仁義もまともに切れねえ奴

2007-06-20 08:45:24 | 塾あれこれ

名刺を出すという仁義を切らないと現代日本では
仲間に入れていただけないかも、の続きです。

自分の世界だけで流通する固有の形式的な流儀
であって集団への入り口での挨拶であるということ
が名刺と仁義に共通していることです。

その儀礼を行わないと認知されないどころか
儀礼の形もきちんとしていなくてはなりません。

新入社員は名刺のお作法を習わされますよね。
動作の順番から体の角度から
・・仁義でしょう?

一つの立派な文化ではありますが、欠点はその履行を
見さかいなく迫るところでしょう。

外国人には甘い、という島国「文化」がここにもある
ことも興味深いものです。
名刺を持たなくても「しかたない」

そのガイジンさんが日本風名刺の作法に通じていると
皆さんお喜びになりますねえ。

まあそんな「名刺の常識」に強く捕らわれているのが
日ごろソレを介して威張ることの出来ている人です。

学校のエライかたにもしばしば見うけますので
塾業界に入ったばかりの若い方は要注意です。

自分の考えがあって、名刺を出さなくて可、などと
考えているタイプの人は誤解をうけます。

「若いから常識を知らぬ」
「やはり塾など」
と思われるオソレが強いのです。
{未じゅく者}に見られないように気をつけましょう。


先ごろ同一の人物から1ケ月の間に2度名刺を出され
ました。

(ははん、前のをお忘れか)

あり難く頂戴致しました。
「先日頂きました」では失礼に思われるかもしれませ
んから。

それで2度メイルを差し上げました。
ん?返事がない。

しばらくして思い当たりました。
もしかすると何か気に要らないことがあり、
承知の上で再度名刺を下されたかもしれない。

原因らしきものは・・

「殿」

長のつくお方だったので「○○長 殿」とメイルを
していたのでした。

「物を知らない奴」に注意を喚起されたのでしょう。
日経新聞の購読者かもしれないですね。


自分の考えだけで行動していた自分を反省です。
申し訳ございません。

名刺を持つべきかなあ?
でも、自分が仁義きる姿はカッコ悪くてねえ。

名刺=仁義・説

2007-06-19 10:50:46 | 塾あれこれ
昨日触れた日経の記事には他にも、外部の人間に対し
自らの側の上司の肩書きをつけることを
戒めてあったそうです。

口に上すときには単に名前だけ、もしくは
「営業部長のタレソレ」くらいでしょう。

ただこれも一定の条件下で正しいことです。

たとえばトヨタの若い社員が
「弊社の張が・・」「手前共の張の・・」では
却ってヘンですね。
「張会長」でも構わないでしょう。

唐突に話が飛びますが
実はこのブログの前に匿名で1年間まったく別の
ブログを書いていました。
それは当ブログ以上に人気のない物で現在は完全に
消去しています。

ところが最近何かを書こうとすると、もう触れて
いるような気がするのです。
先のブログかこれか、調べるのがメンドウ。

ということで以下の文は1度書いていることの
繰り返しかもしれません。
ボケの始まりということでお許し下さい。

名刺の話です。
会社勤めのときは必需品で9年間で何度も名刺入
を買い替えるくらいでした。
ただ、不器用で苦労しました。

塾に入って使用頻度は激減。
それでも好きにはなれませんでした。

自宅で仕事をするようになったとき、会議からの
解放よりも名刺からの解放がうれしかったかも
しれません。

名刺を持たないデメリットも大きいですが
覚悟の上です。
どうせ自宅で細々と塾をするだけですから影響は
小さいでしょう。

自分の勝手なのでヒトサマには申し訳ありません。

特に、相手から名刺を頂きっぱなしと言うのが
失礼です。
最近はeメイルのアドレスを書いておられるので
こちらからメイルをすることにしております。

(メール、というのは嫌な表記ですね。英語に
 近い表記をなぜしないんだろう?)

改めて非礼をお詫びし、住所などを記します。
簡単な挨拶や情報を添えることもあります。

手紙ではオオゲサな感じがしそうです。


メイルの反応に興味深いものがあります。

返事が来ない・・もし名刺を渡していてもゴミ箱
        直行だったろうと思われます。
遅くなって来る・・相手の認知度、私への目など
         が見えてきそうです。
すぐ返事が来る・・名刺を渡してくださった気持
         が伝わります。
         少なくともマナーに煩さそう!


そもそも名刺とは、自分が相手に対しご挨拶をし
その時に添えるものですから一義的には一方通行
のものです。押しつけです。

家庭に訪問してくる営業の方が名刺を出されたと
いって、こちらも出すなどは少ないですよね。

名刺交換といって、相手に名刺を要求するのは
更なる押しつけです。
ときおり営業の方が「お名刺を頂戴・・」
営業なら覚えて帰ってほしいですな。


名刺を交換しないといけない、というのは企業社会
の中だけの「常識」に過ぎません。
子供から見ればあこがれか?
「名刺交換ゴッコ」なんてするのかなあ?

自分から名刺を出しておいて
「俺はこう言うもんだ。お前のを出せ」
という「常識」を振りまわす方がいらっしゃいます。

学校ではエライサンに多い。(公立私立とも)

相手が名刺を出さないと内心キレるご様子。

なんとなくヤクザ社会の仁義みたいで面白いですよ。

(今から懇談です。続きは明日)

先生 様 殿

2007-06-18 13:53:38 | 塾あれこれ

川柳に 「センセイと言われるほどの馬鹿でなし」

とはいうものの自分の師の敬称は先生。
間違っても手紙の宛名に~様とは書かないように
気をつけねばなりません。
~先生、です。

これ、小学校でT先生から習いました。
多分、漱石の話をご存知だったのでしょう。
(高島俊男の『お言葉ですが』にも出てきます)


先生に様までつけると滑稽ですね。
先生サマ・・

殿はつけられるかなあ、様ほどではないけれど
やはり良くないか。

「○○先生」とするのが常識ですね。
(姓だけを書いて~先生が本来とか。
 名前までつけて○△先生は若干敬意が弱い)


校長はどうでしょう。
宛名であれば先生と同じく「~校長」でよい
はずですが、どうもすわりが悪く感じる人が
多いようです。
呼び捨てにすると思われるのでしょうね。

呼びかけるときは「~校長」でよいはずですが
これも「校長先生」というほうが多いかな?

私は「~先生様」のように二重に感じて落ち着き
ません。
生徒ならそれで可愛いでしょうが。

会社では次長、課長と呼びます。
直接名前を呼ばないほうが敬意があります。

これを文書にすると宛名をどう書くか。

日経新聞に、目上の人間に出す文書に「殿」
は失礼だと書いてあったそうです。

であるならば「~校長殿」「~部長殿」は
失礼になります。

でも旧軍隊では「~隊長」「~隊長殿」
であったはずで、どちらが「正しい」というより
日経新聞は、現在の企業社会だけの『常識』
を書いているのでしょう。

そうすると宛名は△校長○○様とするのが
無難となりますか。

市長でも支店長でもそうなるんでしょう。

個人的にはどうも二重の感じがするのですね。
「~先生」「~校長」としたい・・・

あくまで私の語感で、正しいかどうかは?です。

そもそも正しいとは、時間と範囲を限定して言える
ことでしょう。先の日経新聞は社会全般に模範を
垂れたいというメディアの悪癖ではないでしょうか。
NHKもしばしば似たことをやりますね。

~様には敬意があり、~殿は見下す、という感覚は
多少おかしいものであると思います。
役所が~殿を使うので見下した感じが出てきた
のかもしれません。

本来は柔らかい感じで~様
固い感じで~殿 と使いわけていた筈です。

「~校長」が使いにくいので「~校長殿」
校長様はないよね。

セコっ!

2007-06-17 10:48:22 | 塾あれこれ
年金加入記録が送られてきました。
案の定、一部記載漏れがあるようです。

社保庁もこの時期御忙しいとは思いますが
返事は早めに送れ、とクギをさしておられるので
早速連絡せねばなりません。

しかし十分な資料など無いぞ、
「家捜し」かい。何かあればよいけど。
そちらのミスがなければだねえ・・

普通の会社勤めを1社、その後進学塾に入り
後は現在の仕事、合間の国民年金はたぶん「未納」
だから記録は3件と思ってたら、何と9件が記載され
ています。
漏れが確認されれば10件・・意外でした。
細かいことは忘れかけているものですね。


ところで私と同じ時期に勤めていた人間にも同じ事
があったと思われます。

細かくはここに書けません。
まあ、会社経営のあれこれですから省略します。
それが記載漏れを招き易くしたのですね。

しかし銀行の仕事などから見ればこんな簡単な記録が
漏れますか、ええ?

まあ、それはさておき
私より年上の人間もいたので彼もモレがあった可能性
が強いですね。

で、どうするか?

彼の状況がいくつか考えられます。

1 記録モレがあり修正済みである
2 記録モレがあり気付いていなかった
3 記録モレはない
4 会社の扱いが私と他の人と違っていた

2の場合は教えてあげるべきでしょう。

ただ、1のケースかもしれません。
その人に連絡するとこちらの意図と異なる思いを
抱かれるかもしれないのです。

「貴方はなぜ記録モレがある可能性を黙っていた!」
と私が婉曲に批難していると取られるのではないか。

まあそんなこともなかろうとは思いますがあれでも
ムシの居所が悪い時があるかもしれない。

私は組織内で評判が悪かったので本当に教えてくれ
なかったかもしれません。まあいいか、って。

もしプライドが高い状態にいれば2の場合でも
「お前に教えられなくても」とお思いになるかも。

少しでも面倒なことは避けたほうがよいかなあ。
2の場合でも昨今の騒ぎで気付いているかも
しれないし。
私にギムがあるわけではない。。。

言わずにおくか。

このような小さなことを考えるトシになりました。
何だかズルイですよね。
以前なら、気にせずに連絡してたのに。

後輩には連絡しておきました。
ウザッたく思われたかもしれないけれど。
年金なんかピンと来ないでしょう。


以上は私の個人的な話です。

ここで、疑問が浮かびます。

上記の世故い「大人の妥算」は教育になじむか?

普通は家庭教育の守備範囲ですよね。
最近は学校でも消費者教育はします。

塾は?
私にはどうすべきかよくわかりません。

少なくとも構えて話すなどはありえないでしょう。
話すべきときにいくつかの考えを示し、幾ばくかの
個人的な感想を付け加えるくらいでしょう。

ただ、実社会にでて私は戸惑いました。
そんなことも知らないアホだったという恥。

「民主主義の国で社長がひとり威張っている」
「会社は不正義を隠している」
「金がすべて」
「正しいことは言わないほうが安全」
 ETC

ある程度の年齢になれば社会のことは伝え
始めてもよかろうという経験をしたのですが
積極的にはその気になれません。

生意気をいう人間ですが教育的信念は怪しい
というお話でした。

セコっ

ポンの行方

2007-06-16 09:55:05 | 塾あれこれ

「海抜千五百尺の高寒なこの村にも、ポンの往来する
大道は幾筋か通っているとみえる。
どの山あいを越えるのか、途(みち)で遭ったという人も
聞かぬが、今まで一年として来なかった年もなく、
いつの間にかちゃんと来て小屋を掛け、つつましく煙を
あげている。
からやや離れた山の蔭の、樹林を隔てて水の静か
に流れる岸などが、この徒の好んで住む地点である。
あるいは往還から下手の日当たりに、子供まじりの
人声を聞くことがある。・・・」

柳田國男著『ポンの行方』書き出しの一節です。
昭和初期に発表されたものですが、どうです?
名文でしょう?

オオゲサな表現などは一切ありません。

ポンと呼ばれた人達がいた。その人達は・・・?
と引きこまれるじゃないですか。


上記の文は柳田國男が大正九年頃の旅行での聞取りを
エッセイにされたものです。

文春文庫・沖浦和光著『幻の漂白民・サンカ』から
柳田國男の著作を孫引きいたしました。

旧仮名だともっと気分が出るでしょう。

なお、改行は私が勝手に行なっています。


これが名文である理由の一つがリズムです。

漢文の素養を基にし、書き言葉の世界がきちんとして
いた時代には国語のリズムもしっかりしていました。
定型から多少離れても良い調子を保てるのです。

定型詩の世界も同様で、五七五などの世界が安定して
いるから、自由律が可能になります。

山頭火の後に著名な作家が続きませんけれども。
私が知らないだけかなあ?

自由律は難しいですよね。
作歌作句においては字余りですら難しいのです。
いわんや~をや、です。

千年以上前の歌人が字余りなどを自在に使っている
のを知ると感嘆しますね。

それに比べて現代ワカモノ作の字余りは下手です。
字数は余っているのだけれども「字余り」になって
いません。
字が余ったからそうなっている、というだけで歌に
なっていないのです。
難しいと言うこと自体が分からないレベルなのでしょう。

またヂイさんの「近頃の若者は」が始まりましたね。
今日はこの辺で。

定型詩

2007-06-15 11:10:25 | 塾あれこれ

昨年11月末、私の小学校時代の恩師T先生のことを
何回かこのブログに書きました。
半世紀超の人生で最も影響を受けた方の一人です。

その先生に俳句の宿題を出された。
これには手こずり結局できなかった記憶があります。

よい宿題だとは思います。
自分で作ることをして初めて鑑賞もできますから。

難しいのがいけません。
川柳でもいいんじゃないですかねえ。


日本語は外国語に比べおおむねお音の要素が少ない
と言われています。(音素、音韻)
それで音の数で作り出すリズムが重要になります。

定型詩のみならず、よい文章には上質のリズムが
あります。
日本語を学ぶにはとても大切なものです。

導入時には季語だの季節感だのは二の次ですね。
無季の俳句にもよいものができますし、俳句川柳の
違いも問わない。

では自由律をどう考えるか。
作ってみれば分かりますがこれは難しい。

五七五のリズムを守ることがよいのです。

日本語における音数の大切さから短歌や俳句などの
定型詩が依然として力を持つのです。

80年代末俵万智登場の新鮮な驚き、俳句ブーム
ケータイ短歌

教科書でも定型詩は消えませんね。


五音七音が基本になるので、とりあえずそれに
乗っかっていけばよいのです。

初心者は変化ワザには手を出さないのが無難です。

六音八音でも素晴らしい定型詩はあります。
それは名人の技ですから。

たとえば文部省唱歌「朧月夜」高野辰之作詞。
♪なのはなばたけに いりひうすれ・・

これは八六ではなく四四 三三かもしれません。

七五の格調にたがいませんので八六とは気付きません
よね。それでいて七五より柔らかい。
凡人には真似の出来ない名人芸です。

(明日へ続きます)

年金問題は教育問題

2007-06-14 08:38:07 | 塾あれこれ

昨日デパ地下で豆腐と竹輪、それぞれ半額に値引き
というのを買って帰ろうとしたときです。
(デパ地下といっても五日市の福屋は
 スーパーのようなものです)

フロアーの隅に公衆電話があります。
オジイサンが大きな声で話していました。
「年金番号も言うたほうがええ?」
辺りに響くような声で数字を読み上げられました。

フリーダイアルは公衆電話が掛かり易いという事で
デパートまで来て電話をされたのでしょう。

それにしても年金番号を大声で言って大丈夫かな?


そんなお年寄りにまで心配をかける年金問題です。

政治家も評論家も一般の国民をよく分かっていない
のでしょう。
他にも重要な課題があるとノタマウ。
知ってるよ、それくらい。
バカにしちゃいけません。

でもね、収入も蓄えもゆとりのない多くの人には
年金の重みが違うのです。
つまり「年金こそが国家である」のです。

憲法も大事でしょう。
でも、それどころではないのです。

そのような年金をまったくズサンに扱われたから
怒りかつ不安に思っているのです。
この国はいったいどんな国家なんだろう。

強制的に金を取って、運用はブラックボックス
お役所仕事で行き詰まると
「これからは国民の方を向いて働きます」
だと。
今までどこ向いてた?

願わくは国立ねずみ講にはなりませんよう。


一番の心配は若者が国家を信用しないことで
しょう。

また我々にとっては教育をどうするか、問題です。

子供に今のこの国や社会をどう教えます?
きちんと勉強してどんな大人になれと?

年金を支える人間より取る方がリッチな国。

「役人の側に立つために勉強しろ」となるのか?


大人がきちんとしていないで子供に何を要求できる
のでしょう。

大人はこんなにダメだから君達は理想を目指せ、と
教えるのでしょうか?
人を信用するな、でしょうか?

子供たちにえらそうに説教すると
まず隗より始めよ、と言われそうです。

ふう~大変なんよ

2007-06-13 14:07:16 | 塾あれこれ

帰り際の中学生がため息をつく。

「なんなん?」
「学校の宿題」

聞くと俳句を20とか。
それは大変。何で今まで放って置くかなあ。

立ち話程度で俳句の作り方を言えるものでもなし
かといって「それにつけても・・」などを教えても
宿題の意に反するであろう。
本人が真剣に取り組まねば宿題の意味はないから。

それにしても最近は俳句の作り方が変わったのかな?
私には俳句20はすごい量の課題に思えます。
今までの常識だと俳句はヒネルもの。削って磨くもの
ですからねえ。バカバカ量産は出来ないでしょう・・

日ごろ学校でどう国語を教えていらっしゃるか分から
ないのでイチャモンをつけるのは良くないですが
自分の孫に中学校でこんな宿題が出ていたら
あきれるか、感心するか、どちらだろう・・

その子にはごく簡単な話をして季語集を貸しました。


1955年のアメリカ映画で田舎都市の町医者が患者
にプラシーボ(偽薬)を与えるシーンがありました。
( not as a atranger )

日本では黒澤明の「酔いどれ天使」が1950年くらい
ですからアメリカの医学は進んでいましたね。

今日から見ればプラシーボの是非はあるでしょうが
映画では「患者が訴えているのだからそれに応えるのが
医者のつとめ」だと言っておりました。
病気ではないのに症状を訴える人に与えたのでした。

医者にも大きく2つの立場があると思います。
研究を進めるか、町医者で一人一人の患者を看るか。

報道カメラマンならば困難な状況にある人がいた場合
シャッターをきるか、先に助けるか。

塾の場合は町のお医者さんに近いでしょうね。

いまそこにいる生徒に何が出来るかが最優先。
シャッターが先のタイプには向かない仕事ですね。


貸した季語集がプラシーボでなければいいけれど。
たとえそうであっても効けばよいのですが。

小鉄みたいなネコいたよ

2007-06-12 09:23:09 | 塾あれこれ

しばらく前のことです。

けっこう川幅のあるところでした。
橋に沿って金属の大きなパイプが走っています。
直径は50cm以上ありそうです。

交通量の多い橋でしたが長くても反りは小さい
タイプです。
欄干から覗きこんでもパイプは見えづらい位置に
ついています。
私は橋のたもとにいました。

ふと気付くとそのパイプを猫が歩いています。
川向こうへするすると渡ってゆくのです。
足取りに危なげな処はありません。

パイプは金属ですから爪はたちません。
しかも丸いので歩ける部分はわずかでしょう。
管のツナギ目は鼠返しのようになっています。

落ちれば水です。
泳げても岸はコンクリートの壁です。

彼は何をしたいのか?

橋の下にある鳥の巣を狙っているのでしょうか。
案外、鳥の巣があるものですよね。
橋げたから獲物へたどりつけるのかもしれません。

古いマンガになりますがじゃりんこチエのコテツを
思い出していました。
それも世間を知らぬまだ若い頃の武者修業。

彼は河を渡ろうとしているだけなのではないか?

向こう岸にどんな世界があるか見たくなったのです。
(ネコは好奇心のカタマリ)

水に落ちることなどハナから心配していない。
もし足が滑ればその時のこと。


次第に遠ざかる背中に声をかけたくなりましたが
それで落ちては大変。

ワカモノの後ろ姿を見つめていました。

それが・・・

私がふと目を離したのです。十秒くらい。

どこにもいません。
辺りの水面を探しましたが落ちてはいません。
多分渡りきったのだと思います。

夢でもみたのか、というひとときでした。


ネコ頑張れ、と腰折れを作ってみました。

『この道の続く限りを行けばよし 
     マタタビの空いつの日かまた』

山頭火の句
『まっすぐなみちでさみしい』

保険のCMで

2007-06-11 14:12:12 | 塾あれこれ

大風呂敷のラストです。
あまり具体的な展開が見込めないわりにキツイ話
ですので投稿を悩みました。
法螺話としてお読みください。

お年寄りがこう言う保険のCMがあります。
子供の世話になりたくないんです

多くの方の実感であり、また大変有り難い親心です。
年を取っても自立、家庭不和を予防し、と
言うことのない話に思えますね。

でも「甘やかし」なんだよなあ。

親子関係における最大の甘さです。
子供にとっては悪い話ではありません。
実は私の親もそう言ってくれています。
ですからそんな話に注文をつけるとはバチが当ると
いうものでしょう。

ただ親が子に甘いと言うことは教育力をそぐオソレが
あると思うのです。

いいじゃないですか。子供の世話になりましょう。

(昨日、とある高校で塾の先生がたの集まりをして
 下さり、それから帰宅して昼食。そのときTVで
 ざこば師匠が「子供の世話になろう」と話して
 いました。)

少し前に江戸時代の子育てに言及しましたが、
子供の世話になるつもりでいると、よい子育てを
しなければなりません。

良い子に育たなかったら諦めましょう。
半分は自業自得です。

子供の世話にならないという言葉の中に「たとえ
わが子でも信ずるに足りない」という気持が潜んでい
るとすれば、どうして良い教育ができるでしょうか?

わが母も子供が信用に足りないので頑張るといって
いるのでしょう。


現実問題として急に子供が親をみよというのは難しい
ことも多いと思われます。

物理的、経済的な課題も大きいですね。
また今でも女性にかかる負担が大きい場合も多数
あるでしょうからそれも大変。
独身者や子がない家庭も考えに入れねばなりません。
昔の封建社会に退歩するわけには行きません。

現在の社会機構との関係も有ります。

すぐには変わるわけではないでしょうがコンセンサス
を図ってゆくことへの一つの考えです。
長い時間をかけて見なおして行くことでしょう。

今の年配者にお節介を申し上げるならば
まず、遺言を書き子供が世話をしなければ相続を
発生させないとの意思表示をされては如何でしょう。

自分の金はきれいに使いきれば良いのですが寿命は
分からないのでそうもいきませんよね。

財産がない人は借金をすればマイナスの相続が発生
します。
子供が相続を放棄すれば彼に実害はでません。
ですから、借金を一杯するぞと脅かすぐらいは
してみましょう。
だめな子供には相続放棄の手続きくらいの面倒は
させるべきです!

好き勝手な放談で失礼致しました。

でも、子供の世話になる、ことを考えた教育は
考えるに足ると思いますが、どんなものでしょう?