図書館は出版営業を妨げているか

2009年7月9日、国際ブックフェアでおこなわれた造本装丁コンクール表彰式の受賞挨拶で、新潮社の石井常務取締役は、出版危機の要因として図書館をとりあげたそう。

「前門の虎の新古書店、後門の狼の図書館、天からグーグルが舞い降りてきた」

ことし(2010)の国際ブックフェアに新潮社は参加していないと思ったけれど(欲しい本があったので、さがしたのだ)、これは上記のことが関係しているのだろうか。
(ひょっとしたら、去年も参加していなかったかもしれないけれど)

それから。
総務省・経済産業省・文部科学省の3省による「デジタル・ネットワーク社会における出版物の利活用の推進に関する懇談会報告」には、図書館の現状についてこう書いてあるそう。

「実際に図書館で貸し出されている本はベストセラー本や娯楽本が多く、著作者や出版者、地方の書店などへの経済的な影響が少なくない」

――はたしてこれは確かな裏づけがあっての発言なのか。

というわけで、雑誌「出版ニュース 2010年8月中旬号」(出版ニュース社)において、日本図書館協会事務局長の松岡要さんが反論をこころみている。
この記事について、簡単にメモをとっておきたい。

まず、そもそも図書館は出版に影響をもたらすような規模にはなっていない。
2009年度の全国の公共図書館の総資料費総額は、294億5949万円。
これは、出版販売額の1%を若干超すていど。

では、図書館が出版営業を妨げているという印象はどこからでてくるのか。
そんなに図書館はベストセラーを貸出しているのか。

図書館におけるベストセラー貸出調査はすでにおこなわれている。
公立図書館貸出実態調査 2003 報告書」がそう。
この調査により、ベストセラー本の所蔵状況はそれほど多くはないということが判明。
ただ、3省による報告は、この調査を踏まえていない。

そこで、松岡さんは今回の反論を書くにあたり、現在のベストセラーである「1Q84 BOOK1」(村上春樹 新潮社 2009)を公共図書館がどれくらい所蔵しているのか調査した。

調査の方法は、自治体を人口別に分け、そのなかで貸出の多い10の自治体を対象にするというもの。
また、貸出の多い10の政令指定都市も対象としている。
調査日は、2010年7月11日。

この調査結果は大変面白い。
細かいことは、実際にこの論文をみてもらうことにして、乱暴にまとめてしまうと、対象として抽出された50の自治体の総図書館数は425館。
その、「1Q84 BOOK1」の平均所蔵冊数は4.57冊。
だいたい、1館につき、4、5冊もっていることになる。

そして、1冊あたりの予約件数は22.85件。
これまた乱暴に、貸出期間が2週間とすると、だいたい1年待ちということになるだろうか。

――1年待つくらいなら買っちゃったらどうだ?

と、個人的には思うけれど、このひとたちはそんなことをものともしないのだろう。
気が長いなあ。

ちなみに、50の自治体の総予約件数は4万4千380件。
出版者が、図書館が営業を妨げていると強く感じるのはここかもしれない。
4万×定価ぶんの、得べかりし売上を失っていると感じているのかも。

でも、「1Q84 BOOK1」が出版されたのは2009年5月。
図書館で予約をしているひとたちは、1年や2年待つのが平気なひとたちだ。
かりに、すべての図書館から「1Q84」を一掃したとして、この4万人のひとたちが購入するほうにまわるかというと、
――まわらないよ
と、思うけれどどうだろう。

むしろ、図書館は本来縁のないひとたちを読者として迎えているとはいえないだろうか。
読者になりたいなら我々に金を払えと、出版社はいいたいかもしれないけれど。

ひとつの自治体で、100冊以上「1Q84 BOOK1」をもっているところもないわけではない。
トップは大阪で、139冊。
次が神戸、114冊。
その次が横浜、110冊。

1冊当たりの予約件数はこう。
大阪、12.56件。
神戸、15.83件。
横浜、29.15件。

予約件数のトップは横浜で、3207件。
すさまじい。

この論文では、図書館の貸出が多い地域における書店の売上減少の有無についても分析している。
結論は、「相関関係はなし」だけれど、これについては省略。

それにしても。
出版社と図書館は食いあうしかないのか。
電子出版も踏まえて、今後、うまく市場がデザインできるといいのだけれど。


=追記=

東京都書店協同組合青年部による、「電子図書館の構築支援サービスについての危惧表明と書店組合での対策のお願い」というのをみつけたのでメモ。


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書棚と平台

「書棚と平台」(柴野京子 弘文堂 2009)
副題は「出版流通というメディア」。

副題のほうが正確に内容をあらわしている。
ひとことでいうと、本書は、「出版流通はどんな風に発展してきたのか」について記した本だ。
だと思う。

じつはこの本、一年かけて何度も読み直したのだけれど、残念、理解できなかった。
うーん、頭が悪い。
以下は、この本が理解できなかったいいわけ。

自分の頭の悪さを棚に上げていうと、この本は本論の部分と序章、終章の部分のつながりがいまひとつだと思う。
序章でまず出版危機について述べ、危機に際しては歴史に学ぶことだと、明治以降の出版流通および、本とひとと金銭の出会いの場(本書では「購書空間」と呼ぶ)の成り立ちについて述べる。
ここのところはとても面白い。
よくまあ調べたものだと、感心することしきり。

でも、終章にいたって、現在における「購書空間」の新たなうごきについて語りはじめると、とたんに理解できなくなる。
最初、危機について語ったら、最後は危機への対処法について触れるのがすじじゃないだろうか。
乗っていた電車が、知らぬ間に別の路線に入ってしまったような感じだ。

いや、でもひょっとすると対処法について触れているのかもしれない。
こちらが理解できていないだけなのかもしれない。
なら、なにが理解をさまたげているのか。

おそらく、それは現在の、出版流通の問題点の洗い出しがされていないからだと思う。
歴史は語ったけれど、現状は語っていないのだ。
本書の全体が理解できないのは、おそらくそのせいだろう。

理解できた範囲でいうと、この本は「取次は悪くない」といっている本のようにも思える。
これこれこういう経緯で取次はできてきたのだから、出版危機が起こっても、それは取次のせいではない。
「取次の話をしてるんじゃない、出版流通の話をしているんだ」と、著者はいいたいだろうけれど。

本書の副題は「出版流通というメディア」。
これは、「コンビニに本を卸すようになったら、出版社が廉価版のマンガをつくるようになりました」というようなことがいいたいのではないかと思う。
つまり、流通によって、新たな「購書空間」が出現し、それに合わせるべく、コンテンツが変容していく――。

本書の後半で、マンガが日本でのみかくも巨大な市場を得たのは、日本独特の出版流通の力が大きいのではないかという指摘がある。
この指摘は大変面白い。

というわけで、本書は細部が充実。
序章と終章はなければよかったのにと、個人的には思うけれど。

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橋の上から身を投げようとしているひとを止める話。

どこかで見るか聞くかした、フランスの話。
ある哲学の先生が、こんな問題をだしたそう。

「いま君の目の前で、橋の上から身投げしようとしているひとがいる。君はそれを思いとどまらせる。なんといって止めるか」

この問題に対するいちばん短い回答は、こういうものだったそう。

「結婚してください」

問題をだしたのはアラン、回答したのはマルローだったと思ったけれど、ほんとうかどうか。

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老教授ゴハルの犯罪

「老教授ゴハルの犯罪」(アルベール・コスリー 水声社 2008)

訳は田中良知。

作者は、フランス語で執筆するカイロ生まれのエジプト人。
原書は1955年刊。
内容は、ひとことでいうと低廻趣味に満ちた一冊。
カイロの底辺にうごめく貧民たちを活写した、三文オペラ的作品といったらいいだろうか。

まずはストーリー。
3人称多視点。
舞台は第2次大戦後、1940年代後半から50年代初頭のカイロ。
訳者あとがきによれば、
「エジプトは形式的に独立していたとはいえ、まだイギリスがかなり政治に介入しており、王政も権威を失い、52年にやがてナセルによる〈エジプト革命〉を迎えようとしている時期」

主人公のゴハルはもと大学教授。
思うところあって、貧民街でなにもかも投げだしたような暮らしをしている。
ベッドもなく、古新聞の上で眠るような生活。
ハシッシュの中毒者で、麻薬が規制の対象になっていないシリアにいくのが夢だ。

さて、ハシッシュが切れたゴハルは、ゴハルを師と慕う麻薬の密売人にして貧乏詩人のイェゲーンをさがして、とある娼家に。
そこで、叔父さんへの手紙を代筆してほしいと、一番売れっ子の娘に頼まれる。
ところが、ゴハルはその娘が腕にしていた金のブレスレットほしさに、うっかり娘を絞め殺してしまう。
しかも、ブレスレットは粗悪なイミテーションにすぎなかった。

ここで、視点が変わりヌール・エル・ディーン警視による捜査が開始。
――と、紹介すると、まるでサスペンス小説のようだけれど、この小説はそういう展開にはならない。
ゴハルは、なにもかもどうでもいいと思っている男なので、捜査から逃れる気がない。
サスペンスよりも、貧民街にたむろする登場人物たちをえがく。
それが、この小説の眼目だ。

たとえば、ヌール・エル・ディーン警視。
同性愛者で、熱烈な美の崇拝者。
頭が切れ、微妙な心のひだをもった殺人犯がおかした、美的な犯罪にとり組むことを夢みている。
こんな警視は、陵辱のあとも、ものを盗ったあともない犯行現場をみて、犯人はアナーキスト的な進歩思想をもった、別の階層の知識人だと確信したりする。

麻薬の密売人であり、大変な醜男である、陽気な貧乏詩人イェゲーン。
刑務所内に会計係のポストをもっている。
懲役を受けるたびにそのポストに復帰。
刑務所長は、イェゲーンの詩の熱烈なファンだ。

それから、イェゲーン同様、ゴハルを慕っているエル・コディ。
役所づとめの美青年。
社会の不正義に敏感で、肺病を患って死にかけている若い娼婦を救出したいと思っている。
が、そのための資金が不足しているのが目下の悩み。
実行力はかけらもなく、ただ悩んでいる、たわいもない人物。
ゴハルにいわせれば、「彼の精神をこんなふうにむしばんでしまったのは、西洋の書物にかぶれてしまったからだ」

それから、ほんのチョイ役だけれど、忘れられない人物に樽男がいる。
ゴハルの部屋のとなりに住んでいるこの四肢のない男は、なぜか女性にたいそうもてて、おかみさんと痴話ゲンカしたりする。

で、ストーリーはどうなるのか。
ヌール・エル・ディーン警視が、人目を忍んでサミールという権高い美青年に会ったものの剣突をくらわせられたり、警視がイェゲーンを訪問したり、犯人はゴハルなのではないかと思ったイェゲーンがゴハルに逃亡をすすめたり、みんなが自分を買いかぶらないことに腹を立てたエル・コディが、自分が娼婦を殺したんだといいだしたり、君はただ目立ちたいだけだと、警視がエル・コディの告白を一蹴したりする。

そして、ヌール・エル・ディーン警視はしだいにゴハルの人柄に惹かれ、ついにいまの身分を捨てることを決意してこの小説は終わる。

つまり、この小説でいちばん重要なのは、ゴハルの哲学。
この小説ぜんたいが、ゴハルの哲学を確認するためのものだといっていい。

冒頭、ゴハルは乞食から、村長選挙のさい村人のほとんどがロバに投票したという話を聞き、大喜びする。

「ゴハルは感極まって、全身の力が抜けてしまった。その喜びを一言で言い表すと、心が震えおののくほどだったので、乞食に目をやると頭に一瞬かつんとやられたような気になった」

また、ゴハルがハシッシュにありつく場面。
経口薬のようにハシッシュを口に放りこむゴハルのやりかたに、イェゲーンはいつもびっくりする。

「彼(イェゲーン)の持論では、麻薬を使用する際にはもっと手の込んだ儀式を要するのだった。イェゲーンは阿片窟の幻想的な雰囲気、霧のような重く不透明で淀んだ煙、それに女のつける香水よりも残り香の強い、着物に長く染み着いて離れない甘ったるい香りが特に好きだった。そこには、彼の詩人の魂には何となく懐かしいような、ロマン主義があったのだが、ゴハルの方は口の中にぽんとハシッシュをほおり込んで、そんな感傷など一掃してしまうのだった」

これほど韜晦し、超然としているゴハルだけれど、ついポロをだしてしまうことがある。
「どうしてあなたは、民衆を食いものにしている、薄汚い奴らの不正行為を黙って看過していられるんですか」と、エル・コディにいわれたゴハルは、つい語気を強めてしまう。

「僕が黙っているのは、是認ていうことじゃないさ。僕は君よりも、ずっと効果的な闘い方をしているよ」
「どんなやり方でです?」
「非協力という態度でさ」

それからまた、ヌール・エル・ディーン警視との問答でゴハルはいう。

「人生はたやすいものなんです、あなた。生きるには人間に何がいりますか? 少々のパンがあれば、十分なんです」
「でもそれでは、一切の進歩の否定だよ!」
「選択は必要ですよ」とゴハルはぴしゃりと言った。
「進歩か平安か。僕たちは平安を選(と)ったんです」

崩壊寸前の停滞した社会では、モラルと実態のへだたりがはなはだしいものになるだろう。
作者の興味はそれをえがくことに集中している。
だから、ひとを殺しても、罪とか罰とかの話にならない。
虚飾からの離脱の話になるところが、この小説の面白さだといえるけれど、でもこれを面白いと思うのは、同じような趣味のもち主にかぎられるかもしれない。

本書の書きかたにも少し触れよう。
3人称多視点の場合、1章1視点というのが基本だろうと思う。
その章は、その人物の視点からえがかれる。
でも、この小説はそうではない。
1章のなかでも、ころころ視点が変わって、内心を描写しはじめる。
この点はエレガントさに欠けるところで、このあいだ読んだ「法王庁の抜穴」のほうがはるかに洗練されていた。

訳者あとがきによれば、この作者の日本語訳は、本書がはじめてとのこと。
2005年には、フランスで全集が刊行されるなど、近年評価が高まっているそうだ。


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ポケミスのカバーがくっついた話

少し本の整理をしたら、早川ポケットミステリにかかっているビニールカバーが、ほかの文庫本のカバーとくっついてしまっているのを見つけた。
なんということだ。
ポケミスを、文庫本に重ねていたのが敗因。
でも、くっついたままにもしておけない。
えいやとはがしたら、文庫本のカバーがだいぶ傷んでしまった。
ああ…。
こんどから気をつけよう。

というわけで。
すいません、「隅の老人の事件簿」(バロネス・オルツィ 創元推理文庫 1982)。
みんな「暗殺のジャムセッション」(ロス・トーマス 早川書房 2009)がいけないんです。
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神田古本祭りにいった話2010

10月31日日曜日、神田古本祭りにでかけた。
去年はいかなかったから、1年ぶり。

古本祭りでは、露店のミルクティーとカレーが楽しみ。
いくと必ず食べるのだけれど、今回ミルクティー売り場をみつけられなかった。
同じく、古本祭りにでかけた知人にきいてみると、「いつものところにあったよ」とのこと。
えー、そうなのか。
とても残念だ。

みつけられなかったといえば、いつも楽しみにしている筑摩書房のブースもみつけられなかった。
でも、平凡社のブースではオマケしてもらった。
長新太の「海のビー玉」と、「ルバイヤート」を買って、半額で売っていたから合計1200円くらいなのだけれど、1000円にしてくれた。
「端数切り捨てだ」
と、いってくれた売り子のおじさん、どうもありがとう。

それにしても、とにかくすごい人出。
前日、台風のため中止したせいか、いつもよりすごい気がする。
当日も時折ぱらぱらと小雨が降ってきて、そのたびに売り子さんは本にシートをかぶせたりしていた。
大変だ。

そういえば、売り子さんに買った本の領収書をくれといっているおじいちゃんがいた。
レシートが領収書の代わりになるといってもきかない。
――ここで領収書をもらうのは無理ですよ、おじいちゃん。
と、思っていたら、売り子さんがちゃんと領収書を切りはじめた。
おじいちゃんの強情に負けたのかも知れないが、その応対に感心。

大勢のひとが本を物色し、買っていくのをみると、こちらもつい頭に血がのぼってしまう。
古本祭りで売っている本というのは、特段安いわけではない。
いまはネットが充実しているから、ここでなければ手に入らないということもない。
じゃあ、なにしにきているんだといえば、頭に血をのぼらせにきているのかも。

今回、買った本のひとつは、「世界探偵小説全集 第40巻 F・グルーバー篇」(別冊宝石97号)。
たしか、300円くらいだったと思う。
グルーバーは、登場人物がやけに右往左往する、「右往左往小説」を書くひとだ。

この本を、古本祭りの帰りにパラパラやっていたら、都筑道夫さんによる「フランク・グルーバー論」が載っていて、やけに面白かった。
こういう本で作者について書いたら、もち上げるに決まっていると思うのだけれど、都筑さんはそれをしない。
「グルーバーは二流の天才」
だなんて、薄情な、でもよくうなずけることを書いている。

「明らかに発端だけ思いついて、書きながしている。それはいい。ぼくは書きながら考えていく型の作家が、わりに好きです。けれど、主役にあたえた味のおもしろさ――落語家なかまでいう、〈ふら〉だけで、長篇をあとからあとから書かれたのでは、かないません」

「話をひろげることはうまくても、つぼめることがうまくない、というのは、探偵小説ではことに、致命的でありましょう。二流だ、というのは、そこなのです」

「第三の理由は、たいへん勝手ないいぐさですが、どうもぼくは短篇のうまくない作家は、いくら長篇がうまくても、好きになれないのです。…グルーバーの長篇は、決して不器用じゃない。むしろ、器用すぎるくらいです。それでいて、短篇はうまくないんだから、おかしい。グルーバーが好きでない最大の理由は、そこなんです」

都筑さんは、自分のモノサシでグルーバーをはかっているので、その物言いはいっそ痛快。
「話のまとめかたがうまかったら、ガードナーのような真の大家になれかたも」
とも、都筑さんは書いているのだけれど、個人的にはガードナーよりグルーバーのほうが好きだ。
考えてみたら、ヘンリー・スレッサーも1冊読めたためしがないし、話のまとまっていないひとのほうが好きなのかもしれない。

今回買った本でうれしかったのは「ドガに就て」(ヴァレリィ 筑摩書房 1977)。
いつだったか、手当たり次第に吉田健一の本を読んでいたころ、近所の古本屋にこの本があった。
値段はなんと1万5000円。
ひょっとしたら、1500円の見まちがいかもしれないし、この本は版を変えて出版されたそうだから、今回手に入れた本とは別の版だったのかもしれない。
ちなみに、今回買った本の値段は1500円。
秋の夜長に読むのにちょうどよさそうな本なので、これから読むのが楽しみだ。

古本祭りとは関係ないけれど、帰りに東京にでたら、東京音頭を踊る行列に出くわした。
おそろいの格好をした女のひとたちが、道の真ん中を踊りながら通りすぎていく。
そのあとからは、「朝鮮通信使」と大書されたのぼりをもった行列があらわれて、色鮮やかな伝統衣装に身をつつんだひとたちが、金でできた小鉢をたくさんぶら下げたような鉦や、太鼓をにぎやかに叩きながらあらわれた。
どうも、なにかのイベントにぶつかったらしい。
続けて、あれが大使なのか、山車のてっぺんにある椅子にすわった、ひげを生やした男がはこばれてきた。
大使は終始にこやかな笑みを浮かべながら、沿道の見物客に、鷹揚に手を振り返していた。


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