2009年 ことしの一冊たち 下半期

7月

「「落葉籠 上下」(森銑三 中公文庫 2009)
・「琵琶法師〈異界〉を語る人びと」(兵藤裕己 岩波新書 2009)
・「「茶の間の数学 上下」(笹部貞市郎 聖文新社 2006)


「極短小説」(スティーヴ・モス/ジョン・M・ダニエル 編 新潮社 2004)
「漱石覚え書」(柴田宵曲 中公文庫 2009)を読んでいたら、「短い小説」と題する1章があった。大正の頃、アメリカで1500語より少ない語で小説を書いたら、少ない1語ごとに1セント払うという小説の募集があったそう。一番短いのは76語で、142ドル40セントの原稿料をもらったという。でも、極短小説にくらべたら、まだ長い。また、日本の小説で短いものとして、鈴木三重吉の「赤菊」と、芥川の「塵労」を柴田さんは挙げている。「塵労」は全集では小品の部にはいっており、芥川のもうひとつの短い作品、「豊太閤がだれかと話をする一編」はどの本にもおさめられていないと、さすが柴田さんの指摘は細かい。

この金でなにを買ったか?
給付金をもらったことなんて、遠い昔のことのようだ。全額本代にしたら、豪遊した気分になった(かなり予算オーバーしてるけど)。それにしても、ことしは本を買いすぎた。

翻訳味くらべ 「水仙」(翻訳入門版)
「翻訳入門」という本は、とても興味深い。あと1回、「シャーロットのおくりもの」について述べた章をとりあげたいと思っていたら、1年が終わってしまった。そのうちやります。

「ティータイム七五話」(真鍋博 毎日新聞社 1982)


8月

月刊「広報」2009年7月号の記事から
これは大日本印刷を中心とした、出版業界再編成についての記事。思うのだけれど、そのうちブックオフで新刊マンガを売り出すようになるんじゃないだろうか。ひょっとすると、もうやっているのかな。

「マキァヴェッリの生涯」(ロベルト・リドルフィ 岩波書店 2009)
毎年、こんな本を読むとは思わなかったなあという本があるけれど、ことしはこの本がそう。こんな本を読むとは思わなかったなあ。その後、にわかにマキァヴェッリ・ブームが到来していくつか本を読んだ。
「マキァヴェッリの生涯」(マウリツィオ・ヴィローリ 白水社 2007)
「君主論」(マキァヴェッリ 中公文庫 1995)
あと、塩野七生さんの「わが友マキァヴェッリ」(中公文庫 1992)をぱらぱら。
「マキァヴェッリの生涯」と「わが友マキァヴェッリ」は叙述の方法が似ていて、「生涯」はマキァヴェッリが亡くなるところから、「わが友」はマキァヴェッリが隠棲をよぎなくされるところからはじめて、その後、生涯を最初から語りはじめるというカットバック方式がつかわれている。でも、塩野さんの「わが友」は、日本人が書いたものらしく随筆調で、マキァヴェッリが書いた芝居「マンドラーゴラ」の感想などがさしはさまれていた。「生涯」は、ルドルフィの「生涯」を新たに書きなおしたような本だった。
また、「君主論」の解説には、「君主論」がカトリーヌ・ド・メディティスの悪名のとばっちりを受ける話がちゃんと載っていた。訳文のためもあるのだろうけれど、マキァヴェッリの記述はきびきびしている。君主論の発刊は1532年とのこと。

「中公新書の森」(中央公論新社 2009)
これは、中公新書が2000点突破記念にだした目録風の冊子についての記事。

「ミクロの傑作圏」(浅倉久志/編訳 文源庫 2004)

「日本語の素顔」(外山滋比古 中央公論社 1981)
これを読んで、描出話法についてやっと理解できた。


9月

・「本の現場」(永江朗 ポット出版 2009)
・「臨床瑣談 続」(中井久夫 みすず書房 2009)
・「富の王国ロスチャイルド」(池内紀 東洋経済新報社 2008)

「本の現場」は重版したとのこと。よかった。版元のポット出版のサイト内にある「談話室沢辺」では、著者とポット出版代表沢辺さんの対談がみられる。ほかにもこのコーナーの対談はみんな面白い。出版流通に興味のあるひとならみて損はないと思う。

「夜の声」(W・H・ホジスン 創元推理社 1985)

「凡人伝」(佐々木邦 講談社 1946)
「悼詞」(鶴見俊輔 編集グループSURE 2008)をぱらぱらやっていたら、佐々木邦が自作を自分で英訳して出版したと書いてあった。ユーモア作家は非凡な努力のひとだ。

・「幸田露伴」(斉藤礎英 講談社 2009)
・「暗殺のジャムセッション」(ロス・トーマス 早川書房 2009)
・「欺かれた男」(ロス・トーマス 早川書房 1996)
・「忙しい死体」(ドナルド・E.ウェストレイク 論創社 2009)

「幸田露伴」を読んで、エピファニー小説ということばをおぼえたのが嬉しい。バリー・ロペスの短篇もエピファニー小説といえるかも。

・「500万ドルの迷宮」(ロス・トーマス ミリテリアス・プレス文庫 1999)
・「泥棒が1ダース」(ドナルド・E・ウェストレイク ハヤカワ文庫 2009)

ことしはインフルエンザを警戒して、みんなよく手を洗ったのでノロウィルス感染者は例年の半分だったとニュースでやっていた。にもかかわらず、ウィルス性胃腸炎にかかるとは…。


10月

・「創造者」(J.L.ボルヘス 岩波文庫 2009)
・「続審問」(J.L.ボルヘス 岩波文庫 2009)
・「ボルヘスとの対話」(リチャード・バーギン 晶文社 1973)


だいたい3周年
これは当ブログの3周年経過報告。そういえば、ブログをはじめたら当の著者からコメントをいただくということがあり、とてもおどろいた。たとえば、「12歳の読書案内」とか(いまみたら、意味不明なコメントを書いている。たぶん、編集という行為自体が「本を紹介する言葉」のひとつなのではないかといいたかったんだと思う)。ネットというのはすごいものだ。

・「無限がいっぱい」(ロバート・シェクリイ 早川書房 1976)
・「宇宙のかけら」(ロバートシェクリイ 早川書房 1967)

読み終わった本はたいてい処分しているのだけれど、「宇宙のかけら」はもったいなくてとってある。でも、ほかのひとが読めないのも、またもったいない。こういうのは、しかるべき古本屋にでも売るのがいいんだろうか。

「ウインク」(小松左京 角川書店 1972)
小松左京さんの作品は、これまでそう気にとめていなかったのだけれど、一度ブログにとりあげたら、なんだかほかの作品も読まなくてはいけないような気になり、目につくと手に入れて読んでいる。ブログを書くと、こんな副作用も。

「不幸な少年だったトーマスの書いた本」(フース・コイヤー あすなろ書房 2008)
「読書推進運動」という小冊子の平成21年10月15日号(第503号)に、「ユニークな読書活動が「人作り」のもとに」というタイトルで、オランダとベルギーの読書活動について書かれた記事が掲載されている。これを書いた野坂悦子さんは、きっと本書の訳者だろう。オランダには、全国音読コンテストというものがあるらしい。

「アニメーション美術」(小林七郎 創芸社 1996)
よくできた入門書を読むと興奮する。「水彩学」を読んだときも興奮したし、「男子厨房学入門」を読んだときも興奮した。理解できたかどうかは別にして、「音楽の教え方」(キース・スワニック 音楽之友社 2004)なんて本を読んだときも興奮した。

「ハマースミスのうじ虫」(ウィリアム・モール 創元推理社 2006)

「道化者の死」(アラン・グリーン 早川書房 1955)

「吟遊詩人マルカブリュの恋」(ジェイムズ・カウアン 草思社 1999)


12月

「第三の皮膚」(ジョン・ビンガム 創元推理社 1966)

「深夜の逃亡者」(リチャード・マシスン 扶桑社 2007)

「ケープ・フィアー 恐怖の岬」(ジョン・D・マクドナルド 文芸春秋 1991)

翻訳味くらべ「クリスマス・キャロル」

ことしの記事は以上。
ほかに、去年以前の記事についていくつかつけ加えたい。

「先生、巨大コウモリが廊下を飛んでいます!」(小林朋道 築地書館 2007)
シリーズ第3作、「先生、子リスたちがイタチを攻撃しています!」が出版された。著者の小林さんは、大学の先生なのに、「いまどきの学生は…」なんてことを一切いわない。読むとすこぶる楽しいのは、そんなところにも理由があるのかも。

「ナポリへの道」(片岡義男 東京書籍 2008)
「ピーナツ・バターで始める朝」(片岡義男 東京書籍 2009)を読んでいたら、「ナポリへの道はまだ続く」という、この本の続編に当たるような文章が掲載されていた。昭和25年の「主婦の友」のレシピには、パスタがなければ、うどんで代用しましょうという一文があるのだそう。レシピは全部掲載っていたから、あとで孫引きしてコメントに入力しておこう。それにしても、うどんでナポリタン…。こんどつくってみなくては。

読んだけれど、むつかしくてブログに書けなかった本もたくさんある。
筆頭はこの3冊。

「遊ぶ日本 神あそぶゆえ人あそぶ」(高橋睦郎 集英社 2008)
遊びとは、もともと神様がひとを介して遊んだことをいい、ひともまた神様を介して遊んだことをいう。遊ぶ神の典型はスサノオで、以後人間がスサノオのありかたを反復していく…というようなことが書かれた本。あつかった遊びの対象は、じつに幅広い。能や和歌ならともかく、金銭、戦争、花、絵、学問にまで及ぶ。
毎日新聞に三浦雅士さんの書評が載っていたけれど、この本の内容をよくこうまとめられるものだと感心。

この本を読んでいたら、「『古今和歌集』の謎を解く」(織田正吉 講談社 2000)を思い出した。「古今和歌集」にダジャレっぽい歌があるのはなぜか。あれは、かなによって、日本語が表記できるようになった喜びが記されているのだ、というようなことが書いてあり、なるほどと思った。
なにかを思い出す本は、たいていいい本だと思う。

「マネーの意味論」(ジェイムズ・バガン 青土社 2000)
古代から現代にいたるまでの知識を総動員して、マネーとはなにかということについて肉迫した一冊。著者は、英国はスコットランド人で、「三十九階段」の作者、ジョン・バカンのお孫さん。タイトルはしかつめらしいし、本ははぶ厚いけれど、エセー形式で書かれているので読みやすい。マネーという融通無碍な対象には、エセーという手法で近づくのがいいのかもしれない。

「書物の宇宙誌 渋澤龍彦蔵書目録」(国書刊行会 2006)
渋澤龍彦蔵書目録というタイトルどおりの本。渋澤龍彦さんでなければありえない企画。創作ノートの写真も公開されている。渋澤さんにかぎらず、ひとのノートをみるのは、なんとなく楽しい。巻末の、松山俊太郎さんと巖谷國士さんの対談で、「種村季弘さんは、好きな作家はいたんだろうか?」と話しているのが面白かった。たしかにそういいたくなる。

あと、ことしの春から、絵本紹介ブログを立ち上げた。
一冊たち絵本
タイトルだけ知っていて、じっさい読んだことのなかった絵本を手にとって読んでみるのは勉強になる。

長ながと書いてしまったけれど、ことしの更新はこれが最後。
皆様、よいお年を。

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2009年 ことしの一冊たち 上半期

毎年恒例(といっても、今回で2回目だけれど)、ことし1年どんな本を読んだのかをまとめてみたい。
で、いま自分のブログをみていたら、年始にこんな目標を立てていた。

「早川書房の「異色作家短編集」シリーズ(の手元にあるだけ)と、国書刊行会がだした「探偵くらぶ」シリーズ(の手元にあるだけ)の読破」

うーん、達成できてない。
「異色作家短編集」はシェクリイを読んだだけだし、「探偵くらぶ」にいたっては1冊も読んでいない。
だしぬけだけれど、図書館で、たくさん本をかかえた子どもがお母さんに、「アンタそんなに読めないでしょ」としかられているのをときどき目にするけれど、その子のことをぜんぜん笑うことができないなあ。
読書にもマネジメントの考えかたが必要なのかも。
この目標は来年も継続。

では、気をとりなおして、ことし読んだ本は以下。

1月

「本の保存の話」
これは、読んだ本の話ではなくてただの記事。これを書いたあと、ホームセンターにいき、透明プラスチック製の箱をたくさん買ってきて本の一部を収納した。でも、ついこのあいだ追加の箱を買いにいったら、取り扱いをやめたらしく、同じ箱がもう手に入らなくなってしまった。なんということだ。仕方がないので、あるだけの在庫を全部買ってしてきた。

「いま、なぜディベートなのか」

「せかいいち大きな女の子のものがたり」
これは絵本。

「しんせつなともだち」
これも絵本。「こんな童画めいたものも描いていたとは、いままで気がつかなかった」なんて書いているけれど、その後、村山知義はこちらが本職なのだと知った。

「レムラインさんの超能力」

「地下鉄サム」


2月

「ジョコンダの微笑・尼僧と昼食」

「クモの糸の秘密」

「無口になったアン夫人」

「公共図書館の論点整理」

「現代社会と図書館の課題」

「時の主人」


3月

「名画に描かれた女性たち」

「時間をまきもどせ!」

「三人のおまわりさん」

「ウォー・ヴェテラン」

「彫刻の〈職人〉佐藤忠良」と「大きなかぶ」(再掲)
ことしはHPを撤収しようと、記事の移動もおこなった。(再掲)というのは、HPから移した記事のこと。昔、自分が書いた文章を読み直すというのは、妙な気がするもので、案外うまく書いてるじゃないかと思ったり、ぜんぜん言葉がたりないなあと思ったり。

「解剖学者ドン・ベサリウス」
「パリの聖月曜日」(喜安朗 平凡社 1982)を読んでいたら、19世紀パリの解剖教室の惨状について書かれた章があった。それによれば、下働きの使用人たちが、人間の脂肪を馬の脂と称して、組合をつくって大規模に販売していたのだそう。ひょっとすると、ボレルの作品のおどろおどろしさは、こういう19世紀の現実を反映したものなのかも。だとすると、ボレルの作品はアナクロニズムだといえるかもしれないけれど、このことを念頭におかないで、歴史上のヴェサリウスとくらべることも、また別種のアナクロニズムといえるかもしれない。

「聊斎志異」2005.6.21(再掲)
まだ1巻しか読み終えていないけれど、柴田天馬訳が、また独特の訳文。「聊斎志異」は、ことし平凡社ライブラリーからも出版されたので、こちらで読むのも面白いかも。

「唐宋伝奇集」 2005.8.29〈再掲〉

「捜神記」 2005.8.29〈再掲〉

「封神演義」 2006.5.21〈再掲〉

「謎の解剖学者ヴェサリウス」
「タイムマシン夢書房」(武部俊一 朝日ソノラマ 1995)に教えられたのだけれど、ヴェサリウスの「ファブリカ」が出版された1543年は、奇しくもコペルニクスの「天体の回転について」が出版された年と同年だという。人体と宇宙が、同時にいままでの世界からはなれていくような、不思議な暗合を感じる。


4月

「巨人ぼうやの物語」

翻訳味くらべ「ジーヴズの事件簿」ほか 2006.9.29〈再掲〉

「猫とともに去りぬ」
ロダーリはことし、「パパの電話を待ちながら」(講談社 2009)が出た。内容はショートショート集。お菓子のような軽みのある作品がならんでいる。
また、「幼児のためのお話のつくり方」(作品社 2003)には、本書「猫とともに去りぬ」の楽屋話のような「もし、おじいさんが猫になったら、人間にもどるにはどうしたらいいか」というエセーが収録されている。

翻訳味くらべ「郵便配達は二度ベルを鳴らす」 2007.1.4〈再掲〉
ことし、小鷹信光さんの訳でハメットの「デイン家の呪い」(早川文庫 2009)が出版されて、とても驚いた。できれば、小鷹信光さんの訳でコンチネンタル・オプを全編読みたいと思っているのだけれど…。ぜんぜん関係ないけれど、早川文庫は、ここ最近、いままでより背の高い文庫をだすようになっている。そのため、書架にずいぶん窮屈そうに並んでいる本をみかけるけれど、書店からの反対の声はなかったんだろうか。

翻訳味くらべ「郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす」(翻訳入門版) 2008.12.29〈再掲〉

「寓話」

翻訳味くらべ「不思議の国のアリス」 2007.2.4〈再掲〉

「フクロウ探偵30番めの事件」
このあと同じ著者による短編集「やねのうかれねずみたち」(偕成社 1995)を読んだ(ジェィムズ・マーシャルという表記なので、ジェームズ・マーシャルでは検索でひっかからないかも)。この本も面白かった。

翻訳味くらべ「海の上の少女」 2007.3.26〈再掲〉
訳文はどんどん増えていく。「海の上の少女」にこんなにいろんな訳文があったなんて、記事を書くまで知らなかった。


5月

「浮世のことは笑うよりほかなし」
「出久根さんが山本夏彦さんにインタヴューをこころみた記事」というのは、たしかいっだったかの雑誌「文学界」だったような気がする。コピーをとっておいたはずなんだけれど…。

翻訳味くらべ「新アラビア夜話」 2007.12.31〈再掲〉
「新アラビア夜話」の翻訳はまだまだあるはず。思いがけずコレクターになってしまったなあ。

「かばん」

本はそのうち手に入るという話 2006.7.17〈再掲〉

「日本文化における時間と空間」

「ジャン・ブラスカの日記」


6月

「クラシック 私だけの名曲1001曲」

出口で待つカタログたち 2005.5.31〈再掲〉

「ゴールデン・マン」

翻訳味くらべ「顔」 2008.7.28〈再掲〉

「翻訳者の仕事部屋」 または「顔」(承前)

「二都物語」
このあと、ディケンズは「クリスマス・キャロル」「憑かれた男」(あぽろん社 1982)を読んだ。

「悪党パーカー/犯罪組織」
このあと、「悪党パーカー」シリーズでは「エンジェル」(早川文庫 1999)を読んだ。途中から、ひとつの家屋でのみストーリーが展開していくさまにびっくりした。

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翻訳味くらべ「クリスマス・キャロル」

「大いなる遺産」を読んでから、にわかにディケンズファンになった。
で、ディケンズの作品を目につくたびに買っていたら、なぜか手元に「クリスマス・キャロル」が3冊もある(なぜだ!)。
そこで、せっかくなので、訳文を並べてみたい。

「クリスマス・カロル」(村岡花子訳 新潮社文庫 1952)
《第一にマーレイは生きていない。それについてはいささかの疑いもない。彼の埋葬登録簿には牧師も書記も葬儀屋も、喪主も署名している。スクルージも署名した。スクルージの名は取引関係ではいかなる書つけの上にもききめがあった。
 老マーレイはドアの上の釘のように死にきっていた。
 よく聞いていただきたい。私は何も自分の知識をひけらかして、ドアの釘を死んだものの見本として出しているのではない。私一個人の考えとしては、商品として店に出ている金物のうちでは棺桶の釘こそは一番完全に死んでいるものだと言いたいところである。しかし、元来この比喩は我々の祖先の知恵から生まれ出たものである以上、私の不浄の手でこれを変えるべきではない。そんなことをしたら、この国の秩序が乱れてしまう。それゆえに、みなさんも、私が語気を強めて、マーレイは戸の釘のごとくに死にきっていると繰返すのをお許し願いたい。》


「クリスマス・カロル」(神山妙子訳 旺文社文庫 1969)
《最初にお断りしておきたいのは、マーレイという人間はもうこの世にいないということだ。この点についてはまったく疑う余地がない。マーレイの埋葬記録簿には、牧師、書記、葬儀屋、喪主などが名をつらねていた。スクルージが署名したのである。しかもスクルージの署名は、取引関係では署名した書類の如何を問わず、あらゆる場合に効果があるものとされていた。
 老マーレイは扉のびょう釘のように正真正銘死んでしまったのだ。
 とはいうものの、私は扉のびょう釘がとくに死とのかかわりが深いのを経験上知っているなどというつもりはない。むしろ私としては、棺に打ち込む釘こそ、売られている金物のなかでもいちばん確実に死んでいるものといいたいところだ。しかし我々の祖先の知恵は、こうした比喩のなかにもみられるものである。いたらぬ私がこれに手を加えるようなことをすべきではない。またそうなったら国が亡びるということにもなりかねない。それ故私がもう一度声を大にして、マーレイは扉のびょう釘のようにまちがいなく死んでしまったと繰りかえすのをお許しいただきたい。》


「クリスマス・ブックス」(ちくま文庫 1991)より、「クリスマス・キャロル」(小池滋訳)
《エー、あい変わらずバカバカしいお噂で。
 イの一番に申し上げておきますが、マーレーは死んでいます。こりゃまったくの間違いのないことでして。埋葬証明書には牧師さん、書記、葬儀屋、喪主のサインがちゃんとありました。スクルージのサインもあります。何にせよ、この男がサインをしようと考えたことなら、取引所で信用されること疑いなしです。だから、マーレー爺さんは間違いなく死んでいます。「ドア釘みたいにおっちんでる」って、よく言いますな。
 おっと待った! ドア釘のどこが死んでるんだ、っておっしゃるんですか。あたしだってこの目で見て知ってるわけじゃござんせん。棺桶の釘なら、金物屋の品物ん中でいちばんおっちんでる親方だ、と言ってもようがしょうがねえ。でもまあ、昔の人はいいことを言ったもんで、もののたとえが上手なもんですからね、あたしみたいな学のない者がとやかく言うこたぁありませんや。そんなことしたら、お国の一大事ですから。
 というわけで、もう一度ダメ押しに大声で言わせて頂きやしょう。マーレーはドア釘みたいにおっちんでるんです。》

以上、訳された年代順にならべてみた。
3番目の訳は、小池滋さんが落語調で訳した意欲作(ちなみにこの本にはもう一編、松村昌家訳の「鐘の音」というクリスマス・ストーリーが併録されている)。
けっきょく、村岡花子訳で読んだのだけれど、落語訳で読み返してみるのも面白そう。

訳文は、みな2段落目(3番目の小池訳では3段落目)の、ドアくぎと棺桶くぎのところで苦労されている。
《私は扉のびょう釘がとくに死とのかかわりが深いのを経験上知っているなどというつもりはない。》
なんて、いかにも苦しい。
わかりにくい箇所も、こうやって訳文をならべると、なんとなく飲みこめてくる。
これも、訳文をくらべる楽しさのひとつ。

さて、つぎは会話。
不屈の陽気さのもち主であるスクルージの甥っ子フレッドと、スクルージの会話をならべてみよう。

村岡花子訳
《「クリスマスがばかばかしいなんて、伯父さん!」とスクルージの甥は言った。「まさか、本気でおっしゃったんじゃないでしょうね?」
「ああ、本気だともさ。何がクリスマスおめでとうだ! 何の権利があってお前がめでたがるのかってことよ。貧乏人のくせに」
「さあ機嫌を直して」と甥は元気よく言った。「伯父さんが機嫌をわるくしている権利はどこにあるんですか? 機嫌をわるくするわけがどこにあるかっていうんですよ? それだけの金持ちだったら不足はないでしょうにさ」
 スクルージはうまい返事ができなかったので、とりあえず、また、
「ばかばかしい!」と言った。
「伯父さん、そうぷりぷりするんじゃありませんよ」と甥が言った。
「ぷりぷりせずにいられるかい」と伯父がやり返した。
「こんなばかものばかり世の中にいてさ、クリスマスおめでとうだとよ。クリスマスおめでとうはやめてくれ! お前なんかにとっては、クリスマスはな、金もありもしないのに勘定書きが来る季節じゃないか。年こそ一つふえるけれど、その一時間分だって金がふえるわけじゃないじゃないか。帳簿を全部引合わせたところで、十二ヵ月のどこをどう押しても損ばっかりだということがはっきり分かる時じゃないか。俺の思う通りになるんだったら」とスクルージはますます憤然として、「おれの思う通りになるんだったら、クリスマスおめでとうなんて寝言を並べるのろまどもは、そいつらの家でこしらえているプティングの中へ一緒に煮込んで、心臓にひいらぎの枝をぶっとおして、地面の中へ埋めちまいたいよ。ぜひともそうしてやりたいよ」》


神山妙子訳
《「クリスマスが馬鹿馬鹿しいですって、おじさん! まさか本気でおっしゃっているのではないでしょう?」とスクルージの甥は言った。
「本気さ。クリスマスおめでとうだって! おまえにめでたがる権利があるのかい? 一体全体どういうわけでめでたいのかね? 金もないくせに」
「まあいいじゃありませんか」とスクルージの甥は陽気に言った。「じゃ、あなたにはふさいでいる権利があるとでもおっしゃるのですか? どういうわけで気難しい顔をしていらっしゃるのです? お金持ちのくせに」
 スクルージはとっさに適当な答えが浮かばなかったので、ふたたび「ふん」と言った。そしてつづいて「馬鹿馬鹿しい」とつけくわえた。
「まあおじさん、そう機嫌を悪くなさらないでください」と甥は言った。
「ほかに何ができるというのかね」とスクルージはやりかえした。「こんな馬鹿者ぞろいの世の中で生きてゆかなきゃならないというのに! クリスマスおめでとうだなんてまったくけしからん! おまえにとってクリスマスとはいったい何だというのかね? 金もないのに勘定を払わなければならないし、一つ年をとりこそすれ、一時間だって余分に金がはいるわけじゃない。また帳簿の清算をしてそのうちのどの項目をつついてみても一年を通じて大損ということがわかる季節というだけじゃないか。おれの思い通りになるとすれば」とスクルージは憤然として言った。「クリスマスおめでとうなんて言ってまわる馬鹿者は一人のこらずプティングといっしょに火にかけて、胸にひいらぎの枝をつきさして埋葬してやる。本当にそうすべきた」》


小池滋訳
《「クリスマスがくだらんですって! おじさん本気で言ってるんですか」
「ああ本気だよ。クリスマスがめでたいだと? 何がめでたいんだよ。何がめでたいんだよ。金がなくてぴいぴいしてるくせに」
「おじさん、そんなこと言うならね、おじさんこそ何が不景気なのさ。何で不景気づらしてるのさ。金があり余ってごろごろしているくせに」
 スクルージはとっさにうまくやり返すことができないもんですから、もう一度「ふん」と言ってから「何をくだらん」のおまけをつけました。
「おじさん、怒っちゃいけませんよ」
「怒らずにいられるかってんだ! こんな大馬鹿野郎ぞろいの世の中に住んでるんじゃ。クリスマスおめでとう、だと! クリスマスおめでとうなんて、くそっ喰らえ! クリスマスってなあ、金もねえのに勘定を払わにゃならん時節、それだけのこった。一つ年をとって、一文も金が増えねえ時節、帳簿をしめて、一年十二ヵ月赤字だらけだとわかる時節、それだけのこった。もし、このおれが好きなようにできるんだったら、『クリスマスおめでとう』なんてほざく馬鹿ったれ野郎は、一人残らずプティングと一緒に釜茹でにしてやる。心臓にトゲトゲのひいらぎの枝を突き刺して埋めてやる」》

ディケンズのパワフルな、いささかクドい饒舌で、スクルージの偏屈ぶりがほとんどギャグになっているのが面白い。
落語訳なんて思いつくのは、きっとこの饒舌ぶりのためだろう。
ただ、神山訳では、スクルージと甥のフレッドの対立は、少々深刻なもののように読みとれる。
それは、たぶんフレッドがスクルージのことを「あなた」なんて呼ぶからだ。

ところで最近、坂田靖子さんが「クリスマス・キャロル」を漫画化された(光文社 2009)。
この本、本屋のどこに置いてあるかわからず、ずいぶんさがしまわった。
「古典新訳コミック」と銘打っているから、かってに文庫だと思っていたら、まさかハードカバーだったとは。

それはともかく。
坂田漫画版では、上記のやりとりのあと、フレッドがこういう。
「おじさん。クリスマス・プティングとドラキュラの退治法がごった煮になってますよ」

落語訳よりさらにくだけた、坂田さん創作のツッコミ。
漫画版は、こんな軽妙なやりとりが随所にあり、大変楽しかった。

=追記=

「クリスマス・キャロル」(池央耿訳 光文社古典新訳文庫 2006)
《マーリーは故人である。何はさておき、まずこのことを言っておかなくてはならない。これについては、いかなる疑いもさしはさむ余地がない。マーリーの埋葬届けには、牧師、教会書記、葬儀屋、それに、会葬者代表が署名している。スクルージの記名がある。スクルージの名はロンドンの商品取引所で、何であれ、かかわりのあるすべてに通用する。かのマーリーは鋲釘(びょうくぎ)のように、間違いなく死んでいる。
 断っておくが、だいたい、ドアの飾りに用いる頭の大きな釘の、どこがどうして死んでいることになるのか、正直、筆者は知らないし、知ったふりをするつもりもない。世に出まわっている金物で、何よりも死と縁が深いのは棺の蓋を閉ざす釘ではないかと思うのだが、人の死を鋲釘にたとえたのは先人の知恵である。筆者ごとき数ならぬ分際で異を唱えてはならない。そんなことがまかり通ったら、この国は立ちゆかなくなる。それゆえ今ここに、マーリーは鋲釘のように、間違いなく死んでいる、と力を込めて繰り返すことをお許しいただきたい。》

この池央耿訳はなぜか簡潔にみえる。
ほかの訳よりも落ち着いていて、格調が高く、意味がとりやすい。
感嘆に値すると思う。
さて、つぎはフレッドとスクルージの会話。

《「クリスマスがくだらないって、伯父さん、まさか本気じゃあないでしょうね」
「ああ、本気だとも」スクルージは吐き捨てるように言った。「クリスマスおめでとうだ? めでたがる権利がお前にあるのか? めでたい理由がどこにある? 年が年中、素寒貧のくせして」
「じゃあ、こっちも言いますがね」甥は勢いづいた。「そうやって塞ぎ込む権利が伯父さんにありますか? 不機嫌になる理由がどこにあるんです? うなるほどの金持ちだっていうのに」
 とっさに返す気のきいた言葉もなく、スクルージは重ねて鼻で笑った。「へっ! くだらない」
「そう、つんけんしないでくださいよ、伯父さん」
「ほかにどうしろっていうんだ?」スクルージは突っかかった。「この馬鹿馬鹿しい世の中で。クリスマスおめでとうだ? クリスマスなんぞは願い下げにしてもらいたい。お前のために、クリスマスはどういう時期だ? 金もないのに溜まった付けを払わされて、一つ年を取って、これぱっかりも豊かになりゃあしない。帳簿を締めてみれば、ほとんど何もかも、一年中、取りっぱぐれだろうが。俺に言わせればだな……」スクルージは息巻いた。「クリスマスおめでとうなんどと戯けたことを口にする脳足りんは、どいつもこいつも、プティングとごった煮にして、心臓にヒイラギの杭を打ち込んで埋めてやりゃあいいんだ。ああ、そうだとも!」》

ほかの訳とくらべると、一語一語の差は微妙。
なのに、全体としてみると清新な感じがするのは、じつに不思議だ。

池央耿訳は解説や訳者あとがきも充実。
少年スクルージの孤独は、ディケンズの境遇がそのまま反映されているという。
スクルージが孤独を紛らわす本は、みなディケンズ自身の愛読書だそう。

また池央耿さんによれば、「スクルージは断じて悪人ではない」。

「甥のフレッドが言うとおり、私利私欲は頭にない証拠に、金にあかして贅沢するでもない。金を稼ぐのは、ひたすら、まっとうに、生真面目に働くことを天職と心得ているからである」

「スクルージは嫌われるというより、まわりにとっていささか煙たい存在であったと想像する。付き合いにくいのは事実としても、ずるはせず、人に迷惑をかけないから、信用があって商売は成り立っていたはずである」

このスクルージ像は魅力的。
それに、池さんがスクルージに肩入れしているような感じがして、なにやら嬉しい。

編集は光文社出版編集部の駒井稔編集長と、担当の大橋由香子さん。
編集者は、この訳者に頼んだら、こんな訳文ができてくるだろうと、あがりが予測できているのだろうか。
だとしたら、すごい。

=さらに追記=

「バスカビルの魔物」(坂田靖子 早川書房 2006)を読んだ。
雑誌「ミステリマガジン」に連載されたショートショート漫画を一冊にまとめたもの。
坂田靖子さん独特の軽妙さが横溢していて、大変楽しい一冊。

この本のなかに、「スクルージ・ビフォア・クリスマス」という一編が。
スクルージから借りた金を返せないでいる男が、スクルージを殺そうと家に忍びこんだところ、亡霊たちに出くわすという話。
亡霊たちは、すっかり男をスクルージと勘ちがいしてしまう。

「クリスマスここに訪ねてくるヤツなんかいない」

という、亡霊たちのいいぐさが可笑しい。
後味がいいのもよかった。



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ケープ・フィアー

「ケープ・フィアー 恐怖の岬」(ジョン・D・マクドナルド 文芸春秋 1991)

訳は、染田屋茂(そめたや・しげる)
迫真的なカバーイラストは野中昇。
ただし、カバーのような場面は本編中にでてこない。
訳者あとがきによれば、本書はマーティン・スコセッシ監督で映画化されたさい、翻訳、出版されたとのこと。
映画ではこんなふうに、首をしめる場面があるのかもしれない。
原書は1957年刊。

本書はサスペンス。
主人公はサム・ボーデン。
弁護士をしており、美しい妻と二男一女の子どもたちに恵まれ、幸福に暮らしている。
だが、その幸福をおびやかす闖入者があらわれる。

きっかけは戦争中。
士官として海軍の船に乗りこみ、メルボルンにいたサムは、ある晩、暴漢からレイプされそうになっていた少女を助けた。
その暴漢、マックス・キャディ曹長は、ジャングルでひどい皮膚病と神経症にかかって、前線から送り返され、メルボルンの休養キャンプに収容されていた人物。
けっきょく、マックスは軍法会議にかけられ、終身労働を宣告される。

ところが、そのマックスが突如、サムのまえに。
13年間服役したのち、刑が再審理され、釈放されたマックスは、サムをさがしだし、わざわざ会いにきたのだった。

以降は、逆恨みによる復讐をしようとするマックスと、それをふせごうとするサムとの攻防。
まず、サムは知り合いの警官にマックスの身元を洗ってもらい、現在の居所を特定。
私立探偵を雇い、なにかあったら即座に逮捕できるよう、マックスを尾行してもらうことに。
それから、現在の状況を子どもたちに話してきかせる。

ところが、狡猾なマックスは尾行に気づき、探偵をまいてしまう。
そして、サムの家の飼い犬が、何者かにより毒を盛られて死んでしまうという事態に。

サムの泣きどころは、サム自身が弁護士で、法律を尊守しようとするところ。
なんとか警察にうごいてもらおうとするが、それはむずかしい。
そこで、ついに非合法な手段を決意。
さきほど尾行してまかれてしまった探偵を頼り、彼のつてで何人かのプロにマックスを痛めつけてもらうことに。

ところが、プロは逆にマックスの返り討ちに。
それでも、駆け寄ってきた警官を殴ったマックスは逮捕され、刑務所に30日の拘禁という判決がくだされる。
折りしも季節は夏で、子どもたちはサマースクールに出発。
そして、いよいよマックスが出所する日がきて…。

視点は、3人称サム視点。
そのため、なにを考えているのかわからない相手に、徐々に包囲されていくという感じがよくでている。

また、うまいと思ったのは、サムとマックスが会ってまともに会話をする場面が一度しかないこと。
その後は、会って話すことはなく、サムの対応策もさまざまな理由から失敗したりして、いよいよ悪意が迫ってくるという感じがする。
加えて、子どもたちのマックスにたいする反応が子どもらしく、それが作品にリアリティをあたえている。

それから、面白いと思ったのは、この小説は会話が非常に多い。
ストーリーの進行もほとんど会話による。
冒頭の、戦時中のサムとマックスの因果関係の話も、ほとんどサムによる妻への会話でなされる。
これは、ペーパーバック・ライターあがりの作者が身につけた技術なのかもしれない。

解説によれば、この作品は2度映画化されているとのこと。
プロットが緊密かつ一直線で、ほとんど会話で進行するこの作品は、どう撮るかを考えることに集中できる。
2度映画化されている理由は、そのあたりにあるのかも。


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深夜の逃亡者

「深夜の逃亡者」(リチャード・マシスン 扶桑社 2007)

訳は、本間有。
カバーイラストは、影山徹。
本書のカバーは、もっともっと格好いい。
真似してみたけれど、全然だめだ。
解説は、佐竹裕。

作者のリチャード・マシスンは、いわずとしれたエンターテインメント小説界の巨匠。
原書が刊行されたのは、1953年。
マシスンの長篇第2作だそう。
でも、翻訳されたのははじめて。
扶桑社ミステリーは裏表紙に原書のカバーを載せていて、それがいかにも当時のペイパーバックという感じの扇情的なイラストで楽しい。

内容は、ひとことでいうとサスペンス。
各章のタイトルは時間であらわされ、物語は午前1時からはじまり、午後5時に終わる。
主要な登場人物は5人。
すべてがサスペンスのために奉仕しているような小説だ。

ストーリーは、元ピアニストであり癇癪もちであるヴィンスが、病室から逃亡をはかるところから。
同性愛者の男性看護師をうまく油断させ、病室から脱出したのち、警備員を倒して拳銃を奪い逃走。
いき先は、ボブと不孝な結婚をしているルースのところ。
彼女を救い出し、幸せにするのだ。

ところで、この小説は3人称他視点。
次の「午前1時15分」の章では、ボブとルースの話になる。
ボブは広告代理店に勤務し、ルースは妊娠中。
ふたりは大変幸せで、精神に異常をきたし、病院に収容されたヴィンスの影におびえている。
また、ふたりの知人であるスタンとジェーンの夫妻のことも気がかり。
肉感的なジェーンは浮気をくり返し、ジェーンに心底惚れているスタンは、ただそれに耐えている。

ストーリーは、そのジェーンとスタンへ。
ふたりの関係は、すっかりこじれてしまっている。
きょうもジェーンはホームパーティーを開き、それが終わったあとの空虚感に耐えがたい思いを味わっている。
ヴィンスがルースに出会ったのも、ジェーン主催のパーティーでのこと。
スタンは音楽マネージャーをしていて、ヴィンスの担当だったので、その縁でパーティーにきていたのだ。

さて、パーティーが終了後の荒んだ部屋で、ジェーンがスタンを難詰し、スタンがそれにじっと耐えていると、そこへ拳銃をもったヴィンスが登場。
ここにくるまでも、ヴィンスはいくつか騒動を起こしており、ひとをひとり殺して、自分も怪我を負っている。
ヴィンスは拳銃でスタンとジェーンを脅しつけ、ボブに連絡をとり、ここに呼ぶようにと命じ……。

というわけで、後半はスタンのマンションに関係者全員があつまり舞台劇のような趣きに。
作者のマシスンは、ある状況を読者に飲みこませるのがとても巧み。
余計なことをせず、必要な情報だけをうまく読者に提示する。

サスペンスを盛り上げるのは、なんといっても内面描写。
逃亡したヴィンスが、あるマンションの一室に押し入り、そこにいた娘を脅してレインコートを奪う場面の内面描写ははこうだ。

《殺しちゃいけない。この子はなにもしていない。この子はかわいいし、ぼくに悪気があるわけでもない。誰彼かまわず殺すのは、頭のネジがゆるんだ人間だけだ。ぼくの場合は、ハリーとかボブとか、殺したい相手が決まっている。ハリーは穢らわしいデブで、ボブはルースを苦しめている。殺したいのはこいつらだけだ》

こういう描出話法で書かれた内面描写が、主要な登場人物、つまり5人に対してつかわれる。
これがじつに効果的。
加えて、スタンのように、内面の決意と行動が一致せず、臆病さが強調されるような書かれかたをすると、さらに盛り上がる。

また、登場人物の造形では、ヴィンスのほかに、ジェーンが出色。
奔放で、高慢で、自己破壊的。
現状に対するどうしようもない不満があり、なすすべなく荒れている。
本書のタテ糸が、ヴィンスの狂気だとすると、ヨコ糸はジェーンとスタンの壊れかけた関係だ。

ヴィンスにしろ、ジェーンにしろ描出話法により内面が描写される。
そのため、たんなる加害者ではなく、一抹の哀れさが感じられるようになっている。
ただ、全体にあんまり描出話法が多用されるので、ハーレクイン小説を読んでいるような気分になる。
これは、扇情的な小説につきもののことだろう。

だから、いま思ったのだけれど、この作品は超訳して、アカデミー出版から出版したらいいかもしれない。

このあとのストーリー展開にはひねったところはないのだけれど、緊張感は最後までたもたれる。
解説によれば、マシスンは本書を3日で書いたとのこと。
速書きが、緊張感の維持に役立ったのかもしれない。
それにしても、3日とは大変な筆力だ。

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翻訳味くらべ「新アラビア夜話」に追加

翻訳味くらべの「新アラビア夜話」の記事に、平井正穂訳(「世界文学全集 41巻」所収 集英社 1970)を追加。

なんだか、訳文コレクターになってきてしまった。
それにしても、こう並べてみると、同じことをいうのにいろんないいかたがあるものだなあと感心してしまう。

「新アラビア夜話」の訳はこれだけではなく、まだまだあるはず。
こんなに訳されているのに、どうして続編は訳されていないのか。
できれば、そっちを読みたいぞ。

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翻訳味くらべ「海の上の少女」に追加

翻訳味くらべ「海の上の少女」に、訳文のサンプルを追加。

今回載せたのは、「なぞめいた不思議な話」(くもん出版 1989)所収の「沖の娘」
訳は、石川清子。

本書は児童書。
「幻想文学館」というアンソロジーの2巻目。
編者は江河徹。

全5巻で、各巻のタイトルはこう。

1巻「恐ろしい幽霊の話」
2巻「なぞめいた不思議な話」
3巻「奇妙な動物の話」
4巻「悪夢のような異常な話」
5巻「ファンタスティックな恋の話」

各巻には、一体どんな作品がおさめられているのか。
こころみに本書、「なぞめいた不思議な話」の作品を並べてみよう。

「沖の娘」シュペルヴィエル
「銅版画」ジェイムズ
「魔術」芥川龍之介
「夢の子ども」ラム
「開いている窓」サキ
「夢十夜」夏目漱石
「消えたオノレ・シュブラック」アポリネール
「ブライトン街道にて」ミドルトン
「アウル・クリーク鉄道橋のできごと」ビアス
「人面の大岩」ホーソーン
「信号係」ディケンズ

児童書ということを考えると、このへんがこの手の小説の定番ということだろうか。
でも、知らない作品や読んだことのない作品もいくつか。
「ブライトン街道にて」という作品は知らないなあ。
これから読んでみるつもり。

挿絵も各巻ごとに描くひとがちがっていて、本書では、ひらいたかこさんが担当。
とても雰囲気のある挿画を手がけている。

装丁は、高麗隆彦さんによる、マーブル模様とノートを組み合わせたようなもの。
幻想文学にはマーブル模様というイメージは、きっと世界幻想文学大系の装丁のせいにちがいない。

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第三の皮膚

「第三の皮膚」(ジョン・ビンガム 創元推理社 1966)
訳は中村能三。

先日読んだ、「ハマースミスのうじ虫」(ウィリアム・モール 創元文庫 2006)には、巻末に川出正樹さんによる充実した解説がついているのだけれど、その解説に「第三の皮膚」のことが引き合いにだされていた。

それによれば、ジョン・ビンガムもウィリアム・モール同様、英国情報局保安部(MI5)に所属し、のちに作家に転進したという(「第三の皮膚」の解説には、ただジャーナリストとして活躍した、とだけある)。
ビンガムが「第三の皮膚」を発表したのは、「ハマースミスのうじ虫」発表の前年。
川出さんはそこから想像をひろげ、ウィリアム・モールはかつての“戦友”であるビンガムの作品に触発されて、「ハマースミスのうじ虫」を書いたのではないかと推察している。

では、その「第三の皮膚」とは一体どんな作品なのか?
気になって読んでみた。
ひとことでいうと、内面描写に重点をおいた犯罪小説。
素晴らしく面白い。
この本も復刊すればいいのにと思った。

犯罪小説といっても、銀行を襲う経緯が書かれているわけではない。
扱っている題材はいたって地味。

前半の主人公は、19歳のレス。
新聞社で下働きをしていて、怠け者で、見栄っ張りで、自負心ばかり強い。
悪い人間ではないのだけれど、性格が弱く、たちの悪い女(ズベ公なんてことばが使われている)にそそのかされて、同じくたちの悪い友人であるロンの強盗の手伝いをするはめに。
このあたり、内面描写により記されるレスの勘ちがいい振りが読んでいて痛々しい。
また、さんざん逡巡しながらも、悪事に加担してしまう様子にはらはらさせられる。

けっきょく、ふたりの強盗は失敗。
それどころか、ある惨事を引き起こしてしまう。
ロンとレスは警察にマークされることになるのだけれど、ここから後半の主人公となるのがレスの母親であるアイリーン。
アイリーンは、毛を逆立てた母猫のようになって、必死で息子をかばおうとする。

登場人物のうち、内面が描写されるのは、レンとアイリーンのほかに、アイリーンの茶飲み友達である2人、オールド・ミスのグエン・ドレイバーと、外務省勤めで定年まぎわの独身男、フレデリック・ペリー。
アイリーン以外、登場人物にたいする作者の評価は手きびしい。

ところで、作者が登場人物にたいしてあまり批評的な態度をとると、その小説はうるさくなり、読めないものになるのが普通だろう(と思う)。
でも、不思議なことに本作はそうなっていない。
じつに面白い。
とくに、警官のレスへの尋問のシーンなどは、読む手を休めることが不可能なほどだ。

これは一体なんでだろうと考えてみたのだけれど、ひとつは、その人物がそれをするのかしないのか、さんざん迷うところをえがいているためだろうと思う。
ああ、それをやっちゃうのかと続きがじつに気になる書きぶりなのだ。

もうひとつは、ある人物の内面を通して、別の人物をえがく面白さだろう。
このひとはあの人物のことをこんな風に思っていたのかという、噂話的面白さ。

また、ある人物のを通して別の人物をえがくのは、場合によってはじつにスリリングになる。
警官がレスを尋問するシーンには、そばに母親であるアイリーンがついている。
「あの子はちゃんと教えたとおりに踊れるかしら」という具合にわが子を見守るアイリーンに、読んでるこちらも身をのりだしてしまう。

つまり、登場人物の内面描写がそこでいき止まりになっておらず、別の人物や、別の行動につながっているのだ。
登場人物を批評的にえがいても面白い理由は、このあたりにあるのかも。

とすると、後半、起きた事態にすっかり受身になったレスの影が薄くなり、事態に対処しようと奮闘する母親が目立つのは当然かもしれない。
おかげで、ラストは悲劇なのか、そうでないのか、なんともいえない皮肉の効いたものになっている。

ところで、作者のビンガムは、もともと捕まえる側の人間。
そのせいか、警官の描きかたが親切に見える。
もっとも、これはビンガムが捕まえる側の人間だと、事前に知って読んだせいかもしれない。


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