笑いの新大陸

「笑いの新大陸」アメリカ・ユーモア文学傑作選(沼澤洽治・佐伯泰樹/編訳 白水社 1991)

「ブルフロッグの奥方」 ナサニエル・ホーソーン 佐伯泰樹訳
「使いつぶした男」 エドガー・アラン・ポー 佐伯泰樹訳
「コケコッコー!」 ハーマン・メルヴィル 佐伯泰樹訳
「生きているやら、死んでいるやら」 マーク・トウェイン 佐伯泰樹訳
「アリバイ・アイク」 リング・ラードナー 佐伯泰樹訳
「今日は金曜日」 アーネスト・ヘミングウェイ 沼澤洽治訳
「人を噛んだ犬」 ジェームズ・サーバー 沼澤洽治訳
「騾馬が庭に」 ウィリアム・フォークナー 佐伯泰樹訳
「医術は演技術」 S・J・ペレルマン 沼澤洽治訳
「歌う歌声で声の主がわかってたまるか」 フィリップ・ロス 佐伯泰樹訳
「ビッグ・シックス」 ブルース・ジェイ・フリードマン 沼澤洽治訳
「ユダヤ人鳥(ジューバード)」 バーナード・マラマッド 佐伯泰樹訳
「石の庭」 サム・シェパード 沼澤洽治訳
「ミスタービッグ」 ウッディ・アレン 佐伯泰樹訳

作品は時代順にならんでいる。
「今日は金曜日」と「石の庭」だけが戯曲。

ぜんたいにグロテスクなユーモアが多い。
新しいものほどそんな感じがする。
クラシックな作品のほうが、うるさくなくて、素直に楽しめる。

では、気に入った作品だけ簡単にメモを。

「ブルフロッグの奥方」
女性に一家言もつ〈わたし〉が、ついに結婚。
馬車に乗って新婚旅行にでかけると、夫人が完璧ではない証拠が次々とあらわれる。
たまたま、御者のミスで馬車が転覆。
気がつくと、御者に平手打ちを浴びせている魔女のような女がいる。
「こんな目にあわせやがって、げす野郎! 女だと思ってなめんじゃねえ!」

もちろん、魔女は夫人。
その後、夫人は一度婚約したものの、婚約不履行で相手を訴え、多額の賠償金をせしめていたことがわかる。
それまで、および腰になっていた〈わたし〉だったが、お金の話を聞いたとたん、夫人をかき抱いて幕。

冒頭からラストまで、みごとに整った一編。
面白さでは、本書随一。
〈わたし〉の、誇張されたものいいが一行一行面白い。
夫人が一度婚約していたことを知ったときの文章はこんな風だ。

「全男性のうちで誰よりすぐれて理想の高いこのわたしの妻たる者は、全女性のうちで誰よりも繊細で、高雅で、バラのつぼみのごとき乙女の心にみずみずしい露の滴をたっぷりときらめかせていなくてはならなかったというのに!」

とにかく素晴らしい出来映え。
構成といい、バカバカしい語り口といい、間然とするところがない。
生真面目なホーソーンらしく、バカバカしい話を、大変な完成度に高めている。
しかも、ちゃんと面白いのだからいうことはない。

「生きているやら、死んだやら」
1890年、リヴィエラのマントンヌで3月をすごしていた〈わたし〉は、ある金持ちと知りあう。
この、仮にスミスと呼ばれる金持ちから聞いた話を記したのが本編。

若かかりしころ、金持ちは画家だった。
貧乏で、同じように貧乏な画家たちと仲間をつくっていた。
若者たちはせっせと傑作を描いたものの、ちっとも売れない。
そこで、若者たちはある計画を立てる。

じつに多くの画家たちが、飢えて死んだあとに、ようやく世間から評価されている。
だから、仲間のだれかに死んでもらおう。

死ぬのは、もちろん狂言。
まず、くじ引きをして、死ぬやつを決める。
死ぬ役は、3ヶ月間、全力をかたむけて描きまくり、できるかぎりストックを増やす。
ちゃんとした絵ではなく、下書き、習作、習作の断片のたぐいでいい。
ただ、サインだけはきちんと入れておく。

そのあいだ、残りの面々はパリの画壇や画商にはたらきかける。
ころあいがよくなったら、画家を死んだことにして、盛大に葬式をやる。

若者たちは衆議一決。
計画の細部を詰めたのち、くじ引き。
死ぬ役にはミレーが選ばれる。
……

ユーモア小説のなかに、「計画もの」というジャンルがあるかもしれない。
そんな一編。
死ぬ役が残すべき絵には、こんな注文がつけられる。

「どれにでも、すぐに当人のものとわかる特徴とか癖が出ている。──まさにそれなんだよ。巨匠が死んだあとに売れるのは、世界中の美術館が途方もない値をつけて集めるのは。そいうたぐいを1トン分用意しよう」

「アリバイ・アイク」
ラードナーがたくさん手がけた野球ものの一編。
なにをするにもいいわけをしないと気がすまない選手をえがいた作品。
生き生きとした語り口が、じつに楽しい。
読むのは何度目かだけれど、今回も楽しめた。
(最初に読んだのは、たしかラードナー傑作短篇集(福武書店 1989)でだったと思う)

「今日は金曜日」
これは、戯曲風の小品。
出演者は、3人のローマ兵とヘブライ人の店の亭主。

「奴の態度には度肝を抜かれちまった」とか、「あいつ、今日はよくやったよ」とかいう会話から、イエス処刑後、現場にいたローマ兵たちが仕事帰りに一杯やっているとわかってくる。
シチュエーションを極端にグロテスクにした結果、なんともいえないユーモアがあらわれてくるという趣向。

「十字架上のキリストが、「あいつ、今日はよくやったぞ」とローマ兵にさながらスポーツ選手扱いにされ、しかもヘミングウェイ型英雄に仕立てられているところが面白い」
とは、訳者による解説。

後半は、ユダヤ系作家が多い。
そのなかで印象に残ったのは、高校生の〈ぼく〉に迷惑ばかりかけてくるクラスメイトをえがいた「歌う歌で声の主がわかってたまるか」と、ハードボイルドのパロディで、登場人物たちがやたらと哲学の専門用語をつかって語る「ミスタービッグ」

それにしても。
時代が下るにつれ、作品がこれみよがしでうるさくなってくるのは、ほんとうになぜなんだろう。


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光ほのか

「光ほのか」(マルグリット・オード 新潮社 1994)
訳は、堀口大学。
新潮文庫の一冊。
発行は1956年で、手元にあるのは復刊版。

冒頭に、訳者によるはしがきがついている。
作者のマルグリット・オードは、中部フランスの寒村に生まれ、育児院で成長。
羊飼い娘をしていたが、パリへ出て、裁縫女になる。
が、眼を病み、自身のなぐさみに書いた「孤児マリイ」が評判になってフェミナ賞を受賞。
不意の収入を得たが、それは甥たちの養育費に当て、自分は生涯屋根裏部屋に暮らしたという。

本書は、こんな経歴をもつ作者による絶筆作品。
訳者によれば、作者の人生が大いに反映されているとのこと。

ぜんぜん知らない作家だったけれど、この作品の美しさには、大いに心をうごかされた。
日本の作家でいうと、幸田文を思い起こさせるような作風。

では、簡単にストーリーを。
表題の「光ほのか」というのは、女主人公のあだ名。
原題は、「ドゥース・リュミエール」。
普通ならこれをそのままタイトルにするだろうけれど、「光ほのか」というタイトルは、主人公のあだ名というだけでなく、作品全体に象徴として響いている。
そのため、訳す必要があったと訳者ははしがきで書いている。

主人公は本名エグランティヌ・リュミエール。
でも、ここは訳者に習って「光ほのか」と呼ぼう。
ほのかは祖父と2人暮らし。
祖父は、果樹園で小作人としてはたらいている。

ほのかが生まれたとき、母は亡くなってしまった。
そのとき母を追い、父も死んでしまった。
祖父はふさぎこみ、借財が増え、結果もっていた果樹園を手放すことになってしまった。
祖父がいまはたらいている果樹園は、もとは自分のものだったものだ。

おかげで、祖父はほのかのことをうとましく思っている。
ほかに、家にはトゥー坊という名前の、ほのかの弟分の犬がいる。
祖父がふさぎこんでいるとき、ほのかはクラリッス小母さんに預けられていた。
その小母さんの家から、祖父の家にもどるとき、ほのかが拾ったのがこのトゥー坊だ。

こんな境遇のほのかだけれど、性格は怜悧で活発。
そして、とても温良。

前半の、娘時代の描写は幸福に満ちている。
果樹園の主人の息子であるノエル少年と知りあい、トゥー坊と一緒に松林の池(ほのかの父が身投げした池だ)にでかけていってよく遊ぶ。
学校にもいくようになり、最初こそいじめられるけれど、じき優しくしてくれる友人ができる。
ほのかは声が美しい。
ノエル少年とトゥー坊、そしてクラリッス小母さんと一緒に野外で遊び、歌をうたった思い出は生涯の宝となる。

そのうち、ノエル少年は遠くの学校へ通うことに。
ほのかは美しく成長。
学校を卒業してもどってきたノエルは、ほのかと再会。
再会の描写はういういしい。
2人は結婚を約束する。

このあたりまでが前半。
後半は次々と不幸が襲ってくるので、読むのがつらい。

ノエルには性悪の兄がいて、こいつが2人の仲を裂く。
身の置きどころがなくなったほのかは、パリにでて裁縫女となる。
声が美しく、音楽の好きなほのかは、隣人のオルガン弾きにみいだされ、歌をうたうようになる。
オルガン弾きも不幸を抱えている。
女優の妻に去られ、ひとり娘のクリスティヌは病気がち。
いつしか、ほのかはオルガン弾きと身を寄せあうようになるものの、脳裏にはノエルの面影があって――。

文章は3人称。
語り手の力が強く、描出話法はあまりない。
描写がとてもみずみずしく感じられるのは、現在形が多いからかもしれない。
娘時代の描写や、暴風雨といった自然描写、オルガン弾きの娘が療養している島の描写など、じつに新鮮で印象的。

以前、「いと低きもの」という小説を読んだとき、語り手の力が強く、かつ空間と時間がある、つまり「場面」がちやんとある作品は、一体どんなものになるのだろうと思ったものだった。
今回、その答えがみえたような気がする。
おそらく、それは叙事詩のようになるのだ。

ほのかはいつも受身で、自己主張に乏しい。
自分を守るということをまるでしない。
そんなことは念頭にすら思い浮かばない。

叙事詩は、たいてい運命に直面する英雄の悲劇をあつかうものだけれど、この作品で英雄の位置にあるのは、善良な娘だ。
そして、性格とは運命のことだろう。

いま調べてみたら、この作品は現在絶版とのこと。
みすず書房の「大人の本棚」シリーズなどに入れられたら、いまでも読者が得られるかもしれないと思ったけれど、どうだろうか。
あんまり古風すぎて、もはや読者は得られないだろうか。



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不変の神の事件

「不変の神の事件」(ルーファス・キング 東京創元社 1999)
訳は、高田惠子。
創元推理文庫の一冊。

これは、変てこ推理小説。
どのへんが変てこなのか。
まずは、ストーリーの紹介からいこう。

ある男が、ニューヨーク市警に通報するところから物語はスタート。
信号待ちをしていたところ、となりに停まった車が怪しい。
なんだか、男が2人、死んだ人間をあいだに挟んではこんでいるようにみえる。
追いかけて、ホテルに着き、給仕長に名前を訊くと、車の人物はトッド一家という名士たちだそう。
わたしは納税者の義務として連絡した。
ここへきて調査するのがあんたたちの仕事だ。

次章で時間がさかのぼる。
トッド家の話に。
姉のジェーンは女学生のころ、ある役者に恋文をだした。
その恋文が、リペレンという男の手に渡った。
リペレンがいうには、役者はカムバックしたがっている。
そこで、恋文をつかってスキャンダルを起こそうとしている。
ジェニーが恋文を買いもどさなければ、スキャンダルが起き、役者は話題のひととなってカムバックを果たすだろう。

要するに、リペレンはジェニーを恐喝した。
現在は夫もいるジェニーは、リペレンに1万ドルを支払った。
しかし、7通の恋文のうち、2通は返ってこなかった。
そのため、ジェニーは自ら命を絶ってしまう。

その後、リペレンがこの一家の前にあらわれる。
「不変の神」という妙な宗教にいかれているリペレンは、トッド一家のひとびとに、献金をさせてあげようなどという。
すると、ジェニーの夫であるジョナサンが激発し、リペレンを殺してしまう。

ここから、話は冒頭につながる。
死んだ男というのは、リペレンのことだった。
納税者の義務に忠実な男が通報した通り、トッド一家は死んだ男をはこんでいたのだ。
はたして、トッド一家は殺人を隠蔽し、ぶじ逃げおおせることができるのか――。

事件の事情説明は、ほとんど会話でなされる。
地の文は、人物描写が中心。
文章はきびきびし、短い章立てで視点を変えて飽きさせず、サスペンスは横溢。
ジェニーの妹のリディアが、ジェニーの元夫であるジョナサンとくっつくのか、それとも気弱な友人チャーリーとくっつくのかという恋模様も見逃せない。

ただ、話はこびはいささか単調。
章立てが短いので、話に入りこむ前に視点が変わってしまうきらいがある。
風呂に入って、まだからだがあたたまっていないのに、別の湯船にうつらなければいけない感じといおうか。

そうやって、ちょっと単調になってきたなと思って読んでいると、じき驚くべきことが起こる。
サスペンス小説だと思って読んでいたら、突然推理小説に変貌するのだ。
これにはびっくりした。

「このひとが犯人だったとは」とか、「こんな方法で殺人がおこなわれていたとは」とかいった驚きは、推理小説を読んでいれば当然あるけれど、
――まさか推理小説だったとは
という驚きは、ちょっとおぼえがない。

突然、ジャンルが変わる。
これが、この推理小説の変てこなところだ。

サスペンスから推理小説への変貌といったけれど、これには説明がいるかもしれない。
要は、自明だと思われていた殺人が、そうではなかったと判明するということ。
でも、いくら銃声はごまかせても、部屋のなかで発砲したら火薬の臭いがするだろうと思う。
このあたりは、いささか甘いのではないか。

というわけで、全体の完成度はいまひとつ。
でも、達者な話はこびですいすい読めるし、なにより大いに驚かされる。
傑作ではないけれど、読んでる最中はとても面白い読物だった。


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魂の文章術

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

では、さっそく読んだ本のメモを――

お正月に読んでいたのは、「魂の文章術」(ナタリー・ゴールドバーグ 春秋社 2006)。
旧版のタイトルは、「クリエイティヴ・ライティング 〈自己発見〉の文章術」。
本書は、この旧版を改題、増補新装したもの。

この本は、多くの文章術の本と、遠くかけはなれている。
多くの本にあるような、「どうやったら効率よく、効果的な文章が書けるのか」といった問いに、いっさい触れていないからだ。
この本に書かれているのは、ただひとつ、
「黙って書け」
ということだけ。

とにかく書く。
制限時間を好きなように決め、その時間内は手をうごかし続ける。
書いたものは消さない。
読み返さない。
つづりや、句読点や、文法は気にしない。
考えない。
論理的にならない。
心になにか怖い感じのものが浮かんできたら、それに飛びつく。
そこに、おそらくエネルギーが潜んでいる。
とにかく、一心不乱に書き続ける。

こうして、日々書き続けることで、一体なにがどうなるのか。
まず、自分を知ることができる。
それから、自分をかこむ世界について知ることができる。
忍耐力がつちかわれ、より率直になり、おそらく精神の安定が増す。
自由を得、そしてきっと文章が上達する。

つまり、この本は文章術の本などではない。
文字どおり、文章修行の本。
修行の2文字により多くのアクセントが置かれた本なのだ。
文章の書きかたの本はたくさんあるけれど、こんな本はめずらしい。

著者は、禅を学んでいるそうで、随所に師のことばがあらわれる。
師の教えは、ときおりユーモラス。
著者はあるとき、なにかを書こうとすると、きまって頭が空っぽになり、恍惚状態になる時期があったそう。
「すごい! 私は悟りを開きつつあるんだ! こっちのほうが書くことよりずっと重要だわ」

著者はこのことを師に告げた。
すると、師はこうこたえたという。
「それは怠け心にすぎん。ちゃんと仕事しなさい」

こんな風に、本書には著者の体験がたくさん盛りこまれている。
一章の長さは、長からず短からず。
ひと息に読むのにちょうどいい。
そして、ひと息に読んでいるうちに、あっというまに全部読み終えてしまう。

世の中には、傑作や名作を書いたものの、アル中になったり自殺してしまったりする作家が数多くいる。
この本が教えようとしているのは、傑作の書きかたではない。
正気でいるための書きかただ。
そして、師のいう、「つねにどんなときでも、一切衆生にやさい思いやりをもち続ける」ことを目指す書きかた。

この、「正気でいるための文章術」は、テクニカルな面ばかり語る、ほかの文章の書きかたの本の、いい毒消しになるだろうと思う。
なにかに上達したいと思ったら、それをやり続ける以外に道はないという、当たり前のことを思い出させてくれるからだ。
ひとによっては、大いに勇気づけられるだろう。

これまで紹介してきたように、この本はいささか求道的。
お正月に読んで、身を正すのにぴったりの一冊だった。


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