翻訳味くらべ「シャーロットのおくりもの」(承前)

続きです。

「シャーロットのおくりもの」は、2000年にあすなろ書房から、さくまゆみこさんの訳でも出版された。
その該当部分を引用してみよう。

さくまゆみこ訳
《品評会のまえの晩は、みんな早くねました。ファーンとエイヴリーは、八時に寝床に入りました。エイヴリーは、じぶんがてっぺんにいったところで大観覧車がとまってくれる夢を見ました。ファーンは、ブランコに乗っているうちに気分がわるくなる夢をみました。
 ラーヴィーは、八時半に寝床に入りました。そして、ネコのぬいぐるみにうまいことボールをあてて、ほんもののナヴァホ族の毛布に賞金をもらう夢を見ました。ザッカーマン夫妻は、九時に寝床に入りました。おばさんは、急速冷凍冷蔵庫の夢を見ました。おじさんは、ウィルバーの夢を見ました。夢のなかのウィルバーは、体長三十五メートル、高さ二十八メートルにまで成長して品評会の賞をひとりじめにし、青いリボンをかざってもらっていました。しっぽの先にまで、青いリボンが結んであるのでした。》

さすが、さくまさんの訳は読みやすい。
「翻訳入門」の著者が問題にしていた、並列部もちゃんと訳されている。
代名詞の部分も、「そして」でつなげてなんなくクリア。
それから、「エイヴリーは、じぶんがてっぺんにいったところで大観覧車がとまってくれる夢を見ました」となっているのが面白い。
鈴木哲子訳では、「急に、とまってしまった」。
「翻訳入門」だと、「とまってしまって…とじこめられている」。
観覧車がてっぺんで止まるのはうれしいことだ、というのが、さくまさんの解釈なのだろう。

おそらく、今後「シャーロットのおくりもの」といえば、さくま訳が定番になるだろうと思う(もうなっているか)。
でも、鈴木哲子訳を最初に読んだひとは、鈴木訳に愛着があるもの。
「子どもの本を選ぶ」の71号(ライブラリー・アド・サービス 2009.5)を読んでいたら、「受け継がれる翻訳児童文学の古典」と題して、滋賀県立草津市立図書館の、二井治美さんというかたが、こんなことを書いていた。

「シャーロットのおくりもの」の、物語のクライマックスをちょっとすぎたあたりで、ガチョウがんなことをいう場面がでてくる。
「おめで、おめで、おめでとう! でかしゃった!」
さくま訳では、こう。
「おめでとう、おめでとう、おめでとう! よくやったね!」
この訳について、二井さんはこういう。

「私ははじめて鈴木哲子訳を読んだとき、この「でかしゃった」に強烈なインパクトを受けたことをおぼえています」

「でかしゃった」は、翻訳当時は日常につかわれていたのかもしれない。
語感と文脈から、理解することはできたけれど、現代の子どもたちにはむつかしいだろう。
また、鈴木訳は、訳が体言止めになっていたりと読みにくい点が多い。
でも、主人公の女の子ファーンがお父さんのことを「おとうちゃん」というように、鈴木訳のほうが、時代背景や物語の雰囲気がよくつたわるものが多くあるように感じる。
と、二井さん。

そして、図書館としてはどちらが良い悪いを問うのではなく、どちらも用意されていることが大事なことだ、と続けている。

「図書館へいけば、旧版・改版の両方がそろっているということは市民にとって大きな魅力であり、財産です」

さて。
以下は、余談。

「シャーロットのおくりもの」は、一度原文を読んでみたことがある。
もとより、英語は読めないので、辞書を片手によちよち読んでみた。
すると、冒頭でいきなりつまった。

この小説は、間引きされそうになった仔ブタを、ファーンが助けだすところからはじまる。
その、斧をもったお父さんを、ファーンが必死で説得する場面。
お父さんが、「おれはおまえよりブタについちゃ詳しいんだから、あっちへいってなさい」
というようなことをいうと、ファーンがこういう。
“But it's unfair”

これがわからない。
なんだって、ここでアンフェアがでてくるのか?
この状況で、8歳の女の子がいうセリフだろうか?
でも、こう書いてあるのだから、仔ブタが殺されそうなとき、アメリカでは8歳の女の子が「そんなの不公平だ」というのだろう。

今回、この記事を書くために、「シャーロットのおくりもの」を読んでいたら、この部分はこう訳されていた。
「だって殺すなんていけないことだわ」(鈴木哲子訳)
「でも、かわいそうよ」(さくまゆみこ訳)
さくま訳では、もうちょっと先にいくと、「不公平」という言葉がでてくる。
でも、これで納得。
やっぱり日本語だと、「いけない」とか、「かわいそう」とか、主観的な言葉になる。

それから。
雑誌「図書」の2010年4月号だったか、5月号だったかに、「成長した「本の虫」の幸せ」と題された、マーク・ピーターセンさんのエセーが載っていて、「シャーロットのおくりもの」について触れられていたので、最後にそれを紹介したい。

ピーターセンさんが小学校低学年だったころ。
ある日、ミス・メンキーという新米の先生が、「今日からみんなに物語を読んであげることにしました」といいだした。
それが、「シャーロットのおくりもの」。
3年生なら自力でもぎりぎり読めるかもしれないが、1、2年生がひとりで読むにはむつかしい本。

こうして、毎日、昼休みの後、先生が一章ずつ読んでくれることになった。
すると、2日目からはもう、皆が必ず早目に席にもどって静かに待っているようになった。
そして、最後の第22章が読まれた日、先生が“The End”といって本を閉じると、教室はしばらくシンと静まり返り、そのうち泣き出す子が何人かでてきた。
それは、エンディングが悲劇的だったからではなく、ただ純粋に、終わってほしくなかったからだった。

続けて、ピーターセンさんはこう書いている。

「今思えば、あのときわれわれは、生まれて初めて本物の文学がもつ力に気づき、毎日が本によって特別な時間になっていたことを知ったのだろう」


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翻訳味くらべ「シャーロットのおくりもの」

「翻訳入門」(松本安弘・松本アイリン 大修館書店 1986)は、いろんな翻訳を俎上にのせては、著者が誤訳を指摘し、改訳をしてみせるという趣向の本。
いままで、本ブログで、「郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす」と、ワーズ・ワースの「黄水仙」をとりあげた。
ほかにどんな本がとりあげられているのか、目次から引用してみる。

「オリエント急行殺人事件」 アガサ・クリスティ
「断絶の時代」 ピーター・ドラッカー
「言語と精神」 ノーム・チョムスキー
「葉巻とパレット」 ウィンストン・チャーチル
「走れ! ウサギ」 ジョン・アップダイク
「シンデレラ・コンプレックス」 コレット・ダウリング
「幻の女」 ウィリアム・アイリッシュ
「カリブ海の秘密」 アガサ・クリスティ
「郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす」 ジェイムズ・ケイン
「チャタレイ夫人の恋人」 D・H・ロレンス
「コスモス」 カール・セーガン
「ロリータ」 ウラジミール・ナボコフ
「風と共に去りぬ」 マーガレット・ミッチェル
「黄水仙」 ウィリアム・ワーズワース
「シャーロットのおくりもの」 E.B.ホワイト

小説、評論から詩、児童文学まで。
じつにバラエティ豊か。
「翻訳入門」をとりあげるのは、これで最後にしようと思い、今回は表紙の絵も描いてみた。
装丁挿画は井村治樹。
編集は辻村厚。

さて、本題。
今回、訳をくらべるのは、「シャーロットのおくりもの」。
いわずとしれた、児童文学の古典的名作だ。
著者たちは、作者のE.B.ホワイトから英作文の指導を受けたという。
では、「翻訳入門」の記述にあわせて、まず原文を引用し、つぎに「シャーロットのおくりもの」(法政大学出版局 1973)の鈴木哲子訳を引用しよう。

《 The night before the Country Fair, everyday went to bed early.Fern and Avery were in bed by eight.Avery lay dreaming that the Ferris wheel had stopped and that he was in the top car.Fern lay dreaming that she was getting sick in the swings.
Lurvy was in bed by eight-thity.He lay dreaming that he was throwing baseballs at a cloth cat and winning a genuine Navajo blanket.Mr.and Mrs.Zuckerman were in bed by nine.Mrs.Zuckerman lay dreaming about a deep-freeze unit.Mr Zuckerman lay dreaming about Wilbur.He dreamt that Wilbur had grown until he was one hundred and sixteen feet long and ninety-two feet high and that he had won all the prizes at the Fair and was covered with blue ribbons and even had a blue ribbon tied to the end of his tail.》

鈴木哲子訳
《市のたつ日の前の夜は、みな早くねました。ファーンとエィブリーも、8時前にねどこにはいりました。エィブリーは、市で観覧車に乗っている時、自分の箱がいちばん高い所に行った時に、急に、とまってしまった夢を見ながらねていました。ファーンは、ブランコに乗って、よってしまった夢を見ていました。
 ルーブィーは、8時半にはもう床についていました。彼は、布で作ったネコに、ボールを投げて、ほんものの、毛布をもらった夢を見ていました。ザッカーマンさんのおじさんとおばさんは、9時に、床にはいりました。おばさんは家庭用の冷凍器の夢を見ていました。おじさんは、ウィルバーの夢を見ていました。夢のなかで、ウィルバーは、116フィートの長さと、92フィートの高さにまで大きくなって、市で出た賞金をぜんぶもらって、一等賞の水色のリボンを、からだがおおわれるほどつけていました。しっぽの先にさえ、水色のリボンがひとつむすんでありました。》

「翻訳入門」の著者たちによる、鈴木哲子訳への指摘はこんな感じ。

並列部の訳出
“lay dreaming”も5回繰り返されて、心地よいリズムを生んでいるから、この部分を、例えば「ふとんの中で……の夢を見ていました」という表現に統一するのがよい。

単位
ブタの大きさを、原文直訳で「長さ116フィート、高さ92フィート」としたのでは、子供にわからない。大人でもわかりにくい。この場合は、単位換算の手間を惜しまず、「35メートル」「28メートル」としなければならない。
なお、「長さ」は「体長」、「高さ」は「背たけ」とする。

ブランコに乗って、よってしまった
読んでいて、一瞬「ブランコを吊っているくさりが撚れてしまったのか」、あるいは「片側に寄ってしまったのか」と思う。
この場合、「酔(よ)ってしまった」のように漢字にしてルビを振るか、「気分が悪くなった」、その他の表現で言い替える。

Country Fair
米国では、毎年郡のきまった場所で、きまった日時に「農業博覧会」が開かれ、農作物や家畜を出し合って賞金を競い大騒ぎする。
また、遊園地が併設され、子供たちはお祭り騒ぎで前夜はねむれない。郡規模のものをCountry Fair、州規模のものをState Fairという。
原訳の「市」は、「朝市」「瀬戸物市」「市がたつ」の「市」で、原文の「博覧会」の意味はない。不適切である。

a Navajo blanket
アメリカインディアンで最も人口の多いのがナバホ族である。ナバホ族の織る幾何学模様の毛布をナバホ毛布という。原訳のように「ほんものの毛布をもらった」(「うその毛布」があるのだろうか)では意味不明。日本語訳では登場人物の名前を日本名に変えたのにあわせて、「アイヌの手織物」とでもする。

a Blue ribbon
原義は、英国のガーター勲章の青いリボン(水色ではない)のことで、最高の栄誉である。そこで、コンテストの一等賞をブルーリボンという。

ボールを投げて…
原文がbaseballとなっているから、ただの「ボール」でなく、「野球のボール」とする。「一般語」よりも「特定語」を用いるほうが、文が生き生きして、読者の頭に鮮やかなイメージを結ぶ。

代名詞の訳出
英語では代名詞がよく発達していて、一度代名詞が出ると、そのあとは代名詞で受け、名詞をくり返すことはしない。Lurvy was in bed by eight-thity.He lay dreaming that…における、Lurvyとheの関係がそうである。ところが日本語では代名詞を多用しない。そこで、基本方針としては、(1)文意が曖昧にならないかぎり代名詞は訳出しない。(2)文意が曖昧になるおそれがあるなら同じ名詞をくり返す、ということにしておけばよい。

…まだまだ指摘はあるのだけれど、これくらいに。
でも、ひとつだけ見逃せない指摘がある。
人名についてだ。
著者は、外国人の名前は子どもにはむつかしすぎるから、日本名に変えたらどうかと、こんなことをいっている。

「少女の名前Fernは、植物のシダ(fern)の意味であるから、「しだ子」とする。
少年の名前Averyは、古英語でboar(猪)+favor(贔屓)の意であるから、「いのきち」とする。

男性名LurvyはLeviとスペルと発音が近い。Leviはヘブライ語でjoining(接合)を意味するから、「つぎお」。
Zuckermanはドイツ系の名前で「砂糖屋」を意味するから、邦訳のなかでは「佐藤さん」になってもらう。

男性名Wilburは、古英語でWill(意志)+Fortified place(要塞)の意であるから「つよし」に置きかえる。
女性名CharlotteのニックネームはLottie(指小辞)であるから、くもの「ちび子」とでもする」

しだ子といのきちですか!
何度もいうけれど、この本が出版されたのは1986年だ。
明治のはじめには、サンタクロースが「三太」と訳されたというけれど、1986年は、まだこんなことがいえる時代だったのか。
たとえ、子どもの本だからといえ。

さて、以上の指摘を反映した改訳はこうだ。

改訳
《郡の農業博覧会の前の晩は、みんな早くねました。しだ子といのきちは、8時にはもうふとんにはいっていました。いのきちは、ふとんの中で、乗っていた観覧車がとまってしまって、一番上のかごにとじこめられている夢を見ました。しだ子は、ふとんの中で、ぶらんこに乗って気持ちが悪くなる夢を見ました。
つぎおは、8時半にはもうふとんにはいっていました。つぎおは、ふとんの中で、布で作ったまねきネコに野球のボールを投げて、幾何学模様の美しい本物のアイヌの手織物をもらった夢を見ました。佐藤のおじさんとおばさんは、9時にはもうふとんにはいっていました。おばさんは、ほしいほしいと思っている冷凍冷蔵庫の夢を見ました。おじさんは、ふとんの中で、ブタのつよしの夢を見ました。つよしが、どんどん大きくなって、しまいに体長が35メートル、背たけが28メートルになり、博覧会の賞をみんな取ってしまい、一等賞のブルーリボンを体中にかけてもらって、もうかけるところがなくなり、しっぽの先にもブルーリボンを一つ、ゆわえてもらっている夢を見ました。》

うーん、これは…。
著者たちが教わったという、E.B.ホワイトがこれをみたら、なんというんだろう(日本語読めないだろうけど)。

長くなってきたので、今回はここまで。
続きます。

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「ブックオフという妖怪が徘徊している」

雑誌「新潮45」(2010年1月号)に、「ブックオフという妖怪が徘徊している」という記事(すごいタイトルだ)が載っていたのでメモ。
書き手は、松井和志さん。

書いてあるのは、だいたい3点。
大日本印刷などによるブックオフへの出資について、ブックオフを媒介とした万引き問題、中古販売による著作権侵害について。
発言者のない「」による引用は、書き手である松井和志さんの文章を引用したものだ。
では、まずブックオフへの出資の話から。

2009年5月、大日本印刷、丸善、図書館流通センター、講談社、小学館、集英社の6社がブックオフに出資。
6社の株式習得数は、合計で約29%。

「2008年秋のリーマンショック後、3割の株が“フォーセール”状態になっていたんです。どこが株を買ってくれるかによって会社の未来は変わってきますから、気が気じゃない。とりわけ、同業他社に株主になられるのは一番困ります。そんなとき、6社の方が名乗りを上げてくださいました。出版業界の皆さんとはこれまでまったく話すらできなかったわけですから、シンプルにうれしく思っています」(ブックオフ・佐藤弘志社長)

「『ブックオフのせいで出版不況が起きているとか、ブックオフは敵だとかいっても仕方がない。ブックオフがあることを前提にして、どうやって業界を良くしていけるか。そういう視点で今回出資をしたいと思っている。日本の出版業界をなんとかしていきたい。そういう思いで自分たちは集まっているんです』。6社の出資社から、そう言っていただきました」(ブックオフ・佐藤弘志社長)

つぎは、万引き問題。

「本はゲームなどと違って、買い値はたかがしれています。定価1000円の新刊本を10冊持ち込んでも1000円にしかならない。万引きというリスクを冒してまで売りにきても割りがあわないんです」(村野まさよし編「ブックオフの真実」(日経BP社 2003)より、ブックオフ創業者坂本孝さんの発言)

(この発言にかんしては、2002年経済産業省が発表した書店での万引きによる調査結果をもとに、記事の書き手である松井さんは疑義をとなえている)

「現場では盗品を見抜くよう努力しています。怪しい場合は警察に相談しますし、万引き犯逮捕に貢献した社員は全体会議で表彰しています。我々にとっても、盗品を買ってしまうことは致命傷なのです」(ブックオフ・佐藤弘志社長)

「かつて古書店の供給源として、1店舗あたり20店舗の新刊書店があった。しかし、現在は古書店1店舗につき、供給源の新刊書店は3店舗だ」

「皮肉なことに、新古書店を狙う万引き犯が増えているという」

「ICタグは現在1個50~60円もしますが、出版業界全体に導入すれば、値段は大幅に下げられます。ICタグの役割は、万引き防止だけではありません。どの本が売れ筋か、どうすれば流通を活発化させられるかがわかりますし、不正返本も防げる。年間8億冊出ている新刊本すべてに、ICタグをつける。これが我々の理想です」(大日本印刷・森野鉄治常務取締役)

「万引き被害は、書店だけの被害なんですよ。書店が全部損害をかぶって、出版社は損害を背負わないんです。だから、出版社からしたら、自弁でICタグをつけるのは単純に制作費が増えるだけだから、広まらないんじゃないでしょうか?」(ある書店の若手社員)

それから、著作権について。

「我々が売っている中古本に、著作権は発生していません。それでいいのかという議論は、我々の間にももちろんあります。なぜブックオフが商売をできているのか。利益を出せているのか。本を書いてくださる方がいて、市場に本が出回っているからです。コンテンツを創造されている現場に対しては、今後何らかのお金を供出させていただきたいと思っています。これはCSR(企業の社会的責任)の一環です」(ブックオフ・佐藤弘志社長)

「ブックオフが創業して以来19年、出版業界はただ批判するだけで、何も対策なり交渉なりをしてこなかった。今やブックオフは全国に900店舗ですよ。これは消費者がブックオフを支持している証拠です。それは認めざるを得ないじゃないですか」(丸善・小城武彦社長)

「一部上場企業としてステイタスを得て、どこの街にもブックオフがある時代になったわけです。ブックオフをつぶせば、出版不況の問題が解決するわけではない。1年間に流通している新刊本は約8億冊。ブックオフの取扱いは2億3000万冊。これだけの大きさになったのだから、ブックオフの存在は認めたうえで前に進むしかない」(大日本印刷・森野鉄治常務取締役)

6社によるブックオフへの出資については、以前べつの雑誌からもメモをとった。

あと、補足。
丸善と図書館流通センターは、2010年2月1日に経営統合をし、「CHIグループ株式会社」を設立した。
丸善と図書館流通センターは、CHIグループの子会社になったよう。

ところで、この松井和志さんの記事によると、新刊書店でも新古書の併売をはじめる店舗がでてきたそう。
広島のフタバ図書、三洋堂書店、三省堂書店などでやっているらしい。
三省堂の新古書コーナーはみたことがある。
新古書というより、古書が並んでいて、あまり力を入れているようにはみえなかった。
できれば、お客にコーナーを発見されたくないといった感じだった。

また。
先日、ひさしぶりに近所のブックオフにいってみた。
すると、本を引っ張りだしては携帯電話をいじっているひとをみかけた。
どうも、ISBNを入力しているらしい。
本でいっぱいのカゴが足元にいくつもある。

こんなことをしているひとが、ひとりやふたりではないので、びっくりした。
たぶん、転売目的なのだろうけれど、まるで棚卸をしているみたいに一心不乱にそんなことをしている。
そばにいられると、なんとなく落ち着かない。
さっさとめぼしい本を買って退散した。

このとき買ったのは、創元推理文庫の、「怪奇小説傑作集」の2、3巻。
どこかに1巻がないものかと、いまさがしているところ。

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天来の美酒/消えちゃった

「天来の美酒/消えちゃった」(コッパード 光文社 2009)
訳は南條竹則。
装画、望月通陽。
装丁、木佐塔一郎。
望月さんの、ひと筆書きの絵は、真似してみるとめちゃくちゃむつかしい。

本書は短編集。
収録作は以下。

「消えちゃった」
「天来の美酒」
「ロッキーと差配人」
「マーティンじいさん」
「ダンキー・フィットロウ」
「暦博士」
「去りし王国の姫君」
「ソロモンの受難」
「レイヴン牧師」
「おそろしい料理人」
「天国の鐘を鳴らせ」

最初にぜんたいの印象を。
この作家の面白さは語り口にある。
ストーリーと直接関係がない、よけいなことが書いてあると感じられる語り口。
読んでいると、どうしてここをはしょって、ここをこんなに書くんだ、と思うような語り口だ。

だから、この作家の評価は、この語り口を受け入れるかどうかで決まると思う。
語り口が受け入れられれば、どの作品もみんな面白いし、受け入れられなければ、どの作品もみんなつまらないだろう。
個人的には、とても面白かった。
よけいなことが書いてあると感じる部分については、
「普通の小説より物語をはこぶ川幅が広いのだ」
と考えたい。
川幅が広いぶん、物語がどこにたどり着くのか不明瞭。
そこがとても面白いところだし、また戸惑うところだろうと思う。

さて、以下、特に面白かった作品を。

「消えちゃった」
自動車でフランスを旅していた、ジョン・ラヴェナムと妻のメアリー、それに友人のアンソンという3人。
なにかの爆発のような、地震のようなものを目撃して不安にかられる。
おまけに自動車の距離メーターはこわれ、時間もよくわからない。
大きな町へたどり着き、どうしても「タイムズ」が読みたいアンソンが、ひとり町なかに駆け出し、それっきりもどってこない。
アンソンをさがしにいったメアリーまでもどってこない。
ラヴェナムは警察にいくのだが――。

この作者の作品は、ストーリーを紹介しても面白さがつたわらないなあと、いま思った。
それに、紹介自体もむつかしい。
物語の川幅が広いため、複雑微妙さに富んでいて、こういう話だといいきれない。
この作品は、奇妙な味の怪談といったらいいだろうか。
怪談のくせに、ひとを怖がらせる気がまったくないようにみえるのが妙だ。

「天来の美酒」
南アフリカ海岸で鉱山の監督をしていたポール・ラッチワース。
40歳になる独り者。
ある日、ラッチワースは自分の名前がでている新聞広告をみつける。
広告は、父の弁護士がだしたもの。
イギリスにもどったラッチワースは、1年前に亡くなった父の遺産(古屋敷と邸園と農園。ただしベティおばさんに年金を払わなければいけないので財政的にはすこぶるきびしい)を相続することに。

屋敷の酒蔵には、「チブノール祝宴用麦酒(エール)」とラベルが貼ってある、ワインの壜のようにほこりのつもった9本のビールが。
あまりうまさにたちまち8本飲んでしまい、最後の1本はとっておくことに。
この1本は、ベティおばさんが亡くなったときに、冥福を祈るために(祝杯をあげるために)とっておこう。
すると、ある日、ラッチワースの屋敷を買いたいという美女があらわれて――。

ラッチワースがイギリスにもどってくるとき、船客の女性たちとのエピソードが少しあるのだけれど、これがストーリーになんらかかわりをもたない。
くわえて、最後に美女があらわれて話を盛り上げるのだけれど、強烈なツイストがかかってストーリーはあらぬほうへ。
この作者にしか書けないであろう、素晴らしい逸品だ。

「マーティンじいさん」
最後に死んだ人間が、それ以前に死んだ人間にたいして奉仕をする。
そんな信念を抱いているマーティンじいさん。
村で最後に死んだのは、ろくでなしのイフレイム・スティンチ。
ところが、その次に亡くなったのは、マーティンじいさんの愛する姪、モニカだった。
あの世で、モニカがスティンチに虐げられているのではないかと、マーティンじいさんは気が気ではない。
すると、村ではまた死人が。
マーティンじいさんが喜んだのもつかのま、教会墓地はいっぱいなので、その死人はべつの場所に埋葬されることになり――。

これは、怪談らしい怪談といえるかも(あくまで、マーティンじいさんからみた話だけれど)。
本書の収録作は、どれも皮肉な結末をむかえるものばかりだけれど、これはハッピーエンド。
その点、印象に残った。

「去りし王国の姫君」
ずっと昔、一人の姫君が小さな小さな王国を治めていた。
姫君はある臣民の若者に恋をするが、そのナーシッサスという若者は一介の詩人だったので、姫君との結婚など思いもよらない。
ナーシッサスはふいに死んでしまい、姫君は嘆き悲しんで、立派な葬儀をとりおこない、銀の廟と黄金の櫃をあつらえて――。

作者の文体は、いつも説話を物語るようなもの。
短篇が中心で、長篇は書かなかったというけれど、この文体で長篇を書くのはむつかしいだろう。
この作品は、その説話を物語るような文体に、叙情がないまぜになっていて、すこぶる興趣に富む。
ロマン派の作品のような、美しい佳品だ。

「おそろしい料理人」
地主のジョリー大旦那は、妻の指示にしたがい、料理人のアンジェラを首にすることに。
ところが、アンジェラは大旦那のいうことをまったく聞かない。
酔っ払い、立てこもり、開き直り、居直って、大旦那に抵抗する。

でていけといってもでていかない女料理人に閉口する、大旦那の話。
読んでいると、大旦那に同情してしまう。
それに、なにやら一抹の不気味さがある。
ちょっと、ウォルポールの「銀の仮面」を思い出した。

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