サンフランシスコのホテルでモリスと落ちあい、ウォームがどの男かを教えてもらい、その男を消すのだ。

今回は自分が指揮官になる、とチャーリー。
だから、取り分が少し増える。
そう決めたのは提督だとチャーリーはいうが、イーライは気に入らない。

ともかく、2人は翌日に出発。
以降、ロード・ムービー的珍道中が続くのだけれど、ここで感心するのはエピソードの豊富さ。
どれほどたくさんのエピソードが立ちあわられるのか、少し拾いだしてみよう。

なぜ泣いているのかわからない、めそめそ男の物語。
(めそめそ男はその後も何度か登場)

イーライが毒グモに刺される。
チャーリーは近くの町から無理やり医者を連れてきて、血清を打ってもらう。
毒グモのせいか、血清のせいか、イーライの顔は腫れあがり、奥歯が猛烈に痛むように。

2人は道を進み、イーライは開拓村の歯医者にかかる。
歯医者のレジナルド・ワッツ医師は、数えきれないほどの事業に失敗してきた人物。
ワッツ医師は、イーライに麻酔を注射し、腫れの原因である奥歯を抜く。

また、ワッツ医師は、イーライに歯ブラシを渡し、歯磨きの効能を説明。
以後、イーライは熱心に歯磨きをするように。

一方、チャーリーはワッツ医師がもちいた麻酔と注射器に大変興味をしめす。
ゆずってくれないかとワッツ医師にもちかけるが、断られたので、拳銃を抜いて脅しとる――。

これが、30ページほどまでのエピソード。
本書は300ページほどあるから、全体の10分の1ほどに、これだけのエピソードが詰めこまれている。
このスピード感と密度感が、本書の魅力のひとつ。

これらのエピソードは、作品の雰囲気を決定してはいるものの、伏線としてはあんまり機能していない。
いわば、つかい捨てのエピソード。
このエピソードの大量消費は、1人称だからこそ可能になったことだろう。
そして、エピソードはどれもこれも、ひとを食った愉快なものばかり。

カリフォルニアまでは、まだまだ遠い。
物語もまだまだ続く。

邪悪な魔女の小屋に閉じこめられる。
小屋に閉じこめられているあいだ、イーライの愛馬タブがグリズリーに殴られる。
(このあとも、タブは気の毒な目に遭いつづける)
ホテルの女中を好きになり、イーライは減量を決意する。
町では決闘を見物。
野営地にひとり見捨てられた少年に出会う――。

それにしても。
女に好かれたいばかりにダイエットを志す殺し屋の話なんて、聞いたことがない。
この種のとぼけた味わいが、本書を読む一番の愉しさだ。

後半では、いよいよサンフランシスコに到着。
サンフランシスコの街は、むやみやたらと活気がある。
なぜか片腕にニワトリを抱いた男――サンフランシスコにきたばかりに正気を失った男――から、サンフランシスコの物価高騰を聞いた兄弟は、そんな金のつかいかたはできないと顔をしかめる。
すると、ニワトリ男はこういって2人を歓迎してくれる。

《「その意見には、おれも全面的に賛成するね。だからこそ、大バカしか住んでいないこの街に来て、大バカの仲間入りするあんたたちを、心から歓迎したいわけだな。ついでだから、あんたたちがあまり苦労せず大バカになれることも、願っといてやろう」》

ところで。
丸谷才一さんのエセーに「女の小説」(丸谷才一/著 和田誠/著 光文社 2001)というのがある。
おもに女性作家の作品を論じたエセー。

作者の性別はともかく、小説を男の小説と女の小説に分けるとするなら、この小説は間違いなく男の小説だろう。
全体に、乱暴で、滑稽で、ユーモラス。
徒労と哀切に満ちている。

本書では女性の影が薄い。
でも、兄弟の母親だけは別。
本を読み終えて、もう一度冒頭を開いてみると、「母に」という献辞が記されている。



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星に叫ぶ岩ナルガン

「星に叫ぶ岩ナルガン」(パトリシア・ライトソン/作 猪熊葉子/訳 評論社 1982)

原題は、“The Nargun and the Stars”
原書の刊行は、1973年。

訳者あとがきによれば、作者のパトリシア・ライトソンは、1921年生まれ。
オーストラリアのひと。
内容については、巻末の出版広告に掲載されている。この本の紹介を引こう。

《太古の岩ナルガンが深い眠りからさめ、再び大地を移動し始めた! オーストラリア原住民アボリジニーの伝説を基に描かれたファンタジーの世界。》

見返しには、作品舞台の地図がついており、物語の理解を助けてくれる。

第1章のタイトルは、「ナルガン動く」
これはプロローグに当たる章。
ナルガンといううごく岩が、ウォンガディラという山深い土地にやってきたこと。
このあたりの沼や木にすむ古い生きものたちは、それを黙認していること。
そして、この土地で生まれ育った、チャーリー・ウォータースと、その妹イディの、歳をとった兄妹がここで暮らしているということ。

2章目から物語はスタート。
主人公の名前は、サイモン・ブレント。
年齢は書いていないが、10歳くらいに思える。

交通事故で両親を亡くしたサイモンは、ウォータース兄妹の家にもらわれることに。
2人は、サイモンのお母さんのまたいとこに当たる。
それまで、サイモンはウォンガディラなんて地名を聞いたことがなかった。

イディがサイモンを迎えにきて、2人は汽車に。
駅ではチャーリーが迎えにきてくれ、1時間以上もドライブして、やっとウォンガディラの家に到着。
チャーリーとイディは、ここで牧羊を営んでいる。

サイモンは、あたりを探検。
山の上に沼があり、そこに昔からすんでいるポトクーロックという生きものと出会う。
ポトクーロックはいたずら好きな、河童みたいな生きもの。
また林には、大勢の、ツーロングと呼ばれる小人のような生きものがすんでいる。

ところで。
最近、山にはブルドーザーや地ならし機械――これは原文のママ。ローラー車みたいなものだろうか――が入りこみ、大きな音を立てて、木々をなぎ倒している。
古い生きものたちは、これが気に入らない。
ある嵐の晩、ツーロングとポトクーロックは、地ならし機械を沼に沈めてしまう。

翌日は大騒ぎ。
警察がきたり、近所のひとたちが駆りだされて捜索がはじまったり。
もちろん、地ならし機械はみつからない。
それどころか、ブルドーザーまで行方不明に。
地ならし機械が沼に沈んでいることは、ポトクーロックに教わってサイモンは知っていた。
けれど、ブルドーザーの行方はわからない。

ひとりでブルドーザーをさがしていると、サイモンは不思議なことに気づく。
苔に自分の名前を書いた大きな岩が、なぜか峡谷の上にきている。
これもツーロングのしわざだろうかと考えていると、ぺちゃんこに押しつぶされた羊をみつける。
サイモンがポトクーロックにこの岩のことを訊くと、この古い生きものはいう。

《「あれはここのものじゃない。あれはナルガンなんだ」》

サイモンは、チャーリーにこのことを相談。
この土地で生まれ育ったチャーリーは、ポトクーロックやツーロングのことをよく知っていた。
あとでわかるけれど、もちろんイディも。

サイモンとチャーリーは、ナルガンを調べにいく。
ナルガンは、一見ただの大きな岩にしかみえない。
が、サイモンが木の棒を投げつけると、はね返ってくる。
サイモンはあやうく、はね返ってきた木の棒にぶつかりそうに。

チャーリーがロープと馬のサプライズをつかって、ナルガンをうごかそうとすると、ナルガンは抵抗する。
また、そのとき生じたナルガンのかけらは、坂を上っていった。

その晩、ナルガンはサイモンたちが眠っているウォンガディラの家に忍びよってくる――。

評論社の児童書は、一体これは子ども向きの本だろうかと思うものが多い。
本書も、そんな作品のひとつ。
ナルガンがウォンガディラの家をのぞきにくる場面など、ほとんどホラーめいている。
でも、最後まで読んだひとは、なにか不思議なものを読んだという感銘を得るのではないか。

このあと、サイモンとチャーリーは、ポトクーロックやツーロングたちと会見。
これら土地の精と話すには、面倒な手続きがいるのだが、サイモンがそれをやりおおせて三者協議となる。
ポトクーロックやツーロングも、ナルガンのことを好ましく思っていない。
できれば追い払いたいと思っているが、やりかたがわからない。

ナルガンのことを知っているのは、洞穴にすむナイオルだと、ツーロングはいう。
ナイオルに会うためには、サイモンがひとりでナイオルたちを訪ねなければいけない――。

ポトクーロックやツーロングやナイオルといった土地の精たちは、人語を解するものの、人間をそれほど気にとめていない。
かれらははるか昔から、この土地に暮らしている。

またナルガンは、土地の精たちよりも、さらに昔から存在している。
そして、ここが大事なところだが、ナルガンは別に敵ではない。
人間と、土地の精と、ナルガンのもつ時間はそれぞれちがっている。
今回の出来事は、それぞれ別の時間をもつ者たちが出くわしたために生じたにすぎない。
人間と土地の精にとっては、ナルガンを追い払えればそれでいいのだ。

この作品は、3人称多視点。
視点はときおりナルガンにも移る。
視点の移行はたいへんスムーズ。

この作品は、アボリジニの伝説をもとに書かれたと紹介文にはある。
もとの伝説はどんなものなのだろう。

児童書には、子どもが都会をはなれ、親戚の家にやってくるといったパターンの話がたくさんある。
でも、親戚の家で、同年代の子どもにまったく会わないという作品も、ずいぶんめずらしい。
人間関係の話ではなく、自然と人間の話であることが、このことからもよくわかるものだ。



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オンブレ

「オンブレ」(エルモア・レナード/著 村上春樹/訳 新潮社 2018)

原題は、“Hombre”
原書の刊行は1961年。

本書には、短篇「三時十分ユマ行き」が併録されている。
原題は、“Three―Ten to Yuma”
1953年に、雑誌「ダイム・ウェスタン・マガジン」に掲載されたとのこと。

「オンブレ」は、「太陽の中の対決」というタイトルで1967年に映画化されているそう。
また、「三時十分ユマ行き」は、1957年に「決断の3時10分」のタイトルで、2007年には「3時10分、決断のとき」として映画化されている。

このうち、2007年の「3時10分、決断のとき」は映画館でみた。
ラッセル・クロウが主演の映画で、面白かった。
今回原作を読んでみたら、ラストが映画とちがっている。
でも、映画のラストもエルモア・レナード風だ。

本書は西部劇小説。
「オンブレ」の舞台はアリゾナ。
1884年8月12日の火曜日と、その前後のできごと。
1人称〈私〉による視点から書かれているけれど、主人公は〈私〉ではない。
〈私〉はナレーターにすぎなくて、主人公はオンブレ――スペイン語で「男」の意味――との異名をもつ、ジョン・ラッセルだ。

本書は、この物語をどこから書きはじめたらいいのかという、〈私〉の自問自答からはじまる。
この書きだしは、「オタバリの少年探偵たち」にそっくり。
もちろん、その後の展開は児童書とは似つかない。

〈私〉は、「ハッジ&ホッジズ」という駅馬車会社に勤めている。
「ハッジ&ホッジズ」は、南行きの駅馬車路線を閉鎖し、スイートメアリから撤退するところ。
〈私〉も別の仕事をみつけなければいけない。

そんなスイートメアリの町に、陸軍がひとりの少女を連れてやってくる。
17歳の娘、マクラレン嬢。
チリカワ族――アリゾナ州に住むアパッチの部族――の襲撃にあって連れ去られ、4、5週間後に救出された。
陸軍は、まだ南行きの駅馬車が運行していると思い、少女を連れてきたのだった。

それから、除隊兵があらわれる。
トーマス砦からやってきた、一週間後に結婚する予定という除隊兵は、ビスビーまでいきたいと告げる。

さらに、ドクター・フェイヴァーという人物が、15歳年下の美しい妻を連れてあらわれる。
サン・カルロスで2年ほど、インディアン管理官をしていた人物。
ドクター・フェイヴァーは、個人的に馬車と御者を雇えないものかと、〈私〉の上司であるミスタ・メンデスにかけあう。
営業所には、ここを引き払うさいにつかう馬車――主に雨天用につかわれるマッド・ワゴンという馬車――が一台残っている。
それをつかえないか。

スイートメアリからでたがっている〈私〉も、ドクター・フェイヴァーの申し出に加勢。
マクラレン嬢も連れていけば、道中で親しくなれるかも。

交渉の末、ミスタ・メンデスは特別運行の馬車を走らせることに。
乗客は、〈私〉、マクラレン嬢、ドクター・フェイヴァー、その妻、除隊兵、ジョン・ラッセル。
それから、御者をつとめるミスタ・メンデス。

出発直前、フランク・ブレイデンという名前のならず者があらわれる。
典型的なならず者として、ブレイデンはこう描写される。

《すべてが同じ材料から作り上げられ、兄弟みたいな同質の連中と一緒でなければ、微笑みを浮かべることはまずない。そして仲間たちと一緒にいるときには、彼らは常にうるさい。大声で話し、大声で笑う。》

フランク・ブレイデンは、除隊兵に難癖をつけ、馬車の切符をとりあげてしまう。
しかし、その後のことを考えれば、除隊兵は運がよかったのかもしれない。

ともかく馬車は出発。
途中、デルガド中継所による。
そこから、ドクター・フェイヴァーの希望で、閉鎖されたサン・ペテ鉱山を通る道をゆくことに。
サン・ペテ鉱山に着いてみると、これは駅馬車のルートではないと、フランク・ブレイデンは腹を立てる。

休憩し、再び出発。
本来の駅馬車のルートではないので、道は険しい。
そして、強盗があらわれる。
結果、乗客たちは、灼熱の荒野で逃避行をつづけることに――。

この作品の主人公、ジョン・ラッセルは複雑な生い立ちの人物としてえがかれている。
血筋の4分の3は白人で、4分の1はメキシコ人。
メキシコで暮らしていたが、アパッチの襲撃を受け、連れ去られた。
イシュ・ケイ・ネイという名前をつけられ、チリカワ族に育てられ、部族の副酋長のひとりであるソンシチェイの息子となった。
アパッチのもとで暮らしたのは、6歳から12歳くらいまで。

その後、ジョン・ラッセルは、陸軍への物資補給を請け負う馬車隊をもつジェームズ・ラッセル氏と出会う。
ラッセル氏がトーマス砦にいるとき、少年ラッセルがほかの虜囚と一緒に連行されてきたのだ。
ラッセル氏は商売を譲渡し、ラッセル少年とともにコンテンションで暮らすことに。
ラッセルは学校にまでいく。

が、16歳くらいでラッセルはそこを去り、全員がアパッチであるインディアンの自治警察に入隊。
そこで3年をすごしたのち、マスタンガー――野生馬を捕獲し、飼い慣らして鞍を置けるようにする仕事――となる。

ラッセルが駅馬車に乗るのは遺産相続のため。
ジェームズ・ラッセル氏が亡くなり、コンテンションにある地所が遺されたのだ。
ところが、ラッセルはいくのを渋っている。
友人であり、商売仲間であるミスタ・メンデス――ミスタ・メンデスはラッセルから馬を買っていた――の説得で、ラッセルはようやく駅馬車に乗ることにし、そしてこの事件に遭遇したのだった。

ラッセルは冷静沈着で、なにを考えているかわからない。
これは、〈私〉というナレーターを通して人物をえがくときの利点だろう。
ラッセルは英語ではなく、スペイン語で話そうとする。
そんなラッセルを、ミスタ・メンデスは白人の世界にもどそうとしている。

エルモア・レナードは会話を書くのがすこぶるうまい。
会話はつねに緊迫感に満ちている。
ならず者のフランク・ブレイデンが、除隊兵から駅馬車の切符をとりあげる場面をはじめ、本作でもそんな場面は枚挙にいとまがない。

スイートメアリからデルガド中継所までいく駅馬車の車内で、ラッセルはサン・カルロスで警察の仕事をしていたことをもらす。
居留地の警察は全員がアパッチ。
車内には重苦しい沈黙がただよう。

デルガド中継所に着くと、ドクター・フェイヴァーはミスタ・メンデスに、ラッセルと同席したくない旨をもちかける。
ミスタ・メンデスはラッセルにそのことを告げる。
少しごねるラッセルを、ミスタ・メンデスは説得する。

《「言い合いをする価値のあることなのか?」とメンデスは言った。「ことを荒立て、みんなを不愉快な気持ちにさせるほどのことか? ああ、みんなは間違っている。しかしここで全員を説得することと、それをただ忘れちまうことと、どっちが簡単かね? おまえにもそれくらいはわかるだろう?」
「学んでいるところだよ」とラッセルは言った。》

こうして、ラッセルは御者台に乗ることに。
後半、強盗のあと、荒野をさまようはめになった乗客たちは、皆ラッセルを頼る。
かれだけが、苦境から逃れるための知識や経験や技術をもっている。
でも、ラッセルはリーダーのように振る舞ったりはしない。
ただ、皆がついてくるのを黙認するだけだ。

社会の規範からはなれ、なにもかも個人の決断に還元される状況。
そんな状況下で、ラッセルは際立った人物像をみせる。
これは、エルモア・レナードの他の作品にもいえることかもしれない。

「三時十分発ユマ行き」
これは3人称。
主人公は、ビスビーの保安官補ポール・スキャレン。

スキャレンは、無法者ジム・キッドを護送しているところ。
コンテンションの町で、ユマ行きの列車に囚人を乗せなければいけない。
しかし、ジムの仲間がジムを奪還しようとしている。
くわえて、ジムに弟を殺された男が、ジムの命を狙っている。
スキャレンは、ぶじユマ行きの列車にジムを乗せることができるのか――。

この作品もまた、緊張の糸が途切れない。
レナード作品の、緊張の糸は鋼鉄でできているかのようだ。

ところで。
本書を読んで、一番驚いたのは、村上春樹さんによる訳者あとがきに書かれた、「エルモア・レナードは売れない」ということばだった。

《少し前に――エルモア・レナードが――亡くなってしまったのはとても残念だし(2013年没)、その作品が日本でアメリカ本国ほどの人気を博さなかったことも、僕としてはいささか不満に思うところだが(各社の編集者はみんな「レナード、思うように売れないんですよね」とこぼしていた)、本書に収められたような西部小説で、少しでも新しい読者を掘り起こせればなあと、レナード・ファンとしては微かな期待を寄せている。》

エルモア・レナードが売れないなんて、ちっとも知らなかった。
こんなに素晴らしく面白いのに。



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ミサゴのくる谷

「ミサゴのくる谷」(ジル・ルイス/作 さくまゆみこ/訳 評論社 2013)

原題は、“Sky Hawk”
原書の刊行は2011年。

児童書。
〈ぼく〉の1人称。
舞台はスコットランドの村。
主人公はカラムという、11歳の男の子。

3月遅く。
カラムと、友だちのロブとユーアンは、川でやせっぽっちの赤毛の女の子と出会う。
女の子の名前は、アイオナ。
アイオナは川に手を入れ、ブラウントラウトを手づかみで捕まえる。
が、そんなアイオナに、ロブが突っかかっていく。

ここはカラムの川だ。
おまえは泥棒だ。
おまえのおふくろも泥棒だった。
おれのおやじの金を盗んで逃げたんだ。

カラムとユーアンがとめるのも聞かず、ロブはアイオナから魚をとりあげる。
アイオナは、コートと運動靴を残したまま、向う岸へ。
でも、途中、川に落ちてしまい、向う岸にはい上がる。

ロブとユーアンが去ったあと、カラムはアイオナのことを心配する。
アイオナはコートも着ていないし、靴もはいていないし、服はびしょぬれ。
うろうろしてたら凍えてしまう。

森でアイオナに会ったカラムは、コートと靴を返す。
すると、アイオナは、またこの農場にきていいのなら秘密を教えてあげるという。
条件は2つ。
だれにもいわないこと。
あたしをこの農場からしめださないこと。

カラムは了承。
あしたの朝、2人は湖で会うことに。

家に帰ったカラムは、父さんに農場の秘密について訊いてみる。
「なんの秘密も思いつかないな」と、父さん。

翌朝、カラムは農場の手伝いもそこそこに湖へ。
アイオナは、オークの木の上に居心地のいい場所をつくっていた。
古い木箱で椅子をつくり、古いハリケーンランプを枝にかけ、毛布やビスケットもおいてある。
でも、アイオナの秘密はこの場所のことではなかった。
アイオナにうながされ、湖の島にあるアカマツの木立に目をやると、ミサゴが巣をつくっている。
「ミサゴがこの農場にいるなんて!」

カラムは、近くの自然保護区で2羽のミサゴが巣をつくっているのをみたことがある。
ミサゴが巣をつくった木は、人間に卵を盗まれないように、鉄条網でかこわれ、監視カメラが設置されていた。

アイオナは、オス鳥が巣をつくるところを最初からみていたという。
あしたの午後、メスのミサゴがくるよと、アイオナ。
次の日、また2人でミサゴをみていると、アイオナがいったとおりメスのミサゴがあらわれる――。

ミサゴのことは2人の秘密。
だから、だれにも話せない。
カラムは、父さんや母さんや、兄のグレアムや、ロブやユーアンをごまかさなければならない。

また、カラムはアイオナの家庭のことも徐々に知るように。
アイオナは、イカレタじいさんとあだ名をつけられた、おじいさんの小屋で暮らしている。
お母さんはダンサー。
ロンドンの舞台にでていると、アイオナはカラムに説明する。

アイオナは、カラムのクラスに通うようになる。
でも、みすぼらしい格好をして、お弁当ももってこないアイオナは、クラスのみんなにバカにされるばかり。
カラムも、ロブやユーアンの目を気にして、アイオナを邪険に扱ったりしてしまう。

2人はしばらく疎遠になってしまうのだけれど、そこに大変なできごとが。
アイオナに呼ばれ、カラムが駆けつけてみると、ミサゴのメス鳥が釣り糸にからまり木の枝からぶら下がっている。

こうなると、もう秘密などとはいってられない。
カラムは父さんを頼り、父さんは自然保護区のヘイミッシュに連絡。
ヘイミッシュはすぐきてくれ、ぶじミサゴをすくいだしてくれる。
さらに、発信器もとりつけた。
これでアイリス――アイオナがつけたミサゴの名前――がどこにいても、グーグルアースでわかるように。

父さんたちは、オークの木の上にツリーハウスをつくってくれる。
夏休みになると、カラムとアイオナはそこでほとんど毎日アイリスを観察。
卵からひなもかえり、すっかり大きくなった。
ミサゴは渡りをする。
もうすぐアフリカに向かうはず。

このあたりまで読んで、アイオナの家族の過去の話が、いろいろと物語にからんでくるのだと思ったのだけれど、この予想ははずれた。
このあと、物語は急転直下。
ミサゴの渡りと歩調をあわせ、物語は外へ外へと向かっていく。

アイリスはフランスに渡り、ピレネー山脈を越え、地中海を通って、アフリカのガンビアへ。
しかし、そこで3日もうごかない。
アイリスになにかあったのだろうか。
救うためにはどうしたらいいか。
カラムは懸命に考える。

自然や環境といった題材と、小道具としてのテクノロジーが、児童書という枠のなかでうまくひとつになっている。
ストーリーが思いがけず国際的になるのも楽しい。

この本はカバーをとると、木の上にいるカラムとアイオナの絵があらわれる。
これもまた、思いがけない楽しさだ。



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「マラマッド短篇集」「喋る馬」「レンブラントの帽子」

バーナード・マラマッドは1914年、ユダヤ系ロシア移民の子としてニューヨークのブルックリンに生まれた。
亡くなったのは、1986年。

マラマッドの短篇集を読んだらやめられなくなり、立て続けに3冊読んだ。
読んだのは、
「マラマッド短篇集」
「喋る馬」
「レンブラントの帽子」
の3冊。
収録作は以下。

「マラマッド短編集」(加島祥造/訳 新潮社 1979)

「最初の七年間」 The First Seven Years
「弔う人々」 The Mourners
「夢に描いた女性」 The Girl of my Dreams
「天使レヴィン」 Angel Levine
「見ろ、この鍵を」 Behold the Key
「われを憐れめ」 Take Pity
「牢獄」 The Prison
「湖上の貴婦人」 The Lady of the Lake
「夏の読書」 A Summer's Reading
「掛売り」 The Bill
「最後のモヒカン族」 The Last Mohican
「借金」 The Loan
「魔法の樽󠄀」 The Magic Barrel

巻末の訳者あとがきで、加島祥造さんはマラマッドの作品を3つに分けて紹介している(加島さんによれば、ある批評家の分類とのこと)。

1.ニューヨークのユダヤ人もの
「最初の七年間」「弔う人々」「天使レヴィン」「われを憐れめ」「掛売り」「借金」「魔法の樽󠄀」

2.ユダヤ人の登場しないニューヨークもの
「夢に描いた女性」「牢獄」「夏の読書」

3.イタリアもの
「見ろ、この鍵を」「湖上の貴婦人」「最後のモヒカン族」

収録作のなかで好きなのは、まず「天使レヴィン」
それから、「弔う人々」「夢に描いた女性」「われを憐れめ」「夏の読書」

マラマッドの作品は、貧乏話が多い。
「喋る馬」の訳者あとがきで、柴田元幸さんがいうところの、《貧乏抒情》。

《貧乏なのに美しい、という背反でもなく、貧乏だからこそ美しい、という手放しの肯定でもない。貧乏と美が否応なしに、好むと好まざるとにかかわらず合体させられている。》
(否応なしに傍点)

でも、貧乏話でも、「掛売り」「借金」は、痛ましくて読むのが辛い。
その点、「天使レヴィン」「われを憐れめ」などは、ファンタジックな要素がある分、民話のような味わいがあり、読んでいて助かる。

イタリアものはあまり買わない。
少々冗長すぎる気がする。
貧乏話の凝縮さのほうが好ましい。

「喋る馬」(柴田元幸/訳 スイッチ・パブリッシング 2009)
カッコ内は、「マラマッド短篇集」でのタイトル。
初出情報も掲載されていたので、一緒に記しておく。

「最初の七年」(最初の七年間) 1950
「金の無心」(借金) 1952
「ユダヤ鳥」 The Jewbird 1963
「手紙」 The Letter 1972
「ドイツ難民」 The German Refugee 1963
「夏の読書」1956
「悼む人たち」(弔う人々) 1955
「天使レヴィーン」(天使レヴィン) 1955
「喋る馬」 Talking House 1972
「最後のモヒカン族」 1958
「白痴が先」 Idiots First 1961

この作品集では、「マラマッド短篇集」にあった3つの分類に加えて、さらに2つの要素がみられるように思う。
ひとつは、「ユダヤ鳥」「喋る馬」のような寓話的作品が加わったこと。
これらの作品では、物語の最後にファンタジーが恩寵のようにあらわれるのではなく、最初から鳥や馬がしゃべっている。

もうひとつは、「手紙」のようなスケッチ風の作品が加わったこと。
作品の頭と尻尾を切り捨てて、そのあいだだけをごろんと転がしたような作品。
切れる前の弦のような緊張感がある。

「レンブラントの帽子」(小島信夫/訳 浜本武雄/訳 井上謙治/訳 夏葉社 2010)

「レンブラントの帽子」 Rembrandt‘s Hat 1973
「引き出しの中の人間」 Man in the Drawer 1968
「わが子に、殺される」 My Son the Murderer 1968

「レンブラントの帽子」は、少し詳しくみていきたい。
主人公は、アーキンという名前。
ニューヨークの美術学校で教える、34歳の美術史家。
この作品は、3人称アーキン視点。

ある日、アーキンは学校で、ひとまわり年上の彫刻家ルービンがかぶっている帽子をほめる。
それ、とてもいい帽子ですね。
レンブラントの帽子そっくりなんですよ。

ところが、それからというものアーキンはルービンに避けられるように。
一体なぜ避けられなくてはいけないのか。
アーキンは訳がわからない。

2、3か月過ぎても、アーキンはルービンに避けられる。
気を揉むたちのアーキンは、ルービンになにか失礼なことをいったかと思い悩む。
そのうち、だんだん仲がこじれて、2人は互いを避けあうように。

そうなると逆に、2人あちこちの界隈で出くわすことになる。
2人はお互いを、うんざりするほど意識している。
ある日、一時限授業に駆けつけた2人は、校舎の前でぶつかってしまう。
かっとなった2人は、お互いをののしりあう――。

マラマッドは、気を揉むひとを書く。
たとえば、「マラマッド短篇集」に収録されている、「牢獄」
夫婦で生活用品などを売る店をやっている、その夫が、店のものを万引きする女の子をみつけて気を揉む。
あの子が菓子をくすねたって、たいした損じゃないだろ、くすねさせておけ、と思ったり、おまえはお人好しすぎるぞと、自分のことを叱ったり。
気を揉む様子が作品になるという作風。

「レンブラントの帽子」も、そんな作品のひとつ。
ただ、この作品の場合、彫刻家のルービンがなぜそんなに気分を害しているのかが、アーキンにはわからない。

校舎の前でぶつかってから、半年くらいたったころ、アーキンはルービンのアトリエに入る。そして、ルービンの作品をながめているうちに、アーキンはルービンの気持ちの一端がわかったような気になる。
また、ルービンの身になり、ルービンがどう感じたのかアーキンは考えてみる。

というわけで、アーキンがルービンの気持ちを理解する過程が、この作品となっている。
人情の微妙さを、ユーモラスで精妙な筆致でえがいている。
とにかく大変な完成度。
大筋のあいまに、過去のエピソードが挿入されるところなど、精密な部品がはめこまれたときのカチッという音が聞こえてくるよう。
この作風で、これ以上の完成度はもう望めないのではないか。

「引き出しの中の人間」
これは、イタリアものの変奏というべき作品。
イタリアもののひとつである、「最後のモヒカン族」では、画家の落伍者を自認する主人公のファイデルマンが、ジョット研究をしにイタリアにやってくる。
そこで、スキンドというイスラエルからきたユダヤ難民と出会い、悩まされる。

「引き出しの中の人間」の舞台は、イタリアではなくソ連。
妻を亡くし、ソ連に旅行にきた〈私〉は、タクシーの運転手であるユダヤ人、レヴィタンスキーと出会う。
運転手をしているものの、レヴィタンスキーは本来作家であり、国外で出版してくれないかと、〈私〉に原稿をみせる。
みせたのは、英語に翻訳された、4つの短篇。
〈私〉は、その出来映えに感心。
でも、ソ連体制下で原稿を国外にもちだそうとしたら、どんな目にあうかわからない。
かくして、〈私〉は煩悶するはめに。

ほかのイタリアもの同様、この作品も長すぎる気がする。
でも、4つの短篇のあらすじが紹介される最後の場面は忘れがたい。

「わが子に、殺される」
これはスケッチ風の短篇。
1人称と3人称が入り乱れ、会話にカギカッコがつかわれない。
内容は、心を開かない息子と、息子を心配する父親の話。

息子のハリィは22歳。
部屋に閉じこもり、煙草を吸い、新聞を読み、夜は戦争のニュースばかりみている。
職探しにでかけても、せっかくみつけた働き口を自分から断ってしまう。

父親のレオは息子のことが心配でならない。
勤め先の郵便局で2週間の休暇をとり、息子の部屋の前の廊下に立ち、話しかける。
ハリィに届いた手紙をこっそり読み、それがばれ、
《おれのことをコソコソ調べたりしやがって。殺してやる。》
などと、ハリィにいわれる。

息子が外にでると、父親はあとをつける。
ハリィが浜辺に立っているのをみつけたレオは、息子のそばに駆けよる。
「自分で自分を孤独にしてしまった息子」に、レオは語りかける。

《ハリィ、どう言ったらいいのかな。でも、人生なんて決して楽なもんじゃないんだよ。それだけしか、わしには言えない。……》

ここでは、《貧乏抒情》は影をひそめている。
代わりに、悲痛さと抒情がないまぜになったものがあらわれて、ひとを打つ。

本書の装丁は、和田誠さん。
バーコードが嫌いな和田誠さんらしく、ISBNのバーコードは帯に印刷されている。
カバーには、レンブラントの絵がえがかれているけれど、カバーをはずすと、少し困ったような顔をしたおじさんの絵があらわれる。
きっと、ルービンにちがいない。

また、巻末には、荒川洋治さんによる、「レンブラントの帽子について」という文章がついている。
そのなかで、荒川さんは「レンブラントの帽子」について、こんなことを書いている。

《四〇〇字詰の原稿用紙なら、三〇枚を少しこえるていどの短いものだが、人間の心の色どりと移ろいが、これ以上なく哀切に、精密に、劇的に、あたたかみをもって描かれている点で、マラマッドの短編の代表作であるだけでなく、二〇世紀アメリカ文学のなかでも屈指の短編であろうと思われる。》

《最後の場面は、胸にせまる。人間が放つ光を見た。そんな気持ちになる。》


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灼熱

「灼熱」(シャーンドル・マーライ/著 平野卿子/訳 集英社 2003)

「トーニオ・クレーガー」が面白かったので、同じ訳者の本を読んでみた。
作者のシャーンドル・マーライはハンガリーのひと。
カバー袖の略歴を引用してみよう。

《1900年、コショ(現スロバキアのコンツェ)に生まれる。
 フランクフルト大学及びベルリン大学に学ぶ。
 その頃、無名のカフカを見出し、ハンガリーで翻訳。
 1930年代にハンガリーを代表する作家になるが、48年に亡命。
 作品はすべて発禁処分となり、やがて忘れられた。
 1989年、ベルリンの壁崩壊の直前、亡命先のサンディエゴで自殺。
 1990年、祖国ハンガリーで出版が再び開始される。
 90年代末、本書の国際的な成功により、20世紀の最も重要な作家のひとりに名を連ねることとなる。》

訳者あとがきには、もう少し詳しい紹介が載っている。

マーライは、ドイツ移民の家庭に生まれ、生家は貴族に列せられたブルジョアだった。
ベルリンで同郷のローラと出会い結婚。
当時の有力紙、「フランクフルト新聞」の特派員としてパリに住む。

1929年、ハンガリーにもどり作家活動に入る。
1934年、自伝的小説「ある市民の告白」で大成功をおさめる。
第2次大戦後、共産主義に反対。
1948年、妻とともに亡命。

亡命先は、イタリア、アメリカ、再びイタリア、カナダ、アメリカ。
雪解けの時代に出版の誘いがあったものの、共産主義体制下のハンガリーでの出版をマーライは拒み続ける。

1985年、85歳のとき、最後の亡命地であるアメリカのサンディエゴの警察学校で銃の訓練を受ける。
1986年、妻のローラが亡くなる。
1989年1月15日、日記に「時は来た」と記し、自らに銃口を向ける。
享年89歳。
国をでてから41年後のこと。

で、本書の話。
タイトルの「灼熱」は、直訳すると「蝋燭が燃えつきる」となるそう。
登場人物は、回想シーンをのぞけば、ほぼ3人。
物語のなかの時間も、やはり回想をのぞけば一昼夜にしかならない。
ストーリーは、主人公が親友と再会し、語りあうというだけ。
ほとんど、お芝居のよう。

そのため、描写は大変濃密。
作品全体に、緊張感と不穏さがみなぎっている。

3人称。
主人公の名前はヘンリク。
作中では、回想をのぞくと、将軍と書かれる。

城館に住む、75歳の将軍のもとに一通の手紙が届く。
41年ぶりに、親友のコンラードがやってくるという。
将軍は、ニニという名前の乳母を呼ぶ。
ニニは91歳になる、なにもかもおぼえている女性。
将軍はニニに、コンラードを迎えるための準備を相談。
ニニはすぐ段取りをととのえる。

以下、回想シーンへ。
将軍の父は近衛将校。
1850年代、パリの公使館で特使をつとめていたとき、舞踏会で伯爵令嬢である母と出会い結婚。
母はハンガリーの城館にやってくる。

8歳のとき、将軍はパリにある母の実家へ。
そこで体調をくずし、将軍の乳母であるニニが呼ばれる。
ニニは4日後に到着。
将軍は一命をとりとめる。

その後、少年の将軍は母やニニとともにブルターニュへ。
ブルターニュからもどると、父がウィーンで待っており、士官学校へ入れられる。

この士官学校で、将軍は親友となるコンラードに出会う。
コンラードの父親は、ガリツィアの役人で男爵。
母親はポーランド人。
コンラードは寡黙で注意深く、笑うと子どもっぽいスラブ風の表情が浮かぶ少年だった。

結核のおそれが生じたため、将軍は一時城館に帰る。
そのとき、将軍の願いでコンラードも同行。
コンラードはヘンリクの両親に受け入れられる。
それからというもの、2人は夏やクリスマスになると城館にやってくるように。

あるとき、2人はコンラードの両親を訪ねる。
コンラードの両親は、困窮しながら自分の子どもを育てていた。
コンラードは将軍にいう。

《「僕は軍人だ。だから殺し、殺されるように教育された。僕はそれを疑わなかった。でも、もし僕が殺されなければならないのなら、なぜ両親はこんなことを引き受けなければならなかったんだ?」》

コンラードは音楽に魅入られる性質があった。
将軍にそれはない。
あるのは将軍の母。
あるとき、将軍の母とコンラードは、われを忘れてショパンの「幻想ポロネーズ」を弾く。
その姿をみた将軍の父は、将軍に、「コンラードは決していっぱしの軍人にはなるまい」という。
「別種の人間だからだ」

やがて2人は若い将校となり、ウィーンで同じ部屋を借りて住みながら軍務につくように。
将軍は社交生活に余念がない。
が、コンラードは規則正しく、僧のように暮らしている。
僕の財産をつかってくれと、将軍はコンラードにいうが、コンラードは受けとらない――。

ところで。
この小説は全20章からなる。
これまで要約したあたりが、だいたい7章目まで。
8章目から時間が現在にもどる。
コンラードが城館にやってきて、将軍と会うのがちょうど9章の最後。
章立てとしては、コンラードの登場は半分あたりからとなるけれど、作品全体の分量としては、ここが3分の1くらい。

ここまで読んでくると、当然いくつかの疑問が浮かぶ。
ともに育った親友と41年間会わないとは尋常ではない。
将軍がコンラードと最後に会った日付を正確におぼえているのも妙。
一体、2人のあいだになにがあったのか。

将軍が、城館に到着したコンラードと再会してから、ストーリーは2人の会話で進んでいく。
2人は会っていなかった歳月について、また様変わりした世の中について語りあう。
食事を終え、暖炉と蝋燭の光のなかで話を続ける。
会話は螺旋をえがくように、謎の中心に向かっていく。

将軍はクリスティーナという女性と結婚する。
小さな町の質素な家で、病気の父親と物静かに暮らしていた女性。

このクリスティーナとコンラードとのあいだに、なにかがあった。
そしてコンラードが将軍の前から去った、1899年7月2日、2人で狩りにでかけたその日に、決定的なことが起こった。
それは一体なんなのか。。
41年間そのことについて考え続けてきた将軍は、精緻に、明晰に、長ながと、その日起こったと思われることについてコンラードに語り続ける。

本書の文章は固有名詞がほとんどない。
抽象度が高く、比喩が多く、硬質で断定的。
おとぎ話の文章をまわりくどくしたよう。

この文章が、41年間親友を待っていたという、おとぎ話のような物語をよく支えている。
例として、将軍とコンラードの友情について書かれた部分をみてみよう。

《ふたりの友情は生涯通用するあらゆる重要な感情と同じく、真摯で言葉のいらないものだった。そして、それらの感情のように、これもまた恥と罪の意識を含んでいた。人を奪い、わがものとしたら、罰を受けずにはいないのだから。》

41年の歳月は、謎に対する答えをすでにどうでもいいものにしている。
正解もなければ、だれかを裁くということもない。
人生があたえた一撃については考え続けるほかない。

《「生き残った者は誰でも常に裏切者なのだ」》

という将軍のことばは痛切だ。

本書の登場人物は将軍とコンラートの2人だが、もうひとり、将軍の乳母であるニニがいる。
ニニもまた、おとぎ話の登場人物のようで、大変魅力的。
赤ん坊の将軍に、最初に乳をあたえたのはニニだった。

《年は十六で、とてもきれいな娘だった。小柄だが筋肉質で、まるで身体のなかに秘密の力が備わっているかのように落ちついていた。》

そして、現在91歳になったニニはこう書かれる。

《ニニの力は建物や人間、壁や家具調度、そのすべてにくまなく行きわたっていた。もしニニがいなかったら、この館も様々な調度も、古い古い布のように触れたとたんに崩れてばらばらになるのではないか、人々はこう感じることがあった。》

登場人物も少なく、構成もシンプル。
にもかかわらず、文章の力だけで一冊の作品として成り立っている。
おそるべき豪腕ぶり。

訳者あとがきによれば、本書はドイツ語からの重訳だとのこと。
作者のマーライが亡くなったのは、国をでてから41年後のことで、それは将軍がコンラードを待っていた年月と重なる。

《それだけでなく、マーライの前半生と後半生の明暗までもが、ヘンリク(将軍)のそれとぴったり重なるのは、偶然とはいえ、興味深い。》

と、訳者の平野卿子さんは記している。


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見習い職人フラピッチの旅

「見習い職人フラピッチの旅」(イワナ・ブルリッチ=マジュラニッチ/作 山本郁子/訳 二俣英五郎/絵 小峰書店)

イワナ・ブルリッチ=マジュラニッチは、クロアチアの名高い作家。
「昔々の昔から」は、あんまり素晴らしかったのでメモをとったおぼえがある。
「昔々の昔から」「昔々の昔から(承前)」

その「昔々の昔から」にくらべると、本書のほうがより親しみやすい。
視点が、主人公フラピッチの行動からはなれることはないし、児童書のもつイメージの範疇に物語がよくおさまっているし、宗教色や郷土色も少ない。
それに、ストーリーの面白さはずば抜けている。

訳者あとがきによれば、本書はクロアチアのひとならだれでも知っている物語だそう。
1913年に初版が出版されて以来、ずっと読みつがれているとのこと。

文章は、3人称のですます調。
ときどき作者が顔をだして語りかけるスタイル。
小学校中学年向けくらいの読者を想定しているといえるだろうか。

主人公は、靴屋の見習い職人フラピッチ。
両親のいないフラピッチは、ムルコニャ親方のもとではたらいている。
このムルコニャ親方は、昔、悲しいできごとがあったため、すっかり冷たい性格になってしまった。
親方の奥さんは逆に、もっと心のやさしい性格になったのだけれど。

さて、ある日のこと。
あるお金持ちが、自分の息子のためにブーツを注文した。
が、できあがったそのブーツがきついと、お金持ちはブーツを受けとらず、お金も払わなかった。
腹を立てたムルコニャ親方は、フラピッチにやつあたり。
フラピッチは怒鳴られたり、殴られたりする。

その晩、フラピッチは親方のもとをはなれ、旅にでようと決意。
火にくべろと親方がいった例のブーツをはき、置き手紙を書き、パンとベーコン、突き錐、糸、革の切れはし、ナイフといった仕事道具をカバンにつめ、いたんでいた帽子のまわりに、革の切れはしを縫いつけて、さあ出発。

夜、親方の家を抜けだしたフラピッチは、明け方には町はずれに。
そこで、苦労して牛乳配達をしている老人と出会う。
フラピッチは老人を手伝い、建物の4階まで牛乳をはこんでやり、配達先のお手伝いさんには、牛乳を下までとりにいくようにお願い。

老人と別れて草むらで寝ていると、親方の家にいた犬のブンダシュがあらわれる。
ブンダシュも、親方のところから逃げてきたのだ。
フラピッチとブンダシュは道連れに。

その後も、フラピッチは愉快に旅を続けていく。
青い星のついた家で、お母さんと2人で暮らしている少年のために、見失ったガチョウをさがしたり。
石切工たちと出会ったり。
が、旅の3日目にして災難に。
雷雨をさけて橋の下にもぐりこんで寝たところ、大事なブーツが盗まれてしまった。
盗んだのは、先に橋の下にいた、黒い男。
たとえ10年かかってもブーツをとりもどすんだと、フラピッチははだしで出発。

しばらく歩いていくと、前に奇妙な女の子が。
女の子の名前はギタ。
きれいな格好をして、肩に緑のオウムをのせている。

話を聞くと、ギタはサーカスの団員。
病気をして、元気になったらあとからくるようにと、ある村に置いていかれた。
で、いまサーカスを追いかけているところ。
ギタもまた、フラピッチとともに旅をすることに。

古典的な児童文学の主人公らしく、フラピッチは勇敢でやさしく、非の打ちどころがない。
朝、ブーツが盗まれたことに気づいたフラピッチついては、こう。

《だれだって、あんなすてきなブーツを盗まれたら、泣きだしてしまうでしょう。はだしで長い旅に出なければならないとしたらなおさらです。
 でも、フラピッチは泣きませんでした。しばらく考えていましたが、とつぜん立ちあがり、ブンダシュを呼んでいいます。
「さあ、ブンダシュ、あの男をさがしに行こう。たとえ十年かかってもさがしだして、ブーツをとりもどすんだ。たとえ、王宮の煙突につるしてあったとしても」
 そういってフラピッチは、ブーツをさがしにはだしで出発しました。》

また、フラピッチとギタは農家で草刈りの仕事を手伝うことに。
でも、ギタはサーカスの仕事のほかはよく知らない。
すぐ飽きてさぼるので、農夫に追い払われてしまう。
そのとき、フラピッチはこう思う。

《「だれも仕事を教えてやらなければ、仕事がわからないのは当然だから、ギタが悪いんじゃない。いっしょに旅をしているからには、ぼくがギタのめんどうをみなければ。夕食も半分分けてやろう」》

このあとも、フラピッチの旅は波乱万丈。
火事にでくわし、火を消すのを手伝ったり、盗まれたブーツをとりもどしたり、市場で貧しいかご売りが、かごを売るのを手伝ったり。
そのときかぎりと思われた登場人物が、後半ふたたび登場したり。
思いがけないことがたくさん起こり、最後は大団円。
あれもこれもみんな伏線だったのかという展開には、思わず拍手をしたくなる。

訳者の山本さんは、この本を訳してるというだけで、クロアチアのひとにほめられたという。
なるほど、クロアチアのひとたちが自慢に思うだけのことはある。

絵は、二俣英五郎さん。
あたたかみのある絵で、物語をより親しみやすいものにしている。


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ひみつの白い石

「ひみつの白い石」(グンネル・リンデ/作 奥田継夫/共訳 木村由利子/共訳 冨山房 1982)

これは児童書。
作者のグンネル・リンデはスウェーデンのひと。
カバー袖にある作者紹介を引用しよう。

《1924年、スウェーデンのストックホルムで生まれたグンネル・リンデは、物語をつくるのが大好きな少女でした。おとなになってからも、新聞記者、ラジオやテレビの番組プロデューサーなどをしながら童話を書き、1958年の「透明クラブとトリ小屋舟」で児童文学作家としてデビュー。その後も次々と作品を発表し、1964年の「ひみつの白い石」には、ニルス・ホルゲルソン賞が与えられています。》

また、奥田継夫さんによる訳者あとがきには、作品のタイトルと出版年が記されている。
少々重複するけれど、これも引用しておこう。

《1958年、「透明クラブとトリ小屋舟」でデビュー。
 1959年、「煙突横丁」で名声を確立。
 1964年、「ひみつの白い石」でニルス・ホルゲルソン賞。
 1997年、すでに冨山房から翻訳出版されている奇想天外なメルヘン、「ママたちとパパたちと」。
 1978年、ラブ・ストーリーの「人生がだいじなら」。》

本書は3人称。
女の子と男の子の、友情の物語だ。

物語の最初と最後に、作者が顔をだしている。
いわば、エピローグとプロローグ。
この部分だけですます調なので、本編に入ると違和感がある。
でも、じきそんなことは忘れてしまう。

舞台は、スウェーデンの小さな町。
夏休みの終わり、あと一週間で新しい学年がはじまるというところ。

主人公のひとり、フィアは、黒い髪をした背の低いやせぽっちの女の子。
お母さんはピアノの先生。
小さな町では、ピアノの先生などは無用の長物と思われている。
そのため、フィアも学校ではからかわれ、肩身のせまい思いをしている。

フィアのお母さんは、判事さんの家に間借りしている。
判事さんの家には、マーリンおばさんという家政婦がいて、このひとが大変な意地悪。
フィアは、マーリンおばさんのことを、「エプロン魔女」と呼んでいる。

もうひとりの主人公は、ハンプスという名前の男の子。
親を亡くし、靴屋をしているおじさんの世話になっている。
おじさんには、自分の子どもだけで6人の子が。
半年ごとに引っ越しするので、どの土地にいっても、新しい靴屋さんと呼ばれている。

ハンプスはなかなかの暴れん坊。
いつでも厄介ごとを起こすので、すぐ引っ越すのは都合がいい。

そんなわけで、判事さんの家の前に引っ越してきたハンプスは、判事さんの家の門から外をながめているフィアと出会う。
ハンプスに名前を訊かれたフィアは、とっさに「フィデリ」とこたえる。
まるでプリンセスのような名前。
同じく、フィアに名前を訊かれたハンプスは、ちょうど通りかかったサーカスの車に貼ってあったポスターをみて、「スーパーヒーロー」と名乗る。

フィアには、お守りにしている白い石がある。
小さな、すべすべした、大事な石。
その石がほしくなったハンプスは、フィアに交換条件をもちだす。

《「ね、教会の時計台にさ、目と鼻と口をかきくわえたら、その白い石をおれにくれるかい?」》

フィアは了承。
その夜から、さっそくスーパーヒーローは行動を開始。
仔細は略すけれど、みごとに時計台に顔を描いてみせる。

翌朝、それを知ったフィアはびっくり仰天。
約束どおりハンプスに会い、白い石を渡す。
すると、ハンプスはフィアにこんなことをいう。

《「一日じゅう、だまりっぱなしで、人がなにをいっても、すごくおこっても、返事をしなかったら、この石、返してやる。できる?」》

もちろん、フィデリであるフィアは、この試練に立ち向かう。
ごちそうさまをいわなかったために、マーリンおばさんにからまれたり、判事さんに誘われてお母さんと一緒にサーカスをみにいったり――フィアはハンプスのことをサーカスの子だと思っているので、時計台にいたずら描きをしたのがだれかばれてしまうと気が気ではない――しながら、フィアは難題をやりとげる。

次の日、フィアはハンプスに会い、白い石をとりもどす。
そして、こんどはフィアがハンプスに難題を。

《「サーカスの象を学校の女の先生の前にくくりつけること」》

こうして、白い石を仲立ちに、フィアとハンプスは親しくなっていく。

2人がだしあう難題は、作中では案外あっさりと乗り越えられる。
それが、この作品をファンタジーがかった愉快なものにしている。
2人がおたがいをよく知らず、別の名前で呼びあうことは、このファンタジー性を保証しているものだろう。

訳文は調子がいい。
よすぎるくらい。
木村由利子さんの翻訳に、奥田継夫さんが手を入れたのではないかと思うけれど、どうだろうか。

時計台に顔を描くときのような、おもに行動を書くときは、調子のいい文体でかまわない。
でも、エプロン魔女のマーリンおばさんの意地悪さを表現するときは、調子のいい文章では間にあわなくなってくる。
そのため、この作品は、やけに調子がいいところと、そうでないところが混在しているのだけれど、ストーリーが楽しいので読んでいるときは気にならない。

マーリンおばさんの意地悪さは、妙にリアリティがある。
でかけるときマーリンおばさんは、わざと判事さんのワイシャツにアイロンをかけないでおく。
判事さんが、しつけの悪い子ども――フィアのこと――と、その母親を放っておくなら、くしゃくしゃのワイシャツを着ることになっても仕方がないと思っている。

ところが、帰ってみると、ワイシャツにはちゃんとアイロンが。
フィアのお母さんであるペターソン夫人が、気をきかせてアイロンをかけたのだ。
しかし、マーリンおばさんは逆恨み。
わたしの留守をねらって点数かせぎしようとしたのね。

そこで、マーリンおばさんは、アイロンのかかったワイシャツの上にどっかりと腰をおろす。
――シャツをたんすにしまうってことに気がつかなかったのは、ペターソンさんが悪いのよ。
マーリンおばさんは、つねに自分を正当化することを忘れない。

さて、このあともフィデリになったフィアと、スーパーヒーローになったハンプスは、たがいに試練をだしあい、乗り越えていく。
コーヒーショップのピアノを弾くこと。
ゆで玉子を判事さんのベッドのなかに入れること。
さらに、判事さんのベッドに入れたゆで玉子をとりもどすこと。

この最後の試練のために、ハンプスは判事さんに捕まりそうになり、2人は窮地に立たされる。

ハンプスはフィアのおかげでこの町が気に入り、もう引っ越しはしたくない。
また、フィアもハンプスと一緒に学校にいきたいと思っている。
はたして、2人の願いはかなうのか。

子どもは子どもの理屈で行動する。
その理屈はときとして、大人には思いもよらない。
本書では、それがうまく表現されている。
物語の最後のほうで、フィアとハンプスはこれまでの経緯を判事さんに説明するのだが、判事さんは2人のいうことがわからない。
そこで、2人は顔をみあわせる。

《かわいそうな判事さん! 救いようがないほどおとなになってしまった判事さん!》

それから。
フィデリとスーパーヒーローは、フィアとハンプスにもどらなければいけない。
学校がはじまれば、どうしたってもどらないわけにはいかない。
そのことに触れているエピローグは秀逸。

さし絵は、エリック・パルムクビストというひと。
登場人物のからだのうごきをたくみにとらえたペン画で、物語をより楽しいものにしている。


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