メ・ハ・・・

2011-11-10 10:44:43 | 塾あれこれ
眼医者に通い始めて一か月以上たちますが
痛いのは治りません。

ウットーシイし、作業の能率が悪い。
例えば風邪をひいて、熱が出、鼻はつまり、声は出ない
・・何もしたくないでしょ。
同じ感じですね。

目薬を替えたり、試行しつつ治療をして下さる様ですが
一向に治らないという状況です。
薬を変えても、劇的にぐんぐんよくなるのならば
よろしいのですが、何も変わらないと不安ですね。

多分、加齢による回復力の弱さも足をひっぱっているはず。
冴えない話です。

仕事でPCを使い、ブログでも使い、趣味はTVか読書
こんな私は、目が駄目だと何もできない・・・


眼医者で長く待たされます。
余り本も読めないし、じっと待っているしかない。
短気な私には苦痛でたまらない時間です。

隣にジイサンが座りました。
持参のコロコロを前に置き、新聞を広げます。

「ええい、気になる」

ただでさえウットーシーのに。

かといってその席を立つのも大人げないのでガマン。


かのジイサン、診察を終え、窓口で金を払い、近くの
薬局で薬を貰いして、うろうろし
また待合室に戻ってきた!

たまたま、また私の隣で新聞を広げます。

誰かを待っている?
迎えが来る?
新聞が途中?

暫くして新聞をコーナーに持っていった・・・
おいおい病院がサービスしている新聞かよ。
(途中、コロコロに仕舞ってたぞ)

何か別の物を探してお出でです。
用がないのなら帰ったらあ?
広い待合室じゃないしー。

もちろん病院は見て見ぬフリなんでしょう。

そのうち私の順番が来た(やっと)

検査などして薬の説明も受け金を払う段になって
待合室を振り返りましたね。

へへ。
まだ、おられた。

家に帰りたくないのかなあ。

大人の責任

2011-11-09 11:08:38 | 塾あれこれ
年に数回程度歩く道があります。
私の場合ですと、例えば広島駅から南下
太田川沿いに歩いて比治山の西を過ぎ
産業会館へ、なんてコースです。

キョロキョロして歩くのではないので時折
気づく光景が何年前からあったのか不明ですが
食べ物屋と思しき赤い看板に「丼ぶり」と
書いてあるのに驚いたことがあります。

読んでおられる方のほうが「何をいまごろ」と
驚かれるような世間知らずの感想でしょう。

けれど本当に「丼ぶり」に大変驚いたのです。

「どんぶりぶり?新しい食べ物か」

看板だからミスじゃないだろう。
制作途中で誰か気づくはずじゃないか。

食べ物屋で「ぶりぶり」は語感が悪すぎるなあ、
などなど。

冗談のようでもないので、きっとお店なりの考えが
おありなのでしょうが、驚いた。

何かの折にカミサンに「どんぶりぶり」を話しますと
天丼は「てんどんぶり」じゃないから丼をドンと
読ませてよいと考えた、もしくは間違えたのじゃないか、
という感想を言われました。
そうかもしれませんね。

でも本来は「どん」というほうが少ないんだけどなあ。
親子丼を、どん、で切る人もいるが本来は親子ドンブリ

どんでよいのなら、丼飯を(どんめし)って言うか?

「どんかんじょう」で分かるか?(丼勘定)


~と読むこともあるから、というのは
バーナード・ショー程の人が冗句にすれば効きますが
なぞなぞじゃあるまいし遊び以外には使っては
相手にされないことでしょう。

万葉がなのように「遊び心」を前面に出すのとは
次元が違う話です。

「う丼」では麺なのか飯なのか分かりませんよね。

時計は慣用読みとして(「と」けい)ですが
「と」と読むから昼時を「ひると」で良いのか?

黒髪は「くろが」でよいか?(←白髪)


タチが悪いのがダジャレ的CM
遊びですからと逃げますが元を知らない子供には
大変な悪影響を与えます。

・・今日はPTAでもやってそうなマジメに怒るオジサン
になっちゃった。


ところで「どんぶりぶり」って旨いの?

40年近く前、吉野家をよく利用したけれど、飽きちゃうん
ですよね。

『江戸の旅日記』

2011-11-08 21:43:22 | 本の話
ヘルベルト・プルチョウ著『江戸の旅日記』集英社新書

2005年の本です。

奥付によると著者はスイス生まれ、UCLAで
日本の文化などについて教えながら著書多数。
日本語による著書は6冊目だそうです。

十人を超える江戸時代後半の旅人を紹介し
江戸時代への新しい光をあてておられます。

菅江真澄、松浦静山、松浦武四郎・・・

日本の近代化における江戸時代後期の思想的発展
ということを分かり易く例示していますね。

間接的には欧米の影響もあると思いますが
日本らしいありようが新鮮です。
決して江戸時代は古臭く、明治になって一気に
開化したわけではないと述べられます。

ほとんどの引用が現代語訳されていますので
筆者の論拠が分かりやすいのも有り難いですね。


この本の最後辺りに芳賀徹さんが書かれた『渡辺崋山』
についてひとこと言及されています。

朝日選書の『渡辺崋山~優しい旅びと』これは名著ですが
好き嫌いが分かれるかもしれませんね。

リリカルな文章にハマる人とそうでない人と。

私はショパンの甘いメロディーが好きで
そういう人間ですから芳賀先生の文章も大好きです。

苦手な人は「その甘いメロディの繰り返しは・・」
なのでしょうがねえ。

芳賀先生の若かりし時代、渾身の一冊です。(1974)

その冒頭30頁ほどが上記『江戸の旅日記』と重なり
ますので復習しながら崋山の淡く懐かしい世界に浸る
のもまたよいものです。
(この順番が逆よりも良いのでは?)

遠いということ

2011-11-05 14:40:24 | 塾あれこれ
新聞で池澤夏樹が嘆いていました。

タクシーの運転手さんが東北被災地に無理解であった、と。
そうして、遠く離れているということでやむをえない
だろうけれども、もっと理解をしてほしいと。

おっしゃる通りだと思います。


インドネシアの大津波は私にとってやはり遠いもの
でした。
塾に通ってくれていた生徒のアメリカンスクールでの
友達が津波で流されたと聞き、ニュースを見る目が
より恐ろしいものを見るように変わったと覚えています。
バカンスが悲劇に一転、行方不明になられたそうでした。

神戸の震災はイトコも影響を受けるなど、より怖い
思いが伝わってくるものでした。

けれども、やはりそれなりに遠い出来ごと。


今回の東日本大震災に関して、東北や東京の人々の
話を伝え聞くにつけ、ふとよぎる感想があります。

ヒンシュクを買いそうなのですがあえて書きますと
「おや、神戸の時は何にも感じていなかったの?」

どちらが大きいとか、先であったとか、そんな
レベルでなくとも、神戸の震災は東京の人には
やはりどこか「遠いできごと」だったようなのです。
今回、関西が関東よりシンパシーが万が一薄くとも
オアイコのような気もするのです。
やはり遠い。

それを非難するわけでもありません。
人間ってそんなものだと思うのです。

自分の母親に死なれて初めてそのことの大きさを
実感したバカモノがここにいます。

友達や知人の場合のつらさが初めて分かるように
なったのです。
それまでは頭でだけの理解に留まっていました。

遠い出来事と感じるのもやむをえないから、それでよい
というのではありません。

池澤さんの嘆きも分かります。


あるいは風評被害。
あるいは、がれき搬入処理。

理性では答えが明確すぎるようなことでも
感情では「正直言うとじつは・・」
というのが人情だと思います。

また、その無理解に対して関係者が憤りを持たれる
気持ちも分かります。

福島県いわき市の中心で塾を営まれている渡辺稔先生も
ブログで静かながらも憤っておられます。
(ヤフーブログの「渡辺稔の教育談義」)

そのお気持ちとはずいぶん下のレベルの感想なので
お叱りを受けそうなのですが、人間って遠いことは
どこかピンボケしてしまうのです。

それらも前提の一つとした国等の対応をしてほしいし
そのなかで恥ずかしながら出来ることを少しでも行って
いきたいと思います。
(日赤などへの義捐金、やはり多くは捻出できなかった
 など、大きなことは言えない私です)

繰り返しますが、人間そんなものだからと居直ることは
決して良いことではありません。
人さまの足を引っ張ることなど、最悪です。

しかし、できれば心の振幅の幅広さも認めて欲しい。

たとえ狭量な品のない意見・感想があっても
「確かにそうも思えるよね、でもね・・」と。

どじょうも汚染されたら喰えない

2011-11-04 12:23:18 | 塾あれこれ
雑誌『フォーブス』の「世界で最も影響力のある人物」で
野田首相が62位と評価され話題になっています。

さもありなん、という感想ですね。

国内のマスメディアはなぜか前政権に向けてよりも
風当たりが強くありません。
自分たちの利益に近ければ叩かないということが
ミエミエですね。

そこで外国からの見え方が参考になります。

アメリカのいうなりにTPPやりますよ、と尻尾をふり
国内政治も自民党政治に戻ったかのような官僚のいうなり。
ひたすら失言をしない、ことを心がけ
現在の主力に位置するグループの利益を守ります。

これでは「影響力がある」政治家とは言えません。
(影響力下にある政治家)とは言えるかも。

あの菅が27位だったのですから、日本の国力からみて
62位とはなめられたものです。


戦争で多くの有能な人が亡くなったそうです。

それでも戦後、人物が不足して困ったという話は
聞きません。
代わりはいるのですよね。

大きな組織から小さな組織まで共通して言えることでは
ないかと思います。

あの人がいなくなったら、と心配されるような有能な
人物が去って、代わりの新しい人物が登場。
どうしようもないか?
そんなことはありません。

第一、ことは一人で行うものではありませんから。


では、いつでもだれでも良いか?

歴史を見るとそうではないようで、出来る人そうでない人
の差も歴然とあるようです。

一定程度の代わりは務まるがその上のことができるか
ここに大きな教育の課題もあります。


もうひと昔前の話になってしまいましたが
山口塾から生徒をつれて「独立」した若い人のグループが
あります。

当時は裁判沙汰になって大変な問題にもなりました。

結局、山口塾は徐々に消滅し、若い人のグループは
企業として成り立っているようです。

もっとも、伸びは欠いているようですが
そこそこ金が儲かればよいのかもしれません。

このアイルという新しい塾は山口塾の遺伝子を受け継ぐのか
どうか。
関係者は皆さん否定されるでしょうね。
色々なご意見があるとは思いますが。

若い人たちは内心では山口塾でやっていたことを参考には
していると思います。
しかし肝心なことが分かっていないから伸びない。
少なくとも昔の山口の大きさ、ユニークさはありませんよね。
ただの中小進学塾。

その場にいたから分かるというものではありません。

上で運営するのと、下で付いてくるのとでは違うのです。
分からないことがある。


田舎の塾を日本の政治に譬えてはたいへん失礼ですが
野田首相を見ていると、山口塾から生徒を連れて逃げ
普通の塾に変えてしまったアイルの「出来る」若手を
思い浮かべます。

他人がやっているのと同じことをすれば無難、
人生短いのだから、安全に適当に金儲けて老後へ。

自分のためだけの人生でいいのかなあ?

あなたたち初めからそんな考えでいたの?
理想があったんじゃないの?

太陽光節電

2011-11-02 20:37:30 | 太陽光通信
我家の辺りは11/2が電力会社の計測日でした。
10/4~11/1まで29日間です。

太陽光発電装置をつけたのが月半ばですから
比較しづらいところではありますが
まず、数字を書いておきます。

使用電力量は155kwh(昨年233kwh)

あとで書きますが太陽光発電をし始めてから
電力消費量そのものも減るようですので
一か月ならば多分もっと節電できたと思います。


もしも、太陽光を始めたから家庭での消費量が増える
というのならば、設置の意味が半減します。
(太陽光分のエコなのではありますが)

原子力からであれ太陽光からであれ、出どこがどこでも
家庭で消費したエネルギーは形を変えて地球環境に
出てゆくのですから。(エネルギー不変の法則)

環境への負荷はなるべく小さくしておきたいですね。

上記の155kwhは我家が中国電力から買った分だけです。
太陽光発電分を自家消費したものが抜けています。

モニターで太陽光の発電量が示されますから
そこから、中国電力へ我家が売電した量を差し引けば
太陽光発電からの自家消費量が得られます。
10月半月の我家の「売り」電量は112kwh
太陽光の発電量は149kwh
(一か月だったら300kwhあったかもね)

差し引き149-112=37(kwh)の太陽光自家消費。

これに買電した上記155kwhを足せば192kwh
これが10月の我家の消費量となります。
(300kwh発電してたら自給率150%を超えてた)

ともかく電力消費192kwhではおよそ15%の削減、
今までけっこう絞っていたつもりの我家ですが
まだまだムダがあったということです。
(尤も今年は天気が良く暖かということもあります)

本年1月からの消費電力の累積は3591kwhとなりました。
あと2カ月で4000kwhに食い止めるのは困難かな?


我家が支払う電気料金より、売電して中電から頂く金額
のほうが今月は多くなっています。

10月が半月ではなくマルマル発電していたら・・
獲らぬ狸がうろうろしてるようで・・


(モニターの効果)
噂によりますと太陽光発電の設置をするときに
モニターは別契約になっていることがあるそうで
まあ無くても良いものか、とも思っていましたが
少なくとも現時点では効果が大きいですね。

目の前で刻々と発電量が見えるのも面白いですが
消費電力量が分かるのがよろしい。

ああこれをつけるとこんなに消費するのか、
アタマでは分かっているのですが節電の具体的な行動に
までは繋がりにくかったようです。

(お前が甘いだけじゃ、と言われそうですがね)

ともかく太陽光が、消費電力のカットに役立ちます。
買電減=CO2の削減だけではない効果でした。

今月の我家を「太陽光節電」と呼びましょうか。

朝ドラ『カーネーション』のカットを数えた

2011-11-01 18:54:18 | 見る
快調ですね。
店長をつかまえ、声をひっくり返しながらの
「お、おはら、でございますう」には笑った。

毎日、もったいないくらいのゴチソウドラマです。
これだけでNHKに金取られるの許しちゃう。

脚本家から、俳優、スタッフ、すべて良し。

「ああそこねえ、ちょっと」というところが
殆ど見当たりません。

(ロケが少し弱いかな。綺麗ですが)

ネットをパラパラ見ると岸和田弁も違和感がないそうです。
『てっぱん』は尾道弁がすこし弱かった。

数回前だったか糸子さんの
「よおーし、みちょれ~」

これ聞くだけで人生、明るくなりますね。
(みとれ、よりも、みちょれがGU)


田辺聖子さんを描いた『芋たこなんきん』もとても
良い出来の朝ドラでした。
今回は総合点でそれを抜くかもしれませんね。

たまたま、『カーネーション』の10/29はビデオで見ました
ので、酔っ払いついでにカットを数えてみました。
カウンターもなく「正」を書いてゆくだけですから
酔っ払いだし、正確な数字ではありませんけれども。

29の放送は、先生に洋裁を習い、白木屋の火事のニュースで
デパートに駆けつける
・・これだけを15分というスピード感、脚本の上手さ。
古典的な筋立て、伏線などはきちんとしつつですから
すごい書き手ですね。

カット数は115だったように思います。
(もう一度数える気にならないので、およその数)

比較的長いカットがあったりごく短くつないであったり
上手いものですが決してウルサクはないですよね。

商店街をずうっと向こうへ走って左へ曲がるまで映すなんて
長めのカットがあったりもします。
(この人は走ったり歩いたりまで気持ちが入っていますね)


115というカットはかなり丁寧な作り方を示すと思います。
他はどうか?

『芋たこ・・』のとある回がたまたまHDDに残っていたので
そのカット数を勘定してみました。
落語家さんに胃癌を告知する回です。

描こうとする世界、作り手の意図がまったく違うものを
同列に並べること自体がヘンだとは思います。
それもたまたま残してある恣意的な回を選んで。

また他の朝ドラなども比較しなければマジメな話には
ならないと重々承知しております。

そこを超手抜きで比較しちゃお~(・・何か分かるかも)
作り手には失礼この上ないジジイですみません。

で、勘定したら上記の『芋たこ・・』は130あったのです。
なんと『カーネーション』の10/29より遥かに多い。

けれど『芋たこ・・』の方がどっしり落ち着いていた
のに比べ、カーネーションの方が軽快です。
WHY?

『芋たこ・・』がそれだけ細かな作りであったという
ことになりそうです。(意識させないところがすごい)

対話が多いとその都度カットが切り替わります。
それが多いカット数のワケの一つではあります。

けれどカットを意識させない表現もありえます。

例えば、人が振り返る時その動きに合わせてカットを
切り替えるとカットが替わったように見えません。
我々は連続しているように見てしまうのです。
よって、細かにつなぎながら落ち着いた表現ができます。

全部で180度動く処、60度くらいでカットして、
動きをそのまま続け、少しだけ変化した構図をつなぐと
・・分からない!
(いや、何度でつないでもよいのですが)

アメリカ50年代のミュージカルのダンスシーンなどで
動きのタイミングに合わせてカットをつなぐと
まるでワンカットで続けて躍っているように見えるのと
同様です。

『芋たこ・・』はそれに似た細やかさがあったようです。

(長くなるのでシナリオの書き方は省略しましょう)


『カーネーション』が細やかだなと思えるのはどうして?

シーンが多かったのでした。

29日は大きく言うと①先生に教わる
         ②お別れ前夜の会
         ③虚脱感
         ④白木屋のニュース
         ⑤心斎橋のデパートへ
ですが

①でも 洋裁の基本から、型取り、謡のシーンと裁縫
ダメ出し、洋服の完成、再び叱られて・・

数多くのシーンにわけ
丁寧な作りであるのに軽やかに進みます。

演出も上手いのですね。
      
②以下も同様に入念な計算がされているようです。

この現場で仕事をする人は充実して楽しいでしょうねえ。