シスターズ・ブラザース

「シスターズ・ブラザーズ」(パトリック・デウィット/著 茂木健/訳 東京創元社 2013)

原題は、“The Sisters Brothers”
原書の刊行は、2011年。

この奇妙なタイトルは、シスターズという姓をもつ兄弟という意味。
兄のチャーリーと、弟のイーライのシスターズ兄弟は、殺し屋として名高い。
このシスターズ兄弟が、提督と呼ばれるボスから指示を受け、オレゴンからゴールド・ラッシュで沸きたつサンフランシスコへ向かう――というのが、本書の大筋。
つまり、西部劇であり、ロード・ノベルの体裁をとっている。

訳者あとがきで、ゴールド・ラッシュの歴史的経緯ついて、訳者の茂木健さんが簡潔に記しているので引用しておこう。

《サクラメントの北東に位置する開拓地で砂金が発見されたのは、本書の物語に先立つこと3年前の1848年だった。これが世に言うゴールド・ラッシュの発端となり、アメリカ領となったばかりでわずか2万人ほどだったカリフォルニアの人口は、翌49年にはたった1年で一挙に10万人に増えているから、すさまじい増加率だ。》

語り手は、殺し屋兄弟の弟イーライ。
本書は、イーライによる〈おれ〉の1人称。

イーライは、巨漢で、純情で、お人好し。
でも、逆上すると手がつけられない。
イーライ自身は、殺し屋稼業にすっかり嫌気がさし、洋服屋でもやりたいと考えている。
一方、兄のチャーリーは、けちで冷血漢で大酒飲み。
しょっちゅうイーライを小馬鹿にしている、たいそう自分勝手な人物だ。

1851年のオレゴン・シティから物語はスタート。
チャーリーは提督から仕事を請け負う。
カリフォルニアにでかけ、ハーマン・カーミット・ウォームという名前の山師を始末するというのがその仕事。
提督の連絡係をつとめるヘンリー・モスが、現在ウォームを監視している。
チャーリーとイーライは、サンフランシスコのホテルでモリスと落ちあい、ウォームがどの男かを教えてもらい、その男を消すのだ。

今回は自分が指揮官になる、とチャーリー。
だから、取り分が少し増える。
そう決めたのは提督だとチャーリーはいうが、イーライは気に入らない。

ともかく、2人は翌日に出発。
以降、ロード・ムービー的珍道中が続くのだけれど、ここで感心するのはエピソードの豊富さ。
どれほどたくさんのエピソードが立ちあわられるのか、少し拾いだしてみよう。

なぜ泣いているのかわからない、めそめそ男の物語。
(めそめそ男はその後も何度か登場)

イーライが毒グモに刺される。
チャーリーは近くの町から無理やり医者を連れてきて、血清を打ってもらう。
毒グモのせいか、血清のせいか、イーライの顔は腫れあがり、奥歯が猛烈に痛むように。

2人は道を進み、イーライは開拓村の歯医者にかかる。
歯医者のレジナルド・ワッツ医師は、数えきれないほどの事業に失敗してきた人物。
ワッツ医師は、イーライに麻酔を注射し、腫れの原因である奥歯を抜く。

また、ワッツ医師は、イーライに歯ブラシを渡し、歯磨きの効能を説明。
以後、イーライは熱心に歯磨きをするように。

一方、チャーリーはワッツ医師がもちいた麻酔と注射器に大変興味をしめす。
ゆずってくれないかとワッツ医師にもちかけるが、断られたので、拳銃を抜いて脅しとる――。

これが、30ページほどまでのエピソード。
本書は300ページほどあるから、全体の10分の1ほどに、これだけのエピソードが詰めこまれている。
このスピード感と密度感が、本書の魅力のひとつ。

これらのエピソードは、作品の雰囲気を決定してはいるものの、伏線としてはあんまり機能していない。
いわば、つかい捨てのエピソード。
このエピソードの大量消費は、1人称だからこそ可能になったことだろう。
そして、エピソードはどれもこれも、ひとを食った愉快なものばかりだ。

カリフォルニアまでは、まだまだ遠い。
物語もまだまだ続く。

邪悪な魔女の小屋に閉じこめられる。
小屋に閉じこめられているあいだ、イーライの愛馬タブがグリズリーに殴られる。
(このあとも、タブは気の毒な目に遭いつづける)
ホテルの女中を好きになり、イーライは減量を決意する。
町では決闘を見物。
野営地にひとり見捨てられた少年に出会う――。

それにしても。
女に好かれたいばかりにダイエットを志す殺し屋の話なんて、聞いたことがない。
この種のとぼけた味わいが、本書を読む一番の愉しさだ。

後半では、いよいよサンフランシスコに到着。
サンフランシスコの街は、むやみやたらと活気がある。
なぜか片腕にニワトリを抱いた男――サンフランシスコにきたばかりに正気を失った男――から、サンフランシスコの物価高騰を聞いた兄弟は、そんな金のつかいかたはできないと顔をしかめる。
すると、ニワトリ男はこういって2人を歓迎する。

《「その意見には、おれも全面的に賛成するね。だからこそ、大バカしか住んでいないこの街に来て、大バカの仲間入りするあんたたちを、心から歓迎したいわけだな。ついでだから、あんたたちがあまり苦労せず大バカになれることも、願っといてやろう」》

ところで。
丸谷才一さんのエセーに「女の小説」(丸谷才一/著 和田誠/著 光文社 2001)というのがある。
おもに女性作家の作品を論じたエセー。

作者の性別はともかく、小説を男の小説と女の小説に分けるとするなら、この小説は間違いなく男の小説だろう。
全体に、乱暴で、滑稽で、ユーモラス。
徒労と哀切に満ちている。

本書では女性の影が薄い。
でも、兄弟の母親だけは別。
本を読み終えて、もう一度冒頭を開いてみると、「母に」という献辞が記されている。
でも、こんな乱暴な小説を贈られては、お母さんも困ってしまうのではないだろうか。


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星に叫ぶ岩ナルガン

「星に叫ぶ岩ナルガン」(パトリシア・ライトソン/作 猪熊葉子/訳 評論社 1982)

原題は、“The Nargun and the Stars”
原書の刊行は、1973年。

訳者あとがきによれば、作者のパトリシア・ライトソンは、1921年生まれ。
オーストラリアのひと。
内容については、巻末の出版広告に掲載されている。この本の紹介を引こう。

《太古の岩ナルガンが深い眠りからさめ、再び大地を移動し始めた! オーストラリア原住民アボリジニーの伝説を基に描かれたファンタジーの世界。》

見返しには、作品舞台の地図がついており、物語の理解を助けてくれる。

第1章のタイトルは、「ナルガン動く」
これはプロローグに当たる章。
ナルガンといううごく岩が、ウォンガディラという山深い土地にやってきたこと。
このあたりの沼や木にすむ古い生きものたちは、それを黙認していること。
そして、この土地で生まれ育った、チャーリー・ウォータースと、その妹イディの、歳をとった兄妹がここで暮らしているということ。

2章目から物語はスタート。
主人公の名前は、サイモン・ブレント。
年齢は書いていないが、10歳くらいに思える。

交通事故で両親を亡くしたサイモンは、ウォータース兄妹の家にもらわれることに。
2人は、サイモンのお母さんのまたいとこに当たる。
それまで、サイモンはウォンガディラなんて地名を聞いたことがなかった。

イディがサイモンを迎えにきて、2人は汽車に。
駅ではチャーリーが迎えにきてくれ、1時間以上もドライブして、やっとウォンガディラの家に到着。
チャーリーとイディは、ここで牧羊を営んでいる。

サイモンは、あたりを探検。
山の上に沼があり、そこに昔からすんでいるポトクーロックという生きものと出会う。
ポトクーロックはいたずら好きな、河童みたいな生きもの。
また林には、大勢の、ツーロングと呼ばれる小人のような生きものがすんでいる。

ところで。
最近、山にはブルドーザーや地ならし機械――これは原文のママ。ローラー車みたいなものだろうか――が入りこみ、大きな音を立てて、木々をなぎ倒している。
古い生きものたちは、これが気に入らない。
ある嵐の晩、ツーロングとポトクーロックは、地ならし機械を沼に沈めてしまう。

翌日は大騒ぎ。
警察がきたり、近所のひとたちが駆りだされて捜索がはじまったり。
もちろん、地ならし機械はみつからない。
それどころか、ブルドーザーまで行方不明に。
地ならし機械が沼に沈んでいることは、ポトクーロックに教わってサイモンは知っていた。
けれど、ブルドーザーの行方はわからない。

ひとりでブルドーザーをさがしていると、サイモンは不思議なことに気づく。
前に、大きな岩に生えた苔に自分の名前を書いておいた。
その大きな岩が、なぜか峡谷の上にきている。
これもツーロングのしわざだろうかと考えていると、ぺちゃんこに押しつぶされた羊をみつける。
サイモンがポトクーロックにこの岩のことを訊くと、この古い生きものはいう。

《「あれはここのものじゃない。あれはナルガンなんだ」》

サイモンは、チャーリーにこのことを相談。
この土地で生まれ育ったチャーリーは、ポトクーロックやツーロングのことをよく知っていた。
あとでわかるけれど、もちろんイディも。

サイモンとチャーリーは、ナルガンを調べにいく。
ナルガンは、一見ただの大きな岩にしかみえない。
が、サイモンが木の棒を投げつけると、はね返ってくる。
サイモンはあやうく、はね返ってきた木の棒にぶつかりそうになる。

チャーリーがロープと馬のサプライズをつかって、ナルガンをうごかそうとすると、ナルガンは抵抗する。
また、そのとき生じたナルガンのかけらは、坂を上っていった。

その晩、ナルガンはサイモンたちが眠っているウォンガディラの家に忍びよってくる――。

評論社の児童書は、一体これは子ども向きの本だろうかと思うものが多い。
本書も、そんな作品のひとつ。
ナルガンがウォンガディラの家をのぞきにくる場面など、ほとんどホラーめいている。

このあと、サイモンとチャーリーは、ポトクーロックやツーロングたちと会見。
これら土地の精と話すには、面倒な手続きがいるのだが、サイモンがそれをやりおおせて三者協議となる。
ポトクーロックやツーロングも、ナルガンのことを好ましく思っていない。
できれば追い払いたいと思っているが、やりかたがわからない。

ナルガンのことを知っているのは、洞穴にすむナイオルだと、ツーロングはいう。
ナイオルに会うためには、サイモンがひとりでナイオルたちを訪ねなければいけない――。

ポトクーロックやツーロングやナイオルといった土地の精たちは、人語を解するものの、人間をそれほど気にとめていない。
かれらははるか昔から、この土地に暮らしている。

またナルガンは、土地の精たちよりも、さらに昔から存在している。
そして、ここが大事なところだが、ナルガンは別に敵ではない。
人間と、土地の精と、ナルガンのもつ時間はそれぞれちがっている。
今回の出来事は、それぞれ別の時間をもつ者たちが出くわしたために生じたにすぎない。
人間と土地の精にとっては、ナルガンを追い払えればそれでいいのだ。

この作品は、3人称多視点。
視点はときおりナルガンにも移る。
視点の移行はたいへんスムーズ。

この作品は、アボリジニの伝説をもとに書かれたと紹介文にはある。
もとの伝説はどんなものなのだろう。

児童書には、子どもが都会をはなれ、親戚の家にやってくるといったパターンの話がたくさんある。
でも、親戚の家で、同年代の子どもにまったく会わないという作品も、ずいぶんめずらしい。
人間関係の話ではなく、自然と人間の話であることが、このことからもよくわかるものだ。


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