DVD「幽霊紐育を歩く」

DVD「幽霊紐育を歩く」(1941 アメリカ)

冒頭で、まず、こんな意味の字幕がでる。

《マックス・コール氏から面白い話を聞きました。
おとぎ話のような物語で、とても実話とは思えない。
これから、この物語を皆さんにもご紹介しようと思います。》

字幕はさらにこう続く。

《物語の始まりは、あるのどかな村。
平和で―すべてが調和し―愛に満ちた村です。
そこでは2人の男たちが全力で殴りあっていました。》

こうして、村の野外にもうけられたリングでの、ボクシングの場面となる。
この作品の、ひとを食った語り口がよくこの冒頭にあらわれている。

さて、主人公はボクサーのジョーという、押しが強くて気のいい元気な若者。
ジョーのマネージャーであるマックス――冒頭の字幕にでていたマックス・コール氏だ――は、ジョーなら世界王者にもなれると太鼓判を押す。

次のマードック戦のため、きょうの午後ニューヨークに移動することに。
ジョーは自分の飛行機でニューヨークにいくという。
事故を恐れて列車でいくことをマックスはすすめるのだが、ジョーは聞き入れない。

飛行機で飛び、サックスを吹いたりしていると、マックスの不安が的中。
部品が破損し、飛行機は墜落してしまう。

次の場面で、ジョーはサックスを小脇にかかえ、一面煙りに満ちた世界を歩いている。
煙りの世界には飛行機があり、列をなす乗客が、名前を呼ばれたごとに搭乗していく。

ジョー、あなたは死んだのですと、背広を着た男にいわれるが、ジョーは認めない。
なにかの間違いだと、乗客搭乗の監督をしているジョーダン係員に食ってかかる。
沈着な物腰でジョーダン係員は名簿をチェック。
すると、名簿にジョーの名前はない。

事務局に確認をとると、ジョーが亡くなるのは1951年5月11日朝の予定だという。
新人の担当者が、墜落直前にジョーの魂を回収してしまったのだ。
みすみす苦しめるのは忍びなかったのですと、担当者は弁明。
気にすることはないさ、誰にだって失敗はあると、ジョーは寛大なところをみせる。
で、元のからだにもどろうとするが、遺体はすでに火葬されてしまっていた。

というわけで、ジョーダン係員の案内で、ジョーは新しいからだをさがすことに。
マードック戦にまだでるつもりのジョーは、だれのからだでもいいわけじゃないと念を押す。

こうして、世界中でいろんなからだをみるが、ジョーはまだ納得がいかない。
次の視察は、広壮なお屋敷に住むファーンズワース氏。
ファーンズワース氏はジョーと同じくらいの年齢で、昔ポロをやっていた。
妻のジュリアと、その愛人で氏の秘書をしているトニーに、いままさに殺されてしまったところ。
方法は、バスタブでの溺死。

ところで、魂だけであるジョーとジョーダン係員の姿は、下界の人間にはみることができない。
また、声も聞こえないことになっている。

そんなとき、お屋敷にベティ・ローガンという女性が訪ねてくる。
ベティはファーンズワース氏に懇願しにきた。
父は病気だし、そもそも無実なんですと、ベティ。
どうやら、ファーンズワース氏から買った証券が問題であるらしい。

一方、ベティをみたジョーは彼女にひと目ぼれ。
ベティを助けるために、ジョーはファーンズワース氏のからだに入ることにする。
でも、ファーンズワースになったら彼女に軽蔑されてしまうのではないか。
そんな心配をするジョーに、ジョーダン氏はこう説明する。

《いずれ彼女も君の魂に気づく。君の魂の輝きは上着に隠されはしない》

「上着」というのは、もちろんからだのことだ。
ファーンズワース氏のからだに入るのは、ベティを助けるあいだだけのこと。
ちゃんと別のからだをみつけてくれよと、ジョーはジョーダン係員にいい残す。

というわけで、ジョーはファーンズワース氏のからだに入るわけだが、映画のキャストとしては、ファーンズワース氏もジョー役のロバート・モンゴメリーのまま変わらない。
が、登場人物たちは、ファーンズワース氏としてジョーに接する。

さて、ファーンズワース氏がよみがえったので、妻のジュリアと秘書のトニーはびっくり仰天。
ところが、ジョーはベティに、お父さんが逮捕されたのはファーンズワースの責任で、俺は関係がないなどといいうものだから、ベティは立腹して立ち去る。

ジョーはトニーを呼び、ベティを釈放するために尽力せよといいつける。
個人投資家から証券をすべて買いもどす必要がありますとトニーがいうと、売却額と同額で買いもどせと指示。

大騒ぎとなり、ジョーは役員会に出席。
突然善人になるつもりか、株価が下がったなどと、ほかの役員になじられるが、ジョーはみていた新聞の、マードックが王者ギルバートに挑戦するという記事のほうに動転。
マードックはまず俺と戦わなきゃいけなかったのに。

でも、ベティには見直される。
前回会ったときとは大ちがい。
父を釈放してくれたジョーにベティは夢中になる。
ベティは、ファーンズワース氏のなかにいる善良なジョーに気づいたのだ。

最初の予定では、ジョーがファーンズワース氏のからだに入るのは、ベティを助けるあいだだけのことだった。
ところが、せっかくベティに気づいてもらえたのだからと、ジョーはジョーダン係員たちが用意してくれた新しいからだに入ることを拒否する。
ファーンズワース氏のからだを鍛えて、王座をとり、ベティとも結ばれるんだとジョーは宣言するのだが――。

ここがちょうど、この映画の半分。
このあと、ジョーは屋敷にいろんな機械を置き、執事も巻きこんでトレーニングにはげむ。
元マネージャーのマックスも呼びよせる。
マックスはもちろん、相手がジョーとは気づかない。
ファーンズワース氏だと思っているのだが、いろいろと喜劇的な場面があって、ファーンズワース氏がジョーだと悟る。
ジョーはマックスに、マードックとの試合を設定するように頼む。

悪妻のジュリアと秘書のトニーは、再びファーンズワース氏の殺害を計画。
このあとも、ストーリーは二転三転。
はたして、試合はどうなるのか。
ベティとは結ばれるのか。
なにより、ジョーは最終的に自分のからだを得ることができるのか。

この作品は、魂がからだを出たり入ったりするルールがよくわからない。
ストーリーの都合上、勝手に出たり入ったりしているようにみえる。
ご都合主義きわまりない。
こういうことをすると、普通、面白くなくなってしまうものだが、この作品は面白いのだから妙だ。

とはいえ、説明がないこともない。
すべては神の計画であり、運命だというのがそれ。
これまたご都合主義だけれど、こういわれてしまえば仕方がない。
ささいな疑問点には目をつむろう。
それが神の計画なら、ジョーは王者となるし、ベティとも結ばれるのだ。
たとえ別のからだでも。

この作品は、「天国からきたチャンピオン」(1978)としてリメイクされている。
主人公がボクサーから、アメリカンフットボールのクウォーターバックに変更されている。
チームのライバルとポジション争いをしているという設定だ。

この作品の場合だと、個人スポーツのほうがいいように思うけれど、変更したのはアメフトの人気が高く、画面も派手になると考えてのことかもしれない。
そのほか、細かい変更点はいろいろあるけれど、ストーリーはだいたい一緒。
こちらも面白かった。

それからもうひとつ。
「お楽しみはこれからだ PART3」(文芸春秋 1980)で、著者の和田誠さんは「天国からきたチャンピオン」をとりあげ、こんなことを書いている。

《ぼくが、この映画が弱いと思う点は、魂は一つだが肉体は別、という設定であるにもかかわらず、どの肉体も同じ役者が演じている点である。》

《「天国からきたチャンピオン」で、肉体が違うのに一人の俳優が演じていることは、セリフの中では一応説明がついていて、すなわち、当人が鏡で見たりすると、もとの人物のままなのだが、客観的には別の人物なのだ、と。しかし観客は文字通り客観視するわけだから、そこが苦しいところ。》

ここは和田さんと意見がちがって、ひとりの役者が演じるからいいのだと思う。
何度も役者が変わったら、観るほうは興ざめしてしまう。
それに、観客は知っているけれど登場人物は気づいていないという状況は、映画や芝居にふさわしい。
第一、映画は観客にみせるためのものなのだから、客観視なんてありえないよと思うのだけれど、どうだろうか。


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DVD「コーヒーをめぐる冒険」

DVD「コーヒーをめぐる冒険」(ドイツ 2012)

青年のツイてない1日を、モノクロの映像でえがいた青春映画。

青年の名前はニコ。
視点はニコからはなれない。
そのため、この映画はニコの半径5メートルをえがいた映画だといえる。

ニコに起こる出来事は、並列にただ起こるばかり。
伏線をつかってものごとを立体的にみせることは、この映画はやらない。
朝、コーヒーを飲みそこねたニコは、1日ずっと飲みそこね、翌朝やっとありつける。

では、一日のあいだに、ニコの身になにが起こるのか。
朝、ガールフレンドとけんか。
自宅にもどると、隣人にくどくど悩みを聞かされる。
飲酒運転のために免許が停止されていたらしきニコは、役所のようなところへいき係員と話をする。
この係員が性格の悪いやつで、話は決裂。

ATMにカードを入れたらでてこなくなる。
嫌いな父に小遣いをねだると、2年前に大学をやめていたことがばれてしまう。
電車に乗ろうとすると、券売機がこわれている。
仕方なくそのまま乗ると、係員に捕まりそうになる。

子どものころ、太っているといじめた女性と再会。
その女性は、いまはやせていて女優をしている。
女性の出演している舞台をみると、前衛舞踏劇。

そのほか、俳優の友人と撮影現場にいったり、友人の祖母のマッサージチェアにすわりリラックスしたり。

ニコはひとにからまれやすく、それがこの映画の基本的な設定になっているようだ。
レンタル店のジャンル分けでは、コメディに分けられていたが、それにしては少々苦みが効いている。

これは余談だけれど、青春映画にお年寄りがでてくると、亡くなることが多い。
そのため、お年寄りが登場すると気が気ではなくなる。
お年寄りは、青春っぽいやつが近づいてきたら、逃げだしたほうがいいのではないか。

最後のほうで救急車がでてくるのだが、この救急車にはベンツのマークがついていた。
ドイツの救急車はベンツなのだろうか。


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DVD「紳士同盟」

DVD「紳士同盟」(1960 イギリス)

ひとことでいうと、この作品は銀行強盗の映画だ。
強盗映画には、パターンがある。

まず、仲間をあつめる。
計画を練り、訓練し、実行する。
そして、犯罪は引き合わないことを証明するために、得た金を失う。

本作は、このパターンにぴったりとあてはまる。
では、ストーリーをみていこう。

夜、マンホールからタキシードを着た男(ハイド大佐)が登場するという場面からスタート。
(けれど、マンホールの中でなにをしていたのかは、映画を最後までみてもよくわからない。この映画最大の謎だ)
自宅に帰ったハイド大佐は、「金の羊毛」という小説と、半分に切った5ポンド札、それに手紙を小包につめる。

小包は、元軍人である7人の男たちのもとへ。
こうして男たちの状況が点描される。

ギャンブラーであるらしいレース少佐は、カードで文無しになり、女と別れ話をしている。
そこに例の小包が到着。
手紙にはこうある。
《少佐どの。紙幣の残り半分がほしいなら、すぐ同封の本を読み、差出人との昼食に臨まれたし。》

次に、奥さんの浮気に悩まされている、スミス少佐。
それから、偽牧師のマイクロフト大尉。
マイクロフト大尉は、警察らしきひとが訪ねてきたと大家の女性に教えられ、あわてて荷物をまとめて部屋を逃げだす。

年をとったご婦人の愛人で、夜遊びに精をだすポートヒル大尉。
機械の修理屋をしている、レクシー中尉。
レクシー中尉は、怪しい男がもちこんだスロットマシンの改造を引き受けたりしている。

ボクシングジムを経営する、金に困っているスティーヴンス大尉。
そして、同居の家族にうんざりしているウィーヴァー大尉。

この全員が、カフェ・ロワイヤルの楓の間にあつまる。
部屋を借りているのは、有限会社機動組合。
小包の差出人であるハイド大佐があらわれ、事情を説明する。

同封したのは、アメリカ人作家が書いた、男たちが銀行強盗をするというサスペンス小説。
魂が揺さぶられなかったかなどと、ハイド大佐はたずねるのだが、7人の反応は鈍い。
君たちには失望した、楽に金を稼ぐ方法が書かれているんだぞと、ハイド大佐。

ここにいる全員は悪党だと、ハイド大佐は7人の素性を明らかにしていく。
レース少佐は、戦後ハンブルグで闇市場の顔役となり、露見する前に軍をやめた。
スミス少佐は、資産家の令嬢と結婚し、妻の金で除隊。

マイクロフト大尉は、公衆わいせつで士官の肩書を失う。
ポートヒル大尉は、キプロスで政治組織の一員を撃ったために免職。
無線通信隊のレクシー中尉は、ロシアへの機密漏洩のために免職。
スティーヴンスン大尉は、ファシストの参謀として活躍していた。
爆弾処理班の指揮官だったウィーヴァー大尉は、酒に酔ったために判断ミスをして、4人を死なせた。

そして、ハイド大佐自身は、過失なく25年間勤務したものの、余剰人員として軍を解雇された。
皆の共通点は、金がいることと、元軍人であり、プロであること。
私は諸君の技術を買うと、ハイド大佐。
報酬は、1人10万ポンド。
準備が整い次第また報告するといって、ハイド大佐は去る。

去ったハイド大佐を、郊外の邸宅まで追いかけたのが、レース少佐。
以後、レース少佐は、ハイド大佐の副官となる。

次に皆であつまったのは、演劇クラブのリハーサル室。
ここで全員、ハイド大佐の計画に参加することが確認される。

今後、計画が完了するまで、全員ハイド大佐の邸宅で合宿をすることに。
雑用は当番制、ベッドメイキングと洗濯は各自、女性は禁止と、なかなかやかましい。
規則違反者には罰金。
作戦名は、「金の羊毛作戦」だ。

まずは、武器の調達。
陸軍訓練所に侵入し、武器を盗みだす。

そのため、訓練所内の食事の苦情を受けて、新しい地域司令官が臨検にくるという芝居をする。
情報部をかたり、臨検にいく旨を訓練所につたえた上で、司令官とそのお付きに化けた4人が、訓練所を訪問。
同時に、外部との連絡を遮断するため、2名が電話線を切断。
電話を修理するとの名目で、訓練所内に侵入する。
そして偽司令官が訓練所内の耳目をあつめているあいだに、外に待機している2人と連携し、武器庫から武器をせしめる。

もちろん、実行すると思いがけないトラブルが次々と起こる。

第2段階として、トラックを調達。
これまた盗んできて、用意したガレージで車体を塗り替え、「有限会社 機動組合」のロゴに差し替えて、ナンバーを変更。

それから、目標となる銀行の偵察。
《この銀行が我々の戦場だ》
と、ハイド大佐。

銀行には10時55分に装甲車が到着。
金と、ひと箱5万ドルの使用済み紙幣をはこんでくる。
これをすべて強奪する。

作戦に要する時間は3分。
警報装置の作動を止めるため、爆弾で周辺地域全域を停電させる。
妨害電波により、3キロ半径の警察の通信を使用不能にする。
ガスを発生させ、煙幕のなかで強奪をする。
そのため、全員ガスマスクを使用する。

手はずをととのえ、当日、いよいよ決行――。

本DVDには、日野康一さんによる解説がついている。
それによれば、ほとんど同時期にアメリカで、元コマンド部隊の仲間があつまりカジノを襲撃するというストーリーの、「オーシャンと11人の仲間」が製作されたとのこと。

《どちらもオリジナル・シナリオ、偶然の一致である。出来上がって両方とも驚いた。人間は同じことを考えるものである。》

「紳士同盟」は白黒だが、「オーシャンと11人の仲間」はカラー。
ソール・バスのオープニングも洒落ており、全体に粋で華やか。
特に襲撃後、得た金を失う、愉快で気の毒な場面は忘れがたい。

「紳士同盟」も、最後は相応の結末をむかえる。
華やかさはないけれど、実直で、こちらも忘れがたいラストだ。

強盗映画というと、襲撃後に仲間割れを起こすことがよくある。
でも、「紳士同盟」も、「オーシャンと11人の仲間」も、それがない。
そのことが、2つの映画を気持ちのよいものにしている。

最後に。
「紳士同盟」で身元が発覚するのは、子どもがひと役買うためだ。
同じことをする子どもは、「乱闘街」にもいた。
10年以上前の映画にも、同じことをしていた子どもがいたことが、なにやら面白く感じられる。


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DVD「アルビノ・アリゲーター」

DVD「アルビノ・アリゲーター」(アメリカ 1997)

ある酒場に犯罪者がたてこもるという、密室サスペンス。
犯罪者は男3人。
理性的な兄のマイロと、その弟のドヴァ。
加えて、凶暴なロウ。

夜、3人は会社のオフィスに忍びこもうとするのだが、警報が鳴り退散。
車で逃走中、工事員をひとりひいてしまう。
じつは、この工事員は別の事件のために見張りをしていた警官だった。

3人はさらに事故を起こし、まだ開店していた場末の酒場に逃げこむ。
そこにいたのは5人。
年寄りのバーテン、中年女性ウェイトレス、それに若者、中年、年寄りの3人の男性客。
また、事故のためマイロはけがをしてしまう。
3人はこの酒場にたてこもる。

じき、酒場は警察に包囲される。
が、警察は3人の強盗がたてこもっているとは知らない。
別の事件で見張っていた男がたてこもっていると思っている。
この犯人側と警察側のいきちがいが、本作のミソ。

はたして5人の客はぶじ解放されるのか。
警察が見張っていた、別の事件の容疑者とはだれなのか。

3人はウェイトレスをあいだに立て、電話で警察と交渉。
1時間以内に警官を退去させなければ、人質をひとりずつ殺すなどという。

もちろん、1時間たっても警官は包囲を解かない。
凶暴なロウはいきりたつ。
あわや、だれかが犠牲にというところで、客のクールな中年男ギイがこんな提案をする。
人質をひとりずつ解放するといえ。
で、われわれの代わりに、きみたちがいけ。

ギイの提案は、いいアイデアに思える。
しかし、残った連中がなにをいいだすかわからない。
そこで、客の若者も一緒に連れていこうとドヴァがいいだす。
加えて事件をかぎつけたマスコミがあらわれて――と、ストーリーはつづいていく。

舞台はほぼ酒場のみ。
それでいて、最後まで緊張感があり飽きさせない。
強盗に場末の酒場といった状況のため、豪華絢爛な映画というわけにはいかないけれど、だれが助かるのだろうかと手に汗にぎってみてしまう。
最後はいささか苦みがあるラストだった。


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DVD「ブランカニエベス」

DVD「ブランカニエベス」(2012 スペイン・フランス)

無声映画のスタイルでつくられた映画。
白黒で、画面は正方形。
音声はなく、セリフはカットのあいだにはさまれる、黒地に白文字の字幕でみせる。
なぜか字幕は英語。

この白黒の画面と音楽が、とても美しい。
それに場面の状況をみせるのがうまいので、退屈さがまるでない。

タイトルの「ブランカニエベス」とは、白雪姫のこと。
この映画は白雪姫が闘牛士になるという、スペイン風の白雪姫の物語なのだ。

時代は1920年代。
プロローグは闘牛の場面から。
6頭の猛牛を次々に相手にしていた闘牛士アントニオは、牛に倒されてしまう。
そのショックで妻のカルメンは産気づき、娘のカルメンシータを産む。
カルメンは亡くなってしまい、アントニオは一命をとりとめるが、四肢が不自由になり車イスの生活に。

カルメンシータは、カルメンの母のもとですくすくと成長。
だが、この祖母も亡くなり、カルメンシータは父の屋敷に引きとられる。

アントニオは邪悪な看護婦エンカルナと再婚。
カルメンシータは絶対に2階にいってはいけないと、この継母にいわれる。
カルメンシータがあてがわれたのは、地下の石炭置場。
それからは、水をくみ、洗濯をし、石炭をすくってはかごに入れるといった下働きの毎日。
一緒に連れてきたニワトリのペペも、ニワトリ小屋に入れられてしまった。

が、ペペが小屋を抜けだし、屋敷のなかへ入りこんだことから、カルメンシータはいってはいけない2階へ。
そこではじめて、車イスの父と対面する。

以後、たびたびカルメンシータは父のもとへ。
童話を読んでもらったり、闘牛の手ほどきを受けたり。

だが、その幸せもつかのま。
父親は継母の手により亡き者にされてしまう。

こうなると、最後の邪魔者は成長したカルメンシータ。
継母の命令で、父の墓にそなえる花を摘みに森にいったカルメンシータは、そこで継母の下男に襲われてしまう。
が、カルメンシータは生きていた。
6人の小人の面々に助けられたカルメンシータは、記憶を失ってしまい、名前も思い出せなくなる。

小人たちは、旅芸人であり闘牛士。
訪れた町や村で、子牛を相手にしたコミカルな闘牛をみせる。
あるときアクシデントがあり、小人のひとりが子牛に倒されてしまう。
カルメンシータは驚くが、まわりの小人は、これが客に受けるんだよと意に返さない。

カルメンシータは衝動的に闘牛場のなかへ。
そして、本職の闘牛士のようにうまく子牛をあしらい、満場の喝采を得る。

カルメンシータは、おとぎ話から名前をとって、ブランカニエベスと名づけられる。
「白雪姫と7人のこびと闘牛士たち」として、各地で巡業。
次第に評判が上がり、ついには父が負傷した闘牛場に出演することに。
が、その評判を聞いた継母エンカルナも闘牛場に姿をあらわして――。

この映画は、無声映画のスタイルをとっているので、状況を視覚的にあらわすことによく注意を払っている。
幼いカルメンシータは、初聖体式のとき白いドレスをつくってもらう。
だが、祖母が亡くなると、そのドレスは黒に染められる。

また幼いカルメンシータが、成長した娘へと姿を変える場面。
洗濯ものを干しながら、闘牛士の真似事をしているカルメンシータが、シーツの陰にかくれ、あらわれると美しく成長している。
じつに見事なワンカットだ。

継母の悪辣ぶりもわかりやすくて楽しい。
着飾ったり、下男にまたがったり、肖像画を描かせたり。
無声映画のスタイルに凝ることができたのは、よく知られたおとぎ話の骨組みがあってのことだろう。

ブランカニエベスとなったカルメンシータは、一時、継母の手から逃れる。
とはいえ、それでカルメンシータの受難は終わらない。
カルメンシータが子牛から助けた小人は逆恨みをし、その後カルメンシータに恥をかかせる機会を狙い続ける。

最後には、ちゃんと毒リンゴも登場。
もちろん、継母がカルメンシータに渡そうとするのだが。


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ハロルドが笑うその日まで

DVD「ハロルドが笑うその日まで」(2014)
ノルウェー映画。
ジャンルとしては、痛ましいコメディとでもいえるだろうか。

主人公は、高級家具店をいとなむハロルド。
隣りにイケアができたために、ハロルドの店はつぶれてしまった。
認知症の妻をホームに入れると、その日に妻は亡くなってしまう。
店に火をつけ、自らも焼け死のうとすると、天井から消火シャワーが降りそそぐ。
最後の望みすら果たせない。

ハロルドの息子は、タブロイド紙の記者をしている。
結婚はしているものの破綻寸前。
家の地下に射撃場をつくっており、2人はしばし射撃に興ずる。
ハロルドは、息子が友人から借りているというコルトをもちだし、車でスウェーデンへ。
イケアの創業者を誘拐するのだ――。

北欧の映画はストーリーを盛り上げる気がない。
「ホルテンさんのはじめての冒険」(2007)や「クリスマスのその夜に」(2010)など何本かみたけれど、どれもそうだった。
盛り上がるべきところを常にはぐらかす。
本作もまた同様。
クリスマスの時期が舞台なのに、このわびしさはなにごとだろう。

このあと、ある娘や、娘の母親――元新体操のチャンピオンでいまは酔っ払い――と出会ったり、めでたく創業者を誘拐したりする。
ハロルドは、自分がどれだけ悪いことをしたかという謝罪メモを創業者に読ませ、その様子をスマホで撮影しようとするのだが、創業者はふてぶてしい。
わたしは雇用を1万人生みだしたなどという始末。

ハロルドは、することなすことうまくいかない。
ハロルドにかぎらず、この映画の登場人物はすべてそうだ。
イケアの創業者ですら、のちに屈託をかかえていることがわかる。

痛ましく、滑稽でありながら、映画の印象は清々しい。
冬のよく晴れた寒い朝を思い起こさせる。
浮世のことは笑うよりほかないと、この映画はいいたげだ。


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タイムライン

DVD「タイムライン」(2003 アメリカ)

マイクル・クライトン原作のタイムスリップもの。

物質転送装置の実験中にタイムスリップが起きる。
カメラを送ると、天体の運行から、そこが中世のフランスと判明。
ついには、ひとを送りこむことに成功。
が、何度も送るとコピーが劣化するように、身体の組織がずれていく――。

これが技術的な前提。
それから、ストーリーの背景がある。

100年戦争中の1357年、フランスのカステルガールでは英国軍が村を占領。
近くのラロック城に立てこもり、仏国軍と決戦した。
英国軍のオリヴァー卿は、仏軍司令官アルノー卿の妹レディ・クレアを捕虜にし、城壁に吊るしたのだが、かえって仏軍の指揮は高まり、けっきょく落城。
そのさい、レディ・クレアは死亡した。

1357年のいきさつは、発掘現場での、教授やその息子クリス、助教授のマリクが実習生に説明するというやりかたで観客に語られる。
同時に、主要登場人物も紹介。
クリスは、教授の教え子ケイトに好意を寄せている。

さて、教授はスポンサーであるITCを訪ねにいくことに。
ITCは、物質転送装置の実験から、偶然タイムスリップ現象を発見し、ひそかに人間まで送りこんでいた当の企業。
中世のカステルガールの状況を知るために、教授の発掘を援助していた。

教授が留守にしているあいだ、発掘現場の修道院跡で崩落が起きる。
降りてみると、壊された跡がある美しい彫刻があり、さらに書類と、なぜか教授のメガネが。
書類には、教授の署名と、助けてくれというメッセージが記されている。
日付は、1357年4月2日。

クリスたちはITCと連絡をとり、実験をおこなっているニューメキシコに飛ぶ。
そこで、社長のドニガーやエンジニアから物質転送装置の実験と、その実験で生じたタイムスリップの話を聞かされる。

タイムスリップは、いつも同じ時代、同じ場所にいってしまう。
すなわち、1357年カステルガール。

教授はいったきりもどれなくなってしまった。
教授を救出するには中世の専門家が必要。
そこで、皆でタイムスリップすることに。
14世紀の服に着替え、マーカーと呼ばれるペンダントを身につける。
マーカーを押すと現代にもどれるのだが、広い場所でつかわなければいけない。
それに、6時間たつと燃えてなくなってしまう。
ITCの社員数名とともに巨大な装置に入り、クリスたちは中世フランスに転送される――。

全てのカットがストーリーを進めることに奉仕している。
無駄なカットはひとつもない。
まず、そのことに感心。
この映画はやたらと説明が必要なのだけれど、それを渋滞せずによくみせる。

それでもみていて混乱する。
どっちが英国軍で、どっちが仏軍だったっけ、など。

冒頭で主人公と思われた、教授の息子クリスは、だんだん影が薄くなる。
かわりに後半は、助教授のマリクに焦点が当たる。
これも、話がややこしくなる原因だろう。
主人公は、最初から最後まで主人公でいてほしい。

タイムスリップ後は、ほとんどサバイバルものになる。
着いた早々、一行は戦闘に巻きこまれ、英国軍の捕虜になってしまう。
が、同じく捕虜となっていた教授と、運良く再会する。
今夜は、まさに仏軍が英国軍に決戦をいどんだ日だ。
とにかく、6時間以内に広い場所にいき、現代にもどらなくては。

また、マリクは仏軍の女性と親しくなる。
この女性こそ、アルノー卿の妹、レディ・クレア。
このあたり、過去の人物と現在の人物が交差しあう、タイムスリップものの妙味が味わえるところ。

さらにまた。
ITCの社員はタイムスリップするとき、現代の手榴弾をもっていっていた。
そして英国軍に襲われたさい、その手榴弾をつかおうとし、また同時にマーカーも作動させてしまう。
結果、現代にもどって手榴弾は爆発。
転送装置は大破してしまう。
はたして、タイムリミットの6時間以内に、一行は現代にもどってこられるのか。

それから、タイムスリップしたきり、もどってこないITCの社員もいるという。
かれは、いまどうしているのか。

中世にいってからは、捕まっては逃げ、捕まっては逃げのくり返し。
でも、最後まで緊張感を失わない。
タイプスリップもののお約束もよく押さえられており、その手際の良さが見もの。

それにしても、教授はなぜわざわざ中世にタイムスリップしたのか。
話がどんどん進むので、みているあいだは気にならないけれど、それだけがわからない。
原作には、なにか書いてあるのかも。


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テイラー・オブ・パナマ

DVD「テイラー・オブ・パナマ」(2001 アメリカ)

原作は、「パナマの仕立屋」(ジョン・ル・カレ/著 田口俊樹/訳 集英社 1999)
スパイ映画であり、嘘と欺瞞についての物語だ。

舞台はパナマ。
外務大臣の愛人に手を出したため、英国情報局の諜報員オズナードはマドリードを追放。
パナマに左遷させられる。
引退資金を得るため、オズナードはパナマで仕立屋をしている英国人ハリー・ペンデルに目をつける。

ハリーはサヴィル・ローで仕立てを学んだといっているが、それは嘘。
じつは刑務所で学んだので、そのことは運河委員会に勤める妻にも秘密にしている。
仕立屋としては、銀行家や大統領のスーツまで仕立てている。
が、農園を買ったため銀行に500万ドルもの借金があり、首がまわらない。

オズナードは、このハリーにたくみに食いつく。
金を渡し、秘密を暴露すると脅し、情報提供をもとめる。

ハリーには、ノリエガ時代に反政府運動をしていた、いまは酒びたりのミッキーという友人がいる。
また抵抗運動で顔に傷を負った、マルタという女性を秘書にしている。

ハリーは乞われるままに、ミッキーに情報を渡す。
ミッキーがまだ抵抗運動を続けていると嘘を告げる。
加えて、国は金を得るために、運河を売ろうとしているなどという、とんでもないでまかせを並べる。

オズナードは、この情報を喜び、ハリーに金を提供。
おかげで、ハリーは借金を帳消しに。

オズナードは、ロンドンやワシントンを説得するため、さらに情報をもとめる。
ハリーは深みにはまり、妻がもち帰った仕事の資料をカメラにおさめたりする。
また、ミッキーたちは武器を大量に調達する予定だと、嘘に嘘を重ねる。

ハリーの知人である記者のテディは、ハリーの挙動を怪しみ、ハリーに接触。

さて、ハリーから得た情報を、オズナードは上司へ報告。
上司はCIAにその情報を流し、アメリカはパナマへの侵攻を計画する。
さらに、運河を売ろうとする政府を倒すため、抵抗勢力に資金を提供することに。
資金を、存在しない抵抗勢力に渡すのは、もちろんオズナードだ。

一方、記者のテディは、反政府運動のことを内務省に密告する。
結果、ミッキーやマルタが体制側に追われることに。
こうして、ハリーがついた嘘は大惨事へとつながっていく――。

オズナード役は、ピアース・ブロスナン。
元ジェームズ・ボンド役のブロスナンが、堕落したスパイを演じているのが面白い。
オズナードにとって、情報は正しかろうが間違っていようが、どうでもいい。
利益になりさえすればいい。
オズナードが手にする利益と、引き起こされる惨事のアンバランスは途方もないものだ。

ハリーの息子役は、まだハリー・ポッターをやる前のダニエル・ラドクリフ少年が演じている。
ジョン・ブアマン監督によるコメンタリーで、ラドクリフ少年が登場すると、監督は「ハリー・ポッターがいる」という。
そして、

《これから3、4年映画一色で子供時代をなくすと思うと、いい子なだけに可哀想だ》

と、ラドクリフ少年に同情している。


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ウィスキーと2人の花嫁

DVD「ウィスキーと2人の花嫁」(イギリス 2016)

時代は、第二次大戦中。
英国スコットランドの北端、アウター・ヘブリティーズ諸島の小さな島が舞台。

妻に先立たれた島の郵便局長マクルーンには、2人の娘がいた。
どちらにも結婚を望んでいる相手がいて、姉のペギーのほうは、兵隊のオッド軍曹。
妹のカトリーナのほうは、島の小学校の先生をしているジョージ。
ジョージは、謹厳で高圧的な母親にいつもおびやかされている。

郵便局長はさみしくなるので、2人の娘を嫁にだしたくない。
郵便局は、島の郵便局らしく雑貨屋もかねている。
さらに電話の交換局でもあり、住居でもある。

さて、ウィスキーの配給がストップし、全島が悲しみに包まれたある日のこと。
島の沖合の岩場に貨物船が座礁。
積荷はなんと、NY行きのウィスキー5万ケース。
そこで船員たちの救助を終えた村びとたちは、こぞってウィスキーの隠匿をたくらむ。

村びとがウィスキーを隠匿するのをこころよく思わない人物もいる。
民兵の大尉で、超堅物のワゲットがそう。
村びとたちからは敬して遠ざけられている

ワゲット大尉は、村びとの窃盗行為を阻止しようと、部下のオッド軍曹に指示をだす。
が、オッド軍曹は、結婚の許しをもらいにいった郵便局長からこんなことをいわれてしまう。

《婚約しないと結婚はできない。夫になる男は、婚約パーティーの許しを、女の父から得なければならない。婚約パーティーにはウィスキーがいる。つまり、婚約するには父親が好きなウィスキーを用意せんとな…。》

オッド軍曹が、村びととワゲット大尉のどちらにつくかは明らかだ。
それに弱気なジョージには、ぜひともウィスキーがいる――。

この映画は実話にもとづいた作品とのこと。
島の風景がとても美しい。

村びとみんなで悪事をはたらくという、同じ趣向の映画として、「ウェールズの山」や、「ウェイク・アップ・ネッド」などを思いだす。
(なぜか皆イギリス映画だ)

盗みをはたらく村びとたちは、同時にとても信心深い。
ウィスキーをとりに貨物船に向かおうとしたそのとき、日付が変わり安息日になってしまう。
安息日にはなにもしてはいけない。
仕方なく、うらめしそうに貨物船をながめる村びとたちが可笑しい。

このあと、村びとはぶじ貨物船からウィスキーをもちだす。
が、村人の悪事をなんとしてもあばこうとするワゲット大尉は、関税消費税庁に連絡。
役人がくるのを察知した村びとは、ウィスキーを島のあちこちに隠し、妨害作戦を展開し――と、話は続く。


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殺人者はライフルを持っている

DVD「殺人者はライフルを持っている」(アメリカ 1967)
原題は、”Targets”

2つのストーリーが交互に語られ、最後にそれがひとつになるという構成の映画。
まずひとつめは、怪奇映画専門の老俳優の物語。

ボリス・カーロフ演じるオーロックは、自分が出演した映画の試写をみたあと引退を宣言。
ドライヴ・イン・シアターでおこなわれる予定だった舞台挨拶にも出席しないといいだし周囲を困らせる。
自作に出演してもらおうと思っていた新人監督も頭をかかえる。

もうひとつのストーリーは、ボビーという青年の物語。
ボビーは両親と妻との4人暮らし。
その生活はなんの変哲もないのだが、なにか不穏なものが感じられる。
車のトランクには、たくさんの銃器。
父親と射撃の練習をしているときには、父親に照準を合わせたりする。
そして、ある朝、タイプライターでこんな文句を書きつける。

《僕はいずれ捕まるだろうが、その前にもっと殺してやる》

そして惨事がはじまる。
ガスタンクの上から、高速道路をゆく車に狙いをつけて撃つ。
不審なものを感じて駆けつけた職員を撃つ。
その後、車で逃走し、ドライヴ・イン・シアターの巨大なスクリーンの裏側に身をひそめ、観客を狙う。

一方の老俳優。
泊まっていたホテルに、酔っ払った新人監督がやってきてくだを巻く。
また新人監督といい仲の秘書に、すげない態度をとられたりする。
そんなこんなで気が変わったのか、舞台挨拶に出演することに。
これが最後の舞台挨拶になると、車で会場のドライヴ・イン・シアターに向かう――。

という訳で、2つの物語はドライヴ・イン・シアターでひとつになる。
ドライヴ・イン・シアターで起こる惨劇のなか、老俳優は、怪奇映画の恐怖が現実の恐怖に凌駕されたことを思い知る。
この怪奇映画と無差別殺人のコントラストが、この映画の肝だろう。

この映画は、冒頭、ボリス・カーロフ主演の映画、「古城の亡霊」(ロジャー・コーマン監督)の引用からはじまる。
「古城の幽霊」のクライマックスが流れたあと、試写室の場面となり、いまのは登場人物たちがみてた映画だったとわかる。
ボリス・カーロフ主演の映画を、ボリス・カーロフがみているというのは、楽屋オチともいえるし、批評性があるともいえる。

それにしても、なぜこんな2つのストーリーが交錯する映画をつくったのか。
それになぜ、カーロフにカーロフの映画をみせるような真似をしたのか。
特典の、監督へのインタビューとコメンタリーが、その疑問にこたえてくれる。

「ペーパー・ムーン」「ハリーとトント」を撮ったピーター・ボグダノヴィッチ監督は、本作がデビュー作。
当時、ロジャー・コーマンのもとではたらいていたボグダノヴィッチは、コーマンから監督をしてみないかと声をかけられた。
それには、こんな条件が。

・ボリス・カーロフとの契約があと2日残っている。
・コーマンがカーロフ主演で撮った「古城の亡霊」を20分つかうこと。
・2週間でほかの俳優をつかって撮影すること。

カーロフをつかって何か撮り、俳優をつかって撮り、それに「古城の亡霊」を足せば1時間30分ほどの映画ができあがるだろう――という目論見。
この条件のもとで考えたのが、このストーリーであり、この構成だった。
脚本は、サミュエル・フラーがずいぶん協力してくれたという。

もちろん予算も少ない。
新人監督役は、最初俳優がやることになっていたけれど、参加できなくなったのでボグダノヴィッチ自身が演じた。
映画の老俳優と新人監督の関係は、カーロフとボグダノヴィッチと同じ。
それは作品になにほどか反映しているのではないかと思う。

セットもちゃちだけれど、それがいい。
無差別殺人を、あんまり迫真的にえがかれても困る。

それに、この映画は音楽もない。
車のラジオから流れる音楽だけをつかうという演出をとっている。
それが臨場感を強くしている。

興行的には失敗したそうだけれど――ちょうどJFKやキング牧師の暗殺とぶつかり、暴力的な映画に対する風当たりが強かった――うまくいく映画は、結果的にいろんなことがうまくいくもののようにみえる。

最後にもうひとつ。
この映画には、カーロフが短い物語を語る素晴らしいシーンがある。
舞台挨拶のために司会者と打ち合わせをした老俳優は、なにか知っている怖い話はあるかと新人監督に問われ、「サマラの約束」を語る。
「サマラの約束」は、「サマラの商人」とも呼ばれる有名な物語で、だいたいこんな話。

《召使いが市場で死神をみかけたのでサマラに逃げだす。主人が市場にいってみると、その死神がいる。なぜ召使いを脅かしたんだと商人がいうと、驚いたんだと死神はこたえる。「かれとはサマラで会うことになっていたから」》

話はそれるけれど、ガルシア=マルケスに、「物語の作り方」(岩波書店 2002)という、脚本づくりのワークショップをまとめた本があって、そこでは「サマラの約束」が「サマーラの死」というタイトルとなって触れられている。
「サマラの約束」の話をもとに、新しいストーリーを考えだそうと、みんなであれこれ話しあっている。
「サマラの約束」の召使いに当たる主人公の男が、列車で出発するのか、それともバスに乗っていくのかで長ながと議論が続くのが読んでいて可笑しい。

話をもどして。
カーロフが「サマラの商人」を語っている場面は、だんだんとカメラがカーロフの顔に寄っていくショットになっている。
打ち合わせはホテルの部屋でおこなわれており、カメラがカーロフに寄っていくには、食器ののったテーブルを、音を立てずにどかさなければいけない。

監督がカーロフに、セリフを書いたカードを用意したほうがいいか訊くと、カーロフは「カードが必要だと思うのか」といったそう。
撮影は深夜におよび、カーロフが見事に語り終えたとき、現場からは拍手が沸き起こったと、ボグダノヴィッチ監督は語っている。


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