食べ放題

最近ネット接続の調子がいまいち。
更新がとどこおりがちになるかと思いますが、ご容赦のほどを。

さて、ここのところよく食べ放題にいっていたら、その名もずばりの小説を見つけた。

「食べ放題」(ロビン・ヘムリー 白水社 1993)。

訳は小川高義。
白水Uブックスの一冊。

短編集。
ぜんぶで13編がおさめられている。
たいてい「わたし」の一人称。
たいてい家族の話。

この本の「わたし」はセンサーのようなもの。
人間関係の微妙なストレスに敏感に反応する。

反応は、グチのようなかたちをとらず、登場人物たちの行動に反映され、不穏な雰囲気をかもしだす。
ストレスは作品中徐々に蓄積され、クライマックスでは珍妙なシーンが出現する。

「オフ・ビートな笑いにのせて贈るおかしなおかしな短編の数々」
と、裏表紙の紹介文には書いてあるけれど、どちらかというとグロテスクさのほうが勝っていると思った。
「ワインズバーグ・オハイオ」の子孫のひとり、といったふう。
殺伐としたおかしみ。

「食べ放題」
これは、「僕」が女房息子と、教会行事のパンケーキ集会にいく話。
「僕」は気がすすまなかったが、女房がいきたがり参加。
シロップ瓶のラベルになっているジェマイマおばさんのリードのもと、みんなでうたったり踊ったりしているうち、イライラが消え、狂躁的に。
最後、おばさんは倒れたままうごかなくなるけれど、ラストはこう。
「どうせ、なんでもないはずだ。なんとなく、ただの感じだけど、みんなそろって安らかなんだ」

「ネズミの町」
小学3年生の「僕」の話。
大学教授だった父を心臓発作で亡くした。
ベトナムで父を亡くしたミッチと家族ぐるみでつきあっているけれど、母親同士はうまくいっていない。

「僕」とミッチは、同級生の女の子がボール紙でつくってくれた町で、ペットのネズミをいじめて遊ぶ。

感傷さと殺伐としたシーンがまざりあい、とても効果を上げている。
本書中いちばんよかった。

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世界短編傑作集5

「世界短編傑作集5」(江戸川乱歩編 東京創元社 1961)。

創元推理文庫の一冊。
あんまり本がぼろぼろなので、一編ごとにちぎって読んだ。
巻末の出版案内が横書きだ。

収録作品は以下。

「黄色いなめくじ」 H・C・ベイリー
「見知らぬ部屋の犯罪」 カーター・ディクスン
「クリスマスに帰る」 ジョン・コリア
「爪」 ウィリアム・アイリッシュ
「ある殺人者の肖像」 クウェンティ・パトリック
「十五人の殺人者たち」 ベン・ヘクト
「危険な連中」 フレドッリク・ブラウン
「証拠のかわりに」 レックス・スタウト
「悪意」 ディビッド・C・クック

それから、ボーナス・トラックともいうべき、クイーンの「黄金の二十」。

カーター・デイクスンとフレドリック・ブラウンのものは、以前読んだことがあった。
レックス・スタウトはネロ・ウルフ物なのだけれど、表記が「ニーロ・ウルフ」だ。

面白かったのは、つぎの3編。

「黄色いなめくじ」(宇野利泰訳)。
フォーチュン氏もの。

兄のエディ・ヒルと妹のベツシィが溺れ死にそうになった。
エディが、ベッシィを殺そうとしたため。
エディは以前盗みをはたらいて、少年裁判所に送られたことも。
フォーチュン氏が捜査をすすめると、兄妹たちの同居人、ワイヴン夫人の死体が発見される。
はたして犯人はエディで、口封じのために妹を溺死させようとしたのか…?

兄妹のけなげさが印象的。
しかけは、「EQMM」で読んだ「あざみの綿毛」と一緒。
綿毛やなめくじが、死体が移動されていたことを発見するきっかけとなる。

タイトルの「黄色いなめくじ」とは、なにかの比喩かと思ったら、そのものずばりだった。
あちらには、黄色い色のナメクジがいるのだろうか。

「ある殺人者の肖像」(橋本福夫訳)。
わたしの回想録。
これも子どもがらみの話。

わたしの友人、マーティン・スレイターには、オリン卿という父親がいる。
オリン卿は、福音主義者の准男爵で、とかく息子につきまとい、見当違いの愛情を押しつける。
わたしが休みをスレイター邸ですごしていたとき、ついに事件が…。

はじめから犯人が割れているタイプの作品。
で、手段が語られるだけかと思いきや、最後でもうひとひねり。
くどい描写が、崇高さへとつながる。

「十五人の殺人者たち」(橋本福夫訳)。
舞台は戦時中のニューヨーク。
わたしがひとから聞いた話、という形式。

3ヶ月に一度、最高級の医者たちがあつまる、Xクラブという会合。
この会は誤診による殺人の、告白の会だった。
この日は新たなメンバーを加える予定。
新メンバーのウォーナー博士は、自分の誤診談を語りはじめる。

ベン・ヘクトはちょっとうるさい感じの小説を書くけれど、これは後味がいい。
深い余韻をのこすラスト。


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図書館のプロが教える〈調べるコツ〉

「図書館のプロが教える〈調べるコツ〉」(浅野高史+かながわレファレンス探検隊 柏書房 2006)

副題は「誰でも使えるレファレンス・サービス事例集」。
レファレンス・サービスとは、図書館でやっている調べものサービスのこと。

毎日新聞の小西聖子さんの書評、が面白かったので読んでみる。

タイトルから実用書かと思うと、ちがう。
司書が、調べもののプロでないひとに、調べかたを教える、という本ではない。
どちらかというと、司書が、調べもののプロでない司書に対して調べかたを教える、というつくり。

しかも、ぜんたいが読み物仕立て。
妙だ。

まず冒頭にマンガが載っている。
中西さんは書評で、「ぜひ二四ページまでは我慢してから、読んでほしい」と書いているけれど、これはマンガはいらないといっているのだろう。
同意見だけれど、描いたひとには気の毒。

さて、この本の舞台となるのは、架空の図書館、「あかね市立図書館」。
メール・レファレンスまでしているから、なかなかの規模。
この図書館につとめる人物たちを、顔のイラストとともに紹介。

で、毎回これら各人物が語り手となり、利用者の質問にこたえていく。
それぞれの調査には、「調査の流れ」「主な参考資料」、あと「格言」が付記。

こういう本は事例がむつかしい。
簡単すぎては意味がないし、専門的すぎても読むひとがとまどう。
時事的すぎてはすぐ古くなる。

この本の事例は、この本のもとになったレファレンス学習会の課題から精選したとのこと。
好事家よりになっていて、経済関係のレファレンスはひとつもないのだけれど、読み物仕立てにするならこれが正解かとも思う。
以下、目にとまったものを。

「西暦1872年12月31日を日本の旧暦に換算すると?」
まず、「暦日大鑑」。
これは西暦1873年1月1日以後の暦しか掲載されていない。

でも、これで1873年は明治6年1月1日と特定。
と、すると1872年は明治5年。

で、ちょうどこのあいだ、明治5年と6年のあいだに改暦があった。
「日本暦西暦月日対照表」や「江戸幕末・和洋暦換算事典」で、西暦1872年12月31日は、明治5年12月2日と判明。

「「1826年童話年鑑」の作者および当該書を読むには?」
「解説世界文学史年表」で年代をチェック。
ハウフに「童話集」という作品がある。
これが怪しい。

めぼしをつけて、「増補改訂 新潮世界文学辞典」「児童文学事典」を。
「1892年童話年鑑」は、ハウフの「隊商」のこと。
さらに、「子どもの本の世界」の巻末年表で、1826年の項にハウフ「童話年鑑」を発見。

「隊商」は岩波少年文庫にあり、どの図書館でもたいていもっているはず。
「童話年鑑」からのそこへいけるかがポイント。

「ミロのヴィーナスの復元図が見たい」
「新潮世界美術辞典」「オックスフォード西洋美術事典」。
ともに発見時のことや、ルーブルで所蔵とはあるが、復元の話はなし。

辞典類はあきらめ、美術全集の解説を。
「世界美術大全集 西洋編 第4巻」に復元の話あり。
でも、復元図はなし。

こんどはルーブル関係を。
「世界の博物館10 ルーブル博物館」に、2つの復元図と3つの復元案が。

さらに雑誌。
国会図書館のHPで、〈雑誌記事索引〉を。
「芸術新潮 31巻2号」(1980年)がヒット。
図書館で所蔵していたのでチェックすると、5つの復元図と諸説が。

また「ルーブル美術館 別冊太陽」(2005)で、最近の有力説を紹介。

「30年前にラジオで聴いた「ペスよおをふれ」の原作を読みたい」
グーグルから放送ライブラリーのHPにいき、〈放送ライブラリー番組検索〉を。
ヒットなし。

児童書かもとアタリをつけて、「日本児童文学大事典」の索引チェック。
発見、「なかよし」の連載マンガ(1957~1959)だった。

「漫画歴史大博物館」で確認ののち、「国際子ども図書館」の〈児童総合目録〉で検索。
国際子ども図書館が単行本、国会図書館や大阪府立国際児童図書館が当時の「なかよし」を所蔵していることを確認。

…と、まあ、ちょっと紹介したけれど、内容は堅実。
どういう相手から質問を受けたか、そのさいの調べる方向づけ、ツールの選択、情報の特定、利用者への提供と、流れを押さえている。

読み物ふうに書かれた事例紹介は、語学番組の寸劇を観ているようなのだけれど、突発的に面白くなる瞬間がある。

たとえば、宮部みゆきさんの「淋しい狩人」に出てくる児童書、「うそつくらっぱ」を探しているとき。
「日本児童文学大事典」の索引をチェックしていたら、「ペスよおをふれ」が目に入る。
「助けてペス!」と思わず口走るところがおかしい。

このあたりを掘り下げれば、もっと読み物として面白くなるのではないかと思った。
面白くしてドースル?、とも思うけれど。

ちなみに「うそつくらっぱ」は見つからず。
作者の創作の可能性が大。

そうそう、レファレンス事例集はいろんな図書館のHPでアップしている。
読むとなかなか面白い。


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ノンデザイナーズ・デザイン・ブック

「ノンデザイナーズ・デザイン・ブック」(ロビン・ウィリアムズ 毎日コニュニケーションズ 1998)。

この本は、ひとにあげていま手元にない。
ネットでしらべたら、2004年に新版がでているそうだけれど、読んだのは旧版。
新版は赤い表紙。
旧版はたしか青い表紙だった。
以下、記憶で書くので、間違いがあったらご勘弁を。

手元にないのになぜ紹介するのかというと、入門書でまず思い出したのが、この本だったから。
読んだときは興奮して、ふれまわって歩いてしまったほど。

この本はデザインについての本。
まずタイトルがとてもいい。
「ノンデザイナーズ・デザイン・ブック」というのは、「デザイナーでないひとのためのデザインの本」くらいの意味だろう。
デザイナーになりたいひとのための入門書ではないのだ。

では、どういうひとが対象かというと、社内報とか、回覧物とか、新聞とか、企画書とかといった印刷物をつくることになったひと。
それらの印刷物をもうすこし気の利いたものにしたい、というひとのための本。

本書では、「デザインの四原則」というものが挙げられている。
これがじつに優れもの。

・近接
・整列
・反復
・コントラスト

これが四原則。

まず「近接」。
これは、「おなじ要素のものはくっつけておけ」ということ。
このブログを例にとれば、「ノンデザイナーズ・デザイン・ブック」というタイトルがあったら、そのすぐそばに紹介文がなければならない。

「整列」
また、おなじ要素のものは整列させるべき。
本文と、カレンダーやリンク先がごちゃまぜになってはいけない。

「反復」
タイトルは、おなじ色、おなじフォント、おなじ大きさで統一する。

「コントラスト」
これは「差をつける」ということ。
タイトルと本文は、区別できるようにコントラストをつけなければ。
そのさいは大胆に。
著者いわく、「臆病になるな」。

この四原則を守れば、とにかく読み手を混乱させることはさけられるはず。
ぎりぎりまで考え抜いたという感じがすばらしい。

この四原則は、だれもが無意識のうちにしていることでもあるだろう。
でも、ことばにしたからこそ、つかえるようになる。
ひとがつくったチラシがどこか変というとき、「なんとなく」ではなく説明できるようになれるのは凄いことだ。

それにデザインというのは、ようは情報を視覚化したもの。
だからデザイン以前の、情報の軽重の見きわめがもっとも大切。
そのさいつかわれるのが、ことば。
ことばにすれば、対象をコントロールすることができる。

たしか、著者はこうもいっていたはず。
「なにもかも、ことばにしろ」

この本は例が豊富で問題までついている。
おかげで著者のいうことは一目瞭然。
本文も、これはアメリカの実用書についていえることかもしれないけれど、例がやたらと具体的で、記述は明快。

本書の姉妹編に「ノンデザイナーズ・ウェブブック」(MDNコーポレーション 2001)がある。
内容はもう古くなっているかもしれないけれど、エッセンスは変わってないと思う。
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〈狐〉が選んだ入門書

「〈狐〉が選んだ入門書」(山村修 筑摩書店 2006)。

ちくま新書の一冊。
著者は「日刊ゲンダイ」で週に一度、22年間書評を書いてきたひと。
そのさいの署名は〈狐〉といい、タイトルはそこから。

山村さんは昨年亡くなられた。
「あとがき」に、「身体的な事情があって、昨日(2006年3月31日)付で早期退職したばかりですが――」と書いてあるのがつらい。
合掌。

さて。
本書はですます調の、やわらかみのある語り口。
「はじめに」で、入門書観について述べている。

入門書とは手引き書とはちがう。
なにか高みにあるものをめざす手助けとして、階段として書かれた本ではない。
ある分野を学ぶための補助としてではなく、その本そのものが作品であるような本。

「思いがけない発見にみち、読書のよろこびにみちている」
「そのようにいえる本が、さがしてみれば、じつは入門書のなかに存外多いのです」

ぜんたいは5章。
「言葉の居ずまい」
「古典文芸の道しるべ」
「歴史への着地」
「思想史の組み立て」
「美術のインパルス」

紹介だったり、批評だったりがうまいひとというのは、例外なく引用がうまい。
孫引きになるけれど、「絵画の二十世紀」(前田英樹 NHKブックス 2004)の記述はぜひ引用したい。

この本でとりあげられるのは、マチス、ピカソ、ルオー、ジャコメッティ、ルオーの4人。
みなセザンヌの「息子」たち。

セザンヌのまえにはモネがいた。
モネは目のひとだった。
「ただ見えるものだけを描く」

「モネは眼に過ぎない、しかし何という眼だろう!」
とは、セザンヌの有名なことば。

しかし、セザンヌはモネとちがうことをした。
絵画に、感覚を反映させようとした。
視覚ではなく、感覚で描け!

「ふつうの美術史だったら、セザンヌといえば抽象絵画の始祖とか、キュビスムの先駆者とか書いてすますものが多いのではないでしょうか。それにくらべ、なんと関心をひきつける書きかたでしょう。なおかつ、分かりやすい」

と、山村さんは感心している。

このあと、マチスが教え子に語ったという、デッサンの話がもちだされる。
これが素晴らしい話なのだ。
マチスはこんなことを語ったという。

「人が「こんな大きいメロンがあってね!」といいながら、両腕をつかって空間に大きな丸を描いてみせる。右腕の線と左腕の線とが囲む丸い空間がそこにあらわれる。それがデッサンだ。そんなふうにデッサンせよ」

ここで山村さんは、前田英樹さんの文章を引用。

〈こんなデッサン指導を、美術学校の教授は決してやらない。これは指導というものではなく、デッサンが生まれてくることへの驚きの告白そのものである。…〉

おなじことは、ひょっとすると入門書についてもいえるかもしれない。
「すぐれた入門書とは、驚きの告白そのものである」

そして山村さんは、毎回、驚きを分かち合うように紹介していくのだ。

「はじめに」で、山村さんは手引書についてこんなふうにもいっている。

「もちろん手引書であってもいいのです。もしも階段そのものが美しく、かつ堅牢につくられていれば、それもまた一つのりっぱな作品です」

これは、この本についての自負のようにも聞こえる。


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HP更新

ひさしぶりにHPを更新。

うーん、面倒くさい。
ブログは訂正がラクなのがいちばん嬉しい。

ブログをはじめたら、もうHPいらないなーと思ったのだけれど、ときどきHTMLを思い出すために残しておこうと思う。


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本を読むのはなんのため?

「息をととのえるため」

という、こたえが気に入っている。

あけましておめでとうございます。
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