さらば、シェヘラザード

「さらば、シェヘラザード」(ドナルド・E・ウェストレイク/著 矢口誠/訳 国書刊行会 2018)
原題は、”Adios,Scheherazade”
原書の刊行は1970年。

作者のウェストレイクは、2008年に亡くなったミステリ作家。
ひと口にミステリといっても、いろんなミステリがある。
そのいろんなミステリ、――ハードボイルドからユーモアものまで――を、ウェストレイクはたくさん書いた。
なかでも、不運な泥棒ドートマンダーを主人公とする、ドートマンダー・シリーズが有名。
ウェストレイク亡きあと、こんな風に、コミカルでユーモラスで、かつ都会的といった作品を書くことができるミステリ作家はいるのだろうか。

その2008年に亡くなったウェストレイクの作品が、去年の2018年に刊行された。
それが本書。
なんでまたいまになってと思うけれど、ウェストレイクの書いた本ならなんでも読みたいファンとしては、大変ありがたい。

本書はミステリではなく、なんというかまあ、ジャンル分け不能のケッタイな小説。
訳者あとがきによれば、マニアのあいだでささやかれていた幻の作品だったとのこと。
内容は、ポルノ小説のゴーストライターが、ポルノが書けなくて困り、なおかつどんどん困っていくという、哀れで滑稽な物語だ。

主人公は〈ぼく〉、エド・トップリス。
エドは、追いつめられている。
あと10日のうちにポルノ小説を一冊仕上げなければいけない。
なぜ、こんな状況におちいったのか。

1964年、大学を卒業したばかりのエドは、すでに結婚していて、実家で母親と同居していた。
キャピタルシティ・ビール卸売販売という会社ではたらいていて、そのとき妻のベッツィーは妊娠7ヶ月だった。
そんなエドのもとに、大学のルームメイトで、いまは作家のロッドがもうけ話をもちこんでくる。
それがポルノ小説のゴーストライター。

ロッドは以前ポルノ小説を書いていたが、いまはまともな小説を書いている。
ポルノ小説のほうは、ゴーストライターに書かせている。
ロッドのゴーストライターになれば、その原稿料は1200ドル。
200ドルは、名義料としてロッドへ、あとの1000ドルはゴーストライターへ。
ただし、10日で一冊書かなければいけない。
一冊の長さは5万語。
1章25ページで、全10章。

エドがキャピタルシティ・ビール卸売販売で得る収入は、年に3750ドルだ。
エドは、ロッドからポルノ小説の公式を教わる。
(若者が小さな町をでて広い世界へ……。あるいは、若い女性が小さな町をでて広い世界へ……)

こうして、エドはロッドのゴーストライターに。
最初は調子が良かった。
1日平均4時間書き、トータル40時間で一冊を書き上げた。
この生活を1年半ほど続ければ、お金も貯まり大学院に進学できるだろう。
そうエドは思ったが、実際はちがった。
1年半後、お金はぜんぜんたまっていなかった。
代わりに、借りた家に、家具やら車やらが増えていった。

さらにロッドの忠告。
「こんなクソを永遠につづけられるやつはいない」
このことばどおり、じわじわとポルノ小説が書けなくなっていった。

最初に締め切りを破ったのは、1967年6月。
24番目の作品、「熱く乱れて」のとき。
原稿は、ロッドのエージェントである、ランス・パングルに渡すことになっている。
とはいえ、ランスのオフィスにいるのは、いつもサミュエルという若者なので、サミュエルに渡す。

次の作品も遅れ、その次の作品も同様。
しかも、遅れる日数が増えていく。
ついにランスから電話が。
もう一度遅れたらバイバイだからな。
それが、11月10日のこと。

というわけで、エドは必死になってポルノ小説を書かなければならない状況にある。
が、なにも思いつかない。
でも、とにかくなにか書かなければ。
なぜ、こんな状況におちいったのかについて。
ガールズグループのメンバーだった、元歌手の母親や、双子の妹ハンナとヘスターについて。
ベッツィーとの出会いから、破綻しかかっている現在の結婚生活について。
エドは、1章25ページ分のくりごとを書き続ける――。

そのエドのくりごとが、この小説という趣向。
この趣向をあらわすため、本書では、1章も2章も3章も、すべて1という番号が振られている。
これからポルノ小説の1章目を書こうとする、エドの切ないあがきだ。

また、本書のページ上に振られているノンブルは、いつも1章分の25ページでストップする。
次のページからは、また1章目の1ページ目からスタート。
こうして、再び25ページ分のくりごとが続く。
(ちなみに、作品全体のノンブルはちゃんとページ下に振られている)

ときには、うまくポルノ風に話が進むときもある。
なんとか2章目に進むこともあるのだけれど、すぐにもとのくりごとにもどってしまう。

エドもただ手をこまねいていたわけではない。
ポルノ小説のゴーストライターという境遇から脱出しようとこころみたこともあった。
ミステリの短篇を書いてみたし、ノンフィクション記事にも挑戦した。
せめてゴーストではないポルノ小説家になろうと、サミュエルにもちかけたこともある。
しかし、サミュエルの返事はすげない。

《「あんたが一カ月にもう一冊書いてもうちには枠はない。枠をつくるにはほかの誰かを首にしなきゃならないわけだが、率直にいって、あんたに毎月二冊書いてもらうために誰かを首にしたくなるほど、あんたは優れちゃいない」》

どうしても、エドは作家にはなれない。

ウェストレイクは、実際にポルノ小説を手がけていたという。
また、メタフィクションの手法も用いている本書には、楽屋落ちがたくさんあると、訳者あとがきが教えてくれる。
たとえばエドが、映画「ポイントブランク」をみにいったりする。
「ポイントブランク」の原作者は、ウェストレイクだ。
また、本書はウェストレイクが離婚した翌年に出版されている。
だから、自分の経験を盛りこんでいるかもしれない。
巻末には、ウェストレイクの主要著作リストが掲載されている。

このあと、ストーリーは、エドが書いたくりごとをベッツィーが読んでしまったことから急転直下。
最後はドタバタに。

本書の面白さは、くりごとの面白さだ。
ただ、男の身勝手なくりごとだから、女性には不向きかもしれない。
訳文は、くりごとに切迫感があり、素晴らしい。

エドのくりごとは、手際がいい。
自身の置かれている状況を簡潔に述べ、これからどうなっていくのかと読み手を引きこむ。
書いている小説に、自分で口をはさみ、泣き言をいいながら、書くことをやめられず、書き続ける。

ポルノ小説家としては失格かもしれないけれど、きみのくりごとはなかなか読みごたえがあるよ。
そうエドにいってあげたくなる。


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死のかげの谷間

「死のかげの谷間」(ロバート・C・オブライエン/著 越智道雄/訳 評論社 1985)

原題は“Z for ZACHARIAH”
SOSシリーズ第5巻。
2010年には、「海外ミステリーBOX」とシリーズ名を変え、新装版が出版されている。
1976年の、エドガー・アラン・ポー賞受賞作。

これは児童書。
といっても、児童書の範疇から、少しとびだした児童書。
内容は、ひとことでいえば、核戦争後に生き残った少女がサバイバルする物語だ。

主人公は、アン・バーデン。
作中で16歳になる少女。
将来の夢は、国語の先生になること。
本書はアンの1人称で、日記形式でしるされる。
その冒頭はこう。

《五月二十日
 こわい。
 だれか来る。》

この作品の舞台は、核戦争後のとある谷間。
この谷間は、たまたま放射能を逃れているが、ほかは全滅。
わずかな期間の戦争のあと、アンのお父さんと弟のジョセフ、いとこのデイビッドは近所のオグデンの町をみにいったのだが、そこはすっかり廃墟と化していた。
次の日には、店のクラインさん夫妻も加わり、アンを残した全員で、もっとはなれたディーン町にでかけていき、そして帰ってこなかった。
家畜の世話をするために、留守番をすることになったアンは、ただひとり残されたのだ。

ラジオ局は一局ずつ消え、ついにはなにも聴こえなくなる。
電気は停まり、ガスボンベは2本あるものの節約したい。
アンは、たきぎをつくり、暖炉で煮炊きをして冬をすごす。
ニワトリや牛の世話をし、野菜畑をつくる。

電気が停まったために井戸水がくみ上げられない。
そこで小川からくんでくる。
谷間を流れる小川のうち、ひとつは汚染されているが、谷間の泉を源流とするもう一本は大丈夫。
この小川は池にそそぎ、池の魚は大切な食糧となる。

こういう生活をしていたアンのところに、冒頭の一文のような事態が。
最初にみつけたのは、焚火の煙。
それが、日を追って近づいてくる。
一体どんなひとがあらわれるのか。

万一を考え、アンは家畜を追い立て、野菜畑を掘り返し、ひとがいた形跡を消す。
22口径のライフルをもって、山腹の洞穴へ。
洞穴にはあらかじめ、水や保存食も準備しておいた。
ここから、あらわれた男を観察する。

男は、だぶだぶとしたウェットスーツのようなものを着ている。
背中には空気ボンベ。
ワゴンを引き、のろのろと歩いている。

男は緑の木々に驚く。
なにかの器具であちこちを測ってから、マスクをとり、歓声をあげる。
ひさりぶりに人間の声を聞き、アンもびっくり。

男はアンの家をのぞく。
が、家のなかで寝たりしない。
テントを張り、そこで眠る。
あのテントは、放射能をさえぎるものにちがいない。

こうして、ひそかに男を見張っていたアンだが、翌日、男は不注意にも汚染されている小川のほうで水浴びをしてしまう。
じき、男は体調をくずし、テントにもぐりこんだままに。
アンは意を決し、洞穴からでて男のもとにいく――。

男の名前は、ジョン・R・ルーミス。
のちにアンに話すのだが、ルーミスは化学者で、磁気を帯びたプラスチックによる防護服の開発に着手していた。
水のろ過装置や空気清浄機も開発し、生産にこぎつけようとしたところ、戦争が起きてしまった。
ルーミスは、シェルターで何カ月もすごしたのち、開発した防護服を身にまとい、外の世界を歩き続けていたのだった。

本書の登場人物は、アンとルーミスのみ。
ルーミスは、アンの看病とお祈りのかいあって、徐々に回復していく。

本書の科学的記述がどれほど正確なのかは、知識がないためわからない。
いま読むとリアリティをそこなっている記述があるかもしれない。
でも、サバイバル生活については詳しく書かれており、そこに迫真性が生まれる。

機械に強いルーミスの指示で、アンはガソリンポンプからガソリンを得ることに成功。
トラクターをつかい畑をたがやすことができるようになった。

アンは娘らしく、10年後には子どもを連れて野草をつみにきているかもしれないなどと想像する。
が、ストーリーはそんな風には展開しない。
2人のサバイバル生活は紆余曲折のすえ、再びアンひとりのサバイバルへともどっていく。
その物語の緊迫感は相当なもの。

アンは大変なしっかり者で、かつはたらき者。
店にいけば、野菜や果物の種があるけれど、アンはその発芽率についても心配する。

《種だって一年くらいならいいけど、二年も放っておけば発芽率は落ちるだろうし、三年四年たつうちにすっかり使いものにならなくなってしまう》

またアンは、勇気があり、けっしてへこたれることがない。
こんなアンが、理不尽な目にあうのは痛ましい。
読後、どこかで国語の先生になれたらいいのにと思わずにはいられない。
それにしても、なんとまあきびしい児童書だろう。

原題の、“Z for ZACHARIAH”については、作中に説明がある。
アンが子どものころ読んだ「聖書の文字の本」が、このタイトルの元。
この本は、「AはアダムのA」ではじまり、「Zはザカリア」のZで終わっていた。
アダムが最初の人間だから、ザカリアとは最後の人間にちがいない。
そう、子どものアンは思っていた。

つまり、この原題は、「最後のひと」という意味なのだろう。


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