幽霊たち

「幽霊たち」(ポール・オースター/著 柴田元幸/訳  新潮社 1995)

オースター作品は、気になりつつもほとんど読んでいなかった。
いままで読んだのは1冊、「ブルックリン・フォリーズ」だけだ。
この2冊を読んだ感想をひとまとめにいうと、「自分がつくった土俵のなかで、きっちり仕事をするひとだなあ」。
けっして大風呂敷をひろげない。
たためるぶんだけ風呂敷を広げる。
もちろん、風呂敷の広げかたやたたみかたには相応の芸がある。

本書、「幽霊たち」は薄い。
新潮文庫で読んだのだけれど、全部で144ページしかない。
このなかに、訳者あとがきと解説が2つ入っているから、それをのぞくと本編は正味122ページ。
薄い本がすきなので、この薄さが好ましい。
それにしても、解説が2つもついているのはなぜだろう。
少しでも、本を厚くしようとしたのだろうか。

内容は、純文学的探偵小説といった趣きのもの。
普通、探偵小説は事実関係を追いかけていくものだけれど、この小説は探偵役がたいそう内省的になる。
そうせざる得ない状況に置かれてしまう。
冒頭はこうだ。

《まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、ブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。ブラウンがブルーに仕事を教え、こつを伝授し、ブラウンが年老いたとき、ブルーがあとを継いだのだ。物語はそのようにしてはじまる。》

じつに魅力的な書きだし。
素晴らしいので、もう少し続けて引用したい。

《舞台はニューヨーク、時代は現代、この二点は最後まで変わらない。ブルーは毎日事務所へ行き、デスクの前に坐って、何かが起きるのを待つ。長いあいだなにも起こらない。やがてホワイトという男がドアを開けて入ってくる。物語はそのようにしてはじまる。》

物語は、3人称ブルー視点で語られる。
このあと、探偵ブルーはあきらかに正体をいつわっているホワイトという男から依頼を受ける。
「ブラックという男を必要がなくなるまで見張り続けてほしい」
というのが、その依頼。
手まわしのいいことに、ホワイトはすでにブラックの住んでいるアパートの真向かいにある、もう一軒のアパートを借りてあるという。

かくして張りこみがはじまる。
ブルーは、ホワイトが用意してくれた部屋にいき、向かいのブラックの部屋を見張り続ける。
が、ブラックは1日中、本を読んだり書きものをしたりするばかり。

ブルーは、ブラックとホワイトの関係を想像し、仮説をたてる。
2人は兄弟で、大きな金銭問題がもち上がっているのではないかなどと考えてみる。
ごくたまにブラックが外出するときは尾行する。

そのうち、ブルーはブラックの生活にすっかり同調してしまう。
みていなくても、ブラックがなにをしているのかわかるようになる。

毎日の、あまりの変わりばえのなさに不安になり、師匠であるブラウンに手紙を書き、アドバイスをもとめる。
なにかヒントになるのではないかと、ブラックが読んでいる本――ソローの「ウォールデン」――を買って読む。

そんな日々を送るうち、ブルーの恋人はブルーから去ってしまう。
ブルーは、ホワイトと会おうと、週に一度送っている報告書の宛先である私書箱におもむき、ホワイトがくるまで張りこむ。
また、物乞いの老人に変装して、ブラックとの接触をこころみる。

とまあ。
ストーリーを紹介してみたけれど、それだけでは意味がない。
本書の面白さは、ストーリーというよりも、その語り口にあるからだ。
それに、いくら薄くても、起こった出来事だけでは100ページにもおよばない。

出来事以外に、この作品に、物理的にも内容的にも厚みをあたえているのは、まずブルーの内面だ。
ブルーは、ほとんど進展をみせることのない仕事にたいし、悩み、いらだち、想像をふくらませる。

加えて、あちらこちらに挿入される、魅力的なエピソードも欠かせない。
ストーリーのすきますきまに、つねにエピソードが配置されているといってもいいくらいだ。
そのエピソードは、文学や映画にかんするものが大部分。
たとえば、ホーソーンにかんするエピソード。
ソローの親友で、おそらくアメリカ最初の作家であるホーソーンは、大学を卒業するとセイレムの母親の家にもどり、自分の部屋に閉じこもって、そこから12年間でてこないで小説を書いていた、とか。

この豆知識的なエピソードは、作品に文学的な雰囲気をあたえている。
本書なかで、「ウォールデン」が「森の生活」と訳されていないのも、雰囲気づくりのためだろうか。
「森の生活」じゃなくて「ウォールデン」じゃないと、という判断がきっとあったにちがいない。

思えば、「ブルックリン・フォリーズ」には、カフカについての魅力的なエピソードが挿入されていた。
あんまり魅力的なので、いまあの本のことを思いだそうとしても、カフカの逸話しか思い出せないほどだ。

文章や語り口についても少し。
この作品は会話にカギカッコがつかわれていない。
そのため、会話が静かな感じがする。
なぜだかわからないけれど、カギカッコをつかわない会話は、つかう会話よりも静かに響く。
サイレント映画の字幕をみているよう。

また、現在形が多用されている。
現在形を多用すると、語り手の時間が停まるような印象を受ける。
発端から終末まで、事態を把握した不動の語り手が、全体を俯瞰しながら、登場人物たちの営為を記しているような感じをおぼえる。

それから、いまさらだけれど、登場人物たちに色の名前がつけられている。
これは、この小説が現実に密着したものではなく、寓話めいた作品であることをあらわす目印のようなものだろう。

さらに、最初に提示された以上に、登場人物が増えるということがない。
新しい情報をもった、新しい展開をもたらす、新しい登場人物はあらわれない。

加えて、探偵小説の枠組みをつかっていることが、作品に統一感をあたえている。
情報の提示の仕方が抜群にうまいことも指摘しておこう。

これらの要素が組み合わされて、作品全体が地面から少し宙に浮いたような、抽象化されたような効果をかもしだしている。
おそらく、オースター作品が好きなひとは、この少し浮いたような感じが好きなのではないだろうか。




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かかしのトーマス

「かかしのトーマス」(オトフリート・プロイスラー/作 ヘルベルト・ホルツィング/絵 吉田孝夫/訳 さ・え・ら書房 2012)

前々回、ウェストールの「かかし」をとり上げた。
で、今回はかかしつながりで、「かかしのトーマス」を。

プロイスラーは、ドイツの名高い児童文学者。
もっともよく知られた作品は、「大どろぼうホッツェンプロッツ」(偕成社)シリーズだろうか。
でも、読んだことがない。
プロイスラーの作品で読んだことがあるのは、「クラバート」(偕成社 1986)一冊きりだ。

「クラバート」は、残念なことにあまり面白いとは思えなかった。
まず、いささかくどすぎた。
それに、主人公が不気味な親方の手からやっと逃れたと思ったら、不気味なヒロインの手に落ちてしまったという感じが否めなかった。
ヒロインの手に落ちるということは、つまりハッピーエンドなのだけれど。
どうも素直にうなずけない。
へんてこな読みかたかもしれないが、そう読んでしまったのだから仕方がない。

そういえば、「クラバート」の舞台は水車小屋だ。
ウェストールの「かかし」も水車小屋が重要な役割をはたすから、ここにも共通点がないこともない。
こうやって、無理にでも共通点をみつけると、本を読む興趣が増すものだ。

さて。
「かかしのトーマス」はウェストールの恐るべき「かかし」とはちがい、もっと低年齢層向きの、いかにも児童書らしい作品だった。
ページ数も100ページちょっとと薄手で読みやすい。
さし絵もたくさん入っている。

語り口は、3人称トーマス視点。
ストーリーは、まずトーマス誕生のいきさつから。
キャベツを食い荒らすスズメたちに腹を立てていた、お百姓のトビアス・ゾンマーコルンは、下男のグスタフにかかしをつくるようにいう。
かかしづくりには、トビアスの2人の子ども、ジーモンとウルゼルも参加。

3人は、畑の真ん中に熊手の柄をさしこむ。
そして、ハシバミの長い棒を十字架のように結わえつけ、麦わらのほうきを頭にし、コートを着せ、グスタフの古い帽子を頭にのせ、赤いマフラーを首に結んで、両手に3つずつ、ひもでつないだ空き缶をぶら下げて、さあ完成。
最後にウルゼルが、「トリビックリ・トーマス」とかかしに命名する。

ここまでが第1章。
第2章はこうはじまる。

《トリビックリ・トーマスは、自分の仕事と、子どもたちにもらった立派な名まえとで、とてもほこらしい気もちになりました。》

というわけで、以後はトーマス視点に。
トーマスは身うごきこそとれないものの、人間や動物の話が理解できる。

畑にトーマスがあらわれたことが、スズメたちは気に入らない。
「はやく家に帰りやがれってんだ」などと不平をいう。
それが、トーマスには面白くてならない。
ところが、トーマスが身うごきできないことを、スズメたちはだんだん察しはじめる。
振る舞いも大胆になり、「こいつに、びくびくするこたあない」と、皆でキャベツ畑にやってくる。
そのとき、風が吹き、トーマスの両腕にぶら下がった空き缶がガラガラと音を立て、スズメたちは散りぢりに逃げていく。

トーマスは、お日様の運行にあわせて自身の影が伸びちぢみするのに驚く。
雨に降られてずぶ濡れになり、晴れの日が続いて喜ぶ。
しかし、晴れの日ばかり続くとキャベツが育たない。
日照りを心配するグスタフとトビアスの話を聞いて、トーマスは反省する。

《かわいそうなこのキャベツ諸君は、のどがかわいて死にそうになっている――。それなのにわたしは、晴れの日をよろこんでいたのか。わたしはなんというばか者なのだ。》

じき雨が降り、キャベツ畑は生気をとりもどす。
これは雨の魔法だと、トーマスは考える。

そのうち、トーマスはお月様と話をするようになる。
お月様は世界中のことを知っている。
トーマスも世界を旅してみたいと思うが、それはできない。
畑のなかで、ひとりぼっちで立っているほかない。

トーマスは、うごくことこそできないが、感受性に富んでいる。
周りのできごとに目を向け、耳をかたむけ、仕事にはげむ。
読んでいて、愛すべきかかしだと思わずにはいられない。

このあと、キャベツの収穫がはじまる。
キャベツがなくなれば、トーマスの仕事もなくなる。
自分はどうなるのだろうとトーマスが思っていると、まったく思いがけないことが起こる。
この思いがけなさは、児童文学特有のものだといっていいだろう。

結果、トーマスは世界を旅するようになる。


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