「珈琲が呼ぶ」「驚愕の理由」「なつかしく謎めいて」

「珈琲が呼ぶ」(片岡義男/著 光文社 2018) 

コーヒーについての文章をあつめた、書下ろしのエセー集。
内容は、だいたい4部に分かれる。

まず、コーヒーを飲むことについての考察。
この本でコーヒーを飲むとは、家でいかに美味しいコーヒーを淹れて飲むかということではない。
コーヒーを飲むということは、ほぼ自動的に家のそとで飲むコーヒーのことになり、喫茶店の話になり、喫茶店で日々原稿を書いていたという仕事の話になり、そこで出会った光景なり、人物なりの話になる。

次が、音楽にあらわれるコーヒーについて。
その次が映画。
その次が、コミックと、さまざまな懐旧譚。
ほかにも、コーヒー・カップの話や、はじめて飲んだインスタントコーヒーの話などがあるけれど、例外をいいだしたら切りがない。

写真も多く、読んでいるのが楽しい。
一番の労作は、総武線・中央線・地下鉄丸の内線を走る電車の上下本とも、一枚の写真におさめようとしたくだりだろう。
写真家の岡田こずえさんが奮闘したという、その成果が収録されている。

一番気に入ったのは、映画にでてきたコーヒーについての話。
この雑然とした本のなかで、ここが一番まとまっているように思う。
これだけで一冊つくってもよかったのではないか。

たしかこの2月に、毎日新聞に著者への取材記事が載っていて、それによれば、このエセー集のなかに1本だけ創作が含まれているのだという。
これは面白い。
というのも、片岡義男さんのエセーは好きでよく読むけれど、小説はひとつも読んだことがないからだ。
知らぬ間に、はじめてひとつ、小説を読んだことになる。
たぶんの、その創作というのは、ビートルズにまつわる、「四つの署名、一九六七年十二月」ではないかと思うけれど、どうだろうか。


「驚愕の理由」(ウルス・フォン・シュルーダー/著 中村昭彦/訳 毎日新聞出版 1998)

スイスの作家による短篇集。
短編というより、コントとかスケッチとかジョーク集とか呼びたくなる軽い読みものが、全部で22編収録されている。
内容は大半が、〈私〉が異国でトラブルに見舞われるというもの。

同地を通勤している女性の車に便乗して西ベイルートを出発し、ほとんど戦場といったありさまの市街地を通り抜け、なんとかから東ベイルートまでたどり着く話。
アフリカの空港で、出国管理官に出国を許してもらえず冷や汗をかく話。
スイスに住むチベット人を取材してもらうため、高名なアメリカ人ジャーナリストに接触したところ、かれが方向音痴だったことがわかる話。

機内で、飛行機の苦手な美女に手を握られ、インドで電話をつなげようとこころみ、フィリピンで故障した飛行機の出発を他の乗客たちと待つ。
キエフで女性と別れ、アフリカのどこかで子どもたちから贈り物をおくられ、バンコクで娼婦の少女と話をする。

歯科医の女性から治療を受けるさまをえがいた、「苦悶させる女」は、他の作品と雰囲気が合わず妙な感じだった。


「なつかしく謎めいて」(アーシュラ・K.ル=グウィン/著 谷垣暁美/訳 河出書房新社 2005)
原題は“Changing Planes”

ル=グウィンが亡くなった。
「ゲド戦記」を夢中で読んだことがある身としては、なにか読まずにはいられない。
そこで、未読だったこの本を読んでみることに。

本書も短篇集。
〈私〉がさまざまな次元を旅し、そこに暮らすひとびとの様子を報告するというファンタジー。
この、次元から次元に移動する方法が振るっている。
次元移動は空港で起こる。
乗り継ぎのさい、飛行機が遅れ、食べ物はまずく、乗客はうるさく、読むものはなく、長時間プラスチックの椅子にすわっているほかはない、といったストレスにさらされたとき、次元の移動が可能となるのだ。
訳者あとがきで、訳者の谷垣暁美さんがこの次元移動の発想について要領よく教えてくれているから引用しよう。

《飛行機の乗り継ぎのための待ち時間にはPlaneとPlaneの間にいるわけだから、コツを覚えれば簡単にほかのPlane(次元)に行ける、というのがこの作品の出発点になっている理屈で、つまりこれは一種の言葉遊びによる奇想小説なのだ。》

ことば遊びというと聞こえがいいけれど、ようはダジャレ的発想だろう。
この次元移動の方法は、発明者の名前をとって、〈シータ・ドゥリープ式次元間移動法〉と呼ばれる。

移動先では、「ローナンのポケット次元ガイド」を参照すれば、自分がどんな次元にいるかわかる。
また、訪れた次元では、次元間旅行局直営ホテルに泊まることができる。
そこに備えつけられた「次元大百科事典」(全44巻)を読めば、いまいる次元をより詳しく知ることができる。
その次元に住むひとたちとは、通訳機をつかえばだいたい会話が可能だ。

収録されている作品はぜんぶで16作。
最初の作品は、〈シータ・ドゥリープ式次元間移動法〉についての説明だから、15の次元にかんする物語が収録されている。
こういう作品を書くのは、ひとつふたつならなんとかなるだろうけれど、15作となるとなかなか大変ではないだろうか。
これだけ書いてパターンに陥らず、興趣に富んだ物語をあらわしているのだから恐れ入る。

〈私〉が訪れる次元は、たとえばこんな風。
遺伝子操作のために奇妙な生き物だらけになってしまったイズラック。
子どものころは話すが大人になるとほとんど話さなくなるアソヌのひとたち。
怒りっぽいヴェクシに、鳥のように渡りをするアンサラックのひとたち。
平民を愛好するヘーニャの王族たち。
すっかり観光地と化した次元。
眠らないひとびとがいるオーリチ人の次元(ここでもイズラック同様、科学者が馬鹿なことをしている)。
だれも話すことに成功した者はいない、不思議な言語をあやつるンナモイのひとたち。
なぜか巨大な建築物をつくるコク次元のアク。
ガイ人にときおりあらわれる翼のあるひとたち。
不死のひとたちがいるイェンディ次元。
などなど。

もっとも印象に残ったのは、「その人たちもここにいる」と題された一篇。
ヘネベット人は〈私〉によく似ていて、そのため〈私〉はヘネベット人のことをわかったような気になっていたのだが、じつは相手は理解のおよばないひとたちだった――というような話。
これは、本書全体を象徴するような作品にみえる。
理解はついにおよばないけれど、それでかまわないという感覚。

じつは、最後まで読んでから、この小説を読みちがえていたことに気がついた。
〈私〉は、短編ごとに、それぞれ別の人物だと思っていた。
まあ、これはエセー風の小説で、〈私〉にドラマがあるわけではないから、そう読んでも問題はないけれど。
でも、〈私〉は全編を通して、ひとりの〈私〉らしい。
なんともうかつな読者だ。

〈私〉がひとりの〈私〉だと気づいたのは、訳者あとがきのおかげ。
また、イラストのおかげ。
この本には、一篇に一枚、エリック・ベドウズというひとの描いた線画が載せてある。
各次元の特徴をよくとらえた、日本人にはちょっと描けないような魅力的なイラスト。
そのイラストに、ときおり年配の女性が描かれている。
つまり、これが次元旅行者である〈私〉なのだと、読み終わるころに気がついた。
その〈私〉は、カバー袖に掲載されたル=グウィンの写真に、とてもよく似ている。


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「ちょっとちがった夏休み」「輝く断片」

「ちょっとちがった夏休み」(ペネロープ・ファーマー/作 八木田宜子/訳 岩波書店 1980)

これは児童書。
岩波ようねんぶんこの1冊。
前作に、「ぼくのカモメ」があるけれど、こちらは未読。

夏休みがはじまったばかりの7月。
スティーブが、おばあちゃんのいる〈水べり屋敷〉にいくと、そこにはいとこのピーターがきている。
おばあちゃんと屋敷をひとりじめできるとばかり思っていたスティーブは、腹立たしい気持ちでいっぱいに。
性格の良いピーターは、いちいちからんでくるスティーブのことなど気にしない。
2人はおばあちゃんに頼まれ、協力して、水草が生い茂って水が流れなくなってしまった屋敷の小川をきれいにしようとするのだが――。

よく小説を評することばに、「登場人物の心理がよく書けている」というのがある。
まさにそのことばがふさわしい作品。
子どもが手にとるかどうかはわからないけれど、素晴らしい一冊だ。
児童書は傑作の宝庫だと改めて思う。


「輝く断片」(シオドア・スタージョン/著 大森望/編 河出書房新社 2005)

奇想コレクションの1冊。
短篇集で、収録作は以下。

「取り替え子」
「ミドリザルとの情事」
「旅する巌(いわお)」
「君微笑めば」
「ニュースの時間です」
「マエストロを殺せ」
「ルウェリンの犯罪」
「輝く断片」

「取り替え子」 大森望/訳 (1941)
遺産を手に入れるために赤ん坊が必要になった若夫婦が、たまたま出会った取り替え子とともに、遺産をにぎっている伯母さん相手に奮闘する。
ファンタジー仕立てのコメディ。
ウッドハウスが書いたみたいな作品。

「ミドリザルとの情事」 大森望/訳 (1957)
マッチョで支配欲の強い男と結婚した女性が浮気をする話。
マッチョ男が、奥さんの浮気相手である男に、男の生き方を高圧的に説く部分が読ませどころ。
読んでいたら、ハメットの「理髪店の主人とその妻」という短編を思いだした(「チューリップ」に収録)。
後半で突然SF的展開をみせるのが妙だ。

「旅する巌」 大森望/訳 (1951)
主人公の文芸エージェントがすごい新人をみいだすのだが、その新人には謎があり――という話。
謎の部分はSFなのだけれど、これがとってつけたよう。
文芸エージェントの日常がかいまみえる描写は愉快。
訳者解説によれば、スタージョンはじっさい文芸エージェント業をいとなんでいたことがあるとのこと。

「君微笑めば」 大森望/訳 (1955)
1人称で、傲慢な理屈を長ながと話す男の話。
この語り手は、「ミドリザルとの情事」のマッチョ男によく似ている。
男の理屈を聞かされるのは、ヘンリーという大人しい男。
最後はミステリ展開となり、どんでん返しが起こり、かつSFとなる。
みごとな作品だ。
そしてこの作品以降、収録作はみんな傑作となる。

「ニュースの時間です」 大森望/訳 (1956)
訳者解説によれば、この作品のアイデアとプロットはハインラインが提供したとのこと。
主人公のマクライルは大変なニュース好き。
すみからすみまで新聞を読み、ラジオやテレビのニュースに没頭する。
妻はそんな夫の奇癖にうんざりし、あるときラジオやテレビをこわしてしまう。
マクライルは家をでる。
人里はなれた山のなかで暮らすことにする。
ここから、話は奇妙な方角に急展開。
最後まで一定の密度を保った語り口には感嘆。

「マエストロを殺せ」 柳下毅一郎/訳 (1949)
「ミドリザルとの情事」や「君微笑めば」に登場するマッチョたちは、社会的地位が高かった。
でも、かれらと同じタイプで、しかし社会的地位の低い人物がいたらどうだろうか。
そういう人物は、逆恨みしがちな人間となるのではないか。
というわけで、本編は、ジャズバンドでMCを担当する主人公が、バンドリーダーを殺すという、1人称で書かれた逆恨み小説。
主人公がめでたくバンドリーダーを殺してからの皮肉な展開が見もの。

「ルウェリンの犯罪」 柳下毅一郎/訳 (1957)
「マエストロを殺せ」と同趣向の、3人称小説。
いいひとをやめて、守ってくれる女性から独立したいと願う男の物語。
こう要約するとコメディのようだけれど、切迫感のある語り口が作品を奇妙なものにしている。

「輝く断片」 伊藤典夫/訳 (1955)
これは痛い話。
いろいろ痛い、痛ましい。
傑作だとは思うけれど、読み直したくはないなあ。

それほど読んでいないからあんまりたしかなことはいえないけれど、スタージョンの作品にはむらがあると思う。
なぜ、「旅する巌」を書くひとが、「輝く断片」を書けるのか。
じつに奇妙だ。
社会不適応者をえがくとき、作者の筆は精彩をおびる。
また、奇妙な理屈を高密度で語るというのが、全体を通しての特長だろうか。


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