タナカの読書メモです。
一冊たちブログ
「シンデレラの銃弾」と「金時計の秘密」
「シンデレラの銃弾」(ジョン・D・マクドナルド/著 篠原勝/訳 河出書房新社 1992)
ジョン・D・マクドナルドは名高いスリラーの書き手。
代表作は、タイトルに色の名前がついた、トラヴィス・マッギー・シリーズだろうか。
あと、映画化された「ケープフィアー」(染田屋茂/訳 文芸春秋 1991)か。
「ケープフィアー」は読んだことがあるから、この作者の本を読むのは2冊目だ。
本書は1人称。
舞台は朝鮮戦争後のアメリカ。
主人公のタル・ハワードは捕虜交換で帰国した帰還兵。
捕虜生活の後遺症でもとの生活にもどることができない。
恋人のシャーロットともうまくいかず、仕事はクビに。
ところで、一緒に収容所にいた兵士に、ティミー・ウォールデンという男がいた。
ティミーはある晩、タルにこんな打ち明け話をする。
ティミーは兄のジョージと2人で事業をしていた。
ジョージには飲んだくれで、ふしだらで、愚痴ばかりこぼしているエロイーズという妻がいた。
ティミーは、このエロイーズと深い仲になってしまい、さらに駆け落ち話をもちかけられ、会社の金に手をつけてしまう。
経理を担当していたので、ばれないようにコツコツ現金でお金を貯め、お金は貯蔵瓶に入れてある場所に隠した。
捕虜になったティミーは、自分のしたことを後悔している。
必ず帰国し、兄のジョージにいっさいを話したいと思っている。
ところが、ティミーは収容所のなかで衰弱し、死んでしまう。
最後まで金の隠し場所は口にせず、ヒントになるのは「シンディならわかる」という言葉だけ。
帰国したものの、呆然と日々をすごすタルは、ティミーの故郷であるヒルズトンという小さな街にいってみることに。
──というのが、小説がはじまってすぐの状況。
必要な情報を的確に読者につたえるみごとな語り口だ。
さて、ヒルズトンに到着してみると知った男がいる。
名前は、アール・フィッツマーティン。
収容所内のだれよりも体力に自信があり、器用で、いつもひとりで行動していたので、ほかの捕虜たちから憎まれていた男。
フィッツは、ティミーの打ち明け話を盗み聞き、ティミーが隠した金をさがしにこの街にやってきたのだった。
「おたがいのもっている情報をだしあおうじゃないか。金がみつかったら3分の1やろう」
というフィッツの厚顔な申し出をタルは断る。
あとは定石通り。
本を書くためという口実で、タルは関係者を訪れる。
頭のネジがゆるんでしまったティミーの兄ジョージ。
ティミーとつきあっていたことのある、本書のヒロイン、ルース・スタム。
ルースの父親である、バック・スタム獣医。
ティミーを誘惑したエロイーズはといえば、セールスマンと駆け落ちしてしまっていた。
タルは、ティミーが残した「シンディが知っている」のシンディをさがすそうとする。
高校にでかけ、先生から当時のティミーの様子を聞き、さらにシンディという名前の生徒がいなかったかをたずねる。
教えてもらったシンディに電話をかけてみるが、さがしている相手ではない。
そうしているあいだ、タルを尾行しているのか、フィッツがしばしばあらわれる。
さらに、タルは警察に捕まり尋問を受ける。
それから私立探偵があらわれる。
探偵グロスマンは、登場したと思ったらすぐ死体となり、タルの車のトランクに放りこまれている。
やったのはフィッツにきまっている。
しかしなぜ──。
ストーリーは定石通りだけれど、退屈にはならない。
章ごとに、曲がり角を曲がるように新展開があらわれる。
また、細部の描写が不穏さをかもしだす。
なにかが起こりそうな感じが、全編にみなぎっている。
プロットではなく、筆力で読ませる。
よくまあこのアイデアで1冊書けると思わせる、パワフルな一冊だ。
でも、ラストはいささか苦い。
後味はいまひとつだった。
余勢をかって、同じジョン・D・マクドナルドの「金時計の秘密」(本間有/訳 扶桑社 2003)も読んでみた。
「シンデレラの銃弾」とちがい、こちらはコミカルな作品。
先に感想をいってしまうと、これはへんてこ小説だった。
「巨匠ジョン・Dの埋もれた傑作ファンタスティック・ミステリー!」
と、裏表紙に書かれているけれど、読み終えると、これはずいぶん苦労してつけた文句だなあと思う。
さて、ストーリー。
舞台はマイアミ。
3人称1視点。
主人公はカービー・ウィンター、32歳。
カービーは、育ての親であるオマー叔父さんを最近亡くしたばかり。
オマー叔父さんは、高校で物理と化学を教えながら、家でいろんなものを発明していた。
が、あるときギャンブルをしにリノにでかけ大金を手に入れる。
その後、世界中にたくさんの企業を所有する実業家に。
しかし、根っからの秘密主義で、オマー叔父さんの動向を知っているものはだれもいなかった。
叔父さんの会社でずっと寄付担当としてはたらいてきたカービーは、叔父さんが亡くなると、5000万ドルの遺産ではなく、形見の時計と手紙を手にすることに。
その手紙も受けとれるのは1年後。
みんな叔父さんが遺言できめたことだった。
──というのが、徐々に明かされる物語の前提。
小説は、そんなカービーがホテルの一室で美女にいいよられるところからスタート。
美女の名はチャーラといい、兄のジョゼフとともにカービーがオマー叔父さんから相続したと思われる遺産を狙っている。
カービーは大変奥手。
本人もそれを気に病んでいる。
女性にいいよったり、いいよられたりするいつも失敗してしまう。
こんなカービーが一念発起して、チャーラにすりよろうする場面はこうだ。
《ところが彼の裸足の爪さきは、小さなテーブルの細い脚にぶつかって冷たくはね返された。カービーは痛みのあまり、うっと呻き、バランスを崩してチャーラのほうに倒れこんだ。その体につかみかかったのは、不埒な下心というより、床に転びたくない一心でやったことだった。腕をふりまわした酔漢に飛びかかられたチャーラは、驚いて小さく悲鳴をあげながら、さっとわきによけた。やみくもにのばされた手が、金色の丈夫な生地のタイトな服の胸もとを、ぎゅっとつかんだ。強い布地はカービーの大きな半回転に耐え、ふたりは氷上の男女ペアと化したが、そのとたんにビリッという音がした。部屋の隅に転がるカービーの視界をかすめたのは、スピンしながら服から飛びだすチャーラの姿だった。彼女はベッドの縁にぶつかって一度、弾んだかと思うと向こう側に消え、続いてドスンという鈍い音がした。》
──なんともドタバタな展開。
ドタバタを文章で描写してもあんまり面白くないものだけれど、この律儀に書かれた視覚にうったえるドタバタは、かなりうまくいっているようにみえる。
訳者の本間有さんの手柄もあるだろう。
このあと、チャーラにいいよられていたカービーの前に、もっと年若い女の子があらわれる。
いよいよロマンティック・コメディ風に。
女の子の名前はベッツィ・オールデン。
チャーラの姪。
ベッツィはスイスの学校を無理やり辞めさせられ、悪事の片棒をかつがせられたことにうんざりしている。
女優としてやっていこうと、ある番組に端役として出演していたが、チャーラにより番組を降板させられ、マイアミに呼びつけられた。
そのため、ベッツィはなんとしてもチャーラの邪魔をしてやろうと心に誓っている。
ベッツイは、チャーラとジョゼフは裏街道を闊歩するブローカーなのだと、まずその正体を暴露。
ところが、神出鬼没のオマー叔父さんは、チューリッヒの隠し口座への送金を途中で停めて、チャーラたちのお金をかすめとったこともあるという。
いったいどうやったらそんなことができるのか。
オマー叔父さんの秘密とはなんなのか。
カービーにはさらに受難が訪れる。
オマー叔父さんの会社の重役たちは、オマー叔父さんがカービーに手紙と時計しか残さなかったとは、まったく信じていない。
寄付担当のカービーは、ほんとうはなにをしていたのか。
カービーともう一人の社員しかいない寄付担当の会社にながれた2700万ドルはどこにいったのか。
国税庁はその2700万ドルを遺産とみなし、課税したがっている。
話してくれれば、なんにも残してくれなかった叔父さんの代わりに、年棒2万5千ドルのポストを用意しよう──。
しかし、カービーは重役たちの申し出を断る。
ほんとうになにも知らないのだからいうことはない。
お金はみんな寄付したのだと重役たちを煙に巻き、叔父さんの形見の時計だけを受けとり会社を去る。
さて。
ここまでは、ドタバタ・ユーモア・ミステリといっても通ると思う。
しかし、この作品が、へんてこかつファンタスティックな作品となるのはこのあと。
中盤にさしかかる頃のことだ。
問題は、オマー叔父さんが残したという形見の時計。
この形見の時計には大変な秘密があった。
なんとこの時計は、ドラえもんのひみつ道具のような力をもった時計だったのだ──。
もし、この小説を読むのを途中で投げだすひとがいたら、それはここだろう。
いままで築きあげてきた作品世界が、がらがらと崩れさる。
また、なぜ律儀にドタバタを書いてきたのかもここにきて明瞭に。
あのドタバタぶりは、時計の能力を明かしたさい、突然リアリティが失われるのを恐れてのことだったにちがいない。
でも、それなら、国税庁だとか課税だとか、妙にリアリティのあることをもちださなければよかったのに。
まさか、中盤にさしかかって、こんなにファンタスティック展開になろうとは。
このあと、時計が起こす能力の説明が続く。
その説明は、律儀かつ綿密。
読んでいて、広瀬正の「鏡の国のアリス」(集英社 2008)を思い出したほど。
こんなに説明したって、はなれていった読者はもう戻ってこないだろう。
それでもなお長ながと説明を続ける。
こんな作者のことを好きにならずにはいられない。
先にも書いたとおり、ジョン・D・マクドナルドはスリラーの大家だ。
なにかが起こりそうな雰囲気をかもしだすのがじつに上手い。
この、「なにかが起こりそうな雰囲気」というのは、登場人物の動作や、心理や、状況を、とにかく描写し続けていくという、律儀さにあるのではないかと思いいたった。
ジョン・D・マクドナルドは律儀のひとなのだ。
「金時計の秘密」では、その律儀さは裏目にでてしまったけれど。
同じアイデアで、たとえばジャック・フィニィが書いていたらどうだろう。
もしかしたら、可愛らしい感じの短篇になっていたかもしれない。
ジョン・D・マクドナルドは名高いスリラーの書き手。
代表作は、タイトルに色の名前がついた、トラヴィス・マッギー・シリーズだろうか。
あと、映画化された「ケープフィアー」(染田屋茂/訳 文芸春秋 1991)か。
「ケープフィアー」は読んだことがあるから、この作者の本を読むのは2冊目だ。
本書は1人称。
舞台は朝鮮戦争後のアメリカ。
主人公のタル・ハワードは捕虜交換で帰国した帰還兵。
捕虜生活の後遺症でもとの生活にもどることができない。
恋人のシャーロットともうまくいかず、仕事はクビに。
ところで、一緒に収容所にいた兵士に、ティミー・ウォールデンという男がいた。
ティミーはある晩、タルにこんな打ち明け話をする。
ティミーは兄のジョージと2人で事業をしていた。
ジョージには飲んだくれで、ふしだらで、愚痴ばかりこぼしているエロイーズという妻がいた。
ティミーは、このエロイーズと深い仲になってしまい、さらに駆け落ち話をもちかけられ、会社の金に手をつけてしまう。
経理を担当していたので、ばれないようにコツコツ現金でお金を貯め、お金は貯蔵瓶に入れてある場所に隠した。
捕虜になったティミーは、自分のしたことを後悔している。
必ず帰国し、兄のジョージにいっさいを話したいと思っている。
ところが、ティミーは収容所のなかで衰弱し、死んでしまう。
最後まで金の隠し場所は口にせず、ヒントになるのは「シンディならわかる」という言葉だけ。
帰国したものの、呆然と日々をすごすタルは、ティミーの故郷であるヒルズトンという小さな街にいってみることに。
──というのが、小説がはじまってすぐの状況。
必要な情報を的確に読者につたえるみごとな語り口だ。
さて、ヒルズトンに到着してみると知った男がいる。
名前は、アール・フィッツマーティン。
収容所内のだれよりも体力に自信があり、器用で、いつもひとりで行動していたので、ほかの捕虜たちから憎まれていた男。
フィッツは、ティミーの打ち明け話を盗み聞き、ティミーが隠した金をさがしにこの街にやってきたのだった。
「おたがいのもっている情報をだしあおうじゃないか。金がみつかったら3分の1やろう」
というフィッツの厚顔な申し出をタルは断る。
あとは定石通り。
本を書くためという口実で、タルは関係者を訪れる。
頭のネジがゆるんでしまったティミーの兄ジョージ。
ティミーとつきあっていたことのある、本書のヒロイン、ルース・スタム。
ルースの父親である、バック・スタム獣医。
ティミーを誘惑したエロイーズはといえば、セールスマンと駆け落ちしてしまっていた。
タルは、ティミーが残した「シンディが知っている」のシンディをさがすそうとする。
高校にでかけ、先生から当時のティミーの様子を聞き、さらにシンディという名前の生徒がいなかったかをたずねる。
教えてもらったシンディに電話をかけてみるが、さがしている相手ではない。
そうしているあいだ、タルを尾行しているのか、フィッツがしばしばあらわれる。
さらに、タルは警察に捕まり尋問を受ける。
それから私立探偵があらわれる。
探偵グロスマンは、登場したと思ったらすぐ死体となり、タルの車のトランクに放りこまれている。
やったのはフィッツにきまっている。
しかしなぜ──。
ストーリーは定石通りだけれど、退屈にはならない。
章ごとに、曲がり角を曲がるように新展開があらわれる。
また、細部の描写が不穏さをかもしだす。
なにかが起こりそうな感じが、全編にみなぎっている。
プロットではなく、筆力で読ませる。
よくまあこのアイデアで1冊書けると思わせる、パワフルな一冊だ。
でも、ラストはいささか苦い。
後味はいまひとつだった。
余勢をかって、同じジョン・D・マクドナルドの「金時計の秘密」(本間有/訳 扶桑社 2003)も読んでみた。
「シンデレラの銃弾」とちがい、こちらはコミカルな作品。
先に感想をいってしまうと、これはへんてこ小説だった。
「巨匠ジョン・Dの埋もれた傑作ファンタスティック・ミステリー!」
と、裏表紙に書かれているけれど、読み終えると、これはずいぶん苦労してつけた文句だなあと思う。
さて、ストーリー。
舞台はマイアミ。
3人称1視点。
主人公はカービー・ウィンター、32歳。
カービーは、育ての親であるオマー叔父さんを最近亡くしたばかり。
オマー叔父さんは、高校で物理と化学を教えながら、家でいろんなものを発明していた。
が、あるときギャンブルをしにリノにでかけ大金を手に入れる。
その後、世界中にたくさんの企業を所有する実業家に。
しかし、根っからの秘密主義で、オマー叔父さんの動向を知っているものはだれもいなかった。
叔父さんの会社でずっと寄付担当としてはたらいてきたカービーは、叔父さんが亡くなると、5000万ドルの遺産ではなく、形見の時計と手紙を手にすることに。
その手紙も受けとれるのは1年後。
みんな叔父さんが遺言できめたことだった。
──というのが、徐々に明かされる物語の前提。
小説は、そんなカービーがホテルの一室で美女にいいよられるところからスタート。
美女の名はチャーラといい、兄のジョゼフとともにカービーがオマー叔父さんから相続したと思われる遺産を狙っている。
カービーは大変奥手。
本人もそれを気に病んでいる。
女性にいいよったり、いいよられたりするいつも失敗してしまう。
こんなカービーが一念発起して、チャーラにすりよろうする場面はこうだ。
《ところが彼の裸足の爪さきは、小さなテーブルの細い脚にぶつかって冷たくはね返された。カービーは痛みのあまり、うっと呻き、バランスを崩してチャーラのほうに倒れこんだ。その体につかみかかったのは、不埒な下心というより、床に転びたくない一心でやったことだった。腕をふりまわした酔漢に飛びかかられたチャーラは、驚いて小さく悲鳴をあげながら、さっとわきによけた。やみくもにのばされた手が、金色の丈夫な生地のタイトな服の胸もとを、ぎゅっとつかんだ。強い布地はカービーの大きな半回転に耐え、ふたりは氷上の男女ペアと化したが、そのとたんにビリッという音がした。部屋の隅に転がるカービーの視界をかすめたのは、スピンしながら服から飛びだすチャーラの姿だった。彼女はベッドの縁にぶつかって一度、弾んだかと思うと向こう側に消え、続いてドスンという鈍い音がした。》
──なんともドタバタな展開。
ドタバタを文章で描写してもあんまり面白くないものだけれど、この律儀に書かれた視覚にうったえるドタバタは、かなりうまくいっているようにみえる。
訳者の本間有さんの手柄もあるだろう。
このあと、チャーラにいいよられていたカービーの前に、もっと年若い女の子があらわれる。
いよいよロマンティック・コメディ風に。
女の子の名前はベッツィ・オールデン。
チャーラの姪。
ベッツィはスイスの学校を無理やり辞めさせられ、悪事の片棒をかつがせられたことにうんざりしている。
女優としてやっていこうと、ある番組に端役として出演していたが、チャーラにより番組を降板させられ、マイアミに呼びつけられた。
そのため、ベッツィはなんとしてもチャーラの邪魔をしてやろうと心に誓っている。
ベッツイは、チャーラとジョゼフは裏街道を闊歩するブローカーなのだと、まずその正体を暴露。
ところが、神出鬼没のオマー叔父さんは、チューリッヒの隠し口座への送金を途中で停めて、チャーラたちのお金をかすめとったこともあるという。
いったいどうやったらそんなことができるのか。
オマー叔父さんの秘密とはなんなのか。
カービーにはさらに受難が訪れる。
オマー叔父さんの会社の重役たちは、オマー叔父さんがカービーに手紙と時計しか残さなかったとは、まったく信じていない。
寄付担当のカービーは、ほんとうはなにをしていたのか。
カービーともう一人の社員しかいない寄付担当の会社にながれた2700万ドルはどこにいったのか。
国税庁はその2700万ドルを遺産とみなし、課税したがっている。
話してくれれば、なんにも残してくれなかった叔父さんの代わりに、年棒2万5千ドルのポストを用意しよう──。
しかし、カービーは重役たちの申し出を断る。
ほんとうになにも知らないのだからいうことはない。
お金はみんな寄付したのだと重役たちを煙に巻き、叔父さんの形見の時計だけを受けとり会社を去る。
さて。
ここまでは、ドタバタ・ユーモア・ミステリといっても通ると思う。
しかし、この作品が、へんてこかつファンタスティックな作品となるのはこのあと。
中盤にさしかかる頃のことだ。
問題は、オマー叔父さんが残したという形見の時計。
この形見の時計には大変な秘密があった。
なんとこの時計は、ドラえもんのひみつ道具のような力をもった時計だったのだ──。
もし、この小説を読むのを途中で投げだすひとがいたら、それはここだろう。
いままで築きあげてきた作品世界が、がらがらと崩れさる。
また、なぜ律儀にドタバタを書いてきたのかもここにきて明瞭に。
あのドタバタぶりは、時計の能力を明かしたさい、突然リアリティが失われるのを恐れてのことだったにちがいない。
でも、それなら、国税庁だとか課税だとか、妙にリアリティのあることをもちださなければよかったのに。
まさか、中盤にさしかかって、こんなにファンタスティック展開になろうとは。
このあと、時計が起こす能力の説明が続く。
その説明は、律儀かつ綿密。
読んでいて、広瀬正の「鏡の国のアリス」(集英社 2008)を思い出したほど。
こんなに説明したって、はなれていった読者はもう戻ってこないだろう。
それでもなお長ながと説明を続ける。
こんな作者のことを好きにならずにはいられない。
先にも書いたとおり、ジョン・D・マクドナルドはスリラーの大家だ。
なにかが起こりそうな雰囲気をかもしだすのがじつに上手い。
この、「なにかが起こりそうな雰囲気」というのは、登場人物の動作や、心理や、状況を、とにかく描写し続けていくという、律儀さにあるのではないかと思いいたった。
ジョン・D・マクドナルドは律儀のひとなのだ。
「金時計の秘密」では、その律儀さは裏目にでてしまったけれど。
同じアイデアで、たとえばジャック・フィニィが書いていたらどうだろう。
もしかしたら、可愛らしい感じの短篇になっていたかもしれない。
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徒然草の現代語訳いろいろ
用があり「徒然草」を読むことになった。
といっても、古文が読めるはずもない。
そこで、現代語訳をさがす。
まず、手にとったのが、「徒然草」(兼好/著 島内裕子/校訂・訳 筑摩書房 2010)。
序段を読んでみて驚いた。
その理由を説明するために、まず「徒然草」の原文を引用してみよう。
《徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて、心うつりゆく由無し事を、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。》
引用は、上記の島内裕子/校訂・訳から。
「徒然草」といえばまず思いだされる、大変有名な一節。
略したけれど、原文はまめにルビが振られていて読みやすい。
さて、この原文が、島内裕子さんの訳ではどんな風になるのか――。
《さしあたってしなければならないこともないという徒然な状態が、このところずっと続いている。こんな時に一番よいのは、心に浮かんでは消え、消えては浮かぶ想念を書き留めてみることであって、そうしてみて初めて、みずからの心の奥に蟠(わだかま)っていた思いが、浮上してくる。まるで一つ一つの言葉の尻尾に小さな釣針が付いているようで、次々と言葉が連なって出てくる。それは、和歌という三十一文字からなる明確な輪郭を持つ形ではなく、どこまでも連なり、揺らめくもの……。そのことが我ながら不思議で、思わぬ感興におのずと筆も進んでゆく。自由に想念を遊泳させながら、それらに言葉という衣裳を纏(まと)わせてこそ、自分の心の実体と向き合うことが可能となるのではなかろうか》
すごい超訳だ。
凡例にはこう書かれている。
《「訳」は、逐語訳ではなく、大胆な意訳も含まれる。徒然草の批評文学として魅力を、新鮮なかたちで現代日本語に置き換えたかったからである》
たしかに大胆。
大いに驚いた。
なんだか面白くなってきて、ほかの現代語訳もさがしてみる。
「絵本徒然草 上 」(吉田兼好/原著 橋本治/文 田中靖夫/絵 河出書房新社 2005)
橋本治さんは、「枕草子」を現代女性口語訳した「桃尻語訳」で名高い。
橋本さんなら、現代語訳の極端な例をみせてくれるだろう。
《退屈で退屈でしょーがないから一日中硯に向かって、心に浮かんで来るどーでもいいことをタラタラと書きつけてると、ワケ分かんない内にアブナクなってくんのなッ!》
大変簡潔な訳。
分量も原文と同じくらいだ。
兼好法師は、序段と75段でだいぶ矛盾したことを書いている。
序段では、「徒然なるままに書いていると物狂ほしくなる」といっているけれど、75段では、「徒然こそ素晴らしい」といっている。
そのちがいを、橋本治さんは、文章が書かれたときの年齢の差とみた。
「徒然草」は一度に書かれたわけではなく、かなり時間のへだたりをもって書かれたという説があり、橋本さんはその説をとった。
つまり、序段を書いたのは、まだ出家前の卜部兼好青年であり、75段を書いたのは、出家後の兼好法師オジサン。
さらに、橋本さんは兼好ジーサンを創作し、このジーサンに本文の註をしゃべらせている。
兼好ジーサンが、物狂ほしいという兼好青年の文章にいうのはこんなことばだ。
《お前さんがまだ、ロクにものを知らない、しかし理屈ばかりは言いたがる若造だったというだけじゃ》
さらにもうひとつ。
「徒然草」(角川書店/編 武田友宏/訳・註 角川書店 2002)
本書は、角川書店が古典の入門書として出版した「ビギナーズ・クラシックス」シリーズの1冊。
ビギナーズ・クラシックと名乗っているくらいだから、これが平均的な訳なのだろうか。
《今日はこれといった用事もない。のんびりと独りくつろいで、一日中机に向かって、心をよぎる気まぐれなことを、なんのあてもなく書きつけてみる。すると、しだいに現実感覚がなくなって、なんだか不思議の世界に引き込まれていくような気分になる。
人から見れば狂気じみた異常な世界だろうが、私には、そこでこそほんとうの自分と対面できるような気がしてならない。人生の真実が見えるように思えてならない。独りだけの自由な時間は、そんな世界の扉を開いてくれる。》
うーん。
橋本訳がいちばん原文に近い感じがするのはどうしたことか。
序段と75段の矛盾を解消しようとするから、ことば数が増えてしまうのか。
古文の現代語訳は、外国語の翻訳とずいぶんちがうよう。
「硯」ということばを訳文でも用いているのは、橋本訳だけだ。
名詞は原文をみればわかるから、訳文に用いることはないということだろうか。
それにしても、なんという訳文の幅の広さだろう。
古文の現代語訳も、ならべてみたらきっと面白いにちがいない。
といっても、古文が読めるはずもない。
そこで、現代語訳をさがす。
まず、手にとったのが、「徒然草」(兼好/著 島内裕子/校訂・訳 筑摩書房 2010)。
序段を読んでみて驚いた。
その理由を説明するために、まず「徒然草」の原文を引用してみよう。
《徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて、心うつりゆく由無し事を、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。》
引用は、上記の島内裕子/校訂・訳から。
「徒然草」といえばまず思いだされる、大変有名な一節。
略したけれど、原文はまめにルビが振られていて読みやすい。
さて、この原文が、島内裕子さんの訳ではどんな風になるのか――。
《さしあたってしなければならないこともないという徒然な状態が、このところずっと続いている。こんな時に一番よいのは、心に浮かんでは消え、消えては浮かぶ想念を書き留めてみることであって、そうしてみて初めて、みずからの心の奥に蟠(わだかま)っていた思いが、浮上してくる。まるで一つ一つの言葉の尻尾に小さな釣針が付いているようで、次々と言葉が連なって出てくる。それは、和歌という三十一文字からなる明確な輪郭を持つ形ではなく、どこまでも連なり、揺らめくもの……。そのことが我ながら不思議で、思わぬ感興におのずと筆も進んでゆく。自由に想念を遊泳させながら、それらに言葉という衣裳を纏(まと)わせてこそ、自分の心の実体と向き合うことが可能となるのではなかろうか》
すごい超訳だ。
凡例にはこう書かれている。
《「訳」は、逐語訳ではなく、大胆な意訳も含まれる。徒然草の批評文学として魅力を、新鮮なかたちで現代日本語に置き換えたかったからである》
たしかに大胆。
大いに驚いた。
なんだか面白くなってきて、ほかの現代語訳もさがしてみる。
「絵本徒然草 上 」(吉田兼好/原著 橋本治/文 田中靖夫/絵 河出書房新社 2005)
橋本治さんは、「枕草子」を現代女性口語訳した「桃尻語訳」で名高い。
橋本さんなら、現代語訳の極端な例をみせてくれるだろう。
《退屈で退屈でしょーがないから一日中硯に向かって、心に浮かんで来るどーでもいいことをタラタラと書きつけてると、ワケ分かんない内にアブナクなってくんのなッ!》
大変簡潔な訳。
分量も原文と同じくらいだ。
兼好法師は、序段と75段でだいぶ矛盾したことを書いている。
序段では、「徒然なるままに書いていると物狂ほしくなる」といっているけれど、75段では、「徒然こそ素晴らしい」といっている。
そのちがいを、橋本治さんは、文章が書かれたときの年齢の差とみた。
「徒然草」は一度に書かれたわけではなく、かなり時間のへだたりをもって書かれたという説があり、橋本さんはその説をとった。
つまり、序段を書いたのは、まだ出家前の卜部兼好青年であり、75段を書いたのは、出家後の兼好法師オジサン。
さらに、橋本さんは兼好ジーサンを創作し、このジーサンに本文の註をしゃべらせている。
兼好ジーサンが、物狂ほしいという兼好青年の文章にいうのはこんなことばだ。
《お前さんがまだ、ロクにものを知らない、しかし理屈ばかりは言いたがる若造だったというだけじゃ》
さらにもうひとつ。
「徒然草」(角川書店/編 武田友宏/訳・註 角川書店 2002)
本書は、角川書店が古典の入門書として出版した「ビギナーズ・クラシックス」シリーズの1冊。
ビギナーズ・クラシックと名乗っているくらいだから、これが平均的な訳なのだろうか。
《今日はこれといった用事もない。のんびりと独りくつろいで、一日中机に向かって、心をよぎる気まぐれなことを、なんのあてもなく書きつけてみる。すると、しだいに現実感覚がなくなって、なんだか不思議の世界に引き込まれていくような気分になる。
人から見れば狂気じみた異常な世界だろうが、私には、そこでこそほんとうの自分と対面できるような気がしてならない。人生の真実が見えるように思えてならない。独りだけの自由な時間は、そんな世界の扉を開いてくれる。》
うーん。
橋本訳がいちばん原文に近い感じがするのはどうしたことか。
序段と75段の矛盾を解消しようとするから、ことば数が増えてしまうのか。
古文の現代語訳は、外国語の翻訳とずいぶんちがうよう。
「硯」ということばを訳文でも用いているのは、橋本訳だけだ。
名詞は原文をみればわかるから、訳文に用いることはないということだろうか。
それにしても、なんという訳文の幅の広さだろう。
古文の現代語訳も、ならべてみたらきっと面白いにちがいない。
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