ジョン・ディクスン・カーを読んだ男

「ジョン・ディクスン・カーを読んだ男」(ウィリアム・ブリテン 論創社 2007)

訳者は森英俊。
装丁、栗原裕考。
論創海外ミステリ66。
短編集で、収録作は以下。

「ジョン・ディクスン・カーを読んだ男」
「エラリー・クイーンを読んだ男」
「レックス・スタウトを読んだ女」
「アガサ・クリスティを読んだ少年」
「コナン・ドイルを読んだ男」
「G・K・チェスタトンを読んだ男」
「ダシール・ハメットを読んだ男」
「ジョルジュ・シムノンを読んだ男」
「ジョン・クリーシーを読んだ少女」
「アイザック・アシモフを読んだ男たち」
「読まなかった男」
「ザレツキーの鎖」
「うそつき」
「プラット街イレギュラーズ」

これに、訳者である森英俊さんによる「好事家のためのノート」が加わる。

全体にパズラーというのか、語呂合わせの話が多い。
アシモフならそれでいいけれど、ハメットもそれだとなんだかなあという感じも。
原典のどこを抽出して自作に反映させるかには、いろんなやりかたがあり、この作者の場合はこうなったということなのだろう。
以下、印象に残ったものを。

「ジョン・ディクスン・カーを読んだ男」
エドガー・ゴールドの人生は、12歳のとき近所の貸本屋で「テニスコートの謎」を手にとったとき決定づけられる。
ひと晩で読みふけり、翌日は「アラビアンナイトの殺人」へ。
以後、カー作品を耽読。
エドガーは資産家の叔父とふたりで暮らしているのだが、叔父のダニエルは、エドガーの独立心をやしなうためにと、遺言書からエドガーの名前をはぶくつもりでいた。
そのまえに、叔父を始末することをエドガーはたくらむのだが…。

シリーズ物はたいてい第1作目が密度が高くて面白い。
本書もこの例にもれず。
エドガーが実行しようとするのは当然密室殺人で、カー先生の作品をひきあいにだしては準備にいそしむ。
カー作品に接していれば、それだけ面白いところ。

エドガーの、カー先生を愛読するきっかけとなった作品もなにやら面白い。
「テニスコートの謎」「アラビアンナイトの殺人」という順番は、一般的とは思えない。
読者は思いがけない作品から作者に接するのだ。
じつは両方とも未読なので、ぜひ読んでみなくてはと思った。
ちなみに、ラストはあんまりなオチ。
でも、カー先生の愛読者ならこんな失敗もするかもしれないと、なんだか納得してしまう。

「ジョルジュ・シムノンを読んだ男」
大男のハロルドと小男のバーニーは、トラックの運転手。
ふたりは、バナリング氏の屋敷に美術コレクションをはこんできた。
屋敷にはカウボーイ・ブーツが目印の警備員、ライトフット・ラリー・スコフィールドが。
町からここまで歩いてきたというスコフィールドがトラックの鍵をはずし、ふたりは美術コレクションを搬入。
屋敷の壁のペンキが、はしではなく真ん中で塗りやめられていることや、スコフィールドの様子などから、シムノンの愛読者であるバーニーはある推理を披露する。

その場で事件が立ち現れるという、本シリーズではめずらしいスリリングな展開。
ラストがまた気がきいている。

「ザレツキーの鎖」
大金持ちのグローシャーは、脱出専門マジシャンのライリー・レンと、私立探偵のロイ・ベトローを夕食に招待。
レンとベトローはじつは宿敵。
レンは資金捻出のため窃盗をくり返しており、ベトローは警官時代、レンを捕まえようとして、捕まえきれなかった。
両者の確執をよく知るグローシャーは、ひとつのゲームを提案。
それは、レンに脱出の腕前を披露してもらうというもの。
レンが失敗したり、ベトローが脱出法を見抜いたりした場合には、レンを7年間刑務所にいれておけるだけの証拠をベトローにあたえる。
レンが勝ったら、レンが主演のフィルムをつくる。
かくして、偉大な脱出マジシャン、アントン・ザレツキーが用いた鎖により、レンは浜辺に立てられた高さ9メートルの丸太に縛りつけられることに。


本書中、いちばん気に入ったのがこの作品。
紹介したストーリーに加え、ゲームの最中にグローシャーの金庫が破られるという謎までが生じ、読み応えたっぷり。
なにより、「夜の浜辺に立てられた白い丸太に縛りつけられた男」というのは、じつに絵になる。
「おまえを捕らえるときはひとりでやる」なんて、宿敵同士の友情も楽しい。

「プラット街イレギュラーズ」
貧しい者たちが住むプラット街は犯罪とは無縁。
よそ者が入りこまないよう、法律の執行は自分たちでおこなう。
ある晩、新顔の質屋、クリストフェル・トーレンソンは警察はどこだと叫びだした。
だれかがわたしの店に盗みに入り、バットで殴りつけたが逃げられたとトーレンソン。
あつまってきたプラツト街の面々と、ちょうど帰ってきたクリストフェルの息子ワルテルは犯人の推理をはじめる。

推理の結果、一度は真相があばかれたと思いきや、それがくつがえされる。
その過程で、犯人の心情があらわれるという人情推理小説。
2段構えの構成とラストにはぐっとくる。

本書はどの1編も、寝るまえ読むのにちょうどいい長さ。
就寝前の読書を楽しいものにしてくれた一冊だった。


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旅行にもっていく本の話

先日、スウェーデンのアビスコというところにいきオーロラを見てきた。
オーロラは雲がでると見られない。
賭けだったけれど、北極圏にいるあいだ1日いい天気の日があり、その晩運よく見ることができた。

それはともかく。
旅行にもっていく本は悩ましい。
じっさいいってみると、もっていった本を読むということはそうない。
それはわかっているのだけれど、もし読み終わり、読む本がなくなることを考えると恐ろしい。
しかも、いき先は外国だから、新たな本を手軽に手に入れることもできない。

旅行にもっていく本の条件というのを考えてみた。

・軽いこと。つまりハードカバーよりも、文庫。しかも、なるべく薄いものがふさわしい。
・面白いこと。
・しかし、つぎのページが気になるほどは面白くないこと。
・すぐ読み始められ、すぐ読み終われること。
・内容が重たくないもの。
……

で、考えたすえ、もっていったのは「ベーオウルフ」(岩波文庫 1941)。
上記の条件すべてにあてはまると同時に、読みかけだったし、舞台はこれから訪れる北欧だから、ちょうどいいだろうと判断。
さらに、これまた読みかけだった「世界短編傑作集」(創元推理文庫)ももっていった。
けっきょく、「ベーオウルフ」を全部読み終えないうちに帰国。

一緒にいった知人は、「ユニオン・クラブ綺談」(アイザック・アシモフ 創元推理文庫 1999)をもってきていた。
ナイスチョイスだ。

「ベーオウルフ」は帰国してから読了。
去年、同タイトルの映画を観てから気になって、原作を手にとってみたのだけれど、読んでみると、原作のどの要素をとりだして、映画に仕立て直したのかがよくわかる。
映画で、怪物グレンデルの母親を中心にして物語を構成し直しているのはうまいアイデアだと思った。
逃れられない運命を感じさせるこの構成は、原作の訳注にもあるように、アングロ・サクソン人が好んだ悲哀の感情を増幅するだろう。

ただ、映画自体の出来がいまいちで、やたらと服を脱ぎたがるベーオウルフの印象しか残さないのは、作品ぜんたいがこのアイデアによりかかりすぎているせいかもという気も。

原作では、ベーオウルフが死んでからもけっこう続く。
古典というのは、読んでいると突然リアリティを増すことがあり、このあたりにそういうものを感じて、面白く思った。


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オーロラ

スウェーデンでオーロラを見てきました。
また、ぼちぼち更新していきます。

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更新小休止

2週間ほど更新を休止します。

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犬に本を読んであげたことある?

「犬に本を読んであげたことある?」(今西及子 講談社 2006)

及子さんでノリコさんの読むのだそう。
写真は浜田一男。

本の後ろ、バーコードのわきのCからはじまる番号は8000番台。
つまり、流通では児童書のあつかい。
それにしては、装丁がお洒落。

内容は、世界初の「読書介助犬」オリビアをめぐる物語。
「読書介助犬」というのは、子どもが本を読むのをじっと聞いてあげる犬のこと。

ことのはじまりは、サンディ・マーティンという女性から。
長年、看護師としてはたらき、現在はボランティアサービスという部署に勤務。
アニマル・セラピー(そのなかでも厳密には「動物介在活動」とよばれるものだそう)に大きな関心をもっていたサンディは、医療機関や福祉施設にセラピー犬の受け入れを訴えてきた。

自身でもボランティア活動をするために、生活環境をととのえたのち、アニマルシェルターへ。
アニマルシェルターは新しい里親がみつかるまで、動物たちが保護されている施設。
そこで、ウォーターボウルに浸かっている子犬と出会い、もらいうける。
それがポーチュギース・ウォーター・ドッグのオリビア。
オリビアは立派なセラピー犬へと成長。

ところで、サンディは絵本も大好き。
あるとき、子どもと絵本、そして犬を結びつけるアイデアがひらめく。
子どもが犬に本の読み聞かせをするのだ。
さっそくサンディは、以前からの知りあいである、ソルトレークシティ中央図書館の宣伝部マネージャー、ディナ・タムパウスキーに話をもちかける。
……

このプログラムは、サンディにより「R.E.A.D.」と名づけられる。
「R.E.A.D.」は“Reading Educathion Assistance Dog”(読書介助犬)の略。
もちろん、「読む」の意味もかけてある。

プログラムの趣旨は、サンディがディナを説得したときのことばにつきる。

「子どもたちがうまく本を読めなくても、スペルを間違えて発音しても、犬は決して笑わない、ばかにしない、ただ黙って聞いてくれる。それによって、子どもたちは自信がついて、本を読むのが好きになる!」

1999年にはじまったこの試みは、成果をあげ、いまではプログラムのチームはアメリカ、カナダをあわせて1000を数えるまでになったそう。

じつはこの本、個人的にはいささか読みにくかった。
原因はおそらく、ノンフィクション的な説明の部分と、物語調の部分がうまく溶けあっていないことにあると思う。
視点がころころ変わってしまうのだ。

これは、ひょっとすると子供向けノンフィクションというジャンルのために起こる現象なのかもしれない。
このジャンルにうといので、なんともいえないけれど。
視点のあいまいさが、子供向けとはいえない装丁につながっている可能性もありそうだ。
まあ、やたら視点というものを気にするこちらにも問題があるかも。
題材自体はとても興味深く、水にもぐるとき息をとめる感じで、ひと息に読んだ。

本書では、写真も雄弁。
犬と子どもがならんで絵本をみている姿は、プログラムの魅力をひと目であらわす。
最初の宣伝のとき配ったという骨型のチラシはとてもかわいらしい。
また、ソルトレークシティ中央図書館の規模の大きさにはおどろく。

去年、うちの飼い犬は亡くなってしまったのだけれど、この本を読んだら、なにか読み聞かせてみたかったなあと思った。
落ち着きのない犬だったから、聞いてくれなかったかもしれないけれど。

うちの猫には、絵本を読み聞かせたことがある。
「こいつはいったいなにをしているんだ?」というような顔をしながら聞いてくれた。

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読書率の話

けっこう前の話になるけれど、2007年10月26日、毎日新聞社が第61回読書世論調査を発表した。

この読書世論調査は、毎日新聞が毎年9月におこなっているもの。
毎回おなじみの質問以外に、その年だけのトピックス的な質問があり、今回はケータイ小説についての質問。
ケータイ小説は若いひとを中心に固定客を得ているみたいだ。

「読書推進運動」という小冊子があって、その平成19年10月15日号(第479号)に、「「読書世論調査」60年を振り返って」という、毎日新聞世論調査室による文章が寄稿されているのをみつけた。
この冊子、ひょっとすると図書館のはしっこのほうにあるかもしれない。

この寄稿によると、第1回の調査がおこなわれたのは1947年。
「出版世論調査」という名称でおこなわれたのだそう。
第1回目の報告書にうたわれた調査の目的というのが大変立派なもの。
孫引きになるけれど、ちょっと引用してみよう。

「出版物こそ文化の永遠の大道といえる。人類はこの大道をたどることによって、初めて国と国との境を埋め尽くし、真理を究め、共通の進歩と幸福への道を切り開くことが出来る」

「調査の目的は、国民が何を求め、何を考えているかを知ることであり、この調査によって、読書に表された国民の祖国再建の理想を打診することができる」

じつに堂々たるものだ。
「現在の観点からは気恥ずかしくなる、気負った文章ですが…」
と、寄稿者は説明をつけている。

さて。
読書世論調査には、「読書率」という考えかたが採用されている。
「あなたは書籍を読みますか」という質問に、「読む」と答えたひとの割合が「書籍読書率」。
同様に、週刊誌と月刊誌のいずれかを読むひとの割合が、「雑誌読書率」。
両方を併せ、書籍か雑誌いずれかを読むひとの割合が、「総合読書率」。

自分のことをかえりみると、雑誌はほとんど読まないから、「書籍読書率」だけだなあ。

で、この60年間の継続調査によると、活字離れが進んでいるとはいえない。
グラフも載っているけれど、たしかに横ばい。
書籍読書率は40~50%、雑誌読書率は60~70%のあいだを推移している。
そうか、雑誌のほうが書籍よりも読まれているのか。

年代別では、書籍読書率は中高年よりも10代、20代のほうが高いそう。
若者よりも、大人のほうが本を読んでいないようだ。

とはいえ、読書率は読む本の内容で選別するものではない。
「読書の質という観点からは別の意見もあることでしょう」
と、慎重なものいいで記事は締めくくられている。

「読書ばなれ」に関する話では、雑誌「図書館の学校」(現「あうる」2006年6・7月号 №71)の、「本はどのように読まれているのか?」という永江朗さんの記事も面白かった。
「図書館の学校」も、図書館のはしっこに置いてあるかも。
これは余談だけれど、図書館のはしっこは情報の宝庫だ。

この記事のサブタイトルは、「「読書ばなれの根拠は?」というもの。
「本が読まれなくなった」とか、「若者の読書ばなれは深刻だ」などとよくいわれるけれど、いったいそういう根拠はなんなのか。

まず、書店の実感としては正しいと、永江さん。
出版物の総売上額は、1997年からおおむね減少し続けている。

また、出版関係者の実感としても正しい。
出版物の売り上げ額は減り続けているのに、年間発行点数は増えている。
1990年ごろとくらべると、一冊あたり半分の部数しか売れなっている。

でも、本が売れないことと、本が読まれないことはちがう。
で、話は読書調査に。
「読書についての継続的かつ信頼できる調査は、日本ではただ2つしかおこなわれてきていない」
と、永江さん。

ひとつは、最初に紹介した毎日新聞の読書世論調査。
もうひとつは、社団法人家の光協会がおこなっている全国農村読書調査。
あと、読売新聞も読書に関する調査をおこなっているけれど、これは1980年からスタートしたので歴史が浅い。

以下、毎日新聞と家の光協会への取材が載っていて、どちらも興味深いのだけれど、話の都合で毎日新聞だけを。
さきほど、第1回報告書の調査目的についての文章を孫引きしたけれど、実情はすこしちががったよう。

「当時のことを調べますと、本の広告が取れなくて困っている、という広告部員の話を世論調査担当官が聞いて、読書世論調査のアイデアを出したそうです。どんな本が売れるのか、どんな本が読まれるのかという観点からの調査です。GHQにも相談して、こうした調査をすると日本人の知的水準もわかるのではないか、ということで始まりました」

こう答えているのは、元世論調査スタッフ浜田重幸さん。
なんだか、調査の目的の文言とは、いささか趣を異にしている。
永江さんも、「最初は世論調査というよりもマーケットリサーチに近かったようだ」。

けっきょく永江さんの結論も、「少なくとも、統計上は読書ばなれが深刻だとはいえない」というもの。
この記事の最後の文章は、出版界に啖呵を切っているよう。
最後にこれを引用しよう。

「…出版界はなにかというと「読書ばなれ」を口にするのに、書協・雑協・取協・日書協の業界4団体は、きちんとした統計調査は行ってこなかった。ノウハウも資金もないからといえばそれまでだが、自分たちで実態を把握しようともせずに経営不振の原因を読者に押しつけるのは、そろそろ卒業していただきたい」


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